はてなキーワード: ストレートとは
U-NEXTをパソコンから見ていたら「その他♡」と、いうのがあった。
HNEXTだって
たまにしか見ないけど久しぶりに気が向いて見てみた。
対して、カメラマンのおじさんの手がむっちりしてて
見たいところ、女の子の可愛い姿、恥ずかしい姿を撮っててすごいと思った
戸惑いながらも従う彼女が更に可愛かった。
初めてっぽい体の組み合わせ方でびっくりしながら、めっちゃ気持ち良さそうなの
良かったねえ。
下から撮ったり斜め下から撮ったり、それでカメラの画面を彼女に見せて
「どう?」なんて聞いたりして、「はずかしい…」って言う女の子がまた可愛くて
良かったです。
2本目に見た方がめっちゃ興奮したのだけど、おちっこ行きたくなったから
いったんおちまい。
もっとストレートに男子高生がJKに産ませた自分の子供殺したケースにしようや。
夜分に失礼します。中谷です。一昨日のまんがタイムきららオープンオンラインで優勝したことを受けて、今まで・大会中に抱いていた思いを吐露してみようかと思います。気持ち悪い部分が多々あるかと思いますので、閲覧される方は自己責任でお願いします。
~開催まで~
自分でも辟易としているのですが、僕は昨年、アニメ『けいおん!』を視聴してから11年を迎えました。当時の僕は小学5年生。『まんがタイムきらら』に触れてからの期間は人生の半分を占めていることになります。時の流れは末恐ろしいものですね。それ以前もゲームや漫画をちょこちょこと読んではいましたが、いわゆるオタクとしての人生はここから始まりました。そこから現在まで、触れていない時期も多かったものの、『まんがタイムきらら』の作品を変わらず大好きでいました。
中高・大学と環境を変えながら、競技クイズにも出会いながら迎えた昨年の5月、コロナ禍で自分の生活が崩壊している真っ只中に当大会の告知がなされました。当時は「頑張りてぇ~」くらいの軽い気持ちでいたのですが、時が経つにつれて「この大会で優勝したい」という気持ちがどんどん大きくなるのを感じ、次第に「何としても優勝したい」に変わるほどになりました。
この大会に向けて準備するにあたり、まず「どういう人がまんがタイムきららオープンで優勝するのにふさわしいか」を考えました。月並みではありますが、僕は「最もきららの作品に触れている人が勝つ大会であってほしい」という結論に至りました。出題範囲は『まんがタイムきらら』と定められている以上、該当する全ての作品が出題されうる大会であってほしいし、そのような大会でこそ勝ちたいとも思いました。
ただ、当時の自分がその条件を満たしていたかと言うとそうではありませんでした。自分が把握しているきらら漫画の体系はあくまで氷山の一角でしかないだろうと思っていました。兄が買ってきた4年間くらいのキャラット・本誌と幾ばくかの単行本・アニメくらいですしね。なので、僕はきらら漫画をひたすら買っては読むを繰り返すことにしました。その過程の中で、自分が持っている漫画を管理するためにKIRARA MENUを全てリストアップするなど、明らかに常人の道を踏み違えてしまったように思います。
『きららファンタジア』は一時期入れたもののすぐに消してしまいました。基本的にスマホゲームに対してあまりいい印象を抱いていないので......。こと『きららファンタジア』においてのみ、完全に公式サイトの情報頼りで知識を得ました。
おかずさんが開催してくださったきららフリバもありつつ、漫画を読み漁り見ていなかったアニメを見つつしていた11月の頃、大会の延期・オンライン化が告げられました。数日前からCOVID-19の猛威が止まらなかったこともあり、どうあがいても避けられない事態ではあったのですが、心にぽっかりと穴が開いたような空虚感を覚えました。
ひとまず予定していた遠征のための準備を全てキャンセルした後、今後の予定を確認すると、大きな選択が迫っていることに気付きました。(今はめちゃくちゃサボっていますが)現在取り組んでいる勉強・3月に控える学生クイズ大会abcの対策・きららオープンに向けた準備。これら三つが共存しえないということです。
結論から先に言うと、僕は断腸の思いでabcを代償にすることを決めました。タスクを同時並行できないという自身の不器用さも関係するのですが、今勉強を疎かにしてしまうと、もう取り返しのつかないことになる気がしたからです。もちろん1月から改めて勉強し直すのも大変であることは重々承知していますが、「この先のクイズ人生の中で大会で優勝する経験なんて一生来ないかもしれないな」という自分の醜い欲が顔を覗いてきたのです。何より、一番思い入れのあるコンテンツに関する大会をふいにしてしまうと、この先自分自身を許せずに責め続けてしまうような気がしました。
オフラインの開催が夢に潰えたことで下がったモチベーションは、そんなこんなでひとまず漫画を読み続けられるくらいには維持することができました。このあたりの時期から、自分でも説明がつかない焦燥感のようなものが常に付きまとっていたように思います。焦燥感は日に日に増していき、自分のきららの知識に全く自信を持てないまま当日を迎えることとなりました。
~大会当日~
いくら生活習慣が崩壊しているといえど、前日から当日にかけては流石に早寝早起きを心がけました。余った時間は『あんハピ♪』の後半を読み返すなどしていました。そんな中大会の始まりを告げる神田君の声が聞こえてきて、そこで初めて「全身全霊で楽しもう」と意識が切り替わりました。
・1R
ペーパーです。前半20問くらいははうんうんと頷きながら解き進めることが出来たんですが、20番代の前半あたりで躓きました。その後は「これ兄が買ってきていたなぁ」と懐かしんだり、「流石にこれは出ないだろ~」と思っていた問題がバシバシ出題されて昂るなど、様々な感想を抱きつつ終始楽しみながら解いていました。本当にいいペーパーでした......。残りの数分は「淑」をギリギリまで考えてひねり出すなどしていました。三上小又さんの由来は知っていたのですが元となった字までは知らなかったんですよね。終わってみてから初めてわかりますが、解答時間が18分に延びてくれて本当に助かりました。
自分が間違えたのは「『ドージンワーク』」「686枚」「新垣柑菜と新垣陽菜」「3500円」「スカート」「ましろ」「仙人ごはん」の7つ。40番以降の問題もちゃんと打ち返せたことがとても嬉しかったですね。作品の内容について問うている「新垣柑菜と新垣陽菜」と「仙人ごはん」、単純に問題文をちゃんと読まずに解答してしまった「『ドージンワーク』」は取る余地があったのかもしれません。
クイズ人生の中で初めてペーパー1位という名誉に預かったので、この時点である程度報われた気分になりました。
・2R
1位なんて取ったこともないので、当然1位インタビューも初めてでした。自分の声はあまり好きではないし話し下手でもあるので、アーカイブを見返すと恥ずかしくて顔から火が出そうです。
早押しについては、ひとまず分かるものを待ってみようと思っていたら『オリーブ! Believe, "Olive"?』問題と『うさかめコンボ!』問題で押し勝てたので勝ち抜け。どちらも数年前に触れていた漫画で、且つクイズの場で正解することなんてないだろうと諦めきっていたものでもあったので感慨深かったですね。勝ち抜けた後も問題を聞いていると、アニメ化・未アニメ化お構いなしに出題され、年代も広く分布しており、まさしく僕が思い描いていた理想通りの問題群でした。開始十数問でそのことが分かり、この大会を100%楽しみきることが出来るよう準備してきて良かったと心の底から思いました。
・3R
アニメ化・未アニメ化を問わず漫画を沢山読んできたので、未アニメ化のコースが答えていて最も楽しいだろうと判断しました。
蓋を開けてみると、開幕から連続で誤答......。本当に危なかったです。後の方の「『二丁目路地裏探偵奇譚』」は覚え間違いで仕方ないとして、前の方の「赤門大学」はただただ不用意な誤答でしたね。以降は誤答しないように注意を払い、「『リリィ』」「『スイートマジックシンドローム』」「千薪」「『女子大生生活様式』」「『空色スクエア』」を正解して勝ち抜け。先ほどの正解と合わせて、見事に一昔前の漫画しかありませんね。僕が一番好きな漫画である『なでしこドレミソラ』の問題はこれ以降も最後の最後まで自分の手に渡りませんでした。悲しい......。
キャラクタークイズ、普通クイズ、ビジュアルクイズのどれもとても楽しそうでしたね。今の自分だと普通クイズはあまり対応できなかったかもしれないですが。ビジュアルは観戦しながら自分でも解いていたんですが、台詞を問うクイズが悉く分からなくて面白かったですね。色々な漫画を読みたいとの思いを優先させたあまり、それぞれの漫画に対する時間は相対的に減ってしまっていたのかもしれません。まとまった時間があれば好きな作品くらいは読み返したいものですね。
・敗者復活
『きららファンタジア』をやっていないので、2問目で普通に間違えました。後夜祭で読んでくださったときも3択問題は全然正解できなかったので、単に3択問題に弱かっただけかもしれないです。つくづくストレートで準決勝に駒を進められてよかったと思いますね。
・準決勝
ボードクイズということで、一癖も二癖もある問題が出題されました。大会を終えて振り返ると、大会を通して一番危なかったのは準決勝だったように思います。後半10問は分からない問題が多く、もし前半で勝ち抜けられなかったら決勝には進めなかったです。それに前半で運よく正解できた問題も難しい問題が多く、自分の行いの何かしらが欠けていたら正解できなかったものばかりでした。せっかくなので、正解した5問についてそれぞれ所感を書いていこうかと思います。
〇カラーページがそのまま収録
最後に『GA 芸術科アートデザインクラス』の単行本が挙げられていたので、その特徴を書けばいいかなと思いました(多分「カラー絵が多い」みたいなふんわりした答え方をした)。『GA 芸術科アートデザインクラス』のカラーページは芸術についての情報に溢れているので、特に印象に残っている方も多いのではないでしょうか。朧気ではありますが、『夜森の国のソラニ』もカラーページが多かったように記憶していました。
〇「エトワリアのサンタクロース」
「『きららファンタジア』初のイベント「エトワリアのサンタクロース」で報酬として交換することができたキャラクターは、サンタクロースの衣装に身を包んだ誰でしょう?(週刊きららvol.3)」という問題を過去に作っていました。『きららファンタジア』を実際にプレイしてはいないのですが、ポツポツと問題を作っていたら正解に辿り着きました。正に「自作は身を助く」ですね。
〇『わかば*ガール』
今までのきららアニメをまとめていた時、このクールだけやけに多いなぁと驚いた覚えがあります。そのクールに放送された3つの作品全てを覚えているわけではなかったですが、前の二つとは明らかに異質なものを答えに残すだろうとの考えから正解することができました。
〇榎戸駿
ふとした拍子にきらら展のあの映像を作ったのは誰なのか気になって調べていたので、「早押しで眉毛と聞こえたら押そ~」と冗談交じりに思っていました。流石に難しすぎるだろうと当時の僕は自分自身に半ば呆れていましたが、まさか出題されるとは思わなかったです。
きららフリバの時に『ゆるふわ革命』が答えになる問題を聞いた覚えがあったので、答えに「きらり」が含むことは早い段階で分かりました。ただ、シンキングタイムの最後まで『まんがタイムきらり』にするか『まんがタイムきらりMAX』にするかで悩みました。悩みに悩んだ末、本作の掲載誌を信じて後者を選びました。掲載誌を信じて良かった......。正解音を聞いたとき、めちゃくちゃガッツポーズしてしまいましたね。
・決勝
準決勝の問題が難しいものばかりだったので、決勝はどうなるのかと冷や冷やしていました。未アニメ化作品についての知識は他の方に負けないという自負はあったので、難しいにせよ易しいにせよ、基本的にはアニメ化されてない作品を待つスタンスで臨もうと思いました。
最初の数問を聞くうち、2Rの問題とそう変わらず最高の問題群だなと感じました。大好きな作品2つをパラレルで並べた「コラージュ」や数年前に出会った作品(『アクアリウム』『ぷらいまりィずむ!』)など、一つひとつを噛みしめながら答えていました。学校の名前がヒロインの名字と一緒だったことで反応した『恋愛専科』を答えてリーチになった次の問題が、
という問題でした。当日に読んでいた『あんハピ♪』、それも当作品の中で一番好きな人物を答えて優勝することができました。ボタンを押して解答するまでの間、これまできららを読んできた日々が駆け巡り、万感の思いでしたね。
~最後に~
「大会のため」という面もありはしましたが、大会の準備期間に膨大な量のきらら漫画を読むうち、改めて『まんがタイムきらら』という雑誌が大好きなのだと気付かされました。『まんがタイムきらら』は創刊以来、「希望、夢、勇気、ときめきを与える」というコンセプトを変わらず掲げています。初めて『まんがタイムきらら』に触れて以来このコンセプトから力を貰い続けてきましたし、この雑誌が続く限り、これからも僕は『まんがタイムきらら』から希望や夢を貰いながら生きたいと、強く、強く思います。
最後になりましたが、厳しい情勢の中開催まで漕ぎつけてくださったスタッフの皆さん、全ての参加者、そして『まんがタイムきらら』に携わった全ての方々に最大限の感謝を申し上げて筆を置かせていただきます。
とある界隈のオタクに燃やされた。経緯を少し婉曲して話すと、某アイドルグループの活動支援のために、ファンが主導してクラウドファンディングを行っていた。当初設定した期間の半分程度でゴールし、最終的に目標金額の1.5倍近くを集めることに成功する。
私はそれを見て、「凄いな~、今って結構簡単に集めることができるんだな~」とツイッターで発信する。そのつぶやきが発起人の目に留まった。
「簡単なんて言わないでください。ここまで来るのに本当に大変だったんです」と言いながら私のつぶやきを引用RT。その発起人をフォローしている界隈住民がわんさと押し寄せてきた。
「私達の苦労の何が分かるんですか?」「こういう発言をする人って思慮が浅いのでは?」
見知らぬ人間からの攻撃的なリプライは、その数も相まって狂気的な連鎖反応を生んでいた。
そんな燃えるタイムラインを眺めながら私が感じたのは、「ネットの人間って、怒るときですら感情を押し殺すんだなぁ」ということであった。ファン達が飛ばす敬語交じりの罵倒には、まるで「感情を表に出すことは低俗で醜い人間のやることであり、怒っていても理知的に振る舞うのが大人のやりかたである」というイメージが内包されているようだった。
ただ、どんな時も理性的に喋るのってそんなに素晴らしいことなのか?
ファンたちの怒り方には感情を感じない。リプライで多く散見されたのは、「何故○○だと思ったんですか?(間違ってますよね?)」と私の考えを推し量った上で否定するような文章――あたかも自分達のほうが良識ある大人であり、間違った考えを抱いている相手に、間違いを気付かせたうえで啓蒙するような言葉――である。その言葉に激情はほとんど乗らない。どうやら感情混じりに怒りを発散するのは子どもの仕草であり、忌むべき恥ずかしいふるまいのようだ。
でも、感情を殺して理性だけで語って、いったい何が生まれるのか?
そりゃ個人の感情は排して、客観的な事実やデータを軸にして話した方が正確な発言になるだろう。
しかし、「これが正しくてこれが間違っている」という意思決定には、その人の思考や感情が密接に結びついている。誰かに何かを表明するときは必ず自分の思いを言い切らなければ意味が無い。端的に言えば、感情のバイアスがかかっていない主張など存在しないのだ。
私に落ち着き払って攻撃的なリプライをしてきた人間も、本当は思っているのだ。「あんたがムカつく」「お前が嫌い」という感情が。だけれども、それを表立って発散するのは恥ずべき行為であるから、自分の感情を敬語の陰に潜ませてお気持ちを表明する。そんな回りくどい行為の末に出来上がるのは、言葉だけバカ丁寧な侮辱の文句だ。
「どうしてあなたは○○ということが理解できないのですか?普通は発言する前に考えませんか?」この言葉を聞いて相手が悔い改めると思うのだろうか?何故「私はこう思います」といい切ることを怖がるのだろうか?建前は冷静、本音はぶち切れ。どこの誰に気を遣って天邪鬼みたいな煽り屋をやってるのか?
そして何より思うのは、「そんなに感情を押し殺してまでキレて何をしたいんだ?」という疑問である。
リプライのほとんどは、「自分は冷静です」という素振りをし続けるあまりに、「結局お前は何が言いたいんだ?」と首をかしげざるを得ないものばかりであった。
前述のお気持ち表明ツイートが示す様に、感情の秘匿はクソリプの原因に繋がる。
私のツイートに対して思うところがあるにもかかわらず、それをごちゃごちゃこねくり回してなるべく理知的な発言をしようと考えるから、「AについてBだと思った」という簡単な受け答えすら成り立たなくなるのだ。
そもそも、理知的な人間なら見知らぬ人の発言を捕まえてリプで殴り掛かってきたりしない。それをしている時点で理性も民度も無い人間なのだから、素直に「それは嫌いです!なぜなら~」や「私は違うと思います!だって~」みたいに、感情混じりでどう気に食わないのかを表明したほうが、よっぽど有意義な会話でクソリプも少なくなると思うのだが。
クッッッッッソむかつく。マジでむかつく。絡んできたやつ全員頭おかしいカスの集団。
私は「昔に比べてクラウドファンディングというサービスが発達した結果、カンパや出資が簡単にできるようになった」って言ってるだけで、別にお前らの努力を軽んじてるわけじゃねえよ。そもそもお前らのやってる努力にこれっぽっちも興味が湧かねえよ。
そんなに「あなた達がんばりましたね」って褒められたいんか?「アイドルの魅力によってゴールを達成しました」じゃなくて、「私達の頑張りによってアイドルが活動続けられます」ってことにして自尊心を満たしたいんか?クッソ哀れだなこいつら。結局己が褒められたいだけの自意識てんこ盛り野郎の集まりかよ。
ということで、ここからは特にムカついた「冷静ぶったチンパンジー」を2種類発表していきま~~~す。
「これに限らず、世の中の色んな活動は多くの人の努力で回っているんですよ」
何コイツ?そんなん当たり前だろ。自分が何を言わんとしてるか頭で理解できてるのか?
「お前の軽率な発言がムカつく」ってストレートに言いたいところを、「私はあくまで冷静で賢い人なんです」風を装いたいから、丸めて削って薄めた出涸らしみたいな意見を自信満々に発してくるんだ。
そこまでして喋らなきゃいいのにって思うんだけど、そういうわけにはいかないんだよな。だって心の底は「ムカつく」っていう感情で支配されてて、どんな言葉でもいいからコイツにパンチ喰らわせてやらないと気が済まないって沸き立ってるんだから。根はバカのくせに言葉は意識高い。そんな二層式フィルターに感情をくぐらせて出来上がったのは毒にも薬にもならない薄っっっすい一般論。自分の感情をはっきり喋ることができないなら黙っててください。イラつくので。
企画したわけでも出資したわけでもない完全無関係の人間。ファンかどうかも怪しい。何なのこのバカ?
謝っても炎上が収まらないどころか高く燃え上がるのは、加担してる奴らが「別に怒ってない」からである。怒りの感情が無い人間に謝っても効果はないのだ。
こいつはそれ以上の意味不明な存在、「完全な部外者」である。部外者のクセに倫理とネットマナーを説いてくる筋金入りの不審者。で、お前はいったい私に何をしてほしいんだ?
これも自分の感情を無視して殴ろうとする弊害が生んだ動物だ。自分の気持ちと無関係な行動をするという意味では前述のチンパンジーの亜種であり、啓蒙思想の旗のもと正義感に酔うねじ曲がった人間である。キレるパワーがあるなら金落としてやれよ、いやマジで。
はっきりと感情で言います。あの界隈の住人全員嫌いです。今まで名前の知らなった某アイドルグループまで嫌いになるぐらいムカつきました。二度と姿を見せないでください。
女として産まれて、女を愛して生きてきた。
同性を友達以上恋人未満に持ち込むのが抜群に上手いというのが私の持つ唯一の才能で、人並みに振られたり傷ついたりしながらも女だからという理由で拒絶されたことがない。そんな環境を当たり前に享受して感謝すらしないくらいに、当たり前のように女同士で恋愛をしてきた。
男と付き合おうと思ったこともある。私がノンケの女と付き合うように、私と付き合う男もいつか現れるかもしれない。そんなふうに考えてデートしてみても、口説くならここじゃないだろとか今押せば流れでセックスに持ち込めたのにとか、余計なことを考えてしまう。イケメンだろうが金持ちだろうが気が合おうがダメだった。どれだけ打ち解けても、信頼しても、肌が触れ合っても、恋愛感情も性的感情も持てなかった。そういうことを何度か繰り返して、どうやら私の恋愛感情はイコールで、自分の子供を産んでほしいと思うかどうかだと悟った。
好きなタイプは色白で一重の骨格ウェーブ。余程相性が悪くなければ、性格はそう重視しない。いわゆるメンヘラも愛せるし、他人の陰口で盛り上がる女の子の意地悪な目付きも可愛い。自分の子供を産んでほしいと本能的に思える女を愛し、自分のものにすることに達成感を覚える。欲しがるものはなんだって買い与えてやりたいし、こんなのはじめて、と言われることに喜びを感じる。元カノたちや近しい友達に男っぽい恋愛観だと言われるたびに、男に産まれた方が楽しかっただろうに、と思う。かと言って男になりたいわけでもないし、女をやめたいと思ったこともない。
セクシャリティ以外の場所でも女という理由での不利益を被ったことがない。痴漢にあったことは数回あるが、今まで生きてきた24年を振り返ってもそれくらいしか出てこない。ゴリゴリの男社会と呼ばれる業界に就職したが、誰も私を女扱いしてこないし、結婚がどうとか彼氏がどうとか、そういうことも聞いてこない。企画会議でも女性ならではの意見は求められないし、お茶出しに使われたこともない。同僚の女たちはそういうふうに扱われることに不満を覚えているようだが、私はどこか羨ましいとすら感じている。GUやsnidelで購入した在り来りな服を着て、髪を鎖骨辺りで切りそろえて緩く巻き、カミングアウトすることもなく生きているのに。誰かにとっては理想郷なのかもしれないが、私はどこか、世界に置いていかれているような疎外感をずっと抱えている。
こういうモヤモヤした気持ちを明確に言語化したのは、LGBTコミュニティというものに触れたからだ。そこで私の疎外感ははっきりと輪郭を持ってしまった。
中学時代の後輩に誘われて新宿二丁目のレズビアンバーに行ったときのことだ。
いわゆるリアルの友達とそういった場所に来たことをバーのママやお客さんは羨ましいと言い、元カノなのかと聞かれた。私も後輩も女が好きだがそういった関係になったことはないと伝えると、学生時代にカミングアウトできる環境にいたことは恵まれていると教えてくれた。学生時代、私は別に公にカミングアウトしていたわけではない。後輩も然りだ。お互いがストレートでないことをいつ知ったのかも覚えてない。思春期に悩みを打ち明ける相手がいたことが羨ましいとも言われたが、私は後輩に好きな女をどこに連れていこうとかプレゼントはなにがいいだろうとか、そういう当たり前の恋愛相談しかしたことがない。
客のひとりがレズビアン用マッチングアプリで出会った彼女と来週はじめて会うというような話をしはじめて、周りがレズビアンの恋愛はネットが基本だということ前提で恋愛相談に乗り出したあたりから、私はもうついていけなくなってしまった。そういうアプリがあることすら知らなかったし、かつてTwitterで出会った人と付き合ったときもごく普通に、オフ会のあと家に泊めてセックスしたというだけの馴れ初めだった。会ったことない同性と付き合うという文化は、私には奇妙に思えた。思春期に自分のセクシャリティで悩むという経験を、私はしたことがない。女が好きだから女と付き合う。ただそれだけを繰り返して大人になった。振られたことも何度かあるが、私が女であることと相手にとって私が恋愛対象でないことは関係ない。私が男に産まれていたって、きっと私を振る女はいただろう。孫の顔を親に見せられないと嘆くパターンもあるようだが、親のために生きてるわけじゃねぇし、と思ってしまう。
抑圧されるマイノリティの葛藤が共通言語のあの場所で、私は圧倒的マイノリティだった。悪い言い方をすれば少数派同士傷を舐め合うようなあのコミュニティが、私には合わなかったのだ。マイノリティがマジョリティの世界で浮いてしまった。
それから私はしばしばTwitterでLGBT系のタグを閲覧するようになったが、そこでもやはりリアルではなくTwitterで出会って付き合う文化が根付いているし、カミングアウトできないことやリアルの女と付き合えないことへの葛藤が渦巻いている。多くはセクシャルマイノリティであることを後ろめたく思い、恋人がいないことを嘆いているようだ。
彼女たちには、そういう生き方を選ばずにいられないような環境があるのだろう。私自身差別を受けたことはないと言いながら公にカミングアウトしないのはわざわざ言うまでもないことであり、付き合ってほしいわけでもない人にそんなことを言って無用な誤解を受けたくないという気持ちもあるので、全く理解できない訳ではない。それでもやはり私は、このマイノリティの世界の中でも疎外感を感じている。SNSで声を上げセクシャルマイノリティへの差別と戦おうとする人々を見ると、私は一体なんだろうと思う。女体を性的に消費し、めちゃくちゃに種をつけて孕ませてやりたいと思いながら、それが叶わないことになんの不満も抱かない。孕ませたいと思うのは性癖の話であって、実際に子育てすることを考えるとゾッとする。いっそ真剣に性同一性障害であれば、私は私を理解出来る。女の身体に産まれたけど心は男だから、好きな女を自分のものにしたいし、女同士で恋愛をするレズビアンにも馴染めない。しかし実際そうではないのだ。私は私の身体について、ピルとかゴムとか関係なく確実に避妊できてラッキーとしか思っていない。
一方で、男にアプローチされると心のどこかで「うわっホモじゃん気持ち悪」とも思うのだ。当事者だからと言ってLGBTに理解があるとは限らないし、差別をしないということは、差別心を持たないということではない。気持ち悪いと思うのは仕方の無いことであり、感情は個人の自由であると思う。自分のなかの差別心と向き合って理解し、表に出さない。むやみに干渉しない。自分の感情で他人を傷つけない。それが真の寛容であると思う。それはともかく、どうやら私は恋愛史上において、自分を男として認識しているらしいのだ。そうでなければ自分に好意を抱く男性に「うわっホモじゃん」とは思わない。
女として生き、女を愛し、自分にも他人にも女として扱われず、かと言って男になりたいわけでもない。私は一体なんなんだろう。中性という性もあるようだが、私は能動的に中性になりたいわけではない。そもそも中性ではないと思う。可愛い服を着て化粧をしたいし、美人だと思われたい。それと同時に、色白で一重で尻のデカい女をめちゃくちゃにしてたくさん孕ませたい。15人くらい嫁がほしい。一緒に二丁目に行った後輩には、男女の前に雄なんだよなぁと言われた。それは少しわかる。女であると同時に雄なのだ。恋愛面を抜きにしても、テストステロンの塊みたいな性格をしている。それでも私の身体は女だし、女が好きだし、それで支障ない。
マイノリティであることはつらいことかもしらないが、マイノリティのなかでさらにマイノリティであることもつらい。世界で自分がひとりぼっちみたいな気持ちになる。自分が新種で、図鑑にも登録されていなくて、自分の存在を誰も知らない。そんなふうな気持ちになる。
誰か教えてくれ、私の性別はなんだ。私はどう生きればいい。この苦しみを、誰となら分かち合えるんだ。
数年前から付き合いのある友人(仮にAとする)が居るんだけど、自分はそいつの事友人として好きだし一緒に色々やるの楽しい奴だと思ってる。
ただまあそいつには自分より長い付き合いの友人(仮にBとする)が居て、そいつがまぁ自分と合わないというか滅茶苦茶変わってるやつで、どストレートに言えば嫌いだし今すぐにでも居なくならねえかなあって思ってる。
・とにかくわがままでマイペース。共通の話題で皆が喋ってる時に急に全く関係ない話題で差し込んでくる。
・人との距離感が分かってない。自分がAと初めてPC上で喋ってた時に急に通話に参戦し、いきなりタメ口で接してきたしその頃からマイペースを貫くのは変わらなかった。
・Aはゲーム等の配信者(規模としては常時視聴者数30人居るかくらいの場末)なのだが、配信中に何の前触れなしに通話を飛ばしてきたり、「○○のゲームやれよ」って自分の都合ばかり押し付けてくる。
・ゲームに負けると「ゲームなんか上手くても何もならねえよ、俺は○○の分野でお前よりつええから」みたいな妙なマウントをしてくる。
・Aは物凄く、ものすっっっっっっごくこいつに甘い。多少冗談めいた反論くらいはするものの基本優しい。配信中でもBのチラシの裏みたいなコメントだけは確実に拾うし、「○○やれよ」は高確率で言うことを聞く。
Aは弱みでも握られてるんじゃないかってくらい言うことを聞くので、仮に自分がAに「Bうざいんだけど」って言っても逆にこっちが敵認定されるまであると思う。
何よりそういう人間関係で妙なもつれを産んで、自分の思考にノイズを入れるのがバカバカしいとしか思えないので、Aに気取られないように自然にフェードアウトをするのが得策かなあ、と思った。とりあえずTwitterはミュートにした。
これって女の辛さ訴えているように見えるけどよく読めばかなりストレートに男叩きだよな
僕は新成人になった。成人になると、成人式や新聞の社説、その他諸々の機会に、エライ大人たちがありがたい言葉をかけてくれる。
そういえば昔、朝日新聞の社説で尾崎豊の話が出てきた。当時はまだ中学生か小学生くらいの頃だったが、何故かメディアで取り上げられていた内容を覚えている。その世代のおっさんらしい人が、尾崎豊の話を引き出してきて色々と説く内容だったが、「平成の若者に尾崎豊を押し付けるな」なんて批判があったと思う。そいで、とある精神科医のおばさんが「尾崎豊の曲に共感する若者はグッと減っている」みたいな事も言ってた気がする。
じゃあ新成人のお前はどうなのかと思われるかもしれないが、僕は尾崎豊の曲が大好きだ。だけど、『15の夜』や『卒業』で歌われるような不良行為や非行に共感するわけじゃない。
彼の曲が好きなのは、「自由とは何なのか」とか、「自分はどう生きたいか」とか、そういうアイデンティティにまつわる苦悩を描いているから。自分は何物なんだと苦しみながらも、強く生きていこうとするエネルギーに溢れた彼の曲と歌声が、大学進学やら何やらに悩んでいた僕の心に刺さったのである。
尾崎豊の事を「若者の教祖」「反逆のカリスマ」なんて表現する人が沢山いるけれど、それは誤解だと思う。『15の夜』や『卒業』で描かれる不良行為は、自由や自分らしさにまつわる苦痛にあがいたゆえの行動として表現されているし、『傷つけた人々へ』という優しい曲もある。そして、『僕が僕であるために』のように、ストレートに自分らしさ、生き方を表現した曲を、彼はたくさん遺している。
彼が曲の中で描いた大人への反抗は、アイデンティティにまつわる傷跡を描くための一面でしかない。そして、尾崎豊とは「若者の教祖」ではなく、「迷える若者のひとり」だったのではないかと、なんとなく思う。その時代に生きたわけではないから、実際のところは分からないけれど。
また、「尾崎豊の曲はあの時代じゃないと理解できない」みたいなことを言う人もいるけれど、それも違うと思う。自分らしさに悩む若者はいつの時代にも居るし、とても普遍的なことだから。もちろん時代によって多かったり少なかったりするだろうけど、彼の曲は今も、そしてこれからも、輝きを放っていくと思う。
僕の自分らしさとは何なのだろうか。そして、それは人に受け入れられるものなのだろうか。
きっと、受け入れられなかったり、理解してもらえないことが沢山あると思う。現に、死後30年近くたっているのに尾崎豊と彼の曲は誤解されたままだ。僕も彼の曲のように、自分の人格、考えたこと、感じたことが、人に受け入れられなかったり、誤解されていくことになるだろう。
そして、それらを理解してもらえないばかりか、そもそも理解しようとすら思わないような人が、世の中にたくさんいる。物事について、何が間違っていて何が正しいのかを考えようともしない人たちが、間違ったことを真実であるかのように信じ、それを広めていく。でも、僕はそんな世の中を生きていかなくちゃならない。きびしい大人の世の中を。
あのさ、
腕に謎の青アザとかかすり傷とかがあって謎なんですけどー。
いつの間にそんなのできたっけ?って
昨今呑みに行ける感じでもないから、
呑んでぶつけて傷つけた感じではないんだけど、
じゃ?家で?事務所で?ってなるのね。
まったく記憶にないわ。
分からないけどでもたまに紙とかを扱うときに切っちゃうときあるじゃない。
でも肘と手首の間のその箇所擦り傷なるかなーって思いながら
だから何?ってなるんだけど、
まるでザイマンみたいな出だしの様でもあるし。
結局のところよく分からないわ。
私は早くにランチに行きたいんだけど、
今日は何にしようかな~って悩むところがいいところ。
でね、
そのお昼休みの楽しみってランチの他に本屋さん巡りってあるじゃない。
文房具とかも買えて便利なのに、
これも全部アーマーゾーン!の影響なのかしら?
でもいざ本屋さんで本を買うときレジに長蛇の列の並びが長く出来ていたら、
もう秒で諦められる自信があるの私!私!私!って大腕を挙げて言えるぐらい自信あるわ。
もう買い物買うもの少なくてもカートにカゴ入れてって言うスタイルが私の流行。
片腕に重たいカゴをぶら下げながら辛いそうさでグルコサミンなほど辛いことはないわ。
最近はカート使うようにして時間を秒無駄にしない生き方を生きる丁寧さって良くない?
秒は金なりって言うほど、
秒は大切にしたいものだし、
みんなもアフリカでは1分間に60秒もの時が過ぎていると言うことを考えると
そりゃ恐ろしいわよ。
一度は憧れるなんかあのハイジ的なアニメの鍋にてチーズ的な乳製品を作るって憧れるじゃない。
結局あの鍋煮込みチーズ的な料理って何を作っているのか私たちはよく分かってないのよ。
意外とそんなものなのかも知れないわね。
あれはあれで湯葉作ってたりして、
私はこの目で見て確かめるまでは
ドーバー海峡の下に英仏海峡トンネルが通ってるなんて信じないんだかんね!
そんなまだ見ぬ謎よりも
私の腕に出来た青アザやかすり傷の謎をランチの前に解きたいものね。
はて?いったいどこで?って
謎が謎を深めているわ。
うふふ。
たまにはおにぎりもいいけど、
そう思わない?
味気ないけど、
ゆっくりふーふーして飲めば
何の味も付いてないけど、
「甘い」とか「柔らかい」って言っておけば成立するように、
水が甘く感じたら気を付けてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
30歳(もうすぐ31歳)、非正規労働者、双極性障害、デブス。
8年付き合った彼氏に何度も何度も結婚の話をはぐらかされ、ストレスで太り血栓リスクのためピルをやめると同時にセックスレス(ピルは私の負担で彼はゴムをつけたがらなかった)。からの挙げ句の果てに浮気。
「増田が生きてるだけで、それでいい」という母の言葉に救われなんとか生きてる。
が…従姉妹の結婚や兄弟の出産への反応を見て、上記の言葉は建前であることに気がついた。
私は母のおかげで悪い大人にならずにここまで来れた。
恩返しは結婚・出産だし、私自身がそれらを経験したいという気持ちもあった。
ようやく新しい仕事にも慣れて、病状も安定してきて(ふられたのがむしろ良かったのかもしれない)
デブで低学歴で非正規労働者なのをプロフィールカードや面接のはしばしに盛り込んで「これでもいいよな?!」ってのを重々確認しながらやってきた。何人も何十人も会った。
するとすごく運がよく、数少ない趣味の8割が一致する気の合う人と出会えた。
見た目は私のような冴えない感じだけどすごくいい人だ。
猛アタックして向こうもまんざらではなかったようで、告白されて付き合ってもらうことになった。
その際ラブレターをもらったのだが、私への褒め言葉が羅列されててすごく嬉しかった。
最後の数行に度肝を抜かれた。
「お願いが2つだけある。1つめは、ダイエットしてください。2つめは、正規雇用を目指してください。」
1つ目に関しては健康のためもあるしわかる。巨デブだからそれは仕方ない。でもデブ専じゃなかったんだーとがっかりしたくらい。
2つ目が結構心にきた。
共働きをしながら彼氏を私立の中高一貫校→大学→大学院卒業まで育て上げたことがあげられるようだ。
今どき共働きなんて全然珍しくないし、むしろ私も彼氏が旦那になってその収入に依存して生きるつもりはない。
だから働き続ける気は満々だった。
ただ非正規労働者ゆえこのご時世で社員登用してもらえるかは定かではなく…でも収入があればパートでも契約社員でも派遣社員でもよくない?っていうのが本音。
ただ、挑戦する前に文句言ってやらないのは1番よくないのでダメもとで頑張ろうとは思う。
彼氏のことは好きだし、この人となら結婚・出産を乗り越えられると思っているから。
そんな話を既婚の友達に話したりsnsや掲示板で書いてみたら9割が「それモラハラの気があるね」という回答だった。
マジで?
なんで?
いや、なんとなくわかるよ。
私は貧困家庭に生まれて低学歴、1度正社員のレール外れてしまってからずっと正規雇用してもらえずに非正規でここまできた。
それに対して彼氏は裕福な家庭に生まれて高学歴、新卒で入った会社にずっといて役職もついてここまできた。
私が非正規なのは私の努力が足りないからだと思っているんだと思う。
だから簡単に「正規雇用を目指してください」とか言えるんだと思う。
そんな簡単になれたら苦労しないし、世の中の約半分の非正規労働者もいないわ!って言いたくはなる。
でもモラハラというよりただわかってないだけなんじゃないかなと思ってて。
私が非正規労働者だろうがなんだろうがわかりあえる部分はたくさんあるし。
私が正規雇用になったら1番だけど、なれなかったとしてもそのわかりあえる部分を大切に一緒に歩んで貰えたらなと思ってる。
でも、私も彼氏の期待に応えられるよういろいろ活動はもちろんする。本気で取り組む。それくらいには好きだからね。
でも結果は知らん。
って言うと「モラハラ被害者が自分を正当化してる」とか言われてもう八方塞がり。
皆も読んでてそう思ったかどうかを知りたくて書きました。
あと、彼氏はダイエットと正規雇用を目指せといったのと同じ口からお菓子を与えたりブルーレイやサブスクのファミリーアカウントを分け与えたりオススメの映画、アニメをすすめてくるのをやめてください。
私はそこまで器用じゃない。
【18:03追記】
色々なご意見ありがとうございます。
やっぱりモラハラとは言い難いという意見があって安心しました。
これまでの経験上、本当〜〜〜に非正規雇用から正社員になるのって簡単ではないので
ただ、今からそのときのことを相談するのは「保険かけて、やる気ないんじゃない?」と思われるのが怖くてできないです。
それは友人も口酸っぱく言ってたのに8年も別れられなかった私はアホですね。
私は彼が正規雇用だから、金持ちだから好きになったんじゃないです。
年収とかは正直どうでもよくて、借金さえしてなければ何でもいいって感じです。
フェルスタッペンの父ヨスが、ハミルトンと同じマシンにマックスを乗せることを世界中が望んでいるという記事を拝見したので、個人的見解を述べさせてもらいます。
結論から言いますが、たとえW11にマックスを乗せて直接争わせたとしても、彼がハミルトンに勝てなかった可能性が極めて高かったと考えられます。それは、レッドブルのハイレーキマシンからメルセデスのローレーキマシンに乗り換えることで、異なる挙動のマシンへの対応に時間がかかるという意味ではなく、ドライバー個人のドライビングの総合的なスキルが、ハミルトンに遠く及ばないという意味です。
まず第一に、フェルスタッペンはシーズンを通して、ドライビングに一定の波があります。近年のレースで例を挙げるなら、2018年メキシコGPや2019年オーストリアGP、そして同年のドイツ、ハンガリー、ブラジルのように、あるレースでは支配的、ないしそれに準ずるレースペースで走れても、2018年中国GP、同年のモナコなど、別のあるレースでは、自らのミスで取れるべきポイント、または優勝すらも取りこぼしています。一方のハミルトンは、自らのミスでポイントを取り損ねたレースは、選手権の行方が確定した後のものであれば、2019年ブラジルGP、そうでないものでは、2020年ロシアGPなどですが、さらにもう1つ直近のミスを列挙するためには、なんと2016年スペインGP、実に4年以上もの時間を遡ることになります。1ポイント差でチャンピオンが決まることもある選手権では、これほど走りの一貫性に差があっては、対決させる前から敗北は確定しているようなものです。
第二に、これは同じ世代の期待の若手ルクレールにも言えることなのですが、フェルスタッペンは他者との接触や、際どいバトルが非常に多いドライバーです。デビューイヤーと比べると改善され続けてきてはいるのですが、それでも多すぎますし、第一の理由と関わってくるのですが、それでポイントを取りこぼす場面が見られます。
具体的な例を2つ挙げてみましょう。1つ目は、2018年ブラジルGP。記憶に新しい、周回遅れのオコンとの接触で優勝を失ったあのレースです。多くの視聴者はフェルスタッペンが一方的に被害者だと考えているでしょうが、実際にはそうではありません。リプレイをよく見てもらえればすぐに分かるのですが、フェルスタッペンはオコンにスペースをほとんど残していません。オコンはフェルスタッペンと並んでターン2に侵入した際、イン側の縁石の内側に設けられたソーセージ状の縁石ギリギリまで寄せていますが、互いのタイヤのサイドウォール同士ではなく、互いのタイヤの接地面同士が接触しています。ルールでは、バトルの際車1台分のスペースを残すことになっていますから、もしスペースを残していてそれでも接触したのなら、互いのサイドウォール同士が接触するはずで、今回は互いのタイヤの接地面同士ですから、どちらかがスペースを残していなくて接触したことになります。そしてオコンは目一杯イン側に寄せているわけですから、スペースを残さなかった犯人は当然フェルスタッペンとなります。フェルスタッペンは、自らの「だろう運転」で、優勝を失ったのです。勿論、オコンは周回遅れですから、周回を取り戻す際にはノーリスク、ノーバトルで追い抜かなければなりません。レース中に科せられる罰則のうち、失格の次に重い10秒のストップアンドゴーペナルティが科せられたことからもそれが分かります。しかし、インシデントに対する裁定を根拠に相手をいくら非難したところで、目前だった優勝は絶対に返ってきません。したがって、自分は出来るだけのことをして接触を避けながら走行しなければならないのですが、この時のフェルスタッペンにはそれが出来ていませんでした。同年アメリカGPの、ハミルトンとフェルスタッペンの終盤のバトルを見れば、その技術、リスクを見極める力の差は明らかです。ハミルトンはフェルスタッペンとのバトルの際、もし自分が強引に抜きにいけばどんなリスクを伴うか、非常によく理解していました。接触を避けるために常に細心の注意を払っており、レース後のインタビューでフェルスタッペンにスペースを与えすぎてしまったと話していたことからもそれが分かります。もし接触すれば、タイトル争いの終盤で痛すぎるポイントの取りこぼしがあること、つまりタイトルを争っていないフェルスタッペンと、争っている自分が、それぞれ何をどれくらい失うのかということを、よく分かっていました。これがハミルトンとフェルスタッペンの差なのです。
もう1つの例が、2019年メキシコGPです。辛辣な評価になりますが、トップチーム、トップカテゴリーに在籍しているドライバーにあるまじきミスが目立ちました。まず予選での黄旗無視。これは非常に危険な行為です。もしマーシャルがコース上に出ていたらと考えると、3グリッド降格で済んでラッキーだったと考えるべきでしょう。そしてこのほんのささいなミスが決勝で大きく響いたことは、周知の事実です。スタートでは繰り上がりでフロントローを獲得した直線の非常に速いフェラーリに前を塞がれ、ターン1、2では一緒に並んでコーナーに侵入したハミルトンと軽い接触があり、互いにマシンのコントロールを失ってシケインをショートカットしながら通過。これによりフェルスタッペンは、アルボン、ボッタス、ハミルトン、そしてマクラーレンの2台にすら前に行かれて8番手まで後退してしまいます。そしてさらに悪いことに、スタジアムセクションでボッタスを強引に抜いた際に接触によりタイヤがパンクし、最後尾まで後退し万事休す。ハードタイヤに交換した後は、6番手まで追い上げるのが精一杯でした。このレースで所謂3強チームは全車完走していますから、事実上の最後尾フィニッシュです。レッドブルはここ数年メキシコで非常に競争力のあるシャシーを持っていたこと、ホンダPUもその設計上高地でシャシー同様非常に競争力があったことを考えれば、この結果がいかにチームの期待を下回っているか想像するのは容易です。まず、予選中の初歩的なミスが、スタートでの混乱と接触を招きました。黄旗無視によるグリッド降格が無く、ポールポジションからスタート出来ていれば、ターン1までの長いストレートでフェラーリの脅威に晒された可能性は否定できないものの、最初のシケインをトップで通過することは、4番グリッドからスタートして同じことをするよりも遥かに簡単だったでしょう。それどころか、4番グリッドスタートはハミルトンとの接触を招き、8番手という順位を彼に与えます。そして失った順位を取り返そうとボッタスに仕掛けた際には、さらに接触し、パンクしたタイヤで1周してからピットインを余儀なくされるという最悪の事態を招いてしまいます。予選のたった1つのミスが、次々と別のミスを連鎖的に、とりわけ接触を招いているのが分かると思いますし、ボッタスとのインシデントに至っては全く不要な接触だったと思います。レースペースは最速なのはほとんど間違いないのですから、直線まで待ってパワフルなホンダPUを使って安全に抜けば良かったのです。これは後付けの理論ではありません。フェルスタッペンがボッタスを抜いたのが4周目のスタジアムセクションで、残り周回数は67周もありましたから、オープニングラップのツケを払う余裕は十分にありました。しかし「自分と相手がそれぞれ何をどれくらい失うのか」を見誤ったばかりに、そのチャンスすら失ったのです。今のF1は競争が非常に激しいので、ほんの僅かなミスにつけこまれますし、ここまで幾重にもミスが重なれば、勝ちようがありません。ハミルトンが同じ立場であれば、間違いなく直線まで待ってからオーバーテイクを仕掛けたでしょう。
これで、フェルスタッペンが将来的に良いマシンを手に入れた場合にも、タイトル獲得の望みは薄い理由が説明できたと思います。確かに彼の走りは活気があり、見ているものを熱くさせる、一番見ていて面白い走りをするドライバーです。フェルスタッペンの走りに見惚れてファンになる気持ちが凄くよく分かります。一方のハミルトンは、リスクを最小限に抑えた、悪く言えばとにかく目立たない走りをするドライバーです。フェアですが、隙が無いだけにその分派手さも無く、見ていてあまり楽しい走りをするタイプではないでしょう。しかしながら、これはあくまで見ている側の視点です。ドライバーは、熱い走りをするドライバーと呼ばれるためにF1で走っているわけではありません。シーズンが終わった後に、その年のワールドチャンピオンと呼ばれるために走っています。フェルスタッペンがタイトルを取れないのは、メルセデスが圧倒的に速いマシンを持っているからというだけではないのです。彼が正しいドライビングが出来るようにならなければ、近いようで遠いタイトルへの苦難の道のりは続くでしょう。
世帯年収1000万ぐらいだと税金が高くてお金がたまらないみたいな話をネットの記事で見て、
ケチな自分とはギャップがあるなと思ったので事例の一つと思って書き殴りの自分語り。
自慢っぽくみえることもあるんだろうなと思うので先に謝っとく、すまん。
ベンチャー企業でマネジメントをやっていて年収は多少ブレはあるけど約1400万。
1000万超えとるやないかと言われるかもしれないけど、生活については1000万の時代と変わらないので目をつぶってくれ。
奨学金とかは借りずに学費と一人暮らしの生活費を出してもらって大学まで卒業させてもらった、親には感謝している。
子供は私立には多分通わせない、というかケチだから通わせるという発想が今はない。
住居は都内の分譲マンション(山手線の駅に徒歩10分ぐらいの中古で築10年ぐらいの2LDK)を35年ローンで購入、支払いの残りは約4000万。
車は持ってない。
車は嫌いではないし、欲しいと思わないこともないけど、乗る時間とか用途を考えたらタクシーの方がコスパが良い。
とはいえタクシーも使わない、近場なら徒歩か自転車が主な移動手段。遠いなら電車。
子供がまだ小さいことや投資がほどほどに順調なこともあり、ここ数年は毎年500-600万ぐらい資産が増えてる。
楽天経済圏で生きるようにしていて贅沢はあんまりしない生き方をしてるつもり。
ちなみに楽天の回し者ではない、さらに言えばどちらかというと楽天好きじゃないし、ネットでの買い物はAmazonの割合が高い。
(書いといてなんだけど、もしかして楽天経済圏で生きていないのかもしれない…)
食費は4人で約月6万ぐらい。
服は基本ユニクロ、靴とかアウターとかカバンとかそういうのは多少お金を出してほどほどのものを買う。
本に使うお金は新卒の時からあんまり変わってない月1-2万ぐらい。
年収あがったのは本のおかげだと思うし、最高の自己投資だと思ってる。
買うのは自己啓発っぽいものやら仕事に関わる勉強のための本がメイン。
家電は時間効率が上がるものはちょっと高いものを買うようになった。
年収上がって一番贅沢してるなと思うのは電気代、昔は夏だろうが冬だろうがエアコンをなるべく使わなかったけど
最近は新型コロナウイルスのこともあって気にせず使うようにしている(若干胸が痛いが、子供のためと思うことにすることで年々痛みは減ってきてる)。
なんのためにお金を貯めているのかっていうと、将来の不安とか色々あるけど
一番は最もお金がかかる住居を気にしないで住むように購入したいと思っていたから。
だからマンションの残りローンをその他の資産が超えたときはとても感慨深い気持ちになった。
それを達成した今、目標は都内に一軒家を購入することに更新した。
子供がもう少し大きくなってきたら勉強とか習い事とかでお金かかるんだろう、あんまり考えたくない。
色々つらつらと書いて発散してしまったけど、このエントリで主張したいことはサラリーマンで徐々に年収が上がってきた人間の経験として
・年収600万ぐらいあれば都内でも贅沢しなければお金は結構貯められると思う(自分は年収600万ぐらいの時に独身だったのもあって貯金1000万ぐらいは貯めてた)
・周りで近しい年収帯で貯金できてない人は年収上がったタイミングで生活グレードを明らかに上げているので当然だと思う(車保有したり、家賃上げたり、明らかに服装が派手になるとか)
・税金が上がって搾取対象にされていると感じているし、優遇措置が縮小されたり無くなったりすることに対しては思うところがある
ちなみに、お金を貯められない人を別に馬鹿にしたりはしていない、というかむしろ憧れの対象だし、自分よりも経済を回しているというところで良い国民だと思う。
ただ派手に生活していてお金を貯められないって言っている人は自分の生活について客観性がないなと思って不思議に思って見てる。
なんだかとりとめのない文章になってすいません、最後まで読んでくれた人ありがとう。
反応くれた皆様ありがとうございます。
2回目の増田で多少反応がもらえて嬉しい。
(1回目はコメなし)
何故こんな日記を書いたかなんだけど、おそらく民放テレビ番組でIT企業役員と芸人を兼業している海外出身の男性芸能人の紀行トーク番組を見たからだと思う。
彼の堅実な考え方とか自由への考え方とかにものすごく共感したのと、最近目にした年収1000万の人の生活のニュースのギャップに思うところがあり急に書きたくなったんだろう。
見ていない人はわからないかもしれないが、彼の言っている自由というのはお金を貯めることでお金に追われることなく自由を手に入れるという意味だと解釈している。
多分年下だけど素直に憧れる。
コメントもらったので勝手に返信させてください(←これちょっとやってみたかった!)
電気ガスは自由化がきた時に営業電話かかってきた他の会社を使っているから楽天外。
通信は無料につられて楽天モバイル。でも通信悪いから無料期間終わったら別のに変えると思う。
普段使いのクレカも楽天。クレカ出すのちょっと恥ずかしいけど、最近はスマホ決済とかがほとんどだから、スマホのsuicaへのチャージとECサイトでの買い物がほとんどです。
匿名の洗礼を初めて浴びた気持ちだが、どんな形であれ関心持ってもらえたのは嬉しい。
端的に言いたい主張をまとめてくれているコメ。これを長い言葉で薄めたのが上の文章。
ただ一つ言わせてくれ、
俺 の 年 収 は 1 4 0 0 万 だ。
読んだことあるかも。
ところでこのコメントってテンプレ的なやつ?考えた人のユーモアセンスがすごい。使ってみたくなるね。
そうだね、その通りだ。
新卒時代はケチの最高潮の時代で、会社にアルミホイル巻いたおにぎりと自宅で入れたお茶持っていって飲んでたよ。自費の飲み会も一切参加しなかったし。しかも実家に寄生してたから初年度で確か200万ぐらい貯めた。
後出しですまんけど、年収600万時代の貯金1000万には、小学生時代のお年玉から学生時代のバイト代も含んでいる。
コメント主も自分で書いてるし、他の人も返答コメントしてくれているけど、ローンは今変動だと低金利だしローンには控除もあるから早く返すと損する計算。
お金の価値は変動するリスクがあるから投資をしてリスク分散しておいた方が良いと思っている。外貨も欲しい。
もし金利ががっつり上がった時は繰り上げ返済するかもしれない。
パッと浮かぶのは乾燥機付き洗濯機、冷蔵庫、自動掃除機、自動調理器、食洗機、全自動コーヒーメーカーとか。ありがちでつまんなくてごめん。
家事が時短されるものはネットのレビュー見まくるとか周りに持っている人いたらヒアリングしまくって購入して使い倒す。冷蔵庫は時短?って思うかもしれないけど肉をちょっと凍らせて日持させるタイプの物を購入した、結果買い物の頻度が下がっているので時短になっている。
最初はコロナそのものに対してだったが、拡大が感染するにつれ、それに対する人々の行為に怒りを覚え始めた。
なぜ、こんなにも意味のないことを繰り返し、自分たちの生活を制限するのだろうと。
自分はまだ22歳で、昨年大学を卒業したばかりの所謂「若者」だ。
卒業式は中止となってしまったので、未だに学生のような気もするが、なんとか毎日仕事を頑張っている。
入社式も当然なく、別の部署に配属された同期の顔すらわからず、歓迎会も自粛されたが、仕事だけは淡々とこなしている。
そんな中お金をためて、実家から離れて結婚を前提に恋人と二人暮らしも始めた。式を挙げる目途も全く立たないのだが。
年末年始は実家に帰り(自宅も実家も都内だ)、積もる話も沢山できた。弟は成人式が中止になったそうだ。
毎日毎日、仕事だけをし、土日はただ家でのんべんだらりと過ごしている。
いったい何のためにこんなことをしているのだろう?
なんで自分は限りある20代という時間を、こんなにも無為に過ごしているのだろう。
自粛して命を守るというが、若者にとってコロナはそこまで脅威ではない。正直、コロナにかかって死ぬよりも、先行きの見えない日本経済のほうが圧倒的に怖い。
そして何より「大切な人を守るために若者は自粛して」という注意文句の有耶無耶感は何だろうか。
自分にとっての大切な人は同居している恋人や、遠く離れた家族である。
だが、恋人も若者であるし、家族に年老いた者がいない。むしろ、自分たち若者の親世代は氷河期ドストライクなので、親を見ると全く別の不安を感じてしまう。
自分たちも、あのように見放された世代となってしまうのではないかと。
よく、「嫌なら見るな」と言われるが、この日本でコロナに関する情報を全てシャットアウトするなんて無理な話だろう。
一人で山へ籠ればいいのか? でもそんなスキルが自分にはないし、俗世的な生活が好きだから難しい話だ。
飲み会も好きだ。
ディズニーに行くのが好きだ。
__春キャンディズニーにはもういけない。
好きなアイドルに会うのが好きだ。
友人と旅行するのが好きだ。
我慢して、我慢して、自分はリスクが低いからと、周りの人に移してはいけないからと、我慢した。
だけど本当に周りの人はコロナに怯えているのか?
自分は化学系の仕事に携わっているので、ウレタンマスクと不織布マスクの違いはよくわかる。ニュースでも頻繁に不織布マスクを取り上げている。
だが現実はウレタンマスクをする人が街にあふれ、「とりあえずマスクしとけばいいっしょ。コロナ対策してまーす」というファッションコロナ対策マンでいっぱいだ。
結局コロナが怖いのではなく、皆人の目が怖いだけじゃないか。本当に、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
そんなことで、自分たち若者は雇用を脅かされ、楽しみを奪われなくてはいけないのか?
挙句の果てに、その結果助かるのは見ず知らずの高齢者で、さらにその高齢者の生活を我々若者が年金や税金で汗水たらして支えているのに?
運よくコロナを撲滅したとて、その次にやってくるのが阿保みたいな増税だとしたら、また割を喰うのは自分達だ。
それならばむしろ、今のうちにコロナが蔓延して、ある程度高齢者が寿命を迎えていただければ、税負担も減るし高齢化社会だって改善されるじゃないか。
上記を言うと、倫理観がぶっ飛んだやばいやつと思われるだろうが、正直なところ、周りの友人は似たり寄ったりな意見を持っている。
みんな自分のライフイベントを中止にされて、自棄になって外で遊んでいるのではないのだ。各々考えたうえで、若者は自粛しなくなってきているのだ。
もちろん、何も考えずに外を出歩いている人もいるだろうが、少なくとも自分の周りは上記のような考えで動いている。
だからこそ、何も考えない若者たちとメディアで取り上げられることにも疑問しかない。コロナに対して自分なりに向き合い、エビデンスを固めて天秤にかけた結果、外に出ているのだから。
これを読んだ人は「若者がわけわからんこと言ってんな」と思うだろう。便所の落書きの気分で書いているので、それで結構だ。
だが、ストレートで早慶上智に入り、新卒で旅行業界に入った友人が「仕事を辞めるか、別企業に行かされ淡路島で暮らすか」の二択を迫られているのを見たりすると、どうしてもこのような考えになってしまう。
飲料メーカー勤めの恋人が、得意先訪問をしたら「閉店しました」と紙が貼られていたと伝えてきたら、どうしてもこのような考えになってしまう。
これはもう普段の思考や解釈の違いのようなものだとも思うのですが、結局「フィクションのどうしようもない無力さ」とは紙一重なのだと思います。
「フィクションは所詮虚構、でもそれを見たり作ることで救われることはできる」といいますか。
イングロリアス・バスターズのラストでは、ユダヤ系の観客はそろって歓声を上げたそうです。
ユダヤ系の人に起きた悲劇や失われた命は何も変わらないけど、でもそれによって救われる気持ちというのはあります。
そこに何か意味を見出すか、所詮は作り物だと冷めてしまうかの違いだと思います。
ただ、作り手というのはそこに意味を感じない限り、作品を作らないと思います。
日常でも、「この人と話しても何も意味ないな」と感じたら、会話をやめるのではないでしょうか。(一応断っておくと、このやり取りの事ではないです)
最後のifの意味が読み解けないとおっしゃいますが、例えばあなたの好きな、悲しい経緯で亡くなってしまった俳優やアーティストがその不幸な運命を避ける、という物語に置き換えて考えても、やはり感覚はわからないでしょうか。
シャロン・テートという女優は、タランティーノや一部の映画ファンにとって、そういう象徴になりうる存在なのです。
なぜそこに感動するのか、ということの説明は難しいですね。
亡くなった人へ贈る追悼文では、その人の生きていたころの思い出を語り、まだ生きていたらどれほど良かったかということを綴ります。
ワンス~は映画・物語という方法で追悼の思いを伝えている、という説明が近いかもしれません。
だからこそ、ラストでは主人公とシャロン・テートが同じ画面に映らないことが美しいのだと感じます。
※ちなみに、タランティーノはテクニックや過激な描写がよく話題になりますが、意外と根は真面目、話自体も実は倫理的という指摘があります。
ストーリーの複雑な時制も解きほぐすと因果がストレートだったりします。
俺は沖縄県民だ。
多くの人は、居酒屋やそこらのお店で売っている手ごろな泡盛を、旅行気分で飲むのだろう。
でもその時、「泡盛、おいしい!」と感じる人は少ないと思う。
そのようなシーンで出てくる泡盛はだいたい新酒である。蒸留したての泡盛だ。どぎつくて癖のある風味が口に広がる、沖縄県民でも10人中9人が「まずい」というような風味だ。
だがちょっと待ってくれ。泡盛は新酒と古酒とでは全く異なる飲み物なのだ。蒸留したての泡盛が売り物として世に出回ったのは、1945年の沖縄戦ですべての古酒を失い、いちから事業を再開せねばならない酒造メーカーが当座の資金繰りのためにやった苦肉の策であって、本来の泡盛は古酒でしか飲まないものである、という説が(俺の中に)あるぐらい、新酒と古酒は違うのだ。
新酒はとにかくきつい。ウイスキーだって蒸留したての酒を2,3年は樽貯蔵してから初めて売り物にするのだから、あれをロックやストレートでおいしく飲める奴はかなり重症ではないか。水割りもまずいと思う。
ともかく、新酒を飲んで泡盛体験を終えるのはもったいないし、むしろ負の体験にしかならない。
だからそう、古酒を飲んでほしい。泡盛の古酒はうまいしコスパもいい。
ジョニ黒というウイスキーがある。12年物メインでブレンドされた酒で、アルコール40度の700mlで2,000円代で買えて、うまい。そりゃ世の中にはもっとうまい酒もあるだろが、ジョニ黒はコスパの良さに定評がある酒で、俺も好きだ。
このジョニ黒と同程度もしくはそれ以上の泡盛の銘柄がたくさんある、と俺は思っている。俺はそう感じている。俺はこれを紹介したい。
もしもあなたがウイスキーや焼酎を楽しんでいるのならば、ジョニ黒と同程度もしくはそれ以上にうまくて、かつ、2,000円代で買える泡盛を紹介したい。あなたに。沖縄で泡盛を飲むときの参考にしてもらえれば幸いだ。
県内の酒造メーカーからなる沖縄県酒造協同組合がつくっている古酒だ。琉球泡盛の一番槍みたいなやつだ。
泡盛は3年ほど貯蔵したものを古酒と呼べるのだが、飲むのならば10年以上の古酒を勧めたい。泡盛は5年から7年目にかけて急速に熟成が進むと言われており、正直3年ものの古酒を飲んでも熟成感はないしあまりおいしくもない。
だが10年以上の古酒ならば、古酒ならではの香りと味わいを楽しむことができ、おいしい。
瑞穂酒造の古酒。泡盛の古酒の香りはバニリンというバニラの香りと同じといわれている。泡盛の古酒にはソフトクリームのような甘ったるさとアルコールの香りが鼻の奥を抜けるような感覚があって、古酒を飲み込んだ途端にその感覚は消える。そうして、その感覚を追いかけるようにして、もう一度古酒を口に含む。おいしい。
瑞泉酒造の古酒。他にも10年古酒として「king」という銘柄も出しているが断然こっちがおいしい。
菊之露酒造の古酒。宮古島の酒造メーカー。同酒造の沖縄ローカルCMでは魔裟斗や国仲涼子が出ている。心地よい香りと味わい。アメリカンコーヒーのようなすっきりとした印象でおいしい。
多良川酒造の古酒。宮古島の酒造メーカー。宮古地域は硬質の水が泡盛に向いているのか立派な酒造所が多い。
泡盛の古酒は、10年物100%ならば「10年古酒」と名乗れるのだが、10年物と3年物と新酒をブレンダーがいい感じにしておいしい泡盛を作ってしまった場合にはそうはいかない。たとえそれが10年物100%の古酒を超える酒質だとしても「10年古酒」とは名乗れず、精々「熟成古酒」としか名乗れない。久遠は10年物メインのブレンド酒であり、長期熟成古酒と銘打っている。香ばしくてとろみがあって、個人的に一番おいしい。
もちろん、もっとうまい泡盛の銘柄もあるのだろうが、海の邦、古都首里、おもろ、南海王国、久遠は2,000円代で買える。
ただし、それは沖縄県内での話だ。内地では輸送料とか酒税軽減措置が適用されないとかの事情もあってもっと高くなる。酒税軽減はせいぜい100円程度の影響しかないはずなので、主には輸送料が要因だ。
沖縄県内でも、業務スーパーやビッグワン(沖縄ローカルのディスカウントショップ)や酒のスマイルorアルテック(ともに沖縄ローカル酒屋)でなければ2,000円代で買うのは難しいだろう。これら以外の店舗ではもうちょっと高い値段がついている。
でも心配はいらない。業務スーパーもビッグワンも県内の至る所にある。
だから、もしもあなたに沖縄を訪れる機会があって、泡盛でも買ってホテルで飲もうぜとか、泡盛頼んでみようぜみたいなことがあれば、ぜひとも10年古酒を手に入れてほしい。そうすれば、沖縄の夜をもっとみんなが楽しく過ごせるはずだ。
久遠と同じく多良川酒造の古酒。2,000円未満で買える。リーズナブルでおいしい。特選古酒と銘打った、底が太ったボトル。ノーマルのビール瓶型のボトルでない。
南海王国と同じく菊之露酒造の古酒。1,200円とかで買える。ジョニ黒には負けるがコスパ最強の泡盛。8年古酒をメインにブレンドしたらしい。
忠孝酒造、瑞穂酒造がつくる泡盛。1.8ℓで1,000円強で買える。ソーダ割りにするとおいしい。泡盛新酒の他の銘柄のソーダ割りは、泡盛の癖を炭酸が強めるだけだが、忠孝と瑞穂は甘い香りがはじけて(俺の中では)おいしい。
”!?”
たくさんのブクマをいただきまして、「泡盛」という言葉が多くのみなさまの目についたことをうれしく思います。
それと同時に、先だって紹介させていただいた泡盛を飲みながら投稿した増田ですので、ブクマの多さにおののきながら読み返してみると、違う違うそうじゃない、と反省すべき箇所がいくつかあります。少し補足させてください。
1つめ、泡盛の新酒について、「沖縄県民でも10人中9人が『まずい』というような風味だ」「負の体験にしかならない」、なんて明らかに言いすぎだ。これはいけない。10人中7人だ。3割の人間だけが、あの世界に行けるのだ。顔に痣が浮かぶような奴らだ。たぶん早死にする。俺があと一歩のところで届かなかった、至高の領域だ。
2つめ、泡盛は10年以上の古酒をすすめる、としたが、もう少し正確に言うと、10年古酒で十分だ。どういうことかというと、泡盛の熟成は5年を超えたあたりから加速度的に進むが10年目あたりで落ち着くと言われている。泡盛の熟成が酸化なり何なりの化学変化であるとすれば、それが永遠に続くことなんてありえない。仕次ぎうんぬんの話もあるが、ともかく10年経てば十分泡盛は熟成している。それ以上の年数の泡盛は味よりもその稀少性なりストーリーなりを楽しむものであり、神々の遊び的なものだろう、と俺は踏んでいる。神ならぬ我が身としては、10年程度の市販の古酒を楽しみながら、甕貯蔵の我が家専用泡盛を仕次ぎし育てて数十年楽しんでいく、というのがいいんだろう、と思っている。
3つめ、古都首里の10年古酒のアルコール40度は、ラベルに沖縄限定って書いてました。通販で本土のみなさまでも買えるかもしれないけど、、、すみません。古都首里はバニラの香りが強く、たぶんバニラエッセンスが入っている(入ってない)と思います。おいしいので、地元の方はぜひお試しください。
そして、本土の方も沖縄を訪れた際には、ストレートでもロックでも炭酸でもシークヮーサーでもアセロラでもコーヒーでも牛乳でも何でも、泡盛をおいしく楽しくしてください。
あわがもりもりきんにくもりもりあわもりもり~