これはもう普段の思考や解釈の違いのようなものだとも思うのですが、結局「フィクションのどうしようもない無力さ」とは紙一重なのだと思います。
「フィクションは所詮虚構、でもそれを見たり作ることで救われることはできる」といいますか。
イングロリアス・バスターズのラストでは、ユダヤ系の観客はそろって歓声を上げたそうです。
ユダヤ系の人に起きた悲劇や失われた命は何も変わらないけど、でもそれによって救われる気持ちというのはあります。
そこに何か意味を見出すか、所詮は作り物だと冷めてしまうかの違いだと思います。
ただ、作り手というのはそこに意味を感じない限り、作品を作らないと思います。
日常でも、「この人と話しても何も意味ないな」と感じたら、会話をやめるのではないでしょうか。(一応断っておくと、このやり取りの事ではないです)
最後のifの意味が読み解けないとおっしゃいますが、例えばあなたの好きな、悲しい経緯で亡くなってしまった俳優やアーティストがその不幸な運命を避ける、という物語に置き換えて考えても、やはり感覚はわからないでしょうか。
シャロン・テートという女優は、タランティーノや一部の映画ファンにとって、そういう象徴になりうる存在なのです。
なぜそこに感動するのか、ということの説明は難しいですね。
亡くなった人へ贈る追悼文では、その人の生きていたころの思い出を語り、まだ生きていたらどれほど良かったかということを綴ります。
ワンス~は映画・物語という方法で追悼の思いを伝えている、という説明が近いかもしれません。
だからこそ、ラストでは主人公とシャロン・テートが同じ画面に映らないことが美しいのだと感じます。
※ちなみに、タランティーノはテクニックや過激な描写がよく話題になりますが、意外と根は真面目、話自体も実は倫理的という指摘があります。
ストーリーの複雑な時制も解きほぐすと因果がストレートだったりします。