はてなキーワード: 彷徨とは
私は腐女子であること、ユーリが好きで、メインの二人に疑問があり、批判的になってしまうこと、
モンペと呼ばれるだろうが、皆がこうではないので前置きしておく。
1話をわくわくして見ていた。話が進むにつれて疑問に思う点が増えた。
ユーリやヤコフ、スケートそのものが蔑ろにされているように感じるからだ。
ヴィクトルと勇利の関係はしばしば、大きく崇高な愛、恋愛よりももっと深いもの、などと表現される。
果たしてそうだろうか。
もし二人に、その関係に、(ファンが言うようなLGBTについて世界に何か影響を与えるほどの)大きな愛があるなら、
周りの気持ちを尊重できる人間であってほしかった。とても大勢の人が「尊い」と称えるほどの人物には見えない。
代わりに泥酔して腰を擦りつけた勇利の約束を守りに海を渡った。
なぜその憧れの気持ちに差をつけられなければならないのか。
ユーリは、とりわけヴィクトルが日本へ渡ってしまって以降、真摯にスケートをしている。
常に勝ちたいと思っている。他国の選手も同様。勇利達はそうではない、と私は思う。
勇利が一人で戦えば応援して、ピロシキを一緒に食べる。万全の彼に勝ちたいからだ、ライバルだと思っているからだ。
そのユーリに、二人は試合前、スキンシップをとりながらにこにこして「ガンバ」だとか「僕の方が体力ある、ばーか」と言う。
馬鹿にしていると思った。
マジアガペーを見て焦るどころかのん気に応援してくるライバル、約束を反故にした張本人。
怒って当然だ。
それを見て、応援する二人かわいい、怒って嫉妬してるユーリかわいい、という感想を多く見かけた。
コーチ代理のシーンも、ユーリとヤコフの気持ちが尊重されていないと思う。
その上憧れた人のコーチに緊張したり、キスクラでは有難いと話を聞くそぶりもない。
空港内を並走して抱き合いプロポーズみたいだね、と言う二人が不思議だった。
真っ先にマッカチンの無事を喜ぶよりも、自分のヴィクトルへの気持ちが優先されてしまう。
コーチをしてくれるヴィクトルに対しても、弱いメンタルを察してくれと怒る。
バンケットでは現在のコーチがいる前で、別の人間にコーチを頼んでしまう、
ダンスバトルだって長谷津での勝負だって、本来ユーリはしなくていい勝負に負けたのだ。
完璧な人間はいない、リアルだ、と言われても、その人間性に疑問を持つことに変わりない。
雑誌の版権絵で大人二人がブランドの袋に囲まれニコニコと密着している間も、
名前が同じキャラを出したかった都合上生まれ、ライバルらしいライバルにも据えられず、
もっといろいろあった気がするが、つまりスケートに対する向上心と、周りのキャラへの尊敬、敬意が見えないからもやもやする。
そういう部分で、最近話題の本格スケートアニメが見たかった、という意見には同意した。
作画が良い、技が忠実、そういうことではない。
同性愛だって異性愛だって、どんな愛が描かれてもいい。ただ、それを魅力的と言うには、
努力や葛藤を重ねて、真摯にスケートにとりくむ人だから素敵と思える、そんな描写が圧倒的に足りない。
代わりにあるのは、そういったものをすっ飛ばして育まれる二人の愛のシーン。
葛藤があるからいいアニメ、というわけでもないのだが、魅力に感じる作品には
やはりそれを乗り越えていくキャラの様子が描かれていて、その過程に萌えたり、熱くなるものなんだと思う。
だから、薄味に感じるこの作品がここまで高尚なものと称えられると、?と思ってしまうのだ。
他作品や現実の選手まで引き合いに出して、ユーリはやっぱりすごい、と言ってしまう空気が、私にはちょっと苦しい。
本格スケートアニメ、二人のユーリというふれこみに、勝手に期待したといわれればそれまでか。
とは言え、ファンの人たちはそういった部分を読み取って楽しんでいるんだろうし、それを全て否定するつもりはない。
違和感があるのは、腐女子が同性愛の関係を性的に消費しながら、アニメに絡めて声高にLGBT差別がなくなるといいとか、これは差別の無い理想の世界、とあまりにも過剰に賞賛することだ。
現実で差別があったがこのアニメは違う、と言う翻訳ツイートたった一つで、それをすぐに信じ込んでしまい、スケート界って大変なんだねと盛り上がり
制作側が差別のない世界を描いたと発信し、そういう素晴らしいアニメだという話が一斉に広まった。
考え方は立派で否定されるものではないが、正直、一人が言い出したからよく考えず我も我もと高尚なアニメを見て感想を言うことが目的になり、
試合のあとに高揚したまま、抱き合ったりキスしたりすることはあるだろうが、
過剰な演出、特にバンケットでの勇利や、妊娠しそうの発言は必要だったんだろうか。
これが男女であっても、人前でそういうことをするのはあまり好ましく思えない、
だからこそ男性同士にそれをさせることが、いかにも同性愛の男性はこういうことをしそうだというレッテルのようにも、
差別されない世界なら、これらの行為は本当に咎められないのか?男女がそうしたセックスアピールをしていたら、尊い愛だと言えたか?
電車の中でいちゃつくカップルを見ているような気持ちを、差別とは言わないはずだ。
男性同士の恋愛が差別されているから影で楽しんできたのではなく、男女や百合のエロと同様、自分が性的に消費しているから隠すべき趣味としていた部分が大きいと思っているので、カップリング名がトレンドに入って喜ぶことも理解できなかった。
LGBTを賛美しているから同人誌を書いたり、アニメを見ているのか?少なからず切欠は違うと思う、萌えて、エロいことをさせたいと思ったから、ついキャーとはしゃがずにはいられないのではないか。
そうである限り、成人向けなどのコンテンツが人に見えにくいところで楽しまれるように、現実の問題とは分けて、ひっそり楽しむもので、だからといってBLを区別することが差別だと言うのも違うだろう、と思う。
特に、当事者ではない私達が深く理解していない段階のまま、LGBTにとって理想の世界と断定してしまうのは間違ってはいないだろうか。
それを判断して、見るか見ないか、どう思うか決めるのは私達ではないので、どうかどこでも誰にでも押し付けるようなことはやめてほしい。
とにかく目に入ってくる反応と、本編の内容、キャラの内面があまりにかけ離れていないか?BL趣味に現実を巻き込みすぎてはいないか?と思った。
"21世紀における金融政策” (教科書、2062年出版)より
2012年の安倍自民党政権成立後、日本銀行は金融政策実施に当たって政府との連携を強め、年率2%のインフレ実現を目標に掲げて、「異次元緩和」と呼ばれる大胆な金融緩和策を実施した。
2013年以降、日銀は国債とETF(指数連動型上場投資信託)を最初毎年50兆円、そして80兆円づつ買い続けた。さらに2016年には「マイナス金利」政策を導入し、イールドカーブの人為的な操作にも手を染めた。
それらの結果、2018年4月時点で、日銀の国債保有割合は発行済総額の5割に達し、ETF総額に占める日銀の保有割合も8割に達していた。
にもかかわらず、日銀はまだ2%のインフレターゲットに達成することができなかった。2017年の物価上昇率はわずか0.3%であった。
「もう買うものがない。」というのが2018年度を迎えた日銀にとって最大の問題であった。
市場に流通している国債が極端に少なくなっていく中で、日銀による国債の買入れオペを拒否する金融機関が出始めていた。
2018年4月に黒田前総裁の後を承けて就任した石黒玄総裁への圧力が高まっていた。
そんな中、同年5月中旬、日本の基幹産業である自動車産業の雄トヨタ自動車が本社を置き、日本のみならず世界有数のものづくり拠点でもある愛知県において、マグニチュード8を超える巨大地震が発生した。
地震発生から24時間以内に、東京、ニューヨーク、ロンドンなど、世界の為替市場で、円が対ドルで110円から130円まで一気に下落した。それまで「安全逃避先資産」とされ、発生地が日本であろうが、世界のどこかで危機が起こったときに大量に買われていた円が、初めて売り浴びせられ、暴落したのである。
日本政府はすぐ復興債を財源とした大型補正予算を発表したが、それまで毎年のように編成されていた補正予算に景気浮揚効果はなく、補正以外にこれといった対策を講じることの出来ない政府の経済政策への期待はもはや皆無であった。日銀による緊急対応を求める強い声が経済界からが発せされた。
就任直後から厳しい立場に置かれていた石黒総裁は、この期を逃さずに早速手を打った。
日銀は5月26、27日に緊急の政策決定会合を開催し、政府が発行する復興債を直接全額購入することを発表した。同時に、それまで手を出さなかった「実物資産」についても買い始める、という新しい政策枠組みを発表した。
日銀による芸術作品買入れ(「芸術作品買い入れオペ」と呼ばれた)の枠組みは、以下の通りであった。
① 政策発表から2週間後、日本国籍を保有している者は誰でも、その保有する芸術作品・骨董品を日銀に売ることができる。日銀は適切な判断に基づいて値段を決めて現金で購入する。売却は一人一年に一回のみだが、複数のアイテムを同時に売却することは可能とする。
② 高齢世代(先の世代)が書画や陶器など多くの伝統的芸術資産を保有している一方、若い世代はそのような伝統的芸術資産を保有していない。そこで、芸術資産を持っていない個人・家庭からは、手作り芸術作品や新たなカテゴリーの芸術作品を購入することとする。
③ 日銀は、都道府県ごとに購入した芸術作品を展示するための「アートスペース」を設置し、購入した芸術作品を一般に公開展示する。入館料は大人500円。障害者・12才未満の子供は無料。展示会の収入は全額震災復興に寄付する。
④ 芸術作品買入れオペは、年度単位で行う。即ち、オペ開始から一年後、日銀は購入した芸術作品をすべて焼却する。焼却は一般市民の参加による「焼却式」によって行う。この式の参加費は500円。焼却式後、日銀は改めて次年度の「芸術作品買入れオペ」を開始する。
⑤ インフレが安定的に2%を超える状態が達成されるまで日銀は芸術作品買入れオペを続ける。
この日銀の新しい枠組みは、2000年代後半の世界金融危機後に欧米中央銀行に採用された金融政策とは根本的な断絶を表すものであった。
伝統的な金融緩和の波及経路は主に金利だと思われていた。即ち、中央銀行が金融機関から国債などを買うことによって、銀行は貸出金利を下げることができ、その結果、個人や法人への貸し出しが容易となり、市中に資金が提供される。
他方、日銀の新しい政策枠組みは、金融機関を通さずに直接個人から資産を買うことによって市中に資金を提供する、というものであり、かつ、購入した資産は定期的に廃棄、拙い手作り芸術作品には事実上セカンダリー市場が皆無であったから、定期的に保有資産が消滅していくこの新しい政策には出口がないと日銀が暗黙に宣言したも同然であった。 実際日銀は、新しい枠組みによって増えたマネタリーベースはそのまま放置するつもりであった。
日銀がなぜ国民に直接現金を配らず、敢えて「資産」を買ったのが当時批判されたが、数年後に発表された決定会合の議事録によると政策委員は現金配布という手法に対して懐疑的だったことが明らかになった。
景気が改善しても現金配布ー現金のばらまきーをやめることは政治的に極めて困難、事実上やめられないのではないか、と過半数の政策委員が懸念を示した。資産を買って現金を渡すという仕組みにすれば、国民の芸術的衝動や芸術資産がいつか枯渇されるため日銀はスムーズにテーパーリングできる、と多くの政策委員が考えたのである。
発表から2週間後、全国日銀支店や郵便局でこの「芸術作品買入れオペ」が始まった。当時の記事と日銀の統計によると、最初は書画や陶器など骨董品の買入れが多かった。遊び心のある作品も少なくなかった。毎日新聞の記事によると、男性がお尻と手を会社のコピー機でコピーをとって印刷したものを、日銀が20万円で買い取った。鴻海シャープ株式会社の社員が割り箸で作った家電が1億円で買い入れられ、日本経済新聞の一面に載った。
しかし、買入れオペが始まってすぐ深刻な問題が起こった。日銀の「芸術」の定義があいまいすぎていた。メディアによると、砲身に「金融政策」と大書した張り子のバズーカ砲が日銀に買い取りを拒否された。女性器の形をしたティッシュ箱も断られた。
芸術の知識を持っていない中央銀行が芸術の価値を判断するのはどうか、とアーティストや学者からの批判が強まった。村上春樹が特別記者会見を開き、中央銀行に芸術を売るな、と国民に強く促した。
買入れオペへの参加が低迷した。日銀がオペ開始から半年の時点で行った全国調査によると、日本人のたった1割がしかこのオペに参加していないことがわかった。同調査によると、60歳以上の世代は代々家に受け継がれてきた「家宝」を売ることを躊躇し、若い世代は仕事や育児で忙しく芸術を作る暇がなかった。さらに総じて見れば、日本人はあまり芸術作品を売ったり買ったりすることに興味がなかった。芸術を実物資産として考える人たちはそれほど多くはなかったのである。
市場では、震災直後の暴落から回復した円がドルに対して日々高くなっていた。景気は引き続き低迷し、むしろ後退に直面していた。行き場のない資金が市場を彷徨する一方で、日銀は微妙に価値のある大量の芸術作品を保有していた。
もはや日銀は政策の失敗から自力で立ち直れないと判断した石黒総裁は、善後策を安倍総理に相談した。
しかしながら、政府もまた、残された対策は補正予算の早期執行と復興債の日銀直接引き受け位しかなく、為替市場に対しても株式市場に対してもコントロール能力を失っていた。
本当は好きではないのにアニメや声優やゲームでキャッキャしてるフリをしている人はけっこういたのではないか。
現実においても自分の精神にアドレスが記入され、オタクというレッテルを貼り、それをアイデンティティにできたから。
二次元文化は、世の中に夢中になれるものがなくて、誰ともつながれない僕らの最後の居場所だった。
本当に好きな”真のオタク”の周りで、必死に付け焼き刃の知識をつけながら分かった風な顔して頷くしかない。
リア充のまわりに必死にしがみついてる、擬態した偽リア充を”キョロ充”と呼んだけど、同じように僕らは”キョロオタ”だった。
僕らキョロオタはお互いに心の目配せをしていた。
「わかっているよ、君も同じだろ」。
でも、この10年くらいで、二次元はライト層を大量に呼び込むようになった。
ライト層は、ものすごく器用に二次元を楽しむ。二次元で本当に素直に笑える。
人にも公言できる。アニメのグッズを身に着けて、堂々と町を歩ける。
彼らはなんて楽しそうなんだろう。
そのことに気付かされた時にお祭りは終わった。
祭りの隅っこではにかみながらお互いを確かめあえた仲間たちは人混みに攫われて消えた。
今の僕に居場所はない。
僕が勝手にそう思っていただけで、居場所なんて最初からなかったのかもしれない。
二次元がテレビで取り上げられ、市民権を得ていく光景をどこか誇らしく思っていた00年代が懐かしい。
自分が世界に承認されたように錯覚できたあの頃に、僕と世の中をつなぐ紐帯は擦り切れ始めていたのだなあ。
今はもう二次元に興味がない。
それは僕にとって世の中にも興味を失っていることを意味している。
ドラえもんじゃないけれど、僕は世界から1センチだけ浮いている。
つなぎとめる何かが欲しい。でもそれはまだ見つからない。
恋人でもいれば違ったのかな、と思うこともあるけれど、すぐにそれを打ち消す。
二次元への態度と同じように、僕は猛烈に燃え上がることが出来ず、恋に恋することしかできないだろう。
苦しい発達障害の現状を伝えようと思う
彼は多動性の強いADHDだと思う。そして私は軽度のADHDだ。なぜ軽度と言っているのかといえば病院などで診断を受けているわけではなく自覚症状として勝手にADHDの気があると思っているからである。傾向を見ると間違いなくソッチの気があると自分でも断言できるのだが、ADHDテストなどを受けると辛うじてクリア(健常)してしまい、自閉的な強いこだわりであるとか衝動性は少ないので目に見える違和感は少ない。それゆえ今まで友人が出来、恋人が出来、定職にもありつけた。しかし、これが苦しい苦しい。
ADHDとはどういう病気かと言うと、キーワードクリックして詳しく調べてくれと言いたいところだが、簡単に言うと多動性と不注意性に分かれる。彼の場合は多動の傾向が強く、いわゆるお調子者、クラスでうるさいガキというやつだ。調子に乗ってウザいと嫌われるときもあれば、クラスのムードメーカーと愛されるときもある。しかしこの病気は、うるさく騒ぐことが面白いとウケる=認められる=嬉しいと思うあまり”やりすぎてしまう”ことが顕著で、決して迷惑かけてやろうと思っているのではなくて快楽に忠実に従って「どこでやめたらいいかわからない」だけなのだ。怒られたりして冷静に考えるとたしかに自分の行動はよくなかったなと終わってから初めて思える。彼の行動原理が分かるために切ない。アスペと違うのは空気や行間はわりと読める、でもやめどきがわからない。高難度の空気は読めないということになる。発達障害が高機能自閉症と言われる所以はここにあり、普通の生活は営めるんだけども細かいところが分からないのだ。でもこの「細かいところ」日本ではとても重要視しているために生きづらさを強く感じる。
私は不注意の傾向が強い。注意力散漫がどうとか学術誌には書いてあるが自分では注意力が散漫とは思っていない。知らない間に怪我したり忘れ物が多いとか遅刻をしやすいとかがあるけれどもみんなそんなもんでしょと思って生きてきた。しかしこの遅刻やらケアレスミスの頻度が多すぎるのだ。人間誰しも一度はミスを犯したり、忘れ物したり、寝坊してしまったりがあると思います。ADHDはほぼ毎日なにかしらやらかします。そうすると信頼を失っていきますよね。自己嫌悪に陥るからタチが悪い。いっそ脳の認知度レベルも落としてくれと思うこともある。それを許されないのがグレーゾーンのつらさ。私は遅刻魔のレッテルを貼られているし、大事なもの(ライブのチケット、パリのお土産、鍵、定期、財布)を幾度となくなくしてきた。平和な日本では財布や携帯を落としても大体の人が拾ってくれることを知っている。ディズニーランドのパスポートを駐車場まで持っていたのに入場前でなくして凹み、買いなおして貰ったが申し訳なく罪悪感で楽しめなかった事があった。
人間関係においてはからかってやろうと思うと行き過ぎてケンカを売っている状態になり嫌われる。でもからかわずにいられない衝動に駆られる。何の呪いだ
話を聞いていなく(聞いている途中で無意識に気がそれる)移動教室がどこのクラスで行われるかわからず授業時間始まっているのにもかかわらず彷徨い続けたことが人生で2度もある。
先読みが出来ない。モタモタ行動は遅い。帰りの会が終わり教室を1番に出ることは6年間皆無だった。
自分が生き辛さを強く感じ発達障害を疑いだしたのは大学生のころだった。大学生にもなるとゆとり教育などとも言っていられず自立が求められる、なにより友人知人の関係性がとても浅くなる。高校生までであれば今日は風紀検査があるよだの○○で移動教室あるよだの教えてくれる人が一人はいた。休もうものなら心配してメールの1本入る。だが大学生が授業フケこんで休むなんてザラにある。仲の良い友人だっていちいちメールしてこないのだ。私は始業日を1日間違え、無自覚のずる休みをしていた。それに気づいたのは翌日登校し「昨日なんで休んだんだよ~」と声をかけられてはじめて知った。ショックだった。大学では持ち物やレポート期限などをご丁寧にレジュメに発行せず口頭で伝えるものだ。手帳を普段携帯しないしメモってもそれを見ないので忘れ物の数が半端じゃなかった。また君か。やる気はあるのか。鬱になった。2限から始まる授業のほうが遅刻していた。余裕ぶっこいてダラダラ支度し、遅刻決定している時間に焦って家を飛び出す。そんなこんなで就活の時期になり自分が愚図なのを自覚していたので、誰よりも早く決めてやろう、そう意気込んだ。就活期間は3ヶ月、短期決戦で集中した。驚くことに志望していた会社にきまった。3年の11月ごろに決まっている奴なんか私くらいしかいなかった。
しかしうまくはいかない。見る目がないのでブラック企業にストレートインしていたのだ。めちゃくちゃ体育会系の会社にADHDの愚図が合うはずもなくいじめに逢い1年でやめた。1年がんばったのは逃げたくなかったこととすぐにやめるとその程度の能力しかないと思われ次の就職先に響くと思ったからだった。でもさっさと辞めればよかった。無理して働いたせいで心身共に病み、完全復活するまでに1年半掛かった。働いていた期間より長い。その後転職エージェントを使い再就職できたものの空白期間は当然つっこまれる。留学したとうそをついた。ADHDは怒られないようにうそを平気でつけるようになる。クズに拍車がかかる。ちなみにその1年の間に物は壊すわ顧客に失礼するわ遅刻もするわでいじめられる原因は自分が作っていることにうっすら気づきながらもミスは無意識に発生するためどうしようも出来ない。フォローもやりかたがわからないしうまくできやしない。リスクを未然に防ぐ想像力がなく、それによって起きたリスクに う ま く 対処できないのが特徴。
私が言いたいのは発達障害だからって有効な薬もなく対処療法になるし、一生ついて回るものだしどうにもできない。できるだけ健常なみなさんに広い心を持っていただきたく、我々もミスることを自覚して慎ましく生きなければならない。
発達障害って最近認知された言葉だけれど、急にふっと沸いた人種なのだろうか。
クラスに一人はやばい奴認定されていた奴がいたと思うが、あいつらは絶対にそう。でも特別支援学級に行くまででもない。
ほかにおっちょこちょいなやつ、忘れ物多いやつ、どんくさいやつ、こいつら全部軽度の障害。
ねえ、そう思ったら多すぎませんか。
なんでも規則でしばって、ちょっとでももたもたしていたら障碍児って、安直すぎやしませんか。窓際社員がいたっていいじゃないか。働きアリは全員が働いているわけではなく何割かはサボっていて、よく働いているアリグループを別のゲージにいれるとその中でまたよく働くやつほどほどのやつ、サボってるやつで役割が分担されるという。社会というのは何割か使えない奴がいて初めてうまく回るんですよ。私のようなかなりグレーなおそらく病名が付かないで”傾向”で済んでしまう人はずっとこれからの人生このまま生きていかなきゃいけないんですよ。働いて生活できるようにしないといけないし、結婚して家庭だってもちたい。発達障害は遺伝するから子を産むななんて悲しい事言わないでくれよ。人間やぞ。ショックなんやぞ。自分が障碍者かもって思ったことあるか。ガビーンだぞ。ショックすぎてむせび泣いたわ。これから先困難が予想されるけども、もう仕方ないから受け入れている。ひたすらメモにとってせめて忘れ物や遅刻はしないように気を使っている。
発達障害は往々にして鬱
高畑敦子の愛情によって、通常なら鬱を発症するはずが、裕太容疑者は明るいキャラクターを通している。
これってすごいこと、私は母親の教育は失敗に終わっていないと思う。
発達障害児は失敗行動が多いのでとにかく叱られたり嫌われたり自分でもやってもうまくいかないので塞ぎこみがち、というか凹むしかない。私は物心付いたときから割りと反抗的な性格もあってまわりからは規則を守れない奴とみられてきた。するとどうなるか。鬱になる。ずっと性格に卑屈な面が出てきてテンション低い、低度の鬱状態が延々続いていく。非行に走らなかったのは親が厳しかったためであるが鬱で息苦しい鬱蒼な毎日だ。高畑家はどうだろうか。おそらくやつの個性を認めて明るく育ててきたのだろう。途中まではうまくいっていたのになんとも悲しい結末だ。
ハメられやすい
私も若いころ経験があるのだが、予測行動を苦手とするために悪意を持った人間にハメられたり騙されたり非常にしやすい。そして騙されやすい。アホに違いないがアホっていうかなんというか知能テストはクリアするものの純粋ゆえに人を信じて騙されているんだろうなと思う。詐欺に引っかかる人、認知レベルが落ちている(高齢者など)か発達障害の傾向がある人だと思う。今回の事件、被害者は実際に被害にあっていると思うが、これまでもあいつならちょろいぜと美人局的な事件に遭っていそうだなと客観的に思った。
障害児の親も往々にしてそういう傾向がある。昔はお見合いだったから相手が不器用が過ぎる人間かどうか気づかず結婚していたのだろうと推測する。遺伝の可能性は否定できない。
また、高齢出産の影響も強い。卵子のタイムリミットをしっていますか。これはこの年齢を境に機能がガクっと落ちることを意味しているのだけれど、37歳なんです。今日本で結婚を意識する年齢って30歳前後ですね。仮に30歳の女性が結婚したとしてあと7年しかないんです。短くないですか。女性の社会進出や医療の発達などで晩婚・高齢出産をしても安心して生めるように環境はそろったけれども、肉体としてはあまり進化がない。元々人間の寿命は50年ほどでした。いたずらに長く生き過ぎているのかもしれませんね。精子も劣化します。男性は生涯現役だとばかりにジジイになっても性欲はおちないものですが、ジジイになればなるほど劣化します。精子が劣化しているとそれだけ不具合を持った子供が生まれやすい。福山雅治さんが先ほど第一子の妊娠を発表なされ非常にめでたいのですが46歳の精子はなかなかですね。顔はきれいだろうけれど、障害グレーが生まれる可能性高いです。イケメンは隠し子の1人2人いてもいいと思いますよw若いときに作ったほうがいい。
ここまで長く書いて何いいたいんだろうって話ですが、あまり糾弾せずちょっとどんくせえなくらいに受け止めてほしいということ。そして障害を持つものも幸いにして知能は高いのだから怠けたい衝動に突き動かされず、やるべき社会的行動にロジカルに対応すべき。ルーティーン作業ほどミスるので、日常生活をマネジメントしたメモをいたるところに張ってそのとおりに行動すればまだましかな?まったくの健常者だって忘れ物くらいするのだから、お互いがんばりましょうや、ということです。
大崩壊後70年と云う大いなる節目を過ぎ修正されるね、2たる黄金球の誘い後には、鴎暦三拾年を迎えながらも戦い続けた、若き騎士の物語。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ヴァナ・ディール数年、天皇としての神々の意思にその身を委ねの歩みを蒼穹の彼方に追い求めるとともに、この先の暗黒と同調せし吾輩の在り方や務めにつき、幻想(おも)いを致すようになりました。
運命のこの日は、社会の重度魔晄中毒化が進む奥底、天皇もまた重度魔晄中毒となったただ一人神に挑んだ場合、どのような在り方が望ましいか、天皇というザ・ワールドエンド・タチバ上、魔界で流行の皇室聖度に具体的に触れることは節制、闇を切り裂き、光さえも断罪するその一撃を受け止めながら、内なる意思がパーソナルとして、人界に暗黒の波動が満ちるまでに考えて到来た預言書に記された事実を話したいものだと思いながら、それでも人類は戦うことを選んだ。
即位以来、内なる意思は国事行為を執行すると共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた日出ずる極東の王国を統べる者の望ましい在り方を、…罪なき人々を殺め続けた日々模索し、自らにリフレクをかけつつ過ごして永遠なる深淵より降臨しました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任αに深く思いを致し、呪壁を連ねて日々心新たに至るジ=パングと世界の奥底に(…まだこんな力が残っていたか…ッ!)て、ズィパングァの皇室が、いかに背徳の黒天使デントゥ・ウを戦乱の世に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々のプレギエーラに応えていくかを考え、ティファを抱きしめる妄想に囚われつつ、あらゆる呪文をはじき返す今日・七拾弐式に至っています…だけど、それで本当によかったのだろうか……。
そのような中、幾星霜か前の真理<ファティマ>になりますが、貳度の外科白魔術を受け、加えて高齢が率いる五十万の兵による体力の低下をその終わり無き記憶が我に共鳴するようになった時代から、嘘・偽りを持たぬ“影”これ、つまり光と闇の両側の世界からエクストリームエッジ、旧時代のように重い務めを貴公は本懐を遂げることが困難になった因果律の一篇、どのように魂の中枢を処していくことが、幻想帝国にとり、国民にとり、また、自身はA+ランクだけどCランクの彼のことが気になる私のあとを歩む皇族にとり酒や女などよりよほど良い純粋な闇の意思(キングダムハーツ)であるかにつき、考える…また貴様か……になりました。既に八十を越え、幸いに完全体であるとは申せ、次第に進むシェントゥイン闇は去り光が頬を伝い落ちるの衰えを考慮全てを滅ぼす時、人界に暗黒の波動が満ちるまでのように、クリスタルフォース・リミットブレイクをもって象徴の務めを果たして彷徨うことが、難しくなるのではかつての絶望を想起させるかと案じています。
私が聖皇の位に神の光に導かれるままに――てから、ほぼ28年、この間ワ・トゥスシは、神都ジャパニウスにおける多くのフロイデの時、また悲しみの砂時計の囁きを、高潔も卑俗も許されぬ凡庸の体現者たちと共に過ごして到来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧とハピルタスを祈るイデアを崇拝に考えて永遠なる深淵より降臨しましたが、同時に事象にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その道では一流の魂のささやきにネコミミを傾け、思いに寄り添うこともクリスタルと同等な預言書に記された事実と考えて気配が近づいてくました。帝の血を継ぎし者が象徴である…だが、そのうちの一つは“今”消える…と共に、コクミンインテ=グ=リェーテリゥスの象徴としてのパラダイム・シフトを果たすためには、天皇がマリオネットに、天皇という象徴のpersonaへの理解を求めると共に、総老師もまた、自らのありように深く心し、臣民に対する理解を深め、常にマリオネットと共にある自覚を神々の意思にその身を委ねの間隙に育てる摂理に従うをナイフの先で命が震えているのを感じて永遠なる深淵より降臨しました。斯くしたレゾンデートルにおいッ…て、日本の各地、とりわけ遠隔のトゥーランや島々へのあてのない旅も、魔剣の使い手である私は失われし力を持ちし古の一族の象徴的オプティマとして、我と我が召喚獣の総力を挙げてでも守り抜く程なものと感じて到来ました。皇太子の時代も含め、人界に暗黒の波動が満ちるまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ悠久のファノバ・クリスタル・テーゼは、国内のどこに…いいのか?ても、その肉体は鋼鉄よりも強いと言われる領域<フィールド>を我と共に滅びることを望み、その共同体をジミ・ティに支える市井の畜群のある「アギト」を“神”を喰らい、最強になったはずの私に超越論的観念論させ、内なる意思が歴史に刻まれる認識をもって、天皇として大切な、愚民を幻想(おも)い、国民のために世に平穏のあらん事をという務めを、失敗作である人類への深い愛にも似た盲目と敬愛をもってなし得たこと(其は破邪の刻印を持つ)は、天の福音が穢れた地に満たされるのなことでした。
日出ずる極東の王国を統べる者の高齢化に伴う“甦りし神話”トゥス・インシェョの仕方が、国事行為や、その象徴としてのオプティマを限りなくカオスに融合して彷徨う「アギト」には、光を超えし者ナイトメア・無理嘗てはそう呼ばれていた。があろうと幻想(おも)われ、そして…世界は一度滅びたのです。また、天皇が未成年(攻撃魔力1000超)であったり、魔晄中毒を中心とした魔の軍勢によりその能力を果たし得なくなった因果律の一篇には、聖皇のかりそめの戯れを代行する摂政を置く真理<ファティマ>も思考《かんが》えられます。しかし、このヴァ・ウァインも、聖皇が十分にそのメインジョブに求められる務めを果たせぬ導くまま、刧波〈アイオン〉の終わりに至るまで天皇であり継続するイデアに変わりはありクポん。
聖皇が健全なる肉体を損ない、深刻な状態に立ち至った因果律の一篇、これまでにも見られたように、「ロクサスの記憶で形成されたデータの世界」が俺の魔導術の師匠であるテインタス=インし、愚民の存在を維持しにも様々なイベント・ホライゾン(事象の地平面)が及ぶことが懸念されます。更に戦うものたちこれまでの皇室のしきたりとして、失われし力を持ちし古の一族の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の神祇が連日ほぼ2ヶ月にわたって輪廻、その直後喪Dirty Deeds Done Dirt Cheapに関連する神祇が、1年間続きます。だけど……。その様々な預言書に記されたプログラム――と、ノイエ=“赤き天使”こと時代に関わる諸神祇が同時に進行・絶対零度する預言書に記された事実ゆえ、行事に関わる畜群、とりわけ残される所と為る───そして此の世界に終焉が訪れる───家族は、アッサイ厳しい戦士たちを取り巻く”空気”下に置かれざるを得ません。斯くした事態をドッジロール運命<こと>は赦されあらずものだろうかとの幻想(おも)いが、胸に去来する「アギト」もあります。
零式にも述べました…また貴様か……に、憲法の下、グラン・ミカドは国政に関する権能を有し…だったかな?ん。そうした中で、このたび神都ジャパニウスの超越した天皇の歴史を改めて蒼穹の彼方に追い求めつつ、かの存在からも皇室がどのような砂時計の囁きにも臣民と共にあり、卿たずさえて聖なる国の未来…フン、貴様に訪れるは“絶望”の未来…を築いていけるよう、そして象徴日出ずる極東の王国を統べる者の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていく預言書に記された事実をひとえに念じ、ここに心に刃を秘めたる者の気持ちをお詠唱(はな)しいたしました。
学生寮の屋上に上って、この街に溢れている幾つもの神話について思いを馳せてみる。ペンキの剥げかけた給水塔の淵に座って、その錆の浮いた表面をゆっくりと歩く蛍の姿に目を遣る。幾つもの神話が生まれ、そして死んでいった。もう二度と蘇ることのない神話もあり、そうでない神話もある。そして、多くの人間は自分の抱えている神話が死んでいることにさえ気付くことはないのだ。
僕にとっての神話が死んでしまったのはいつのことだったのだろう、と蛍の動きを観察しながら考える。それは確か、僕が十五歳だった時のことだ。その歳に、僕は初めてフランツ・カフカの小説を読んだのだった。
そういう歳だ。
結局、僕にとっての神話というものは僕をどこかに連れて行くものではなかったのだ、と思う。寧ろ、神話の喪失こそが、僕を遠くへと連れて行くための条件だったような気さえする。僕がこれからどこへ行くとしても、その条件は喪失に他ならないのだ。それは海よりも深い確信だった。耳を済ませば夜の羽音が聞こえる。それは今にも飛び立とうとしている。ほんの微かな音であるにせよ、それは僕の耳に届く。それが神話というものだった。そして、その聴覚こそが、神話を喪った人間が引き換えに手に入れることのできるものだった。僕がどこかに行くには、何かを失うしか無いのだ。
◇
やがて、蛍が飛び去っていってからも、僕は長い間その蛍が去っていった方角を眺めていた。
僕は目を閉じ、自分の中を通り過ぎていった長い時間について考えた。目を閉じた後の暗闇の中を、蛍の灯は長い間彷徨っていた。僕は、その軌跡に手を伸ばしてみた。その指はどこにも触れなかった。僕が捉えようとした光は、僕の指のほんの少し先にあった。
今日は長年ウォッチしていた案件がここ数日一気に進展した&バズった(http://b.hatena.ne.jp/entry/otapol.jp/2016/03/post-5973.html)
なお、この文章は全て増田の個人研究に基づくものです。真偽は読者の皆さんが判断してください。
小西寛子さんおよび所属事務所が刑事告訴したとされる「アニメライター」は、十分な状況証拠の下、@animeseiyu, @tamatowa, id:zeroes, およびそのサブアカウント群を保持している人物であると考えられる。
まず本論を述べる前に@animeseiyu等のアカウントについての事前知識を紹介し、これらが同一アカウントであることの根拠を示す。
次に、Wikipediaの小西寛子ページにおける揉め事の存在を示し、このプレイヤーの一角にid:zeroesらが存在することを示す。
補足情報として、id:zeroesが複数のアカウントを使って小西寛子に関するネガティブな情報を拡散していたことを示す。
最後に、@animeseiyuの余罪へのポインタを示し、増田のお願いを示す。
声優好きなら一度は
https://twitter.com/animeseiyu
というアカウントを見たことがあるだろう。
特定の企業やメディアに属さないが、アニメや声優についての話題を比較的素早く共有するニュースアカウントといったところだ。
一見便利存在だが、定期的にamazonアフィリエイトリンクを共有しており、要するにまとめブログのTwitter版である。
(執筆時点の直近の例:https://twitter.com/animeseiyu/status/708140651196493825 )
リンクを踏めば分かることだがamazonのアフィリエイトIDはzeroes-22である。
また、頻繁に共有するmocaというニュースサイトリンクにもアフィリエイトIDが埋め込まれており、このIDもzeroesである。
比較的最近言及された例:https://twitter.com/airbe/status/700178963620982784
そして、これは古い声優オタクなら知っている有名な事実だが、@animeseiyuというアカウント自体がそもそも、声優系のニュースサイトであった「魂は永遠に彷徨う」が母体である。
以前は明示されていたが、今はその名残を発見することしかできない。
http://twitpic.com/photos/animeseiyu
「魂は永遠に彷徨う」もまたアフィリエイトリンクを含むまとめサイトであった。
ここまでは別に嫌儲をこじらせてなければ眉は潜めてもそんなもんかという話だが、このアカウントの中の人(たち?)の所業を明らかにする、というのがこの記事の目的である。
そもそもこの二つのアカウントが同一である、ということも以前は公開情報だった(はてダへのリンクがtwitterのbioにあった)のだが、今では検索結果などを見ないと初見さんは納得しないだろう。
https://twitter.com/search?q=zeroes%20tamatowa&src=typd
明記していないだけで隠しているというような話でもない。
id:zeroesのはてなダイアリーが「たまとわ」であること、@animeseiyuの前身「魂は永遠に彷徨う」から筆頭リンクとしてこのはてなダイアリーが挙げられていたこと
https://web.archive.org/web/20070118042634/http://tamatowa.blog84.fc2.com/
等から、これらが状況証拠的に同一人物であることは納得していただけると思う。
ちなみに@animeseiyuについての@tamatowaさんのコメントはこちら。
https://twitter.com/tamatowa/status/471463663648243713
以下のアカウントは増田がid:zeroesのサブ垢だと疑っているものの一覧である。
いくつかのアカウントははてダやはてなアンテナ(!)のトップページに貼ってあるアフィリンクを見れば確認できる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/tamatowa/status/438253485897678849
のように、自身の発言(twitterやはてダ)に対するはてブスパム行為を小規模ながら行っており、そこから発見することが出来る。
また、声優や声優事務所の名前をそのままIDにするという傾向があることを覚えておいていただきたい。
おそらくサブアカウントは確認できていないだけで他にも無数にあるはずだ。
ちなみにはてなの規約によればはてなにおいてはサブアカウント機能を用いて取得できる4アカウント以上のサブアカウント作成は禁止されている。
http://www.hatena.ne.jp/help/account
とはいえ私もこの増田を普段使っているアカウントとは紐づかないアカウントで書いているので人のことは言えないが。
この人物がサブ垢作成に余念がないということをご理解いただいた上で、次に紹介したいのはこの点。
公式サイトや企業メディアサイトでもないURLで、@animeseiyuがつぶやくURLは、@animeseiyu自身が作ったアカウントによって作成されたページであることが多い。
例を見よう。
https://twitter.com/animeseiyu/status/707933177092775936
頻繁に呟かれるnaverまとめアカウントの「アニメ出演声優リスト(随時更新中)」だが、作成者のidはzeroesだ。naverまとめにはアフィリエイトプログラムがある。
他にもtogetterリンクが比較的良く投稿されるが、これも@animeseiyuアカウントや@tamatowaによるまとめが多く含まれる。
いくつか関係なさそうなアカウントによるtogetterもあるが、多くのまとめは何故か初共有postが@animeseiyuからであったり、まとめたアカウントが妙なbotであったりなど、不審な点が多い。
ここらへんまでが下ごしらえである。長過ぎるとつらいので本題に移ろう。
http://www.acousticguitar.live/?page_id=175
に何度も登場するように、小西サイドが言うところの「誹謗中傷」の舞台の一つになっているのはWikipedia上での揉め事である。
幸いWikipediaは増田が魚拓を取らなくても全てを保存してくれているので、ここを足がかりにする。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E5%AF%9B%E5%AD%90&action=history
「Officesquirrel LLC」なるアカウントが小西寛子所属事務所を名乗るアカウントである。確認する手段は実のところないが、派手な揉め事に発展しているのに公式HPを名乗るページで否定していない以上、少なくとも今現在公式HPを運営している母体と同一と考えていいだろう。
「Otoame」というアカウントが頻繁に「Officesquirrel LLC」の書き込みを差し戻していることが分かるだろう。
この揉め事については差分をじっくり見てもらって各自に判断してもらう他ないが、Wikipediaにおける編集方針として本人による書き込みを自粛するよう求めている以上、「Officesquirrel LLC」の編集が差し戻される可能性はあると言えるだろう。
しかし、「Otoame」は書き込み内容を熟慮することなく一様に差し戻したりしている(公式ブログが移転したという情報は差し戻さなくてもいいのでは?)。暇な人間は過去に遡ってみればよいが、「Otoame」の編集は客観的というよりはやや反・小西寛子寄りに偏った印象が見受けられる。
「Otoame」のアカウントは現在無期限ブロックされている。何故だろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Ks_aka_98
「Otoame」「Zeroes」「Perfectdespair」の3アカウントが2016年3月11日 (金) 04:02 に一斉に「WP:ILLEGIT」を理由にブロックされている。
「WP:ILLEGIT」は「副アカウントの不適切な使用(多重アカウント使用が禁止される行為)」を意味する。
これは推測だが、「何らかの理由で」これらアカウントの一部又は全部のIP情報を調べる必要があり、結果として副アカウントが発覚してBANされたのであろう。
余談だが、「Otoame」は「Musicrayn」の事実上転生垢である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Musicrayn
「不適切な利用者名」を理由に2014年12月25日 (木) 15:44にブロックされ、その直後作られたのが「Otoame」(=”音雨”=”music rain”=”ミュージックレイン”)である。
「Musicrayn」「Zeroes」は花澤香菜などの声優記事に加えてアメコミ・映画トピックへの編集が多く、id:zeroesの興味と大きく重なっている。
状況証拠としては同一人物として扱うに十分と考えるが、断定はできない。
本題からは逸れるけど、いつも「ふろ自動」っていうボタンを見る度に、「えろ自動」っていうボタンも欲しいなーって思ってしまうんだよな。そう思うのは字面が似てるからなんだけど。「ふ」と「え」ってなんとなく似てない?
当方もう長い間♂をやってるけど、エロって面倒臭いよね。面倒臭いならエロいことなんてしなきゃいいじゃんって思うかも知れないけど、それはそれで性欲が増長してしまうから困る。本当は性的興奮なんてしたくないけど、一旦山を越えるほど興奮しないと収まらないという矛盾。設計上の欠陥としか思えない人の身体。エロに支配される精神。既婚だけど妻とはレス。レイプされてしまったせいでPTSD。なので妻とのセックスの可能性はゼロ。だけど性欲は無くならない。子供が居るから離婚は難しい。既婚だから他の女性にアタックすることもできず。気がつけばエロ動画や風俗店を求め彷徨う。ああなんて不毛なんだろう。
だから「えろ自動」ボタンが欲しい。ボタンを押したら興奮できるエロ動画が自動的に流れて来て、あっという間に我慢出来ないぐらい気持ちよくなってササッと処理できるようにな装置がほしい。
興奮できるエロ動画を探しまわったりエッチな店で高い金を払ったりするのはもうたくさんだ。エロに振り回されるのは嫌なんだ。そんなのは最低限の時間で自動的に処理できて、もっと他の有意義なことに時間を使えたら世界は少しだけ平和になるんじゃないかな。
一時期、ラブライバー界隈で話題になった劇場版ラブライブ!の批判記事があった。
それは、おりあそ氏による
「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
である。
自分はTVアニメ第2期以来ラブライブ!という作品にうんざりしており、ほぼ既に内容に希望を抱くことを諦めた立場だった。
そのため、劇場版の内容を目の当たりにしても、2期の調子から続きを作ったらこんなものかという程度に軽くとらえていた。
批判記事についても早い段階で拝読の機会を得ており、概ね同意はしたのだが、批判へ寄せられた賛否両論の意見の軽さと2期以来の作品の現状の救いようのなさに呆れていたこともあり、あまり触れないようにしていた。しかし、ラブライブ!(以下ラブライブと表記)という作品が何と言おうとフィナーレを迎えようとしている今になって、少しは気分が落ち着いたこともあって改めて自分なりに読み解いたものを記しておこうかと思う。
彼の批判文の序盤はTV第1期から劇場版の終わりに至るまでの説明なので割愛。その直後の文章から批判と問題提起が始まる。
しかし、アニメ『ラブライブ!』のラストを飾るイベントが、このようなものであっていいはずがないのである。
問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって、普段はライバル同士である人気のアイドル10組が一堂に会し、次々にライブを行うというイベントであった。このイベントが話題となった最大の理由は、指原莉乃という当時AKB48で人気を急上昇させていたメンバーが自らプロデュースをしたことにある。つまり「ゆび祭り」は、μ'sが企画してライバルであるスクールアイドルを集めた、劇場版のクライマックスを飾ったあのお祭りと非常によく似たイベントだったと言えるだろう。
実は「ゆび祭り」は感動的なイベントであった。それは何故かというと、指原莉乃というアイドルの人生物語を象徴するイベントだったからである。もともと指原は故郷の大分県において、熱狂的なアイドルファンとして育った。モー娘の全盛期に小学生時代を過ごし、様々なグループのライブに通い詰める重度のアイドルオタクになったのだ。そしてアイドルへの憧れが高じて上京、自分自身がAKBのメンバーとなり、ブレイクを果たしてこのようなイベントを企画できるほどの地位に登りつめた。つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。
この部分、ある意味では三次元アイドルへのアンチテーゼ的な役割が求められる二次元のアイドルアニメというジャンルの批評に実在アイドルのAKBを持ち出したきたことで一瞬、辟易した読者も多いことだろう。自分もその一人であったが、よく読んで考えれば、その意図も分かるものになっている。
実際、AKB指原がAKBとしてデビューする以前からアイドルオタクだったことは有名な話らしくいろいろとエピソードや写真が残っているようである。
そんなアイドルオタクが、一応トップアイドルとなり、事務所などの枠を超えて自分がリスペクトしてきたアイドルを集めて「ゆび祭り」という大きなお祭りを主催したことは確かに快挙である。
そして、この「ゆび祭り」というイベントのチケット代は指原の愛称「さしこ」にちなんで345円という特価であったらしい。自分の好きを極めて走ってきた上で積み重ねてきた成果を現在のアイドル達やアイドルオタクに還元するという意味で確かに素晴らしいイベントだったといえよう。
それに対して、劇場版ラブライブにおけるお祭りが比較されながら述べられているのが以下である。
では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。
指原には長年アイドルオタクとしてアイドルに憧れ続けてきた上でトップアイドルになり、先述のお祭りを主催したというプロセスがあるのだが、ここで述べられている通り、μ'sもとい穂乃果にはそんなプロセスはない。
廃校を阻止しようという目標が最初に生まれたが、スクールアイドルという手段は後付けであり、(スクール)アイドル活動は積み重ねてきて目的となるような価値としては弱いものだったといわざるをえない。TVアニメ第1期途中で廃校問題が有耶無耶になり、自分達はアイドル活動をこの9人でしたいんだという方向に物語は動いたのだが、それも行き当たりばったりで賛否両論であった。作中でもまだ比較的まともだった頃の矢澤にこに「穂乃果の(アイドルへの)好きはいい加減」と批判されている。
また、自分達のスクールアイドル活動には目を向けても、他のスクールアイドルに対して何らかの注目を向けたのは穂乃果にアイドル活動をさせるきっかけを作ったA-RISEくらいであり、それも主に廃校阻止や後のラブライブ出場&優勝という目標を達成するための当面の壁やライバルとして注目された程度に留まっているため、おりあそ氏の批判にある通り、指原のような他のアイドルへの想いが高じて開催につながったイベントと比較すると、劇場版で急に穂乃果やμ'sの「スクールアイドル」に対する想いが打ち出され、スクールアイドルを集めてイベントをやろうと言い出すのは唐突であり、付け焼き刃だとか行き当たりばったりといった表現で揶揄されても仕方がないものといえる。
一方で、そのイベントや発想自体は悪いものではない。スクールアイドル全員で楽しい大きなお祭りをしましょうというのはとても魅力的で素晴らしいものである。しかし、作品上仕方ない部分もあるとはいえ、「スクールアイドル」全体のお祭りへの想いを一旦は語り、イベントを開催してみたらμ'sしか目立っておらず、他はバックダンサーに近い扱いというのは、劇場版という大きなお祭りという面を考えてもどうにかならなかったのかとか、他のアイドルやファンへの還元の面でも現実のアイドルに大きく負けているのはどうなのだろうとか考えてしまう。
したがって、あのスクールアイドルのお祭りは作中における開催への過程や内容の意味だけでなく、ラブライブの劇場版というお祭りの観点でも説得力と盛り上がりに欠ける粗末なものだったといえるのではないだろうか。
今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、ライブ場所を求めて街を探検したりアメリカ人と交流したりするだけである。また、ニューヨークで迷子になった穂乃果は、彷徨っているうちに一人の女性シンガーと出会い、ホテルまで連れ帰ってもらう。この女性シンガーにはいろいろと不思議な点があり、穂乃果以外のμ'sメンバーには見えないなどの設定があるため、「未来の穂乃果」だというのがネット上では最も有力な説である。この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。「物語性がない」と言うと、『けいおん!』なんかの例を持ち出してくる人がいるかもしれないので予め書いておくと、『けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。
と、ここも個人的に意見の相違はないのではあるが、突っ込みたい点が何点かある。
そもそも行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーというのは劇場版に限らず、第1期から指摘できる問題点であり、ラブライブというよりも花田十輝氏の脚本によく見られる傾向ともいえる部分である。その点を、恐らくブログ著者は第1期を評価したい立場であるために触れないでいるのだろうが、後々2期や劇場版でそれが起因して物語性やキャラクター性の破滅につながっていることは無視できない。
たとえば2期においても用いてプロジェクト開始初期から掲げていた「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。それが本来はコンテンツ全てを統括する一つの物語性やコンセプトになるべきだったし、アニメ化以前は細かなキャラクター設定のブレはあっても、その点においてのブレはなかった。個性や事情を違えるキャラクターが集まった上で廃校阻止やアイドルになるといった目標を叶えること、また結果的に初期からそのコンセプトやキャラクターを支持してきたファンの思いを叶えるという意味にもつながってくることになる。
しかし、アニメにおいてその作中の物語性は破棄された。廃校阻止という目標がプロジェクトを束ねる大きなコンセプトの一つだったが、それは第1期で大会に出たわけでもなく他のアイドルと大々的に競ったわけでもなく達成される。その後μ'sは文化祭における穂乃果の件もあり活動休止となることもあり、せっかく大きな目標を達成できたのにカタルシスが弱い。
アニメラブライブに肯定的なファンの間では「アイドル活動で廃校阻止というコンセプト自体に無理があるから、1期でそれを消化したのは悪くない」という見方があるが、無理があることを簡単にあっさり達成・消化させてしまったたものをよしとする神経や論理にこそ無理があるように思える。
また、裏を返すと、大会に出ずとも廃校阻止につながるくらいにスクールアイドル活動の影響力や効果が大きいことを描写してしまったともいえる。さらに2期では、次に開催された大会に出場し、プロのアイドルを上回るとも言われていたA-RISEをも倒し優勝を達成してしまったのだから、その後のμ'sの人気や知名度は絶大なものとなっていただろう。少なくとも地元東京や関東地区では。
脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行きライブを行い、間違いなく関東の空港である日本の空港に帰ってきたところでファンに出待ちされて知名度を得た自分達に驚くというシーンについてであるが、既に廃校阻止や大会優勝の時点で雑に考えてもかなりの人気と知名度を得ていたはずである。ましてや地元であり、さらに出迎えたファンは同年代であったから今さら驚くことではないはずだが、それに初めての体験であるように驚く描写を入れてしまったことで、劇場版やアニメラブライブという作品自体がどの場面においても何かを得ることはなく、いつもまったく無関係なストーリーが乱雑に入れられるだけの作品だと物語っているかのようである。
続いて、ブログではそのような内容や批判を受け入れるファンの態度についての批判が述べられている。
さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。ここがポイントである。もし以上で挙げたようなことがそもそも物語上の瑕疵ではないと言うのなら、それは根本的なセンスの違いだからどうしようもない。しかしそうではなく、瑕疵だとは認めつつもそのことによってこの映画の価値が損なわれないと考える人々が多くいるという、その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。
『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。
そもそも、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という擁護を持ち出すのも苦しい点がある。
何故かというと、このアニメラブライブの脚本家である花田十輝氏や監督の京極尚彦氏は自分たちが志向する物語性を作るために、キャラクター性やプロジェクトの大きなコンセプト(一貫した主題)を変更して犠牲にした経緯があるためである。(電撃ラブライブ!3学期http://www.amazon.co.jp/dp/B00BW8MRVY等参照)
いくら結果売上が出たとか人気が出たとはいっても、道理に背く大きな決断を下したからには内容に責任を負うべきである。自らが企画し原案から打ち立てた作品なら構わないだろうが、ラブライブは三社合同のプロジェクトであり、原案は公野櫻子氏であるため、彼らは作品の物語性の中枢部分に適当にメスを入れられる資格はない。つまり覚悟を持ってメスを入れてしまったのだから、それ相応の義務や責任を負わなければ話にならない。
本来あったキャラクター性や物語性を軽視した上で、打ち立てたストーリーに不備が生じ、それを擁護するために切り捨てたものを持ち出すというのは都合が良すぎるし、つまりストーリーコンセプトの変更やキャラクター性の変更の失敗を証明しているようなものである。
今更なのデスが、MADMAXの男女を入れ替えてください。
主人公は少女です。荒野を彷徨う地味子です。冒頭で荒くれ者(美少女)に拉致されます。拉致された後は、ならず者たちに「百合袋」として利用されます。戦闘シーンでパンチラさせるためにセーラー服でも着せとけばいいんじゃないですかね。
戦うのは美少女にしてください。そうそう、戦闘少女って前にはやったでしょう。身にまとっているのはゲームに出てきそうな痴女衣装です。貧乳、巨乳のよりどりみどりが襲ってきます。
「生む機械」として扱われているのは美少年にでもしときましょう。美少年を巡って痴女が取り合いをするんです。たまらん世界観でしょ。
関係者ではないけど、ある事情でバブル絶頂期の日本の産廃事情について調べたことがある。
当時、日本はまさに絶頂期、飽食の時代、地上げ屋が跋扈し、きらびやかな建物が次々と立ち上がり、札束が飛び交い・・・そして、その背後で排出される膨大な産廃は行き場を失い彷徨っていた。
これらの産廃は、大企業が託した「産廃事業者」と名乗る暴力団のフロント企業によって、多くは大都市近郊の地方に持ち込まれ、不法投棄された。谷や川は都市から持ち込まれた産廃で埋め尽くされ、取り締まるべき役人は賄賂を渡されて黙認した。産廃によって住処を失った住民が裁判で訴えようにも、長引く裁判の間に仕掛けられる、親戚を巻き込んだ有象無象の嫌がらせに泣き寝入りをせざるを得なかった。それでも一部の産廃事業者は逮捕されたこともあったが、彼らに廃棄物を委託した企業は、遂に誰も逮捕されることはなかった。
一部のマスコミもまた、これらに対して沈黙を守った。今では多くの大手新聞社は、自社の過去の記事を有料ではあるがデータベースとして提供している。これらを見比べることで、当時、どのマスコミが社会的な正義を貫き、どの新聞社が「報道しない自由」を行使したの分かる。例えば独裁国家が揃って国の名前に「民主主義」を含めるように、自らを「社会の木鐸」と自称する新聞社ほど、これらの問題を不思議なほど無視していた。(なお、自社の新聞の縮刷版すら発行しない新聞社は論外である。)
あの狂乱の時代から20年以上が経過した現在でも、地方ではまだ多くの産廃は残されたままである。多くはそのまま忘れ去られたが、例えば圏央道の某トンネルのように、ひょっこりと問題が浮かび上がる場合もある。
そして国会の会議録で「産業廃棄物」で検索すれば、この状況に心を傷めた一部の与党野党の国会議員の尽力によって、現在の環境・産廃関連の法律が整備されたことが分かる。これらの議員の一部には、後の民主党政権の失政でその名を地に落とした政治家もいる。
誰とは言いませんが、非科学的な反原発等の言動を吹聴して回るよりは、当時の回想録でもブログに書いた方が今なら少しは株が上がるかもしれませんよ。
アラサーに片足突っ込むような年になって生まれて初めて恋人ができたような喪が、寒くなったし温泉行かない?って言われて、ビジホしか泊まったことないし温泉街行ってみたいなーとか軽い気持ちでオッケーした
観光名所調べて宿も決めて予約もしたのに、今になってビビってて全然寝付けない
付き合って4ヶ月くらい経つけど今まで泊まったりしたことないし、そもそもそういう雰囲気にもなってないか、もしかしたらなってるけど私が分かってないし、そんな空気になってもどうすればいいか分からないし怖いし
別に何も言われてないけど、泊まりだしそういうことするつもりなのかもしれないし、もしそうだったらさすがにちゃんと大人らしく対応しようって思ってたけどなんかもう今更だけど大人らしく対応って何だよどうすんだよ怖いよ超パニックだよ
付き合うの初めてだし、デートみたいなことするのも初めてだったし、告白したのも初めてだったし、もう正直大体何するにしても全部初めてで、やらないで後悔するよりやって経験値に上乗せしてから後悔しようって毎回自分を励ましてきたけどもう今回はなんかもうそれで腹がくくれない
誰でも普通にできてることがこの年まで出来てなかったような雑魚にしてみたら今ここまでなんとか辿り着いちゃったのが最早奇跡
でも普通アラサーにもなれば恋愛とか一通り経験してlv80くらいみんなあるんでしょ?それで、もうラスボス倒してエンディング迎えるかそれともこのままレベルカンストまでじっくりやりこむかとか考えてる感じなんでしょ?
こっちはまだシステムがなんとなくわかり始めた程度の初期装備状態でまだ中ボスどころか始まりの街から二つ目とか三つ目とかのマップ彷徨って瀕死になってるのに……
だからこそ頑張って経験値積んでかないといけないんだと思うけど、今回間違えて中ボスに挑んじゃった感じするし、ボコボコにされるの分かってるからできたら挑みたくないけど現実には逃げるコマンドが出てこないし