はてなキーワード: 性的少数者とは
[B! 性犯罪] 【独自】銭湯でわいせつ行為の男性2人を書類送検 被害相次ぎ貼り紙も|TBS NEWS
こういうのは一部の人、というには多すぎるんだよなあ。
何を言いたいのかわからない。
「一部というには多すぎる→全体もそうであるに違いない」といったミスリードでないのなら、どういう意図でもってこのコメントを残したのか説明していただきたい。
"かわいそうランキング"上位になれば好き放題できるようになる。本件に対する批判もすぐさま「差別」認定されるだろう。
当事者から見てもこれは明確な犯罪行為なのだから、このコメントは揶揄にしても筋が悪い。
この場合で言えば、本件の被疑者に対する批判とゲイ全体に対する非難とは、分けて考えなければいけない。
ハッテンしたきゃハッテン場行けや。
ハッテン場という単語には「ハッテンする場所」というぐらいの意味しかない。だから「彼ら」にとってはこの銭湯もハッテン場ということになってしまう。
「有料ハッテン場に行け」なら問題なく成立する言い分ではあるし、おそらくはそういう意味で言っている人も多いと思われるので、この指摘は揚げ足取りでしかないのだが。
ホテル行けよ・・
自分の家でやれ
これもよく見る反応だが、「それができれば苦労はしないんだよ」と言いたくなるゲイも少なくないのではなかろうか。
男同士での宿泊を断られるラブホテルは未だ多いし、かといって自宅に他者を招き入れるのは、「ゲイ」が被差別属性として機能している現状では(身バレ等)社会的な死に直結しうるハイリスクな行為である。
結局のところ、手っ取り早くそういう行為に及びたければ有料ハッテン場に行くしかないのである。(それさえも知人に目撃されればどうなることやら、という話ではあるのだが)
こうやって一部の心無いゲイが数百年の歴史をもつ共同浴場文化を潰すわけだ。本来であればゲイの団体から一番に批難声明が出てしかるべき。
「ゲイ」「共同浴場文化」の部分に他の単語を代入してみて、それでも問題ないと思うのであれば、俺から言えることは何もない。
個人的には、一部の心無い人物の行為によって彼らの属する集団が声明を出す必要にかられる、というのは健全な慣習と思えないが。
社会に対して価値観のアップデートを謳うと今まで自分たちがお目溢しされていたこともアップデートしなければいけなくなるんやで。
言わんとしているところはわかるのだが、同様のフレーズを目にする昨今のケースを鑑みれば「価値観のアップデートなど求めてない」という当事者もままいるだろうことは想像に難くない。
そもそも、今までだって「お目溢し」をされていたのかどうか。本件のような行為はもとより犯罪なのだし、数はともかく摘発もされていただろう。誰が、どのように、このような行為を「お目溢し」してきたというのだろう?
ネットで“同性愛者の出会いの場”と書かれている以上、同性愛者を指定した注意喚起は仕方がないんじゃないかな。迷惑行為をする人に伝わらなければ意味がない。
これに対しては「結局伝わりませんでしたね。残念です」としか言いようがない。本件に限らず、同様の被害に頭を悩ませる全国の公衆浴場の管理者に対しては気の毒に思うが。
ゲイ(もしくはバイ)のみならず性的少数者全般に対する印象操作として機能しうる注意書きに、いかほどの正当性があるのか。そもそも、社会の規範を逸脱するような人間に対して、貼り紙での注意喚起がどこまで有効なのだろうか。
そう考えると俺はこの注意書きを妥当とは思えないし、効果もそれほどなかったのではないかと訝っている。
ラブホでシャワー浣腸するやつが多いからゲイカップルお断りを掲げたらゲイ差別だって叩かれたのを思い出した
数年前にホッテントリ入りした
[B! 差別] 男性同士でラブホ、断られ 「あ、差別されたんだ」:朝日新聞デジタル
このニュース(および関連の増田)が念頭にあったのだろうが、妥当性を欠く偏見か、もしくは悪質な印象操作としか受け止められない。
俺個人としては「お断り」に憤ることもないが、それは実際に利害のあるホテル側の判断だからであって、第三者がネットを通じて偏見を助長することに対しては差別だと呼ぶ他ない。
なお、ゲイコミュニティではおよそ、男同士でも入れるラブホテルの情報が共有されている。
女性専用車両と同じだよな。誰が痴漢かわからないから男全体を排除せざるを得ないように、誰がハッテンするかわからないからゲイ全体を拒絶するしかない
俺はこの感性を悪だとは断じたくないが、どれだけヤバいことを言っているのかについては自覚的であって欲しいと思う。
はてな民はなぜ公然猥褻を擁護して、銭湯サイドを袋叩きにするのか?LGBTだから?
ここまで全てのブコメに目を通したが「公然猥褻を擁護」しているidは1人も見当たらなかった。こいつは一体何を見たんだろう。
・追記
犯罪行為を指摘したら差別、という論拠は流石に無理があると思うが。社会が悪い、それを正すべき、と話持っていくのはいいが、現状犯罪なものを批判するなというのは違うかと。
うっかりミスなのか悪意なのか判別つかないので真面目にお伺いしたい。どこに「犯罪行為を指摘したら差別」と書いてあった?
特定の犯罪を、行為者の持つ属性と分かち難いものとして結び付けるな。という話だったんだが、それが何故「現状犯罪なものを批判するな」に置き換えられてしまうのか不思議でならない。
ワイもあの販促には正直違和感あるんだけど、それを責め立てる側の理屈が保守的すぎてヤバくないか?
タイツを愛用しているタイツフェチの絵が好きな人、というタイツを日頃使う客の中ではかなりマイノリティの視点を販促活動に使っちゃったからお怒りを買ってるわけ。女性ってそんなひとかたまりじゃないよ
黒人とかLGBTQとかマイノリティの視点を尊重しよう多様性って大事だよねみたいな話を全部押し流していくような力強いブコメだ……性的少数者なんて人口比では微々たる割合だからわざわざ彼らの視点を広告に取り入れる必要とかないですよね、男どうしがキスしてる欧米のマックの広告キモくね? って言ってるようなもんじゃん。差別主義者こわ。
え、pixivの「女性に人気」ランキングでちらほら見かけません? ああいう絵……自分の好みに合わない=女性向けではない、という謎ジャッジ、女性の好みの多様性をまるっきり切り捨てていてやべえという感しかない。
それな。女の主体性ガン無視する言説多すぎない? 男を主語・主題にしないとクレームの1つも入れられないの? 感は正直あるよ。男の目線とか寝ぼけたこと言ってないで女が女としての視点で作った女向け商品にクレームを入れているという自覚を持ってほしい。自覚を持った上で叩くのはご自由にって感じがするけど、その場合怒っている主体の主語は「女」にはならんよなぁ。
(プロフィール:25歳、男性、大学院卒、理系、会社員、東京都在住、同性愛者)
性的少数者の権利拡大・偏見払拭が謳われるようになってもう随分と経った。そういう虹色界隈の活動家の努力のお蔭か、少なくとも都市部の若年層では「ゲイとか気持ち悪いよね」と言う人の方が白い目で見られる社会にはなって来ていると思う。パートナーシップ制度を導入する自治体も増え、同性婚を支持する人も増えている。ゲイであったとしても自分らしく人を愛し愛され、自分らしく自由に、自分らしく幸福に生きられる社会になっている。……らしい。
このような心温まるようなすばらしい虹色啓蒙活動から最も疎外されているのは誰か。性的多数者(シスジェンダーの異性愛者)ではない。彼らも「理解のある」ハートフルなムーブを取ることで仲間入りできるし、「理解のない」人も敵陣代表としてちゃんと構ってもらえるからである。一番蚊帳の外なのは、非リアで、陰キャで、オタクで、恋愛にも興味がなく、自己肯定感が低い根暗のホモだ。
大前提として、虹色啓蒙活動は非異性愛者が自由に恋愛を楽しんで社会で生きる「権利」を求めるものであって、ゲイであろうと男とも女とも恋愛をしない人には大して関係がない。当たり前だが、仮に同性婚が法律で認められたとしても相手がいないと結婚はできない。全てがそうとは言わないが、虹色活動の大部分を占める要素も、活動に携わる当事者たちも、どこからどう見ても根暗なオタクには無縁の「陽気なリア充の世界の概念」であって、全然感情移入できないのである。そればかりではない。
ああいう目立つ活動家たちは、確かに旧来のゲイに対する悪質な偏見(気持ち悪い、オネエ、性病とか?よく知らん)をいくぶん弱めてくれたかもしれないしそれは有難いことなのだが、それを塗り替える形で別のステレオタイプを提供している。「ゲイは恋愛やセックスが大好きで、大好きな同性の恋人と結婚したいのに頭の固い人たちのせいでさせてもらえない、自由平等博愛のため闘うかわいそうな人」という印象を、勿論ここまで露骨でなくとも数倍に希釈した形で持っている人は少なくないのではないか。俺はゲイをカミングアウトしたことは殆どないが、おそらく多くの人はまずは同情の目を向けて「気付けなくてごめん」か「話してくれてありがとう」みたいな挨拶をくれた次には俺の恋愛事情に興味を持ち始めるだろう。別にそれ自体を悪いことだと非難する気は全くないが、結局「ゲイ」とか「同性愛者」というラベルはリア充・陽キャの文化でしかなくて、単に同性に性的魅力を感じてしまうというだけの陰キャが名乗ってもあんまりピンと来ない、贅沢な称号になってしまったのだ。
そういう点では、LGBTフレンドリーな明るく健常な集団なんかより陰キャのオタク界隈の方がよっぽど自分には合うし居心地が良い。もともとオタクコミュニティには恋愛への関心が希薄な非リアが多く、セクシャリティが問題になる機会自体が健常な集団より遥かに少ない。だからオタクコミュニティの方がジェンダーフリーだなどと大それたことを言う気は毛頭ないが、趣味の話と学校や仕事の愚痴くらいしかしないのにセクシャリティが関与してくることの方が稀だし、元々何の問題もなく穏やかに存在できている。
大体、恋愛に興味のない俺にとって、自分がゲイであるという事実はアイデンティティの構成する要素のほんのごく一部でしかない。所謂ゲイコミュニティに参入してゲイ友達を作ってPrideだの何だのよろしくやってる虹色の人たちをネットなんかで見ていると"ゲイを生きている"感がすごいし、普通の異性愛者視点だと多くのゲイがそういう生き方を望んでいるように見えているんだろうなと勘繰ってしまう。異性愛者が自分をヘテロであると意識してヘテロ人生を生きるみたいなことはまずないだろうから、こういうのはそもそも少数派である宿命というか如何ともしがたい非対称だとは思うが、いずれにしてもああいうのはどうも自分とは違う世界だ。俺は「自分は男の方が好き」みたいなどうでもいい話なんかよりよっぽど先週の俺ガイルの話がしたい。ずっと原作読み直してたら連休が終わりそう。
如何ともしがたい非対称と言ったが、性的少数者の苦悩は理解のない人による差別や偏見なんかよりも、そもそも少数派であること自体の苦痛の方が大きいと思う。要は、ゲイであること自体が十分に不幸なのである。同性愛者は全体の1割にも満たない上に普通は公開しないので、当然だがラブコメのような学校や会社での自然発生的な恋愛ストーリーは期待できない。そのためゲイ専用の出会い系アプリとかゲイコミュニティで知り合うくらいしかないわけだが、どうせそういう所にいる人は明るくて自己肯定感が高くてキラキラしててbioに虹マーク引っ提げてて合わないだろう。要するに異性愛と比べて恋愛の形のバリエーションが圧倒的に少ない。別に「自分がノンケだったら彼女が出来てた」とかいう、「文系学部だったら彼女できてた」とのたまう理系大学生のようなダサい主張をする気はないが、恋愛へのハードルの高さがヘテロの比ではないことは間違いないし、色々なことを土俵に上がる前に諦めないといけないのも事実だ。女性と結婚して子供を育てるという「普通の幸せ」にも憧れるけど処女懐胎してもらうわけにもいかないし、何よりそんな茶番に付き合わされる女性や生まれてくる子供に悪い。というかこのままだと一生童貞で独身だけどどうすんじゃこれ。30代になった瞬間信じてたオタク仲間が次々に【ご報告】していって取り残される√入ってるだろ……。
今はとてもじゃないが出来ないだろうけど昔は同性愛の「治療」なる概念があって、認知療法というか洗脳というかそんな感じで治療を試みることがあったらしい。流石に洗脳は効く気がしないし御免だが、大脳に電極ぶっ刺すとかケツにケミカルXをぶち込むとかで西洋医学的に「治る」なら全然治したいと思う。今の社会に不満があるとかそういうわけではないが、俺にとって自分がホモであることは「普通に生きてるには気にならない病気」でしかないし、それを認めろだの自分らしく生きろだの、無茶を言うなって話だ。
※同性愛者、性的少数者、ゲイなどの単語は適当に使ってますごめんなさい。基本的にどれも男性同性愛者を想定して書いてると思ってください。
「女も男もそれ以外もオタクも非オタクも読んでいってくれないか」(anond:20200714091214)に答えますね。
男の子は小学校中学年にもなればエロに興味を持ち出すころかと思うが、男の子をお持ちの男性のみなさんは何歳くらいからどんな作風なら触れてもいいかなみたいな漠然とした指標があるのだろうか。とらぶるならいいよ、とか、どんな性的嗜好だろうがフィクションはフィクションって割り切れるから自由にさせとけとか。
自分の子供時代を考えてみると、小学校低学年のころに、うちに遊びにきた友達がどこぞで拾ったと思しき女の人の肌色が非常にカラフルなお雑誌を持ってきたことがあった。それは祖母に見つかり、後日学校で女教師に呼び出され「そういうのはいけないんだよ」という丁寧な説明を受けた。私は自分が何を見ているのかも何でお説教(いやすげえ優しい口調だったが)を受けているのかもわからずどちらの場でもポカンとしているほかなく、当然私の小さなちんちんは勃ってはいなかった。
それが中学生になるとエロ本の回し読みなんぞをしてシコシコするようになるわけだが、男どうしの会話とはいえあまりに露悪的な嗜好の持ち主だとなかなかそれを表には出しづらく、いろいろな作品が収録された短編集や雑誌のうち1本に陵辱ものが混ざっていれば欣喜雀躍、結局のところインターネットで陵辱ものが好きな同士にたくさん出会えて、同好の士がネット上にはたくさん存在していることに気づけて安堵したりするわけである。
だから元増田が挙げた、モブレやら体調不良やらでキャッキャウフフする若き腐女子たちには、素直に羨ましさを感じる。自分の好きなオカズを同年代の友達と共有する経験なんて私にはなかった。同好の士はいつもネット上の見知らぬ誰かで、彼らと会話を交わしたことなんてなかった。自力で探しだしたエロ画像はあっても友達と本当に好きなオカズの回し読みなんてできなかった。私には彼女たちがまぶしく見える。
「レイプされて虚ろな目になってる女の子いいよねー」みたいな会話をリアルの思春期男子のあいだでやったらドン引きされるだろうし、モブレでキャッキャウフフしている女子たちもおそらくリアル友人とのあいだでそんな会話はできないだろう。あくまでもネットで同じ趣味の相手を探して語り合うくらいは、男も女も別にいいじゃないか。私はそんなふうに語らったことはないので、語らえる子たちの気持ちはよくわからないのだが……
で、倫理についての話。
正直、あまり心配しないでいいと思う。というのは、陵辱もの好きな男として断言するが、私は自分がそういうものが好きな傾向があると自覚した幼き日から今日までそれを現実にやっていい行為と誤認したことはただの一度もない。当たり前だ。嫌がる女の子を拘束して猿轡噛ませて犯す、この過程がどうやれば合法で倫理に則っていると勘違いすることができるのか。現実にやったら犯罪であり、被害者を苦しめる外道な行為であることなど自覚している(いや苦しんでいるから興奮するんだけど)。だから漫画に頼るのだ。
ここで勘違いするようなやつは、はっきり言って元々倫理観がぶっ壊れているのでゾーニングがどうこうの話ではない。エロが綺麗にゾーニングされていたとしても別のやらかしを犯すに決まってる。
だからモブレだの殴られるだの飛び降りだの、露骨に倫理に反する表現はむしろ安牌に近いだろう。だって、推しが殴られているBLを読んで、そうか、男を殴ることは倫理に反してないんだ! って勘違いしちゃう小中学生なんている? いないでしょ。仮に勘違いしちゃう子がいるなら、それはもうBLの責任どうこうじゃなくて本人にマトモな倫理観が備わっていないことの表れでしかない。そういうやつはBLがなくても別のことをやる、絶対にだ。
危ないのは、むしろ一見して倫理に反しているとは思えない表現の方だろう。
男向けのエロ表現が「現実に影響する」として近年問題になっているのは、陵辱やロリペドではなく、むしろ和姦ものの表現だ。たとえば、ガシガシ手マンすれば女は喜ぶとか、感じたときには潮が吹き出す、とかそういう演出だ。AVを見て「そうか! こうすれば女は喜ぶのか!」と勘違いして彼女に同じことをやって性器に怪我をさせる男というのは一定数いて、こちらは性交の実務に携わる人たちの間では問題視されている。はっきり言って一部の頭でっかちなフェミ連中が陵辱ものやらロリペドやらで騒いでいるのは頭がどうかしているとしか思えない。そんなのが現実に影響するなんてのはごくごくレアケースであり(ないとは言わない)、本当に問題なのは、こういう善意による勘違いだ。
これをBLに当てはめて考えるとどうか。危ないのは、むしろ増田のような思考ではないか。増田は、「政治的な正しさ、ポリコレに照らし合わせて考えること」が重要であると主張している。しかし、本当にポリティカリーにコレクトなBLを目指すなら、女が創作していたり、作中のゲイたちが差別を受けずのびのびと暮らしているだけでポリコレ的な問題をはらむのだ(anond:20200712223432)。露悪的な嗜好の腐女子たちは自分たちが倫理に反していることなど百も承知だろうが、増田のように倫理を重んじる腐女子は、果たしてそのあたりに自覚的だっただろうか? 結局のところそれは「多数派の考える倫理」に過ぎず、勘違いした善意を性的少数者に押し付けているだけになってはいないだろうか?
たかが十数年、されど十数年である。十数年というのは、他人を強姦してはいけないとか、他人を殴ってはいけないとか、そういう規範を育むには十分な時間だと思うし、十数年も生きていれば支部のゾーニングをかいくぐる技術くらい身につけるものである。
積極的に子供たちにセンシティヴな創作を見せびらかしていくべきとは思わないが、小さな人たちが自分でセンシティヴ表現に積極的に触れようと思ったら、表現者の側でそれを阻むことなんてできない。だからまあ「うるせえ自由に創作させろ」でいいんじゃないでしょうか。男向けのゾーニングはそういう発想で動いているように思う。子供の前にわざわざ出したりしないけど、子供が自力でたどり着いた分にはニヤリと笑って不問に付す、的な。あれだ、一種の通過儀礼だな。
あれ、「オタクだけど」と名乗った割にオタクとは関係ない話になっちゃった。だからオタクと関係ある話を最後にしておくと、ワイ好きな作品のエロ同人ってほとんど買わんのよね。好きな作家さんがエロを出したら買うけど、基本的には全年齢向けのプラトニックな恋愛ものとかギャグものとか日常ものを買って読んでる。だっていちゃラブじゃいくらガッツリ性交を描写されても私は勃たないし、私が勃つようなひどいプレイを好きなキャラ相手にするのなんてひどすぎてかわいそうで見ていられないし、ということでエロはオリジナルに限りますね。思い入れのない架空人物ならいくらでもかわいそうな目に遭わせられて最高。だから好きな作品のエロ同人買ってNTR掴まされてキレてるオタクの気持ちはよくわかんない。エロ同人を買わなければNTRを掴まされることもないのでは……? なぜ好きなキャラのエロを読みたがる……? というか和姦ものを買う以上一定数NTR掴まされることは覚悟しておくべきじゃない? ガチの陵辱スキーは途中で女が喜びだしだり犯してきた相手のことを好きになるとかいうクソ萎え展開を日常的に掴まされているんだぞ! 安易なレイプファンタジーを蔓延させやがって! NTRくらい甘受しろや! あ、これただの八つ当たりだわ、すまん。
ゆにちゃん様は好きだけどひまりちゃんはそこまで好きじゃないんだ、すまんな(単に興味がないだけで嫌いというわけではない)
"ガチの陵辱スキーは途中で女が喜びだしだり犯してきた相手のことを好きになるとかいうクソ萎え展開" わかりみしかない。少し理屈をこねると、加害行為を被害者から肯定される展開は二重に正しくないだろって思う。
いやそういう理屈は割かしどうでもよくて、心底嫌がっているのを無理やり……というのが良いのになんで途中から愛が生まれてるの? は? って感じで萎えてしまうんや。萎えの機序としてはメガネっ娘がメガネを取るアレに近い、というかコスプレAVの衣装を脱がすな問題と同じ。
この増田があげてる「陵辱で相手が受け入れちゃうケース」はよろしくないと思う(ただ現在のゾーニング対象になっているとも思う)。
なんか勘違いしてるかもだけど「陵辱されて気持ちよくなる/陵辱してきた相手を好きになる」展開に特化したゾーニングはないよ?
ゾーニングといっても色々あるわけだけど、たとえばpixivでは、性行為や乳首・性器の直接的な描写の有無でR-18かそうでないかが決まり、その中でグロやスカの描写があればR-18Gになる、という感じなので、いちゃラブ和姦でもモロに性器やら何やらが描かれてればR-18で、陵辱してきた相手を好きになる展開でも描写が朝チュンなら一般向け。
「陵辱されて気持ちよくなる/陵辱してきた相手を好きになる」展開、個人的には別ジャンルということにしてほしいんだけど全部ひとまとめに「陵辱」扱いされてるのが現状だねえ。いずれおねショタとおねガキみたいにジャンル分化する日が来るんだろうか(でもこれは物語のオチを明かすに等しい区分だから無理だろうなぁ)。
で、勘違いされると困るので言っとくと、私がそういう展開を嫌いなのは性暴力を正当化しているからとかそういうどうでもいい理由ではなくて、単純に萎えるからです。嫌がってるのを無理やり陵辱する展開が性的な意味で好きなのに途中で受け入れられるとドッチラケなわけ。
でも、それは私のちんこに反しているというだけで、そういう展開が正しくないってことじゃないからね。そういう展開が好きな人には私の好きな展開は刺さらないんだろうし、好みの問題であるものを正邪の話にしないでほしい。
増田は「表現による心的ストレス」という影響を軽視してるな。ホラーを見てトイレに行けなくなるのは皆通る道だ。フェミやNTR嫌いの根幹はそこだし、オタクも住み分けには賛同する。自由の代償は他人が支払ってるよ。
アホらし。ホラー見ておトイレ行けなくなるのもNTR掴まされてショック受けるのも自己責任でしょ(もちろん私が嫌いな展開の陵辱ものを掴まされるのも)。私もうっかり寝る前に『ゴーストハント』読み返しておトイレ行くの怖くなるときがあるけど、それはそんなのをそのタイミングで読んだ私の責任。支部や即売会でエロ同人を漁るならNTRが一定数混じっていることを覚悟すべきで、展開に怒るなら好きなだけ怒ればいいけど(作品をdisるのは読者の表現の自由に属するので)そのストレスの責任は自分で負うべき。
自由に表現して自由に手に取って自己責任で怒ったり傷ついたり笑ったり泣いたりすりゃいいんですよ。
みんながまともなら問題ないけど、こういう極端な設定の作品は「これは現実ではない」注意喚起や一般には簡単に見えないよう棲み分けが必須 澁澤龍彦とか
ばっかじゃないの。ガッツリ性行為のシーンがある陵辱ものは当たり前だけどとっくにR-18で~す。R-18といっても広い世界なので、わざわざ「陵辱」とか「レイプ」とか「(自重)」とか「(自主検閲)」とか「(禁則事項)」とかそういう検索ワードを入れないと出てきませ~ん。あのさ俺が理想の陵辱ものを探すためにどれだけ検索ワードを工夫してきたと思ってんの?(血涙)
全然関係ないけど今テキトーに「R-18」で画像検索したらむっちゃBL出てきて草。R-18で検索したら男向け作品が出てくるという先入観はある意味ジェンダーバイアスだよなぁ。
だるま、欠損好きの友人と比べたらセーフかと思ったけどそれはそれで感覚狂ってるな。ところでなるほどなあと読んでたらいきなりゴーストハントが出てきてビックリした
だるま、作中で切断される場合だと「その傷が塞がるまで何日かかるんだ?」みたいなことが気になってしまうんだよな(いや、包帯巻いてる場合が多いだろうけど)
『ゴーストハント』は家人が寝静まって暗くなった家でうっかり読むとマジで怖いから困る。コソリが来るよ……『残穢』はおトイレ以前に家そのものが怖くなるからダメ(好き)。うっかり寝る前に『残穢』を読んでしまい家を焼き払いたい衝動に駆られたときは『営繕かるかや怪奇譚』で中和するのがいいと思います(そもそも寝る前に『残穢』を読むな)
中高生くらいの男の子に「正しい性癖とは何か」を教えられるのは同年代のホモソーシャルしか無い。ホモソを悪としか捉えられないフェミには都合の悪い話だろうがな。
「堂々と公言できる性癖」や「合法的に実行できる性癖」はあっても「正しい性癖」はなく、「公言するとドン引きされる性癖」や「実行に移すと犯罪になる性癖」はあっても「間違った性癖」なんてこの世にないんだよなあ。
なんかポリコレの議論する時、本当に性的少数者をポリコレ派も反ポリコレ派もダシにするよね。
ポリコレ派は自分らの正当性の主張と成果のアピールに。反ポリコレ派は議論の矛盾を突くための道具にして。
ここ数年、ようやく性的少数派も生きやすくなってきたのにポリコレが前に出るようになってから、かえって不安が大きくなってきてる。これ絶対バックラッシュあるし。
こっちにとっては理念じゃなくて生き死にの問題なんだから、「当事者の生の実感がないよそ者が頼む前から代弁者面で騒ぐな」って思う。それこそ他者の立場の盗用と違うのかと。
こういうと「ポリコレのおかげで生きやすくなったんだろう」と言ってくるやつ出るから言っとくが、どっちかいうとポリコレは後からの相乗り。
反ポリコレ派も安易に性的少数者を仮定の議論の道具にするのをやめてほしい。それが切っ掛けで言った覚えもないことがいつのまにか言ったことにされてるの何度も見てる。
黒人やLGBTなどの性的少数者、障害者など何でもいいんだけど、いつの時代も弱者は政治利用されるのではないか。
なのでアメリカの黒人の人種差別問題のニュースを見ていても、政治的意図があるものだと思っている。
より正確には、最初は純粋な人種差別解消運動だったが、世間から注目されるにつれて「リベラル勢力」と呼ばれている政治集団に目を付けられて接近される。
気が付いたら、そのリベラル集団の「広告塔」のようなものに祭り上げられて本来の運動の趣旨を失ってしまう。
そして人種問題や性的少数者問題は再び解決されること無くウヤムヤにされるのがいつもの流れ。
大体リベラル集団が、本当に弱者の人権を本当に考えているのかどうか怪しいものだよね。
2009年に在日朝鮮人差別、部落差別、精神疾患者差別をネットに書きこんでいたIPを調べたら朝日新聞社内の書き込みだった、なんて事件があった。
本当は弱者の人権なんかどうでもよくて、権力側(はっきり言わせてもらえば自民党政権)を批判するために弱者を利用しているだけ。仮にリベラルが権力を手に入れたら、手のひらを返すようにして弱者の人権なんか無視するようになるよ。
人種弱者であることを最大限にアピールして大統領になったオバマさんが、大統領就任後は富裕層を優遇する政策ばかりやるようになったなんて笑い話を忘れたわけじゃあないよね。
今問題になっている黒人やLGBTの人達も、内心は「人権問題に注目してくれるのはうれしいが、必要以上に騒ぎ立てないで放っておいてほしい」というのが本音ではないか。
はじめに
地方分権とは、戦後日本の憲法に定められた重要な項目の一つです。
国政と分けて、地方の事は地方の住民が決める。それは政府では対応しきれない全国津々浦々の問題を、その地方で独自に解決していくという道筋でもあります。
そしてそれは生活水準の向上と生活や社会そのもののあり方の多様化にも対応の道筋を残す、希望の憲法と言っても過言ではありません。
歴史を紐解けば、民主主義上での独裁政権の誕生では、地方自治体の選挙から勢力を拡大するという構図もありました。
また戦時中においては、地方自治という枠組みをなくし、政府の一括した管理化に置かれるという場面もありました。
そして現代においては、国政の議院内閣制の弊害である議席確保のため支持団体の利益誘導に奔る政治家の姿を生むに至りました。
政治の学問の世界でも、それは古くから指摘されている問題点です。
では国政政党とはどこまでをその意志の範囲とすべきなのでしょうか。
その自治体に住む住民一人ひとりの意志を一票で証明して、そして未来を決めていくものです。
選挙権は人権です。住民の意志で決めるを定めているのは憲法です。
その人権と憲法よりも国政政党の思惑は優越するものなのでしょうか。
「政党の意志」とはあくまで政治思想であり、地域住民の個々の意志判断よりそれを優先させようとする現代の通念は、
戦争や独裁政治の歴史的な反省に真っ向から対立する、異様な思い込みなのです。
現在、私達の日本国は、徹底して若者を未来への希望を抱かせない低賃金労働の社会へと追いやりました。
政党と連動する利益誘導を目的とする団体の思惑が優先されるようになりました。
その問題に途中で都知事や都議が気付き止めればよかったものを、取り返しの付かない社会問題になるまで放置されたのです。
それは国政の政権争いに付随する利益誘導を当たり前のものとする政治を、切り離されて然るべき地方自治体にまで及ばせてしまっているのが原因です。
国が悪い政治を行えば、その盾となるのは地方の自治体の政治ではないですか。
しかし国政政党の思惑に沿うばかりの政治家達は、その基本的な問題に対して取り組む事は無かったのです。
そうして最後に追い詰められるのは、利益誘導のために駆けずり回らされそして世間に問題が発覚した時にひたすら謝罪させられ責任を負わされる都の職員と、
多額の税金を払い続ける私達なのです。
結果として、オリンピックも多額の税金が投入されましたが、不透明な金銭の流れを追求する政治家は皆無で、国民は無給のボランティアで働かせられる事になりました。
若者を企業にとってひたすら都合の良いように低賃金で働かせる社会になった現在は、毎年50万人以上の戦時中のような人口減少を引き起こす日本となりました。
それでも政治家は、地方行政を利益誘導と国政の政権争いの踏み台にする事をやめないのです。
そしてそれは、この問題構造に気づこうともせず、政治家に利益誘導をしろと言い続ける有権者の責任でもあるのです。
私は若者が子供達が。これ以上自分のしている事に気づかない大人達の犠牲になる事は見過ごしていられません。
今こそ当たり前の事を当たり前に行う、私達の政治を行うべき時なのです。
それはシンプルに、憲法に則り人権の理念に沿った指針で動く、そうした立候補と政治の事です。
この問題解決の鍵は地方自治体の選挙である東京都知事選であり、思い込みの中で逃れられない大人達と子供達の未来を救うためのただ一つのチャンスでもあるのです。
東京都における公的資金を受けた事業に対し、その資金の流れを監視します。
対象は国また地方自治体に限らず、多重請負、不透明且つ複層化した外注などを行っていないか確認し評価します。
IOCと日本のオリンピック運営委員会に関わる利権構造を調査し、全て公開します。
東京オリンピックを機に、オリンピックそのものの健全化の実現を目指します。
(開催期間中に停戦を呼びかけるオリンピックの、権威性を後押しし支えるものです)
東京オリンピック以前以後と評価されるよう、オリンピックそのものを改革し、その名誉を東京都民のものとします。
コロナの影響下にあるオリンピック・パラリンピックは、なるべく選手達の希望を叶える方向として、実現に向けた動きをします。
感染拡大を防ぐため無観客や期間の変更を伴う計画設計に併せ、5GやVR等の技術を駆使した全世界へのネット配信等、放送収入の新しい形を提起します。
多様化と複雑化を続ける社会に沿った、新しい議会の形を提起します。
(常時発生し続けると言っても過言ではない社会問題のリアルタイムの可視化と各議員との情報伝達。議会での解決量の増加、二十四時間体制での情報収集と分析するシステムの構築)
全世界の思想良心身体表現の自由と尊厳を侵害されている人々が、東京であれば自由を謳歌出来る。そうした都市にします。
基本的に政治思想的ムーブメントには賛同や批判を行わない方針を取ります。なぜなら、行政とは問題に対する評価へのアプローチではなく問題の原因そのものに取り組むものと認識するからです。
動物愛護について
ペットショップにおける、保護動物の販売枠の取り決めを行います。関連した動物達へのケアや従事者との連携の拡充を行います。
殺処分を減らす取り組みと同時に、必ず件数を計上し政治的アピールのために実情を覆い隠さないようにします。
行政サービスを受ける上での簡略化(必要な書類等の確認や予約等を行えるアプリ)を目指します。
行政サービスを受ける上でハードルのある障害の方(発達障害を含む)に対するサポートの制度を設けます。
都議会の動き、各議員の動きなどを逐次そのアプリで追えるようにします。
東京都という自治体から国に対する要望の提出に付帯する、署名の投稿機能を設けます。
(スマートフォンとの連携で音声による予定の表示や、ゴミ捨て日、また納税等の手続きの予定や方法などを表示し、生活をサポートする機器です)
研修を受けた学生達が地方に帰った後、行政や議会に携わる際に応用できる基礎的な経験を養うのを目的とします。
氷河期世代の救済
全国の自治体と協調し実現する、失われつつある技術の保護を目的とした雇用の創設します。
都知事直下に氷河期世代以降の若者の救済を兼ねた、災害時、大規模イベント時の補助、その他必要に応じた対応を行う職員の枠を設けます。
当初は数名から始まり、目標としては五千人以上(上記の全国規模での雇用の創設に関連する、都の事業の従事者として)を目指します。
明確な人権侵害である。高齢化する引きこもり問題に対しては行政としての対応が拡充されるべきであり、人権侵害を平然と行う連れ出し監禁行為に対する徹底的な撲滅を図ります。
(東京都で働く方々をつらい状況に置いておく訳にはいきません)
海外からの渡航者に対する、性風俗利用時の性病検査証明書の提示義務を設けます。
少子高齢化の進む中、民営化は生活基盤の破壊に繋がりかねません。
30年から50年先の社会動向を見据えた、地方自治体の存続性の強靭化を図ります。
女性に関して
性に関する概念が多様化する社会における、女性が成人するまでの情報の複雑化への配慮として、女性に対する行政の相談機関や窓口を一元的に示す冊子を発行します。
貧困の救済
段階的な回復(カフカの階段を参照)を登る、住宅から就労までの一貫性を持った支援を行います。
徹底的な若者に対する低賃金化と繰り返される増税で、疲弊する都民国民の生活を守るため求めていきます。
交付された際の使い道
・妊娠出産から一定年齢に至るまでの支援予算(保育等に関連するものも含む)
・女性用シェルター、ホームレス支援など困窮者に対する緊急支援施策予算
原則公開。各議員に対する要望は同時に都に対しても文章で提出を義務化し、透明性を確保させます。
要望自体に対する評価は行わず、事実確認の資料としてのみ扱います。
同時に東京都知事に対して告発しなさい。推移を見守り、場合によっては声明発表や職場を用意し救済を行います。
コロナの現状と以降について
コロナ対策として各企業で実施された、労働時間短縮、リモートワーク、付随して発生した電車の混雑状況の軽減の維持を強く進めていきます。
流行が落ち着いた後の都内における経済活動の復調のための、都内観光業、飲食娯楽関連の支援と国内外に向けての宣伝を行います。
事務所の分散移転(西東京、多摩地区、近隣各県への事務所移転を促す)
満員電車問題の解決と同時に、感染対策と通勤時間等の労働環境の改善を目的とするものです。
全国の自治体と協調したスギ花粉対策。切って切って切りまくって、無花粉スギや環境に適した森林への転換に向け植えて植えて植えまくります。
国の協力が得られない場合、東京都民に向け(アプリを使用し)署名と個々人の要望の提出を呼びかけます。
クリエイター(アニメーター等)の生活支援。低賃金労働の構造的実態調査。
世界各国のアニメ、ジャパンエキスポ等への東京都としての出展。
東京都のふるさと納税の返礼としてのアニメ、漫画作品の作成(未完や続編が出ない作品など全国の市民に対する要望を集める)
表現に対するハードルのある国との、表現の自由の実現のための交渉。留学事業の実現。
有害図書指定に関連して発生した作者、出版社に対する損害の調査と、実質的な成果に対する見直し。
行政としての公正公平さについて
特定の人種あるいは国籍を掲げたキャンペーンに対しては中立の立場をとります。
転じて、地方行政特に東京という都市は人種国籍に左右されず「都民」として行政サービスを提供する事を宣言します。
性別、人種、階級等の制限を受けない人権の理念を参照する方針です。
性に関して
同性愛等の性的少数者などの枠組みに左右されない、人生のパートナーあるいは家庭のあり方に対する行政としてのあり方を模索します。
文化、法律、社会動静、哲学、宗教等、あらゆる性を規定する概念に対し行政は中立です。
市民がそれらの概念に関する闘争に、明け暮れ巻き込まれ人生を費やしてしまう事の無いよう、政治行政の制度設計や指針の提示などその役割を全うします。
選挙に関して
東京都内で行われるあらゆる選挙に関する、候補者に対する差別的な報道姿勢に対する規制条例を制定します。
小児性愛を内心の自由うんぬんで論じるべきではない、という「子供を性的にみる内心の自由はない」(anond:20200609071250)の冒頭部分はそのとおりだ。
これは性指向に基づく差別に反対という話であって、本来は内心の自由とか表現の自由とかは二の次の問題だからだ。
たとえば、この記事を読んでみてほしい。
LAタイムズの小児性愛についての記事を翻訳しました | 包帯のような嘘
読むのがめんどくさいという人のために説明すると、小児性愛は生まれつきのものであり、多くの小児性愛者はそれを変えられずに苦しんでいること、それでもなんとか現実と折り合いをつけて生きていこうとしていることが書かれている。
つまり、小児性愛は、それを持って生まれた人にとっては変えがたい性指向だということだ。
性指向という、本人の責任ではなく、また変更も困難なものに基づいて人を差別することは許されない。
小児性愛者を治療しろ? 百年前に同性愛者も同じことを言われていた。小児性愛者は性的モンスター? 「ゲイが同じチームにいたらロッカールームでケツを掘られる!」というのとどう違うのか?
もちろん、小児、すなわち性交同意年齢に達する前の子供と性行為をおこなうことは許されてはならない。あるいは、実在する子供を性的に虐待することで生み出されたコンテンツは、厳しく規制されるべきだろう。
だが、それはあくまでも行為であって、性指向の問題とは別だ。性指向が子供に向いていなくとも子供を性的に虐待することはありうるし、性指向が子供に向いていても実在の子供の人権を侵さずに生きていくことは可能である(架空の子供を描いたイラストや漫画、あるいは今回問題になっているようなラブドールを消費している分には、実在の子供の権利は損なわれない)。
性指向に基づく差別に反対することと実在の子供の人権を擁護することはまったく矛盾しない。
増田は「同性愛」と「同性間での性行為」を、「小児性愛」と「小児との性行為」を混同している。
同性愛も小児性愛もその人の持つ性指向の問題であり、それ自体が犯罪となるような性質のものではない。
逆に、性行為を問題とするのであれば、同性間での性行為に同意が伴っておらず強制性が存在した場合、当たり前だがそれは犯罪である。同性愛のすべてが犯罪でなくなるわけではない。たとえばゲイが嫌がるノンケを押し倒して事に及べば強制性交罪だ。
もしも小児との性行為が犯罪であることをもって小児性愛を犯罪だというのであれば、同性との性行為の一部は犯罪になりえるのだから同性愛も犯罪的だし、異性との性行為の一部も犯罪たりうるのだから異性愛も犯罪的な性指向である。唯一犯罪と無縁でいられる性指向は無性愛しかない。
「ある性行為が犯罪である」ことと「ある性指向が犯罪である」はまったく同一ではないことが以上の例示でわかるだろう。
幼少時に性的虐待を受けた可能性がそれなりにある人たちに向かって、別に本人たちが興味があるわけでも、知識があるわけでもない、児童性愛を擁護する言葉を声高に発する人たちは、控えめに言って、人でなしだと思う。
小児性愛者と児童虐待者はイコールではない。仮に性指向が成人に向いている人間であっても、「身近にいて、非力で、手を出しやすい存在」である子供に性的虐待を加えることは十分に起こり得る(これは児童虐待を論じる上での常識だ)。
児童への性的虐待は痛ましく、許されてはならないことだが、それは小児性愛者を差別する理由にはならない。
そもそも論として、児童への性的虐待が小児性愛者によって行われていたとして、それは一部の小児性愛者の行為にすぎず、それをもって全体を犯罪者と罵るのは典型的な差別主義である。
あなたは9・11テロの犠牲者の遺族に向かって、イスラム教を擁護する言葉を声高に発することができるのか? もちろん声高に発するべきであり、遺族の気持ちを慮って差別主義に屈するのは間違いだと言わなければならない。たとえ遺族の気持ちを傷つけたとしてもイスラモフォビアには反対すべきである。それが市民としての倫理的な義務だ。
人でなし? それはこちらの台詞だ。私から見れば、変えられない性指向に基づく差別を正当化する連中の方が、よほど人でなしに見える。
犯罪を好む特殊な性癖を持っている人たちの権利を擁護したいのであれば、自分の言葉が多数の性的虐待被害者を傷つけることを理解した上で、それでも主張したいことを、十分に勉強した上で注意深く主張すべき。
性指向に基づく差別を正当化したいのであれば、自分の言葉が性指向に基づく差別で苦しむ性的少数者を傷つけることを理解した上で注意深く発言すべきだ。というか、少なくとも自分が差別主義者であるという自覚は持ってほしい。それはそんなに難しいお願いだろうか? だって言ってることは一昔前にホモフォーブが言ってたこと――あるいは今も言ってること――と同じじゃないか。
私は、「性指向という、本人の責任ではなく、また変更も困難なものに基づいて」人を犯罪者予備軍扱いしたり(それ自体が誰の権利を侵害しているわけでもない)オナニーの道具を取り上げようとするのは差別だと思うんだけど、それは差別じゃないって言いたいのかな?
差別主義者はいつだって「これは差別じゃない」と言う。どれだけ明々白々な差別をしていたとしても。
子供の姿をしたラブドールでどう子供の安全が脅かされるんだ……?
そんなに子供の安全が気になるなら、小児性愛者よりも先に家族に目を向けるべきではないか。児童への性的虐待は見ず知らずの小児性愛者によってなされる事例よりも家族・親族あるいは見知った大人によってなされる事例の方が多いのだから。
小児性愛者を怪物に仕立て上げたところで、子供が安全になりはしない。それで安全を得たと思えるのなら、それは本当の安全ではなく心理的安全に過ぎない。あなたがラブドールを愛好する小児性愛者を槍玉に挙げる横で、今日も義理の父親が義理の子供に性的虐待を加えているかもしれないのだ。
内心は誰にも分からないけど、欲求を公言したら批判や忌避される対象となるのは仕方ないと思う。/ 臨床現場で現在ペドフィリアに行われている治療は、薬物療法のほか、認知行動療法やグループミーティングが中心。
前段。同じことを同性愛にも言えるか? 仕方ないとか寝ぼけたことを言ってないでそれが差別感情だと認めるべきだろう。差別感情を認知しなければあなたは一生差別主義者のままなのだから。
後段。それって性指向を変えるような治療じゃなくて、性指向を抱えたままでこの社会に適応できるようになるための治療ですよね。
彼らが法を犯さないように生きていくためにその種の助けが必要であるなら助けを求めればいいと思うけど、そもそも論として社会が彼らを差別しなければ彼らの社会適応への苦しみはもっと軽減されていたはずだろう。自分の性指向を公言したら差別され排斥される社会で自分の性欲との適切な距離の取り方を自然に見つけられるわけがない。
そういう人は一定数この社会には存在していて、そのセクシュアリティは実行に移されない限り誰にも否定されるものじゃない、あなたたちはこの社会の一員だ、と啓蒙していくことが必要なはず。LGBTと総称される人たちに対してはそういう啓蒙が徐々になされるようになってきて、彼らの悩みを軽減して社会の一員として包摂する流れになってきているのだから、同じことを小児性愛に対してもすればいいだけ。
一昔前のイギリスでは同性愛は犯罪で、アラン・チューリングは犯罪者扱いされたすえに自殺に追い込まれた。今、イギリスでは同性愛者は堂々と街を歩き結婚もしていて、彼らに対して侮蔑的な言葉を発した者こそが差別主義者として非難される。隣国アイルランドでは同性愛者が首相になりさえした。彼らは胸を張って通りを歩けるのだ。
小児性愛者には愛する人たちとの結婚はできないが、せめて堂々と胸を張って歩く権利くらいあってもよいだろう。
持って生まれた性指向で批判されても仕方ない、なんて、これほどおぞましい主張があるだろうか。私は成人を対象とする異性愛者だけど、思春期からお前の性欲はおかしいと言われ続けていたら発狂していただろう。そんな酷い扱いを受けてしかるべき存在なんてこの世のどこにもいない。いていいはずがない。性指向に基づく差別は間違っている。
公的機関ならともかく、私人は全員に全く同じ取り扱いをすることはできないので、あらゆる差別を禁止することは不可能で、どの区別が禁止されるべきで、どの区別が禁止されるべきでないかの検討が必要。
私人は全員に全く同じ取り扱いをすることはできない? 別に小児性愛者と友達になれとか家に上げろと言っているわけじゃない。侮辱するな、迫害するな、彼らの権利を奪うなと言っているだけ。それってそんなに難しいこと? 他人をいじめないと社会生活を営めないの?
子どもは圧倒的に守られなければいけないのがなあ。/「われらの権利を擁護しろ」と少し大きな声で言うことは、純粋な「内心」から少しはみ出してしまう行為で、小児性愛の場合はそこに多くの人の目が行ってしまう。
子供を守ることは誰も否定していないのだが……小児性愛者を差別するなと言っているだけで……
というか、思春期に入ってはじめて自分が小児性愛者と気付き苦悩する少年は守るべき子供じゃないの? 18歳になる前に自分の性指向に気づいた小児性愛者のことは守らなくていいの? どうして守るべき「子供」から小児性愛者を無条件で除外できると思えるの? それが差別意識ってやつなんじゃないの?
これは余談というかお気持ちだが、昨今の小児性愛者をめぐる議論において本気で悲しいのは、かつて私に差別とは何なのかを教えてくれた進歩主義陣営の人たちの多くが、小児性愛者への差別を扇動する悪質極まりない差別主義者に成り果てている姿を見てしまったからだ。
あなたたちから教わった差別の考え方であなたたちを叩き斬らなければならない日が来るなんて考えたくなかった。
J・K・ローリングがトランスジェンダーへの差別に加担している姿を見ることも辛ければ、反差別を訴え続けてきた人が小児性愛者へのヘイトを垂れ流している姿を目にすることも悲しい。かつて私の蒙を啓いてくれた反差別陣営が、こんな露骨な差別に加担している光景なんて夢か何かだと思いたい。
かれこれ15年以上、実在の人物に関わるBLの創作をしており、今はよく荒れる界隈の、わりと近くの界隈で過ごしている。
「荒れる」とはどういうことか。
本記事では、「SNSで閲覧制限を掛けずにカップリング名やキャラ・俳優名を出して萌え語りや創作をするアカウント(以下、鍵パカ)が出現すること」とする。
鍵パカが現れると、閲覧制限を掛けているアカウント(以下、鍵垢)が回覧板のように注意喚起を回し、
各自スパム報告・ブロックをすることで、当該アカウントを凍結させようとする、という流れが確認されることがある。
この流れが、某ジャンルではここ数ヶ月頻繁に起こっている。
(わたしは自分が関わるところの事例しか知らないが、活発なジャンルであればよく起きていることだと思う)
鍵パカはなぜ鍵パカでいるのか。
彼らが注意に対して反論するとき、以下のような言葉を使うことがある。
・当事者が傷付くというが、傷付いたという事例がない。
2では、そもそもなぜ鍵パカをやめてほしいのか、注意する側の視点から記す。
なお、本記事は実在の人物やその隣接区域を取り扱うジャンルについて主として述べるものであり、
述べていないことについては触れていないから問題ない、思うことがないというわけではない。
同じようなジャンルで過ごす方々にとって、本記事が何かの思考の一助となれば幸いである。
本項では「はじめに」で述べた鍵パカによる反論について、ひとつずつ私見を述べる。
そもそも注意する側は「『BLだから』隠れろ」とは言っていない。
「『他人の意志を勝手に妄想し、時には性的な部分まで考えているから』隠れろ」である。
誰かを想うこと、特に性に関わる部分は、人の思考の中でも極めて繊細だ。
それを勝手に他人に決めつけられたり、自分のいないところで話されていたりしたと知ったとき、ショックを受けるひともいる。
我が身に置き換えて考えてほしい。
ただの友人であるAとの仲について、別の友人Xが「Aのことが好きなんでしょ?」と言ってきた。
けれど、Xは「またまたそんなこと言って」、「否定すればするほど怪しい」と言って、あなたの言うことを一切信じない。
そのようなことがあったとき、あなたは一切不快に思わないだろうか。
また、Xは共通の友人であるYやZにも「Aが好きらしいよ」と話す。
別の友人から「Aのこと好きなんだって?」と聞かれる。ついにはAから「わたしが好きなのか」と問われる。
友人としては好きだが、恋愛対象ではない。
周りにそう噂されても、あなたもAもお互いに今まで通り振る舞えるだろうか。
「わたしは今までどおり振る舞える」というひともいるだろう。しかし、相手がそうだとは限らない。
そうでなくとも、他人から勝手に恋愛対象を定義付けられることで不快になることも十分考えられる。
こういうことを伝えると「不快にならないかもしれないではないか」と返すひとがいる。
しかし、それは「不快になること」の可能性を否定するものではない。
二次創作をする場合、妄想する対象はえてして(広義で)自分の好きなひとであるはずだ。
その対象を不快にさせる確率が決して低いとは言えないとき、それでもそのような行動を取るのだろうか。
「不快にならない」と自信を持って言えるひとは、ただのファンにすぎないのに対象の何を知っているというのだろうか。
おそらく「自分はただのファンにすぎない」という自覚も無いのだろうが。
適切な事例を知らないので自分語りをする。
高校生のころ、ジャンルは違うが腐女子仲間がいた。彼女は創作をする腐女子だった。
当時、わたしには片思いの相手(以下、Pとする)がいて、彼女にも相談に乗ってもらっていた。
ある日彼女が「あなたとPの恋愛小説を書いたから読んでみる?」と言ってきた。
当時のわたしは深く考えず「読む」と答えた。
その日、メールで送られてきた文章を読んだが、あまりにも気持ち悪く、落ち込み、彼女とは数日後に絶交した。
内容の詳細は省くが、性的描写が伴っていた。オプションで特殊性癖が付いてきた。
共通の友人である子(仲直りをさせようとしてきた)には、ざっくりと話したが、ほかの友人には話せなかった。
内容について、想像させたくなかったからである。これ以上、Pを誰かの勝手な妄想で穢したくなかった。
当事者として言う。他人に勝手に妄想されるのは、性的に消費されるのは不快である。気持ちが悪い。吐き気がする。
Pがわたしの想い人だったからわたしの受けたダメージも書ける程度のものなのだろうが、
これが全くどうでもいいひとだったら、あるいは友人だったらと思うとぞっとする。
わたしが「BLに限らず隠れろ」と思うのは、この実体験に基づくところも大きい。
わたしはアニメやマンガ、ゲーム等の二次創作を通ってきていないので、界隈のことは知らない。
そのため、一般論を語ることは避ける。
個人的な思いで言えば、アニメ等を扱う二次創作についても原作者や一般のファン(二次創作をしないファンというべきか)のことを考えれば
公式で触れていないレベルのものについては隠れた方が良いのではと思う。
ただし、アニメ等の創作をする鍵パカにいちいち注意したりスパブロを行う義理は別界隈の人間にはない。
萌え語りや創作の公開に関して閲覧制限を掛けるというのは、何もSNSになってからのことではない。
わたしの知る限り(00年ごろ~)でも、個人サイトでパス制、クイズ制、URL請求制はよく見られた。
htmlタグでロボット検索避けを埋めているサイトも数多くあった。
すべては「本人や関係者、二次創作を好まないファンに見せないため」である。
これは「ルール」とまでは言えない。
しかし、そもそも二次創作には著作権や肖像権を犯す恐れが充分にある。
鍵パカを注意する側は「外部から各権利の侵害を訴えられることや、それを理由に二次創作を禁止されること」を危惧している。
鍵パカはこれらふたつの可能性を高める。だからやめてほしい(「隠れろ」と言う)のである。
なお、言うまでもないことであるが、これらの可能性の「有無」について適切に回答できるのは公式(本人、関係者)だけである。
以上、わたしの考えを綴ってきたが、決して他者に押し付けるものではない。
納得できないひともいるだろうし、ジャンル内の自浄作用には限度があるだろう。
わたしだって上記の経験をしながら、当時から変わらずずっと実在する人物を餌に創作を続けている。
(だからせめて、本人の目に触れるようなことは絶対避けたいと思っている)
個人的には、どこの界隈も荒れることなく創作の節度を守って、公式から目溢ししてもらえればと思う。
「弱者度」が何に基づいて算定されるものかは一概になんとも言えなくて、現時点ではうまく扱いかねるが。
シスヘテ女性は、生殖を通じてこの社会の中では必要な部分として社会構造上必ずみなされる。
そこがマイノリティでありつつも、マジョリティとしての権力性に近しいところ。
母性主義的な主張は子を抱え込む母としての立場を、国や社会が認めざるを得ないところを接点として出てきている。
「日本のフェミニズム」は主流は今も昔も圧倒的に「日本人の」「母性」表象をもって主張されてきた。
だからこそ、90年代の性的少数者からの、在日女性からの異議申し立てがなされた。
2000年代のバックラッシュ騒動の時にもそこは必ずしも改善されず。
2010年代にはトランスへイトを煽動する勢力をそのうちから排泄した。
歴史的健忘症に陥りやすいツイフェミが、「私は一時期ネトウヨだった」とか平然とブログに書いてるのを見れば、何も学んでないんだな、と思う。
嗅いだ人が、それをつけていた人に惚れてしまうっていう強力な特殊効果を持つ香水をめぐる攻防なんだけど、それによって男が男に惹かれるっていう場面が笑えるシーンとして何度も描かれる。
性的少数者の中にはこれを見て傷つく人もいるかもしれない、っていう議論があるかと思いきや、ゲイは映画を見る習慣がないから誰も声を上げないんだよな。
で、ひとたび議論が着火すると、映画を見てもいないのに批判するんだよな。1,300円と2時間くらい投資してから騒げっちゅうねん
「性的少数者」自体意外と語が広い。立場や細かい多数派との違いは意外と多岐に渡る。
そもそもその辺の属性を一回抜きにしても、人間が2人そこに立っていたら意見が完全一致する方が少ない。
例えば性的少数者が普通かどうか・普通にしたいかの議論はわりかし盛り上がるし、意見も分かれるところだ。
男キャラと女キャラの恋愛を表すオタク用語である「NL」というのはノーマルラブの略称である。
この一言で「同性愛がアブノーマルだって言うのかよ!?」「男女恋愛=普通というのは時代遅れだ」「この単語が無くなるぐらいまで偏見をなくしたい」という人もいる。
一方で「でも多数派がヘテロなら、ヘテロが普通なのは事実だ」「そこまで普通になりたいとは思わない」「言葉狩りはしたくないなあ」というタイプも居る。
大きく分けて、普通になりたい人と普通でなくても良いという人がいる。
後者にも「でも同性婚制度は必要かな」「教育はあった方が良い」という折衷案的なタイプもいれば、それすらなくて良い構わないでくれと考える一切無しの人もいる。
先日、普通じゃなくていい派である anond:20191129143254 のような投稿を見た。
自分は異性愛者のくせに可哀想可哀想とよってたかってくる人間がうざい。
自分は折衷系の普通じゃなくてよい派なのだが、「わかる…」と思った。
別のトラバについているメサイアコンプレックス、これがそうなのだろう。
もう既にこれを表す単語があるのなら無知でごめんなさいなんだが、今回の投稿ではこいつらを「ヘテロメサイア」と呼ぶ事にした。
ヘテロメサイアは繊細チンピラとかお気持ちヤクザとか呼ばれている人種に近いと思う。
まあ意見はこちらに寄っているのだから有難いは有難いし、制度化には認知が第一歩という点においては重要な事だ。
ハッキリ言ってそれがすごくトラウマであり、上記の投稿に短くトラバとして纏めればよいものを長々と語ってしまっているのはこれが言いたかったからだ。
自分は前述の通り普通になる事に重きを置いていない派なので、普通じゃない事を前提にした発言をする。それがヘテロメサイアに見つかった。めちゃくちゃに叩かれた。
理解が足りない!ゲイの人が見たら悲しむだろ!この差別主義者!現代の価値観に適応できない人間は死ね!
色々言われたけど、どれもなんか酷い言葉だったというのは覚えてる。
面白い事に、それだけ罵倒された挙句に「ふーんまあ当事者なんですけどね」と告げると土下座の勢いで謝られた。
そうだよね。あなたはメサイア、可哀想な性的少数者を救う救世主なんだもんね。
ここで述べたヘテロメサイアに限らずフェミニストとかもそうだけど、最近ちょっとメサイアコンプレックスを拗らせてる人が多いんじゃないかなと思う。
メサイアは自分の欲求の為に人を利用する存在なので、救いの手を差し伸べたつもりの対象が本当に嬉しい事ばかりをする訳じゃない。昨今女性からフェミニズム批判の声が上がるのを見ていると似たようなものを感じてしまう。
こういうのが一番根っこは差別主義者なんだよね。