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はてなキーワード: 類似性とは

2015-09-09

五輪エンブレム問題専門家デザイナーではなく法律家

深津氏の http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/ とそのブコメを読んで問題が混乱してるのを感じたので書く。

ただし自分法律専門家ではないので,これを読んだ法律家の人がちゃんとした記事を書いてくれたらありがたく思う。

法律的観点から見た五輪エンブレム問題

今回の問題関係しそうな法的権利は以下の3つ。

それぞれ保護目的保護される範囲侵害判定基準が異なる。

権利保護対象保護目的侵害判定基準権利の発生
著作権創作物全般創作物の公正な利用→文化の発展類似性依拠自然発生
商標権商標(ロゴ,マーク,社名/ブランド名等)ブランドの信用維持→産業発展及び消費者保護類似性登録
意匠権製品デザイン意匠創作奨励産業発展類似性登録

商標権意匠権は割と似てるが,違いは商標権商標を一つ登録するだけで(特定産業分野の)あらゆる製品についてその商標保護されるのに対し,意匠権製品意匠デザイン)が保護対象なので,製品ごとに登録必要な点。自動車を例にとると,自動車会社エンブレム商標を一つ登録すると車種に関係なく保護されるが,意匠は車種ごとに登録必要になる(自分で書いててあまりいい例じゃないと思ったが,他に思いつかないのでこのまま進める)。つまり今回のエンブレムのようなものは,意匠権での保護は難しく商標権での保護一般的ということになる。あと商標権登録者だけじゃなくそれを見てモノを買う人=消費者保護重要目的だが,意匠権は専ら登録者保護目的

以上を踏まえて今回の問題時系列的に整理し直してみると,

1. 原案の提出

2. 原案商標調査侵害の可能性の指摘

ここで問題になったのは「商標権」であり「著作権」ではない。従って侵害の有無は類似性のみに基づいて判断される。コンセプトとかは一切関係なく,見た目が似てたらアウト。但し保護目的の大きなウェイトを「消費者が誤認しないこと」が占めるので,誤認しない程度の類似なら許容される。

3. 一次修正案の提出

4. 二次修正案の提出

5. 二次修正案を最終版に決定

6. 最終版の公表

7. 最終版がベルギーリエージュ劇場デザイナーから著作権侵害として使用停止を求められる

ここで問題になったのは「著作権」。著作権侵害は,類似性依拠性(被侵害著作物を知っていて,それを真似した)の両方が立証されて初めて成立する。従って元の著作物を知らずに作ったものたまたま似てしまった場合は,著作権侵害にはならない。佐野氏が pinterest の会員だったかどうかが問題になるのも,この「依拠性」の証明関係してくるから。但し単に会員だったというだけでは依拠性の証明としては全く不十分。佐野氏が(一次修正案以前に)リエージュ劇場ロゴを見ていたという蓋然性が高いことを示す証拠(例えば pinterestログ等)が必要

他方,深津氏は「依拠していない」ことの証明として「コンセプトが違う」ことを挙げているが,これも現時点では証拠としては弱すぎる。証拠というよりは傍証レベル。まずその「コンセプト」なるものがすべて頭の中で考えられたものしかない。つまりリエージュ劇場ロゴを見たあとでも,言い訳としてそのようなコンセプトを考えることは極論今からでもできる。「いや,このコンセプトでずっと考えてたんですよ」ということを示す物証ラフスケッチや素案,メモ等)が出てくれば多少マシだが,それでも「見ていない」証拠としては弱い。ただこの場合挙証責任基本的に訴えた側のドビ氏にあるので,よっぽどマズい法廷戦術をとって挙証責任押し付けられない限り,佐野氏側は「依拠していない」ことを証明する必要はない。

ちなみにもしリエージュ劇場ロゴ商標登録されていたとしたら,商標権での争い,すなわち類似性のみでの争いになるため,「専門家であるデザイナー」諸氏がどれだけ「コンセプトが違うから違う」と言っても一笑に付されていたはず。もっともそうなる前に商標調査で引っかかった可能性は高いし,また類似性のみの判断になるとしても消費者が誤認するレベルかというと正直微妙だとは思う。

五輪エンブレム問題専門家デザイナーではなく法律家

以上に書いたことを冒頭に挙げた深津氏の記事特に「まとめ」の直前に掲げられている5項目と読み比べてみるとわかると思うが,2番目の「コンセプト」の話以外はだいたい同じ。2番目の「コンセプト」の話も「コンセプトが違う」ことを以て「(著作権侵害問題になる)依拠性はない」という主張を補強する傍証としているだけで,デザイナー専門性とかは本質ではない。

まり,深津氏は「法律的には問題ない(はず)」と言っているだけなので,だったら「この問題専門家デザイナーじゃなくて法律家じゃね?」と考える次第である

今回の問題関係しない権利

権利保護対象保護目的侵害判定基準権利の発生
特許権自然法則を利用したアイディア発明奨励産業の発展類似性登録
実用新案権自然法則を利用した物体の形状や構造に関するアイディア考案の奨励産業の発展類似性登録

特許機能を実現する方法装置などの技術手段アイディア保護するもの実用新案も,特許ラスボスとした時の中ボスみたいな位置付けだと思うので,意味的には特許と変わらない。いずれも機能とは無関係表現としてのデザイン保護とは全く異なるので,そもそも特許制度比較してどうこうというのは筋違いだと思う。

2015-09-08

本当に佐野氏のエンブレム著作権的にアウトじゃないのかの論考

深津氏の文章を読んで、本当に佐野氏のロゴ著作権的にアウトじゃないか

疑問に思ったのでベルギー弁護士の人がやろうとしていた

ことを代わりにやってみた。

著作権侵害が成立するには

1.依拠

2.類似性

3.利用行為を行ったか

の3つをすべて満たす必要があるらしいので、順番に検討してみようと思う。

なお、著作権侵害が成立する要件については、こちら

(http://www.saegusa-pat.co.jp/copyright/cr_02_3.htm

を参考にした。


1.依拠

はつまりパクった経路が確認できるかをベルギー側が

証明する必要があり、Pinterestの閲覧の有無が争点になると思う。

当然ベルギーデザイナーPinterest自分ロゴ登録しているし

佐野氏もPinterest登録していたことが確認されている。

これによって佐野氏がベルギー側のロゴを見たということには充分妥当性があるように思う。

ここで佐野氏が実際にそのページをみたかどうかの証明必要ないし(もちろん証拠があればそれに越したことはないが)、

佐野氏がもし仮に、見ていないと発言しても、忘れたと発言しても依拠性が覆されることはない。



2.類似性

まず佐野氏のロゴベルギー側のロゴ類似している部分を列挙してみる。

類似点 ベルギー側のデザインの要素

・中心の縦の棒のパーツ

・左上と右下におかれたパーツ

・3つのパーツにより切り抜かれた円の形を視覚的に感得できること

・パーツの組み合わせにより『T』と『L』の合字が視覚的に感得できること

以上の4つではないかと思う。

(1)判例判断基準

判例では、他人著作物表現形式上本質的な特徴を直接感得できるかが判例判断基準となるようだ。

ここでは、"表現形式上の特徴"が争点となる。

9分割による"モジュール"による展開性や"書体"などは、

"構造的な特徴"となり、デザイン本質的な特徴ではない。

もし仮にまったく別のデザインなのに、モジュール展開性が

可能だったり、たまたま『T』の書体が一緒だとしてもそれは

構造的な特徴(つまりアイデアのこと)として処理され、

類似性があるとは認められないのと同じ。



(2)表現共通性

これは一目しただけで、類似していることが認められるのではないかと思う。

相違点はベルギーデザイナーデザインが外側に黒丸で囲んであり、

モノクロ(2色構成)で構成されているのに対し、佐野氏の、エンブレム

外側の黒丸に対する円がなく、4色構成であり、右上に赤い丸があることの

いであるが、これらの違いはベルギーロゴが土台にあってはじめて

成り立つものであり、ベルギーロゴ本質的な特徴であることが理解できる。

まりベルギーデザインが土台にないと、佐野氏のデザインはまず

構成できないことに着目したい。




(3)創作的部分の共通性

ここではベルギーロゴ創作的か、一般的かが問われる。

日本側は、幾何学的模様による構成は、どこにでもあると

主張していて立証は難しいように思える。

しかベルギーロゴが『T』と『L』の合字であることに

着目してみたい。

ベルギーロゴの着想の出発点は『T』と『L』の合字部分

である

それに対し、佐野氏のロゴの出発点は『T』のフォントである

原案を見てもそれは明らかである


佐野氏の案を出発点にすると、どうしてもロゴの右下にあった

パーツ(≒△)は右上にこないといけない。佐野氏の原案でも

右上に△があり、右下に△を入れる論理的必然性がなく、

ここに飛躍的がある。

ベルギーロゴには元々、『T』と『L』の合字であるという

出発点となっているため、飛躍的な超越はない。ここにベルギー

ロゴ創作性が認められる。

おそらく佐野氏は『L』の合字部分に気付かなかったのではないか。

ベルギー側のデザインが『T』のみのロゴだと思い込んだのである

日本人には一見なにも問題ないように思われる。しかし『T』の

右下にパーツを入れることは欧米では一般的ではないのである

まり佐野氏のロゴは、『T』としては非常に不自然な形状をして

いることになる。この不自然さこそ、一般的でないことの証明であり

創作性を保有しているということになる。

さて佐野氏はどこから、右下に三角(≒△)のパーツを配置する

という着想を得たのだろうか。


3利用行為を行ったかどうか

あきらかに五輪エンブレムとして利用すれば利用行為を行ったことになる。

佐野氏がエンブレムを取り下げたために、ベルギー側も告訴を取り下げるしかなかった。




おそらく以上のことをベルギー側は証明しようとしていたので

はないかと思われる。

これを読んでもみんな(深津氏や山本一郎氏を含む)は、佐野氏は

エンブレムをパクッてないということになるのだろうか、聞いてみたいところである

ついでに以前の自分記事

http://anond.hatelabo.jp/touch/20150903190148


よろしくどうぞ

「よくわかる、なぜ「五輪リエージュロゴは似てない」と考えるデ

よくわかる、なぜ「五輪リエージュロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/

なんというか、この記事を読んで「この人って常識教養もないのか?」って思った。

もしこの見解が「デザイナー界隈の最大公約数」というのなら、デザイナーってのはどれだけ教養常識もないのだろう。

この説明をみて「その通り!」って思う人って、どれだけ教養も知識もないのだろう。

深津貴之という人は、ベルギー国やそのデザイナー侮辱しているのだろうか。

今回の類似性理解するには、前提としてステンシル書体を知っていなければなりません。これは製図やレタリングで使われるステンシルテンプレートモチーフとした書体通称です。リエージュや、チヒョルト展の文字デザインは、このステンシル系の書体ベースにしています

まりリエージュチヒョルト展のロゴにあるTやLの文字の分割具合は、「ステンシル書体お約束」なわけです。

1.ステンシル書体という書体ジャンルがある

2.リエージュロゴチヒョルトロゴは、このステンシル書体に属する

3.ロゴのTが分割されてるのは、ステンシル書体(のローマン系)の作法

などとあるように、深津氏の論理大前提に「リエージュロゴ」や「チヒョルトロゴ」は、ステンシル書体を基本にして作られている、という主張をおいている。

そんなわけあるか。

ステンシル体というのは、ペンキやスプレーなどで簡単に、木箱や木樽などにアルファベットをペイントする「型紙文字」を模したものだ。

ところどころ文字の線が切れているのは、「型紙を作るときに閉曲線を作らない」為とか、さらに型紙の強度(壊れにくさ)なども加味した、

実用大前提理由があるんであって、オシャレのためでも独自性のためでもない。

更に、ステンシル書体の由来が「実用」、それも非常に泥臭い場所用途での実用やその使われる対象や実際の転写品質関係もあることから

ステンシル書体は「野性味」、良い意味での「不精さ」「無骨さ」「無頼」「不器用」「泥臭さ」「俗っぽさ」「荒っぽさ」、そういうイメージ連想させるものだ。

ベルギー国王名前を冠したベルギー王立の劇場エンブレムを作るときに、そんなものから出発するわけがないだろう。

深津氏の主張は「ベルギー王や王立劇場イメージは、野生、不精、無骨不器用、泥臭い、俗っぽい、荒っぽい、である」といっているに等しく、

ステンシル書体から出発してスタイリングを経て現在ロゴになった、と主張するということは

リエージュ劇場は、ちょっときれいにスタイリングされただけ、そもそもの根本的にはステンシル書体が似合う場所なんだよ」と言っているにすら等しい。

まりにも無教養すぎるし、ベルギー国や王立劇場、そのデザイナーに対してあまり侮辱的過ぎる。

「でもステンシル書体と共通する特徴があるんだし、ステンシル書体と同じ」というところから恐らく深津氏の論理は出発しているんだけど、

それこそ深津氏が言うところの「井と♯と#が同じ文字と言っている、無学な藁人形」と深津氏の知能が同じであるということに等しい。

なんというんだろう、これが本当に「デザイナー」の共通認識なのか?

デザイナーというのはここまで無教養で、無礼で、不躾で、まがりなりにも一国の王を侮辱して恥じない人間なのか?

深津氏の説明を聞いて「なるほど」と思った人は、このぐらいのことも頭が回らないのか?

五輪エンブレムをめぐるホッテントリについて」がわかりにくい理由

http://anond.hatelabo.jp/20150907223211

個人的釈然としない部分がいくつかあるので整理・言及したい。

増田氏の主張は以下の通りである

-----

1. 「劇場ロゴパクリ」は争点になっていない。五輪エンブレムとして採用するか否かが争点

2. 類似性(似ている/似ていない)が認められるかどうかということが話題となった

3. パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで著作権上の問題が生じる

4. 他の案件におけるパクリ(盗用)はあった

5. 「劇場ロゴパクリ」はなくても、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。その根拠は次の二つである

5-1. 文字とは無関係の装飾要素かつまったく不要な赤丸が原案の右下にあったか

5-2. 「(佐野氏がチヒョルト展を訪れた事実を認めた上で佐野氏がチヒョルト展のロゴを)覚えてない」と弁解したことについて、彼は嘘をついている、プロならばこれほどのデザインをあっさり忘れるはずがないから

6. 深津氏は争点になってないものについて解説しており、深津氏の見解のもの意味を持たない。

7. 「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような深津氏の主張は妥当ではない

8. 深津氏の見解の主要な点は「専門家に任せるべきだ」とした部分にあるが、最終案を決めたのは素人である武藤事務総長であるため、深津氏の主張は成立しない

9. ベルギー劇場ロゴとの類似性が認められるかどうかという法的争点を抱えている状況の中、佐野氏の他の案件におけるパクリが判明。加えて、原案と最終案はまったく違うものであるほか、最終案を決定したのは事務総長ということが判明した。これをふまえて、「五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じた。

10. 9 を無視して「専門家判断に任せよ」という深津氏の主張は問題デザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく問題所在理解していない。

11. 今回のエンブレムは、エンブレムデザインとしての良し悪しで決まったのではなく、展開力で決まった

12. (原案の)丸と三角と四角というデザインはあまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。専門家民衆の声と自分の心の声を聞くべき

13. 心の底では「くだらん」と思いながらはっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると「なるほど」と言って承諾するだけで「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。

14. そんなデザイナーたちの良心というものを信用できない

id:sisya 氏のコメントに対し:

15. 「(劇場ロゴと)似ているか依拠しているか」というような話題は争点ではない

16. この事件問題点は、ベルギー裁判で勝つかどうかじゃない

17. 著作権問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係問題にしていない。ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい

id:bros_tamaコメントに対し:

18. “五輪エンブレムデザインで何が問題であったのか”ということは今回の騒動ではほとんど意味がないことだというふうに評価している

19.パクリデザイナー作品五輪正式採用することの倫理的な是非」が問題

20. 美術的な問題はない。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もないというのが本項の趣旨

21. 劇場ロゴとの類似性とかパクリとかはほとんど話題になっていない

22. 深津氏の見解否定しているわけではなく、本質とは関係ないとして軽視しているだけ

id:Eizo0000 氏のコメントに対し:

23. この問題専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視している

id:honma200 氏のコメントに対し:

24. 問題本質は、法律違反をした(あちこちで画像の盗用をした)作者のデザイン五輪採用するかどうかという倫理的な部分にある

25. 23 の主張も、深津氏の記事が訂正されたことによりかなり色褪せてきたとも言える。

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全体を通して、おそらく増田氏は「犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレム採用することは倫理的問題がある」ということを言いたかったのだろう。

しかしながら、その結論に向けて展開した論理が歪んでいること、根拠が不十分であったりすること、本筋とは関係ない論理が混じっていること、

話題」「争点」「問題」といった言葉の使い分けが曖昧であることが、エントリのわかりにくさや理不尽さを生じているのではないかと考える。

冒頭で個人的釈然としない部分があると述べた。論理が歪んでいるのが気持ち悪いと思う私的な感情から、その部分について指摘していきたいと思う。

増田氏が取り扱う問題と深津氏が記事が取り扱うことが違うということを増田自身認識していない

増田氏は、深津氏の記事を「劇場ロゴパクリではないと言っているだけ」としたが、この時点から既にズレが生じている。

記事は、「五輪リエージュロゴは似てない」と考えるデザイナーがどうしてそのように考えるかといった点にフォーカスしたものに過ぎず、増田氏が取り扱いたい問題については言及していない。

増田自身も、ロゴデザインがどうとか劇場ロゴと似ているかとか著作権がどうとかは争点ではない(主張1、15、16、17、18、20)、

自身の取り扱いたい問題本質とは関係ないとしている(主張22。これらの主張だけを見れば主張6 も「(増田氏にとって)意味を持たない」として解釈することができる)。

それなのにも関わらず、自身問題とすることを深津氏の記事と結びつけたために、6、7、8、10 といった見当違いな主張が生まれ、(はてブコメント欄観測する限り)読む側に混乱が生じたのではないだろうか。釈然としない。

■各人のコメントに対する返答の的はずれさ

3、4 に対し、id:sisya 氏は「単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要」とコメントされたのではないだろうか。

そのことについては深津氏の記事の「前提知識1」の項に書かれており、それを踏まえてid:sisya 氏は「参照元エントリ全然読解できていないように見える。」「もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。」と述べたと思われる。

そう考えると、id:sisya 氏に対する返答は的外れである

id:bros_tama 氏の「あの記事は“五輪エンブレムデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです」というコメントに対し、

「それはわかっている」「本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ」と返答しながらも、なぜ自身問題とすることを深津氏の記事と結びつけたのか。

その矛盾id:bros_tama 氏がコメントをする動機となったと思われるが、いかんせん増田氏の返答は的外れである釈然としない。

根拠不十分

4 については、実際にトートバッグの件について佐野氏側が「第三者デザイントレースしていたことが判明」と発表していることから、間違いのない認識だろう。

しかしながら、5 については何の根拠もない。その根拠とする5-1 についても5-2 についても不確かではないか。釈然としない。

■「それ、あなた感想ですよね」(ひろゆき風)

ちょっと主語が大きすぎるのではないかと思う(主張9、12、13)。自身の思いを投影しただけに過ぎないと感じる。釈然としない。

不要論理

犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレム採用することは倫理的問題がある」という結論に向かう上で、6、7、8、101112、13、14 は必要のない論理ではないか。

深津氏がいわれもなく謗られたと受け取る可能性がある内容を記述することに何の意味があるのか。釈然としない。

犯罪者呼ばわり

トートバッグの件について、佐野氏側はトレースした事実を認めたが、それ以外の案件についてはまだはっきりとした裏付けはとれていない。

何らかの罪に問われたわけではない現在の状況下において、一個人を「大犯罪者」と呼ぶのは果たしていかがなものか。一個人が一個人を断罪することは危険ではないかと私個人は思う。釈然としない。

■ずれる結論

犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレム採用することは倫理的問題がある」(以下、結論Aとする。)という結論に向けて論理を展開したかと思いきや、

id:Eizo0000 氏のコメントを受けて「この問題専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視している」(以下、結論Bとする。)と結論を変更した。

その後、深津氏が記事結論部分の表現を変更したことを受け、増田氏は「問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます。」「「大衆デザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定役割があったと言えるでしょう。」と追記。

なんだ、結論Bを言いたかったのかと思いきや、さらにその後のid:honma200 氏のコメントを受けて、再び結論Aを書き連ねる。これでは、結局言いたいことが錯綜しても仕方ない状況だ。釈然としない。

■まとめ

横暴な論理を振り回すことは非常に危険行為ではないかと思いますしかしながら、増田氏が問題視する倫理面に切り込んでいくことは重要と思うので、これについて僕も書けたらよかったのですが、見識がなく断念しました。どなたかお願いします。

過去の何かに似ないデザインなんて作れる訳ねーだろ、ぼけ

ちゃんとしたグラフィックデザイン歴史なんて百年やそこらだけれど、毎年何万人っていう人間が何作品作ってきたと思ってるんだ。それ以前には人類が始まってから人間創作活動してきた。

 

「他のなににも似ていないデザインを作れ」なんて無理だよ。あほか、くそが。

 

佐野氏の五輪ロゴの話でいえば、モジュール化という今回のコンセプトをグラフィックに落とし込んでいれば問題ない、極端な話、佐野氏がベルギーロゴを知ってたとしても問題ないというのがデザイン業界では雰囲気な気がする。結局どれだけ、それらしい能書きが作れて、それをグラフィックとして落とし込めているか、なんだよ。そして、すくなくとも佐野氏は、デザイン業界言語では、ベルギー差別化できるくらいの論理武装は出来ていて、それがデザイン業界にいる人なら「ああ、こうしたかったのね」というのがコンセプト文なしで大体伝わるものが作れていた。だから佐野氏案は採用された。仮に審査中にベルギーロゴが出てきていたとしても、審査員は「よいデザイン」と判断していたんじゃないかな、と思う。

 

けど、それが市民乖離してるんだとしたら、どっちかがすり寄るしかない。ただし、もしデザイン業界側がすり寄ることになったら、それはデザイナーは何も作れなくなる。ほんとに。だって手を動かした瞬間、その手の軌跡は人類数千年の歴史のうちの誰かが動かした手の軌跡に似てしまう。どうしても似てしまう。ちょっと考えれば分かることだろ。

似てることが罪なら、もう本当になにも作れなくなる。

 

そんなこと言っていると、いやそうじゃない「態度」が市民に受け入れられなかったんだという反論になっていない反論がくる。それ気持ちは分かるけど、それならそれで徹底的に「態度」に対して批判を加えるべきで、「ロゴ類似性」を責めるべきではない。能書きぐだぐだ書いて剽窃だ、だから佐野氏は駄目だ、と言ったところで、佐野氏態度がむかつくんだったらその能書きは「ごまかし」だろ。素直にお前の態度がむかつく、って言えば済む話じゃないか。

 

それならそれで佐野氏も「ごめんぴー、調子載ってたよ」って謝って済むじゃない。それで手打ちだよ。トートバッグとか展開例の写真のみそぎは別にまた必要だけれど。

 

いまはデザインの話だけだけど、根源的には音楽にも絵画にも彫刻にもマンガにもアニメにも小説にも料理にも何にでも言えちゃうよ。そんな息苦しい世界は私は嫌だよ。

 

http://twinavi.jp/topics/news/55ed5ffc-0a30-4ffc-a057-3b8eac133a21

これを読んで、あと、これのブコメを読んで。思ったことを書きなぐりました。

五輪ロゴコメント見ててエセ科学信者を思い出した

五輪ロゴ類似問題について、以下のブログ話題になっていました。

◯よくわかる、なぜ「五輪リエージュロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/

あくま五輪ロゴベルギー国立劇場ロゴに絞った話ですが、

一般国民の私にも大変分かりやすく書かれています

ロゴの成り立ちが違うのも分かりやすかったですし、

何より文章が丁寧で読んでいて楽しい文章でした。

が、コメント欄を見ると

「今のデザイナー図面鉛筆で引けずオリジナリティーが無い」や

「ここで書かれているような類似性に関する分析なんて、もはやどうでもいい」など

ブログ主題からずれた反論で溢れています

私もフランスパンぱくった時点で佐野氏はアウトだろと思っていますが、

ここで語られている話とは論点がずれすぎてます

しか最初に「問題を切り分けるために、トートバッグ空港写真などの盗用問題や、ロゴの良し悪し、作者の人格審査委員会のもの等については、本稿では扱っておりません。」と書かれているにも関わらずです。

で、何かこの感じ見たことあるなーと思ったら、反エセ科学記事に対するエセ科学信者コメントにそっくりだと気付きました。

・主張と違う論点反論する

自分(または他の人)が良いと思っているから正しいと主張する

業界自体が間違っていると言い出す

人間自分の信じたいものだけ信じると言いますが、

ここまで行くと酷いものだなと思った話題でした。

2015-09-07

五輪エンブレムをめぐるホッテントリについて

深津貴之 氏の見解が多くのブクマを集めている。

   http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/

   http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/

 

実はこれは、「劇場ロゴパクリではない」と言っているだけだ。上手にていねいに解説しているが、話の趣旨のもの組織委の見解と同じだ。その点は、増田が指摘したとおり。

 似ているとか似ていないとか最初に言い出したのは誰なのかしら

 

しかしながら、組織委の見解はピントがずれているし、その意味では、深津貴之 氏の見解もピントがずれている。そのことを解説しよう。

 

 1.劇場ロゴパクリは争点ではない

劇場ロゴパクリはもともと争点となっていない。これを話題にしたのは一部の人だけ(もしくは初期だけ)だ。

 

では、何が話題になったか? 次の二つだ。

  (1) 劇場ロゴとの類似性

  (2) 他の画像パクリ(盗用)

 

前者は、著作権問題だ。これは、パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで、著作権上の問題が生じる。このことは、劇場側の弁護士が主張したことだ。

後者は、サントリーのバッグや、五輪の展開例や、多摩美ポスターなどで、画像の盗用があったことだ。これを「パクリ」と指摘した。

要するに、「劇場ロゴとの類似性」もあったし、「パクリ」もあったのだが、「劇場ロゴパクリ」は、もともと争点になっていないのだ。

その意味で、深津貴之 氏の見解のもの意味を持たない。ありもしない仮想敵攻撃しているだけだ。藁人形論法であるにすぎない。

劇場ロゴパクリ」というものを、彼がいくら否定しようが、それは、ありもしない怪物攻撃するドン・キホーテと同様であり、もともと存在していない対象否定しているだけにすぎない。

 

 2.チヒョルト展のパクリ

劇場ロゴパクリ」はなくとも、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。なぜなら原案では、右下に余計な赤丸があったからだ。

このような赤丸は、文字とは無関係の装飾要素であり、まったく不要ものだ。実際、他の文字では、このような余分な要素はない。

  http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bunbuntokuhoh/20150828/20150828225213.jpg

なのに、T という文字でだけ、余分な赤丸の要素が追加されている。この文字だけにある特異な現象だ。

このことからしても、これがチヒョルト展のパクリであることは明白だろう。

(仮にパクリでなければ、赤丸は中央上または中央下にあるはずだ。それが佐野デザインの9分割のポリシーからだ。)

 

さらに、状況証拠もある。「そんなことは覚えていない」と弁解したことだ。素人じゃあるまいし、プロならば、これほどのデザインをあっさり忘れるはずがない。

とすれば、「覚えていない」と言った時点で、嘘をついている。あるいは、ジョブズ並みの「現実歪曲空間」に入っていることになる。そのいずれだとしても、パクリはあったことになる。(ただし本人が正直に申告していないだけだ。)

 

 3.専門家に任せるか?

深津貴之 氏の見解の主要な点は、「専門家に任せるべきだ」ということだ。

1. 大衆によるデザイン判断は、デザインの一側面しかジャッジできない。

2. 多面的ジャッジするためには、専門家への信任が必要

 

しかしながら、今回の最終案を決めたのは、専門家である審査員ではなく、素人である武藤事務総長だった。

   http://www.yomiuri.co.jp/national/20150904-OYT1T50016.html

ゆえに、「(決定を)専門家に任せるべきだ」という主張は成立しない。現実には専門家には任せられず、素人勝手に決めてしまたからだ。(そして佐野最終案に決まった。)

 

また、今回の主要な争点は、デザインの良し悪し(デザインジャッジ)ではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。

デザイン的に良し悪しを判断する(ジャッジする)のならば、専門家が決めてもいいだろう。しかし人々が批判したのは、デザインの良し悪しではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。そこでは、次の諸点が問題となった。

  ・ ベルギー劇場と法的争点をかかえている。

  ・ その法的争点は、類似性の有無であって、パクリの有無ではない。

  ・ トートバッグではパクリが判明した。(彼は犯罪者だと判明した。)

  ・ さらに、続々とパクリが判明した。(彼は大犯罪者だと判明した。)

  ・ 原案と最終案がまったく違うと判明した。(組織委は嘘をついた。)

  ・ 原案では、最終案にある大きな円がなかったと判明した。

   (大きな円を選考理由とした初期の説明は嘘だったと判明した。)

  ・ 最終案を決定したのは審査員たちでなく事務総長だと判明した。

   (制度を逸脱した暴走であると判明した。非合法ふう。)

 

これらの問題が続々と判明した。このことから五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じたのだ。こういう民意無視して、「専門家判断に任せよ」というのは、問題デザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく、問題所在理解していないと言える。

自分の専門領域のことしか理解できない人を「専門馬鹿」と呼ぶ。

今回の問題は、「劇場ロゴをパクったかどうか」というデザイン界だけの問題ではないのだ、と理解するべきだ。そもそも、「劇場ロゴをパクったかどうか」というのは、もともと争点になっていなかったと言える。(劇場だって、そのことを争点としない旨を主張している。商標法違反ではなくて、著作権法による類似を争点とすると主張している。)

今回の問題は、上で列挙したようなさまざまな問題が絡み合っている。ここで「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような主張は妥当ではない。むしろ専門家こそ、民衆の声を聞くべきだ。

 

最後に一つ。

深津貴之 氏はデザインのことは専門家に任せるべきだと主張する。しかし今回のエンブレムは、エンブレムデザインとしての良し悪しで決まったのではない。展開力で決まったのだ。つまり、布地の柄物のパターン出来映えのような見方によって決まったのだ。

そもそも、(原案の)丸と三角と四角というデザインは、あまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。なのに、心の底では「くだらん」と思いながら、はっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると、「なるほど」と言って承諾するだけで、「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。

自分の(デザイナーとしての)内心の声を聞くことができず、説明された「展開力」なんていう言葉を信じてしまうようでは、デザイナーたちの良心というものを信用できないのである

専門家は、民衆の声を聞くべきだ。そしてまた、自分の心の声を聞くべきだ。「あの原案はあまりにも凡庸だ」と、自分の心の声が訴えているはずだ。

 


 

 追記。

 

id:sisya 参照元エントリ全然読解できていないように見える。単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要。もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。

 

本項の話を全然読解できていないように思える。「(劇場ロゴと)似ているか依拠しているか」というような話題は、争点にはなっていないというのが、本項の趣旨だ。そんなことはどうでもいいから関係ない、という趣旨

 

だいたい、そんなことは、たいていの人は話題にしていない。著作権を争点にしているのは、ベルギー弁護士だけだ。日本人ほとんどは、そんなことに関心を持っていない。関心を持っているのは、id:sisya さんや id:allezvous さんぐらいだ。

 

この事件問題点は、ベルギー裁判で勝つかどうかじゃない。そんなことを話題にしている人は、ほとんどいない。(そもそも裁判が成立するかどうかもはっきりとしない。訴えの利益がないので、却下されるかもしれない。そうなったら、著作権を争点にするのは、すべて空論になる。)

 

もちろん、本項でも、著作権問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係問題にしていない。(ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい、という趣旨。)

 

id:allezvous 著作権侵害要件たる依拠性を検討できない分析なぞ意味はない。

 

依拠性によらず類似性だけで著作権法違反を問える、と主張しているのは、私ではなくて、ベルギー弁護士 http://bit.ly/1VMxON2 です。詳細は、このリンク先にある週刊新潮記事に書いてあるので、そちらを読んでください。

一般に、ロゴのような単純な図形では、依拠性というものは(証明のしようがないので)問われず、類似性けが問題となります。たとえば、ミッキーマウス著作権では、単に似ているだけで問題視されます。いくら「真似したわけじゃない」と主張しても、「似ている」だけで問題視されます

なお、本項では、著作権についての「分析」なんかしていません。著作権は本項では話題になっていません。ついでの形で、1行か2行、ちょっと引用ふうに言及しただけです。

 

id:bros_tama あの記事は“五輪エンブレムデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです.本来どうすべきであったか,解決のためにはどうする,とかはこれを踏まえて考えなくちゃいけないんだよね,という話です

 

それはわかっているし、本項もその趣旨で書いてあります

それを前提とした上で、“五輪エンブレムデザインで何が問題であったのか”ということは、今回の騒動ではほとんど意味がないことだ、というふうに評価しています五輪エンブレムデザインなんか、あまり重要ではないんですよ。デザインじゃなくて、これを採用するかどうかが問題なんです。

端的に言えば、「パクリデザイナー作品五輪正式採用することの倫理的な是非」です。ここでは倫理的問題があるだけで、美術的な問題はありません。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もない、というのが、本項の趣旨です。

本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ、という趣旨です。


 

誤解があるかもしれないので解説しておくと、私は別に、深津貴之 氏の見解否定しているわけではない。素人向けに専門家が詳しくデザインのことを解説しよう、という努力は立派なものだと思うし、有益でもある。

ただしそれは、あくまで今回の騒動のオマケふうのエピソードとか裏話であるにすぎない。楽屋裏の話。こっそり井戸端酒場でおしゃべりするための話題

今回の騒動は、佐野デザイン五輪エンブレム正式採用するかどうか、ということだ。それは、「採用しない」という形で、一挙に解決した。これだけが問題であったからだ。

一方、劇場ロゴとの類似性とかパクリとかは、ほとんど話題になっていない。だから、こんなことはどうでもいいことだ、というふうに評価している。

深津貴之 氏の見解を(間違っているとして)否定しているのではなく、(本質とは関係ないものとして)軽視しているだけだ。勘違いしないでほしい。

 


 

その後、状況が少し変化したようです。次の質問に答えようとして、気づきました。

 

id:Eizo0000 何と戦ってるんだ。

 

この問題専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視しています。そのことは、本文中で引用した箇所で、下記のことです。

1. 大衆によるデザイン判断は、デザインの一側面しかジャッジできない。

2. 多面的ジャッジするためには、専門家への信任が必要

 

しかしながら、この箇所は、今では次のように書き直されました。

1. 大衆によるデザイン判断は、外見やキャッチーさに集約されていまう。デザインの一側面しかジャッジできない。

2. 多面的ジャッジするためには、デザイナや弁護士など専門家への信任が必要

 

深津貴之 氏が、元の文章を書き改めたので、本項において問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます

大衆デザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定役割があったと言えるでしょう。

 

  ※ 「集約されていまう」というタイポは、原文のままです。

    引用部分はコピペしました。

 

id:honma200 結論とかまとめを書かないから散らかりすぎてて良く分からん

 

まとめ:

この問題本質は、最終案が劇場ロゴパクリであるかどうかではなくて、考案者があちこちで画像の盗用をしたという問題である。つまりデザイン問題ではなく、法律違反をした作者のデザイン五輪採用するかどうかというという倫理面の問題である。したがって、この問題デザイン専門家に任せておけば済むというわけには行かない。「デザイン専門家に任せよ」という主張は、今回の問題本質からは外れている。

 

  

2015-09-04

読書メモ代替医療トリック

代替医療トリック

http://www.amazon.co.jp/dp/4105393057

代替医療:主流派医師の大半が受け入れていない治療法(この本の中での定義)。

ホメオパシー※1とか鍼とかハーブとかその他得体の知れない代替医療は数あれど、それらを冷静に論じた研究は意外に少ない。盲目的に信じ込むか、逆に根拠のないたわごとから皆殺しにすべきとか、ヒステリック物言いは割とあるのだけど。

この本では、医薬品では実際に行われている二重盲検法を同様に用いて、代替医療各々は効果があるのか、何にどれくらいの効果があるのかというところを冷静に検証している。第一章では、経験ではなく根拠に基づいて医学を発展させてきた歴史を大まかに説明している。二重盲検法について知っている人でも医学史として楽しめること請け合い。壊血病の対策をいち早く発見できたイギリスの躍進とか激アツ。

※1:ある物質が持つエネルギーを水に記憶させることで治療薬を作成する。溶液は百万分の一以上に薄められて有効成分の分子が含まれてないかもしれないけど、希釈されればされるほどエネルギーは増幅されるから大丈夫だよ(大丈夫じゃない)。材料植物鉱物生物など様々。ベルリンの壁材料にしたものもあるよ。

この本の中では、具体的なエピソードは読んで欲しいので省きますが、多くの代替医療科学的な検証を経てプラセボと同等の効果しかないという結果が繰り返し提示されます効果があるものも、検証する立場の人が中立じゃなかったり、認知的なバイアスによるものなんじゃないかという検証がなされます一時的に悪い状態(風邪とか)が平均への回帰でほっといても治ったのを、代替医療を施したせいだと思ってもらう工夫とか。

作中でも、また世の中にも「プラセボでも効果があるのならそれでいいじゃないか」という意見がしばしば出されます。著者はこれに対し、以下のように反論していました。

プラセボ効果を最大にするために、医師意図的患者を騙すことになる

=水平的な立場ではなくなり、患者自己決定権を阻害する、不誠実な関係を築くことになる

医師プラセボ効果を守るために薬効の真実について口をつぐむことになり、医学進歩ストップする。製薬企業も金のかかる新薬開発を投げ出して砂糖玉販売に終止するようになってしま

代替医療自体に害がなかったとしても、代替医療を選択することで主流派医療を受ける機会損失となり危険

予防接種を受けさせない親とか)

治験でもプラセボ効果が出やすい分野とかはあるそうです。軽度・中等度のうつとか。でも抗癌剤とかだと明らかにプラセボは駄目なことが多いっぽいので、そっち方面までプラセボでもいいんだの民に駆逐されるとやばそうな。▲

などなど。このあたりがヒステリックじゃなくエレガントに書いてあって感じが良かったです。

アメリカでは代替医療の一つであるホメオパシーが、昔から有力者に好きな人が多いとかでFDAアメリカ食品医薬品局。医薬品臨床試験とかする。つよいきびしい)の審査抜きでガバガバ売られてたり、イギリスではチャールズ皇太子代替医療大好きでその効果の程を知らしめるための機関を作って研究者から批判されたりとか、日本とは違う実情があるみたいです。日本でもやってる人はやってるみたいですけど。

巻末には30種類くらいの代替医療効果のほどが簡略にまとめてあるので、代替医療概論としてもおすすめ

代替医療についてまとめて学ぶのが初めてだったので興味深かった。「多次元DNA手術はチャネリングテクニックを用いて、DNAレベル問題のある配列を取り除き、神のような完璧配列で置き換える治療法です」とか最高にキてる。▲

代替医療呪術構造が似ていると思った。

呪術がその効力を発するには、以上の条件を満たさなくてはいけない。呪術それ単体で存在するのではなく、呪いにかかったと信じる人がいて、それが呪いにかかったからだと信じる社会があって、呪いをかけた人間がいて、はじめて呪術が成立する。呪いにかかったと思わなければ呪いは成立しない。

以前『医療人類学のレッスン』でも書いたんだけど、プラセボあるいは代替医療効果を発する状況には、似たような構造があると思う。

代替医療を受ける人が居て、それが効果があるものだとする社会存在して、そのコミュニティでは権威のある施術者が居て。施術者と患者関係が非水平的(知ってる人と知らない人、授ける人と助けを乞う人)という構造も似ている。実際には何もないのに、なにかあるように見せかけることができるってほんとに魔法のようだと思う。呪術代替医療プラセボ類似性が私の中で熱いので、今後も追いかけていきたい。▲

2015-09-03

一般国民の一人からエンブレムの件について

騒動に一区切りついたので、一般国民からも少し話をしようと思う。

ロゴについて

パクリでは無いと考えている。

「この先クライアントから色々言われてしまうんだろうな」

当然であるデザインを購入した後、世間から問い合わせを受けるのはクライアント。もし、サントリーの一件で佐野氏の名前が出ていなかったら、どうなっていたか


自社の名前で出している以上"管理杜撰意識がなってない・人のものを盗んでも平気な会社"そう言われるのはクライアント。盗用騒動があって尚、業界全体に擁護被害者意識がある以上、こちらが自衛するのは当然の行為


また、説明を求めるのも当然。発表後はあなたの代わりに説明をしなければならない。その行為を「文句いちゃもん」だととらえ、「黙らせる」ためにはどうしたらいいのかなど、まるで敵であるかのように表現されているのを見ると、非常に残念。

擁護非難

論文で嘘が発覚

安全の為の試験を怠る

等、業界の信頼を著しく落とすような問題が発生した場合同業者はそれを非難、または自分のところは違うとはっきりと主張する。


ところが今回はどうだろう。

業界ではよくあること

・そんなこと言っていたら、商売にならない

・内々の資料が表に出ちゃってかわいそう

圧倒的に擁護の声が多い。理解に苦しむ。一体何を守ってるのだろうか。

一般国民にはモノを作る大変さは理解できない」

モノを作っているのは自分たちだけだと考えている方が多いようだ。なんという傲慢あなた身の回りにあるモノやサービス自動で生まれてくると思っているのか。


私もモノを作る仕事従事している。


我々の世界では、プレゼン用はもちろん、部署内で数人しか目にしないモノでも、お金を払って正規ルートで入手した素材・原料を使って試作を作る。他社商品を参考にする際も、お金を払って購入する。人のモノを盗んで作ったりはしない。人のモノを盗んで商売に使うのは、それ素材を作った人に対する侮辱、そして犯罪


社内の試食会で、コックが畑から盗んできた野菜を使って料理をしていたら、あなたはどう思うだろうか。


一般国民には、あなた方がやっていることはそう映っている。


世の中には有料無料を問わず、使っても問題ない画像が多数存在してるが、それを購入・探す手間すら惜しむ。そんな意識で「モノを作る大変さ」などと口にしないでほしい。複製が容易なデータからと、甘えてるだけだ。「内部的なものは人から盗んでも可」という甘ったれ業界常識一般国民には通用しない。ここを改めない限り、悲劇何度でも繰り返す。


そうは言っても…、ではなく、まずあなた自身が"盗用とわかっているものを使わない"、そう”指導する”ことから始めて欲しい。さもなければ、イザという時、あなたも同じ目にあってしまうだろう。

オリンピックエンブレムデザイナー

此度、使用中止という結果に終わった原因は、エンブレム類似性よりも、作ったのが佐野氏だったからだと考えている。当初、私や周りの人間エンブレムを支持していた。世界規模で探せば似ているモノがあって当然と。


だが、トートバッグあたりから雲行きが怪しくなり、それ以後、彼らが行動を起こす度、不信感が募り、空港写真が決定打となった。


我々一般国民も日々苦労しながらモノ・サービスを作っており、誰かの下で働いている。


会見で後付のコンセプトを話し、内々だから日常的に盗用を行い、それが公開される事故が起こったら、部下が何も言わなかった、業界では普通と弁解する人間作品に罪はない。けれど、私は佐野研二郎という人間を支持することはできなかった。


使用予定だったエンブレムは優れている。インターネット上で作られたどの作品よりも、上品で堂々としている。しかし、人の権利蔑ろにする人間に、オリンピックエンブレムデザイナーでいてほしくはなかった。使用中止の速報を見た時、ホッとした。


出来上がったモノと作ったヒトとを混合して判断する行為は、モノを作る人間として恥ずべきものだ。騒動が収まり、冷静になった今、深く反省している。今後、同様の事件が起こった際、冷静に多くの問題を切り離し考えるよう改めたい。

http://anond.hatelabo.jp/20150903120851

これまで俺は成熟した民主主義を保持し賢明なる日本国民の選択は常に正しいと、願望混じりながら、しか確信していたけど、今回の件でかなり揺らいだよ。

こうも容易く法倫理を乗り越えて民衆による私刑が行われてしまうのか。

そしてどれだけの人間が、今回の騒動がアートに対して危機的な状況をもたらしているか、考えているか

ぱっと見の類似性だけでこれがクロだとするならば、アート終焉する。

とりわけミニマルデザインなんてのは過去デザインと類似する蓋然性は高い。

オリビエ・ドビ氏は訴訟を続行するようだが、自分自分の首を締めていることをわかっていないのか。

まあ裁判十中八九ドビ氏が負けるだろう。

しか自分危惧するほどアートへの影響はないのかもしれない。なぜならまさに著作権蹂躙している二次創作同人世間からお目こぼしを受けているからだ。

2015-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20150902062848

丁寧な回答ありがとうございます


ただ数点ほど新たな疑問も。

選考委員の人たちは、並べられた百数個のデザインを選ぶときに、類似性議論したとは思えません。議論対象となるのはそのデザインが選定基準合致しているかどうか、そして十分なパフォーマンスを発揮するかどうかという点において評価が下されていると思います


これに関してですが、私は、作成者思想に関して質問しました。ほぼ全てのデザイナーの方が「類似酷似やすい」と考えるデザイン作成者が選択する理由は何でしょうか?


さらに読んでいて思ったのですが、デザインの選定基準オリジナル性というものは入っていないのでしょうか?

私は当然入っていると思っていたのですが、どのデザイナーが見ても「類似酷似やすい」と思うデザインでもOKということでしょうか?

http://anond.hatelabo.jp/20150902061103

デザインが万が一他のデザインと類似することはあるとしても、原案修正と2度連続して「偶然」類似することはあるのでしょうか?

可能性は否定できない以上、あり得るとしか言えません。可能性の度合いについては判定はできませんが、言うほど高いものではないと思います

単純なデザインは似やすいというモノがありますが、佐野氏のデザイン以外に白井氏のデザイン酷似したものドビ氏のデザイン酷似したものは見つかっていない

見つかっていないというだけですので、他にも類似例が無いとは言えないでしょう。ネット上で検索できるものが全てではありませんから。上記と同様、類似する可能性が否定できない以上、複数事例についても類似例がある可能性も否定できません。

また万が一偶然だとすれば、擁護する方が口をそろえて言うように、「酷似類似しやすデザインであるにもかかわらず、このデザインを選択するというのはデザイナーとしておかしいのではないでしょうか?

選考委員の人たちは、並べられた百数個のデザインを選ぶときに、類似性議論したとは思えません。議論対象となるのはそのデザインが選定基準合致しているかどうか、そして十分なパフォーマンスを発揮するかどうかという点において評価が下されていると思います選考委員の人たちは類似性担保する役割を担っていませんから。その点については提出された作品全ての法務的チェックをするのは組織委員会法務関連担当者(おそらく広告代理店関係者)だと思います

ただ、個人的意見としては、本文で記述した通り文脈が浅過ぎるという点から選考基準が甘いと感じています。もしくは他の応募作品があまりにしょぼかったのか。でも後者は考えにくいですよね。

2020東京五輪クリエイティブに思う事

まもなく四十路を迎えるWebクリエイティブ関連の仕事をしております。昨今、五輪関連でクリエイティブ問題が多々取りざたされているので、思うところをつらつらと書きます

エンブレム盗作疑惑

この問題については、盗作疑惑が持ち上がる以前から有識者から一般人まで、好きだの嫌いだの、良い悪いと倒錯(盗作ではなく)した意見文句罵詈雑言が飛び交っておりましたが、まず問題の整理として、いわゆる「有識者視点からお話しておかなければいけないと感じた事を簡単にまとめます

デザインダメだったのか?

まず、デザインの質はどうだったかについてですが、結論から言うと一定程度のクオリティは持っていると言えます

JOC組織委員会要求がどのようなものであったかについては文献が見当たりませんが、件の作品が発表された際の「パラリンピックとの並立」や「様々なメディアへの展開性」という選考基準に着目すれば、十分にそれを満たしていると言えます。また、図版的な面で言えば、黒・赤という色は白地を背景として視認性が非常に高く、かつシンプルな形状であるから人間認知作用的に受け入れやすい要素を持っていますキャンペーンロゴとして捉えるならば、第一の視認性・認識度は優れた機能性があると言えます。以上がクオリティにおけるプラス評価の点です。

次にマイナス評価として上げられるのが、過去文脈からの逸脱です。詳しくはNaverまとめあたりに歴代ロゴがまとまってるのでご覧いただきながら読んでいただきたいのですが、バルセロナ長野シドニー北京バンクーバー・リオ・平昌に共通しているのは、「人間」がモチーフになっているということです。途中で切れているだろと突っ込まれると思いますが、この文脈オリンピックの歴代ロゴの中で「スポーツイベントである」というアイデンティティ担保する大きなイニシアチブを持っています。これを逸脱するからには、それを代替するだけの文脈必要になりますが、件の作品にある「亀倉雄策」と「鼓動(日の丸)」というモチーフではそれだけの強い文脈を感じられません。

上記の総合評価としては、「アリっちゃアリだね」という評価です。悪いとは決して言いません。

パクリなのか?

正直、分かりません。情報錯綜し過ぎていて、どれが本当の情報判断が付けられないので、パクリであるという明確な断言はできません。それに、展開例として上げられた書体動画で展開していたテクスチャとしての分解要素などは「オリジナリティ」と呼べるものですし、それが仮にパクリ作品に擦り合わせられたものだとしても、その判別は難しいです。デザイナーは後から派生した要件デザインの中にマージしていく事も仕事のうちですから

何が問題なのか?

これはもうリエージュ劇場ロゴとの「類似性」に尽きます。まず法的な論拠についてですが、先発作品商標登録をされていなかったので、商標侵害という係争にはなりません。実際、訴訟となっているのは「著作権」の侵害についてです。「著作権」というのは、商標登録云々というのは一切関係がなく発生し、作られた作品過去作品に類似していた場合過去作品にその作家性等の支配権を有するというものです。具体的には「ベルヌ条約」という国際規程があり、条項ごとに各国が批准する形で国内法に継承されています日本批准しています

次に、デザイン機能としての瑕疵が、過去作品に類似作品があるという時点で発生しているという点です。例えば、コーポレートロゴ等を制作する際に、ロゴにまつわる使用規定や細かなパラメータ(配色の具体的な数値等)、ステーショナリー類などの派生製品制作指針をまとめますが、これを「ビジュアルアイデンティティ」と言います。その名の通り「アイデンティティ」というくらいですから、そのデザインについては「自己同一性」が求められるわけです。簡単に言うと他のロゴマークなんかと誤認されないような工夫が必要ということです。

件の作品は、その色にもアイデンティティが込められていると思いますが、実際は白黒メディアで伝えられる場面もあり得ます言いがかりっぽいかもしれませんが、仮にあの図式がモノクロ写真撮影され、かつ「鼓動」の部分が何か遮蔽物で隠れてしまったとします。すると、リエージュ劇場ロゴとの判別は非常に難しくなります。つまり場合によってはその写真印刷された情報が、リエージュ劇場情報と誤認される可能性を否定できないわけです。この点について、このデザインには明確な瑕疵があります

実は妥当デザインだったのではないか

まり一般には知られていないと思いますが、デザイン価格には業界団体がかなり具体的に指針を出しています

内容としては、デザインの料金は「作業料」と「質」「経費」「量的指標」によって決める事が妥当ですというものです。

「量的指標」というのは曖昧ですが、デザインが利用される事業規模と捉えてもらえば大体合ってると思います。これは事業規模が大きなものはそのデザインに求められる様々な機能性や今回のような「展開性」などがより複雑になります。これについて担保するものと考えてください。その上で、以下の内容、特に事業規模の数字についてご覧下さい。

東京オリンピック 2020 計画書(150ページ)を熟読してみました。 | コラム | Web制作 株式会社ワンゴジュウゴ WAN55 (東京千代田区http://www.wan55.co.jp/column/detail/id=124

これらの全てを、このデザインが網羅するとは言いませんが、「東京オリンピック2020の収入計画」という項目、オリンピックというイベントに直接関わる事業チケット売上とライセンシング(グッズ販売)に限って考えてもなんと911億円もあります。これを元に先のJAGDA早見表ではもう200億円以上ということで量的指数が上限いっぱいです。この表の上限でも1,200万以上と算出できます

この金額が妥当かどうかというと、私はこのレベルデザイン制作したことが無いので何とも言えませんが、しかし、オリンピック組織委員会提示したデザイン費は、たったの100万円です。特別招待席のチケット(笑)も付いてますが。

オリンピックという世界規模のイベントロゴですから世界最高級のクオリティが求められるのですが、与えられた予算はたったの100万円です。それなりに自分作品に対して責任を持つデザイナーであれば、この予算では受けられないと思います。ましてや、世界でも参加できる人間が300人くらいといわれているレギュレーションにあつまるデザイナーが、時間単価をどれくらいで換算すると思いますか。

以上の点から僕個人としてこのデザインは、予算と質が見事にマッチした、実に妥当デザインだったのではないかと結論付けるに至ったわけです。

2015-09-01

オリンピックエンブレムが逆転する秘策

俺は凄いことを思いついたので委員会は今すぐパクってくれていいぞ。

ハイスコアガールが少し前に許されたのは知ってるな?

知らないならニュース見てこい。

要約するとハイスコアガールって漫画が無断で色々使ってパクり元から怒られて販売停止になってたけどようやく相手側から許されたよってニュース

アレの理由はずっと許さないと言ってたSNKプレイモア会社中国とある会社に買収されたことにあるんだ。

買収されてトップが変わってそれで事がスムーズに運んだんだな。

今回の件との類似性は分かるな?

パクった→許されない→買収→トップ変更→ハッピーエンド

これが勝利の鍵だ。

俺はオリンピック日本で開催されないなんて事になってほしくない。

から今回は無料でパクらせてやる。

感謝しろよ。

さぁ金を用意して敵を書い叩きに行くぞ!

2015-08-26

かえってエンブレム評価が下がった感

その後、大会組織委員会佐野さんの案を商標登録するために、世界中商標確認永井さんは「(原案と)似たようなものがほかにあったようだ。そのため佐野さんの案は、元のイメージを崩さな範囲でパーツを一部動かすなど、組織委の依頼で何度か微修正された」とした上で、「最初の案は(類似性が指摘されている)ベルギー劇場ロゴとは似ていなかった。盗作ではない」と話した。

http://www.asahi.com/articles/ASH8T5VXCH8TPLZU005.html

原案段階で似たような意匠がすでに商標登録されてて、それを回避しようと微調整したら商標登録されてない劇場ロゴに似てしまった、と。

これって「独自性がない、そこら辺にありふれたデザイン」と言ってるようなもんじゃないの?

盗作かどうか以前に、どう転んでも凡庸デザインエンブレム採用する必要はあるのか?

2015-08-21

多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと

佐野研二郎盗作疑惑について(学生個人の意見です/2015年8月23日時点)。

彼はご存知の通り多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業し、現在アートディレクターをやりながら多摩美術大学統合デザイン学科の教授も務めています

実際には、まだこの学科自体設立から2年目で、佐野教授自身講義を行うことは今までにほとんどありませんでした(というか、私はまだ彼の講義を一回しか受けていません)

統合デザイン学

統合デザイン学科は、多摩美の本キャンパスとは別の上野毛キャンパス世田谷区)にあります

学科長はプロダクトデザイナー深澤直人教授で、そのほかに、ウェブデザイナーインターフェイスデザイナー中村勇吾教授HAKUHODO DESIGNの永井一史教授、そしてアートディレクター佐野研二郎教授の4人と統合デザイン学専任講師先生構成されています

現状、学校によくいらっしゃるのは深澤直人教授統合デザイン論)と中村勇吾教授メディア技術概論)で、あとのお二人は統合デザイン論に前期で一度講義をしたぐらいです。3,4年から講義が「プロジェクト」という形態に変わり、そこで教授別にクラスが再度編成され、たぶんそこからお二人もがっつり学校にいらっしゃるようになるはず。

世間的に言えば「つぶしのきく」学科だと思われがちなのですが、実際には「デザインベーシック」つまりデザインの基礎を最初の2年間で徹底的に教わり、そのベースを生かして次の2年間で社会的ローンチできるプロジェクトデザインを学んでいきます。具体的には現在グラフィックプロダクト・インターフェイス描写などの必修と、そのほか選択を受けています教授の顔ぶれをみてわかる通り、細分化されたデザインあらためて"統合"することで、「これからデザイン」に特化した人材を育成する学科です。現在デザインのものが非常に広い意味をもつようになり、そんな時代において「グラフィック」や「プロダクト」などに特化しているだけでなく広い知識と経験を持った人材必要とされています一見デザインとは直接関係のないようなこと(たとえば佐々木正人さんによる『アフォーダンス』の講義)や、表面的なグラフィックの造形技法からCADを利用した立体物、Webやメディアアート作品などに応用されるプログラミングなどいろいろな技術を学ぶことと同時に、それに付随する感覚みたいなもの学習しているように感じます。実際、そういった感覚みたいなぼわっとしたもの現場で役立つこともあり、領域の垣根を越えることでみえてくることや繋がることもたくさんあります

武蔵美の基礎デザインとどう違うのか、と聞かれることがあるのですが、基礎デとは根本的に近いはずです。学科長は原研哉さんで、そもそも深澤教授は基礎デザイン学科の教授だった)

(とにかくやることが多いので、課題の量は半端ないです。たまに自分がなにやってるのかわからなくなります。あと先生たちもまだどのくらいの量の課題を出したら学生達の生存に関わるのかをよくわかってないっぽい。勘弁して欲しい。)

先ほども言った通り、まだ学科が生まれから2年しか経っていないので、3,4年を経験した学生はいませんし、卒業生もいません。だから就職先のデータもなく、倍率はそこまで高くないのですが、統合デザイン学科特有のコンセプトに魅力を感じて、たとえば多摩グラ受かったのに蹴ってこっちに入学したり、試験内容が東京藝大のデザイン学科に似ているところがあるので(平面構成)そこを目指す人たちが受けたりすることもあるみたいです。

〜〜

ざっと学科についてはこんな感じです。詳しくは学科サイトをみたり、各教授のNHKプロフェッショナルとか本をみたりしてみてください。デザインに興味のない人でも、おもしろいと感じる点はきっとあると思います

さて、たぶんこれを読んでるみなさんが一番興味があるのは佐野研二郎さんについてだと思うので彼の話題に。

オリンピックエンブレムについて

 関係ない話ですがエンブレム発表の前日に佐野教授現場の手伝いに行った視デの友人曰く、めちゃくちゃ笑顔だったようです。彼自身亀倉雄策さんのオリンピックエンブレムがかなり好きで、それを(いい意味で)引用して新しいエンブレムを作り出し、それが選考で選ばれたんだから、嬉しくない理由がわかりません。

 最初自分があのエンブレムをみたとき直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムとは一線を画すような新しいデザイン、新しい東京イメージを担ってくれるような力強いものに感じました。そしてそれと同時に、あ、きっとこれ佐野さんのデザインだ!と思いました。たぶんそう思った要因の一つに、中央の「黒」の棒の部分があります。完全な黒ではありませんが、こういったエンブレムで無彩色の黒を使うのは一般的にはわりと暴力的結構批判もきそうだなと思ったのですが、そもそも佐野教授自身黒色を多く用いることで有名なので納得がいきます。たとえば、「統合デザイン学科」のロゴやその周辺のデザインはすべて白と黒形成され、学科の、現状では異端であるもののそれがこれからベーシックになっていくはず、という考えや、力強い勢いを感じられ、学科学生の多くはこのデザインを気に入っています。他にも東京国際映画祭ロゴをはじめ黒を多用したものは多く、今回のエンブレムに関して喪章だなんだと言われていますが、まあそういうネガティブイメージで彼がデザインしたということはないかと思います

 造形的にベルギーデザイナーエンブレムと似ているということで炎上していますが、擁護派の皆さんが言っている通り、ああいった幾何学図形を利用したロゴマークである限り、なにか他のデザインと似てしまうのはしょうがないことです。というか、そもそもロゴの本とかをみると似ているもので種類分けされているぐらいです。造形的に似ているからといって、そのなかにあるコンセプトは異なります。造形的な点のみで「パクリ」だと決めつけてしまうのは、あまりにも強引なのではないでしょうか。今回のエンブレムは、エンブレムとしてのオリジナリティよりもその拡張性や普遍性を追求した、シンプルで力強いものだと感じています

 さらに、ベルギーデザイナーはそのロゴ商標登録していないとのことです。となると、エンブレム側にまったく問題がないと言っても大丈夫なのではないでしょうか。

 記者会見佐野教授感情的だったという話がありますが、もともと彼は自分自身でも「おれはキレキャラだ」とおっしゃっていたり、講義中に実際にキレてくれたりするので、まあ無理はないかなと思います。余談ですが彼は最近藤子・F・不二雄関係仕事が多く(映画TOYOTA広告成功から)、ドラえもんミュージアムにあるレストラン新聞広告用の写真を撮りに行った際「ジャイ子の“ハット”シュッドビーフ」がもう販売中止ということを聞いて、レストランの方に無理を言ってその場で作ってもらい、その写真新聞広告に載せメニューを復活させたという逸話があります。好きなものに対してのオシは誰よりも強く、普段から感情的にはなりやすいような人なのだと思いますhttp://fujiko-museum.com/blog/?p=18605/

 このエンブレムに唯一問題があるとすれば、なんとなく「高揚感」が感じられないところです。ただ、それは佐野教授問題があるのではなく、それはこのデザインをたくさんの候補の中から選んだ選考委員問題があるのです。他に、もっとオリンピックらしさ」があって、高揚感の感じられるデザイン案なんていくらでもあったはずです。

 その選考一般的選考会の方式をとっているのであれば、いまいわれている佐野さんのデザインから特別に選んだということ憶測もありえないのではないでしょうか。基本的選考名前を伏せるはずだし、原研哉さんや葛西薫さんをはじめ他にも応募した有名デザイナーはたくさんいらっしゃいます(応募基準も厳しい http://www.fashionsnap.com/news/2014-09-19/olympic-tokyo-emblem/)。

トートバックについて

 これについては、一人のデザイナーとしても、いち仕事人としてもありえない行為だと私は思います。まったく擁護できません。佐野教授下の人がやったとしても、「佐野研二郎デザイン」と書いてしまたからにはそれなりに彼にも大きな責任が生じるし、そもそも画像からまるごとトレース(というよりコピペ)するのはまさに「パクリ」で間違いないと思います。いかに制作環境が劣悪だったかがわかります一般的デザイナーであれば、なにかをトレースする際、そういう素材の揃ったサイトに月額とかでお金を払って利用したりしていることがほとんどかと。こんなやっつけ仕事お金がもらえるなんて、純粋に「いいなー」と思いました。バレてよかったですね(今後のMR_DESIGNのためにも)。

デザイン業界は"腐っている"?

 ネット上では佐野教授周辺の関係図みたいなもの話題となっています審査委員が同じだとか、広告代理店が牛耳っているだとか、いろんな話があります。つまりデザイン業界は身内のなかで行われているということです。残念ながら、それは確かにあると思います業界内で評価するシステムというのは確かにあるし、長嶋りかこは彼の直属の後輩です。

 自分の話になりますが、私は実はまったくデザイナーになりたいと思っていませんでした。多摩美の、統合デザインに入りたいと思ったのは、まさにそのコンセプトに魅力を感じたからです。深澤教授のおっしゃっていた「いいものを触った時、『これがほしかったんだよね』と人は言う。本当に欲しい物のかたちは、すでに決まっている。」この言葉が、デザインのみならず広い意味で今後の「デザイン」に応用できると思ったのです。だからいまでもグラフィックプロダクトをやりつつもそれが最終地点ではなく、デザインという思想や考え方をあらゆる事柄に応用していきたいと考えています。そういうことを学ぶには、ぴったりな学科です。そして受験勉強をするために、予備校に通い始めました。そこの授業ではあらゆる有名デザイナー作品が取りあえげられるのですが、その中にはどうしても理解できないものもありとても悩んだこともありました。もしかしたら、そういったものなかに現在問題視されているような業界評価システムの土壌でうまれものもあるのかもしれません。

 一般人に受け入れられにくいデザインは、果たして優れたデザインと言えるのでしょうか。なにをもって、ただのデザインは優れたデザインになりうるのでしょうか。その答えはまだ私にはわかりません。

そのほかのデザインについて

 いま、どんどん新しい「パクリ疑惑」のデザインネットユーザーによって見つけられてきていますが、デザインの歴史が深くなり文脈形成されていくと、そこには明らかな引用模倣も増えていきます。それはどんな文化でも同じで、音楽なんかもそうです。デザインスタイルであり、継承されていくものなのです。だから、造形的な面でなんでもかんでも「パクリ」と決めつけられてしまうと、デザインの歴史が続いていくことそれ自体否定することと同じになってしまます。なにかから影響を受け、文脈形成されていくことを「パクリ」の一言否定しないでください。

 今回の件で佐野教授問題があったことも明確になりましたが、一方で、彼の講義を受けていたからかもしれませんが、とてもじゃないけどオリンピックエンブレムにおいて彼は雑な仕事をするとは思えません。

亀倉雄策仕事で一番好きなのは1964年東京オリンピックエンブレムだ。シンプルで力強く、唯一無二のデザイン。いつの日かこのようなシンプル骨太仕事がしてみてみたい、と思うようになった。ニッポンを、世界を、あっといわせる仕事。一生に一度でいいからそういうデザインをしてみたい。シンプルであること。明快であること。太くあること。Simple. Clear. Bold. ある日から僕のデザインの指針となった。デザインとはなんだ。デザインにはなにができる。そういう自問自答を繰り返した。(中略)目の前の画面は世界に確実につながっている。デザインシンプルで深い。考え、それを超えるべく手を動かし、また考え、また手を動かす。邪念はいらない。デザイン思想だ。簡単に。深く。明快に。太く。でも簡単に。ストレスはある。でもいつも朗らかである。そういうデザイナーでありたい。デザインの道はまだまだ続くのだ。負けない。僕には亀がついている。亀はゆっくり、確実にやってくる。

佐野研二郎

 エンブレム問題トートバックの問題根本的にまったく異なるものです。そこを一緒にしてしまうことが、今後のデザインを殺すことにつながりかねません。

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(追記1) より主観的意見です

エンブレムについて、おそらく審査員も彼の作品だと見ただけで分かる人もいたかと。黒を使用したこと、そしてあのTOKYO 2020のフォント。あれは東京国際映画祭ロゴでもおそらく使用していましたし、彼のデザインだと一目でわかる点でもあります。正直、あのフォント幾何学図形を用いたあのデザインにとって最も理想的フォントであったとは思いません。

学生じゃないだろみたいな意見をみて「いや学生ですけど・・・」と匿名なりに思ったりしたしそれを証明できないのもなかなか悔しいのですが、多摩美術大学統合デザイン学科の学生です。「業界の端っこにいるみたいな気分になってる時点でこの界隈の闇を感じた」美大って、セミプロみたいな人が集まるんだと思います。それは、一般大学とは別の特殊試験内容が課せられるからで、それをクリアするために誰しもある程度のレベルの状態で入学してきます。そういった意味で、業界の端っこみたいな感覚私自身拭えない点です。生意気だと思われてしまったら、申し訳ないですが・・・

–––––––––––––––––––––

(追記2)

ベルギー側が商標登録していないためエンブレム盗用疑惑について私は「まったく」問題がないと書きました。著作権がある、ということだけでエンブレムとの類似性を訴えられるのであれば、本当にどんなデザインでも訴えられてしまます商標というシステムは、そういう意味でも機能している。ただ、自分自身勉強不足でもあるのでもっと調べてみますhttp://ipfbiz.com/archives/olympiclogo.html たださっき調べたら、東京オリンピックエンブレムもまだ商標登録が済んでいないとのことで・・・w

佐野教授への評価は、私自身、下がりました。学生とき評価とかなにを偉そうにと言われるかもしれませんが。こんな仕事をするひとにはなりたくないな、と純粋に思いました。トートバックのような小さな仕事でも、しっかりと制作しなければ、大きな仕事、つまりオリンピックエンブレムのような仕事ダメになるというか、結局ものをつくるとき姿勢ってそのひとの評価デザインにもちゃんと反映されるんですね。この一件はデザイナー関係者、それを学ぶ学生、もしくはいままでデザインの外部にいたとされていた人たちにとって、デザインとはなんなのか、パクリ模倣とはなんなのか、そういったことを知り考えるきっかけとしては良い機会になったと思うのです。だからこそ、そこで歪んだ考え方や間違った見解が社会に浸透していくことは、できるだけあってはならないことだと思います。なにが正しくて、なにが間違っているのかすらよくわからない時代ではありますが。

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(追記3)

多摩美情デに関する批判は完全に話題から脱線している内容であり、改めて読んでも全く的を得ていないものです。訂正しお詫びします。大変申し訳ありませんでした。

・ご指摘の通り「在日」や「売国」などに関しては一部のネットユーザー根拠のない事実拡散しているだけだと認識しています。この一件を複雑化させるだけだと感じたので訂正しました。

2015-08-15

信頼を取り戻すところまでが仕事だと認識してほしい、と同業者は願う

佐野氏のような外部のクリエイターに割と頻繁に発注する立場人間です。広告会社勤務、企画職。オリンピックエンブレムそれ自体は良くも悪くもないかな、と思ってますムービーになった時の展開はいいと思うけど。個人の感想です

プロセス含めリオのロゴのほうが素敵ですよね( https://www.youtube.com/watch?v=OzHwJxl9qq0 )。

で、トートバッグの件、本当に困るんですああ言うことされるの。何が困るって、仕事が膨らむんです。クライアントからしてみれば「ああいうことになったらたまったもんじゃない」と思うのは当然のことで、正しい反応だと思います。で、そのしわ寄せは当然広告会社にやってきて、「これは本当に大丈夫なんだろうか」という責任を取ることになります過去に発表された膨大な表現物との類似性チェックなんて、IOCくらいの大きな組織であればできるかもしれないですが、一私企業がやるには限界があります。でも、何らかの形でやらないと済まされないだろうなあ、と陰鬱な気分。

ただ、責任を取るっていっても、広告会社責任なんて限定的で、そのクライアントの扱いがなくなるくらいのものですが、クライアント、今回でいえばサントリーさんの被るダメージというのは結構甚大なもので、責任が取れる類のものじゃないわけですね。なので、あらゆる企画に対するクライアント側のチェックフローが長くなったり、思い切った企画が通りづらくなったりするわけで、そういう意味で「クリエイティブ及びその仕事」に対する信頼が大きく失墜したことに対する責任を、どういう形でも(もちろん、可能な限りクリエイティブ方法で)いいので取って欲しい、と切に願っています

なにとぞ、よろしくお願いいたします。

2015-08-11

http://anond.hatelabo.jp/20150811124105

はてサのあれはどう見ても意図的混同させようとしている。

 

攻めるときは、細かい瑕疵でも針小棒大叫び、善とは厳密に異なるものだと強弁し、

悪とのおおざっぱな類似性を強調して混同させる戦略をとる。

 

守るときは、だいたい責めるときの逆の手法

 

弁論術の戦法としてはそれでいいのかもしれないけど、

相互理解を困難にさせるから、正直言って邪魔

ときどき馬鹿なんじゃないのと思うようなこじつけ

混同を狙っているコメがあって残念な気分になる。

もう少し努力してほしい

2015-08-02

http://anond.hatelabo.jp/20150802092656

あっ こういう言及もされていたところを見落としていた。

筆者が現代社会存在する主体・客体と精神分析概念対応付けて、概念間の類似を説こうとしているとみられ、ここから近代社会合理性下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかにたとえ批判を試みようとする筆者の主張が推測できる。


現代社会存在する主体・客体」ってなんですか?

疎外される存在/連帯する存在」の対立をもとに様々な概念対応付けて類似性を説こうとしている、なら分かります

また「下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかに対応させ」ってどこから読み取ったんですか?

あなた意図的に無内容とされているところで別の側面も取り上げてみますね。

無意識(エス)

社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい

≒疎外された心的実体≒外傷的な真理が声を発する場所

自己幻想世界≒無条件の連帯肯定平等存在しない共同体自己愛を過剰に傷つけられ自己認識が悪くなった存在承認供給不足にある存在

権力者側の情報ネットワークからヨソモノとして外されている存在

スケープゴート≒異人≒リンチ対象排除された後も外での動きも捉えられる存在≒誇大自己を持った者の自尊心の基盤

≒仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在

暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過される対象

パノプティコン的な匿名の不可視視線の下で見世物化された監視付き生活強制されている存在近代社会合理的理性を自称する存在による抑圧的意志対象

≒警察権力が市民生活の内に力を発揮する場=秩序創成暴力対象

フロイト無意識岸田秀のエスと吉本隆明自己幻想とルネ・ジラールスケープゴート民俗学の異人概念関係を、まとめて書いた人を見た事がない。

それと仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在に対しては暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過されがちである事、それらの現実的現象を具体的事例をあげて(たとえば自らの体験と関連付けて)書いている人も見た事もない。それとフーコーのいうパノプティコン的な見世物化された監視生活強制されている存在と警察権力の関係を、はっきり書いている人を見た事もない。そうした待遇強制されている存在がいる事で象徴秩序が安定するという話を具体的事例と関連付けて明確に書いた人も見た事がない。

から私は(私のようなパンピーくんの触れれる範囲情報源では)先例のない事を書こうとしているところがあるという事です。

理想自我想像界=小文字の他者a

≒心像の世界クオリア世界

≒私的幻想世界意味イメージ世界

≒「象徴他者」の位置より一段下の、原始的対象の位置(想像的なもの性的慰安対象)に留めおこうとされた「想像他者」。ラカンは「対象a」とよぶ。転移拒否された患者が、分析家をおく場所も、この「対象a」としての場所である。この関係は、相手に社会的幻想を抱いていた転移局面と比べてはるか不安定で、患者攻撃性が分析家に向け、容易に発動しやすい状態(これは樫村愛子ラカン社会学入門」からのそのままの引用が多くを含まれており、対象aだけ抜き出した部分との関連が付けがうまくできていない。全てをわかり易く統一的に書いている本も読んだ事がない)

他者から尊重されたり対等な存在としてメッセージを交換する「人間」の壇上に上げないように弾圧される<生ける死者>といった世界

暴力誘発性、脆弱性を帯びた存在

≒「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望

また「影」に関しては、村上春樹小説内で繰り返し出している概念で、「掟の門」はカフカの有名な短編思想的に言及価値のあるとされるものですが。

それらをまとめて精神分析現代思想用語で語っているのなんてどの先生の本でも見た事がないのですが。

他者から尊重され対等な存在としてメッセージを交換する立場になく、非人間的に表現された他者から暴力誘発性を帯びた存在と、心理的に傷つけられるという条件により発動する模倣欲望の関係を深く語っているのも、日本学者では私のようなパンピーくんの触れる事ができる可能な範囲ではほとんど見ないのですが。

宮台真司はミメーシスという概念をいつ頃だかか頻繁に使うようになったけど、「心理的に傷つけられた事により生じる模倣欲望」という意味で使っているのは見た事がない。

理想自我=小文字の他者a

マスコミカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ

自己統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他者の中への囚われの関係

自我理想大文字の他者A=社会的世界

≒魅力を持った生に変わらなければならない場であり、魅力による上下関係差別排除がある世界

≒魅力の低い者が客観的理屈として正しいと思って主張した事も認められない世界

≒魅力の高い者が客観的理屈として間違っている事を主張しても容認される世界

≒目に見えない効力をもつ法としての場の空気人間関係の網の目に支配された世界

グルメで無条件の連帯肯定平等など存在しない世界

労働勉強生産的な成果を挙げ社会的評価される事が美徳であるとされる世界

≒人が自分社会化するために選ぶ標識名誉対象美徳のもとになる秩序

≒人が憧れる、かくありたい存在モテる存在=小文字の他者aに模倣される存在

ここから美男美女が多い芸能人さんたちやファッション誌を飾るモデルさんの世界自我理想範囲に入る対象となる事が分かると思います

超自我

羊飼い自称する存在選民意識を持った存在

≒誇大自己に執着した存在他者非人間的に判断したりする存在モラルのない世界

自我理想と同じ媒体の、秘密を暴く欲望と懲罰をともなう側面

非道徳的で反倫理的な審級であり、倫理的裏切り烙印

集団の「エス」をバカにしたり笑う攻撃的な文化制作

集団の「エス」や「小文字の他者a」の位置にある存在を徹底マークして情報を「大文字の他者A」の位置にある存在に流している存在

法秩序の外にあり、しかしま法秩序に属している存在

個人情報漏洩する国家プライバシー侵害する国家

植民地主義国家民族差別を容認する国家人権侵害を推奨する国家死刑を支持する国家、同じ国民の中に棄民を作り出す国家

これは現代日本社会存在する大きな問題関係する事です。

集団の「エス」をリンチする事に日本国家レベル加担している事を思想から得た発想で語ろうとしていますが、それを語っている先生存在も見た事がないです。

対象a

現実領域対象aの除去の上になりたっているが、それにもかかわらず対象a現実領域を枠どっている

リンチメカニズムにより歪められた表現被害者よりに修正した回顧的な文章を書く暴力行為告発する探偵

反ユダヤ主義者にとってのユダヤ人存在

≒メラニー・クライン的な意味での「乳房

まなざし

永井均の言う<私>=他者にとっての私に還元されない<私>≒秘密の宝

これも統一的に語っている日本先生は見た事のない事を語ろうとしているのが理解できると思います

なんか思想的に意味のあるところをごっそり切り落として対応せず、自分立場に都合のいい所だけを提示して、形式演出だけ知的雰囲気を醸し出した内容の乏しい書き込みをするのはやめていただきたいですね。

http://anond.hatelabo.jp/20150802084238

「≒」を用いて、推移的な類似性を説いているとみられるが推論過程妥当性をいちいち検証したところで大した意味はなく、最終的に導出された観念のみが筆者の主張せんとするところに過ぎない。

したがって本論の内容は以下の対応関係帰着させるのみで十分であり、これ以外の部分は無駄である

無意識(エス) ⇔ 一般市民より下の階層の者として認識され、愚か者範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されていない

理想自我 ⇔ 理想化された鏡像として他者表現の複製を取りこみ、融合しつづける動き

自我理想 ⇔ 共同体言語的に構造化されている共同主観的世界

超自我 ⇔ 近代社会合理的理性を自称する存在(非理性的な「エス」とした存在を抑圧的制裁対象としていいとしてもいいとする存在

対象a ⇔ 寄る辺ない存在

筆者が現代社会存在する主体・客体と精神分析概念対応付けて、概念間の類似を説こうとしているとみられ、ここから近代社会合理性下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかにたとえ批判を試みようとする筆者の主張が推測できる。

しかし、そもそも精神分析占星術理論体系と大同小異迷信でありその種の迷信を今でも奉ずるもの知的弱者)以外には無意味・無内容。

「ご指導」をお願いされたのでしてやるが、オナニーして寝てろ。

2015-07-15

砂糖シンナー類似性

砂糖

一時的に良い気分になれる

効果が切れると無性に欲しくなる

・歯に悪い

メンタルにも悪影響を及ぼす


シンナー

一時的に良い気分になれる

効果が切れると無性に欲しくなる

・歯に悪い

メンタルにも悪影響を及ぼす

2015-06-16

第三 被告の答弁

一、請求原因第一項の事実並びに本件府中ゴルフ場がいわゆるメンバー制のゴルフ

場で、その利用料金が一人一回につき会員二五〇円、非会員二、五〇〇円ないし

三、〇〇〇円であることは認めるが、その他の事実関係は知らない。本件娯楽施設

利用税の徴収法律上の原因を欠くとの原告の主張は争う。

二、本件娯楽施設利用税の徴収は、次に述べるとおり、地方税法及び東京都都税条

例の規定にもとづいて適法かつ有効に行われたものである

(一) 地方税法第七五条第一項各号は、娯楽施設利用税の課税対象施設として、

「(1)舞踏場、(2)ゴルフ場、(3)ぱちんこ場及び射的場、(4)まあじや

ん場及びたまつき場、(5)ボーリング場、(6)前各号に掲げる施設に類する施

設、(7)前各号に掲げる施設以外の娯楽施設道府県条例で定めるもの」を挙

げている。ところで、娯楽施設といえば、概念的には、娯楽または射こうを目的

して公衆に利用させる施設意味し、施設の利用により客に遊びを楽しませ、又は

客の射こう心をそそるようなものがこれに該当するから、その範囲は広く、その内

容も多種多様であるが、娯楽または射こうを目的とする施設のすべてが娯楽施設

用税の課税対象施設になると考えるのは行き過ぎであり、そこにはおのずから社会

通念上の限界存在する。前記(7)の条例で定める課税対象施設に関し、「もつ

ばら青少年の利用するスポーツ性の強い卓球場、スケート場」、「動物園または百

貨店の屋上等に設けられている子供の娯楽施設で射こう心をそそるおそれのないも

の」、[娯楽性の少い天然湖沼のつりぼり類似の施設」、「天然スキー場スキー

リフトで娯楽機関と認められないもの」などについては課税を差し控えることが適

である旨の自治庁の課税行政上指導助言(依命通達)が行なわれているのは、

右のような理由によるものであるしかし、他方、課税対象施設としての適否を考

える場合に、単に娯楽性が微弱であるとか、スポーツ性が強いとかいう点のみを考

慮するのも必らずしも妥当ではないのであつて、娯楽施設利用税は、ゴルフ場、ボ

リング場等において、その施設を利用する者の支出行為に担税力を見出して課税

する一種の消費税であるという点に着目すれば、この娯楽施設利用税という税は、

原則的には、娯楽又は射こうを目的とする多種多様施設のうちで奢侈性の著しい

と思われるもの、すなわち、利用について比較的高額の対価を要するもの対象

して、その利用行為に課税しようとするものといえるのであるから課税対象施設

としての適否を判断するにあたつては、単に抽象的に娯楽性の強弱やスポーツ性の

有無を諭ずるだけではなく、その施設の利用にあたつて相当高額の経済的負担を必

要とするものであるかどうか、従つて、利用者の利用上の支出行為に担税力を見出

せるようなものであるかどうかという点についての考慮がなされなければならな

い。

もちろん、ぱちんこ場や射的場のように、主として射こうを目的とする施設は、何

よりもその射こう性のゆえに課税の対象となつているといえるであろうが、この場

合にあつても、その根底には、右に述べたような点についての考慮がなされている

である。なお、利用について対価を必要としない娯楽施設についても、その利用

行為に課税しないことが既存の同種の課税施設との関係で課税上の負担の均衡を欠

くと認められるときは、そのような施設も課税の対象となるのであるし、課税しな

くても課税上の均衡を破るものではないと認められる場合には、課税の対象としな

いことができる(地方税法第七六条第一、二項)。

地方税法第七五条第一項第二号が娯楽施設利用税の法定課税対象施設として「ゴル

フ場」を掲げたのは、以上のような観点から、それが全国的所在し、かつ娯楽施

設として典型的ものと認めたからに外ならない。

(二) 原告は、右第七五条第一項第二号及び第七八条の二の規定憲法第一三条

及び第一四条違反すると主張するが、いずれも理由がない。

1、スポーツをする権利憲法第一三条にいう生命自由及び幸福追求に対する国

民の権利に含まれものであるかどうかについての論議はしばらく措くとして、ゴ

ルフも一つのルールに従つて行なわれる運動競技であるという一面からみれば、ス

ポーツとしての性格を有しているものであることはいうまでもない。そして、ゴル

フの普及に伴つて、ゴルフ場の利用が漸次大衆化してきていることもまた事実であ

ろう。しかしながら、他面、ゴルフ場の利用については、その入会金及び利用判金

の額からみても、相当高額の対価が必要とされているのが実情であり、利用者もむ

しろ高額所得階層に属する者が大部分であり、少くともその中心を占めているとい

うことは否定できないところであつて国民生活の水準から考えると、現状では、ま

ゴルフ場の利用をスケート場卓球場の利用と同一に論ずることはできないので

ある。地方税法は、ゴルフが娯楽であるか、スポーツであるかというような点はと

もかくとして、現状においては、ゴルフ場を利用するには相当に高額の経済的負担

必要としているというゴルフ場利用の実態にかんがみ、それを利用する者の利用

上の支出行為に担税力を認め、娯楽施設利用税を賦課しようとしているにすぎない

のであつて、ゴルフそれ自体を禁止したり、あるいは制限しようとしているもの

ないことはいうまでもない。

 原告の主張によると、スポーツをすることに税を課することは担税能力のない者

からスポーツを奪う点において、これを直接制限することと選ぶところがないので

許されないし、一定施設の利用を必要とするスポーツについては、その施設の利

用に対して税を課することもスポーツに対する間接の制限となるというのである

が、以上述べた点から明らかなように、現実問題として、ゴルフ場を利用するには

相当多額の金銭的負担を余儀なくされ、ある程度の経済的余裕がなければ利用でき

ないという実情から考えれば、それを利用できる者は一応担税力があると認められ

ることになるのであり、娯楽施設利用税は、まさに、そうした点に着目して賦課

れているのであるから賦課によりスポーツに対する直接、間接の制限となるとい

うことは考えられない。もちろん、娯楽施設利用税が賦課されることにより、ゴル

フ場を利用するに際しての負担が幾分増加することにはなるが、それだからといつ

て、ゴルフ場の利用に関しては、娯楽施設利用税が賦課されるために、その結果と

して高額の負担が強いられるというような関係、あるいは課税されるために担税力

のない者のゴルフ場の利用が妨げられているというような関係は認められないので

あつて、娯楽施設利用税の賦課とは関係なく、ゴルフ場の利用についてはもともと

相当高額の負担必要とされているのであるから、この点についての原告の主張は

まつたく失当であるというはかはない。

 因みに、内閲総理大臣諮問機関である税制調査会は、その第一次答申昭和

五年一二月)において、「ゴルフ場の利用については、その実態からみて、相当に

高額の負担がなされていると認められるところであるので、娯楽施設利用税と同種

の税である入場税等との負担をも考慮して定額税率について引上げを行うことが適

であると考える」旨を答申し、さらに、昭和一年度の税制改正に関する答申

昭和四〇年一二月二九日)においても、「ゴルフ場の利用料金の実態にかんが

み、定額によつて課するゴルフ場に係る娯楽施設利用税の標準税率を六〇〇円(現

行四〇〇円)に引き上げることを希望する」旨の答申をしているのであり、このこ

からみてもゴルフ場の利用に対して課税することが憲法第一三条違反するもの

でないことは明らかである

2、次に、憲法第一四条違反の点についていうと、なるほどスケートゴルフも、

一定施設を利用して行なわれるスポーツであるという面では類似性が認められる

けれども、それぞれの施設の利用の面についてみると、ゴルフ場利用の実態が前記

のとおりであるのに対し、スケート場は、現状では、もつぱら青少年が利用し、そ

の利用料金も低廉であつて、通常、その利用に際しての支出行為に担税力を見出す

ことは困難である。このように、利用上の負担及び利用階層の点において重要な差

異が認められる以上、このような施設利用実態の相違が課税行政に反映し、課税

の上でゴルフ場の利用行為スケート場の利用行為とは異なつた扱いをうけるの

は、むしろ当然のことである。従つて、ゴルフの利用行為に対して娯楽施設利用

賦課されるのは、前記のように合理的根拠にもとづくものであつて、なんら平

原則に反するものではない。

(三) 原告は、更に、地方税法第七五条第一項第二号及び第七八条の二の「ゴル

フ場」とは、パブリツク制のゴルフ場のみを指し、本件府中ゴルフ場のようなメン

バー制のゴルフ場を含まないと解すべきであり、少くともメンバーゴルフ場の会

員の利用に対しては娯楽施設利用税が課されるべきではないと主張する。

 しかし、一般に娯楽施設といえば、利用料金を徴して第三者に利用させることを

目的としているのが通常の場合であるが、娯楽または射こうを目的とする施設を無

償で利用させている場合であつても、課税の均衡維持の面からその利用行為に対し

て課税することができることは、前記(一)に述べたとおりである。もちろん、娯

楽又は射こうを目的とする施設は、それぞれ例えば、ゴルフ場又はたまつき場とし

ての一定の規模(一定の広さ、大きさ、設備等)を有しているものでなければなら

ないのは当然であろうが、その施設が課税の対象となるものかどうかを考えるにつ

いては、それが娯楽施設として一定の規模を有するものであることが客観的に認め

られるものである限り、施設利用有償であるかどうかということは必ずしも絶対

的な要件とはならないのである。従つて、原告が指摘している社団法人日本クラブ

におけるまあじやん室や東京弁護士会撞球室の事例も、前記依命通達趣旨から

考えて、会社工場等の厚生施設と同種のものと認められる場合には課税しないこ

とが適当であろうし、同種のものと認められない場合には、課税対象施設として、

地方税方第七六条第二項により、その施設経営者利用者とみなして課税するこ

とができるのである

 ところで、原告は、メンバー制のゴルフ場の利用は、会員が自己所属する団体

経営するゴルフ場を利用する関係であつて、特定の個人または法人ゴルフ場

設け、営業としてこれを第三者に利用させているバブリツク制のゴルフ場場合

は異るというのであるが、その利用の面についてだけ考えると、いずれも第三者

経営するゴルフ場を利用するという点では同一であつて、単にその利用の形態ある

いは利用者範囲について相違が認められるにすぎないのである。すなわち、メン

バー制のゴルフ場をその会員が利用する関係は個人の邸宅内の施設(例えばプー

ル、ゴルフ練習施設等)をもつぱらその個人が使用するような関係とは全く異るの

であつて、自分の庭で自分ゴルフ遊びをするということにはならないのである

 そうすると、娯楽施設利用税は、パブリツク制のゴルフ場の利用に対してのみ課

税すべきものであつて、メンバー制のゴルフ場の会員たる資格を有する者の利用行

為に対しては課税すべきではないという原告の主張は、まつたく根拠のないもの

あつて、失当といわざるをえない。

三、以上述べたとおりであつて、府中カントリークラブゴルフ場)は、株式会社

東京スポーツマンクラブが経営し、地方税法第七五条第一項第二号及びそれにもと

づいて定められた東京都都税条例第四八条の一五第一項第二号に規定するゴルフ場

に該当するものであるから、当該ゴルフ場における利用行為については、株主、正

会員、非会員のいずれを問わず地方税法第七八条の二及びそれにもとづいて定め

られた東京都都税条例第四八条の一七第二項の規定により定額の娯楽施設利用税が

賦課されることになるのである

 原告昭和四〇年九月一一日、右ゴルフ場を利用したことに対して、五〇〇円の

娯楽施設利用税を徴収されたのは、右のとおり地方税法及び都税条例規定にもと

づくものであつて、原告のいうように法律上の原因なくしてなされたものではない

から、不当利得の問題を生ずる余地はない。

第四 証拠(省略)

昭和四三年三月二一日東地方裁判所判決

2015-06-04

フェミニズム問題格差是正問題類似性

どちらも社会にある不平等不公平不正義を指さして「ここに問題があるので解決しなければならない」と叫ぶ点で類似性がある。

問題は、格差是正問題問題の焦点を論者が自由に設定できるということだ。年収100万円はいかにもすくないが、200万円だって問題にしようと思えばできる。300万円だって「それでは結婚が難しい」などという但し書きをつければ焦点にすることが可能だ。この焦点の選択は何に影響を与えるかというと「搾取されている人間割合」の設定に影響を与える。専業主婦を含む不労者を計算にいれれば、国民の50%くらいは年収250万円以下のラインに収まる。つまり年収250万円以下は搾取されている被害者である」という設定をぶち上げれば、国民の半分は問題に巻き込めるということで、これは年収部分を変更すれば7割だろうが8割だろうが「被害者側」として巻き込むことが可能だ。この種の変数設定可能な論は非常に取り回しがよい。

フェミニズムはそこの部分が弱い。そもそも「女性被害者である」という主張なので、どんなにどんなに頑張っても国民の50%よりおおくは被害者として設定できないのだ。世の中には当然自分環境に不満のない女性や納得済みの女性も多いので、現実的には国民の10%も被害者設定できれば良い方だと思う。もちろんだからフェミニズムが間違っているという話では全くなく、「そもそも共感を得るのも支持を得るのも最初からすごく難しい」主張なのだ

「どれくらい支持が得られる理論か」ってのはかなり重要で、たとえばその割合がかなり少ない場合、その理論の支持者はコミュを存続させるために理論過激派せざるを得ない。そこから始まるのは「社会を変革するための理論」というよりも「コミュを存続させるための理論」「コミュ内部で権威を保持するための極論」の類であって、カルト教団が生まれ過程のものだ。

穏当なフェミニズム社会に浸透して徐々に「一般化」してきたこの10年間という時間の流れから大きく逸脱し、「女性被害者であり男を打倒すべきであるタイプカルトフェミニズムはどんどん先鋭化してきてしまった。初期には社会耳目を集めるために有用だったこういう派手な意見オタク男は死ねも、同一の文脈)も、今ではフェミニズム負の遺産となってしまった。

現在日本フェミニズムが全力で戦うべき相手は、檀兼社会というよりも、日本フェミニズム論壇が抱えてしまった負の遺産なのだと思う。

2015-05-16

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れの予測変換がしょっちゅうレイプになるから人前でタイプするのに本当に困る。

2015-03-06

さすが村社会

増田内で「久谷女子」で検索するとヒットしない(「久谷」だけだと「久谷女子」も当然ヒットするが)

・こういうのすごく好きそうな印象のある犬アイコン村長がノーブクマ

ブクマ召喚され★もたくさんついたのに、姑アイコンの人もノーブクマ、ノー反応(http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20150226113822

・そういえばネットウォッチハゲな人もノー反応なのでは?何人かがブクマ類似性について言及してた「ソラノート」の時には割と絡んてたと記憶してるが。

インターネッツの片隅の村の村長なら、まぁ無反応を貫くのがある種、職務にまっとうである証明とも言えるかもしれないが。

はてなさん、はてなビジネスブログやりますよ、ってリリースしてたけど、火元の一つである増田からいきなりのキーワード検索できなくするとか

それをさっそくメタブクマ増田で指摘されてるとか、中々の下手糞な火消しっぷりですけど、大丈夫っすか?

今どきのIT火消しはもう少しスムーズにやらないと、出稿する企業も色々心配なっちゃうんじゃないかと思いますけど。

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