はてなキーワード: 類似性とは
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1706/30/news114.html
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1706/10/news018.html
地獄かよ…………
ねとらぼが作者本人ではなくて飛鳥新社側に対して抗議してるのがまだ救いだけどこれ佐倉色さんのストレス大丈夫なんだろうか。
まあ、今回の件については佐倉氏に非があることそのものは間違いないんだけど、それ以上に問題なのは精神的に不安定な佐倉氏に直接抗議をさせるように仕向けたボーノ氏だし、ねとらぼ側も間違った対応はしてないだけでその姿勢や態度はどうなんだろうって思うところは色々とあるんだけど。
というかねとらぼの該当記事製作者は一般人レベルであれば問題なくても記者レベルとしてなら問題があるレベルの文章の読み取りができない人のように見えるんだけど。
たとえばこれ。
上記、ソース全文を確認した上で、“ツイートした通り、商業から撤退 というのが今後の方針です”“前回のツイートと変わらず、『商業から撤退』という意志が変わっていないのは、謝罪や誠意が足りない等の理由では、決してありません”(いずれも佐倉氏のブログより)などの表現から、編集部としては「例外的に復帰する可能性は否定していないが、商業漫画からは基本的に撤退」「漫画自体からの引退ではなく、今後は同人など商業漫画以外の場へとシフトする」と受け取り、そのように記事化しました。
なお、記事中でも「引退する旨のコメントを発表」「プロではなく趣味としてマンガを描いていきたい」「『商業から撤退すること』を方針に掲げ活動していく」など、完全撤退と断定するような表現は避けていました。
「その受け取り方が違うって言ってるんだよ!」って話なのに「私はこう受け取りました!」って言われても……。
本人の意図と違う受け取り方をしていたという事実に関しては何か言うことはないの?事実と異なる解釈をしてそれを公表するってそれ事実の報道って言えるの?
というか「電話したけど本人がいなかったから話ができませんでした!」って、だったら直接話ができるまで記事にするのやめたら?結局事実確認しないままに「だってしたけどいなかったから仕方ないよね!」ってゴリ押ししてる時点で最初から取材をしてないのと取材をするポーズ取ってるだけなのとどれほどの違いがあるのか。
記事は「佐倉氏本人がブログとTwitterで発言した」という事実を報道したものであり、文章は編集部側で新たに書き起こしています。ブログの文章をそのまま転載したものではありません。
転載か否かは一言一句同じ完コピじゃなくても模写も複製物と判断されるように、書き起こしだろうがなんだろうが元の文面との類似性で判断されるのでは?新たに書き起こしたかどうかは問題ではなく、元の文章と類似していないかどうかが問題となる中で「書き起こしたからセーフ」って回答は問題の本質ではないし著作権的にも何の意味もないこと。
まあ、著作権に触れるかはどうかは元の文章に著作権が認められるかどうかからの話になってくるので別問題ではあるけれど。
「殆どの人が商業引退と受け取っていない」「記者なら全文を読んだ上で記事にしたはず」との表現について
前述の通り、全文を読んだ上で、「例外的に復帰する可能性は否定していないが、商業からは基本的に撤退」「漫画自体からの引退ではなく、今後は同人など商業漫画以外の場へとシフトする」と受け取り、記事化しました。
だから本分の趣旨をきちんと理解できてますかって話なのに「私はこう解釈しました」と言われても「その解釈間違ってますからー!」としか言えないんだってば。
佐倉氏がブログに掲載した「お礼漫画」の中に、作者と編集者の関係を示唆する表現があったことから、引用元を明示したうえで、ブログの一部を撮影したスクリーンショットを掲載していました。作中では「漫画は全2ページでどちらもそのままきっちり2ページ掲載されていた」「事前報告なく全ページ使用した」との表現がありますが、使用していたのはあくまで一部であり、「きっちり2ページ掲載」「全ページ使用」といった事実はありません。
トゥギャッターでも一部の人に触れられていたけど、サムネ画像とは別にサムネをクリックすることで別の画像が表示されるようになってたんだよね。でもネットアーカイブにはそのリンク先の別画像がどんな画像だったかデータは残ってない。
「ネットアーカイブにあるサムネの画像見たら一部しか画像使ってないって分かるでしょ!?」って言われても、いやそのリンク先の画像が何だったかも問題なんですってば、でもってその画像はログ残ってないからどんな画像かわかりませんよね?それなのになんで全ページ使用ではないって言えるんです?
もちろんこれについてはログが残ってない以上佐倉氏の覚え違いの可能性はもちろん同じくらいあるけれど、少なくともねとらぼ側がネットアーカイブのログを証拠として提出するならそれは使っていない証拠にはなりません。
で、電話でのやりとり部分についてが一番文句を言いたいところなのだそうだけど、まあ正直なぜそこに文句があるのかは個人的にはよくわからないけど、まあどちらかと言えば佐倉氏の方に非があったと思われる部分なので一方的に悪者みたいに書かれているのは確かに憤慨なのかもしれない。
ただ、それだけ文句あるなら証拠出せばいいのになんで証拠ださないんだろう。証拠ないなら結局水掛け論にしかならないし客観的な信憑性も保障はできないんだけど、録音してなかったのかねえ。(まあ確かに普通の編集部に電話を録音できる機能がついてるものかって言われたらついてないかも)
まあ、少なくともねとらぼ側に漫画に描かれてたような佐倉氏の真意は伝わってなかったのは事実だろうなあ。だから頓珍漢な対応になっちゃったわけで。
画像について引用の範囲を超えている可能性があったことと、佐倉氏が記事の削除を強く望まれていたことを考慮し、記事の削除を決定いたしました。
削除方法について
編集部としては、記事本文については正当なプロセスのもと掲載したものと考えています。このため、画像のみ削除するのではなく、記事そのものを削除するにあたり、読者に対し削除理由を説明する必要がありました。最終的に、佐倉氏本人から削除依頼があった旨を追記し、本文および画像は削除、記事ページそのものは残すこととし、この対応で問題ない旨、佐倉氏から了承も得ています。
漫画を見ればわかるけどその意図は佐倉氏には全く伝わってない。佐倉氏は脅されたように感じてたようなので脅したりなんかしてないと言いたかったのかなあとは思うけど、なるほど脅しでないのは分かったけど結局相手がきちんと理解できてないのにじゃあそれでいいですよね、ということできちんと説明せず終わってる説明不足な相手なんだなっていう不名誉はそげないのでは。
これらを踏まえ、飛鳥新社の担当編集者に見解をうかがったところ、次のような回答を得ました。
―― 出版にあたって、KADOKAWAやアイティメディア(ねとらぼ)側に確認は行いましたか。
―― 事実と異なる内容が散見されますが、どのような判断のもと出版に至ったのでしょうか。
担当編集者:基本的に著者を信じて作っているところもありますし、例えば裏取りとかはしないといけないとは思いますが、この本に関しては裏取りをしないで進めていました。(佐倉さんの漫画については)今までのお付き合いの中で整合性が取れているんですよ。それで恐らく真実であろうと。
「事実と異なる内容が散見」がどこにかかってるんですか、っていう話では。
ボーノ氏とのやりとりについては「おおよそ真実」なんじゃないんです?
ねとらぼとのやり取りは本題からしたら番外もいいところなわけで、そんな番外的なごく一部の内容について「事実と異なる内容が散見」って言われても「ボーノ氏と佐倉氏との間にあった出来事について事実と異なる部分があったように見える」としか認識されず「本人の話を聞いたところ(ボーノ氏問題について)大筋で整合性が取れていましたので事実に基づいていると判断しました」って回答になるんじゃ?
どうにもねとらぼ側が記事を書く側として、相手への説明も足りないし、確認も足りないし、相手の意図をきちんと認識できてないから無駄に問題こじれさせたように見えるんだよねえ。
でなきゃ電話中に「じゃあ引退はしないんですか?」なんてトンチキなこと聞かないと思うんですけど。
非があるのは佐倉氏側だろうし弁護士でも何でも雇えばいいと思うけど、根本的な問題として相手の意図をもっと汲み取れるようにならないとこの先も行き違いによるトラブルが起きるだけのような気がする。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2842297
別の方の同じと感じる声とか同じ方の違うと感じる声とか。
同じ方の声だと分かる程度には似ているが、微妙だが重要な点で違う場合。
例:
色々なタイプの役を演じている方がいる。
色々なタイプの役ではあるが、スタッフロールを見る前に誰の声かを推測して、
その推測が当たるくらいには同じ声ではある。
(ただし、初めて聴くタイプの役でない場合、以前にそのタイプを演じたときに、
そのタイプの声とその人の名前が結びついてしまっているかもしれない。
或るタイプとその方の名前を結び付け、別のタイプと名前を結び付け、
同じ人の声だと納得することのほうが簡単だと思う。)
たとえば、十代後半から二十代前半の真面目な女性の役の声には特別な魅力を感じるが、
例:
この方のこのタイプの役の声はかなり快く感じることが多い、ってことがけっこうある。
んでそのような方のそのようなタイプの声に微妙な違和感というか、
あれ、そこまで快くないな、と感じるようになったことがある。
そうなった原因を考えて、
俺の好みが変わったのかなとか、役のタイプが微妙に違うのかなとか思った。
しばらくして、その方は、病気で休業された。
別の人の似た声でも聴き続けていると微妙な違いが分かるようになってくる場合もある。
流石にそこそこ馴染んでいる方々の声がみんな同じと感じることはない。
だけど似ていると感じる場合はある。或る人と別の人の似たタイプの役とか。
最初の推測と正解は似ているんだと思う。
そんでそれからも注意して聴き続けていると、推測が当たるようになってくることもある。
親しんでない声に魅力を感じる原因
例:
一回だけ登場してちょっとしか台詞のない役の声にけっこう魅力を感じて
スタッフロールで確認したら、記憶にない名前だったことがある。
この場合に魅力を感じた原因は、
これまでに魅力を感じてきた声のいずれかに似ているからとか、
すでに声だけを聴いても快い場合でも、
最初は、その声が伴っていたキャラの姿や発言や行動等の好ましさによる快との
条件づけだか学習だかみたいなのによって、
声にも快さを感じるようになったのかもしれない。
流れとしてはそうじゃなく、兵庫の安原作品の前時代であった大阪芸大周辺(「アオイホノオ」の上映会シーンを思い出してほしい)がMADのルーツ。そもそもMADテープ発祥の地だし。
で、たぶん「MAD」だと思ってるそれ(総統シリーズ)はMADの系譜と別で、電通のホットペッパー吹き替えシリーズ(今はハイジか)。ただ、そういうのが出てきた土壌は「関西バカ8ミリ」の系譜。
安原作品は大阪的な「パロディ」「笑い」への逃避に陥らない姿勢があったので、ああいう感想になっちゃうんだろうか。
と思ったんだけど、右翼一家に婿入りした籠池さんと、すでに関西8ミリの空気が存在した中で発表された安原作品は類似性があるのかもしれない。すでに存在した環境への同化、という。
貧民を捕まえては、お前らはリベラルに投票するのがお似合いだと言うのが、ここ最近のブームだ。
そして、そういうのを見聞きするたび思い出すのが、二次元とそれにハマるオタク叩きである。
もちろん、オタクに種類があるように、オタク叩きにもいろんなバリエーションがあるのだが、
「二次元は単なる逃避先でしかなく、三次元の方がずっといいだろう」とかいうアレを思い出す。
負け組がポピュリズムに走ったせいで、強いこと言ってるだけの奴が政権取っちゃうと困るし、
みんなが二次元に行くと少子化が止まらないから、どちらも一定のもっともらしさは備えている。
しかしそれは、今ある社会で虐げられている、社会から切り離されていると感じる人にとって、
「そんなものにハマってないで、ここで負け組やっていろよ」というメッセージに聞こえてしまう。
大きなお世話なわけだ。
リベラルや三次元を敵視する者、それから空飛ぶおっさんに傾倒してサリンをまいた若者や、
自爆テロの実行犯までおそらく共通するのは、とにかく今あるものに対する不信感だろう。
三次元の異性は信用できないし、今持ち上げられている同性がなんぼのもんじゃいという思いもある。
トランプ支持者がそうであったように、それらは得てして自己責任ということで片付けられる。
ポピュリストも二次元も、おそらく彼らの根本的な苦しみをどうにかしてくれるわけではない。
彼らに話を聞いてもらおうと思うなら、まずは信頼関係を取り戻すことが第一で、
それもないのに正しさだけ説いたって無意味じゃないだろうかと思う。
先日、最寄りの映画館でこの世界の片隅にの上映が終わるということでやっと観てきた。けものフレンズは観てない。
まあインタビューとか考察とか見ての印象でしかないんだけど、この2つって作為が無いんだなって思った。
もちろんフィクションとして、お話として成立する様に作られた物なんだけど、元になってる現実の世界とか動物の生態とかをそのまま再現するって事がメインになってて、そのおかげで真っ直ぐ頭の中に入って来るし、それと同時に作り込みの深さも評価されてるんだと。
見せたい物が先に決まっている所で撮られたノンフィクションのドキュメンタリーよりも正しいドキュメンタリー感のあるフィクション的な。
「この世界の片隅に」まだ見ていないが評判はとても良い。今は100キロメートル離れた街でしか上映していないので、最近忙しいこともあってまだ見に行けていないが、2週間後には近くの映画館で上映開始するので、そのときには絶対に見に行こうと思っている。
「この世界の片隅に」は、評判を聞いたり、予告を見た限りでは出来には期待して良さそうだ。自分はこの世界の片隅にの原作ファンなので、あの素晴らしい原作を最高の映画に仕上げてくれた片渕監督には感謝している。
片渕監督の手腕を見込んで、勝手なお願いなのだが、片渕監督には是非「ヨコハマ買い出し紀行」を映画化してほしい。
「ヨコハマ買い出し紀行」は、地球温暖化で海面が上昇して、人類が緩やかに滅んでゆく世界で喫茶店を経営する不老不死のロボット「アルファ」の日常を描いた漫画作品だ。
人類が滅ぶ寸前という過激な環境の中で「日常」に焦点を当てているのは「この世界の片隅に」との類似性を感じざるを得ない。
現代とは違った少し懐かしさを感じさせるゆったりとした雰囲気も「この世界の片隅に」と非常に良く似ている。(実際に自分は「この世界の片隅に」を読んでいて「この作品ヨコハマ買い出し紀行っぽいな」、と思った。読む順番が逆なら逆のことを思っただろう)。
さらに「ヨコハマ買い出し紀行」は、海面が何メートル上昇したらどこが沈むか、といったようなことを綿密に計算して、それを正確に作中で描いていることでも知られている。関東付近の実在する景色もたくさん出てくる。この舞台へのこだわりっぷりは映画「この世界の片隅に」に通じるものがあるのではないだろうか。「ヨコハマ買い出し紀行」のような舞台の描写にこだわった漫画を片渕監督にアニメ化していただけたら、間違いなく素晴らしい作品に仕上がるだろう。
実は「ヨコハマ買い出し紀行」は2回OVAでアニメ化されていて、どちらも出来は良いのだけど、尺が短いのが非常に惜しい。「ヨコハマ買い出し紀行」のミソは、年を取らないロボットとどんどん成長していく人間や変化していく世界との対比だと思う。映画もOVAとさほど変わらない短い尺ではあるが、あの濃密な「この世界の片隅に」の原作を2時間の映画にまとめ上げた片渕監督なら、映画という短い尺でも「ヨコハマ買い出し紀行」のミソである人間の成長や変わりゆく世界を余すこと無く描けるだろうと確信している。
クラウドファンディングをやるなら投資するし、5年でも10年でも待つので、是非考えていただけないだろうか。
「君の名は。」風の写真に変換するアプリということで話題になった Everfilter が公開停止になった。著作権侵害ではないかという指摘に対する運営元会社の対応である。以下の記事が詳しい。
私のみた観測範囲では、いまのところ以下のような結論が優勢に見える。
合成だとみなされた過程としては
という主張がなされている。特にこの記事が多く参照されたように思う。
以降、これらの主張がその通りではない可能生がわずかながらあること、もしそうだった場合には著作権侵害に対してどのような議論がなされるのだろうか、その思考実験をしてみたいと思う。
なお、あくまで仮説であってここまでの主張を否定することを目的にしているわけではない。もしかすればそうではない可能生が微レ存、ではそちらの可能生を考慮したら、どのような議論になるか考えてみると (不謹慎ではあるが) 面白い議論になりそうだ・・・というのが趣旨である。
先の shi3z 氏の主張はスタイル変換に DeepArt と呼ばれるアルゴリズムが用いられていることが前提となっている。確かに shi3z 氏が述べているように DeepArt ではスタイル変換で細部のディテールを残すことが難しいことが分かっている。
具体的には、生成された画像において、人物の顔、建築物の模様などのディテールが潰れてしまう。
一方、今年の 9月に Google Research から提案された、スタイル転送の改良版アルゴリズムがある。
当方もたまたま知人から教えてもらったものである。細部まで読んではいないが、おおまかに言うと、古典的なテクスチャ合成の手法を既存のディープラーニングベースのスタイル変換アルゴリズムに適用して改良することで、細部のディテールを残したままの変換が可能になった・・・という内容である。
結果は 24ページ Figure 8 と Figure 9 にある既存手法との比較が分かり易いだろう。
上段の Figure 8 が既存手法 ・・・ おそらく shi3z 氏の記事にある DeepArt に近い手法。Figure 9 が提案手法である。建物のディテールが再現できていない既存手法に対して提案手法では建物のディテールを残すことに成功している。
また、もうひとつ特徴的なのが、空のように一様性の高い箇所においては元のスタイルが持つ模様のパターンに酷似したパターンが描かれている点だ。このあたりは古典的なテクスチャ合成を応用した影響だろう。
本手法を用いた場合、既存手法より高速に変換画像が生成されることにも言及されている。
もし Everfilter のアルゴリズムが提案手法に近いものであるなら、今回疑問視されていることの中に幾つか説明のつくものがある。
この辺りから、Everfilter は「ニセAI」ではなく比較的新しいスタイル変換のアルゴリズムを実装した製品だった可能生が微レ存・・・と思い至ったわけである。
当然、そこまでは言えないと考えている。
2016年現時点で著作権侵害は親告罪なので、たとえどんな手法が用いられようがその出力に対して「お前のこの絵はこちらのパクりだろう」と指摘されたところで容疑がかかる。中身がディープラーニングであろうが、コピペであろうが、そこは変わらないと思われる。
といった論点である。法律的な白黒は先に述べたように親告罪に照らし合わせて考えればよいので、ここは、世間一般の人々の感覚を話題にしてみたい。
有名漫画家の漫画を模写し続けることで画力を磨いた漫画家が描いた作品は、その有名作品に画風が似ることはよくあるだろう。その場合、ストーリーや構図に類似性が見られず、かつ、画風も多少の癖の類似であれば許容範囲内というのが世間一般の常識であるように思う。つまり、画風"だけ" に多少の類似があるものは認められそうだ。
では、有名作品のデータをもとに学習を行った人工知能が描き出した、画風 "だけ" に癖のある写真・・・というのはどう考えるべきだろうか。もちろん、画風に強すぎる類似性が認められる場合は、世間の風当たりは強いだろうが、では、どの程度の類似性であれば許容範囲内なのであろうか?
その類似性は大きくは
の二つからもたらせるものであるが、強い類似性を悪とした場合、では著作権のある画像から模倣した ・・・ 学習したことが悪なのか。まだ人類もその性質を解明し切れていないディープニューラルネットワークがもつ性質が悪なのか。
(法律的な判断ではなく) 感情的な判断についてはもやはり、出力が問題であってどんな手法が使われているかは関係無という態度が正しいのか。
話題は逸れるが、ニューラルネットワーク版の Google 翻訳が生成した文章の著作権はどう考えるべきなのか。これも似たような問題である。Google はウェブ上の大量のデータから学習していると思われるがもしそれが著作権フリーではないデータからの学習だとした場合に、生成された翻訳文書は Google が著作権を持つのか、そうではないのか。
世間の常識がどこに落ち着くのかはまだよくわからない。だからこそ、この議論をコミュニティに投げかけてみたかった。
Google Research の論文で Everfilter が完全に再現されるかどうかは実験してみないとわからないことであり、また論文をの例を見る限り Everfilter 品質での出力を得るには相応のチューニングが必要になるようにも見える。それが現実的に困難だった場合はやはり shi3z 氏の主張が正しい可能生も大きい。また、テクスチャ合成を応用したという点で著作権との相性が悪いアルゴリズムである、という考えもあるだろう。
shi3z 氏の主張を否定するために記述したのではなく、あくまで、人工知能が作り出したコンテンツを人々はどう捉えるのか、そこについてみなさんの意見を伺ってみたく起こしたエントリであることを強調しておく。
若い頃はどうして中年の人たちって何もかも面倒くさがるんだろうと思っていたけど、自分も同じような歳になって気づいたことがある。何か新しいことや困難にぶつかると、事の顛末が大体予想できるようになってしまうんだ。
話題の映画があったとしても、大体予想していた通りの範囲に収まっていることが多い。若い頃には技術の進展とかにワクワクしていたけど、歳を取るとどんなに新しくなっても似たようなことを繰り返すだけなんだな、と気付いてしまう。
脳科学の世界では、こういう感覚のことを結晶性知能というらしい。若い事は脳が新しいことをどんどん覚え受け入れていく。そのプロセス自体が面白い。でも、歳を取ると何を見ても以前見知った何かとの共通点・類似性を見出してしまう。
それどころか、以前見知ったものと似ていること、見慣れていること、馴染みがあることの方に親しみや優良であるというような感覚すら芽生えてくる。若い頃に聞いた音楽が何よりも耳に心地いい。
そういった具合で、歳を取ると何もかもが面倒くさなくなってくる。新しく感じることは少なくなっていくし、何をやっても徒労感を否定し切れない。だから、同じ事・同じものばかりを追いかけ始める。
若い頃なら、そういう中高年を脳が死んでるとか、終わった人とか言って軽蔑していたけれど、自分がその立場になってみると、奇妙なことに意外なほど心地良い。
歳を取るごとに不安が少なくなっていくし、次々と新しいものを求めない分、心に余裕も出来てくる。たぶんこうして自分自身が余裕になったところに、若い世代や社会に対して援助や貢献をする責任が入り込む余地ができるんだろう。
年寄りが若者と同じくらい物事に強い関心を持っていたら、若者や世の中のために何かをしてやろうなんて思えないだろう。ちょうど若い頃には自分のことに精一杯で、他人や世の中にあまり強い関心が払えないように。
http://anond.hatelabo.jp/20160921171221とhttp://anond.hatelabo.jp/20160924215458に関係する話を書く。なお、後者の増田はhttp://togetter.com/li/1028423 を元にかかれている。「日本国憲法」タグを辿って一番目と二番目にあったやつだ。
前者は「透析患者は自業自得であるから人権を否定」に対する批判、後者は「特定の嗜好を持っているという理由で人権を否定」に対する批判である。両者に批判されている言説に共通するのは、「自分が気に食わない人間の人権を否定」しているところと、「法律で定義できない案件」だ。
まずはじめに、すべての人間の人権は否定されてはならないというのが、日本国憲法の基本理念なのではないか。三大原則のひとつとして「基本的人権の尊重」を掲げている。憲法によってかなり強く人権の尊重が謳われているとみなして良いだろう。
前者の増田でも語られているが、憲法第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定がある。後者の増田では憲法第31条の「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」が引かれている。前者によってすべての人権は保護され、後者によってその蹂躙は大幅に制限されている。
自己責任の透析患者は殺せなどという主張は、明らかに「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を認めていないと取られかねないし、「生命若しくは自由」を奪おうとしているともとれる。そして自己責任論にもとづいてこれを正当化しようとしても、前者の増田が言うように、「自己責任の線引」は不可能であるから、法律によって規定することはほぼほぼ不可能である。法律で規定できないのなら「生命もしくは自由」を奪えないのは後者の増田の論法のとおりであろう。特定の嗜好云々にも同様のことが言える。
さて、上に、両者の言説の共通点を書いた。「自分が気に食わない人間の人権を否定」に対する批判、である。
あくまでなんとなくだが、最近のいろんな「トンデモ」なり、雑なりの言説の問題点には、この気に食わない人間への人権否定というのが根底にあるのではないか。
まずはじめに、「人権」というのは、中学の公民などで教えられている事項である。このあたりについては、上のまとめでのコメントにもあった「ピルとの付き合い方」氏がツイッターで有用な連続ツイートをしてらっしゃっている。
https://twitter.com/ruriko_pillton/status/77983255997482188およびhttps://twitter.com/ruriko_pillton/status/779832732985663489を参考にして欲しい。まだまだ同氏のツイートは続いている。ここで言われているように、近代的民主主義社会というのは、為政者による気分なりなんなりで刑罰を課すことを禁止する社会である。そして、「人の心の中を覗くことはできない」から「内心は規制しない」とある。
ここで考えて欲しい。内心を規制しようとするにはどうなるか。覗くことができないのだから、基準を作ることはできない。為政者が「なんとなくこいつは規制すべき内心を持っているに違いない」と思ったという理由でしか規制はできない。よってこれも、「基準をそもそも作れないのだから、法律による規制はできない」案件であり、透析患者の件の「自己責任を定義できないから規制はできない」に通づるものである。
しかし、昨今の風潮は何か。なんとなく「自己責任」のやつを助けてやるのは気に入らない、といった「なんとなく嫌だ」という理由で「生命もしくは自由」を規制しようという言説が書き立てられている。自己責任論が極端に語られるのは、何も透析患者だけではないだろう。内心は本当はわからない、というのと、どこからか自己責任か?は定義できないという意味で類似性を持つ。近代民主主義では、主権者は国民である。国民はもはやかつての王のような「為政者」だ。その「なんとなく」の気持ちで人権の規制を訴えるのは、民主主義の精神に反する。
以上より、この2つの事例について、「結局自分が気に食わない人間の人権を、まともに法的定義ができないような”なんとなく”で規制しようとしている」という大きな問題があるのではないか、と考える。そして、その問題は、「近代的民主主義」の精神に反するものである、とも考える。
前者の増田では、「全員が健康で文化的な最低限の生活ができるように、みんなでお金を出し合って支え合っていきましょう」という相互扶助の精神が語られている。この精神は、共同体を維持していくのに重要な精神だろう。しかし、「気に入らない」で制限を加えようという雑な言説は、この精神を否定するものであり、まともな社会から離れていくものであると思う。この「なんとなく」で人件否定、はなにもここであげた2つの例だけではなく、「コミュ障」だとか、「地方民」だとか、逆に「都会民」だとか、ある考えを持つ人だとか、いろんな「集団」に対して向けられてるような気がするし、しっかり考えて欲しいというところである。
もちろんこの程度で例示が十分だとは思っていないが、流石にすべて列挙し続けることは不可能だし、これもそれに当たるのでは、というのがあったら指摘を願いたい。
多分世間的には「妖怪ウォッチ」というと「よーでるよーでる」のイメージしかないから、今一度このゲームを説明する。
もうおわかりだろうが妖怪をポケモン、妖怪ウォッチをスマホに置き換えればほぼこれはPokemon GOである。
そもそもポケットモンスターはポケモンを捕まえて集めることよりもポケモンを戦わせることに主軸を置いたゲームなので、
妖怪メダルを集めることがプレイヤーにとって最大の目的である妖怪ウォッチのほうが、
ポケモンを探し出して集める位置ゲーのPokemon GOに近い存在だといえよう。
なにも任天堂がの妖怪ウォッチをパクったというようなあほなこといいたいわけじゃない。
妖怪ウォッチはその舞台を、主人公つまりプレイヤーが普段暮らす現実世界と、ゲームキャラである妖怪たちが暮らす世界を、
同一空間としながらもその階層を分け隔てていることを大きな特徴にしている。
主人公は妖怪世界という物理的障害に囚われない空間と通信できる。これを利用してプレイヤーができることや、行動範囲をどんどん広げていくことが妖怪ウォッチの面白みであった。
そんな妖怪ウォッチのシステムはVRにとても似てはいないだろうか。
現実世界にないものを端末を用いて投影し、拡張していくVRは、虚構を現実世界に付加するものであって、
妖怪という超現実を発見するという妖怪ウォッチのコンセプトとは逆にも見えるが、根底では驚くほどに似ている。
そもそも霊界というような超常現象とバーチャル空間の類似性は昔からいわれてきたことではある。例えばリングシリーズなど。
タイトルの属性の違いは一般の人にとってすごくわかりにくいと思う。
自分ではそのつもりはなくても、その言葉を使うことで「傷ついた」という人も出てきて、煩わしく感じている人もいるかもしれない。
自身は知見があるので、それらの言葉の違いと、どうすればよいかを簡単に記していきたい。
生物学的な性が男 and (女性的な格好をしている or 男性が好き)
自分で自虐的な意味で使うのは良いが、他人にへ使うのは好ましくない。
メディアはオカマという言葉を控える代わりに別の呼び名を作った。
それがおネェである。
ただし、これに侮辱のニュアンスを感じる人もいるため、今後オカマと同じ運命をたどるかもしれない。
また、おネェと自称する当事者はあまりおらず、メディア上の(特にバラエティ番組での)特殊な言葉である。
生物学的な性が男 and 男性のみが好き and 性同一性障害ではない
自分の観測してきた範囲だと、ゲイで女装して過ごしている人は少数派だ。
もちろん、男性に好かれるために女性になろうとする人もいるが。
http://anond.hatelabo.jp/20160118180656
テレビのようなステレオタイプなゲイはお店に行けば会うことができるが、普段からあのノリの人は少数派だ。
マサイ族が普段は都会暮らしで、客が来たら民族衣装を着て狩りをするのに似てる。
自身の生まれ持った性に嫌悪感を感じ、反対の性になることを望む人
実は、格好や性対象はあまり関係なく、自身の性に対し強烈な嫌悪感を抱いているかどうかで判断される。
ここではタイトルの趣旨から、男性から女性になる人について書く。
性対象は、自分は女性だと思っているので、男性になる傾向がある。
自身を女性らしくすることを強く望み、普段から女性の格好をしようとする、またはできるようにする。
女性ホルモンを使うことで見た目を女性的に近づけることができるが、1年以上かかり、
その期間中は男としても女としても違和感のある存在になりがち。
自己実現できていない人や性別移行中の人は、男性であることが受け入れられない自己否定と周囲からの視線や偏見によって病んでいる人が多い。
素材や性別移行開始年齢によって見た目に大きく差が出る。
それらに恵まれなければ、女装した男にしか見えない容姿になってしまう。
社会生活でそれが不利に働くことを認識している人の中には、敢えて男性の姿で生活している人もいる。
ただし、性同一性障害の人にとってこれは侮辱の言葉なので使うことは禁忌だ。
上記の属性以外にも、少数だが、ナルシズムやマゾヒズム、破滅願望などの性癖を満足する手段として女装をする人がいる。
また、厨二病の延長で、何もない自分に何らかの特殊性を獲得するために女装する人もいる。
それらがいきすぎて女性ホルモンを使ったり性転換までしてしまう人も見られる。
しかし、彼らは社会的な承認を得るために性同一性障害と主張するので、結果的に性同一性障害の人と見分けがつきにくくなる。
その動機故に、性対象は女性、または両性である割合が高い傾向がある。
特殊であることが彼らをかりたてているので、承認欲求を満たすべくSNSをやっている人が多い。
逆に、性同一性障害の人は自身の過去を隠し、元男性であることを明かしたくないのでSNSでそれを主張する人は少数派である。
個人によって何がOKで何がNGかはバラバラなので、悪気なく上記の言葉を使っても当人を傷つけてしまうことがある。
それが面倒くさく感じてしまうと思うが、対応策としては当たり障りのない呼び方をするのが最も簡単であろう。
当事者を呼ぶ場合に最大公約数的な対応を考えるなら、オカマやおネェ、女装という言葉は使わず、女性と言えば丸く収まる。
もし、厳密に男性として扱わなくてはいけない場合は、「生物学的に」男性と一言つけることでだいぶ印象が変わる。
あの人は生物学的に男性だから。のような呼び方をすれば、当人を傷つけるケースは減るだろう。
追記:
http://anond.hatelabo.jp/20160713184113
の人が、本記事に対して不完全性を補完しようとしてくれた。
大変ありがたいのだが、本記事の趣旨を明確にしていなかった私のミスだ。
興味のない人にとって新しい概念を理解するのはすごく重労働だ。場合によっては知らない言葉が出てきた瞬間聞くのをやめる人までいる。
簡単な概念であっても「性思考」、「性自認」と言った言葉は普通の人には馴染みがないし、なんとなくつかんでも実感がわかない。
windowsユーザーに「ターミナルやvimというものがあってだね」と言おうものなら、その時点で情報をシャットアウトしてしまう人は多いのと同じだ。
そこで、今回はそれぞれ言葉としてはそこそこ有名だけど、どう違うの?という人に向けて書いたのだ。
(故に網羅的ではなく、トランスヴェスタイトなり、FTMなり、そこまで知名度の無い言葉や類似性が乏しいものについては書いていない)
当事者にとっては性思考、性自認、思考の区別は明確だが、知らない人にとってはごっちゃになっている。
また、当事者が意図せず傷ついてしまい、それ故に当事者と関わるのが面倒くさいという人もいる。
ここではなるべく新しい概念を持ち出さずに、既に知られているがややこしい言葉の違いを一般的な言葉で違いを伝え、当事者を傷つけないようにするための簡単な手段を記した。
ということを文頭に書くべきだったが、あまりに簡素に書きすぎてしまった。
申し訳ない。
説例
そこで、著者者から許諾を得ようと連絡している
財産権としての側面と
人格権としての側面がある
p236(2)
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話の中から何かがある
依拠生
利用行為があるかどうか
2どうやって依拠性が(ある・ない)ことを主張するか
3
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書いてないことを勝手に決めない
場合分けして考える
この場合はこんな風に考えられる・・など
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裁判例はよく読んでおいた方がいいらしい
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回答
著猿権の集団精度
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論点を把握してどのような順番で考えていくか書いていく
(1)著作隣接権にあたるかどうか
(2)
侵害したかしていないかは許諾を取ってあるか、取っていないかで異なる
目次などに検討すべき論点をかかないと行けない 参照する・・で
依拠性、るいじせいを考える
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設問から見ていく方が早く内容を理解できる場合がおおいので要注意
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など色々考えていく
マジレスで解決策を書く。他の人も参考にして欲しい。
元増田の記事: http://anond.hatelabo.jp/20160220112047
※文末に、ブックマークコメントへの返信を追記しました(2016/02/21)。
メタブコメにも書いたんだけど、文字数が足りなくてわかりにくいと思ったので。
shields-pikes のコメント / はてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/entry/279614518/comment/shields-pikes
自分も男子高出身で、大学の途中までは絵に描いたような勘違い系の非モテだったので、気持ちはわかるし手助けしたい。
自分のブログには、この手の恋愛系のネタは投稿したくないので、ここに書く。
元記事の増田は「彼女を作ること=告白して交際」を表向きの目標にしてるよね。
これが最大の間違い。
告白して交際という手順が有効なのは、ギリギリ奥手な大学生の処女童貞同士の交際まで。
それ以降の年齢や経験者なら、告白しない方がセックスの成功率は上がるし、その後で付き合える。
10代の時に奥手な女性相手に限り告白が有効なのは、女性が初めてのセックス相手に、「自分を裏切らない=すぐに捨てない」という意味での信頼感を求めるし、初めての交際というプロセス自体に夢を抱いてるから。そして、一度でも交際と別れを経験すれば、それらが儚い幻想だと気付く。まあ、本当はそこからが恋愛のスタートなんだけどね。まあ、その話は今回は関係ない。
そもそも、彼女を作ることって、増田にとってそれ自体が目的なの?
たぶん、後者の手段でしかないのに、それを必死に隠そうとしてるんだと思う。
本来、異性とのデートはそれ自体が楽しみ=目的なのに、増田はまるで営業活動のように契約にいたるための手段にしてるよね。
つまり、相手の女性とのデートを心から楽しんでないのが、丸わかりなんだと思う。
デート3回目で告白なんてのは、何の意味もないノウハウ。大事なのは、相手の気持ちがついて来てるかどうかでしょ。
相手の気持ちがついて来てたら、1回目で交際が始まることもあるし、1回目でセックスしてもいいし(流石にこれは一晩限りになりがちだけど)、1回目でプロポーズしてもいい(まあ、そんなのは奇跡だけど)。逆に、相手の気持ちがついて来てなければ、何回目のデートでも無理。
そうすれば、交際は結果としてついて来る。大人になったら、その順番の前後は誤差だ。
もし、ガチで結婚願望があるなら、思い切って経済力を強みにしていきなり結婚自体を目的にしてもいいけど。
でも、今までデートした相手とすぐに結婚する、ってところまで腹くくって無いでしょ。
いや普通は、そんなの出来るわけないよね。相手の一生を背負う&背負わせるわけだから。
相手のことを本気で好きになってもいないなら、そこまでの腹はくくれないはず。
相手が好きだ、相手とセックスしたい、という気持ちを言葉と態度でストレートに伝えればいい。
増田にとって、告白して交際OKもらえる、ってのは性的接触(キスやセックス)をしてもいい許可がもらえるってことだと内心思ってない?
だって、それ以外の交際の楽しさ(楽しく会話、一緒におでかけ)ならすでにデートで体験できてるわけでしょ。
デート自体が目的のひとつなら、100人の好みの女性とデートするなんて、楽しくてしょうがないはず。
でも、手段でしかないから、結果につながらない営業活動の改善を続けてるばかりで、全然楽しそうじゃないよね。
交際=セックス許可証という発想が、相手にバレバレなんだと思うよ。
普通はそこまで考えてる男はそんなにいないけど、たぶん増田はそういう発想になった上で、紳士な行動で体裁を取り繕ってる気がする。
それは相手にとっては重いよ。
だって、デートしても自分が好かれてる手応えがない相手から、突然「あなたといつでも何度でもセックスできる権利がもらえる、セックス許可証に契約印を押してもらえますか?」と迫られるようなものだから。
だったら、とりあえず何回かのデートで気が合いそうなら、試しにセックスしてみた方が気が楽なはずなんだよね。
ということで、前置きが長くなったけど、ここからが本当の具体的なアドバイス。
告白よりも先に、まず、デートでいい雰囲気になったら手を握れ。
デートが本当に楽しめる相手となら、デートを重ねるうちに相手も自分を好きになってくれるはず。それは3回目とか関係ない。とりあえず、目標としてデート中に手を握ること。
手を握っても嫌がらない、握り続けていても違和感がない相手なら、その先に進める。
次は、自分または相手の部屋に行って(どちらも一人暮らしじゃなければカラオケ辺りで)、いい雰囲気になったら肩でも抱いてキスしろ。
行けそうなら、そのままセックスまで持って行ってもいい。
交際しないと絶対にセックスしないタイプの女性なら、キスした後に、私のことどう思ってるの的な話になるはず。
最低でも、手をつないだ後に告白だ。順番を間違えるな。
これは、手順の話じゃなくて、接触からの反応こそが、相手の気持ちをはかるための唯一の目安だからだ。
相手とのデートを心から楽しむことが大事だし、そこには当然手をつないだりの接触も含むわけで。
その時点で、性的な接触も含めてこの人と付き合ってもいいな、付き合いたいな、と思わせないとしょうがない。
その意味で、複数回のデートを了承してくれてるのは、嫌われてはいない証拠。
でも、まだ気持ちが不確かな時点で、イエスかノーかの契約を迫られるのは、プレッシャーなんだよ。
まずは、手をつなぐのが不自然じゃなくなったら告白するところを目指したらいいと思うよ。
インフルエンザで倒れていて暇なので、乱筆長文で書いてしまった……。
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追記:
予想以上に反響が大きくて驚いた。
みんな草食じゃなくて、食い方のマナーを気にし過ぎて拒食症になってるだけなんじゃないのかな。
みなさんとタミフルのおかげで、インフルエンザの熱も下がってきました。
>勘違いして強引な誘い方をする人が増えそう
決して、強引な誘い方を推奨してるわけではない。むしろ逆。相手の反応を見ながら(ここが最重要)、嫌がってなければ少しづつ先に進めるべし。手をつなぐのは、犯罪にならないギリギリのラインの試金石なのでオススメしているだけだ。
もちろん中には、好意があっても手をつなぎたがらない子や、特に無反応で嫌がらないけどその先にも進めない子もいる。そこは個性だ。ただ、経験が少ない男性にとっては、会話のニュアンスで読み取るよりも確実な方法ではある。
手をつなぐタイミングは、お店を出た帰り道とか、階段の昇り降りとか、交差点渡るときとかに、手を差し伸べて「はい」って言えばいいよ。好意を持ってて察しのいい子なら、そのままつないでくれる。相手の子が「何?」って聞いてきたら「手をつなごう」って言えばいい。それでも断られたら「それじゃ、行くよー」って普通に歩き始めればいい。何も恥ずかしいことはない。
そりゃそうだよ。恋愛工学とやらは、本来の理想的な恋愛展開のエッセンスを抽出して濃縮したものを、短時間にセックスまで至るためのメソッドとして濫用してるんだから。
恋愛工学とやらは、セックス人数を増やすための効率を最適化するためだけに特化したメソッドなんだろ? でも、この記事で書いたメソッドは、本当に好きな相手と出会えた時に付き合える確率を上げるためのメソッド。だから、本当に好きな人と出会えて付き合えて結婚できたら、もう使う必要のないメソッドなんだよ。
この手の恋愛メソッドは万能じゃないのは当然。一人一人の違いを楽しむのが恋愛だからな。でも、個人ごとにアレンジするとしても、初心者には基本パターンの定石が必要なんだよ。
例えば、どんなに消費者のニーズに合致したいい商品でも、パッケージや宣伝や販売方法がまずければ売れないだろ? 目的を達成するためには、何年もの地道な失敗と経験の積み重ね、または先人に学んだテクニックが必要なんだよ。いわゆるリア充達は中学生くらいからずっと恋愛の修行を積んで20代になる頃にはLV90(イメージです)くらいになってるんだから、LV1の童貞無課金ユーザーが手ぶらで戦場に向かったところで、かなうわけがない。仮に、相手が多少好意を抱いてくれてても、チャンスを逃しちゃうんだよ。だから、乗り遅れて時間がない大人は、攻略情報wikiと課金で武装しつつ、臨むしかないの。
最後に、元増田くらい積極的に努力しても空回りしてるのは、むしろ特殊例なので、普通の非モテ男子は誰でもいいから女性の知人とデートの練習をするところから始めるといいと思います。デートの練習は超大事。
自分の気持ちを偽らずに、相手の気持ちを想像することを忘れずに、正しい方向に努力を続けていれば、その先は確率と時間の問題なので頑張ってね。イケメンかどうかとかは、恋愛には微塵も関係ないから(東大生じゃないから就職できない、って言ってるのと同じくらいの甘え。)。
0フォロー0フォロワーのtwitterアカウントに鍵かけて、ちょっとしたメモ帳代わりにしている。ネットが繋がっていればどこでも見れるので案外便利だ。
といっても、思いつきを書き散らかしているにすぎないので、意味不明なものばかりだ。
その中でも少しはマシなものを選んで、この場で供養していきたい。
カラオケでふざけてサビ前で演奏停止押すやつがいたんだけど、そいつのあだ名556になった。
ISO12000の暗闇に
カタカナとか横文字とかの固い言葉で、柔らかい表現をしているものに憧れる。
むかつく辶を書く人
むかつく辶を書く人、居るんですよね。ぐしゃぐしゃ、とした辶を書く人。
素人童貞のジレンマ
発情期の猫は赤子の鳴き声に似て非常にあれだ
この頃まじでうるさくて眠れなかったなあ。
文壇と、喧嘩凸、ネットバトルの類似性
文学はさっぱりだから完全な妄想なのだけれど、多分似ていると思う。
半分ぐらい人がいるバスに乗ったん怒けど、乗客が俺しかいなかった
正しさって気持ちいい
ネット見ていると割と頻繁に思う。間違いを正さずには居られない人の多さよ。
納豆の 糸を引いてる ネバネバの ネバネバしてる 糸を見ている
割と好き
資本主義に毒されているから、RPGで売れないアイテムがあるとすごく腹立つ
「それを売るなんてとんでもない」なんてとんでもない。一流の商人なら伝説の剣にも値段をつけろよ
nyakiniku
このタイトルでひたすら猫が網で焼かれるだけのマンガを描こうと思ったけど、絵が描けないことに気づいたのでやめた。このアイデアの著作権は放棄しますので、絵が描ける方、是非どうぞ。