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2023-07-20

anond:20230720164417

おおむね中枢は東京都千代田区隼町

 

陸軍東京第一衛戍病院教育総監部陸軍航空本部などがあった

 

戦後原爆落とした元駐留米軍パレスハイツ、写真は見つかっていないが、相当広い敷地

 

米軍のあとは最高裁判所国立劇場敷地病院移転

新設最高裁海外査察のうえ設計コンテストを開催、総工費216円

そして袴田さん死刑判決

 

日本人上級国民コントロールするのに何が行われているかを知ることですね〜

 

2023-04-14

にしてもジャニーズっていつからこんなにのさばったんだっけ?

単なるアイドル事務所の枠をいつの間にか超えていて、すごいことになってるよね?

NHKだと紅白やうたこん、Venue101は言うに及ばず、大河の主役もあれば『少年倶楽部』なんて、ジャニーズスポットあてた番組もあれば、Eテレ中高生もその父母をターゲットにした『バリューの真実』なんて番組も、MCジャニーズグループだ。

東京オリンピックやれば当然、嵐がテーマ曲うたって番組の司会。

民放テレビは言うまでもなく、なぜかニュース番組したり顔で語っているのも何人も。

クイズ番組でも最近は、そこそこの大学大学院いってるインテリジャニーズ枠がたいていはいってるし。情報バラエティ風間俊介入れときゃなんとかなるみたいになってる。

舞台世界に目を向けると、帝国劇場新橋演舞場東京グローブ座、大阪松竹座あたりは、もうジャニーズ集客力を切ったら、経営にそこそこ悪影響出ると思う。

ここ10年くらい、日本の伝統美を取り入れた舞台で、一番若い人に影響力を持ってたのは『滝沢歌舞伎』とか『滝沢演舞城』だと思う。

そういえば今年の新橋演舞場の新春公演では、海老蔵じゃなかった團十郎白猿がジャニーズの子を共演させて普段歌舞伎なんて見ない若い客を引っ張ってた。

帝国劇場もすっかり、年始の公演はジャニーズ定番になってしまったし、今、日本で“単独主演ミュージカル公演”の公園回数記録を持ってるのは、堂本光一だ。かつては森繁久彌屋根の上のバイオリン弾き)とか先代の松本幸四郎ラ・マンチャの男)とかが競っていた記録だが。

多分、普通舞台を含めた記録でも、森光子を超えると思う。

なんでこうなった?

SMAPを、“バラエティもこなせるスーパーアイドル”としてもてはやしすぎたから? さらにそれに続いて、櫻井翔に“ニュースも読めるアイドル”なんてカテゴリーを作らせてしまたから?

欧州オペラバレエ演劇のように、きちっと歌ったり踊ったり演じたりする人を育てて供給して保護する仕組みがないから?

日本だと結局、宝塚ジャニーズか、国立劇場歌舞伎養成所くらいしか、そういうのちゃんとやって来なかったっぽいよね。

あとミュージカル俳優を食える職業にした劇団四季くらいか

いや、これたけでっかくなって閉まった権益を壊すのって、そりゃ大変ですわ。

2020-07-21

anond:20200720214006

 2.5次元の件は、腐女子特有というより観劇オタク性質なのかもしれない。劇場によっては服装TPOが厳しいという。歌舞伎みたいな古典芸能とか、国立劇場とかみたいな大きな所とか。

 

2020-04-22

ガンダムって国立劇場でやってるあれでしょ?

あれはおじいさんが作っておじいさんが観る古典芸能一種だろ?

2017-07-14

https://anond.hatelabo.jp/20170714152304

アメリカ演劇大学か。イギリスとか国立劇場とか地位が高いよね。

ちょっと違うけど、

日本演劇大学があれば事務所契約とか解決するか?

日本事務所って演劇とか見ないで見た目だけでスカウトする場合があるから育成にお金かかるし詐欺に会う人いるんじゃないかな。

もちろん学校出てても皆が俳優なれるわけじゃないけど。

志望してなかったけどスカウトされていい役者になる人だっているだろうし(それでいいのかとも思うけど)


いか日本演劇大学日大しか知らないな。

フルハウスのおいたんってモデル俳優コースだったっけ?

2015-09-08

五輪ロゴコメント見ててエセ科学信者を思い出した

五輪ロゴ類似問題について、以下のブログ話題になっていました。

◯よくわかる、なぜ「五輪リエージュロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/

あくま五輪ロゴベルギー国立劇場ロゴに絞った話ですが、

一般国民の私にも大変分かりやすく書かれています

ロゴの成り立ちが違うのも分かりやすかったですし、

何より文章が丁寧で読んでいて楽しい文章でした。

が、コメント欄を見ると

「今のデザイナー図面鉛筆で引けずオリジナリティーが無い」や

「ここで書かれているような類似性に関する分析なんて、もはやどうでもいい」など

ブログ主題からずれた反論で溢れています

私もフランスパンぱくった時点で佐野氏はアウトだろと思っていますが、

ここで語られている話とは論点がずれすぎてます

しか最初に「問題を切り分けるために、トートバッグ空港写真などの盗用問題や、ロゴの良し悪し、作者の人格審査委員会のもの等については、本稿では扱っておりません。」と書かれているにも関わらずです。

で、何かこの感じ見たことあるなーと思ったら、反エセ科学記事に対するエセ科学信者コメントにそっくりだと気付きました。

・主張と違う論点反論する

自分(または他の人)が良いと思っているから正しいと主張する

業界自体が間違っていると言い出す

人間自分の信じたいものだけ信じると言いますが、

ここまで行くと酷いものだなと思った話題でした。

2012-12-13

JASRACもそれに批判する人も微妙認識

おおもとの発端はこれ

https://twitter.com/sokohjo1/status/278806015833694210

JASRAC雅楽の公演に突っかかるのはおかしい!がおかしいたった一つの理由。

http://d.hatena.ne.jp/sophizm/20121213/1355376996


@sophizmの日記というまとめを読んで、わかりやすい部分とちょっとピントずれしている

指摘について個人的な説明と補足

1,JASRAC著作権使用料を請求したのか

2,JASRAC雅楽管理していないのか

http://d.hatena.ne.jp/sophizm/20121213/1355376996

についてはおおむね同意。なおJASRAC管理信託されている曲を公演上利用したかの申請をしろという話

ちなみにコンサートホールでやる場合や500~1000人規模のライブをやる場合JASRACの確認とか現状の

査察みたいなものが入っているみたい。自分も500人向けのコンサートを有料で行った場合申請した。

ただしJASRAC信託曲に関しては使用料を規定通り払い、信託曲でないものは払わないというような選択は

できない。ステレオタイプの申請書に、「入場料」「どの曲をカバーたか」を記入をして、人数とチケット

から割るという前時代的な作業。


クラシック音楽は6世紀頃からあるらしいが、だからといってクラシック楽曲が全て著作権

切れなわけがない。http://d.hatena.ne.jp/sophizm/20121213/1355376996


この書き方は誤解を呼ぶ。

クラシック音楽というジャンルを示しているならば悪くない言い方だが、クラシック音楽著作権切れてい

る。いわゆる純音楽であっても近現代作曲家であれば著作権が切れていないだけ。

たとえば「スティーブ・ライヒ」(存命)や「カール・オルフ」(死後50年たってない)などはまだ50年

たってないので著作権は生きている。

http://music-bells.com/?mode=f12

雅楽も同じでジャンルとしての雅楽ならば著作権が生きているものもある。例としては吉松隆氏の現代雅楽

作曲者も存命だ。また著作権とは別に隣接権や原盤権というのもある(JASRACはこの点に関して無関係

雅楽「鳥夢の舞」CD化に関する国立劇場問題

http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/Article/bunka2006.html

吉松隆

http://matome.naver.jp/odai/2134793976655349501

例えば武満徹氏の作曲した「秋庭歌」という楽曲JASRAC信託されている

そりゃそうだ武満徹氏は没後50年たっていない。


3,JASRACは何がしたかったのか

http://d.hatena.ne.jp/sophizm/20121213/1355376996

ちゃんと事務的に仕事をしているとは思うけど・・・ただ音楽利権で食っている人としては、こんなお役所

仕事じゃだめだと思う。




■まとめ■

戦時加算とかあって、ややこしいとこもあるけど。作曲者の死後50年たっている曲はパブリックドメイン

なるよ。

でも、ジャンルとしてクラシック音楽でも雅楽でも作曲者が存命だったり若しくは死後50年以内のものには

著作権発生するよ。

でもJASRACが請求するのはJASRAC信託されている曲についてだよ

2012-07-28

文楽問題に関するいくつかのこ

以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、

大阪の文楽問題をめぐる公開メールを一読して

文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。

文楽大阪市補助金だけで成立しているのではない

産経の記事によれば、

橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース

 同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。

記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。

大阪市補助金カット後、別名目の補助を出す可能性がある

公開されたメール記録から。池末浩規参与3月24日メール

http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html

③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化芸術に関する補助についての委員会名称未定)により決定する。

③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。

ただし、同じく池末参与6月5日メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)

文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります

文楽守れ!=(国も地方も)税を入れろ!となりがちです。

文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。

→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。

そうなると若手育成も国では?

→本来はそういうことになります

また若手育成について、国 と地方役割はどうなのでしょうか?

→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪奨励金を出す考え方もあるかもしれません。

将来、技芸員が自分の子息に芸を継がせたいと思い、家業として芸の継承が出来れば安定するのでしょうね。

市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。

文楽では過去様々な新作が作られてきた

文楽伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。

文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。

そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。

こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。

例えば歌舞伎演目コピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。

またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトコンパクトにまとめられている。

素人控え「操り浄瑠璃史」

 その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。

 昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。

 この反響の大きさに驚いたのが、本家文楽である人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである

 よく復曲といわれるが、昔通りの演奏復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七コンビ主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。

 上演すると、元禄の初演当時のようにお初徳兵衛の純愛葛藤が評判を呼んで、興行的に大成功を博したのである

これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人ハムレットテンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書福音書物語文楽で、といった試みまである

まり文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。

したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである

なぜ文楽が他の「伝統芸能」「大衆芸能」と同じでないのか&なぜ継承が難しいのか

しばしば、歌舞伎落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。

まず、文楽音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎竹本葵大夫さんが軽く書いている。

歌舞伎義太夫の世界

人形芝居で創りだした演目歌舞伎流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中お召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。

今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。

もちろん実力の裏付けがあってこそで、

 ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎演目文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。

ということになる。

葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃皇室関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣い吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。

繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。

しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか

また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。

義太夫節構造のものは簡単で、決まったメロディーパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。

ところがそう簡単にいかないのは、文楽古典場合演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。

以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうもの継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。

やや話がずれたかもしれないが、たしか落語歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。

この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。

観客動員を増やそうという努力必要、ただしその限界も率直に認めるべきだ

大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュースマネジメント必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。

ただし、それには一定限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。

音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育ほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。

一定限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。

まり観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。

「なぜ大阪府市が文楽の保存に公金を出さねばならないのか」という疑問に対する私の考える答え

私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。

そこで西洋音楽比較した場合文楽匹敵するものワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。

それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。

その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。

ただ、一方で、ヨーロッパオペラしろオーケストラしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっとなのだ

文楽匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人ワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないかワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナードイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。

大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。

彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉けが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。

ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)

現代大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。

そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。

それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。

もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。

もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミング文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか

そして同様のことは、なぜ国が補助金文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。

予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しか大阪場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄プロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。

日本の偉大な芸術しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。

(追記)

これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。

したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。

また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki

2010-12-07

http://anond.hatelabo.jp/20101207085800

別に特定の家系じゃないと、ってことは無いよ

国立劇場研修生募集とかしてる

まあ主役はれる様にはなれないだろうけど

そりゃ生まれたときから歌舞伎役者として育てられた人と

大人になってから志した人とじゃ、鍛えられ方が違うし

 

あと、歌舞伎ってのは基本的に民間である松竹がやってることだから

国はただそれを支援しているだけ

国が自らやってる事業だったら世襲は批判されるだろうけど

民間がやってることに、その批判は当たらない

まあ世襲であるがゆえの質の低下は否定できないけれど

 

若い外の血をもっと入れる方法は考えられてしかるべきだとは思う

 
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