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2020-11-11

実を言うと、フェミニズムはもうだめです。

 突然こんなこと言ってごめんね。

 でも本当です。



   *



 フェミニズムは全ての女性を救うわけじゃない。


 すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割ピークを迎えようとしている。

 言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまりフェミニズムは数あるライフスタイル思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。

 結局のところ、フェミニズムは全ての女性対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである論点取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。


 考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないかである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性弱者男性のみならず、男性女性総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来理念であったのだ。

 とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地存在しない筈なのだ

 換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。


 いずれにせよ、全てを救う思想というもの現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。

 フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシー広告現実人間リスクを生むので自重すべき」、というシンプル命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。

広告セクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャル広告価値のみならず女性価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方評価したところでもしストッキングタイツを身に着けた一般的女子存在性的に眼差されたら貴方責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的女子」とされる存在の中から、「広告セクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性パージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニスト活動は、女性総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。

 でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。

 無理。

 無理だから

 例えば、ソマリアでレ○プされている少女フェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治役割である。とにかく、世界同時革命的に思想啓蒙を行うことは無理なのである逆襲のシャアを見ろ。

 そんなこんなで、フェミニズム役割限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。


 話を戻すと、結局のところフェミニズム限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たち救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。

 逆に言えば、フェミニズム自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである企業マーケティング一挙一動監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズム役割ではない。それは本来公共広告機構ジャロ役割だ。

 ソマリア女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である

 役割限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告バッシングされることで不利益を蒙る企業存在するのが現実だし、あるいは、広告バッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。

 全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。

 そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなである


 つまりここにおいてフェミニズム立場は相対化されることになる。

 フェミニズム自身擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。

 そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムけが特別というわけではないのだ。


まとめ


 警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というもの存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。

 それは恐らくフェミニズム限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。

 勿論、救う対象限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることな人間には所詮できないのだから

 とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身限界意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞うフェミニストフェミニズム傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。

 でも本当です。

2020-11-05

スクスタ20章に対する自分なりのお気持ち怪文書

・はじめに

 スクスタ20章をクリアしました。実をいうとストーリー攻略をサボってて、17章で止まっていたのですが、20章をプレイした人たちの阿鼻叫喚を聞いて、気になって急いで進めました。

 クリアした感想としては、確かにこれは賛否が別れそうなストーリーだな、と感じました。基本的に私は物語客観的に見るようにしているのですが、やはり見てて辛い部分もありました。

 自分の想いをまとめるために、拙いですが文章を書かせてもらいます題名の通り、単なる私のお気持ち表明ですので、賛否あると思いますが、他の誰かの感想否定する気は毛頭ありません。

 あと、ネタバレがありますので未クリアの人は気をつけてください。

 後、誤字脱字も多いと思いますが許して。

 

・ 鍾嵐珠(ランジュ)について

 19章のラストで登場して、20章でニジガクを引っ掻き回すことになったランジュ。強烈なキャラクター性と理事長の娘という立場もある同好会を徹底的に追い詰める役目だ。

 最初に言っておくと、彼女が嫌いだという人がいるが、その意見は正しい。20章における彼女役割はまさに敵役とも言っても過言ではない。強権を使って(しかもそれは彼女自身の力ではなく理事長の娘、生徒会長の幼馴染という立場を利用して、だ)同好会自由を奪い、主人公蔑ろにする。普通にプレイすれば彼女に良い感情をもてというのが無理だ。

 しかし、その一方でメタ的な視線を持てば、1話全編でいきなりMVが入ってきてることからすでにモデリングがなされており、曲データ存在することから何らかの形でプレイアブル(と表現するべきかはわからないが)になるのもわかる。

 現在彼女に対する嫌悪感を感じる人が多いのはそれが合わさっているからじゃないだろうか。強権を使って同好会に対してだけ圧政を布き、分断させ、プレイヤーの分身たる”あなた”を蔑ろにする。そんな憎いやつなのに仲間になる可能性が高い。とてもじゃないが受け入れられない、という気持ちが強いのは当然だ。正直、私もその気持ち悪さをどうするべきか悩んでいる。

 同じようなことは彼女の幼馴染でもある栞子にも言えるはずである彼女個人的感情同窓会に対して強く当たっていたが、現在は(正しくは19章まで、だが)同窓会メンバーとして馴染んでいるし、受け入れている人の方が多いだろう。これは、栞子がシナリオを進めていく上であなた同窓会メンバー交流し、理解して言った上で仲間になることが分かったからだ。心情的にも受け入れやすい。

 対するランジュは正直言ってプレイヤーから良い印象はない。幼馴染の栞子が「彼女も悪い人間ではない」とフォローを入れてくれているので、本当は良い部分もあるんだろうが、現状ではプレイヤーはそれを理解できるシーンがない。そんな状態で仲間になる可能性があるのは、受け入れがたいものだと感じる。

 一方、彼女の言ってることはある種の正当性もある。スクールアイドルは良くも悪くも見世物だ。表現する側はともかくとして見る側からすれば完成度が高いに越したことはない。それを彼女プロの力を借りて高度な物へと持っていっている。手段はともかくとして表現する側として完成度が高いものを追い求める姿勢は間違ってはいない。

 だが、スクールアイドルとしてどうなのか、なのだかこれは後で纏める

 

・果林の選択について

 20章で最も批判が集まったように感じているニジガクメンバーの分断。果林と愛はランジュの言葉一定の理を感じて同好会を離れて部へと向かっていった。正直、果林と愛を推している人には辛すぎる展開だ。私は箱推しなので辛うじて堪え切れたが、自分推しシナリオの展開とはいえ敵対する展開は見たくないと思うのは当然だ。しかもそれが、同好会メンバーを苦しめる役目なのだ。受け入れがたいのは当然だ。

 特に果林は同好会メンバーにたいして「馴れ合いで入ったわけではない」と言い放ち、ランジュの持っているプロ技術を使ったスキルアップに対して理解を示している。これに私も最初は戸惑ったが、納得はしている。納得できても辛いのは辛いんだけどね。

 元々、彼女読者モデルをやっている。モデル業界には詳しくないものの、アイドルと同じように競争は激しい業界のはずだ。彼女はそこで人気を保つためにあらゆる努力をしていた人間だ。体形に気を使い、いろんな研究もして人気の読者モデルとしての地位確立した。だから学校でも有名人で、食堂にいれば名前も知らない下級生からしかけられて、黄色い声を上げさせる、元々はそういう人物である

 そんな彼女がランジュの言葉に理を感じるのは当然だ。少なくともランジュの用意した環境は下手なスクールアイドルでは実現できないレベルのものだ。そこにいることでスキルアップが望めるのならば向上心の高い彼女がそちらを選択を不自然なことではない。これは彼女が薄情というわけではなく、彼女自身がそこまで”スクールアイドル”という存在に本気になっているからだ。だからこそ、貪欲スキルアップできる場所があるならそちらに向かう。それが例え同好会メンバーを裏切るような形になっても、だ。理解はできる。だが、やっぱ見てて辛い。

 彼女はとにもかくにもギャップが印象的なキャラクターだった。クールビュティーではあるが、子供っぽいところやウブなところ、抜けているところがとにかく描写され、親しみやす人物として描かれてきたし、プレイヤーもそう思ってきた。だが、20章ではそういう部分は鳴りを潜め、大人としての視点を持ち、ある種残酷選択が出来る部分も描かれた。19章までの親しみやす彼女に慣れしたんだプレイヤーが困惑するのも当然ではある。

 

エマの怒りについて

 果林がある種、大人選択したこと、そしてランジュに対して彼女が最も過敏に反応している。普段のおっとりさから想像できない、怒気を孕んだ言葉対応しているシーンが多い。特に果林と対峙した際の会話が顕著。最も、皆を幸せにしたいと願いスクールアイドルをしている彼女とランジュの姿勢は真っ向から対立するものだし、彼女がはっきりとは言わないものの、彼女を拒絶しているのもちょっと新鮮だ。……新鮮なだけで見てるこっちのこころボロボロなわけだが。アニメニジガクの5話見た後にこんなの見せられるの拷問以外のなにものでもない。

 だが、エマは果林に対して怒っているというわけではなく、ランジュのバックダンサーにされている果林の境遇に対して怒っているように感じる。果林のスキルアップに最適な環境であるという言葉に対して、エマは果林自身ステージが見られず、ランジュのバックダンサーの扱いにされていることに怒っている。これは悲しい平行線なのであるが、同好会が元々「個人キャラクター性を尊重する、そのためにあえて一つのグループにならずにソロ活動をする」という選択をしたからだ。ランジュの活動はそれを否定する形になっており、自分よりも実力があればセンターを譲ると言ってはいものの、それは実力がなければ果林・愛(そして栞子)の個性否定するということである自身の大切な仲間を蔑ろにされている状況、それをエマは許せないのだろう。

 

かすみの見せた可能性としずくの決意について

 20章はとにかく重たい話だった。残った同好会メンバーは現状を何とかしようとするが、ランジュの強権で身動きが取れず、μ'sの力を借りてなんとか同好会としての体裁は取り戻すものの、状況はあまり好転していない現状だ。

 反撃ののろしとして計画されたゲリラライブ何となく話の展開から上手くは行かないんだろうと覚悟はしていたが、想像以上に辛い展開だった。それは、トップバッターかすみであったことが大きい。

 かすみというキャラ自身を全肯定している。それは「自分かわいい」という絶対の信頼を持ち、それが自信となって溢れているキャラである。だが、それと同時に彼女はその全肯定の自信の上にあぐらをかくことなく、かわいいを追求し、誰よりも自分がかわいくあれるように努力し、その努力を誇らない人間でもある。彼女アピールするのはあくま自身の「かわいい」であり、そのかわいいを生み出すまでの努力は決して見せない。なぜならそれはかわいくないからだ。そのプロフェッショナルさは日常生活ではギャグオチのように扱われているものの、果林やせつ菜等、仲間たちもいろんな媒体で認めている。

 だが、彼女のその全肯定から来る自信は、ゲリラライブを潰すために行われた部のライブで徹底的に打ちのめされる。新進気鋭で演出の完成度も高い部のライブに観客はあっさりと奪い取られ、残されたのは数少ない観客。彼女の積み上げた努力も、ライブにかけた想いも、冷たい現実の前に踏みにじられてしまう。正直、シナリオを読む手が止まってしまった。それぐらいいショッキングな展開だった。

 だけど、”中須かすみ”という人物は折れなかった。牙は折られて、満身創痍に打ちのめされても、冷たい現実に声は震えて涙声になっても。だってそれは”可愛くないから”。目の前にいる残ってくれたファンのために、彼女ライブをやり遂げる。

 そのかすみの姿に、しずく可能性を見出す。演出技術もなにもかもが上のはずのランジュ率いるスクールアイドル部のライブ。だけど、それに勝る何かがかすみライブにはあった。それはランジュが取りこぼしていて、もしかしたら果林と愛が見失っている何かだ。

 その”何か”を確かめるために、しずくはあえて同好会を離れる選択をする。その決意は残念ながら同好会メンバーには理解できず、可能性を見せたかすみからは拒絶すらされてしまう。だけど、あえて彼女はその道を進む。親友が見せた、おそらくスクールアイドルの輝きを確かめるために。

 果林・愛の分断は悲しみや戸惑いという感情が多かったが、しずくのこの決意はむしろ希望に思えた。スクールアイドル部に向かった彼女がどうランジュ、そして果林・愛の2人と向き合うのか、それがどういう結果を貰たらすのか、非常に重要ポジションだと思う。

 

セカンドシーズンでニジガクに問われるもの

 ランジュの所でも書いたが、彼女の言ってることは全部が全部間違っているわけではない。アイドルとしてファンライブを見せるにあたって、完成度の高いものを追い求める姿勢は間違ってないし、完成度が高いライブを見せた方が勝つのも当然なのだ。実際、μ'sやAqoursが戦ってきたラブライブという大会はそういう場所だった。

 だが、彼女がやっているのは”アイドル”ではなく”スクールアイドルなのだ

 残った同好会メンバープレイヤーたる我々が感じているランジュに対する違和感とは、まさにスクールアイドルへの姿勢なのだと思う。そして同時に、セカンドシーズンにおいてニジガクが最初に問われるのは「スクールアイドルとは何か?」なのではないだろうか。

 μ'sとAqoursもこの命題に向き合ってきた。μ'sは自身たちの永遠を望む声を聞きながらもそれを「限りある時間の中で輝くもの」とした。Aqours時間とともに移り変わりいくことに戸惑いながらも「輝きを受け継ぎ、次代に託していくもの」とした。

 ならばニジガクは?

 ランジュはスクールアイドルフェスティバルを見てスクールアイドルに憧れて日本へと来た。だが、彼女姿勢スクールアイドルとしてはあまりにも歪で、大切なものを見誤っているように感じる。同窓会や”あなた”が感じているそれは、永遠を望まれたμ'sや、3年生が居なくなったAqoursと同じ戸惑いなのだと感じる。

 20章は非常に重くて辛い展開だった。だが、希望は確実にあって、私はそれをかすみライブシーンに強く感じた。そしてしずくの決意の中に感じた。

 正直、辛い気持ちが強いのも事実だが、セカンドシーズンはまだ始まったばかりで起承転結の起の部分でしかなく、物語はどう転んでいくのかわからない。賛否が起こる理由もわかる、正直、ここまで拗らせる必要はあったのかと思う。でも、ここだけで判断しては全体が見えない、という気持ちもある。複雑な心境である

 何とも複雑な気持ちなのだが、しばらくはイベントストーリーのほんわかした雰囲気で心を癒しつつ、21章を待つしかいかな……。

 

 

 いやでもホント、ニジガクアニメがやっててよかったと心の底から感じられる(シナリオ読み終わった後5話を周回したよね。

2020-11-04

今更ながら数学ゾンビ

一々数式の意味強制して考えさせる教育はクソと前置きはしておきます

ただはてブとか増田現代数学では意味重要視しないって言ってる人達結構見てゲンナリした

特定性質を持った単なる点の集まりを図形としての意味を持ってると考えたりするひとは幾何に関して珍しくもないし

そういう考え方をした方が命題とか考えやすい面もあるのにな

別にこれは幾何に限った現象でもないし立場としては

掛け算の単なる代数演算の左・右に意味見出してる人達と大して変わらないと思う

現代数学抽象的な記述もするからこそ自由意味を見出す事は出来るし見出す事自体は悪くなく

アナロジーなんかも考えたり出来て役に立つ事もある

最後に繰り返すけど一々数式の意味強制して考えさせる教育はクソです

2020-11-02

努力矛盾である

 努力をする、という行為そもそも矛盾であって、人間努力をしないようにできている。更に言えば、人間努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。

 というのは、努力をする、という行為必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事からである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身マイナスしかならないということなである

 脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力必要期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間努力無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。

 例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為人間生存戦略上の矛盾なのである


 とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間生存戦略矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。

 繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである

 才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。

 とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。


 俺は凡人である。つまり努力をしている人間である期待値の低い試行を繰り返している人間である

 というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄リソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的判断能力はとっくの昔に欠落している。

 さて、そのような凡人にとって、基本的努力というもの期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率努力がある」というテーゼがそれに当たる。

 凡人――最も努力費用対効果コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というもの存在する。それは事実である。「努力矛盾である」という原初的命題テーゼ)を止揚アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。

制限された状態から効率の最大化を求める行為矛盾ではない」。

 これがジンテーゼだ。

 努力をしなければいけない人間は、能力制限限界リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力基本的効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というもの存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェス世界における現人類最強の人間ノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間相対的チェス能力制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり人間には万民において制限が、限界が、リミット存在している。

 となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいか効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空重力トレーニング想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。

 そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。

 そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるである

 ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力意味を見出すことができるのである。あるいは、重力のものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである


 テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。

 人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。


簡単にできることをする

 誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳から重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。

 例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。

 毎日あいうえお、と書いていると、殆ど人間は次のように思う。「『あいうえお簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。

 そうなったならば、相対的に難しいけれど比較簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである

 簡単なことから始めよう。しかもそれを毎日続けよう。

 そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。

 才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。

 すると矛盾は消える。

2020-10-28

子ども〉のための哲学永井均)を読んだ感想 前半

理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。

オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞情報伝達を行う際、シナプス行為理解しない。ひとつ作業を行うのみであり、結果のための行為連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。

まり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要事実である

本来理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。

これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。

この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。

あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)

はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで

・〈哲学〉(「哲学」ではない)について

本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。

からなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)

・〈ぼく〉という特別さの有無について

さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたし感想を書いておく。結果から述べると永井均認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。

まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたし意見である。つまり意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。

特別さの証明からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。

まあ結局、「確認認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである他者認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである

ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。

(余談だが99p9lの永井解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)

言語言語性について

ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタイン友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題命題)に「言語」があったというのは興味深い。

わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそもわたし最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。

しか言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである言語をどのように理解し、駆使するか(論理思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないかわたしは今の本業言語ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。

・世の人が平均的に上げ底を見ようとする世界は遠い

なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像しかないが、哲学をやろうとアカデミーなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込みから逃れることはできないのではないか。(数学者望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)

〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事作業である

さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。

1箇所目(17p,9l)

あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観他者に阿るのは心臓他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者自己存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。

その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。

2箇所目(111p,11l)

この人は政治政治議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分政治、または政治議論したことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治議論方法についてである

自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本左派は無様なんだ)

はっきり言っておくが、政治議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話であるタイムリー話題したことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。

5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。

2020-10-27

「本当に美味い○○は本当に美味いからねー」

ぼく「???哲学命題トートロジー?」

今日ファクトチェック(「自分以外の存在みみず?」編)

鼻穴にくすぐったいような違和感を感じて目覚めると、目の前は一様に桃色だった。

起きたてで白濁する視界だが、枕元にあるメガネを手に取ってしっかり眺めると、今日天井には今日みみず今日も一方向に並んでいる。

いや、天井みみずが並んでいるわけではない。天井と呼ばれる家屋の主要部を100パーセント混じり気なく構成しているのが、みみずなのだ

みみずがこうして雨風を防ぎ、ともすれば地震からも救ってくれる。さすがは建築材なだけあって、同じ大きさのみみず使用されているのは見事だ。

みっちり隙間なくそ天井を埋めている。しかし、今日はそのみみずの中に埋もれた筋となる太いみみずがこっそり垣間見えてしまっている。

筋たる年季の入ったみみずとは違い、小さなひとりひとりの構成材は命ある存在がゆえ、うごめきとともに剥離し、重力とともに落下する。

最近は寒くてみみずにも体力が失われているからかなのかコロナなのか、落下する人数が増えてきた気もする。

こうして冬はみみずが目覚ましがわりだ。そんな鼻をティッシュで噛む。つまり、鼻水と鼻みみずを面状のみみずで拭い取る。

でも、床板だってみみずなのに、なんで天井から落下したみみずだとわかるのか?って聞かれる。聞かれる?聞かれない。

床板と天井の見分け方。それには動きを見ればいい。床板を構成するみみずは動かない。重力で剥離することは無いので。

ただしたまに死ぬ。例えば私がつま先立ちしたら、つま先に居るみみずが何人か死ぬ。つまり圧死。私のさもない行動が命を奪う。死と隣り合った世界

そうなると彼らは表面の湿気を失い、床板から剥がれる。その尊い役割を終えた彼らを誇り、いやホコリとして毎週の掃除で除去する。

死んだみみずは、生きているホウキみみずで集められ、生きている床板のみみずから離される。集めることは分けることなのだと毎週思う。

そして、ホウキの湿り気で集められた死んだみみずは、生きているゴミ箱みみずに投じられる。これが彼らの夏の葬列。もしくは桃色の雪国

ゴミ箱というトンネルの中も桃色だった。そんな仲間に送られ、そんな仲間に見守られる。みすずはいだって仲間が一緒なのだ

そうだ、世の中では、♪みみずだっておけらだって1777700066666*だってみんなみんな生きているんだ友だちなんだ、

と高らかに仲間意識みみずらしく、桃色吐息で歌う。そうなんだ、みんなが仲間なんだ。みんなが仲間なんだ。私を日本唯一の仲間外れとして。

日本でよく知られた歌だから日本でよくご存知の通り、この「生きている」という言葉は、みみず構成要素として生きているという意味合いだ。

からみみずが「生きている」のは当たり前であって、私はそのカテゴリーに入らない。つまり、「みんな」の構成物はみんなみみずなのであって、

私という存在けがみみずではない。つまり天井ゴミ箱は「みんな」の仲間。つまり、私は「みんな」の仲間じゃない。青色吐息

これで、僕という存在芋虫だったら「みんな」の仲間になれただろう。それは、みみずと同じ様態気持ち悪い存在という共通点を持つからじゃない。

もっと直接的に、芋虫は私ではないので、私では無いものみみずであるという命題によって、私は「みんな」の仲間になれるのだ。

そう考えると、カフカがうらやましい。私はみみずが嫌いじゃない。芋虫の方が嫌いだが、私も芋虫になって「みんな」と仲間になりたかった。

そうして、失われた床板ことみみずはホームセンターで買った補充材ことみみずで補填する。その上にはワックスを塗る。

ワックスとはみみずであるが、みみずのための栄養剤でもある。湿り気も与え、その輝きを増しその死を防ぐ。ワックスとは掃除であり生育である

ワックスワックス。ってそうか、天井みみずと床板のみみずの見分け方の話だった。まあ、床板がその死によって剥離するのだとしても、

床板はどっちみち動かないものなのだ。だから、生きて動くみみず天井から存在だと言える。そして、みみず天国を目指す。

落下したみみずが床板のみみず同化しないのは、堕天使ゆえのプライドなんだと思う。床板のみみずが動かないのも同じく建材ゆえのプライドなんだし、

そのあたりの感情人間みたいで、みみずなのにいじらしく感じる。まあ、身を持って知っている通り、人間みみず構成されているわけだけれど。

そもそも、お前もみみずなんだから、床板と天井みみずの見分け方なんて説明する必要がないだろう!!

そんなの「みんな」の当たり前なんだから!!壁を登るみみず自分役割を求めて居場所に帰っているんだよ!!俺は壁を登れないんだよ!!

なんでお前は1メートルもの生体を成したみみずの群れなのに、そんなこともわからないの!!みみずは神経回線にならないとでもいうのか!!

筋となる大きなみみずはどのように工業生産されるのだろうとその苦労を忍びながら、掴んだ布団には軽い湿り気を持った柔らかさがある。

枕には軽いうごめきを感じながら、桃色を感じるメガネをかけつつトイレに向かう。そう、筋となる大きなみみずも気にはなるが、

光を通すその一生体を識別できないほどの細いみみずはどうやって生成され編まれ、そのメガネとしての光学特性を得るのか知りたいと思った。

これを今日テーマとしよう、と思いつつ生命神秘液こと尿を放つ。それと便座カバーことみみずに座り、尿たるみみずみみずの水に放たれる。

天井からみみずが落下すると、そこはライトの影となり黒ずんで見える。そんな天井のシミを数えながら尿を終え、鼻垂れるようにティッシュで拭う。

ティッシュという面状のみみずみみずの水の中へ。それは流れない。トイレットペーパーでないからではない。それはみみずに消化されるのだ。

そしてみみずなのにふわふわしない固く締まった床板を歩きながら、ふわふわしたカーテンを開ける。レースカーテンも桃色こそ呈しているが、

その地に使われたみみずは非常に細く、メガネのように光を通す。レースゆえに所々に空いた穴はみみずうごめきで日々形を変えるのが面白い

というか、窓がそうだ。私にはひとりひとりのみみずが見えないほどの細かさ。いい仕事してますね。しかし、そのひんやりとした湿った感触

結露もしている。みみず人間のように涙を流すのだろうか。だから人間みみずなんだってば!!

まりみみずは涙を流す。そして涙で視界もハッキリしてくると、そのみみずにも濃い色のみみずや薄い色のみみず発見する。それはテレビである

垂直面を器用に泳ぎ回る回遊魚、やはりみみずなわけだが、彼らは光の加減なのか、赤かったり青かったり黄色かったりする光の三原色

幾人もの色相で一つの景色を見せるダイナミック。しかカラフル熱帯魚と違うのはその俊敏な動き。さすが30フレームパーセック毎秒。

しかし冬は動きが鈍く、画面がちらつく。人物の顔が2つに割れて見える。それでもテレビは右下45度から叩くと治るという故人の逸話。聞こえるうめき声。

もちろん、画面のそれはみみずから人間なんだけど、私の唇のような赤、私の髪の毛のような青とは違い、ハッキリとした色彩ではない。

しかし、そんな色彩が自分以外のどこにあるのだ。テレビ登場人物みみずなのだし、テレビ登場人物みみずなのだから

みみずによる桃色に偏った色彩でもその表現に間違いは無いのだ。表現するもの制限されていれば、表現方法制限があったところでそれは満点なのだ

満点だと知覚すればいいのだ。みみず赤色だし、みみず青色で、みみず黄色。そう認識するように、この35年間生きてきたじゃないか

まれから35億年というものゴミ箱は常にみみずだったし、ホウキは常にみみずだった。天井みみずだったし、

天井のシミもみみずだった。尿はみみずの水だったし、ティッシュは面状のみみずだった。そもそもメガネみみずだったはずじゃないか

どうしてその色彩が目に入らないのだろう。今晩はみみずステーキみみずサラダみみずワインみみず豚カツです。みみずハイ

そう思った瞬間、世界は色彩を取り戻す。要はお腹が空いていたわけだ。重要なのは事物みみず構成されていることを隠すことじゃない。

今日今日とて、みみずマスクをしてみみず電車に乗ってみみず人間に押し潰されることを思れば吐き気がする。する?しない。

これはフケ?みみず。それはコロナみみず。それは、みみずである色彩を光の三原色として認識することなのだ。

そうすれば、みみず人間人間に見えて、みみずステーキは素敵に見える。いつだって真実はいつもひとつなのだから

そうしてお腹気持ちも十分に満たされ、卓上カレンダーにはバツをつける。今日テーマファクトチェックだったと思い出し、まずは明るい日差しに飛び出すのだった。

2020-10-22

マスク効果があるとの研究結果ではノーマスク勢は変わらない

なんとかしたいと思いつつ、認知の歪みを正すことな自分にはとてもできないと諦めてもいる。

勤めてるのは都内製造業なんだけど、社員の半分もマスクをしない。

社長はもちろん自然派ママたち、独身おじさんも。

自分を含む既婚おじさんはほぼしてるが、女性陣のうち営業クリエイティブ系はほぼしない。

気になるので軽い感じで「マスクしないんですか〜」と聞いたところ

子どもが私がマスクしてるの嫌がるんだよね〜 (自然派ママ)

インフルと変わんないって (独身おじさん)

そもそも意味ない (独身おじさん)

・気にしすぎじゃない? コロナ関連のテレビ見るのもやめちゃったよ(社長)

電車で咳したら隣の人が離れていってくれるし笑(独身女子)

みたいな返答。

特に社長ビル・ゲイツ陰謀説やらウイルスによる淘汰は必要なんだから放っておいていいだの

社員LINEで流しまくるから若い子たちもマスクしなくなってしまった。

まぁ、ぶっちゃけ若い人がマスクしなくても死亡リスクはほぼゼロに等しいし比較的軽症で済むが、

古希を越えた社長がそれで、地方取引先や友人のところにも同じノリで行ってしまうから参る。

社内でも長時間の打ち合わせを窓も開けずに始めるのでこっそり窓を開けると、

寒いだの外の音がうるさいだので結局閉められてしまう。

ニュースマスクウイルス拡散抑制する実験結果を伝えていたが、( https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201022/k10012674851000.html )

そもそもマスク効果があるとかないとか関係ないところでマスク拒否する人たちに

このニュースは全く響かないと思う。

これを書くとまた変なバイアスがかかるけど、

ノーマスク勢は全員揃って強硬反原発なんだよな〜

別個の関係ない命題だけど、第三者から検証可能根拠には全く無頓着

彼ら彼女らの中の正しいことだけがある感じ。

(そのくせウイルスマスクの目より小さいからつけても意味がないとかは声高に唱える)

レストランにも普通に行っているようだが昨今は4人を超えるグループ客を受け入れないところが多く、

そのことでブツクサ言ってるけどそこは文句言うところじゃないと思うんだ。

社長ともちょいちょい話す、会社に出入りしている社員じゃない人がコロナにかかったので

ちょっとは変わるかと思ったら全然からな。70超えてんだからマジで自重してくれよ。

一旦社内で発生したらクラスターを抑えられる気がしない。あ〜あ。

2020-10-10

anond:20201009134539

キャラクター個別名称が振られているという点で、「関数」より「定理」に近い気がする。三平方の定理とかそういう名称ね。

すると、物語自体定理を用いた「補題」や「命題」、もしくは「数値例」って感じだろうか。

2020-10-07

LGBTQ?に同権を認めるのはやっぱり違うと思う

最初に、元々婚姻制度っていうのは家庭で子孫を生み育てて社会を維持するのを補助するための仕組みだ、という立場です。この前提が異なる方はそれを踏まえて読んでいただくか、ここで読むのをやめてください。分かり合うことはないでしょう。

基本的には性自認とか性的指向とかは人の自由だと思うし、好きにすればいいと思います。けれども社会的な権利義務に関しては同じように扱うべきではない場合がある、と考えています

先に結論を書くと、出産、養育、その他のプリミティブな社会義務役割から逃れつつ、婚姻制度権利だけ主張するのはありえないよね、っていう主張です。

どうやってもLGTあたりの人が子供を産むことはないわけで、この命題解決しないで、権利だけ同じにしようというのは無理だと思うのです。これはノーマルストレート?)の子無しカップルにも言えるとは思います

男女の婚姻制度とか、もっというと男らしさとか女らしさっていうのは、家庭を築いて次世代を生み育てて社会を維持するために人類があちこち文明で作り出した叡智なわけです。男が頑張って家庭を維持するだけの糧を稼いで、女は子を産み育てる、まぁ逆でもいいし、例外もたくさんあると思うけど、マジョリティはこうあることで社会が存続してきたと考えています

からLGBTQだけじゃなくて「男らしさ女らしさから解放」とかも同じで、次世代を産み育てるための仕組みを否定しているんだよね。

それを否定するなら代わる仕組みを提案しろよ、と。自分たちマジョリティになっても持続する社会形態をね。たまたま自分たちマイノリティからそれを許容してもらえればいい、っていうのは甘ったれすぎていて話にならない。一人くらいプールおしっこしても平気でしょと変わらない。

体外受精、人工子宮、あと教育の外部化くらい?なんか工場でベイビーを生産してロボットとかで教育する未来が見えるような気がするが、そのくらいやればそもそも家庭が不要になるし、LGBTQとノーマルカップル権利区別する必要はなくなると思う。自分にはあまり望ましい姿には見えないけれど。

LGBTQも産まないカップルも男らしさとか女らしさとか否定する人たちも、じゃぁどうやって社会を維持していくのか、きちんと考えて提案して欲しい。今やっているのは既存の仕組みを壊しているだけに見える。マジョリティ必死に支えている義務から逃れて、権利だけ主張する人たちにしか見えないよ。

ディスクレーマー的に付け加えると、LGBTQの方にも生まないカップルの方にも事情が色々とあるのは想像できます。望んでそうなったわけじゃないという方もいると思います。そういうのは素直に同情するし、必要に応じた支援があったっていいと思うんだけど、それは同様の婚姻制度を一律に適用する、とかいう話とは別だと言いたい。もちろんどっちが偉いとかでもなくて、ただ、違うものとして扱うべきだと。

あと蛇足だけど娯楽としての同性愛っていうのは楽しくていいですよね。織田信長とか徳川家光とかみたいな話。それこそ特権階級マイノリティ)の娯楽だけど。

たぶん婚姻制度恋愛要素が絡むからややこしいんだよな。恋愛結婚は大いに結構だけど、そうじゃなくてもいいじゃない。

2020-10-06

漫画アプリで日頃からコツコツ読むか全巻イッキを待つか

永遠命題である

ハッキリ言って、連載終了しているならベスト期間限定のイッキ読みだと思う。

半日なり数日なり腰を据えて一気に読むことで、序盤に張られ終盤に回収される伏線もすんなり理解する事ができる(逆に設定の矛盾に気づいてしまうこともあるが)。

だが、イッキ読みのエネルギー消費は半端じゃない。たか漫画でも集中して何時間も読み続けるのは体力を使う。

しかも、イッキ読みにはシーズンの様なものがあり、ゴールデンウィークだとか年末年始だとかにイッキ読みがイッキに来る。あちこちサイトアプリがイッキにイッキ読みキャンペーンを始める。期間は一週間なのに全部足したら全巻読めるやつだけ足して300巻とかにもなったりする。

そういう時に日頃からコツコツ読み進めている作品の続きがあると労力が大きく減って助かるが、同時に迷いもある。テンポが崩れるのだ。

更にそういったイッキ読みとチマチマ読みのハイブリッドには、チマチマ読みだと途中までしか読めない作品だけど、イッキ読みが来るのを見越して途中まで読むというテクニックさえ産み出されるのだ。

作品を選ばなければ漫画無料で読み放題の時代。だからこそ、読める範囲のどれを読むかに頭を悩まされる時代でもある。

かつて、我々はブックオフをいくつも巡って歯抜けの漫画を全部立ち読みで済ませていた。それがいまでは自宅で出来るが、あの頃と比べて全巻無料読破のチャンスを掴むのは難しくなったように思う。

自転車を漕いで少し遠くの大きなブックオフにいけばいい頃とは違う。キャンペーンタイミングを読み、それに合わせて漫画リズムを年単位で組み立てていく。

足腰の力で漫画を読む時代は終わったのか?いや、今でもブックオフを利用するという手段は残る。さらには多少の金銭を用いて漫画喫茶、果ては漫画の多い図書館京都国際マンガミュージアムなどはその頂点だ)で補完する手もある。漫画を読むという行為は複雑化の一途を辿る。

キンドルに半端に積み上がったサンプル漫画を試しに数えて見て欲しい。その膨大さだけでも、我々がいかに多量の漫画に囲まれ、それらに対して中途半端距離感に置かれ続けているかが分かるだろう。漫画を読むのは単にページをめくるという事ではない。いつ、どうやって、ページをめくる権利を手に入れるのか。そこから始まっているのだ。

永遠命題である

2020-09-27

オリンピック白ナンバーは天下の愚策

事業車なのに緑じゃなくて白、軽自動車なのに黄色じゃなくて白になるオリンピックの記念ナンバー

今まで何十年と受け継がれてきた統一色をくずす、天下の愚策です。

たった数パーセント例外のために、「白→事業者でない」「白→軽ではない」という命題を成り立たなくした。

例えば狭い道で向こうから1台の車がやってくる。

軽車両ならすれ違える。軽じゃなければ手前で待機。

そんな時に、遠くの車のナンバーの色を頼りに、軽の確認ができない。

これ、自動運転時代になったら大きなことですよ。

それからナンバー写真を撮って車両認識するシステム

今はもっぱら4桁の数字だけを読み取って、駐車場の入退場の管理に使われてるけど、

これを例えば「事業車だけを通す」とか「軽だけが駐車できるスペースに入れる」とか、

駐車場以外にも、有料道路のゲートをなくして、ナンバーから軽を認識して別料金にするとか、

そういうことを機械でやろうとしたときに、色を頼りにできなくなる。

たった数パーセント例外のために。

この愚策、どうせ国交省エライさんが「俺の在任期間に後世に残ることをしたい」と思ってやったんだろうけど、

どう考えてもデメリットしかない。

そして今からもう後戻りできない。アホです。

2020-09-19

マスク問題じゃないって人に質問パート2

以下は1階への回答

元増田にもまだ回答したくなるようなブコメが残ってるかもしれないので、先に項目だけ作っておく。

それとこの増田自体にも万が一ブクマが付いたら、それにもここで回答する。(さすがにもうそんな奇特な人は居ないだろうけど)

 

〜〜引用開始〜〜

まず増田がいうぼんやりした「マスク問題」というのを、論理的判断できる命題の形に表わしてほしいよね。何を問題と考えているかからないと、どこまで行っても空中戦じゃん。

〜〜引用ここまで〜〜

 

トラバでも似たような指摘があったね。

俺は「マスク問題でしょ」というのは、比較的わかりやす命題だと思ってたよ。次に続く。

 

〜〜引用開始〜〜

マスク問題である」を①客が降ろされた直接・唯一の原因がマスク着用拒否である、の意味で使う人と、②マスク着用拒否が、機長や客の行為の当否を検討する上での一事情となり得る、の意味で使う人がいる印象

〜〜引用ここまで〜〜

 

つの事情となり得る、というよりは、大きな影響を与えている、という方が俺の意見に近いかな。

 

まり、まとめると

マスク拒否したという事が機内での出来事やその後の大勢バッシングに大きな影響を与えているのだから、これはマスク問題であって、他のものではあり得ない。ましてや人種差別問題などとは入れ替えられないものである

という感じかな?でもこれでちゃんとした命題になってるかは自信ない。

 

トラバ言及してくれてた人達もこれで納得してくれるだろうか?

 

〜〜引用開始〜〜

「俺が納得するまで議論をやめない!」な人と「議論」なんてできないよね。接待とか甘やかしとか言い換えたほうがいい。顕名でやるならまだ「馬鹿で厄介な奴」という評価を受け入れる覚悟があるけどそれすら無いし。

〜〜引用ここまで〜〜

 

俺はそんなこと言ってないから、トラバでそんな人が居たのかな?俺の事を指してるなら、その場合はこういうことになるよ。

 

俺「Aだと誤解されたら困るから言葉を選んだ」

おまえ「こいつはAだと言ってる!!」

さて不誠実なのはどっちでしょう。

 

以下は2階への回答

2階へのリンク

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200917183131

 

〜〜引用開始〜〜

マシだけどヒデェ例として引用された者だが、そりゃピーチ側の非も言及したいしでも大声の詰問調の人物が離陸後の飛行機という逃げられぬ密室にいると怖いと多くが認識する故のあの表現であってつまり文字数が足りな

〜〜引用ここまで〜〜

 

それならもう少しトーンを落として、こんな風に書いたら?

「彼がマスクをすると死ぬ病気仮定すれば黒人と同じく意志で変えられないから席移動強制差別になるが、差別に負けず席保持したで終らず離陸後にも確認をした時点で被差別者から要注意人物立場が変わった」

 

最後の「黒人でも同じ」という文は重複になるし文字数関係で削った。

さて、上記だとどんな印象になる?

確認をしただけで要注意人物になって、さらにその程度で緊急着陸するの?!」って感想が出てきて説得力がなくなるよね。俺はそこを指摘してた。

最初ブコメからピーチ側の非も言及したい」と思ってると類推して欲しいってのは、少し厚かましいと思う。

 

〜〜引用開始〜〜

・1階

乗客を守るための指示に従わないなら危険判断される。「黒人」は感染症ではないので乗客安全を守る上での防疫は不要。よって、そもそも移動の必要は皆無。同列に扱う意味不明なので議論余地が無い。

・2階

増田レス見たけど僕はマスクの話一切してないのに「マスク問題じゃん」って返答に加えてその後の意味不明な展開も妄想されて困惑したけどブコメには増田賛同する声も割とあったので人と会話するって難しい

〜〜引用ここまで〜〜

 

まだ理解できてないみたいね

とは言え俺の君への返答を読んだだけだと確かに理解は進まない。それは悪かった。

俺はひどい例を出して「ほら意味不明でしょ。だから前段のマスク問題関係があるんだよ」って後で説明してるから、そこを読まずに理解もできずに「増田賛同する声も割とあった」と嘆くのは滑稽だよ。

2020-09-17

マスク問題じゃないって人に質問

飛行機マスク拒否おじさんの件なんだけど、

これはマスク問題じゃなくて、乗務員の指示に従わなかったから (もしくは乗務員にしつこく絡んで業務妨害たからだ) って言ってる人に聞きたい。

 

マスク問題じゃないなら、例えばこれが黒人からって同様の扱いを受けてても、最終的には人種差別関係なくて、あくまでも指示に従わなかったという事が問題になるの?

 

この問題黒人差別だとこうなるよね。

乗務員黒人は席を後ろに移って下さい」

白人黒人キモい!あっちいけ」

黒人「俺は席を移らない。それとあの客に謝罪を求める」

乗務員白人様。申し訳ありませんが、黒人が移動しないので白人様が移動して下さい」

黒人「納得できない。ちゃん説明してくれ!」

機長「おまえは運航を妨害している。降りろ」

大勢の客「ヒャッホー!黒人は出て行けー!」(拍手)

おまえら「この件に人種差別関係ない!乗務員の指示が気に食わなくても飛行機に乗った限りは従え!乗務員業務妨害するな!」

 

俺はやっぱりマスク問題だと思うんだけど、

それが違うというなら上の例の何が間違えてるのか教えてくれ。

すまんけど、論理的な回答がない限り、定期的に投稿するからよろしく

 

ブコメへの返信

〜〜引用開始〜〜

その例でも抗議の仕方によっては安全阻害行為等に当たる余地はあるような。抗議に至る経緯が全く関係ないというのも極端な気はする。

〜〜引用ここまで〜〜

(はてな記法引用全く使えないじゃん。。。)

 

安全阻害行為に当たる余地については語るのに、今回の問題差別行為に当たる余地については触れないの?まだ文字数には余裕があるよ。

時間が経った後にも追加しないのはフェアな態度ではないよね。

あと誰が「抗議に至る経緯は全く関係ない」って言ってるの?それはここで俺が質問してる相手だよね。

 

〜〜引用開始〜〜

マスクはできるだけすべきというコンセンサスがある。差別はすべきでないというコンセンサスがある。だからこの例において「乗務員黒人の方は席を後ろに移って下さい」」がなんの要求なのか意味不明でなる。

〜〜引用ここまで〜〜

 

なんかスターがいっぱい付いてるんだけど、すまんが言ってる意味がわからない。

上の例がなんの要求なのかを書けば満足かな?

あれは白人黒人の隣が嫌だと言ってるって意味なんだけど、わかってくれた?そういう事ではなく?

すまん。本気で何が言いたいのかわからんからトラバで詳しく書いてくれない?

読解力なくてすまんな。

 

もしかして上のコメント

〜〜引用開始〜〜

乗客を守るための指示に従わないなら危険判断される。「黒人」は感染症ではないので乗客安全を守る上での防疫は不要。よって、そもそも移動の必要は皆無。同列に扱う意味不明なので議論余地が無い。

〜〜引用ここまで〜〜

これと似た感じなのかな?それなら意図理解できるから、こんな風に返してみるかな

「じゃあマスク問題じゃん。マスク拒否ったのが最初の原因じゃん。あれれ?マスク云々は関係ないのでは?」

するとこう言い返したくなるかも

最初マスクが原因だったけど、感染させるリスクの高いマスク拒否野郎が移動を拒否した段階で安全な運航ができなくなるだろ」

そうすると不毛マスク談義に進んで

「残念ながらマスク拒否おじさんは咳をしてないんだよね。咳をしてない人の場合マスクは横に対してはむしろ拡散する傾向があるのだよ。しかも機内はすぐに空気が入れ替わるからそもそも空気感染するリスクは低かったりするね(ニヤニヤ)」

みたいな感じになってくるのかな?俺は面倒だからそういう議論はやめとくわ。マスク拒否おじさんはその方向でも返してくれるみたいだから、彼に直接言ってみて。

 

〜〜引用開始〜〜

1.

違ったらごめんだけど、これ本人じゃない? ここらへんに同じ気質を感じるんだけど。「すまんけど、論理的な回答がない限り、定期的に投稿するからよろしく。」

2.

こんなところに書き込む暇があったら賠償金払うための金策に励んだほうがいいんじゃないかなあ

〜〜引用ここまで〜〜

 

おまえら自分が下衆であるという認識はある?

下衆に対してマジレスしても意味はないかもだけど、一応明確に「他人です」と言っておく。

ちなみに「論理的な回答がない限り」と書いたのは「俺を納得させられる回答がない限り」だと、納得しないマンになるだけじゃないかと思われてしまうかなと心配たから。

しつこさが似てるってのは言っても良いけど、そんな奴は俺を含めていっぱい居るわい、短絡的なやつめ!と返しておく。

 

そろそろ増田文字制限心配になってきた。

 

〜〜引用開始〜〜

きっかけはマスク、降ろされたのはマスクじゃない 終

〜〜引用ここまで〜〜

きっかけは人種差別、降ろされたのは人種差別じゃない 終

と同じってことだね。

 

あと、非常に多い意見に「黒人関係ないだろ」ってのがあるけど、そうだよ。もう一回読んでみて。

読んでみたかな?でもわからない?

俺はわかりやすい間違えた例を出して「ほらおかしいでしょ?だからマスク問題とは切り離せないんだよ」って言ってるんだよ。まだわかんない?

どうしたらわかってもらえるだろう?

「この例はおかしいでしょ」って文脈に「この例はおかしい!おまえは馬鹿だ!」みたいに臆面もなく書ける人って、一般論としてかなり恥ずかしいよね。

そしてその恥ずかしい人がなぜか支持を集めてて人気コメになったりするはてなってサービスは、、、まあ、こんなもんだよね。

おまえらは、こんなもん。しょうがいね

 

〜〜引用開始〜〜

問題です。例え話が好きなようなのでバスに例えるよ。仮に運転手人種差別的な発言をしたとしても、走行中に乗客運転手に掴みかかったら、その乗客は周囲を危険さらしたので有罪運転手差別発言は別途処分

〜〜引用ここまで〜〜

 

問題ならいい。とはならないな、これは。

みかかったらってなに?誰か掴みかかったっけ?

こんなコメスターが100以上つくのって、、、まあ、おまえらはそんなもん。スター付けたやつ全員がそんなもんなんだよな。はぁ。。。

 

詭弁のガイドラインに載ってそう」ってコメも人気だよね。

詭弁ってのは、全く関係ない例をあたか関係あるかのように書く事でしょ。

全く関係ない例を出して「ほらこの例だとおかしくなるでしょ」ってのは単なる説明。その違いがわからないコメにもスターがたくさん。つまりスターを付けた人にも違いがわかってないんだよな。そんな人が大勢いるサービスって。。。

 

〜〜引用開始〜〜

何だこれ。国語が苦手な人か。どうせ論理を説いたところで理解できる能力などないだろう。そもそも特に議論必要命題でもないし。君以外はみんな理解できているよ。

〜〜引用ここまで〜〜

 

何だこれ。国語が苦手な人か。どうせ論理を説いたところで理解できる能力などないだろう。君以外も大勢理解できていないみたいだし、君らはどうせそんなもんだよね。

 

〜〜引用開始〜〜

P(X)を「Xを理由に搭乗拒否してはならない」と定義し「P(黒人)⇒P(マスク)」 との論旨だが、そもそもどのようなX, Yの場合に「P(X)⇒P(Y)」が成り立つのかについて言及していないので証明になっていない

〜〜引用ここまで〜〜

 

そんな論旨じゃないよ。マスク問題じゃないと言ってる人の方が「P(黒人)⇒P(マスク)」 という論旨に近いんじゃない?俺はむしろ、それはおかしくない?って言ってる。

 

〜〜引用開始〜〜

マスク問題じゃない。と言ってるのになぜ黒人差別問題になるのか。別の事象を持ち出して同じ問題であると言いたいなら同じ問題であることの立証責任は言い出した側に生じる。

〜〜引用ここまで〜〜

 

マスク問題じゃないと言ってる人は、その後の抗議が問題だと言ってるよね。

じゃあ、何がきっかけでも一緒でしょ?と俺は言ってる。

俺は立証責任をこの時点で果たしてるんだから

あとは違うと言う側が反論すべき。

まり「何がきっかけでも関係ないが、黒人問題きっかけにした場合関係がある」と言わないといけなくなる。

そんな事を言われたら「え?関係あるのないの、どっちなの?」ってならない?それとも、こんな単純な事がわからないの?

 

〜〜引用開始〜〜

彼がマスクをすると死ぬ病気仮定すれば黒人と同じく意志で変えられないから席移動強制差別になるが、差別に負けず席保持したで終らず離陸後にも騒いだ時点で被差別者から危険人物立場が変わった。黒人でも同じ

〜〜引用ここまで〜〜

 

この増田を書いた当初は彼を擁護するつもりはあまり無くて、単に表題の件に疑問を持ってただけだけど、ブコメを読むうちにほんとに酷いコメントが多いという事に気付かされたわ。その中でもこれはかなりマシな方だけど、それでもこのザマ。

マスク拒否おじさんはこの何百倍も大変なんだなと思うと (自業自得とはいえ) よく戦えるなと感心するわ。

離陸後にも騒いだって

暴言を吐いた人は謝罪したのか」と「約款にマスク着用の義務が書いてあるか」を確認しただけだよね?

それにまともな回答をしないピーチについて君は言及しないで、ことさら彼が危険人物だと喧伝するのはなんなのだろうね?

って、まあこのコメントは本当にマシな方なんだよ。俺の質問には答えてるからね。そんな人でもこんな決め付けをするんだなって思うとつい我慢できなくなって俺の論旨と関係ない事を書いてしまったわ。

ちなみに俺はピーチが悪いとも決め付けてないよ。議論余地があるとは思うけどね。

 

〜〜引用開始〜〜

マジで質問意味趣旨)が理解出来ない。黒人白人かって欧米か!…言ってみたかっただけ。 イヤ増田アジア人でしょ?

〜〜引用ここまで〜〜

 

ちなみにこんな風に素直にわからないと言う人を見てもガッカリはしないんだよなー。

これを書いた人は、たぶんここまで読めないだろうし、ここまで読んだらたぶん途中で答えは書いてるからわかってくれると思う。

それより、わからないくせにわかった風に書いてる奴や、自分がわかってない事を認識すらしてないってレベルが本当に多くてうんざりする。

 

〜〜引用開始〜〜

バスのたとえ話だっていってるのに「掴みかかったらってなに?誰か掴みかかったっけ?」は草。「機内で誰か黒人差別したっけ?」で終了だろ

〜〜引用ここまで〜〜

 

なぜそうなるんだよ。

バスの例え話をしたいなら、飛行機バスに変える以外はしちゃダメだろ。

みかかった場合の例え話をしたいなら、また別にするべき。

で、掴みかかった例え話をして何になるの?

(黒人差別の例え話をして何になるかはすでに説明してる)

追記である程度読み込んでる人でもこんな低レベルなのは、本当にうんざりするね。しかもこんなコメントスターを付けた奴までいるという。。。

 

さて、ここまで散々うんざりだと書いてるけど、一方でまともだなと思う意見もある。

俺と対立してない人のコメントは書いても納得しない人が多いだろうから、まずは「対立はしているが、もっともだな」と思ったコメントを貼っていく。

 

〜〜複数引用を開始〜〜

1.

増田の言う通り、(航行中においては機長の判断問答無用正当化されるが)事後において当時の判断が適切だったかは別途「独立して」検証されるべき。 前に書いたやつ:http://sangping.hatenablog.com/entry/2020/09/13/003052

 

2.

録音した上で黙って席移動して目的地についてから問題提起する。飛行機簡単に落ちないけど簡単にも落ちるし、下手すると騒いで前方の注意そらしてハイジャックテロもありうるからとりあえずは指示に従う。

 

3.

降ろされたのは機長の指示に従わなかったから。機長の指示が適切だったのかは裁判で争うべき。泣き寝入りする必要はない。

〜〜引用ここまで〜〜

 

全部は貼らないけど、こういう系統コメントも少しはあったね。

1は俺の言う通りと書いてるから、まるで対立してないようにも読めるけど「マスク問題ではない」という主張だから対立してるよね。心情的には対立してないから、ややこしいけどね。

これらと、ここまでピックアップしてきたウンザリコメント達との違いは (まずはちゃん理解できてるという点が大きく違うが、それは置いておいて) 判断を一旦保留にしてる点。その上で従うべき、というなら、納得感は高い。

俺は判断を保留にする水準も程度問題だと思ってて、マッキョおじさんはギリギリセーフの側だと思うけどね。

かなり危ういけど、一応筆談提案してたし、大声の指摘に関しては謝罪もしてたようだから

(もちろんピーチ側の意見が出てきたら変わる可能性も高い)

でも、俺の論旨には明確に答えてくれてるから上記コメント系統には納得はできるものが多かった。

 

ちなみに

〜〜引用開始〜〜

何度でも言うが飛行中の航空機内では機長が絶対権力を有していて、乗客に対しての差別はもちろん迫害OKである。なぜなら航空機内だから!機内は人種平等を訴える場ではないということ。地上でやれ

〜〜引用ここまで〜〜

これはアウトね。

一見上で紹介したコメントと同じに思えなくもないけど、決定的に違うのは機内では全く抗議してはいけないとでも言わんばかりな点がダメ

一言でも抗議したらダメだとでも言い出しそうな勢いだよね。それは極端過ぎる。

もちろん「マッキョおじさんの抗議のレベルではアウトだった」という主張なら、聞く気にはなる。上記の2からはそのニュアンスが感じられる。

まあ俺の論旨にはちゃんと回答できてるし、一つの意見としては認めるけどね。

(なんか上から目線なっちゃってて悪いけど、でもそのレベルを超えられない人の余りの多さにうんざりしてる俺の気持ちも誰か少しは汲んでくれて良いと思う)

 

その他取りこぼしなど

〜〜引用開始〜〜

法律規則を作るには時間がかかってしまうことを「お願い」としているだけであって、利用規約に準ずるものと考えるべき。だから公序良俗に反する指示を仮定するのはナンセンス

〜〜引用ここまで〜〜

俺の論旨とはあまり関係ないけど、それなら搭乗拒否すれば良かったのでは?

公序良俗に反する指示を仮定したのは、まさにナンセンスな例として出したものだよ。

とは言えそこまでナンセンスとも思ってないんだけどね。

今度はそっちをメインにまた書いてみようかなぁ。まあ今回とは違って反応はあまり無いだろうけど。

 

〜〜引用開始〜〜

仮に黒人であることを理由に席の移動を要請されたら、騒いで下ろされても世論は圧倒的にその黒人寄りになるだろう。だから今の状況になってるのは徹頭徹尾マスク問題であるとは言える。

〜〜引用ここまで〜〜

 

その通り。俺も最初にこう言えば、ここまで反論されなかったのかな?いやでも、ブコメ文盲ぶりを見ると。。。

これ見て「そう言われてみればそうだね。俺が間違ってたわ」ってなる人居るかな?俺の印象では居てもひとりとかだろうな。ゼロもあり得る。

例えば上で触れた比較的マシな方の「何度でも言うが飛行中の航空機内では機長が絶対権力を有していて(中略)地上でやれ」の人でさえ、あの拍手醜悪さに関してはスルーしてて何も思ってない風なんだよね。

 

〜〜引用開始〜〜

論理的な回答がない限り」は「自分が納得する回答がない限り」の意。そして何を言っても増田が納得することはない。こういう無敵論法無視するしかない。増田正気に戻る日が来ますように

〜〜引用ここまで〜〜

「俺に対立はしてるけど納得できるブコメはあった」と書いた後にすらこういうブコメが付いて、それにスターまで付いてしまうというね。

全部読めとは言わないけど、それならせめて決め付けるのはやめられないの?

やめられないんだろうなぁ。知能が低いのかな?

 

〜〜引用開始〜〜

ちゃん説明できない人間社会でどれだけ不利益を被るか、増田マスクおじさんが証明している。

〜〜引用ここまで〜〜

 

ちゃん説明しても理解できない人の方が多い、というのが俺の印象だけどね。

違うと言うなら参考までに君のいう「ちゃんとした説明」っての教えてくれない?

これだけ大量のブコメに丁寧に返信してても、誰も聞いてないって事を踏まえた上で答えてね。

 

さすがに文字数限界が来たみたい。

って事で2階もあるみたいだし、まだ続けるわ。

 

ttps://anond.hatelabo.jp/20200919051832

(そのままリンクするとトラバのツリーも引き継がれて、めちゃ見辛いので、リンクさせないようにした)

2020-09-15

anond:20200915095101

まあおちつけよ、別にお前をレスバでぶん殴ってる訳じゃない。

権力者批判であることは正しい」という命題についてディスカッションしているだけだ。

 

お前自身はじゃあマスコミ批判しているとして、でも世間の連中はそうじゃないだろう。

波法のせいで大手マスコミ政府批判的になれないか政府の仲間だとお前が判断するなら、他のやつでもいいや。じゃあ政府批判系の有名youtuberでいい。彼は自力で支持者を得てある種の影響力を得た。経過はともかく今は権力を持っている。

そいつ政府批判をしている。

そいつにも政府にも批判であることが「正しい」ことなのか?

では完全に正しい人間がいたとして、そいつは何を信じていて、何に基づいて行動するんだ?

2020-09-13

「お願いなら承ります」とはどういう意味

タイムリーに似たようなキチガイとやり合ったので書く。

そいつも「俺は診断済みのアスペだ」「俺は理性的人間だ」「合理的文章なら分かる」「平易に説明しろ」と主張していた。

実際はちょっと煽られるとすぐキレてスレ荒らし始め、落ち度を指摘されると「その指摘はいくらなんでも無理筋だ」「お前ら(※個と集団区別できていない)の指示を俺が聞けばお前らの独裁制だ。俺には自由がある」「理解ができないことを言うな。説明しろ」「書き込みに中身が無い。意味のあることを書け」とか逆ギレしていた。

指摘側は無理筋でも支離滅裂でも無かった。ただそいつにとって都合が悪いことを言っただけだった(連投すんなとか、ちゃんと読めとか、お前の言ってることはおかしいとか、阿呆は帰れとか、寝言は寝て言えとか)。

そして論理代数における「逆・裏・対偶」が理解できず、「逆は真」「真でないものは全て偽」という仮定を使って頭の中でどんどん命題を短縮し、何でもかんでも都合が悪ければ「嘘」と呼んで否定していた。ミミックの鳴き声としか思えなかった。理性的でも何でもない、魂が欠落した何かだった。

例の旅レポ記事を見て「お願いなら承ります」という表現に強烈な既視感を覚えた。同じだ。こいつは「他人が発する声は、全て俺への『参考情報』であり、命令としての意味は無い」と思っているのだ。

こいつの「承る」というのは「俺の気に触らない限り、戯れにやってみるのも一興だとは思うぞ」という意味だ。「お茶を一杯飲んでくれませんか」と言われて、その時に喉が乾いていれば「そんなことをしてほしいんですかあ? 飲んでやりましょう」と「承る」程度の意味だ。「お互いの健康のためにマスクの着用を」と言われて「仕方ねえなあ」と着けるという意味では決してない。

結局のところ、あれは自閉症の症状なんだろう。ある種の高度な論理を扱う機能や、世界を多数の主体存在する空間として捉える機能の発達が遅れて/止まって/失われていて、日本語は解するものの、言語コミュニケーションコミュニティでの共同作業が行える状態にないのだ。

そういう奴はどう扱えば良いんだろうな。規則強制力をセットで与えれば、それが「環境」だと認識して従おうとするが、常に機会を伺っていて、ひね曲がった自分理屈曲解した規則が噛み合う所を探してゴネたり他人に牙を剥いたり、強制力が緩んだ時に規則を破ったりするんだよなぁ。

フランス革命の頃なら焼き殺せば済んだんだろうが…

2020-09-08

「失礼な子だと感じたならジェンダーバイアス漫画を見て

https://togetter.com/li/1587929

これは対立煽り全振りのクソ漫画

 

なぜなら、「失礼(というか尊大?)な態度の人間に対しての無礼もまた失礼か?」

という命題に対する考え方によって、答えが180度変わるからだ。

 

A: 相手が失礼なんだから礼節を持つ必要はない。

B: 失礼なものは失礼。相手と同じレベルまで落ちるべきではない。

 

どちらも一理あるが、これは倫理観に関する問いであって、本質的にはジェンダー関係しない。

この漫画卑怯なのは、Bの考えから「失礼」と答えても

男女差別者の烙印を押すことができる仕組みになっており、

おそらくそ自体目的にした巧妙な分断・対立煽り工作になっている。

 

漫画表現から現実とは違う」というコメントも見かけたが、そうだとすれば

「失礼な子だと感じたら」と現実世界倫理観を引き合いに出すのは不誠実だ。

せめて女の子脳内暴言吐くだけなら受け取られ方は変わっただろう。

例えるなら、「街で見かけるムカつく人間をぶん殴る」Twitter漫画あると思うんだけど

その漫画に添えて「これが犯罪だと感じたならばそれが老害です」と書いてあれば

「いや犯罪やろ」とならん?そういうことよ。

 

以上から俺は元ツイを「対立煽り全振りのクソ漫画」と評した。

分断を煽る行為男女平等とは程遠い愚行であり、今回の件を見る限りでは

「ツイフェミは燃やしたいだけ」と言われても仕方ないと思う。

あと後半の「ジェンダーギャップ指数」も思考誘導っぽくて嫌い。

最後に「これが、ジェンダーバイアスです」ってつけるとメンタリズム感出る。

 

ついでに、俺(男)が一人で鉄道博物館に行って黙々と展示の説明文を読んでいたとき

おそらく鉄道マニアの知らないおっさんが近寄って来てすげぇ語られたことがある。

正直迷惑だったけど良心からやってるっぽくて「ア、スゴイッスネ」しか言えなかったの思い出した。

からといってマンスプレイニング存在しないとは言わんけど。

2020-09-02

anond:20200827182934

ユークリッド幾何学学校で教える必要がある

公理から初めて論述によって命題を示すという手法現代数学の基本

代数微分積分などは計算だけできれば解けてしまうが

ユークリッド幾何学では厳密な論証を学ぶことができる

公理から論述命題を示す手法現代数学の基本であって

もしユークリッド幾何学を学ばなければ抽象代数学などが理解できなくなることは明らか

現代数学である群論ガロア理論公理から初めて命題を導く

微分積分などだけを教えていると群論ガロア理論などが理解できなくなってしま

ガロア理論では作図が主に扱われるからユークリッド幾何学応用になっている

から元増田の役に立たない論は明らかに間違い

ユークリッド幾何学はまず中初等教育において論述を教える題材として適している

代数などはただの計算であって厳密ではないがユークリッド幾何学公理から始めて曖昧さな命題を示す

これは現代数学の基本であって群論ガロア理論を学ぶ際に必要能力

代数では多項式とは?集合とは?などが厳密に説明されていないがユークリッド幾何学には曖昧さは無い

ユークリッド幾何学が扱う題材は図形であって初等教育にも馴染みやす

現代数学を厳密に展開するには公理集合論まで遡らねばならないが

ユークリッド幾何学公理中学生でも理解できて完全

このような条件を満たす単元は他には無い

群論ガロア理論などの抽象代数学はユークリッド幾何学の考えを継承している

これらが確立されたのは18世紀であり微分積分などはそれよりも大分昔の理論から厳密性がない

ユークリッド幾何学現代数学モデルであるから論述を教えることができる

群論ガロア理論対称性を扱う数学対称性とは回転や相似変換などの一般化だから

やはりユークリッド幾何学を学ぶことは群論ガロア理論を学ぶことに役立つ

特に群論では、群の正規群(特異点を持たない群)による商で対称性を分類する

この割り算にはユークリッドの互除法アルゴリズムを用いることができるからユークリッド幾何学の応用になっている

群論の一部であるリー群ではユークリッド空間の回転である直交群を扱うからこれもユークリッド幾何学が直接役に立つ

ユークリッド幾何学では公理から始めて命題証明するがこれは現代数学の基本

群論ガロア理論もこのスタイル継承していてユークリッド幾何学を学ばないと抽象代数学が理解できない

ガロア理論ユークリッド幾何学と同様に、対称性公理から作図可能性を論ずる

これはいくつかの公理から始めて可能な手順の組み合わせを厳密に論述することで様々な図形を作図していく

ヒルベルト提唱した円積問題などもこの応用であって、現代数学において極めて重要

ユークリッド幾何学公理から始めて論述のみによって命題証明する

これは現代数学の基本であってガロア理論ヒルベルト理論などがその手法を受け継いでいる

これは現代数学において極めて重要

代数微分積分はただの計算であって論述を教えていないか

ユークリッド幾何学をやらないと抽象代数学などを理解できなくなってしま

ガロア理論は作図を扱うからユークリッド幾何学知識必須

代数などでは計算しかやらず概念定義曖昧だがユークリッド幾何学論述には曖昧さが一切無く

ユークリッド幾何学は図形を扱うから中高生にも理解やす

初等教育論述を教える題材として適しており他にこのような条件を満たす題材は無い

2020-09-01

anond:20200901115556

頭悪いな。だからそういう話じゃないんだって

それは「セクハラするおじさんは女性が大好き」という前提自体が孕んでる属性だろうが。

「でもこういうパターンもありますよね?」って言い始めたら最初命題からずれる。

2020-08-30

anond:20200827182934

ユークリッド距離」という理論上も実用上も重要概念が、

教科としての数学の一単元(「図形」に関する半ば物理学の単元)

として、人類理解し納得するために、

 「ユークリッド幾何学なしには、どうしようもない」

というのが現状か?

という問に対し、

肯定的結論が出ているとのことで、よろしいかと。

従ってユークリッド幾何学を、まったく外すことはかなわぬ、

という結論かと。

一次元の数直線上の距離(長さ)という概念拡張するように

二次元の平面や三次元空間上に座標を入れて定義される、

ユークリッド距離が、実用上の観点から重要なことはいうまで

もない。

一方でユークリッド距離内包する幾何学的図形に関する科学

的「法則集」が、定規や分度器で測るという行為を通して万人

が確かめられる経験実験・観察な事実の「寄せ集め」でなく、

それら「法則集」の集大成として論理体系にまとめた公理系と、

そこからの論証で導かれる命題体系が存在し、

それがユークリッド距離内包する幾何学的図形に関する科学

的「法則集」の《論理合理性根拠》を与えている。

その公理系と命題体系の総称名が「ユークリッド幾何学」。

少なくとも義務教育レベルで、ここまで学ぶべきであろうかと。

(∵天下り教義とする「ユークリッド教(仮)」は論外)

2020-08-29

anond:20200829091224

原始的なあるいは野蛮な世界である場合、その世界事故責任性が強いので、バカは死んで淘汰されていくわけだけど、現代社会バカ保護するので、間違ってても死なないのだ。

バカってのも弱者の一形態なわけで、つまりこの問題も、現代社会の中心命題弱者保護コスト社会はどこまで負担するか?」の変奏曲だといえる。

左の人は気楽に「無限負担しろ人権だぞ」っていうわけだけど、無限能力リソースもない以上、無限負担はできないのが当たり前なので、どっかでバカを見殺しにせざるを得ない。

津波警報が街中のサイレンでうーうーなってるのに河口でバーベキュー始める子とかね。

anond:20200828150611

隕石の衝突の有無を知る知らないに関わらずピザを届けない人はいから全く別の命題

2020-08-27

箸の持ち方に正しいも間違いもない←これ論破できるやついる?

よくある論とその反論をまとめた。全部読んだ上で反論あるんならどうぞw

1. 正しい持ち方は最も効率がよい

それは人間工学かなんかで実証されてんの?野球選手ですらオーバースローサイドスローなど様々なフォームがある(=それで飯食ってるアスリートですら最良効率フォームと違っていても問題なくプレーできる)のに、最良効率で飯を食う必要はあるの?

仮に今の「正しい持ち方」と違う持ち方が最良効率証明されたらお前は乗り換えるんだよな?

2. 伝統から文化から正しいetc.

「昔から続く方法」かどうかと、「正しい」かどうかは別の命題であり、論点ずらしである

歯黒など1000年以上も続いたとされるが、今やっている人はいない。「伝統から正しい」と言うなら、歯を染めてから言えw

3. きれいから正しい

れいかどうかは主観。また、幼少期から「この持ち方がきれいだ」と刷り込まれればそれがバイアスになり、正常に判断できない可能性がある。

4. 箸の持ち方が悪い人は頭が悪い、家庭環境が悪い、しつけがなってない(または周りにそう思われる)etc.

それと「正しい」かどうかは別問題。例えば金髪高校生は頭が悪そうだが、金髪にすることが誤りなわけではない。

5. お前は箸がちゃんと持てないか言い訳してるんだろ!

もはや説明不要のクソバカ。ちなみに、俺はちゃんと箸を持てる。

中学高校数学にいわゆるユークリッド幾何学不要

ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間ベクトル三角関数微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在高校数学カリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。

ユークリッド幾何学不要だと思う理由単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズル適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間ベクトル三角関数微分積分などの手法一般的現象記述する上で必ず必要になります

もちろん、たとえば三角比定義するには、「三角形内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学性質必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:

OABに対して、|AB|^2 = |OA|^2 + |OB|^2 - 2|OA||OB|cos∠AOB

証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。

現状、少なくない時間ユークリッド幾何学に費やされています数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています

高校数学では以下のような事項が重要だと思いますユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。

これらの分野は数学手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的問題数学物理問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベル重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?

ユークリッド幾何学初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います

  1. ユークリッド幾何学では証明の考え方を学ぶことができる
  2. 図形問題代数や解析の問題よりも直感的で親しみやす
  3. ユークリッド幾何学問題を解くことで「地頭」「数学直観」などが鍛えられる
  4. ユークリッド幾何学歴史的重要である

しかし、これらはいずれも正鵠を射ていません。

まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題証明されるべきものからです。高校教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離公式三角関数加法定理微分ライプニッツ則や部分積分公式など、どれも証明されていますそもそも数学問題はすべて証明問題です。たとえば、関数極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないか定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学けが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。

②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトル微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理メネラウス定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学手法問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法一般方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学手法にこだわる理由はありません。

③は単なる個人思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要数学素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学特別視する理由になっていません。

④もおかしいです。そもそも歴史的重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的重要ならば教えるというなら、古代バビロニアインド中国などの数学特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わず数学記述するべき理由があるでしょうか。

数学重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います

大昔は代数計算方程式の解法(に対応するもの)は作図問題帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法重要な結果を導きやす方法を用いればよいに決まっています数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。

たとえば、放物線は直線と点から距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育重要なのは明らかに2次関数グラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから最初から2次関数グラフとして導入するのは理にかなっています数学教育の題材は「計算問題証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。

三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学連立方程式を学ぶのに小学生鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います

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(*1)

現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに

(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーデルタ)

内積定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間ベクトル微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています

(*2)

数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題ガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識必要」というわけではありません。

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