「命題」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 命題とは

2020-08-10

anond:20200809135924

より厳密には「フェミニズム論理的な誤りを認めない事が可能である」の方が正しい。

もし、そこから元増田論理を導けるなら、「フェミニズム論理的な誤りを認める事が可能ならば、必然的に誤りを認める」ことになってしまう。詳しく説明しよう。

以下、「フェミニズム論理的な誤りを認めない事が可能である」ならば「フェミニズム論理的な誤りを認める事が可能でない」が成立すると仮定する。

可能性を取り扱うので、様相論理記述するのが適切である

命題 p を「フェミニズム論理的な誤りを認める」とすると、

◇¬p → ¬◇p

が成立する。対偶もまた真なので

◇p → ¬◇¬p

公理 ¬◇¬p = ◽︎p より

◇p → ◽︎p

したがって、「フェミニズム論理的な誤りを認める事が可能ならば、フェミニズム論理的な誤りを必然的に認める」が成立する。

さて、元増田で省略されている主語は、"フェミニストは" だと思う。そうすると、

フェミニストは誤りを認められるなら必ず認めるとなってしまうのだが、フェミニストはそれほど誠実な集団という事でよろしいか。さもなくば背理法により元増田の主張「フェミニズム論理的な誤りを認める事が可能でない」は成立しない。論理的な誤りである

2020-08-09

フェミニズム絶対論理的に誤ることは無い

背理法で考えてみよう

尚、フェミニズム批判への反論は↓のブコメの人気コメントより抽出する(従ってこれらの反論は全て実在するものであり、多くの場合支持されるものである

https://anond.hatelabo.jp/20200808160355

https://anond.hatelabo.jp/20200722170240

 

仮にフェミニズム論理的な誤りがたった1つでもあったとする

①その誤りを指摘する人が居た場合

 ①ー1:その指摘はランサーズにより委託された文章である反論する

    →指摘の論理的な正誤に関係無く、ランサーズによる委託であれば誤りである、従ってフェミニズム無謬である

 ①ー2:指摘者は反フェミである認定する

    →根拠は無くともフェミニズム論理的疑義提示するものは反フェミである

    →指摘の論理的な正誤に関係無く、反フェミの主張は誤りである、従ってフェミニズム無謬である

 ①ー3:反フェミも誤っており、またフェミニスト達より暴力的だと主張する

    →反フェミが誤っているならば、フェミニズムは誤っていないという事である、従ってフェミニズム無謬である

 ①ー4:論理的に誤っているのはフェミニストの一部であると主張する

    →あくまで誤っているのは一部のフェミニストだけであり、また研究者活動家はそうした誤りを指摘する責任は無い、従ってフェミニズム無謬である

 ①ー5:指摘者はフェミニストの代表者ではないと指摘する

    →代表者でなければフェミニズム論理的な誤りを指摘する事は出来ない、従ってフェミニズム無謬である

②その誤りを指摘する人が居ない場合

 →誤りを指摘するものが居ないという事は誤りは存在しない、従ってフェミニズム無謬である

 

⇒すべての可能性について、「フェミニズム無謬である」を導く事が出来た。これは前提(フェミニズム論理的な誤りがたった1つでもあったとする)と矛盾する

 従って前提は誤りであるフェミニズム無謬である

 

さて、この様にしてフェミニズム論理的な誤りが無い事を証明できた

もっとも、論理的思考能力がある人なら分かると思うが、上記は正確には「フェミニズム論理的な誤りを認める事は不可能である」の方が正しい

そしてこうした論理的に無敵である論理的な誤りを指摘する事が出来ない命題身分は、論理的に考えられる人であれば当然理解出来るだろう

IT分野に詳しい人が多いはてなであればこう表現した方が分かり易いかも知れない

 

フェミニズムバグを見つけるテスト存在しない

 

仮にフェミニズム論理的な誤りがあったとして、それを見付ける事は出来ない

何故ならフェミニズムには①ー1~5の様な、バグ発見を妨げるコードが内蔵されているかである

これらのコードバグ発見するテストを実行した際、「指摘はランサーズによる委託です」「指摘者は反フェミです」「反フェミも誤っています」といったダミーエラーを出力し、バグ隠蔽する

当然ながら、こうしたバグ隠蔽コードは①ー1~5の他にも大量にある

例えば先日のananSEX特集の件で、それらが環境セクハラではないのか(同じ条件を満たす2つの事象の片方は環境セクハラ認定し、片方は認定しないフェミニズムには論理的な誤りが有るのではないか)という疑義に対し

フェミニストの一部は「不快だと思う男性ananに対して声を挙げればいい」と応答した

これもまた、フェミニズム内部のバグ発見するテストを「ananへの抗議」へとすり替えバグ発見回避するコードである

「指摘者は自分不快だと思っていないがフェミニズムを叩きたいが為にこうした疑義を出す」等のエラーを出し、フェミニズム論理的な正誤は問題から外される

フェミニストによる他の応答も多くは、フェミニズム論理的な誤りの検討に踏み込まない(あるいは、踏み込むのを防ぐ)ものだった

 

フェミニズム内部にはこうしたコードが大量に存在し、フェミニスト達はこうしたテクニックに非常に長けている

従って、フェミニズム論理的な誤りが仮にあったとしても、それを見つける事は出来ないし、認められる事は更に無い

フェミニズムテストされていないプログラムである

2020-08-02

anond:20200802230819

もはやモテって先天性の性質だよねってのは感じてた。つまりは生まれ持った気質なんだよね。オタクとか凝り性みたいなのも「気質」「生き様」、何もしなくても勝手にニジミ出て来てしまもの、みたいなのがあるけどそれと似てる。方向は真逆だけど。

から先天性モテ気質人間アドバイスって全く無意味なんですよね。かみ合わない。モテ指南が「まず女の子食事に行くとするじゃん?」から始まる人間は何の参考にもならないんだ。ただ、後天的努力によってモテを獲得したタイプ人間もいて、そういった人間モテ指南けが非モテにとって価値のあるものだと思うんだよな。

先天的モテはそれを自覚して、指南するという過ちを侵さないでほしいんだけど、まあ難しいだろうね、自身が先天性のモテ気質という自覚を得るのは。だから無自覚マリアントワネットムーブをし、社会が先天性モテ・先天性非モテで断絶する。無自覚な前提に気づいていないから、そもそも分かり合えない。

「先天性非モテ努力によって後天的モテになるにはどうしたらいいか?」が命題なんだよな。

先天性モテ勝手モテから何の施しも不要だし。

2020-07-29

anond:20200729020519

もう完全に政府がどう動くかによって変わるね。政府が何もしなければそれこそ世界恐慌みたいな状態になって、これを打破するためにクーデターだ!と叫ばれる。どこかの警察自衛隊分隊が暴れだして。国民は暴れだした分隊呼応して内乱になる。

ただしその先が正しいとは限らない。

一番ベストなのは医療容量と検査容量に金を打ち込んで過剰と言えるほど準備して、コロナによる医療崩壊が起きないようにしつつ経済を動かす。金を医療容量、検査容量に使うのは経済対策という側面もある。

そして、大規模経済危機を迎えての企業が保身化して、金を溜め込み、設備研究投資をしなくなるのに対応するために、税制を使ったら減税、溜め込んだら増税シフトしていって経済を回す。コロナが去った後ならGoToみたいなのもよかろう。

もう完全にいま政府がどう動くかによって5年後の姿は全く違うだろう。そして政府がどう動くかというのはもっとベース政府財政均衡主義新自由主義)か、非常時は財政出動か(ケインズ社会主義)という経済学上の命題に関わる問題とも言える。

間違いなく後者だろうね。そのうえでケインズ社会主義欠点政府肥大化イノベーションの衰退。最もイノベーション新自由主義より遥かに良かったが)にどう立ち向かうかだと思う。

2020-07-21

宇宙宇宙をつなぐ数学 - IUT理論の衝撃」の感想

Amazonレビューなどに書くと過去レビューから身バレする可能性があるのと、わざわざ別アカウントを作ってまで批評するほどのものではないと思ったので、こちらに書きます

初めに断っておきますが、本稿は別に加藤文元先生人格や業績などを否定しているわけではありません。また、IUT理論やその研究者に対する批判でもありません。「IUT理論が間違っている」とか「望月論文査読体制問題がある」などと言う話と本稿は全く無関係です。単純にこの本に対する感想しかありません。

----

加藤文元先生の「宇宙宇宙をつなぐ数学 - IUT理論の衝撃」を読みました。結論から言って、読む価値の無い本でした。その理由は、

ほとんど内容がない」

この一言に尽きます数学書としても、一般書としてもです。

本書の内容と構成

本書は、RIMS(京都大学数理解析研究所)の望月新一教授が発表した数学理論である、IUT理論宇宙タイミューラー理論)の一般向けの解説書です。

1~3章では、数学研究活動一般説明や、著者と望月教授交流の話をし、それを踏まえて、IUT理論画期的であること、またそれ故に多くの数学者には容易には受け入れられないことなどを説明しています

4~7章では、IUT理論の基本理念(だと著者が考えているアイデア)を説明しています技術的な詳細には立ち入らず、アイデア象徴する用語フレーズを多用し、それに対する概念的な説明や喩えを与えています

8章がIUT理論解説です。

まず、数学科の学部3年生以上の予備知識がある人は、8章だけ読めばいいです。1~7章を読んで得られるものはありません。これはつまり「本書の大部分は、IUT理論本質的関係ない」ということです。これについては後述します。

各章の内容

1~3章は、論文受理されるまでの流れなどの一般向けに興味深そうな内容もありましたが、本質的には「言い訳」をしているだけです。

IUT理論が多くの数学者に受け入れられないのは、従来の数学常識を覆す理論から

望月教授が公開された研究集会などを開かないのは、多数の人に概要だけを話しても理解できないから。

などの言い訳が繰り返し述べられているだけであり、前述の論文発表の流れなどもその補足のために書かれているに過ぎません。こういうことは、数学コミュニティの中でIUT理論懐疑的人達説明すればいい話であって、一般人に長々と説明するような内容ではないと思いますもっとも、著者が一般大衆も含めほとんどの人がIUT理論懐疑的である認識して本書を書いたのなら話は別ですが。

4~7章は、「足し算と掛け算の『正則構造』を分離する」とか「複数の『舞台』の間で対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズが繰り返し出てくるだけで、それ自体の内容は実質的説明されていません。

正則構造とは、正方形の2辺のように独立に変形できないもの

対称性とは群のことで、回転や鏡映などの操作抽象化したもの

のように、そこに出てくる「用語」にごく初等的な喩えを与えているだけであり、それが理論の中で具体的にどう用いられるのかは全く分かりません(これに関して何が問題なのかは後述します)。そもそも、本書を手に取るような人、特に1~3章の背景に共感できるような人は、ここに書いてあるようなことは既に理解しているのではないでしょうか。特に6~7章などは、多くのページを費やしているわりに、数学書に換算して1~2ページ程度の内容しか無く(誇張ではなく)、極めて退屈でした。

8章はIUT理論解説ですが、前章までに述べたことを形式的につなぎ合わせただけで、実質的な内容はありません。つまり、既に述べたことを並べて再掲して「こういう順番で議論が進みます」と言っているだけであり、ほとんど新しい情報は出て来ません。この章で新しく出てくる、あるいはより詳しく解説される部分にしても、

複数数学舞台対称性通信をすることで、「N logΘ ≦ log(q) + c」という不等式が示されます。Θやqの意味は分からなくてもいいです。

今まで述べたことは局所的な話です。局所的な結果を束ねて大域的な結果にする必要がありますしかし、これ以上は技術的になるので説明できません。

のような調子で話が進みますいくら専門書ではないとはいえ、これが許されるなら何書いてもいいってことにならないでしょうか。力学解説書で「F = maという式が成り立ちます。Fやmなどの意味は分からなくていいです」と言っているようなものだと思います

本書の問題

本書の最大の問題点は、「本書の大部分がIUT理論本質的関係ない」ということです(少なくとも、私にはそうとしか思えません)。もちろん、どちらも「数学である」という程度の意味では関係がありますが、それだけなのです。これがどういうことか、少し説明します。

たとえば、日本には「類体論」の一般向けの解説書がたくさんあります。そして、そのほとんどの本には、たとえば

素数pに対して、√pは三角関数特殊値の和で表される。(たとえば、√5 = cos(2π/5) - cos(4π/5) - cos(6π/5) + cos(8π/5)、√7 = sin(2π/7) + sin(4π/7) - sin(6π/7) + sin(8π/7) - sin(10π/7) - sin(12π/7))

4で割って1あまる素数pは、p = x^2 + y^2の形に表される。(たとえば、5 = 1^2 + 2^2、13 = 2^2 + 3^2)

のような例が載っていると思います。なぜこういう例を載せるかと言えば、それが類体論典型的重要な例だからです。もちろん、これらはごく特殊な例に過ぎず、類体論一般論を説明し尽くしているわけではありません。また、類体論一般的な定理証明に伴う困難は、これらの例とはほとんど関係ありません。そういう意味では、これらの例は類体論理論的な本質を示しているわけではありません。しかし、これらの例を通じて「類体論が論ずる典型的現象」は説明できるわけです。

もう一つ、より初等的な例を出しましょう。理系なら誰でも知っている微分積分です。何回でも微分可能実関数fをとります。そして、fが仮に以下のような無限級数に展開できたとします。

f(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ... (a_n ∈ ℝ)

このとき、両辺を微分して比較すれば、各係数a_nは決まります。「a_n = (d^n f/dx^n (0))/n!」です。右辺の級数を項別に微分したり積分したりしていい場合、これはかなり豊かな理論を生みます。たとえば、等比級数の和の公式から

1/(1 + x^2) = 1 - x^2 + x^4 - x^6 + ... (|x| < 1)

両辺を積分し、形式的にx = 1を代入すると

arctan(x) = x - x^3/3 + x^5/5 - x^7/7 + ...

π/4 = 1 -1/3 + 1/5 - 1/7 + ...

のような非自明な等式を得ることができます。これは実際に正しい式です。また、たとえば

dy/dx - Ay = B (A, B ∈ ℝ、A≠0)

のような微分方程式も「y(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ...」のように展開できて項別に微分していいとすれば、

Σ((n+1)a_{n+1} - Aa_n) = B

  • a_1 - Aa_0 = B
  • (n+1)a_{n+1} - Aa_n = 0 (n ≧ 1)

よって、

  • a_{n+1} = Aa_n/(n+1) = A^n (B + A a_0)/(n+1)! (n ≧ 0)

a_0 = -B/A + C (Cは任意の定数)とおけば、

  • a_n = C A^n/n! (n ≧ 1)

「e^x = Σx^n/n!」なので、これを満たすのは「y = -B/A + Ce^(Ax)」と分かります

上の計算正当化する過程で最も困難な箇所は、このような級数収束するかどうか、または項別に微分積分ができるかどうかを論ずるところです。当然、これを数学科向けに説明するならば、そこが最も本質的な箇所になりますしかし、そのような厳密な議論とは独立に「微分積分が論ずる典型的現象」を説明することはできるわけです。

一般向けの数学の本に期待されることは、この「典型的現象」を示すことだと思います。ところが、本書では「IUT理論が論ずる典型的現象」が数学的に意味のある形では全く示されていません。その代わり、「足し算と掛け算を分離する」とか「宇宙間の対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズと、それに対するたとえ話が羅列されているだけです。本書にも群論などの解説は出て来ますが、これは単に上のフレーズに出てくる単語注釈しかなく、「実際にIUT理論の中でこういう例を考える」という解説ではありません。これは、上の類体論の例で言えば、二次体も円分体も登場せず、「剰余とは、たとえば13 = 4 * 3 + 1の1のことです」とか「素因数分解ができるとは、たとえば60 = 2^2 * 3 * 5のように書けるということです」のような本質的関係のない解説しかないようなものです。

もちろん、「本書はそういう方針で書く」ということは本文中で繰り返し述べられていますから、そこを批判するのはお門違いなのかも知れません。しかし、それを考慮しても本書はあまりにも内容が薄いです。上に述べたように、誇張でも何でもなく、数学的に意味のある内容は数学書に換算して数ページ程度しか書かれていません。一般向けの数学の本でも、たとえば高木貞治の「近世数学史談」などは平易な言葉で書かれつつも非常に内容が豊富です。そういう内容を期待しているなら、本書を読む意味はありません。

繰り返し述べるように本書には数学的に意味のある内容はほとんどありません。だから、極端なことを言えば「1 + 1 = 2」や「1 + 2 = 3」のような自明な式を「宇宙宇宙をつなぐ」「正則構造を変形する」みたいに言い換えたとしても、本書と形式的に同じものが書けてしまうでしょう。いやもっと言えば、そのような言い換えの裏にあるもの数学的に正しい命題意味のある命題である必要すらありません。本書は少なくとも著者以外にはそういうもの区別が付きません。

本書の続編があるなら望むこと

ここまでネガティブなことを書いておいて、何食わぬ顔でTwitter加藤先生ツイートを拝見したり、東工大京大に出向いたりするのは、人としての信義に反する気がするので、前向きなことも書いておきます

まず、私は加藤先生ファンなので、本書の続編が出たら買って読むと思います。まあ、ご本人はこんな記事は読んでいないでしょうが、私の考えが人づてに伝わることはあるかも知れませんから、「続編が出るならこんなことを書いてほしい」ということを書きます

まず、上にも書いたような「IUT理論が論ずる典型的現象」を数学的に意味のある形で書いていただきたいです。類体論で言う、二次体や円分体における素イデアル分解などに相当するものです。

そして、IUT理論既存数学との繋がりを明確にしていただきたいです。これは論理的な側面と直感的な側面の両方を意味します。

論理的な側面は単純です。つまり、IUT理論に用いられる既存重要定理、およびIUT理論から導かれる重要定理を、正式ステートメント証明抜きで紹介していただきたいです。これはたとえば、Weil予想からRamanujan予想が従うとか、谷山-志村予想からFermatの最終定理が従うとか、そういう類のものです。

直感的な側面は、既存数学からアナロジーの部分をより専門的に解説していただきたいです。たとえば、楕円曲線のTate加群が1次のホモロジー群のl進類似であるとか、Galois理論位相空間における被覆空間理論類似になっているとか、そういう類のものです。

以上です。

加藤文元先生望月新一先生、およびIUT理論研究・普及に努めていらっしゃるすべての方々の益々のご健勝とご活躍を心から祈り申し上げます

2020-07-08

コロナ失業保険認定してもらったときに国に対して感じたこ

「下級国民なんぞ1匹死のうが100兆匹死のうが知ったことか、負け組なんぞ血税で助けてやらずに放置して餓死させとけ、その代わり神に選ばれし我々勝ち組上級国民である我々高級官僚政治家は、国の舵取りをするんだから税金を好きに収奪して使っていい」みたいな旧日本軍大本営とかナチス党の幹部から飛び出てきたような、頭のおかし攻撃的なエリート狂人みたいな人たちなんてものは、全然いなくて

ただ単に、行政業務の処理能力パンクしていて、助けられる人たちに限りがあったり、縦割り行政による弊害で、情報共有がなされないままに各々が最善と思ってやったことが、市井の人間や個人には国による白色テロしかいいようがないような仕打ち結果的になってしまうってだけなんだろうなと思う

そういう意味ではユリウス・カエサルが 「All bad precedents begin as justifiable measures.(どれほど悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそも動機善意であった)」っていうのは、いつまでもなくならない難しい命題なんだろうな

まぁ、貰えるもん貰って仕事も決まったからこそ落ち着いてこう考えられるんだけど、ほんとに俺が一番最初に書いたような、絵にかいたような選民思想エリートなんてホント日本にいるんだろうかね?と不思議に思う

2020-07-07

anond:20200707203429

その命題が間違ってるよ

はてブIDを細かく追ってようやく分かるけれど、

アンチフェミ男尊女卑民族主義ウヨサヨとはまた別の組分けで争っている。昨日の敵は今日の友みたいな感じで。

表現の自由戦士ウヨサヨとは若干異なる組分け。

2020-07-04

都知事選山本太郎とごとうてるき

結論から言うと、小池百合子氏と、山本太郎氏と、ごとうてるき氏の3人って、政策は違うけどただパフォーマーという点でニアイコールじゃないのか。

俺と大学の後輩Aと、働き出してからの知人Bの3人で都知事選政見放送を見た。

Bがごとうてるき氏の動画を見て極めて辛辣コメントをして、Aは「何か懐かしい感じがした。ああいう奴、沢山いた」と言って、俺もAに同意した。

Bに散々「そりゃ、あんたらの大学からだよ!」と言われて、確かに俺たちが卒業した大学パフォーマー志望の多い学校だったのでその通りなのかもしれないんだけど、逆に言うと経験知識スタッフも欠けた人間が、とにかく人前に立って目立つという命題に向かうと、時にごとうてるき氏的なパフォーマンスに行き着くのも珍しくないのかもしれない。

だって山本太郎だって30年前メロリンQだったじゃん。あれと何か違うか? となると、俺にはその差はわからない。

目的が【芸能界で身を立てる】か【選挙当選する】かの違うから、やる場所バラエティー番組政見放送で違うだけで、双方手段が【インパクトで目立つ】という戦略を取っただけなんじゃないだろうかと思う。

かに当時高校生だった山本氏と、既に30過ぎのごとう氏が同じ状態ヤバいでしょ。っていうのはわかるんだけど、でもそれ大きなお世話しかない。

実際若手を中心に、芸人さんとかアイドルとかで、ごとう氏のこと全然笑えない人が相当数いると推測してる。

メロリンQに30年のパフォーマー経験と、スタッフを与えたら山本太郎氏になるんだから、ごとうてるき氏がどんくらいか経ったら山本太郎氏や小池百合子氏に到達してないと誰が言えるのか。

ほんでたまたま山本太郎氏の選挙演説をやってる所に出くわしたんだけど、動員がどうのこうのは知らないんだけど、さすがに人前で話すのが上手だなと感じたし、まあ芸だと思えば只で見られるなら人も集まるかなと思った。

鳥肌実演説芸が只なら俺も見に行くし。

あと、全然最近そういう動向気にしてなかったんだけど、山本太郎氏が演説してる時にでっかい三色旗が2本だか立ってたんだけど、れい新撰組って公明党下部組織かなんかなの? 大作先生と大勝利って寸法なの?

2020-06-24

何で夢を描けなかったんだろうな…

もしかして自分が夢を見る機会が少なかったからこんな世界線に居るのだろうか。

もし子供のころから色々な場所に行けて、自分コンプレックスが無くて、もっと南に生まれていたら別の人生を描けたのか…

仕事をしてかれこれ十数年になるが、何一つ良い思い出が無い。

辛かった。しか思いつかない。

生きる意味が分からない。

自分が今頂いている仕事を頑張っているけど、

もし自分お金に困っていなかったらやらない仕事

やりたくない事なんて今に始まった事じゃないし、

頂いた仕事はきっちりやるのが仕事をする人間の端くれとしてもせめて達成する命題

でも、これをやって今後何の役に立つのかわからない。

こんなアマチュアみたいなコードを売れない。

一流に比べて頭も回らないかスピードも出せない。

そんな自分がこの先頑張って意味がるのか分からない。

自分が悩んで前に進まなくても、周りは自分の夢や目標のために全速力で走っていく。

早々にリタイアして転生したいよ。

2020-06-22

anond:20200622105421

もともとはフランス革命強者よりの議員が右側、弱者寄りの議員左側に座っていた時代の名残。

世界恐慌の後は、自由放任経済バブルとそのあとの崩壊による大不況を生むため、自由放任経済ではよくないといわれた。

じゃあどういう枠組みが良いのか?との命題の元政府が金の動きを調整するのが良いというケインズ社会主義と、バブルは過剰投資が原因だから計画経済が良いというマルクス社会主義が生まれた。世界は二つに分かれた。

そこにもともとの強者より弱者よりの右左があてはめられて、ケインズ社会主義=右、マルクス社会主義=左となった。自由放任経済から修正具合でケインズ社会主義保守マルクス社会主義革新ともなった。

結果的にはケインズ社会主義が勝ったのだが、オイルショックケチがついて、かつての自由放任経済を少し修正した新自由主義が再興した。これはケインズ社会主義よりさら強者よりで、右左で言えば右。

だがケインズ社会主義新自由主義がのっとったため「経済右派」が新自由主義を指すのかケインズ社会主義を指すのか、さらケインズ社会主義右派になるのか左派になるのか、もう完全に混乱している。

並べ直すとすると左から順番に

マルクス社会主義ケインズ社会主義自由放任経済新自由主義

となる。

なのでもう右派左派のくくりが全く意味をなさなくなってる。

anond:20200622011327

いやいや、財政均衡だ―政府借金だ―財政破綻だ―構造改革だーなんて言ってるのがしぶとくいるじゃろ?

そもそも右派左派というのは強者より、弱者寄りぐらいの意味しかない。

現時点では経済右派新自由主義経済左派ケインズ社会主義マルクス社会主義だろう。

1980年以前は自由主義世界中から放逐されていたため、経済右派ケインズ社会主義経済左派マルクス社会主義だったが。

mmtで「自国通貨建て国債自国破綻しない」という命題が投げ込まれ新自由主義は大混乱に陥っているが。実際通貨発行権政府にあるんだから自国通貨建て国債自身では政府破綻しないもの

ただし外貨借金では財政破綻をする。けどもそこで必要なのは経常黒字を維持するために海外に物を売れる力を作ることであり、必要なのは企業設備研究投資と、国の萌芽・基礎研究投資

新自由主義企業はとにかく自由にさせるのが良いため政策誘導はしてはならないし、政府が何もしないのが望ましいから萌芽・基礎研究無駄以外の何物でもないという前提になるがね。

2020-06-16

anond:20200616201306

これはなんだろう。

人間の脳は天然のコンピュータとでも形容できる。

TRUEでありFALSEでもある命題に直面すると、コンピュータと同じくエラーが出るのではないか

2020-06-15

フェミニズムは完成している

「宇崎ちゃん騒動から続く、巨乳バッシングについて思う事」

https://note.com/humuuuueh/n/ne9660012a363

 

↑への反応を見ていて思ったのだが(そして↑への反応に限らずフェミニズムに関するあらゆる議論でも同様だろうが)これからフェミニズムが変わることは無いだろう。

何故なら、フェミニストにとって、現在フェミニズム改善すべき点など一つも無いからだ。

改善すべき点が無い、つまりフェミニズムは既に「完成」している。

 

↑の記事へのブコメでも、それ以外でも、フェミニズムに少しでも批判的な意見へのフェミニストたちの反応は一様である

まり「その批判は不当である」「あれは当たらない」「筋悪である」「それはフェミニズムではない」「フェミニズムを誤解している」といった反応であり、フェミニズム側の瑕疵発見されることは無い。

現代においてフェミニズム批判する事は悪であり、少なくともフェミニズム側において、その批判を受け入れる理由は何処にも無いし、あるいは批判から何か改善点を見出す必要も無い。

何故なら、改善というのは誤りを認めるという事であり、現在の完全なフェミニズムには認めるべき誤りなどあり得ないかである

こうした点を不正だと考えるのは全く早計である論理的に考えて、もし仮にフェミニズム命題が全て完璧に真なら、それ以上の改善点を見出さない事はむしろ論理的真摯な態度とさえ言えるからだ。

ただ問題は、従って、これからフェミニズムを取り巻く状況は変わらない、という事だ。10年後も、20年後も。という事は、↑の記事を書いた人のような人は、これからも現れ続けるだろう。

 

現在フェミニズムの主張を真に受けるなら、まず第一フェミニズム性嫌悪ではない。現在ある性コンテンツ全面的規制を望んでいる訳でもない。

従って現在フェミニズムもっと社会に浸透したとしても、性コンテンツ絶滅することはあり得ない。

ただし女性を消費する性コンテンツ女性蔑視を含んでいるのも事実であるし、それを批判し続ける権利は当然フェミニズムに認められるべきであろう。従って、性コンテンツへの(規制ではないが)批判はこれからも残り続ける事に成る

であれば↑の記事の筆者の様に、“誤ったフェミニズム”、”フェミニストでない者”から攻撃を受ける女性も絶えることは無いだろう。

そして、その事の責任フェミニズムに求めるのは全く不当である。そのようなフェミニストでない者の行動の責任フェミニズムには無いのだからフェミニズムがそのような者を改善する事はあり得ないし、そんな筋合いは無い、反応を見ても分かる通り、フェミニスト達にもそんな気は一切無い。

あくまフェミニズム関係無い者の行動であるから、これからフェミニズムがどれだけ社会に浸透し、その正しさが認められようと、そのような者が減る効果は無い。

従って、↑の記事の筆者の様に、自らの身体的特徴によって傷付く者は出続けるし、その責任フェミニズムには無いし、つまりフェミニズムに対し記事の筆者が傷付かない様に何かをする必要があると考えるのは、全く不当な事である

 

フェミニズムは完成している。

これからアップデートすることは一切あり得ない。改善すべき点など一つも無いから。

 

フェミニズムサポート終了しました。

2020-06-11

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 どんな記憶忘却可能性を含んでいて、それがいか尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである

 とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。

 これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。

 あるいは、死んだ猫の重みを人生最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。


 人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。

 猫は突然死ぬ

 重要命題である

 だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身精神的にタフにならなければならないのである

 して、タフな人生を生き延びるために重要資質とは何だろうか?

 僕が思うに、恐らくそれは一種判断能力である。つまり重要もの重要でないもの区別する為の判断能力である

 この世界において、重要もの重要でないもの比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである重要ものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生もっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。

 そう、我々が人生を全うする為にもっと重要能力は、数少ない重要物事出会った際に、その重要出来事を迷わず掴み取る能力なのである

 タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。

 人物だけではない。記憶に関しても同様の態度を取ってきた。

 我々の心の中には無数の記憶存在している。その多くは、断言するに無意味記憶に過ぎない。病院記憶体育館記憶商店街記憶――はっきり言って、その殆ど無駄記憶だ。重要記憶というものは一握りしか存在していない。

 我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味記憶無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要ものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生無意味事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである

 書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ

 はっきり言おう。

 これから語る記憶は、決して僕の人生重要ものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。

 

 大した記憶ではない。

 道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手ゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。

 通り過ぎる。

 川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。

 階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。

 鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。

 薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンへと戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし、それはあくま一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-06

anond:20200606183234

単に「黒人である⇒その命は尊い」という命題は真ですって主張なだけなのにな

ジャンプ(的作品)の王道鬼滅の刃について

思いついたことを書くだけ。

旧来のジャンプ少年漫画王道文法と呼ばれる要素の一つに、社会性のない獣のような主人公が成長して(ある程度は)人間的になっていくというものがある。ドラゴンボールスラムダンクキングダムとかチェンソーマンとか色々。約ネバもかな?

成長前の主人公がそういう風に書かれるのは、少なくとも文法成立の初期の頃は、子ども(クソガキ)のふるまいを誇張して描いていたからだと思う。

元はそういう子ども向けのコンテンツで、読者は主人公のふるまいや考え方に感情移入していた。

具体的な対象者は、まずは小学校低学年くらいの階級構造あやふやな時期の子ども全体。彼らの世界は上も下も決まってなくて、全員がわがままで、ボスザルになれる可能性を秘めている。

次に、小学校高学年くらいの、ボスザルに憧れることができるレベルの、ガキ大将文化圏強者群。ここでナードや賢しらぶった子ども(=ガキ大将文化圏における弱者)はふるい落とされる。

中学校以降となると階層構造はどんどん細分化されていって、真の意味感情移入できる人間はごく一部である

その頃には二次性徴とか諸々により価値基準が変わってきて、ガキ大将主人公感情移入できてる奴の方がやばいわけだが、それはここでは置いとく。

中学生以降になっても(むしろなったからこそ)そういうガキ大将主人公漫画を楽しめるのは、他人事フィクションとして楽しめるようになるからである。だから女子中学生ジャンプを楽しめるわけだ。

感情移入はいかないまでも、まぁ話は面白いしいいか、ってなものである

ところで、鬼滅関連の記事Twitter投稿か何かで見たのだが、今の小学生ジャンプを読まないそうである。何を読んでいるのかというと、コロコロとかだそうだ。ジャンプ中学生のお兄さんやお姉さんが読む雑誌らしい。

個々の能力にもよるだろうが、小学生くらいだと感情移入できないと物語を楽しめない子が多いだろう。(感情移入ほとんど無くとも物語を楽しめる小学生は、漫画雑誌など読まなくても他のフィクションを楽しめるのだ)

まり、今の小学生ジャンプ主人公感情移入できないのである

ジャンプ王道(やエロ)を楽しくありがたく読んでいるのは、中学生中年のお兄さんやおっさんなのであるしかし、彼らも感情移入して読んでいるわけではない。(そういう人間いるかもしれないが・・・

ちなみに、ナードと賢しらぶったガキと女の子、お姉さん、おばさんは、名探偵コナンを読んだ。基本は頭脳であるコナンアンチガキ大将な者たち(今やそちらの方が多数派である)を取り込んで覇権を取れたのだ。

また同時に、お姉さんやおばさん、爽やかな男子諸君スポーツをやる作品を好んだ。乱暴ではないが、パワーが正義であり、勝ち負け目標がはっきりさせやすい。そういえばコナンボールを蹴ることがある。

不幸なのはスポーツものが今どきのほとんどの人間にとってファンタジーであることだ。とりあえず野球やろうぜってな時代ではないので、真っ当なターゲット食指を伸ばさず、結果としてスポーツもの非公認ソフトBLとして扱われることになった。

ここで鬼滅である

炭治郎(主人公)は作中で関わった人物のほぼ全員から愛され慕われている。

主人公普通に頑張っていたらみんなにモテモテ、などというとまるでなろう小説のようだが、炭治郎は精神性も行動も実に真っ当であり、納得感があるのだ。

炭治郎は無知田舎者だが(そこが"王道でありながら"と言われる所以かもしれない)普通社会性はあって、道徳面では模範的とすら言える。人として備えているべき慈愛に満ち、努力家で、真面目ながら寛容。

彼は人間としてシンプルに魅力的で、そばにいてほしいタイプなのである

不思議なことに、フィクション特に少年漫画)において最初から人間として魅力的な主人公というのは中々いない。なぜか。

主人公はどこかしらに問題を抱えていて(社会常識がないとか非モテであるとか)、それを解消していくことが成長であると、文法によって決められたからだ。漫画ではなくとも、物語というのはそういうものである

良い映画主題は「自分は何者なのか」という問いかけに収束すると何かで読んだ。これは人々が普遍的に感じている(感情移入できる)哲学的命題であって、映画の中では様々なドラマを経て主人公なりに「自分は何者なのか」という答えを見いだす。

それに依ると、鬼滅にこの主題はほぼ存在しない。主人公の家に伝わる教えによる未知の能力というフックは途中に入るものの、その話題は全く重視されていない。

炭治郎は、そんな大げさな悩みを持ったりしない。「俺はこんなものだ」と割り切って「自分にできることを真面目にやろう」なんて考えている。目的は常に「妹を人間に戻すこと」という、哲学的でも何でも無い現実的な物でしかない。

インターネットの影響は大きい。宣伝だとかバズだとかの話ではなく、インターネットが人々に与えた影響だ。

今やネットによって全世界基準自分順位のようなもの何となく分かってしまうようになった。自分より強い奴は山ほどいて、社会に向かって怨嗟の声を垂れ流している情けない大人もいっぱいいる。

自分は何者なのか」が主題として機能しなくなってしまった。「俺はこんなものだ」と思わざるを得ない社会なのだ

の子ども達にとって、どうあがいても未来は暗いのだ。それがもう嫌と言うほど目に見える今の世界で、獣が人間になり大望を成し遂げるというフィクションファンタジーに過ぎるのである

一方で、目標に向かって自分ができるだけのことを精一杯やっている炭治郎の愚直さは真似できそうである。そして、作中ではその姿がひねくれた大人(柱)たちを無言のうちに説き伏せ、主人公応援する側にシフトチェンジさせる。

今の時代大人子どももみんな人間関係に疲れている。努力が報われ、ついでに周辺環境を居心地良く改善していく姿は誰にとっても魅力的に映るだろう。

慈愛に満ち、努力家で、真面目で、他者に寛容な人間というのは、既存作品では大体理不尽な目にあってきた。

それがモブであれば理不尽死ぬ役だし、ネームドであればトラウマを負って冷笑系とか陰のあるタイプになった。それらの作品主人公わがままであり、理不尽に負けない強い者であって、慈愛や寛容は弱さであった。

炭治郎は、物語最初最初理不尽な目にあって復讐を誓うわけだが、それでも慈愛と寛容、真面目さを失うことはなかった。むしろ、それしか持っていないと自分で言っている。

炭治郎の師匠たる鱗滝さんは、初見の炭治郎のことを評して「こいつは優しすぎてジャンプ主人公にはなれない」というようなことを言っている。(曲解ではないと思う)

その鱗滝さんの薫陶を受けた最も優秀な弟子であるところの錆兎は、炭治郎とは真逆で非常にマッチョジャンプ主人公思考である。「男なら死ぬ気でやれ!優しさな不要!」みたいな感じのことを言いながら急に殴りかかってくる。

炭治郎はその錆兎に努力の上で勝利して修行編は終わり、かくして時代に即した新タイプ主人公が生まれたのである

彼は修行の後の最初の試練で打ち潮(修行によって身につけた特殊な技)を繰り出し、「俺にもできた。修行無駄じゃなかった」と涙する。いい話である

アニメ派の人にはネタバレになって申し訳ないのだが、錆兎が死んだ理由他者を生かすためであった。古い主人公時空に生きる錆兎は、慈愛と優しさを持っていたが故に理不尽な死を遂げたネームキャラだったのである

鬼滅が女性人気を得たのもむべなるかな。

自分の子どもでも彼氏でも旦那でも父親でも、乱暴で直情的な猿よりも真面目で優しい男の方がいい。(比較である個人趣味は置いておく)

男は猿だった時代を楽しむこともできるわけだが(何なら郷愁を感じもする)、ほとんどの女の子は猿に迷惑をかけられたこしかないだろう。なお、一応言っておくとワイルド系とかオラオラ系と猿は違う存在である

旧来の主人公的な存在といえば、伊之助はまさにソレである。どうやって感情移入するんだと思うかもしれないが、たぶん昔の子どもは彼に感情移入できていたのだ。

実際、伊之助はサブキャラとして一つの人気を確立している。普遍的人間的成長のカタルシスを端々で見せるからであるほわほわ

ただし、伊之助には旧主人公的でないところもある。それは顔が良いことである

伊之助は全く以て迷惑嫌われ者の要素しかないキャラなのだが、顔の良さがギャップになるのか、女性人気が結構高い。実際、アニメの実況では14話で顔が出た瞬間に手のひらを返して興味を持ち始めた人を結構見かけた。

顔がいいだけの生意気なガキが、成長して徐々に素直になっていくのである。そりゃ人気もでる。

一方で、旧来の猿型主人公というのは特段美少年だったりはしない。たぶん、見た目は本質的な魅力ではないという思想があるんだろう。男はロマンチストなのである

炭治郎は今のネット時代に即して「自己を保ち、できることから愚直に始めなさい」と示した。そうすれば、今の自分なりに良いところまでいけるはずだし、周辺環境をよくできる(かもしれない)というわけだ。

元々時代に即しておらずいびつだった"王道"にメスを入れて見事解体して見せた鬼滅であるが、果たして続く作品は出てくるだろうか。

視野が広くなったが故に個人レベルではむしろ可能性が閉塞されたネット時代である。この時代に生きる子ども達に未来への希望を与える作品が現れれば良いと思う。

2020-05-30

小児性愛カジュアル化」とは何か?それは問題なのか?

概要

小児性愛カジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛カジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛カジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体セクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的断罪することはマジョリティ傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。

小児性愛カジュアル化」は問題か?

批判者が「小児性愛カジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。

しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラ一種であり、「対象児童から問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛カジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存議論焼き回しである

小児性愛と成人性愛本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である

児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャルさらにはアセクシャルを自認する人々から批判殺到した理由はそこにある。

「(実在児童対象としない、無機物対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているかである

性愛カジュアル化」に問題はある。しかし、

前節では、問題本質は「小児性愛カジュアル化」ではなく、「性愛カジュアル化」であると言った。では「性愛カジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボン荻野さんも以下のように言っている。

その理由としては例えば、①性的プライバシー問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題内包する言動」こそを「性愛カジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。

①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要概念である。実際、他人自慰制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)

話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートものである。故に、他人性的領域に、物理的にも精神的にも安易踏み込むことは許されない。「性愛カジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしま効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人プライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペース尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛カジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。

②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年ポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。

ここまで、「性愛カジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。

政治表現としての性表現

荻野さんは次のようなことも言っている。

ここで、各国のゲイ・パレードプライドパレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。

https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html

https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver

https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/

https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E

やはり、非常に過激セクシーファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?

彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体政治意味合いを持っているのである。それ自体政治表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したかである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのまま表現した、アイデンティティのものなのだ

とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインク配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなた独善的基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである

さらに言えば、政治性とポルノであることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである

誤謬見出し批判することは容易であるしかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。

2020-05-27

大学に入って最初にやることが「実数構成」では、数学が嫌いになるのは必然

そういうことはいずれは、(数学科なら)いざとなったら分かるレベルにならないといかんが、大学一年生がやって実りあるものとは思えない。

理学系にいくにせよ工学系にいくにせよ、教養数学でやるべきなのは高校微分積分の復習をしつつ、

のような基本的な結果をしっかり理解して使えるようになることじゃないだろうか。

こういうものを示すのには実数連続性を厳密に定式化しなければいけないが、一年相手にわざわざ「デデキント切断に順序構造を導入して」などとやらずとも、

空ではない上に有界実数の集合には上限が存在する。

というワイエルシュトラス定理を認めれば十分である。これはデテキント切断による実数の特徴付けと同値であり、他の命題を示す際にも扱いやすく、直感的にも理解できる。

思うに、あらゆることを厳密にやるのが大学数学の「伝統」や「洗礼」などと言った価値観を持っている人が多い気がする。もちろん、それは一面では正しいし、高校数学までは曖昧だった部分がはっきりすることに喜びを感じる学生もいるだろう。しかし、たいていの学生は、数学が嫌いになるんじゃないだろうか。

2020-05-23

正義は必ず勝つ」と教えられた子供自民党を支持する

1 自民党政権与党である

2 政治世界において勝利とは政権与党になることである

3 正義基準勝利することにおくのなら政治的な正義政権与党が手にするものとなる


うーむ……思いついた時は我ながら暴論だとは思ったが、人類史衆愚政治集合体しかないことを考えるにこの屁理屈は大筋として間違ってはいない気がするな。

そもそもをして、勝利以外の何を持って正義証明されるのかという命題に対して人類は未だにマトモな答を用意できておらず、その癖をして子供正義と悪という単純な二項対立から道徳教育を始めようとするなら、どうしても「正義はかならず勝つ」という暴論を吹き込むことになるのだろうな。

恐ろしい話だ。

この話を少し飛躍させれば、戦隊ヒーローウルトラマンを見て育った子供自民党応援しているので、もしもそれが間違っていると言いたいなら特撮ヒーロー放送をまずは辞めさせるべきだとすら言いきれそうだな。

いやはや……そもそも子供に対して何を持って正義を教えるべきなんだろうな。

そもそも正義とはなんだろうな。

君たちは賢いんだろ?

教えてくれよ

2020-05-22

中学高校数学ユークリッド幾何学不要である

中学高校数学から、いわゆるユークリッド幾何学廃止してよい。理由単純明快で、何の役にも立たないからだ。

大学に入ったら、どの学部に行っても、「補助線を引いて、相似な三角形を作って〜」などと言ったパズルをやることは絶対にない。メネラウス定理高校卒業以降(高校数学指導以外で)使ったことのある現代はいないだろう。こういうことは、別に高等数学知識の無い高校生でも、常識で考えて分かると思う。たとえば工学で、弧長や面積を測定する機器必要になったとして、補助線パズル適用できるごく一部の多角形などしか測れないのでは話にならない。現代数学および科学技術を支えているのは、三角関数ベクトル微分積分などを基礎とする解析的な手法である

もちろん、たとえば三角比定義するには「三角形内角の和は180°である」とか「2角が等しい三角形は相似である」等のユークリッド幾何学定理必要になる。そういうものを全て廃止せよと言っているわけではない。しかし、余弦定理まで証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学問題は解ける。また、実用上もそれで問題ない。したがって、余弦定理を初等的な方法で示したら、ユークリッド幾何学手法はお役御免でよい。

高校数学では、以下の分野が特に重要だと思われる。

これらはいずれも、高等数学を学ぶ際に欠かせない基礎となる分野である。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で使われるとしても、いくらなんでも微分積分などと同等以上に重要だと主張する人はいないだろう。

現在、これらの分野は十分に教えられていない。微分方程式と一次変換は現在2020年5月)のカリキュラムでは教えられておらず、ベクトル文系範囲から除かれ、代わりにほとんど内容の無い統計分野が教えられている。また、高校生にもなって、コンパスと定規による作図みたいなくだらないことをやっている。本当に、どうかしているとしか言い様がない。

ユークリッド幾何学を教えるべきとする根拠代表的ものは、証明の考えに触れられるというものだ。つまり代数や解析は計算主体であるが、ユークリッド幾何学証明主体なので、数学的な思考力を鍛えられるというものだ。

しかし、これは明らかに間違っている。別にユークリッド幾何学の分野に限らず、数学のあらゆる命題証明されなければならないからだ。実際、高校数学教科書を読めば、三角関数加法定理や、微分ライプニッツ則など、証明が載っている。そもそも数学問題は全て証明問題である関数極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であることを定義に基づいて示さねばならない。数学思考力を養うのに、ユークリッド幾何学が他の分野より効果的だという根拠は無い。

2020-05-15

憲法改正日本国の真の自立の為

アメリカ草案憲法から自国民による主権を取り戻す動き。

憲法改正政府暴走を防ぐ為、聖典として守り抜く動き。

戦後日本からの由緒正しき命題なのよ。

さぁリベラルよ、9条の読み合わせをしよう。

2020-05-11

コロナ自粛反対

要約

コロナ自粛ってただのわがままだろ。なんで僕がそのわがままに振り回されなければいけないんだ。

イメージ

前らは鎖国だの攘夷だの大義名分を振りかざしているけれども、徳川幕府になろうが明治政府になろうがどのみち地方の貧農でしかないような人が、なんで幕府政府のために命がけで戦ってくれると思ってるの?

前置き

医学的な根拠の話ではない。

生きるということと社会というものについての話だ。

コロナなのに遊び回ってる人たちを見てみんなこう思っているはずだ。

『誰の目にも今は自粛するべき時だと分かりきっているのに、遊びに行く奴はよほど頭が悪いのだろう』と。

でも、それ以前に『そもそもコロナ自粛自体承服していない人』もいると言うことをわかってほしい。

今、自粛によって僕から当たり前の日常が奪われたのだ。これは重大な問題だ。僕はカラオケに行きたいし、プロ野球を観たい。簡単に言わないでほしい。

今ここで僕が野球を見たいという気持ちとお前が生き残りたいという気持ちがぶつかっている。この対立軸を整理して考えていきたい。

構図

問題の構図を明らかにする。

コロナなのに遊びにいきたいというのはわがままだということは認める。でもコロナから自粛してほしいというのも、もう一方のわがままだ。なんでこっちだけわがまま扱いされてそっちは社会正義扱いされてるか。そこが不満である

まるで文化祭合唱コンクール体育祭応援合戦絶対優勝したいクラスの中心人物たちと、クラス辺境にいる帰ってゲームしたいオタクの構図だ。

コロナ自粛派はただのわがままである

僕はわがままが悪いことだと思っていない。言いたいことは言ったほうがいいし、その上でお互いの利害を調整して、譲れるところと譲れないところの落とし所を探っていくのが社会ではないだろうか。

ところが、一方がたまたま正義』を名乗ることに成功してしまったら、際限なく一方のわがままけが増長することになる。

これは良くない。

から僕は、『どっちもただのわがままでしょ』と言い張っていくスタンスである

コロナ自粛積極賛成派の主張はこうだ。

  1. 自分が死にたくない
  2. 自分の大切な人が死んでほしくない

これはただのわがままである。僕が自粛したくないというわがままと同列に扱われるべきわがままだ。

かに、もしかしたら僕がコロナを持っているかもしれない。僕が遊び回った結果誰かが死んでしま可能性が僅かにある。でも、はっきりいうが僕とお前は完全に他人だ。知らない誰かだ。お前が死なないために僕がそこまでしないといけないのは全く納得いかない。

自分の大切な人が死んでほしくない』はより自分勝手わがままである高齢の両親が心配なんだろう。でも、それはみんなが当たり前の日常を送ったら死んでいたはずの人ということである。放って置いたら死んでた人を救うためになんで周りが気を使わんといかんのだ。お前は自分の力で守れない命を守るために他人責任なすりつけている。ヒーローになりたいなら一人でやってほしい。

ちなみに僕は家族が嫌いでとっくに絶縁しているので、特に死んでほしくない人とかいない。友達もいない。子供もいない。結婚もしていない。彼女ができたこともない。少々知らない誰かが死んだって困らないのさ。

これはわがままではないという主張について

コロナ自粛派は様々な理由をつけて「これはただのわがままではない。より上級命題だ。よってお前の遊びに行きたいというわがままに優先するべき事案だ」と言い張るだろう。

その主張の問題点を指摘して、やっぱりコロナ自粛はただのわがままに過ぎないことを明らかにする。

医療崩壊

医療崩壊なんてしない。お医者さんも看護師さんも定時になったら帰ればいいのだ。それで何人死のうがお医者さんも看護師さんも悪くない。

例えば、電車に轢かれて四肢バラバラになった死体を、お医者さんが直せなかったとして、誰も文句言わないはずである。それは医者の怠慢ではなく『現代医療限界である

そうであれば、お医者さんが定時で帰ってしまったがために誰かが死んだとして、なぜそれを『現代医療限界』と割り切れないのか。

『お医者さんが残業診療してくれれば死ななかったかもしれないのに!』なんて、都合が良すぎである他人に何を期待しているんだ。それこそただのわがままである

医療関係者普通の3交代制を引いて、定時になったら病人が何人いようとさっさと帰るべきだ。それで誰かが死んでもしょうがないで済ますべきだ。

人命や健康に関することは例外

かにそれはそうかもしれない。僕はそう思う。でもおそらくお前は本当はそんなこと思ってない。

僕は昔から8時間寝ている。野菜と肉と魚をちゃんと食べている。毎日運動している。お酒は飲まない。タバコ吸わない。嫌いな人との関係バンバン切っている。会社に歩いて行ける距離に住むことで満員電車回避している。

絶対お前の方が健康を粗末にして生きている。これをしていない奴が健康を持ち出して僕を批判するのはおかしくないだろうか。

突然だが、救急車に道を譲らない車が多すぎると思う。僕は運転中であろうと歩行中であろうと絶対に緊急車両に道を譲っている。でも譲らない人が大半である。多分この投稿を見てキレてるお前も普段救急車に道譲ってない。お前は本当は人命を軽視しているんだ。

救急車のためにたった30秒待たない奴のために、なんで僕が一ヶ月もカラオケ我慢しなきゃいけないのか。

から、人命や健康に関することはわがままと一括りにせず例外に扱うべきだという主張は納得するが、この件にそれを持ち出してくるのはお前の自己欺瞞だろとも思う。

みんなのため。個人のため。

コロナ自粛派はみんなのために言っている。コロナ自粛反対派は自分のことだけを考えている。そう思ったはずだ。

しかし、これには納得いかない。

そもそも、みんなのためという理由で人の自由を奪っていいのであれば、では年金暮らしのジジババや介護必要な方にはさっさとお隠れになっていただいたほうがみんなのためではなかろうか。お前が腎臓もっと優秀な人に分け与えたほうがみんなのためになるのであればお前は肝臓差し出すんだろうな。

年金ぐらしのおじいさんおばあさんも、生きていれば様々なことでみんなのためになっている、などと軽薄な功利主義を唱えるのはやめてほしい。教養がない。一番大事なことはそこではない。みんなのためだからといって個人我慢を強いるのは限度があり、絶対に超えてはいけない一線があり、その先のことをどうするかについては本人の意思決定尊重するべきだ。それがこの社会約束である

そもそも、僕がカラオケに行きたいというのは『みんな』に含めてもらえないのだろうか。野球を見たい人が野球を見れないのは『みんな』の問題ではないのだろうか。

これがこの投稿本質である

僕は大変優しい人なので、みんなのために自分犠牲になることはやぶさかでない。しかし、だからこそ「みんなのため」を誰かが勝手に決めていることに対して腹が立つ。

僕の人格について

先に断っておくが、僕は大変な紳士であり善人だ。

定食屋さんでは必ず『いただきます』『ごちそうさまでした』という。

スーパー店員さんにも必ず敬語だ。怒鳴ったりクレームをつけたことは一度もない。レジでは必ず『お願いします』『ありがとうございました』という。

職場でも全員に敬語だし、いわんや誰かをいじめたりいびったり口撃したことなんて一度もない。いつもニコニコしている。

読みたい本は必ずお金を出して買っているし、聴きたい曲は必ず各種有料サービスを使って作者にお金が回るようにしている。

道で警察官に呼び止められた時も礼儀正しく対応している。

モジラやいくつかの慈善団体に毎月数千円ずつ寄付している。

あくまで、これはこの問題の構図が完全に不公平であるという点を主張しているのであって、僕の人格おかしいからだとかいって済ますのはやめてほしい。

お前らは僕の善意寄生しすぎだ。

一番大事なこと

みんなのためだからという理由を持ち出して僕にアレコレ指図してくるのやめろ。

2020-05-08

一回好きになった人を嫌いになれるのかという命題

どうしても嫌いになれないときってない?

しかも今回は私のほうもちょっと悪いことした自覚あるから謝りたいんだけど、でもそんな自傷みたいなことは放棄して嫌いになっておけたらきっと楽なのに。

2020-04-28

anond:20200428234300

「与えられたものは、いずれ分け与えなければならない」原則で、「おまいにもこういうエロ動画を作ることはできるのぜ?」を命題MMDとかを駆使してエロ動画を作る方法を教えていけばええのぜ。

その調子blender教え切れば日本国内どころか海外に行っても活躍できる3Dアーティストになれるで。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん