はてなキーワード: 余弦とは
ってこれ自体も何番煎じかしらんが書いてみることにとりあえず価値があると思うのでね。
増田で何か書くとだいたい「それは~という学者が既に考えてること」みたいな趣旨の反応が来るよね。無反応だけど心でそう思ってる人も含めて。
なんだろう。その仕事してて気づいたこととかなら結構被んないもんなのかな。業種特有の気づきってやつ。そういう気づきとそれをきっかけにした問題提起というのはあまり「かぶってる」的なコメントは来ない傾向を感じる。
それとも同じ業種の人が見てないだけか。
あと、いくら業種特有でも、より一般的な範囲の問題を解決可能な哲学や数学の射程入っているようなテーマはだめよね。
そういうのはだいたい数学や哲学ですでに考えつくされている法則にあてはまる個別の事例(一般化の逆)みたいなふうな立ち位置にされるだけ。
cosineのcoは数学では「双対」という概念のことなんだよね。「余」とも言う。
だからsin(正弦)に対してco-sine(余正弦 = 余弦)となる。別に三角関数に限った話ではなく、ベクトル(vector)対して余ベクトル(covector)という概念なんかもある。
どっちがどっちの双対とみなすかは対称でどっちでもいい。なおtangentに対してcotangentもある。
tangentは極めて重要で、接線やそれを一般化した概念を表している。接線(接空間)というのは局所的な平面(平坦なユークリッド空間)のことであって、テイラー展開の1次項・線形化に対応すると思ってもいい。線形化というのは人類が何か物事を調べるときの常套手段であって、人類はそれくらいしか武器を持っていないとも言える。
https://news.yahoo.co.jp/articles/91d460b8d3bb2f9bc23dac9164bd0b5c8742aa06
お前らがまずやり直すのはもう2年浪人で勉強して偏差値55以上の大学の薬学部に入りなおすところだろ。
偏差値40理系ってシグマ計算も出来ないし余弦定理も覚えてないよ。
小暮君じゃないけど、バカな学生に夢見させるようなことをいって金巻き上げるだけ巻き上げるなと。
大学も悪いけど、こんなん騙される親が悪いよ親が。
生活に余裕があるから自尊心が高くて怖いもの知らずでバカ。質が悪すぎる
ってキャバクラ狂のおじさんが言ってた。
自分で参考書を書いてみれば分かりますが、数学の検定教科書はおそろしく完成度が高いです。そのことを具体的な実感をともなって理解できれば、あなたの学力は入試レベルなど優に超えています。
数学の本の出来は、理論の構成で決まります。数学の理論の構成とは、かんたんに言えば定義や定理をどう配置するかと言うことです。どのトピックを載せるか、ある定理を述べるために事前にどのような概念を定義しておく必要があるのか、その定理を証明するために事前にどのような命題を示しておく必要があるのか。トピックの選定が的確で、理論の道筋が明快であるほど、数学書の完成度は高いです。たとえば、余弦定理は重要ですから当然載せます。余弦定理を述べるには三角比を定義する必要があります(鋭角だけではなく鈍角に対しても)。そして、証明には通常、三平方の定理と有名な等式
が必要になります(これも三平方の定理のcorollaryです)。さらに三平方の定理を示すには、ふつうは三角形の相似を使用します。この道筋をいかに最適化できるかに、著者の力量が現れます。もちろん、余弦定理を要領良く示すために他の定理に至る過程が鈍臭くなってはいけません。全体の最適化を考えなければいけないのです。
証明の最適化を図るには、定義から再考しなければいけません。同じ概念であっても、それを特徴づける性質が複数あるなら、どれを定義として採用しても良いですが、それによって効率は違って来るからです。たとえば、ベクトルの内積は
のどちらを定義としても良いですが、後者の場合は別の座標(たとえば、45°回転した座標など)で考えたときに値が同じになるのか疑問が残ります。前者は座標の取り方によらずに定義できています。
この場合はどちらを採用してもそれほど変わりはありませんが、指数関数などは定義の仕方で必要な議論の量はまるで変わってきます。多くの教科書では、自然対数の底
e = lim (1 + 1/n)n -- (☆)
を定義し、そのべき乗として指数関数exを定義します。もちろん結果だけ知っていれば、微分方程式
df/dx = f
を満たすf(x)で、f(0) = 1となる関数としても指数関数を定義することはできます。しかし、このようなfが存在することを、(☆)を使わずに示すのは高校レベルを遥かに超えます。そのようなfが一意的であることも明らかではありません。
以上のようなことを考えるだけでも相当大変ですが、これに加えて検定教科書では、直感的な理解を損ねないことも考慮しなければなりません。高校生が読んで理解できなければならないからです。理論の整合性・効率と教育的配慮の間でバランスを取るという難しいことを、数学の専門家たちが苦心して行い、作成されたのが検定教科書です。このような本は他の参考書にはありません。場当たり的に問題の解き方を解説するだけの本とは格が違います。
数学の検定教科書は極めて洗練されています。教科書の理論構成を把握し、その流れや証明手法に合理性や必然性を見出だせる水準まで理解できれば、入試などは余裕で通過できます。
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
こんなことを言っている連中のうち、大学以降で学ぶ数学を理解してる奴は1%にも満たないだろう。残り99%強は以下の2種類に分類されると思う。
前者は、たとえばフェルマー・ガロア・ラマヌジャン等の「逸話」が好きなだけとか、「数学の○○という分野が✕✕に応用される」みたいな話が好きなだけな奴である。
こういう連中は数学に限らず、どこにでもいる。プログラミング等の具体的なスキルは無いが、技術のトレンドを知ることでIT通ぶってるような奴。率直に言って、私はこういう奴が嫌いだ。
あとは、数学的な内容が全く無いわけではないが、「0.999... = 1になるのは不思議」とか「Fibonacci数列の比が黄金比に収束するのは神秘的」みたいな、どうでもいいようなことにいつまでも夢中になってる奴。
プログラミングで言えば、Hello worldとかFizzBuzzなどに、「感動」を覚えているよく分からない奴である。まあ、知能が低いのだろう。
後者については、まあ好きな人はそれでいいと思うが、単純に、私は全く面白いと思わない。
中学・高校入試などに出てくる図形問題は、出題者はまず間違いなく余弦定理などを使って答えを求めている。そのような問題のうち、上手いやり方を思い付くと小学校の範囲で解ける問題が出題されるわけだが、いい大人がそんなもんやって何が楽しいのか甚だ疑問だ。
中学高校の数学から、いわゆるユークリッド幾何学は廃止してよい。理由は単純明快で、何の役にも立たないからだ。
大学に入ったら、どの学部に行っても、「補助線を引いて、相似な三角形を作って〜」などと言ったパズルをやることは絶対にない。メネラウスの定理を高校卒業以降(高校数学の指導以外で)使ったことのある現代人はいないだろう。こういうことは、別に高等数学の知識の無い高校生でも、常識で考えて分かると思う。たとえば工学で、弧長や面積を測定する機器が必要になったとして、補助線パズルが適用できるごく一部の多角形などしか測れないのでは話にならない。現代の数学および科学技術を支えているのは、三角関数やベクトルや微分積分などを基礎とする解析的な手法である。
もちろん、たとえば三角比を定義するには「三角形の内角の和は180°である」とか「2角が等しい三角形は相似である」等のユークリッド幾何学の定理が必要になる。そういうものを全て廃止せよと言っているわけではない。しかし、余弦定理まで証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解ける。また、実用上もそれで問題ない。したがって、余弦定理を初等的な方法で示したら、ユークリッド幾何学の手法はお役御免でよい。
これらはいずれも、高等数学を学ぶ際に欠かせない基礎となる分野である。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で使われるとしても、いくらなんでも微分積分などと同等以上に重要だと主張する人はいないだろう。
現在、これらの分野は十分に教えられていない。微分方程式と一次変換は現在(2020年5月)のカリキュラムでは教えられておらず、ベクトルは文系の範囲から除かれ、代わりにほとんど内容の無い統計分野が教えられている。また、高校生にもなって、コンパスと定規による作図みたいなくだらないことをやっている。本当に、どうかしているとしか言い様がない。
ユークリッド幾何学を教えるべきとする根拠の代表的なものは、証明の考えに触れられるというものだ。つまり、代数や解析は計算が主体であるが、ユークリッド幾何学は証明が主体なので、数学的な思考力を鍛えられるというものだ。
しかし、これは明らかに間違っている。別にユークリッド幾何学の分野に限らず、数学のあらゆる命題は証明されなければならないからだ。実際、高校数学の教科書を読めば、三角関数の加法定理や、微分のライプニッツ則など、証明が載っている。そもそも、数学の問題は全て証明問題である。関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であることを定義に基づいて示さねばならない。数学的思考力を養うのに、ユークリッド幾何学が他の分野より効果的だという根拠は無い。
当時は全教科とも80点は取れていたと思う。
生まれた都道府県と違うけれど、そこは誤差みたいなものとして。
5択ではなく、筆記で書かせる問題が多くて、しかも登場人物の心情を書かせたりで、難しいところがあった。
現代文はセンター試験よりも難しいくらいだと思ったが、自分がセンター試験を受けたのは遠い昔なので、なんともいえない。
現代文の文法問題を解きながら、現代文の文法は古文のそれに比べて難しいように感じた。
いまいち型にはまりきってないし、解説を読んでも解釈の余地があるような気がした。
古文はとてもやさしい。
図形に補助線を入れたりして、相似の三角形を見つけて、比を取って長さや面積を求める問題が全然解けなかった。
余弦定理を使って解けないかと思ったが、やっぱり相似を見つける必要があって、結局全然無理だった。
中央値や最頻値を計算させるなど、データ処理の基礎が問題になってたりするのが、昔とカリキュラムが違うんだろうなという感じを受けた。
みたいな問題があった。
地震速報が間に合わない理由を書かせるとか、やっぱり震災の影響ってこういうところにもあるんだなと実感。
生物の細胞の絵や模式図は、解くには問題ないが、ちょっと変で、中学校の授業大丈夫か?と感じた。
地図やグラフから読み取らせる問題が多かったりして、すっかり暗記科目だった高校の社会科よりも、SPIに近い感じで面白かった。
歴史の問題は、かなり易しかったが、その反面ちょっとどうかと思ったりした。
断片的に「~の改革」みたいなキーワードだけ覚えてもつまらないと思う。
歴史はある程度のボリュームを学ばないと、そうさせたダイナミズムを学ばないと楽しくないと思う。
これはかなり易しく感じた。
これも、単純に高校の授業が中学の上位互換だったからだと思う。
英文読解が、将来の夢だとか、未来の地球にむけてとか、夢のあるテーマなのが中学生らしくて、泣きそうになった。
簡単な文章で、こんな少ない語彙で、こんなにも人を感動させられるのかと思った。
全体を通してみて、思いのほか楽しかった。
高校の授業が中学の上位互換だった科目(古文、代数、英語)は、非常に易しく感じた半面、高校で選択科目になったような幾何や、地学は久々に解くとかなり疲労した。
何事も慣れなんだなと思った。
出来ないのではなくて、難しいのではなくて、慣れていないだけ。
努力すれば、人はなんでも出来るようになる。
それから、18歳選挙権や、地震についてかなりのボリュームが割かれてたのが、とてもよかった。
大学入試だと、多少の時事ネタはあるものの、これほどは割かれない。
あの時はわからなかったことが、今だとわかることもあった。
三角形ABCがあり、辺AB,BC,CAをそれぞれc,a,bとする。
辺cがテープ台の側面、辺aが目盛り、辺bがテープに対応するものとする。
三角形の合同条件から、二つの辺とその間の角によって三角形は定まるので、
辺cのテープ台側面の長さと辺aのメモリとテープ台側面とテーブルとの角度∠Bから
辺bのテープの長さを決めることができる。
目盛りは、次のように定められる。
b2 = a2 + c2 - 2ac cos B
b2 - c2 = a2 - 2ac cos B
ここでt = c cos Bとおく。
b2 - c2 = a2 - 2ta
b2 - c2 = (a - t)2 - t2
b2 - c2 + t2 = (a - t)2
√(b2 - c2 + t2) = a - t
よって
√(b2 - c2 + t2) + t = a
t = c cos B
(ただし b > c)
「なぜ数学を勉強しなければならないのか」と訊かれたら、「論理的思考力を身に付けるため」と答えることにしている。
論理的思考力とは、小さなロジックを積み重ねることでひとつの大きな結論を導き出す力のことだ。物事を筋道立てて考える能力、と言い換えてもいい。
たとえば以下の問題を考えてみる。
これは東大の入試で実際に出題された問題だ。そう聞くとすさまじい難問のように思うかもしれないが、実際は「円に内接する正多角形の周の長さよりも円周のほうが必ず長い」という気付きさえあれば、驚くほど簡単に解けてしまう。
Ⅰ.「直径×円周率=円周の長さ」なので、円周率とは直径が1の円周の長さに等しい。
Ⅱ.直径が1の円に内接する正八角形の周の長さは、円周(=円周率)より小さい。
Ⅲ.正八角形は頂角が45°の二等辺三角形8個に切り分けることができる。
Ⅳ.頂角が45°かつその左右の辺の長さが1の二等辺三角形は、底辺の長さを計算で求めることができる。
ここまで来れば、あとは余弦定理を使ってルートの計算をすれば良い。高一レベルの内容だ。
ここで重要なのは解法そのものではない。解体したひとつひとつの項目が、どれも基礎的で容易なものであるという事実だ。高校数学の簡単な知識のいくつかを正しい順序で組み合わせるだけで、円周率が(およそ3などではなく)3.05以上であるという大きな命題を証明できるのだ。とすればつまり、数学の本質は「正しい順序で組み合わせる」というその一点にこそ存在している。
教育における数学は、「正しい順序で組み合わせる」方法を身につけるために行われるものだと私は考えている。それがすなわち論理的思考力であり、その絶大な威力が発揮される分野はもちろん数学にとどまらない。たとえばプログラミングなどはまさしくロジックを重ねる力が直接的に影響するし、機械製品を開発する際にもスムーズな設計ができるだろう。
そして最も密接に論理的思考力と関わっているものこそが、文章力なのだ。
文法はあっているはずなのに、どこか読みにくい、意味のよくわからない文章になっている。そんな場合、理由の大半はロジックの繋がりが崩壊していることにある。先ほどの証明問題で、解答文にⅡの要素が抜けていたらどうだろう。「どうしていきなり正八角形が出てくるんだ?」と誰もが思うはずだ。それと同様の事態が、文章内にも発生している。しかし論理的思考力がなければ、それに気づくことすらできない。
というわけで、文章が上手くなりたいのであれば数学を勉強すると良い。まあこれは流石に強引な結論かもしれないが、実際、論理的思考力は社会でのあらゆる場面で直接的・間接的に役に立つ万能の能力なので身に付けておくと非常に便利である。私など、それだけで生き抜いているような気さえする。
>こんな感じの計算式で特徴付けられる、との説明があるんだけど、こういうのは意味ないんですか?
>これらは明らかに過去のチャートなりから求めるしか数値的に表現出来ないのですが。
というかwikipediaの式も具体的な値じゃなく変数でしょ?
特徴付けの3に、正規分布N(0,t-s)に従うって書いてあるとこに注目。
>(一次元)正規分布は、その平均を μ, 分散を σ2 とするとき
略
>この正規分布を N(μ, σ2) と表す
この場合、-V(X)<=Cov(X,Y)<=V(X)。
これは相関係数の定義と照らし合わせればわかる。わからなかったら高校で習った余弦定理と同じだと思って、解釈が違うだけで同じ式だから。
で、ボラティリティは正だからルートとる。そうすると2銘柄で同分布だと、分散投資すると必ずボラティリティが小さくなることがわかる。正確には、値動きが厳密に一致する場合だけは小さくならない。
三つ以上でも、全く同様の結果は得られるんだけど、Covに相当する部分は公式がないため、まじめに計算しなきゃいけない。シュワルツの不等式を使える形になおして、使うだけだけど、説明するのは面倒。
ちなみに、独立ならずっと簡単で、n銘柄に等分で分散投資すると、ボラティリティはルートn分の1になる。これはこの事実が書いてあるサイトどっかにあると思う。この場合の計算はcov的なものが全部0になるから、中学レベルの数学だけでできる。
>要するにこういう計算自体はどうでも良くて、どっかツールに突っ込んでそれがプラス化マイナスと出るか、
>もしくはあなたがプラスかマイナスか決めて投資するんでしょ?
なわけねーだろ。
>それこそドリフト項の傾きから計算するんじゃないんですかね?
そもそも平均利益という概念が先にあって、もしドリフト項つきウィーナー過程なら、ドリフト項の係数と平均利益は一致する。これはドリフト項がそもそも平均利益に相当するものを表現するための項だから、あたりまえ。
>要するにすべてあんたの"思い込み"だけじゃないか。
「世の中で考えられているほど分散投資がボラティリティを下げる効果はないかも」という1点だけは思い込みかもしれないな。今回のやりとりのなかで、怪しげなことを言ったとしたらそこくらいだ。
なお、君の意見は「分散投資がボラティリティをさげる効果はまったくない」だから、はるかにひどい。
>そういう思い込みだけでやってる様な根拠のない分散投資をやるくらいなら
>無駄に手を広げずに管理出来るような範囲でやった方が良いのでは、というのが最初のこちらの話ね?
思い込みじゃない。むしろ分散投資がボラティリティをさげないと言う方が思い込み。
分散投資で、管理できなくなるなら、それはやめたほうがいいけど、でもETFもあるよ。
>それに対して、あなたは数学的な根拠もあるかのようにドリフト項だの出してきたが、
数学的な根拠がある。
けっこう知ってるよ、君はなにを説明してほしいの?
>それでも信じるのは自由だが、いい加減な事を言うのはヤメてください。
いい加減なこと言ってるのは君です。
>例えばこれとか見て分かる通り
そのサイトの計算は全くのでたらめです。その情報だけでは、分散投資した場合のボラティリティをしっかり計算することはできない。目安というなら、独立と仮定して計算すべき。
平均利益や期待値や共分散は線形だからそういう計算ができるけれど、リスクや分散や標準偏差は線形じゃない。
独立と仮定して計算すると、34.76%じゃなく(24.10^2+3.06^2+7.60^2)^(1/2)%となります。電卓押し間違えてなければ25.45%。ちなみに、34.76%は相関が全部1だった場合の値。日本株式とその他の相関が-1だった場合は、13.44%です。正確な値は、13.44%より大きく、34.76%より小さいことははっきりいえて、独立なら25.45%と言えるでしょう。というか、その次の7ってページで説明されてる効果こそが、分散投資のボラティリティをさげる効果です。7の説明もいい加減なので、そのサイトこそ理解してないまま誰かの受け売りでもしたのでしょう。
ちなみに入力が面倒だからやらないけど、この相関の表つかうと独立と仮定するよりもう少し正確に計算できます、covの分として、相関係数*一つのリスク*他のリスクを全部足してからルートとればいい。ぱっと見た限り、かなり強い負の相関なので、20%きるかもしれないくらい。もとの本は多分、分散投資の効果を過度に強調するためにこの数値例だしてる気がする。
そのサイト作った人は、それ以前に相関使わないとリスクの計算ができないことにすら理解できてないらしい。
>それをある意味でボラリティの低下、ということも言えるかもしれないが、いわゆるリスク、振れ幅自体が小さくなっているわけではない。
ボラティリティは標準偏差のこと、数学的に定義できる概念。ある意味も何もない。
あと、振れ幅自体も小さくって何回もいってるし根拠もだしてるじゃないか。
>階段的に一気に振れることがもう少し細かく段階的に変更されるだけ。
>それでもメリットはあると思いますが、あなたが考えてる様なリスクが減る、と言う意味ではない。
これも大間違い。
結局、君がダメなサイトをあてにして、標準偏差が線形だって思い込んでたってだけでしょ。
複数の確率変数を足し算したものの標準偏差は、それぞれの標準偏差の足し算とは一致しないの。
ボラリティといい分散トレードといいこれといい、検索能力とか情報リテラシーがずいぶん低いのでは?
そして君の批判はすべて君”だけ”にあてはまってる。
元増田です。
はっきり言ってそれは底辺じゃないですよ。かなりマシな部類です。
で、あなたが、というわけではないが、こういう事を指摘している人が、得てして「余弦定理は三平方の定理の一般化である」ということに気づいていなかったり、余弦定理の意味を図示してみることができなかったりする。
結局、理解の程度の差を言い出したらきりがないんですよ。そもそも、研究レベルでも似たようなことはあって、ある概念と別の概念の関係を指摘するだけで一つのすばらしい研究成果になったりするんですから。どこまで理解すれば完璧に理解したことになるかというとそれはとても難しい問題です。
ただ、興味を持って深く追究すれば理解の程度は深まっていくし、ある程度「わかった」と言える目安のような段階というものはあります。受験で要求されるのはそのような「目安」の段階にまで達することです。そこまで到達することは極端に難しいことではありませんが、だからといってそれなりの努力なしにできることではありません。
http://anond.hatelabo.jp/20101009194100
公式を覚えるが、定義は覚えていない。
定義を覚えていても、公式は導き出せない。
例えば、第二余弦定理の a^2=b^2+c^2-2bc*CosA と、角を求める CosA= (b^2+c^2-a^2)/2bc を別に覚える。全く別な概念だと思ってる。そして一方から一方を導くことができない。こういうレベル。
もっとひどいと教科書の問題一つ一つを覚えようとする。だから二次方程式の係数が違うだけで「教科書に載ってない」と騒ぐ。
お受験私立高校からストレートで高学歴になった人はこういう底辺の現状に立ち会ったことがない。知らないまま死んでいくのではないだろうか。
ついでに言えば、彼らにはもちろん職がない。これは自業自得だろうか。自己責任だろうか。
ちなみにこれは僕の母校の話ではない。僕の母校と部活動で交流のある、公立校の話である。
思うに、高校レベルに達してはいない。しかし、高校には通っている。もちろん、彼らが中卒だったとしても、やはり人生は厳しいだろう。