はてなキーワード: 三平方の定理とは
目標:与えられた高度な数学的概念(高次トポス理論、(∞,1)-カテゴリー、L∞-代数など)をフルに活用して、三平方の定理程度の簡単な定理を証明します。
定理:1次元トーラス上の閉曲線のホモトピー類は整数と一対一に対応する
背景:
高次トポス理論:ホモトピー論を高次元で一般化し、空間や位相的構造を抽象的に扱うための枠組み。
(∞,1)-カテゴリー:対象と射だけでなく、高次の同値(ホモトピー)を持つカテゴリー。
L∞-代数:リー代数の高次元一般化であり、物理学や微分幾何学で対称性や保存量を記述する。
証明:
トーラス
𝑇
1
T
1
は、円周
𝑆
1
S
1
[
,
1
]
[0,1] の両端を同一視して得られる。
𝑇
1
T
1
を高次トポス理論の枠組みで扱うために、位相空間のホモトピータイプとして考える。
これは、1つの0次元セルと1つの1次元セルを持つCW複体としてモデル化できる。
閉曲線のホモトピー類:
𝑇
1
T
1
上の閉曲線は、連続写像
𝛾
:
𝑆
1
→
𝑇
1
γ:S
1
→T
1
で表される。
2つの閉曲線
𝛾
1
,
𝛾
2
γ
1
,γ
2
がホモトピックであるとは、ある連続変形(ホモトピー)によって互いに移り合うことを意味する。
基本群の計算:
トーラス
𝑇
1
T
1
の基本群
𝜋
1
(
𝑇
1
)
π
1
(T
1
𝑍
Z と同型である。
これは、高次トポス理論においても同様であり、(∞,1)-カテゴリーにおける自己同型射として解釈できる。
各閉曲線
𝛾
𝑛
この対応は、ホモトピータイプ理論(HoTT)の基礎に基づいて厳密に定式化できる。
円周
𝑆
1
S
1
のループ空間のL∞-代数構造を考えると、ホモトピー類の加法的性質を代数的に記述できる。
つまり、2つの曲線の合成に対応するホモトピー類は、それらの巻数の和に対応する。
結論:
𝑇
1
T
1
上の閉曲線のホモトピー類が整数と一対一に対応することを証明した。
解説:
この証明では、与えられた高度な数学的概念を用いて、基本的なトポロジーの結果を導き出しました。具体的には、トーラス上の閉曲線の分類というシンプルな問題を、高次トポス理論とL∞-代数を使って厳密に定式化し、証明しました。
高次トポス理論は、空間のホモトピー的性質を扱うのに適しており、基本群の概念を一般化できます。
(∞,1)-カテゴリーの言葉で基本群を考えると、対象の自己同型射のホモトピー類として理解できます。
L∞-代数を使うことで、ホモトピー類の代数的構造を詳細に記述できます。
まとめ:
このように、高度な数学的枠組みを用いて、基本的な定理を新たな視点から証明することができます。これにより、既存の数学的知見を深めるだけでなく、新たな一般化や応用の可能性も見えてきます。
ってこれ自体も何番煎じかしらんが書いてみることにとりあえず価値があると思うのでね。
増田で何か書くとだいたい「それは~という学者が既に考えてること」みたいな趣旨の反応が来るよね。無反応だけど心でそう思ってる人も含めて。
なんだろう。その仕事してて気づいたこととかなら結構被んないもんなのかな。業種特有の気づきってやつ。そういう気づきとそれをきっかけにした問題提起というのはあまり「かぶってる」的なコメントは来ない傾向を感じる。
それとも同じ業種の人が見てないだけか。
あと、いくら業種特有でも、より一般的な範囲の問題を解決可能な哲学や数学の射程入っているようなテーマはだめよね。
そういうのはだいたい数学や哲学ですでに考えつくされている法則にあてはまる個別の事例(一般化の逆)みたいなふうな立ち位置にされるだけ。
自分で参考書を書いてみれば分かりますが、数学の検定教科書はおそろしく完成度が高いです。そのことを具体的な実感をともなって理解できれば、あなたの学力は入試レベルなど優に超えています。
数学の本の出来は、理論の構成で決まります。数学の理論の構成とは、かんたんに言えば定義や定理をどう配置するかと言うことです。どのトピックを載せるか、ある定理を述べるために事前にどのような概念を定義しておく必要があるのか、その定理を証明するために事前にどのような命題を示しておく必要があるのか。トピックの選定が的確で、理論の道筋が明快であるほど、数学書の完成度は高いです。たとえば、余弦定理は重要ですから当然載せます。余弦定理を述べるには三角比を定義する必要があります(鋭角だけではなく鈍角に対しても)。そして、証明には通常、三平方の定理と有名な等式
が必要になります(これも三平方の定理のcorollaryです)。さらに三平方の定理を示すには、ふつうは三角形の相似を使用します。この道筋をいかに最適化できるかに、著者の力量が現れます。もちろん、余弦定理を要領良く示すために他の定理に至る過程が鈍臭くなってはいけません。全体の最適化を考えなければいけないのです。
証明の最適化を図るには、定義から再考しなければいけません。同じ概念であっても、それを特徴づける性質が複数あるなら、どれを定義として採用しても良いですが、それによって効率は違って来るからです。たとえば、ベクトルの内積は
のどちらを定義としても良いですが、後者の場合は別の座標(たとえば、45°回転した座標など)で考えたときに値が同じになるのか疑問が残ります。前者は座標の取り方によらずに定義できています。
この場合はどちらを採用してもそれほど変わりはありませんが、指数関数などは定義の仕方で必要な議論の量はまるで変わってきます。多くの教科書では、自然対数の底
e = lim (1 + 1/n)n -- (☆)
を定義し、そのべき乗として指数関数exを定義します。もちろん結果だけ知っていれば、微分方程式
df/dx = f
を満たすf(x)で、f(0) = 1となる関数としても指数関数を定義することはできます。しかし、このようなfが存在することを、(☆)を使わずに示すのは高校レベルを遥かに超えます。そのようなfが一意的であることも明らかではありません。
以上のようなことを考えるだけでも相当大変ですが、これに加えて検定教科書では、直感的な理解を損ねないことも考慮しなければなりません。高校生が読んで理解できなければならないからです。理論の整合性・効率と教育的配慮の間でバランスを取るという難しいことを、数学の専門家たちが苦心して行い、作成されたのが検定教科書です。このような本は他の参考書にはありません。場当たり的に問題の解き方を解説するだけの本とは格が違います。
数学の検定教科書は極めて洗練されています。教科書の理論構成を把握し、その流れや証明手法に合理性や必然性を見出だせる水準まで理解できれば、入試などは余裕で通過できます。
三平方の定理の時は、名前は聞いたことあるけどこんなの習ったかなと思って調べていたら、
内容を見て直ぐに理解できたし、習ったような気がした。
しかしだ、円周角の定理、接弦の定理など言葉すら聞いたことがなかった。
いや、無かったような気がした。
記憶をなくしたわけじゃない、俺は授業で習っていないんだ。
そう思ってはみたものの、では数学で習った全ての定理を(名称だけでも)言えるのか?
今はもう忘れてしまった(定理や公式の)名称を、全て聞いた事が有るといえるのか?
概ね内容は忘れてしまった事柄で、授業で聞いた事が有るというレベルなら、焦ることは何もないんだが、
全く聞いたことがないというようなことが起きて、でも習ったはず、経験したはずと周囲から言われると、恐ろしいほど焦る。
記憶を失うということは人を恐ろしく焦燥させるし、恐怖感するら与える。
酒を飲んで、ある一定時間の記憶を失ったことが2回だけ有ったが、
2回目の時は何故ベットの上でパンツ一枚で寝ているのか分からず、強い恐怖感に襲われた事が有る。
気を失った人が病院のベッドの上で気を取り戻した時、その人が記憶喪失になっていた場合は、
ベッドの上で後退りしたり、医師や看護師に対して恐怖に慄いた表情を見せるという。
この先年老いて記憶を失くしたり、何らかの病気で記憶を失って行ったとしたら、
やはり恐怖を感じるのだろうか。
まったいらでないことくらい三平方の定理を習ったガキでも分かるぞ
●×●=256が解ける子解けない子の差
http://president.jp/articles/-/23368
Q:AD=CD、BC=10cm、四角形ABCDの面積が64平方cmのとき、辺ABの長さは何cmですか。
辺ABをx(cm)とおく。
この四角形は∠ABCと∠CDAの対角の和が180°なので、円に内接する。この円の中心点をO、半径をrとする。
また、ACに対角線を引いておく。
∠CDAは、弧ACに対する円周角で90°なので、ACは円の直径になり、中心点OはAC上にある。
二等辺三角形DACの頂角Dから底辺ACに垂線を下すと、垂線は底辺ACと直角に交わり、底辺ACを二等分する。
S1 = 1/2 × 2r × r
S1 = r2
S2 = 5x
四角形ABCDの面積は
r2 + 5x = 64
r2 = 64 - 5x ...(1)
(2r)2 = x2 + 102
4r2 = x2 + 100 ...(2)
(1)と(2)の連立方程式を解く。
(2)に(1)を代入
4(64 - 5x) = x2 + 100
256 - 20x = x2 + 100
x2 + 20x - 156 = 0
(x + 26)(x - 6) = 0
x > 0より x = 6
よって、6 cm
「学校の勉強は役に立たない」というのは、役に立たない部分の印象が強いんだと思う。
国語で「主人公の気持ちを書きなさい」→大人になってから、小説を読まないので主人公の気持ちとかどうでもいいし。
こういう小さな事象の積み重ねが、悪印象を与えてるというわけ。
実際には、
数学で学んだ三平方の定理は測量の仕事で不可欠なレベルで役に立ってるわけです。
でも、そいう役に立ってる知識は、本人にとっては常識と化してしまうので、学校で勉強した知識であることを忘れてしまいがちです。
元増田です。
はっきり言ってそれは底辺じゃないですよ。かなりマシな部類です。
で、あなたが、というわけではないが、こういう事を指摘している人が、得てして「余弦定理は三平方の定理の一般化である」ということに気づいていなかったり、余弦定理の意味を図示してみることができなかったりする。
結局、理解の程度の差を言い出したらきりがないんですよ。そもそも、研究レベルでも似たようなことはあって、ある概念と別の概念の関係を指摘するだけで一つのすばらしい研究成果になったりするんですから。どこまで理解すれば完璧に理解したことになるかというとそれはとても難しい問題です。
ただ、興味を持って深く追究すれば理解の程度は深まっていくし、ある程度「わかった」と言える目安のような段階というものはあります。受験で要求されるのはそのような「目安」の段階にまで達することです。そこまで到達することは極端に難しいことではありませんが、だからといってそれなりの努力なしにできることではありません。
一見簡単なように思えるけど、少し考えるとわからなくなる。単純に考えるとまず長さが1の線を引き、その端に長さ1の垂直な線を引く。そして二つの線の端と端を結べば、完成するように見える。しかしこれで作図できているのだろうか?なぜこんなことを疑問に思うかというと、ルート2が出てくるからだ。2等辺でない残りの辺の長さは三平方の定理からルート2になる。ルート2というのはよく知られている無理数である。従って理論的にはどこまで正確に引いても、有限である限りは長さが足りなくならなければならない。例えば1.41の長さの線を引いたとする。これだけでは、0.004は少なくとも足りなくなる。次に1.414の長さにしたとする。それでも0.0002は少なくとも足りなくなる。これがずっと続くのである。ルート2は無理数なので、理論的には有限である限りは常に長さが足りなくならなければならない。言い換えれば作図できないはずなのだ。しかし現実では有限にも関わらず、ルート2の長さの線を引けてしまう。一体なぜなのだろうか?現実が間違っているのだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20080510/1210433002
こいつ。
iが虚数というのは常識で、1から2をひけばマイナス1になるのも当然だった。親父は休日にヒマをみつけては数学を教えてくれていたし、三角関数と三平方の定理を習ったのもその頃だった。
こんなこと教えてくれるような親父のもとに生まれておきながら『努力が否定された』とか言ってんじゃねーよ。
おめー自分がどんだけ天から環境というgiftを与えられてるかわかってんのか。このモーツァルトが。
おめーごときがサリエリのツラしてんじゃねーよ。サリエリに失礼だ。
俺の親父なんかパチンコ屋だっつの。マジふざけんな。
首都圏のキリスト教カトリックの中高一貫校に通っていた。今、20代半ば。
一応、6年間、キリスト教というものに触れたので、「神はいるか否か」について、暇だった中高時代は考えをウンウンめぐらせた。で、その結果、「『神はいるともいないとも断言できません』って素直に言うのが一番正しい」という、いわゆる不可知論のような考え方に、高3ぐらいで自力でたどり着いた。
当時は、「数学で三平方の定理を誰に教わらなくても自力で証明しちゃう奴なんか、世の中には割といるのだろうから、不可知論も誰に教わらなくとも勝手に自分で思いつく人も割といるだろう」と思っていた。だが、大学・大学院で、友人と話していると、「神はいない」と断言してしまっている人が大半みたい。
不可知論を自力で発明した人って、世の中にどれぐらいいるのだろう、と思って聞いてみる。
一応言っておくと、こういうキリスト教系の学校でも、生徒の大半はキリスト教徒 で は な い。大学合格率を狙って親が受験させて入ってきたケースが大半。生徒や親が信者、みたいな人は、1割ぐらいだったかな。教員も、信者か否かは全くバラバラ。普通の教科の教員資格を持っている神父の人で教会のコネ経由で入ってきた人がいるかと思えば、「キリスト教ってよくわかんない」っていう、普通に面接受けて入ってきたっぽい数学の先生とかもいた。
ただ、校長は神父でないといけないらしい。校長の人事は、生徒・親には全く見えず、教会から派遣されるかのように5年ぐらいの単位で突然入れ換わったりする。校内の実務は、教頭が全部やっているらしかった。
あと、宗教・倫理の授業担当も神父じゃないといけないらしかったなぁ。普通にセンター試験の倫理の演習問題を解くだけだったりしたが(笑)倫理とは別に、宗教っていう授業が週1ぐらいで数年あったなぁ。ただ、倫理と宗教が同時に教えられることはなかった。