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はてなキーワード: 三平方の定理とは

2020-01-12

anond:20200112200505

まったいらでないことくらい三平方の定理を習ったガキでも分かるぞ

2019-08-10

anond:20190810231101

定理のものは「nを3以上の自然数としてx^n + y^n = z^nを満たす自然数x, y, zの組み合わせは存在しない」だけだもの

三平方の定理x^2 + y^2 = z^2(中学生レベル)がわかるなら意味のものはわかるでしょ

2017-10-16

http://president.jp/articles/-/23368

数学センスのないおっさんが解いてみる。

●×●=256が解ける子解けない子の差

http://president.jp/articles/-/23368

Q:ADCDBC10cm、四角形ABCDの面積が64平方cmとき、辺ABの長さは何cmですか。

(ただし∠ABC = 90°, ∠CDA = 90°)

辺ABをx(cm)とおく。

この四角形は∠ABCと∠CDAの対角の和が180°なので、円に内接する。この円の中心点をO、半径をrとする。

また、ACに対角線を引いておく。

CDAは、弧ACに対する円周角で90°なので、ACは円の直径になり、中心点OはAC上にある。

二等辺三角形DACの頂角Dから底辺ACに垂線を下すと、垂線は底辺ACと直角に交わり、底辺ACを二等分する。

よって、垂線と底辺ACの交点が円の中心点Oとなる。

OA = OC = OD = r, ∠DOC = 90°

三角形DACの面積をS1とおくと、

S1 = 1/2 × AC × OD

S1 = 1/2 × 2r × r

S1 = r2

三角形BCAの面積をS2とおくと、

S2 = 1/2 × BC × AB

S2 = 1/2 × 10 × x

S2 = 5x

四角形ABCDの面積は

S1 + S2 = 64

r2 + 5x = 64

r2 = 64 - 5x ...(1)

また、三角形BCAにおいて、三平方の定理より、

AC2 = AB2 + BC2

(2r)2 = x2 + 102

4r2 = x2 + 100 ...(2)

(1)と(2)の連立方程式を解く。

(2)に(1)を代入

4(64 - 5x) = x2 + 100

256 - 20x = x2 + 100

x2 + 20x - 156 = 0

(x + 26)(x - 6) = 0

x > 0より x = 6

よって、6 cm

2017-07-17

九九のおぼつかない大人

よくバラエティ番組とかでおバカキャラタレントに九九言わせて、トチると「ありえない馬鹿ですねーww」みたいなくだりがあって、あれは多分テレビマン的に

『世の中のどんな人でも安心して共有できる馬鹿にしていい知的水準ライン

みたいなものなんだろうけど(その正否と是非は今回はとりあえず置いといて)、この前ラジオ聞いてたら20代演者

「九九って難しかったよねー」

「わかるー。あんなの暗記しても大人になったら使わないのにねー」

「七の段言える?」

「えー…多分言えるけど…緊張するー」

みたいになってて、特におバカキャラで売ってる人たちでもないし普通あるある話みたいな雰囲気

昔はこの手の話題でとよく槍玉に挙がったのは三平方の定理とか三角関数とか中高の数学の内容だったと思うんだけど、この九九のくだりで他に挙がったのは台形の面積(5年生くらいだっけ?)。

自分の知らないうちに世の中変わってしまったのかなと思った。

2017-02-06

http://anond.hatelabo.jp/20170206011933

学校勉強は役に立たない」というのは、役に立たない部分の印象が強いんだと思う。

国語で「主人公気持ちを書きなさい」→大人になってから小説を読まないので主人公気持ちとかどうでもいいし。

数学で「方程式三角関数・・・」→大人になってから、一度も使ったことが無い。

理科で「二酸化マンガン実験」→大人になってから二酸化マンガンなんて見たことない。

こういう小さな事象の積み重ねが、悪印象を与えてるというわけ。

実際には、

国語で学んだ漢字の読み書きは新聞を読むのに役に立ってるし、

数学で学んだ三平方の定理は測量の仕事で不可欠なレベルで役に立ってるわけです。

でも、そいう役に立ってる知識は、本人にとっては常識と化してしまうので、学校勉強した知識であることを忘れてしまいがちです。

その結果として、学校での勉強には人それぞれに役に立った部分とまったく役に立たなかった部分があるにもかかわらず、

役に立たなかった部分だけが印象として残ってしまう。

2015-01-10

http://anond.hatelabo.jp/20150110115730

頭悪いのかな?

たとえば「三平方の定理証明せよ」と言われて証明の仕方が分からなかった中学生三平方の定理存在のものを疑うだろうか。ただ単に、「三平方の定理というものがあるらしいが、『なぜそれが成り立つか』が分からない」と思うだろう。

小学生場合も同じであって、小学生が疑問に思っているのは「なぜ3が4個あることと4が3個かあることが同値なのか」ということであり「本当に3が4個あることと4が3個あることが同値なのか」ということではない。

2013-11-24

3+3と2+2+2両方学ばせるのが算数目的なのだ

3人にりんご2こずつの場合、2+2+2「しか」認めないとか、算数数学教育への反逆そのものだ。

算数数学教育の外せぬ目的の一つそのものが、多面的な思考の育成であり、例えば文章問題を式にするとき様々な考え方があると学ぶことだ。

教育目的破壊するとか完全に社会への反逆だ。

例えば三平方の定理証明する方法が多数あるにも関わらずなお新しい方法発見されると賞賛されるのはなぜだ?様々な思考法の開拓のもの算数であり数学からだ。そしてそのような例に触れさせ思考を広げる事が算数数学を学ばせる目的なのだ

2*3で立式しても3*2で"立式"してもよいこと、そのものが、掛け算において学ばせるべき事項のひとつだ。

2010-10-09

http://anond.hatelabo.jp/20101009202212

元増田です。

はっきり言ってそれは底辺じゃないですよ。かなりマシな部類です。

で、あなたが、というわけではないが、こういう事を指摘している人が、得てして「余弦定理三平方の定理の一般化である」ということに気づいていなかったり、余弦定理意味を図示してみることができなかったりする。

結局、理解の程度の差を言い出したらきりがないんですよ。そもそも、研究レベルでも似たようなことはあって、ある概念と別の概念の関係を指摘するだけで一つのすばらしい研究成果になったりするんですから。どこまで理解すれば完璧に理解したことになるかというとそれはとても難しい問題です。

ただ、興味を持って深く追究すれば理解の程度は深まっていくし、ある程度「わかった」と言える目安のような段階というものはあります。受験で要求されるのはそのような「目安」の段階にまで達することです。そこまで到達することは極端に難しいことではありませんが、だからといってそれなりの努力なしにできることではありません。

2009-11-23

等しい辺の長さが1の直角二等辺三角形というのは作図可能なのだろう

一見簡単なように思えるけど、少し考えるとわからなくなる。単純に考えるとまず長さが1の線を引き、その端に長さ1の垂直な線を引く。そして二つの線の端と端を結べば、完成するように見える。しかしこれで作図できているのだろうか?なぜこんなことを疑問に思うかというと、ルート2が出てくるからだ。2等辺でない残りの辺の長さは三平方の定理からルート2になる。ルート2というのはよく知られている無理数である。従って理論的にはどこまで正確に引いても、有限である限りは長さが足りなくならなければならない。例えば1.41の長さの線を引いたとする。これだけでは、0.004は少なくとも足りなくなる。次に1.414の長さにしたとする。それでも0.0002は少なくとも足りなくなる。これがずっと続くのである。ルート2は無理数なので、理論的には有限である限りは常に長さが足りなくならなければならない。言い換えれば作図できないはずなのだ。しかし現実では有限にも関わらず、ルート2の長さの線を引けてしまう。一体なぜなのだろうか?現実が間違っているのだろうか?

2009-03-16

やっぱこいつむかつくわー

http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20080510/1210433002

こいつ。

iが虚数というのは常識で、1から2をひけばマイナス1になるのも当然だった。親父は休日にヒマをみつけては数学を教えてくれていたし、三角関数三平方の定理を習ったのもその頃だった。

こんなこと教えてくれるような親父のもとに生まれておきながら『努力が否定された』とか言ってんじゃねーよ。

おめー自分がどんだけ天から環境というgiftを与えられてるかわかってんのか。このモーツァルトが。

おめーごときがサリエリのツラしてんじゃねーよ。サリエリに失礼だ。

俺の親父なんかパチンコ屋だっつの。マジふざけんな。

2009-01-25

不可知論を自力で発明した人ってどれぐらいいる?

首都圏キリスト教カトリック中高一貫校に通っていた。今、20代半ば。

一応、6年間、キリスト教というものに触れたので、「神はいるか否か」について、暇だった中高時代は考えをウンウンめぐらせた。で、その結果、「『神はいるともいないとも断言できません』って素直に言うのが一番正しい」という、いわゆる不可知論のような考え方に、高3ぐらいで自力でたどり着いた。

当時は、「数学三平方の定理を誰に教わらなくても自力で証明しちゃう奴なんか、世の中には割といるのだろうから、不可知論も誰に教わらなくとも勝手自分で思いつく人も割といるだろう」と思っていた。だが、大学大学院で、友人と話していると、「神はいない」と断言してしまっている人が大半みたい。

不可知論を自力で発明した人って、世の中にどれぐらいいるのだろう、と思って聞いてみる。

一応言っておくと、こういうキリスト教系の学校でも、生徒の大半はキリスト教徒 で は な い。大学合格率を狙って親が受験させて入ってきたケースが大半。生徒や親が信者、みたいな人は、1割ぐらいだったかな。教員も、信者か否かは全くバラバラ。普通の教科の教員資格を持っている神父の人で教会コネ経由で入ってきた人がいるかと思えば、「キリスト教ってよくわかんない」っていう、普通面接受けて入ってきたっぽい数学先生とかもいた。

ただ、校長神父でないといけないらしい。校長の人事は、生徒・親には全く見えず、教会から派遣されるかのように5年ぐらいの単位で突然入れ換わったりする。校内の実務は、教頭が全部やっているらしかった。

あと、宗教倫理の授業担当神父じゃないといけないらしかったなぁ。普通センター試験倫理の演習問題を解くだけだったりしたが(笑)倫理とは別に、宗教っていう授業が週1ぐらいで数年あったなぁ。ただ、倫理宗教が同時に教えられることはなかった。

2008-07-26

数学オタが非数学オタの彼女数学世界を軽く紹介するための10題

cf.) http://anond.hatelabo.jp/20080721222220

まあ、どのくらいの数の数学オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない数学世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、数学のことを紹介するために覚えるべき10の事柄を選んでみたいのだけれど。(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女数学布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)

あくまで「入口」なので、思考的に過大な負担を伴う21世紀数学七大難問は避けたい。できれば学部レベル、難しくてもマスターレベルにとどめたい。あと、いくら数学的に基礎といっても義務教育を感じすぎるものは避けたい。数学好きが『三平方の定理』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。そういう感じ。

彼女の設定は

数学知識はいわゆる「高校数学」的なものを除けば、テイラー展開程度は使える

理系度も低いが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

ブルバキ数学原論ニコラ・ブルバキ

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ブルバキ以前」を濃縮しきっていて、「ブルバキ以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。ページも7000以上だし。

ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

この情報過多な原論について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」試験としてはいいタスクだろうと思う。

四色定理(ケネス・アッペル、ウォルフガング・ハーケン)、ケプラー予想(ヨハネス・ケプラー、トマス・ヘールズ)

アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな証明(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの

という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

数学オタとしてはこの二つは“検証”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

ヒルベルト23の問題(ダフィットヒルベルト

ある種の難問数学オタが持ってる公理への憧憬と、ヒルベルト教授数学オタ的な考証へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもヒルベルト的な

「証明できないことを証明するカッコよさ」を体現する連続体仮説

公理主義好みジョーク」を体現する物理学公理

の二つをはじめとして、数学オタ好きのする問題をちりばめているのが、紹介してみたい理由。

位相幾何学トポロジー](レオンハルトオイラーカールフリードリヒガウス他)

たぶんこれを見た彼女は「ドーナツだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜の学問がその後生み出されていないこと、これが近代では大人気になったこと、欧州なら定理ラッシュになって、それが日本で花開いてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのが生み出されないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

ナッシュ均衡(ジョン・フォーブスナッシュ

「やっぱりゲーム理論は役に立つものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「囚人のジレンマ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この概念にかけるナッシュの思いが好きだから。

断腸の思いで選びに選んでそれでもパレート効率的ではない、っていうあたりが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「部分最適戦略」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

ナッシュ均衡による戦略を俺自身はダメとは思わないし、もう選択しようがないだろうとは思うけれど、一方でこれがアメリカ旧ソ連だったらきっちり冷戦にしてしまうだろうとも思う。

なのに、各所に頭下げて迷惑かけて部分最適戦略を選んでしまう、というあたり、どうしても「自分の利得を最大化してきたものが捨てられないオタク」としては、たとえナッシュ均衡がそういう概念でなかったとしても、親近感を禁じ得ない。概念自体の一般性と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。

ユークリッド原論(エウクレイデス)

今の若年層でエウクレイデス(ユークリッド)見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

キリスト生誕よりも前の段階で、数論とか初等幾何とかはこの原論で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティ数学書がエジプト紀元前に書かれていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく数学好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆるマス北野数学者と思ってる彼女には見せてあげたいなと思う。

フェルマーの最終定理ピエール・ド・フェルマーアンドリュー・ワイルズ

フェルマーの最終定理の「設問の単純さ」あるいは「投げっぱなし感」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。

「この余白はそれを書くには狭すぎる」的な感覚数学オタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそアンドリュー・ワイルズの行き着く先はフェルマーの最終定理以外ではあり得なかったとも思う。

「一般化された予想問題を解く」という数学オタの感覚今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源はフェルマーの最終定理にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

ギリシアの三大作図問題(ギリシア時代の数学者たち:詳細不明)

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

ういういかにも簡単に解けそうな作図をこういうかたちで問題にして、その証明が非オタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

数学ガール(結城浩

9個まではあっさり決まったんだけど10個目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に数学ガールを選んだ。

ブルバキから始まって結城浩で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ネット時代以降の数学萌えの先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10個目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。

「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

2008-04-02

正面の隣=二個隣

ミヒャエル・エンデは著書「モモ」のなかでこう書いている。「人から相談を受けるときは、斜め横に座るのがよい」確かに、隣に座ると相談する雰囲気ではないし、真正面だと「向き合いすぎている」というのもわかる。

さて、あなたはこういうときどうするだろうか。会社学校などの食堂でおぼんを持ちながら席を探していると、ちょうど知り合いをみつけた。まわりは空いている。

  • まったく別の席に座る。
  • 正面から一個ずらして座る。
  • 真正面に座る。
  • 隣に座る。

上から順番に物理的距離は縮まってゆく。つまり親しさの度合いといってもいいだろう。人にはそれぞれ、パーソナルスペースの広さに違いがあるので、どの段階がどの程度の親しさかはわからないけども、広い机に二人っきり(なんてことはまずないけど)なのに隣に座るのを想像してほしい。隣は、ちょっと無理だ。

隣と真正面、正面の隣はどれくらいの距離感なのだろう。例えば、隣に座るのと正面の隣に座るのは精神的な距離感として倍半分ぐらい違うのではないだろうか。正面の隣というポジションは、気楽で良いけども、人によっては距離を置かれていると感じるかもしれない。それが隣の半分である。そうすると、隣と真正面の差は三平方の定理からすぐに求めることができる。√(2^2-1^2)、つまりは人並みに驕れるぐらいということになる。つまり4から順に、 1:1.732:2の距離があるということだ。おっ、それっぽい数字が出てきた。

そして、私にとっては正面の隣から真正面は越えがたき壁である。えー、要するに何が言いたいかというと、気恥ずかしいのでできれば真正面は避けていただけないでしょうかってことだ。

 
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