はてなキーワード: ロリータとは
とりあえずまた4本買ってみた。
「【VR】いつも一緒だよ♪ 山中真由美 【3DVR】 ベッド編」
全年齢IVの中ではいつも一歩踏み込んだ演出をしてくれる山中真由美。本作でも股間に突き立てた棒キャンディーを下着姿で舐め回すというかなり踏み込んだ演出で、それだけを見ればまずまずの出来なのだけれど、サンプル動画と内容がまったく違っていた点が非常に不満である(サンプルの中のごく一部が本作)。半額だとしても20分990円は高い。
「【VR】セーラー服で教室&スコートで保健室でラブラブ くりえみ」
こちらも全年齢IV。くりえみのVR作品はほかにもいくつか見ているが、本作は全体的にかなり密着度が高く、ファンとしては非常に満足だった。IVのVRは基本的に相手役(つまり自分)が透明人間のことが多いのだけれど、本作では実在人間でしかもお触りシーン(マッサージなど)がふんだんにある点も高評価。けどやはり値段が高いね。半額セールでもないと手が出ない。
「【VR】【絶対本番禁止】のお店なのに…真面目なFcup美巨乳エステ嬢と【キメパコ】火照った身体を愛撫しイカせまくると【性欲覚醒!】お店に内緒で本能のままに【生ハメ中出し性交】 中村ここね」
半額なので冒険してみる。女優の顔は好みギリギリというところだったけれど、プロポーションは素晴らしかった。脚本ががさつで、真面目なエステ嬢が薬を盛られて乱れていくというストーリー性はほとんど体をなしていなかった。女優さんの媚薬の影響で乱れてしまう演技はなかなかがんばっていて、見ている自分の顔によだれがしたたってくるところなどはグッと来たものの、エロマンガみたいに最後は笑顔のアヘ顔でイキきってほしかった。
「【VR】3年2組 はるちゃん 142cm ピアノレッスン中にわいせつ」
こちらも冒険。ロリータものにはそれほど興味がなかったのだけれど、最近のロリ女優はここまで完成度を高めてきているのかと驚いた。ルックスやセリフなど、小学生と思って見れば本当に小学生に見えてくる(もちろん大人と思って見れば大人にも見えるが)。気の持ちようだけれど、かなりの背徳感が味わえた。余談だけれどこの子はピアノがなかなか上手で、陰部を指でまさぐられながらも立ててある譜面の曲をさらりと弾きこなしているのがよかった。ただ、カメラ位置の都合なのか譜面の1オクターブ下で弾かされていて気の毒だった。せっかく上手なのに。
https://open.mixi.jp/user/57132526/diary/1915179398
1989年の宮崎事件のとき、彼が逮捕された日に姉ちゃんは僕の部屋に来ていて、ふたりでテレビのニュースで知ったんです。そのとき、宮崎の部屋がテレビに映し出されて、ビデオやロリータ本などが山積みにされて足の踏み場のないような場面が映し出されましたよね。あれを見て、姉ちゃん、シクシク泣き出したんです。
そしてその後、「お前の部屋と同じだ! 一体、お前と宮崎はどう違うっていうんだ!」って叫んで号泣したんです。当時23歳の僕の部屋は、宮崎の部屋とまるで同じようなものだった。姉ちゃんは、僕の将来を心配したのかもしれません。
↑一度言ってみたかった
https://anond.hatelabo.jp/20210625070958
こちらに官能小説の作者の方が書かれているので、読者側として最近思っている事を書き捨てる。男性向けから見えてる話です。
何が言いたいかというと、
親愛なる増田に集う諸君が官能小説といってまず思い浮かべるのは、恐らくこれでしょ
言わずと知れた天下の三笠書房がやっている官能小説ブランド。ここは昔はほぼ全てが陵辱モノだったのだが(※1)今ではラインナップの半分程度は安定的に和姦である。刊行月によれば、7割8割が和姦である時もある。(和姦じゃ無くて「誘惑もの」なんて言い方もされたりするけど)和姦以外は、昔からフランス書院文庫を支えてきた大御所の作品手あることが多い気がするので、新人はほぼ和姦ではないかと思われる。
(※1 やんちゃだった頃のフランス書院文庫は、別荘に拉致監禁の上最後は四肢切断に至るやつとか、旦那を人質にとって一家まるごと陥れるやつ、違法薬物を使って云々とか、ダイレクトに痴漢を題材にして気持ちよくさせて女性を屈服させる、とかそういうのがほとんどだった)
もう一つ、現在も生き残っている伝統的官能小説ブランドとしてのもう一つマドンナメイト
こちらは割とフランス書院より転換が遅かったが(※2)今だと、陵辱モノの固定ファンが付いている大御所を除き、ほとんどが和姦ものという状況である。
ただ、和姦であってもいわゆる「男の夢」でファンタジーなのだけれど、これに象徴されるように、どうも最近は官能小説も和姦が売れ筋のようである。
(※2 2010年代のつい最近まで、ランドセルを背負う描写のあるヒロインを実質だまくらかして教師の主人公が云々、みたいなのが結構あった。っていうか、一時期やたらとロリータ系がやたらと多かったよね)
たとえば、双葉文庫などは、一般小説も官能小説も両方同じレーベルで出しているけど、ここの官能小説、ここ10年の作品は100% 和姦。青春小説風味みたいなのが多い。
どうやらレーベル規制があるようで、登場人物は基本18歳以上、若くても大学生である。アラフォーが中心の奴とかもたまにはある(※3)
やってることはそりゃ男性向けなので、不倫をテーマにした作品はあるし、コンドームをつけるというような描写は直接は登場しないけれど、元増田の作家の方が書かれているような内容は概ね網羅している。
(※3 仕事に疲れた主人公が独身で生きていこうと山奥の家を買ったら、何故かそこに美女がやってきてハーレム状態、とか、これ異世界転生ものだよね?スローライフラノベじゃん)
ジュブナイルポルノなどから発達した官能小説レーベルがある。例えば代表格がこれ。リアルドリーム文庫
これのラインナップ見ると、最盛期のフランス書院文庫のようなヤバい奴はないとはいえ、寝取られに陵辱がメインになっていることがわかる。
次に、エロゲのノベライズからスタートしているパラダイム出版のオトナ文庫
http://parabook.co.jp/novels/otonabunko.php
なんでこんな事になっているかというと、
と言う事じゃ無いかと思われる。
官能小説というと時代遅れのようなイメージになっているけれど、ちゃんと時代によって変化しているので、もし気になるのがあったら一度手に取ってみてほしい。
過激な表現をしたエログロ漫画の広告があふれている。おなかいっぱいというか、胸焼けするような表現で、全く股間に響かないと言う人も多いだろう。
そんな人でも、官能小説はわりとそこに至るまでの心理描写というかをそれなりにやっていて、シチュエーションを描いている事が多いので、こちらの方が合うかも知れない。
一度手に取ってみてほしい。とりあえず、エロゲ系に少しでもなじみがある人は、高橋由高作品から、青春小説系のものがお好きな場合は、橘真児作品からおすすします。
おっさんなので専門外だが
https://tiara.l-ecrin.jp/c/index.html
ティアラ文庫、オパール文庫は抑えておくとよい。男性向けより心理描写なんかが丁寧だし、元増田のやっちゃいけない原則は(ほぼ)守られている。
コンドームをつける描写が、胸キュン(死語)ポイント的にきちんとあるのもよい。
一方で戦闘中の描写が非常に淡泊ではあるけど、それをもってあまりあると思う。
そのほか、探すキーワードとしては
なんかがよいとグーグル先生が教えてくれた。ティーンズラブって言われた文化を引き付いているほうですね。
よく女性はシチュエーションを大切するが、男性は即物的な表現でないと売れない、と言うのが定説だと思うのだけど、少なくとも、官能小説に限ってはそれは違うんじゃ無いのかなと思っている。
中高生の頃に憧れていたBABY, THE STARS SHINE BRIGHTのお洋服を買った。
総額4万円ぐらい。高いと思う人もたくさんいると思うけど、値段を上回る喜びと価値を感じている。
V系バンドのファン(バンギャ)をやってた頃、ロリータさんたちに憧れていた。
今でもあんまり詳しくないんだけど、ロリータさんには色んな守るべき規範がある、みたい。
それは誰かに強制されてるものじゃなくて、ロリータとして生きるために彼女たちが自分に課しているもので、
ロリータ服を着るだけじゃなく、生きざまを守っているんだと私は見ている。
そしてそんな人たちがかっこいいと思う。同じ理由でギャルもかっこいいなって思ってる。
2000年代って、ファッションと生きざまがリンクしてたところ、あったよね。
でもお金もかかるし、何より自分の容姿に自信がなくて、ロリータさんにはなれないって思ってた。
どちらかというとゴシックパンク寄りのものが当時は好きだったから、PEACE NOWとかプトマヨみたいな、
ギリギリ中高生でも何とか手に入れられる範囲のものを1~2着だけ大事に着ていたけど、
なんとなーーーく心のどこかで「Jane MarpleとかBABYのお洋服をいつか着てみたいな」って気持ちが燻っていた。
今年29になって、20代は「自分がしたいこと」じゃなくて「他人に求められること」に応えてばっかりだったなと思った。
恋愛は全然うまくいかなかったし、結婚出産はするつもりも予定もないし、仕事も去年うつになって躓いちゃって、他人から見たら「悲惨なアラサー」って感じだと思う。
でも、うつをきっかけに行くようになったカウンセリングで自分のことを少しずつ認めてあげられるようになってきたから、
私は私が置いてきた自分を迎えにいかなきゃいけないんだと思うようになった。
見知らぬ他人がどう言おうとも私はブスじゃないし、なにを着てもいい。
もちろんTPOは守らなきゃだけど、年齢なんか関係なく、なにを着たっていいはず。
私は15年前に置いてきちゃった私のために、この4万円を使うのだ!
そう思って先週の金曜日に通販でポチッとした。大きい額をカードで切るのにもドキドキしたけど、
「BABYのお洋服を買ったんだ!」っていう実感とお洋服が届く楽しみで、今週はずっとドキドキしていた。
いにしえのバンギャなので、トランプとアリスがモチーフになったデザインのものを一式購入した。
昨日届いたんだけど、もうすっっっっごくかわいいんだよ!めちゃくちゃかわいい!
レースもボタンもトランプの形になってて、リボンがたくさんついてて、とにかくかわいいんだよ!
今ダイエットしてるから実際に袖を通すのはもう少し先になるけど、絶対絶対これを着てお外を歩くんだ。
私は15年前の私とラフォーレ原宿の地下1.5階で待ち合わせしているから、今度はロリータを着てロリータ服を買いに行くんだ。
ほんと、他人から見たら「イタタ・・・」って感じかもしれないけど、それでも、
痛いって思われないための選択とか、普通の人生から失敗しないための選択をとるんじゃなくて、自分が幸せを感じられる選択をこれからはしていきたいなと思う。
もう何年も前の話
新卒で就職が決まった兄貴が会社の社員寮を内見しに行くというので、暇をしていた俺もついていったのだ
その帰り道にそれを目撃した
俺の前に20代前半とおぼしき男性と小学生くらいの女児が手を繋いで立っていた
ん?兄弟か?と思って何となしに見ていたら突然、二人がこの俺の眼前で熱情的なキスを交わし始めた
欧米の人が挨拶代わりに交わす類いの軽めのキスではなく、明らかに恋人同士で交わされると伝え聞く深い深いキスだった
数秒間の口付けの後、二人はおもむろに顔を離した
女児が照れた様子で男性にはにかむと、男性は再び女児の手をとった
やがてエスカレーターが終点にたどり着くと、二人は手を繋いだまま何処へと歩き去った
俺は正義感と嫉妬心からよっぽど通報してやろうかと迷ったが、今回に限り見逃すことに決めた
俺の後ろにいてこの異常な恋人達を目撃しなかった兄貴にも黙っていようと決めた
「まだ子どものうちに性的な関心の対象とされたことが、私自身から性的な関心を奪ったと思う。怖かったから。安全でいるための方法は、『私は保守的なの』『私は厳粛な人間だから、あなたは私を尊重すべきよ』『私は賢いの』『そういう対象として私を見ないで』という態度を取ることだと思ったわ」
ナタリーは1997年に公開されたエイドリアン・ライン監督の作品、『ロリータ』への出演を断っている。
「そのくらいの年齢のころは、性的関心や願望を持ち、いろいろなことを探求したいし、オープンでいたいもの。でも、年上の男性たちから関心を向けられたら、必ずしも自分が安全だとは思えないでしょう」
また、こうしたことへの“対処メカニズム”となっていた自身の態度については、「本当に大勢の人たちが、私を超真面目で保守的だと思っていたわ……意識的に、そうさせるように仕向けていたの。それが、自分が安全だと思えるようにするための方法だったから……『あなたを尊重してくれ人なら、あなたを物として見たりしないでしょ?』と思っていたわ」と述べている。このテクニックは「効果的」であり、彼女は「安全だった」という。
10代の頃はラブシーンなどを拒否していたというナタリーはさらに、「セクシーではない役から選んでいたわ。セクシーな役は、人からどう見られるのか、私は安心していられるかと不安になるから」とも打ち明け、当時の苦悩を明かした。
そもそもナボコフの『ロリータ』だって未だに認知度高いし文章も評価されてるし研究対象にもなる名作だぞ。ロリコンコンテンツであることと名作であることは別に矛盾しないと思う。
あと、野暮なことを言うがヒロインだって何もこれから洗脳監禁されて生きていくわけじゃないんだから、成長して主人公のことが嫌いになったら別れればいい。ロリコンショタコンが悪とされる理由は、第一に肉体関係を結んだ場合「リスク(妊娠や性病)がある行為を判断力が弱い相手にさせるから」。問題は「自分の楽しみの為にリスクを理解してない相手にリスクを負わせる」ことであって、相手が幼くなくても老人や知的・精神的障害のある人に健常者がおなじことをした場合も非難される。ショタコンよりロリコンが嫌われやすいのも、男より女の方がよりリスクが大きいからだ。
じゃあ肉体関係なきゃいいのかって話だが、大抵の人が清い関係でも白い目で見る。その理由は「デメリットを理解してない相手に有利な契約を持ちかけているように見える」からだ。この場合のデメリットとは、若い時間を若くない相手に使うことである。多くの人間にとって若さは貴重であり、お互いに若いならいいが若くない相手に使うと感覚的には損した気分になる。
それが「若さがないぶんをあまりある経済力や美貌や能力や素晴らしい精神性」があればいいが、多くの場合年相応の年収(つまり一般的な若い異性の将来と変わらず若さがないぶんマイナス)や容姿だったら熱が冷めたら騙された気分になるだろう。既に20歳を超えた女性が、某中年アイドルと結婚した時に叩かれた理由は色々あれど、その一端には「女性の若さはプライスレスであり金で買うなど言語道断」という極端な思考もあったのではないか。個人的には成人同士なら、未来予測できない若いほうにも責任があるので自己責任だと思うし、そういう理屈とは別に幸せになってほしいと切に思う。
上記のリスクとデメリットからロリコンショタコンは嫌われるわけだが、この2つがハイブリッドした嫌われ方がある。すなわち「相手が幼いうちは肉体的には手を出さないが合法になったら手を出す」である。これは法的には問題ないが、大人になる過程で成長して視野が広がらないように常に誘導する(それ以外の選択肢である他の相手との交際や性行為しない方がいいとを考えるのを阻害する)ので実質的には幼い精神を騙している、という状態である。
要するに「大きくなったらお嫁さんになる!」という田舎の女の子に、妊娠後のキャリア形成の難しさや都会に出たらもっといい相手が見つかるかもしれないという情報を遮断して親くらいの年のオッサンに嫁がせるのはひどくない?あるいは、成績優秀で大学に行かせれば出世しそうな男の子を「お前は中卒で親位のバツイチの親戚(本家)のお姉さんと結婚し子供を育てながらうちを継ぐんだ」といいきかせ続けるのはひどくない?ということだって
具体例をあげると、小学生くらいの結婚の意味すらわかってない紫の上をさらって都合のいい女性になるように結婚可能年齢まで育てた(うえに内縁の妻のままにした)光源はひどいが、少女の時にフレデリカ出会って恋されて大人になってから再会した(故に教育洗脳もしようがない)彼女と結婚したヤンには罪がない、みたいな話である。
さて前置きが長くなりすぎたが本題に入ろう。夏への扉の内容だが、まずヒロインは性行為によるリスクは負っていない、手を出していないのだから当然である。次に、彼女がコールドスリープを決めたのは成人後であり、彼女には判断力があったと思われる。銀英伝のフレデリカと同じかパターンである。成人するまでの間、彼女には様々な選択肢があったうえで彼との未来を選んだのだ。これを若さゆえの過ちというならまだしも、彼女の自由意志でないというのは侮辱である。故に、主人公はロリコンと非難されるべきでないと私は考える。彼は幼いが故に彼女を愛したのではなく、また彼女が彼に恋したのは少女の時だが、将来を決めたのは立派な女性になってからなのだから。彼は彼女から幼い時間も、幼い肉体も搾取していないのである。
「ロリ」って単語やロリ呼ばわりをネットから消し去りたい、って話を聞いた。
ロリータが語源だから幼女への性的眼差しを内包した単語だってのは正しいだろうけどさ、でも邪悪な単語「ロリ」を消したところで眼差す側の人間、ロリコンは消えないと思う。
ホモセクシャルの存在を否定しようと排斥しようと、彼らが決して消えることはないのと同じに、
ロリコンを迫害したところでロリコンを消滅させることはできないはずだ。
コンビニからエロ雑誌が消えた理由は、女性を威嚇するのをやめて欲しかったから。
ロリって単語を目にした幼女がたくさんいて彼女らが傷ついているなら、ワードの締め出しも意義がある。
でも——俺には少女時代がなかったから解らないが、そんな女の子いるか?
単語の意味がわかる頃には対象の範囲から外れて安心になっているのでは?
感覚のアップデートって世代交代だ。こんにちわロリコンです。新世代の叩いていい属性です。同期のインセルさん、九州男児さん、おっさん、よろしくです。
「日本語の文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベルの知識で可能で、その点村上春樹は文章のプロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない」
あのね、この時点で完全に間違いなの。
平易な短文を積み重ねて、子供の作文じみたものにせずに、大人の鑑賞に耐えうる文章にするっていうのが、どれだけ難易度高いかわかってない。
一度自分でやってみ。ほぼ間違いなく読むに耐えない文章になるから。
こういう「一見、子供の作文みたいだけど実は」っていう文体を最初に発明したのはヘミングウェイなので、増田は一回ヘミングウェイの初期短編を味読するとよい。できれば原文で。
ヘミングウェイの文体はチャンドラー経由で村上春樹にも入ってる。
文章における技術とは、小説における技術とは何か、両者の関係とはいかなるものか、については以下の本でも読んで自分で考えてください。
デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』
あまり男性が女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的に早熟な少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャーの知的で論理的に自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。
さておき、これは近親相姦のお話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉を弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。
頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かない。モテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞき込まれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉で現実に適応しようとした姿なのかもしれないのだ。
それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的な活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉で言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。
あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワン・カラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまうタイプのキャラクターが好きだ。
死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌が醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿を馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人がヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通やフェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。
それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」も愛好している。
架空の神話がショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品は基本的に短く、しょうもないオチの作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空の世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精の魔法も見せてくれる。
「あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画「メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムがテーマの作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。
表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙のお話なのだけれども、そのロボットは自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間のサイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。
学生時代、自分は女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎の作品も同様の理由で好きだ。
自分を馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。
「ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカの植民地で暮らす女性の視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。
個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカを前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地の支配者側からの視点は批判的に読まなければならないが、色眼鏡の比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。
植民地時代のアフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くからの貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人が満州や朝鮮半島、台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ。
はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。
確かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大な小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代の小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。
「李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰の文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。
これは「三造もの」と呼ばれる中島敦の私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明の無意味さに対する形而上学的な恐れや不安が意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後の説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年・文学少女たちは、その言葉を無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。
膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフの作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分の初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。
しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的に搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバートの夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータの内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。
ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手な男性の心理の解剖である。
「ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供の挫折を描いた小説であり、この社会が弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近な話題から告発した話なのだ。自分がした屁の責任をかぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢そのものじゃなかろうか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html
遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールドの未来を舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学や陰謀論と社会の関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。
仁木稔の作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学や物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台もラテンアメリカで日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品は中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズの最新刊が出ないか、今か今かと待っている。
明治十一年の日本の都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信を批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治の日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。
著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異のイメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識を内包した、強固な偏見に根差したものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。
とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なものを嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦の描写に優れる。
妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。
姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分の人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。
韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集II-11所収 ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis 白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。