はてなキーワード: 共通語とは
折に触れて、出産予定月をまたいだほどの生来の出不精からすると少し気が触れて、旅行することもある。するとその土地にはその土地のジジイがおり、ガキがおり、折々の少年時代があるんだと感じる。商店街通ったり、ローカルの電車に乗ったりしてるとね。
するとここで自分が過ごしてたら、とか、ここの方言使うことになるんだろうか[1]とか思ったりする。でもすっとそれを止めて景色を見たりする。いつからこんなにあきらめよくなったっけ。
📖
少年時代、というよりアカチャンマークツーくらいの時代、小学一年生上がりたての時に、道徳だか国語だかで冊子をもらった。教科書でもなくプリントでもなくワザワザ冊子なので夏休みの宿題だったのかも。家で読んでひっそり大泣きした記憶がある。
たくさんの動物に囲まれた白人のガキが表紙にあしらわれたクソ冊子。読んでいくと相棒の犬と仲良くなっていく様子、今生の別れ、葛藤、他のペットを飼えるようになって優勝みたいな流れだった。
ガキからするとそんな本邦における精神の発達過程のネタバレとかどうでもよくて、なぜゴールデンレトリーバーは死ななくてはならないのか、根本的に死んでしまった問題は解決されていないのでは、と飲み込めず泣き出し、親にまで提訴した。冊子を読んだ日は当時飼い始めたゴールデンレトリバーを抱きしめて寝た。
で、「諦め」っていうのが抵抗できない大いなる力、自然だの物理だのへの唯一の対策だと覚えたんだ。俺の犬は奇しくも高校の夏休み前最後の登校日に死んで、一日泣いて、諦めた。ここ進研ゼミでやったやつだと思ったけどそれからペットは飼わなかったし、黄色人種なので冊子の表紙みたいにはならなかった。
📕
だから自分の環境がこうだったらなーみたいなどうしようもない憧れは小学生の体感する夏休みより早く終わる。
[1]自閉症傾向が強かったり、発達がユニークだったりすると共通語のTVや共通語文書から言葉を学ぶので方言は身に付きにくいらしい
江戸っ子なら
「べら棒奴、そんなもんが”かるぼなーら”になるってんなら、山芋が海に逃げて鰻にならぁ、お天道様が西から上って東に沈むってんだ。馬鹿言っちゃいけねえ。」
「は? か、かるぼなーらって、あの、昔夜店でぷー…ってふくらまして売ってた…」「いや、それカルメ焼きw」(と無理矢理なボケ・ツッコミで流すことで壊れかけた場の雰囲気を繕うとともに、下手なギャグで話を逸らすことで「お前の言ったことはこれくらい意味が分からない、下手なギャグ以下の寒い話」ということを暗に話者に伝えようとする。)
と笑顔で切って捨てて終わり、みたいな感じだろう。いずれにせよ、これらのような高度に磨き上げられた言語体系には、こういった状況を滑らかに回す知恵が組み込まれているものだけれど、残念ながら現代共通語はまだそこまで至っていないというのが実際のところだと思う。個人的には、せっかくのこれらの言語資産を活用して現代語にはもう少し頑張ってもらいたいと思うところなのだが。
「議論の場なのに、キャスターの着てる服の色に反応してる時点でおかしい」以上の話じゃない。
たとえば、あのキャスターを批判するあなたのポストは、政治的には明確に「イスラエル寄り」の言動であると言われるだろうし、あなた自身が中立を自任しているとしても、「あなたの言動はイスラエルに寄り添っている」と指摘されたとしたら、あなたは当然それに対して責任を負うだろう。そして、言論をもって意見を述べているあなたには、その程度の覚悟はあるだろう(多分)。
だが、もしあなたがフレデリックさんから「あなたはこの件に関するポストをなぜ日本語で行ったのか。明確にイスラエル寄りの立場を示さず、ガザに支援を送る日本の共通語で意見を述べる時点で、あなたはパレスチナ寄りの立場を重視していると言わざるを得ない。世界に関する意見を述べているのだから、せめて英語でポストすべきであることくらい誰にだって分かる。」みたいなケチの付けられ方をしたらどう思うか。
困ったことに、上の仮想フレデリックさんの言うことに全く理がないわけではない。だから、あなたが言うようにここで私は「フレデリックさんの気持ちもわかる。増田はもっと配慮すべきだった」とか後出しで偉そうに言うことは可能だ。だが、誰だって「そこ?」とは正直思うはずだ。「そこに、そんなケチ付ける?」と。そうしてあなただって「日本語は私が親から受け継いだ母語であり、私が日本語でポストすることはいかなるサイドの立場を取るという意思表明ではない。ポストする言語は問題ではないし、私が何語でポストするかをあなたに指示される言われはない。」……くらいのことは言いたくなるかもしれない。明らかに当惑していたインドのキャスターの反応は、私にはそういう風にも取れる。その状況で、上のようにもし私があなたを批判したら、それはフレデリックさんへの過剰な擁護にしか見えないだろう。
あなたが「うさん臭い」と評価し内心疑っているように、TV局側には相手を「煽る」意図くらいはあったんじゃないか、くらいのことは私も思う。何なら、イスラエル側に寄り添うフリをしつつ、よりエキサイトしそうな人を狙って出演依頼をかけるくらいのこともしたかもしれない。だがそれでも、表面上キャスターの振る舞いは、上で述べたように一般常識の範囲に終始していて批判するべきポイントはないと思う。つまり、これは明確に、キャスターの側の問題ではなく、フレデリックさん側の「失点」としかいいようがないのだ。そう、フレデリックさんはあきらかにやらかしたのだ。そして、インドのTVキャスターは「やらかしてない」。その背後にTV局の思惑があったとしても、どうせフレデリックさんだって純朴でイノセントな出演者ではなく、それなりの思惑があって出演したわけなのだからどっちもどっち。ならば、やらかした側のやらかしが批判されるのは仕方の無い、自然な成り行きだと私は思う。
「いややわぁ〜 そうそう、そうなんよ〜〜」
こんな感じの会話を保育園、ママ友、PTAあたりでよく聞きます。個人的には、男性より女性の方が使っているイメージがあります。
「〜なんよ」は共通語に直すと 「〜なんですよ」
こちらはちょっときつい印象になります。その気がなくても責めたり咎めたりするニュアンスで受け取られてしまうかもしれません。
「〜なんだよ」は友人同士なら良いのですがママ友くらいの距離感だと使い辛いです。
関東の人たちは普段から共通語を話していますが、関西の人にとっては敬語か丁寧語のニュアンスがあります。親しい人とは関西弁で、仕事中は共通語、知らない人と会話をする時も共通語です(地域差あるかもしれませんが)
有名な話だと、幼稚園児は普段は関西弁をしゃべっているのですが、おままごとをするときだけ共通語になります。何かの社会役割を演じるときに使うのが共通語です。
SNSでは関西の人たちも周りに合わせて共通語を話しています。
これは現実でもよくあるのですが、だれかが関西弁を話し始めると皆が関西弁になります。
「〜なんよ」も他の人が使っているのを見て解禁した人も多いんじゃないですかね。人口の半分くらいは西日本でしょう。
たしか当時「〜なんよ」というネットスラングがムカつく、という内容の増田がバズっていて
id:njamota ”〜なんですよ”ではなくて”〜なのよ”では?
id:yamada_k 「なのです」が「なんです」になる仕組みと、「なのよ」が「なんよ」になる仕組みは同じ(撥音便の一種)。ただ、共通語?では「なのよ」を使う男性が減ってきているけど、方言の「なんよ」は違うのかもしれない
私は
さも、当然の
ように
対象国の
虫ずが、走る方
でして
なら
従い
使用者で、ある
日本人が
正しく、理解できる
言語で、示すべきだ
と、考えます
此は
TOECで、いえば
900点越えの、英語力が
要る
の、では?
日本人の、中に
正しく、読める
人間が
どれだけ、豊富に
いる
で、しょうか?
此の国の、判例
軽視するのか!!
的な?
て、だけですから
因みに
確か
契約を、断行した
と、
容易に、推定が
契約に、関する
権利を
企業側は、逸する」
と、言うものが
あったように、思います
英語で、示して
読めない
と、申し立てられたら
請求権を
一切、消失する
と、なれば
流石の、オートディスクも
動きますかね?
兎に角、私
超えられる
と、でも
思っとるのかい!!
英語を、示して
金、取れる
と、でも
思っとるんかい!!
何語を、望むの?
と、聞いたなら
表示せんかい!!
て、事です
返信が、ダブったり
している、のは
こう言う、サイトの
使用に、不慣れで
色々、試した
結果です
お見苦しくて、済みません
私は
さも、当然の
ように
対象国の
虫ずが、走る方
でして
なら
従い
使用者で、ある
日本人が
正しく、理解できる
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此は
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要る
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日本人の、中に
正しく、読める
人間が
どれだけ、豊富に
いる
で、しょうか?
此の国の、判例
軽視するのか!!
的な?
て、だけですから
因みに
確か
契約を、断行した
と、
容易に、推定が
契約に、関する
権利を
企業側は、逸する」
と、言うものが
あったように、思います
英語で、示して
読めない
と、申し立てられたら
請求権を
一切、消失する
と、なれば
流石の、オートディスクも
動きますかね?
兎に角、私
超えられる
と、でも
思っとるのかい!!
英語を、示して
金、取れる
と、でも
思っとるんかい!!
何語を、望むの?
と、聞いたなら
表示せんかい!!
て、事です
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している、のは
こう言う、サイトの
使用に、不慣れで
色々、試した
結果です
お見苦しくて、済みません
一昨日あたりも、言葉の乱れに関する話題があった。
自分は、言葉に正しいも間違いもなく、ただ「多数派が使う言葉」とそうでない言葉があるだけだと思っている。
ある集団の中で多数派が使う言葉は、話者が多いためその集団の中で通じやすい。そのため集団の皆が自然とその言葉を使うようになっていく。
その集団の規模は大きくても小さくてもよく、たとえば学校のあるクラスの中だけで通じる言葉が自然発生的に生じたりする。
そうして生まれた言葉は、その集団の外ではまったく通じないが集団の中では半ば共通語のような扱いとなる。
特定の業界でしか通じない業界用語や、5chでしか通じない5ch用語なんかはその典型だ。
昔は地域によって集団が分かれ、地域の集団独自の言葉として方言が使われていた。
しかし近代化の中で、日本という集団の言葉の均質化が図られ、方言は薄まっていった。そうして生まれたのが日本の標準語だ。
これは5ch用語などと違って自然発生的に生まれたものではないが、ともあれ今では標準語は、日本人なら誰でも通じる、日本の多数派が使う言葉だと言っていい。
しかし日本が無数の小集団に細分化された現代は、各集団ローカルの言葉、いわば現代版の「方言」が群雄割拠する時代だといっていい。
その言葉がその集団の中だけで使われるうちはいいが、たまに集団の外でその言葉を使ってしまう人が出てくる。
あるいは、それが流行り過ぎてメディアに乗って外まで漏れ出てくることもある。
そうすると、その言葉を知らない人は首をかしげることになる。それがいわば、言葉の乱れというものではないかと思う。
日本語の乱れの原因は日本が無数の小集団に細分化されていることであって、
それを押しとどめるのは、まあ難しいんじゃないかと思う。
不正確な記憶でブコメ書いた上に、憶測を加えてしまったが、それが違っていたようだ。
Ciniiで役割語、老人などで出てきた論文にちょうどそのことを論じているものがあったので勉強もかねて増田に書いてみた。
論文1本だけで断言的なことは言えないかもしれないが、参考にはなるんじゃないかと。
『「役割語から考える自称詞 「わし」 の方言性と出現時期』黒崎佐仁子 (2011)からの孫引きになるが、以下のような理由らしい。
金水(2007)は,「そうじゃ,わしが知っておる」のようなアニメやマンガに登場する博士および老人の言葉の特徴を以下のようにまとめている。
⑸ 「A=B」の関係を表すとき,標準語では B の後ろに「だ」をつけるが,老人語・博士語で は「じゃ」をつける。また否定を表す表現として,標準語では動詞の後ろに「ない」をつけるが,老人語・博士語では「ん」をつける。さらに,一人称代名詞として,老人語・博士語ではよく「わし(博士語では,さらに「吾輩」)を用いる。(p. 98)
金水(2003:4)は「これらの特徴の対立は,実はそのまま日本の東西方言の対立に重なる」として,以下のような表を提示している。
博士語 標準語 西日本方言 東日本方言 断定 ~じゃ ~だ ~じゃ、~や ~だ 打消 知らん、知らぬ 知らない 知らん、知らへん 知らない、知らねえ
西日本方言の断定表現として「じゃ」と「や」が挙げられているが,このうち「じゃ」のみが博士語として認識される。この理由は,真田(1990)が述べているように「や」が「じゃ」の変種として新しく生み出されたものであるため,「や」が西日本方言として認知されるより前に「じゃ」が 博士語・老人語として定着したからだと考えられる。
江戸時代の言語使用特徴に関しては,佐藤(2002)が分かりやすく解説している。
(略)
当時の人々は「上方語的な言い方が伝統的に正しい」(小松 1985:21)という意識を持っていた。そのため,「若年・壮年層の人物が,いち早く江戸の新共通語である東国的表現を自分たちの言葉として駆使していた時点で,老年層は未だ上方語的表現を規範的な言葉として手放さなかったというような構図が,江戸においてある程度現実に存在した」(金水 2003:26)と考えられ,「明治期に入ると,江戸語の文法を受け継いで新しい〈標準語〉が形成されていく。
ところが文芸作品,演劇作品の中では,伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていく」(金水 2003:27)という過程を経て,アニメ・マンガの博士語・老人語が確立していったのである。
西日本方言のじゃ→やの変化とマンガの成立の時期からして、老人役割語ができたのは大正・戦前くらいかな、と想像していたが、どうやらもっと古いらしい。
江戸時代に老人役割語の原型がすでにあったらしいのはびっくりだ。伝統の慣性の力の大きさを感じる。