はてなキーワード: バックボーンとは
Twitterをぼーっと眺めていたら絵描きさんが "創作する過程を楽しめなくなった絵描きは終わり"だという旨の発言をしているのを見かけた。
別にその人のことは良く知らないし、その人がその発言をすること自体が悪いこととは思わない。思想は自由だし、その人なりにバックボーンやプライドというのがあるだろうから、そういったものは尊重したい。
でも私はこの言葉をひどく何度も反芻している。何度も反芻している。雪が降って鬱になってるだけなのかもしれないが作業中も何度も頭の中をよぎって止まない。
私は7年くらい前からあるプロの絵に一目ぼれしてそんな絵が描けたらいいなと思って絵を描いてきたのだが、同時にその時くらいから絵を描くことがあまり楽しくなくなったように思う。
たまたま精神や思想、ある程度の技量が成熟する時期と被っただけなのかもしれないが、時期的には、その時のはずだ。
これに因果関係があるのかはさておいて、現状も私は絵を描くことがあまり楽しくない。
一時創作と二次創作の違いだとかいった意見が発生しそうなので一応言及するが、私はここ最近一時創作しかしてない。でも絵を描いてるときは楽しくない。キツい。辛い。
設定を考えたり、ストーリーを考えたりしているときは楽しいが、キャラクターデザインをしているときとか、構図を作っているときとか、本当に楽しくない。
こればかりは断定するが、この感覚の原因は私の不勉強と努力不足でしかない。アイデアが湧かないのは観察力を鍛えることを怠ってるからだし、構図が出ないのも人体デッサン頑張ってないからだ。
創作する過程を楽しめなくなった絵描きは終わり。改めて、この言葉を反芻する。
私は終わっているのだろうか。
いいなぁ、キラキラしてて、フォロワー多くて、絵上手くて、いろいろな人から認められて。
私は全然だ、淀んでいるし、フォロワーいないし、全然魅力的な絵が描けない。
でもこれまで描いてきた。他の人より努力するのが下手で質も量も悪いから他の全てを投げ捨てて描いてきた。
楽しくない程度でやめてたまるか。
楽しくない程度でやめるのか?それは、お前、冒涜じゃないか。いったい何人の絵描きが苦しみながら芸術を生み出してると思ってるんだ。
創作的な活動をする人間を美化するから、絵を描く人が減るんじゃないのか?超えちゃいけない倫理を踏み越えるんじゃないのか?
苦しむのも楽しいんだなんて意見があるかもしれないが、それは言葉遊びに過ぎないだろ。
勿論絵を楽しむことは否定しない、好きにやればいい、勝手にして、その素晴らしい表現を続けてほしい。
どうか頼む、私に絵をやめろと言わないでほしい。
あなたよりも能力の低い人が必死に頑張って泣きべそかいてそうやって描いた絵にもきっとその人なりに価値がある。
楽しくないことを頑張ってる人を否定しないでほしい。
元増田を書いたあとも契約が半ば強引に更新になったのもあったこともあり、毎日疲弊して次の場所も見つけることができずなんとか続けている。
アドバイスいただいた通り、分からないことは「わかんないですねー」っていう風に言うようにはしたが、相手の反応は非常によろしくないように見えるし、
たまに「代案を出せ」と言われて一人困るということが多い。
いまだにわからないことがあったら社内資料(これも末端派遣なのでフルアクセスできないのでほんの一部だけだが)とググリでなんとかし続けている。
ひとつ進展があったといえば、会社の中に調整うまい人を見つけて仲介役になってもらうことができ、トラブルの時はヒアリングや方向づけを
なんとかしてもらえるようになり少しは楽になった。
が依然として、急になんの前触れもなく雑に「新しいシステム入れたい」とか「〇〇のライセンスってどうなってる?」とか
自分がちゃんとしたバックボーンがないのもあり、それが合っているのかどうかもわからないままで非常に心理的安全性がなくつらい。
それでも、自分の経験や力不足の部分はあるし、なにせ社会経験が圧倒的に少ないという経歴や
バイアスから被害妄想になっているだけかもしれないと思い、仕事は受けていはいるんだけれど、もう限界だなとも思っている。
なぜ派遣先が契約を継続したのかもわからないし、俺もなぜ無断欠勤からの飛んでないんだろうかと毎日思っている。
最近、自分のポジションでの応募がありその人を採用しようとしている動きがあり、こんな状態で正気かよと思っているが
次の契約更新では辞められるのではないかと思い、遠い契約更新日を待っている。
更新日が来るか俺の心が持つか、どっちなんだろうか。
昨日のジャンプ買った?
・ 「アイシールド21」という作品にはひとつの欠点もないと感じる信心深い人
増田もそう思ってるよ。嘘じゃない。
看過できない仕上がりだったとも思っている。
なのでここにその旨のお気持ちを記録しておく。
・今回の読切に少しでも思うところがあった人
・「アイシールド21」という作品全体を通じて積年の思いがある人
向けの内容である。
・筆者について
・はじめに
・読切のストーリーについて
・作画について
・まとめ
の順で触れていく。
あと言っておくが「アイシールド21」の21周年は心から祝っている。
おめでとう。読切企画を実現してくれた関係者各位、先生方、心からありがとう。
・往年のアイシールドファン。連載開始から最終話までリアルタイムでジャンプで読んでた
・連載後半は2ちゃんのアイシスレ見たりもしてた(本スレがアンチスレを兼ねる様相で当時はおどろいた)
かきおろし読切の制作が決定したという作者の告知があってからこの日をずっと楽しみにしていた。
完結して十何年もたった作品の続きが読める、
こんな奇跡はまたとない。
発売日、即ジャンプ買って読んだ。
………………。
昨日からSNSは「アイシールド21が読めて嬉しい!」といった歓喜の声にあふれている。作品名でトレンド入りもしている。
いちファンが作品に真剣に相対したいち記録となることを信じてせっせとこれをネットの海に流している。
まずあの話、どうでした?
…とは思えなかった。
というか読切では当然のように「ヒル魔とセナ、双璧のW主人公」みたいな雰囲気が醸されているのだが、
という確認がなされないまま作られている印象だった。
ヒル魔というキャラクターが大いなる魅力や影響力をもっている、そのこと自体に異論はない。
彼の求心力とある種のカリスマ性が、読者並びに各種ファンダムを今なお牽引していることにも異論はない。
(原作者が格別の思い入れを注いでいることにも、この際異論はないものとする)
それでも、少年漫画としての「アイシールド21」に考えをはせるなら、第1話の構造からいっても、
この物語は「アメフトを通して描かれる小早川瀬那の成長譚」でなくてはならないはずだ。
……にもかかわらず、本作はそこをぶらしていった。
連載半ばから、ヒル魔は悪い意味でどんどん主人公化していった。
そしてそれが改善されていないどころか、全面化していたのが今回の読切だった。
思えば、最終話の落としどころはまだマシだった。
セナの結末とは別のレイヤーで、ヒル魔の着地点を描いていたからだ。
最京大・炎馬大・バベルスという別の進路をとり、三国志の道を選ぶ。
ここの3人が対等なライバルとなる結末は、
にもかかわらず読切で披露されたのは
「セナvsヒル魔、NFLにいくのはどっちだ!?」対決………って、
武蔵と栗田の立場がなさすぎて、あんまりじゃないのか????????
(※さらに言うなら武蔵に至っては読切に影も形も出演がないの、本当にあんまりだったと思う。回想の円陣にもいないとはいったい…。
※この点について「読切から興味をもった読者に武蔵の存在を伏せたかった・ネタバレを防止したかったからでは」という擁護意見も目にしたが、
そうであるなら円陣では後ろ姿で顔が見えないように描いたりすればいいだけだし、現在軸の観客ポジションにはいてもいいはずである。
読切の大筋を
という骨子にするのならせめて
セナ率いるドリームチーム vs デビルバッツ創立時メンバー3人が再結成するドリームチーム
…みたいな構図にはできなかったものだろうか。
さらに「AIをしのぐのは人間の勇気」みたいなテーマを(是非はともかく)導入したいのだったら、
半端にセナを主人公とせず、いっそいさぎよく「読切なので主人公はヒル魔です。セナは脇役として登場してもらいます」などとして構成してしまうほうが、
まだ「作者のエゴ」と「読者」と「読切作品としての完成度」、すべてに対して誠実な仕上がりをみたのではないだろうか。
このあたりの整合性のとれていなさ、ちぐはぐさが、読み味の違和感、納得感の薄さにつながっているように思う。
(※余談だが、アイシールドがスポーツマンガとして傑出している点であり特色のひとつに、
「天才と凡人」というテーマを残酷なまでに描いているところが挙げられると思う。
それを思うと、読切からその要素が完全に排除されていたのも惜しむべき点だった。
その意味においても、読切では
「身体能力においてはある種の天才であるセナと、今度はそれに挑む身体的凡人ヒル魔」
といったふうにセナとは別の視点≒ヒル魔視点から描いてしまうほうがいっそ面白かったんじゃないだろうか。
原作者のヒル魔描きたい欲も、キャラファン読者の需要も両方満たされただろうし
本作の新たな面を見せることができたんじゃないか、等々。
後述するが、原作者と編集者はそういった検討すらしなかったのだろうか)
「セナvsヒル魔の試合」という今回の読切が、アニメ最終話の追認に近いものになってしまっていることにも絶望しかない。
アニメのアイシールドはあらゆる意味で筆舌尽くしがたい出来栄えなのだが、満を持した読切がそれと今さらカブるって、そんなことがあっていいのか。
村田先生、みんなご存じ、少年漫画界屈指の超絶技巧ハイレベル画力の持ち主。
すなわち『ワンパンマン』のようなアップデートされた村田先生の作画で、
…というファンの期待は儚くも裏切られた。
今回の読切の作画、
……そうか……。
初期からずっと絵がうまくて、
どんどん画力が凄みを増していって、
20巻あたりになってくると最強に脂がのってきて、
強いこだわりや作品愛を感じられて、
あのすばらしい絵が、だいぶ淡泊でラフな方向へ変わってしまった、
そんな、あの頃の絵柄…
遠くにいるキャラには顔描き込みさえなく、
そんな、あの頃の絵柄…
それを誰も指摘しないままジャンプでお届けされていた、
そんな、あの頃の絵柄………
…………そうか………。
掲載日もガチガチに21周年に合わせているわけではなさそうだし、
読切制作告知はずいぶん前に行われていたし、
そんなこまごまとしたミスをチェックして修正する手間すら…惜しかったのだろうか。
もしや、アイシールド、描きたく……なかったのだろうか。
憶測にすぎないけれど、したくもない想像が膨らんでしまう作画がただただ悲しい。
なぜこんなにも失望感が大きいのか。
失望感を覚えるということは、
そもそも「アイシールド21」という漫画に何らかの幻想を抱かせるような霧でもかかっていたんじゃないだろうか。
その正体は何か。
理由をたどると「原作・作画の分業制でつくられた作品であること」が挙げられると思う。
そもそも、原作者の稲垣先生のほうはそこまでキャラの扱いに手厚いタイプではないと見受けられる。
かと思えば突飛なタイミングで再登場させたり、
桜庭のアイドルヘアや阿含のドレッドをある日突然無慈悲に剃り上げてファンを阿鼻叫喚の渦に叩き込んだり等々
(事実アイシ、ドクターストーン、トリリオンゲームと3本つづけて大ヒットを飛ばしている優れたストーリーテラーであるわけだし、どれもとんでもなく面白いし)
バックボーンを想像させる表情や振る舞いなどの魅力を付与して、
色んなキャラの色んな一面を描きまくってくれた。
別冊として出たデータブックでは各校の全チームメイトの顔カットを100人単位で書き起こし、
人物紹介には毎巻のように「ウォーリーを探せ」のようなぎっしり楽しい一枚絵を用意し、
神龍寺戦完結巻にいたっては、カバー絵などの余白をフルに使って、
アイシはただストーリーが面白い・アメフト題材に新規性があるというだけではなく、
そういう層のファンを獲得したという意味でも、商業的な成功をみた。
これは原作・作画別れているからこその、やや特殊な事例であると思う。
それは村田先生が魔法をかけてシナジーを起こしたキャラなのだ。
そして時を経て、魔法は解けていった。
何かのきっかけで、のっぴきならない理由で、本作を作画することへの情熱が失われてしまったのかもしれない。
読者にそれを知るすべはない。
ともあれ、作画による丁寧なフォローや補足はされなくなり、ありし日の熱量は失われ、
原作がある意味むき出しとなった結果が、連載終盤のアイシールドともいえる。
読切でも、魔法は解けたままだった。
そのことが残念でならない。
長々と書いてきたが、ぶっちゃけ少し真面目に作品に相対していればこのくらいのことはいくらでも思い浮かぶはずと思う。
なのにお出しされてきたのは、
そういう出来栄えの読切だった。
これに関して「編集者何やってんだよ」という視座を欠くわけにはいかない。
読切をつくるとなって、まともな打ち合わせの一つもしなかったのか?
批判されている点は?
少しリサーチすれば情報や感想は玉石混交いくらでも掘り出せるはずだ。
それを作品化するとして、最良の形とは?
精査していればもう少しブレや迷走は防げたはずだ。
編集者は作画クオリティ面にまでは口出しできないかもしれない。
にしても、あきらかな作画のミスを校閲し指摘することはできるはずだ。
「どうせ手を抜いたって、愛がなくたって、ファンなら喜んでジャンプを買い、涙を流してありがたがるだろう」
と、作品の知名度にあぐらをかいた編集部によって読者全員がナメられていること、
それが記念読切から透けてみえてくることが、作品を愛読してきた者として慚愧にたえない。
期待は捨てているけれど、改めて言いたい。
そして少しでも反省したなら俺らに誠意を見せてくれ。
すなわち、ファンもアンチもぐうの音も出ずに拍手喝采してしまうような、素晴らしいクオリティに練り上げた「アイシールド21」短期集中連載とか企画してください。金とアンケートならいくらでも出します。わあわあ言うとりますが未だにアイシールド大好きなんです。よろしくお願いします。ほんとマジで。
『魔王』とか『牛乳を注ぐ女』って義務教育で習うはずだけどオタクにしか通じないのはなぜ?→そういうことをずっと覚えてて一生擦るのがオタクだから、という話
https://togetter.com/li/2299832
>つまりオタクは友達との思い出が少なくてそういう授業の面白いと思った部分無駄に覚えてるってこと?…無駄じゃねえよ!(突如興奮する患者)
>オタクは青春時代の思い出を作れないから小学校の記憶をやたら鮮明に覚えてる定期
>義務教育で習うだろ!?って思って引用とか見たらそもそもそういうの覚えてるのがオタクだけという趣旨のツイートが並んでて膝から崩れ落ちた
>ミームでしか会話しないオタク、コミュニケーション障害ではなくて、単純に会話できるほどのバックボーンがないだけな気がする。哀れな化け物。
>「『山月記』とか『牛乳を注ぐ女』とかシューベルトの『魔王』とか、義務教育でやっているのにオタクにしかネタが通じないのはなぜだろう?」「リア充は文字通りリアルが充実しているので、家族や友人や恋人との大切な思い出のために脳の記憶容量をたくさん使っているからだよ
>オタクがアニメの音楽しか聴かなくて何もインプットされないから音楽知識が更新されず小学生のまま止まってるだけだと思う
>これは本質情報なのですが、多くのオタクはコミュニケーション障害を患っており「面白いワードを言えば会話が面白くなる」と勘違いして文脈を無視してこのようなインパクトの強いフレーズを使い続け、オタクしかこのような知識を持っていないと勘違いしてしまうのです。
ひ〇ゆきなんて1昔前、2昔前なら賠償金すらろくに払えないやつが自分の事棚に上げて正論言ってるとか馬鹿すぎるで一蹴されてた
ところが近年彼のバックボーンすら知らないはずの世代が持ち上げだす傾向が強まり
それと同時に何も実績もなければ人格者でもない研究者でもない失うものが何もないやつが正論を言うことを仕事として金銭を獲得するケースが増えた
「安全」よりも「安心」を求めたり、「反省」よりも「隠蔽」が大好きな日本人と
合衆国で沢山の勘違い無能を大量生産してしまった悪魔の呪文「君は素晴らしい!」アメリカンシンキングが悪魔合体してしまった結果
実行力が伴わないのに自己評価だけ鯨並みにでっかいモンスターたちを老若男女問わず製造してしまったんじゃないだろうか
じゃなければこんなニワカ孔明仕草のバカ相手に注目も集まらないし一定数の賛同も集まるわけがない
言ってることが矛盾しまくっててもインフルエンサー本人と同様にファンも絶対に自分、自分たちは間違えてないと一様に考えている
自分らのことを本当に賢いと思っているなら同じ意見にせよ自分なりに差異を持った考えを持つべきだし
100%賛成・100%反対のような偏った意見になってる時点で難しい事を考えられない脳死だという自覚は持つべきだろ
間違った事は間違ったと認めないと改善自体が進まない、何を練習すればいいのかも分からない
なのに今の生きる人たちは間違いを認める=死という考え方にとらわれすぎているし、誤りを認めないためだけに話に矛盾が生じても平気なのだ
実際問題、トールキンのように神話時代からの異世界構築を行わなければエルフのような、あるいはドワーフ、ゴブリン、オークといった人間種族と生活圏をともにする種族が同衾するような世界はあり得ないのではないか?
おそらくはいずれかの種族が他種族を征服というか虐殺して滅ぼしてしまうだろう。
これは現実世界において、様々に存在していた人類種のうち、現在残っているのはたった一種類の人類でしか無いということで証明している。
神(のような存在)が始めて目覚めさせた(創造した)のがエルフである。
エルフたちは目覚めた当初、文化のようなものを持っていなかったが神のような存在に導かれて高度な文明を築くようになる。
そうしてエルフの文明がすでにある中で登場したのが人間種族である。
エルフたちはかつて彼らが神のような存在に導かれたように、エルフも人間たちの導き手となる。
つまりその人間種族はその登場の時から、エルフは人類を隣人として遇する態度を持っていたのである。
かなり簡略に乱暴に走り書きするとトールキン世界ではこのような設定になっている。
しかし、もしもこのような設定がなかったとしたらどうなるのだろうか?
エルフや人類がそれぞれにそれぞれの生活圏で独立して発展していき、ある日どこかでファーストコンタクトを遂げる。
もちろん、このファーストコンタクトがどの段階で行われるのか?これが重要であるのは言うまでもないが。
人類と呼ぶよりはサルと呼ぶ方が相応しそうな状態、類人猿、類エルフ猿のような状態で生活圏が重なった場合、これはもちろんどちらかの種族が滅ぶまで、吸収するまでの殺し合いになるだろう。
かつて我々の祖先たちがそうしたように。
これは現在の、我々が人種・民族というバックボーン・歴史を抱きながら国家を形成していった道筋に似ていくのだろうか?
エルフ、人類、というような存在が現実世界の人種的なイメージとして共存していく社会ということだ。
これならば何やら有り得そうな話のような気もする。
リアリティがある。
これが最大の難問となる。
考えて欲しい。
我々の現実世界において、ある人種が1000年生きるとしたらどういう社会になるのか?
私達が頑張っても100年生きるかどうかのなか、彼らだけは1000年を悠々と生きるのだ。
このことはかなりの難問になるし、これを解決しないとお気軽にナーロッパ社会が構築されるとも思えない。
だからこそ、神話時代から世界を構築していかないとエルフ問題の解決には至らないし、神の存在が必要であると私は冒頭で主張した次第です。
最近、「タヒね」がことある毎に出てきてしまう よくないことだとわかっていても、「イライラする」「むしゃくしゃする」、そんで「タヒね」となる 例えば『アイラブユーは月が綺麗ですね。じゃなくて愛してるのまま伝えたい(意訳)』とかいう広告だとか、おハイソなバイト先にくる確実に飲食を経験していないオトナに対してとか、ツイッターに流れてくる「聞いて!これほんとにすごい!」から始まる文面とか、俺なんてほんとダメダメすよ(笑)とか言っといてほんとはちゃんとバックボーンある人間のインタビューとか もうありとあらゆる事象にだ いつからだったかはわからないけど原因はなんとなく分かっている 自分が全然うまくいってないからだ なーんだ、ただのクソガキの思春期かと思わないでほしい 当方すでに大学生である なお成人済みだ
おかしいではないか 言語化がうまくできない ただ無性に苛立ちが心を乱す あ、この文いいないつか歌詞にして好きな先輩に送ろう
こんな自分なのに生きてしまっていることへの苛立ちが世界への嫌悪につながっているなんてどんな負のループなんだ
そして、ここで題名に戻る ならせめてこの嫌悪感をうまく言語化したい 山田亮一を、峯田和伸を、野田洋次郎を、見てみろ 感情のポテンシャルで言ったら五月の蝿くらい書けてたっておかしくはないのになぜ私は小学生の如く毎日「タヒね!」と叫んでいるのか(叫んではいません)
ネットのない時代の人間とネットと共に成長してきた人間の感性が同じになんてなりようはない それならネットが私を立ち直らせるべきだと思う 責任、、、とってよね。 戯言だ でも本当に責任転嫁できるならしたいので私の語彙力の低下の一端を担っているネットにつらつらと書き連ねるのである
おやすみなさい
ぶっちゃけドラゴン桜やカイジ持ち出されると、作品の「絵」だけで比較した場合手塚治虫や藤子不二雄と大差なく見える。むしろ前者の方が絵として味があると思う人がいてもおかしくないとさえ思える。
じゃあ手塚治虫は内容の部分で神様だの巨匠だのといわれるまでになったのかといえば、手塚治虫は絵がうまいという人が一定数いる。
それは手塚治虫の昆虫デッサンというバックボーンの情報があるからなのか、純粋に作品から絵のうまさが見て取れるからなのかよくわからない(まあ本人自身漫画は簡易化?して描くものだと言ってたぐらいなのでそれこそ作品から画力を断じるのは間違ってるのかもしれないけど)。
あと先のトラバには上手いけど抜けない絵と崩れてるだろうと思えるけど抜ける絵があると言ってる人いて、そのやり取りで俺が挙げた絵が前者を指してるなら、そいつは支援金だけで月40万円以上得てるんだよな。ホームページに3000円以上のプラン寄付してるアカウントが列挙されてるからそれでわかるのよ。商業エロ描いてるやつでそれ以下の収入で絵もそいつより崩れてる人も確実にいるだろうけど、果たしてどちらが「争い」に勝ってることになるのか。
とにもかくにも商業の世界での評価が優先されて、商業の世界では評価を受けてないけど同人でよく稼いでる人は、商業の世界で少数ながら評価を受けているだけの人に劣るなどと絶対的に優劣をつけれるのか?
そして美大卒で一般にも進出したような商業漫画エロ読んで目が肥えているとか自覚がある人は東方エロ深淵絵師(別に例にあげた絵師に限定してない)には見向きもしないが、逆に一度その深淵絵師の目に惚れてしまってその商業漫画家の作品は読んでない興味もないという人もいるだろう。
「商業の舞台で活躍できるとは思わない」とはさも商業の舞台が上位かのように聞こえるけど、果たしてそうなのか?作品の売り上げ数ないし儲けた額でどっちが勝ってるか比べる方がまだ客観性があると思うけど…(それだって手放しに肯定はしてない)。
しかも創作に対してこういう優劣のつけかたすると、その鑑賞者に対してすら劣ってるほうを好む側は正直審美眼がない、見る目がないと下に見てるようなことしてることになるからね。青春とか捧げて「努力した人の作品が好きな人の方が目が優れてるのかよってなる。大事なのは過程か。
ハマスらテロリスト達が何の背景もなくハマスをやっているわけではないように、イスラエルの右翼も右翼をやっているだけの壮絶な理由がある。
こういった背景があるにも関わらず左派政治家として活動した政治家もいる。イツハク・ラビンである。
平和を実現するには右手で握手しながら左手でナイフを払いのけ、あるいは刺されても握手を継続しようとするとてつもない覚悟が必要なのかもしれない。
これを実行しようとしたのが第一次中東戦争から兵士として参加し第三次中東戦争(6日戦争)において参謀総長としてイスラエルを勝利に導いた英雄でもあるイツハク・ラビンだ。
彼はその確固たる軍歴をバックボーンとしてつつ左派政治家として活動、1993年には首相として歴史的なオスロ合意によりPLO(パレスチナ解放機構)のアラファトと握手した。
他ならぬラビンが決めたことであれば、という背景があってこそ起こせた行動であったがそれでも国内では合意後に数々の抗議デモが巻き起こることになる。
その調印式において、当時の米国大統領クリントンに促されてアラファトと握手するラビンは実に不機嫌で迷惑な顔をしながらイヤイヤやっているんだぞ、という態度を誰が見てもわかるようにハッキリ示していたのが今でも印象に残っている。
しかし、彼はパレスチナ人との和解なしにはイスラエルの未来はないと幾度ものアラブとの戦いに勝利しつつ確信していったのだろう。
そんな彼も結局、ボディガードをつけずに国民と直接触れ合うという政治家としての信念が災いしてユダヤ人の青年に暗殺されてしまう。
もしも彼が今のイスラエルの現状を見ていたとしたらどんな思いを抱くのだろうか?
というか、俺も20年前の時点で「これからは弱者路線だ」と完全に見定めていた。
10年以上前の俺はその路線を意識してネットで振る舞ってたし、実際、そういう売り方でバズる人もいた。
店長のはルーツがだいたいわかる。文芸的な語りの路線で弱さアピールしてた。
「強い男になれない僕の姿を見て、これこそが現実、これこそが真実」ってやつね。
ちなみに俺は学がなかったので、そういう文芸路線は出来なかったし、大嫌いだった。
それもあったので、店長が弱者アピールをするたびに俺は一方的に攻撃した。
さておき、自分が弱者になるにあたり、本当の弱者とはなんだろうと考えに考えた。
そこで辿り着いたのは
「ネットワークでつながる領域の真の弱者、それは友達がいないこと、仲間がいないことである」
だった。
まず頼りになるバックボーンを持たないこと。
甘えると言っても、ファンコミュニティに入ってしまうと仲間を作ってしまう。
ギャルゲーの女の子であっても人格を見つけて「俺と同じだ」と同化してしまったら仲間を作るのと同じだ。
なので、「ただの絵」としてギャルゲーの女の子を見て、その絵にただ縋りつくことにした。
ちなみに、これはけっこうつらい。
ざっくり言うと、当時のやり方としてはケンカを売ることだった。
俺より有名なやつ、俺より学歴いいやつ、俺より頭いいやつ、「俺より強いやつ」だ。
重要なのは、社会的な弱者を相手にしてたら弱者になれないってことだ。
相手が誰から見ても社会的強者じゃなければ、俺は弱者になれない。
しかしこれが難しい。
ネットバトルは頻繁に発生してたから論陣で殴りこむのは簡単だったが、問題はすぐに「仲間」が発生してしまうことだ。
仲間がいたら弱者ではない。
なので同意とか書いてくるやつがいたら、そいつを敵認定して攻撃の矛先を向けた。
弱者アピールするためには、常に弱者で居続けるためには、多数派になってはならない。
ということは、周囲の全てに対し攻撃し続けなければ、弱者とはいえない。
しかし、そうやって攻撃し続けると、被差別者を攻撃してしまうこともあった。
そうなると弱者としてはなりたたない。
現実の学のなさや金のなさで勝負しようとすると、途上国の貧民などいくらでも下がいる以上、ネットでのふるまいでしか弱者になれない。
そして当然だが、大前提として仲間を作ってはいけないので根本的にSNS的なネットと相性が悪い。
SNSが未熟だったころは「友達いない」と言い張れたが、SNSだと「フォロワーいるじゃん」となってしまう。
弱者路線は正解だった(現にいま、こうして流行している)が、限界も見えていた。
現にいま、ほぼ話す友達は誰もいなくなったが、それなりにつらい。
しかし今どきの自称弱者男性は、弱者男性としては全く弱くないと思う。
例えばヒロインの家名をオジリナルで「ハフナ」とかつけたとするじゃん?
で魔王の名前が「ド=ジャゴン」で、辺境の異民族の長が「カィ」で、都の名前は「ナコーナオイス」とか
そりゃ地球の言語に無関係にハチャメチャに命名しようと思えばできるけど、なんでその名前になったの?って気にならない?
健二だったら次男で健康に育ってほしいとかそういう意味があるわけじゃん
オリジナルの名称ならそういうバックボーンがなくてもいいよって人もいるかも知れないけど、俺はそんなふうにやるくらいならラテン語や古代ギリシャ語を借用してくる方が健康的な名付けができると思ってる
ちなみにいま即興でつけた「ナコーナオイス」は「冠詞+ハフナ+土地」という意味の古語が音韻変化したものでヒロインの血筋とも関係してるという設定なんだけど、ハイファンタジー名乗るならすべての名称にこれくらい理屈をつけてほしいの俺は
何を知っとんねんというか、端的に「将来を悲観している」学生にはそういった対応が必要じゃないのって言ってんだよ
逮捕された高校生のバックボーンなんてのは知らんがな。知ってたらどうだってんだ。無責任なこと言うなってか?
もしその子が真っ暗な人生歩んでるとしたらそれこそ大人の手助けが必要だろうが
ほんで、自分から声上げないんだから先ず大人が声掛けないと駄目だろって話よ
「人生とは目の前のことを粛々とこなしていくことです。悲観する必要は無い。でも将来への展望は持て。持たないと広がらない。意に染まないことが目の前にぶら下がって、それをこなす人生になります」って伝えないと
それを聞いた学生や子供がどう反応するかは本人次第なんだよ(実際は無理矢理にでも大人が引っ張り上げてやらんといかんのだが)
みたいなツイート(今はもうツイートじゃないんだっけ??)見たけど、大多数は無関心だとおもうよ?
特に思想を表明しない=反対、ではないっていうのは大前提で自分の考え。
好きあってるならできるようになるといいよね(ただし積極的に動くことはしない)みたいな消極的賛成、法律で認められてないからなあ…っていう現状維持、婚姻に伴う税とかの優遇は次代への期待可能性への投資だから同性婚はちょっと…という制度面故の反対、同性婚とかきめえんだよざっけんなっていう積極的反対、そしてもちろん愛し合う二人がたとえ同性でも認められるようになるべきという積極的賛成。
色々な考えを持っているだろうさ。
ちなみに私は制度面故の反対、だから同性はもちろんちゃんと扶養とかできるんなら一夫多妻・一妻多夫も認める準婚姻みたいなのができたらいいんじゃない派。
少なくとも現状創作を発表できる年齢の人間は、恋愛の一つのゴールとして結婚というものがあるわけじゃん。
それ故にBLGLの物語の終着点…というよりはその後のセックスを盛り上げる前座として結婚する描写があるってだけでそこまで深く考えてないんじゃない?法律も憲法も知らん、どうでもいい。推しが結婚!可愛い!幸せ!さあ結婚初夜エロエロックス解禁スタート!!!あ~今までは抑えてたんだ~~うわーほぉぉ~~エッチですね~~~ってだけでしょ。少なくとも私はそう。
法的に禁じられているからこその背徳、絶対に叶わないからこその美を感じているからこそ現実で認められるのが嫌!って人も中にはいるだろうけど、そういう人は少数派か、いてもそれを表に直接的には出さない理性を感じるんだよ。
創作では認めてるのに現実では認めない!これは同性愛の消費!みたいに言う人が避けられてるのは、その選ぶ言葉が敵を作りやすいのもある。
一次なら合わない人だなって離れるけど、二次という他人の成果を勝手に使ってる人だと自民党とか壷とかのワードくっつけるから余計にうわ…ってなるんだよ。少なくとも私はそうだよ。
でも第一はなんていうかな、積極的にこっちの考えを探ってそれを定義して気にくわなければ差別や消費、自分の思いと合致してれば仲間扱いっていうのがただただ不快。個人的には毒親に類する不快感と嫌悪感がある。
仮面舞踏会というか昔の盆祭りというか、身分も考えも探らないし探られない、ただ今ある情熱に従ってヤりましょうっていう場なのに、仮面なり笠なり剥ぎとられて顔面さらされて、身分階級しがらみ諸々責め立てられてる不快感じゃないかな。
どんな人間でもそのバックボーンを気にせず、ただ共通の目的で自然と集まって自然と離れる場だったのに、その思想に至るまでのことを根掘り葉掘り聞かれたら離れていくし嫌われる。
制度には積極的に反対はしていないけれどアレと同類になんて見られたくもない→だからそっと離脱→離脱理由を正直に言わない程度の理性はある→「私から逃げたってことは差別主義者!」「えっ?!」……みたいな感じなんだよね、こっちとしては。
避けられてるのは同性愛を消費していることを指摘される恐怖や後ろめたさからじゃなくて、暗黙の了解をぶち壊して快適な泥沼をぐちゃぐちゃにしていくお前らが嫌だからだよ!やめろ!この快適な泥沼に精製水をぶちこむな!いやこれ精製水じゃねえ開封して口つけて飲んでから常温放置3日後の水素水だきったねえな!!って感じだよ言語化すると。言語化が下手すぎて嘆かわしい。
少なくとも私は単純に現実はほぼどうでもよくて強いて言うなら準婚姻制度ができてらいいねで、創作物ではBLGLその他もろもろのエッロイセックスが見たい。
それだけ。
バービー×オッペンハイマーの件、宣伝担当の問題であって監督のクリストファーノーランや主演のマーゴットロビーたちは関係ないみたいな擁護が目につく。
私もノーランはほとんど見てるしマーゴット主演作も複数見てて今回も観るつもりだったから気持ちはめっちゃわかる。
これがもし人種問題やホロコーストでもネタにしてたらどうなってたか映画ファンの人ならよく知っているはず。
即座に配給が声明を発表、監督や主演俳優もSNSでコメントしてファンを窘める、不支持を表明する、そういうムーブメントが起こる。
残念だけど今回そんな動きはない。
昨日今日起きたばかりの話ではないしもちろん期間的に全米俳優組合のストも関係ない。
つまり彼らはこれをまったく問題だなんて思ってないということ。
だから抗議するならノーランもマーゴットも対象であるべきだし、「やられた側」が安易に「やった側」を擁護するような動きは慎むべきだと思う。
何を当たり前なと言われそうだけど、来日した彼らの「日本大好きです!リスペクトしてます!」みたいなリップサービスを聞いているとつい勘違いしてしまう。
こちらのことをよく理解してくれてる、味方になってくれるような気がしてしまう。
でも実際には住む国が違いバックボーンが違い価値観がまったく違う。
たとえファンでも迎合したり一体化してしまうのではなく、時に毅然と要望も伝えられるような適切な距離感は忘れないようにしたい。
ハリウッド映画は世界にアメリカを売り込むプロモーションとして機能している。
そこで描かれる戦争は勇ましいものが基本だし原爆や水爆描写というと単なるストーリー中の派手なアトラクションでしかないことが多い。
アメリカのコンテンツが輸出されることでそうしたアメリカの考える戦争観や原爆観が世界に広まってしまう。
幸い日本には自国の豊富なアニメ漫画ゲームのようなコンテンツがあり世界に輸出されて人気が高まっている。
戦争や原爆を直接描いていなくとも、日本人が作るものには戦争は悲劇で原爆のような兵器は悪という価値観が根底にある。
そういう価値観がコンテンツと共に世界に知られ浸透していくことは日本の平和の維持にも世界の平和にも資すると思う。
バービー配給のワーナージャパンはアメリカの本社に対応を求めているという。
どうなるか見守りたい。
大学2年の時にニーチェを読んだ。ニーチェかサリンジャーを読まないといわゆる「基本的人権」が認められない世界観の中で、避けられない選択肢だったので、読んだ。そして意味がわからなかったので、本屋に普通に並んでる様な文化人の解説本をいくつか読んだ記憶があり、その後読んだ年齢の倍以上経てその殆どを忘れてしまってる。
さて、先日「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。何故かネタバレを極端に避ける風潮があって私の周りでも内容に触れる人は極端に少ない。
ただ「理解するのが難解な作品である」といった趣旨の投稿をしている人は何人もいた。
果たしてそうなのだろうか?という疑問を持ったので本増田を書いている。
特にメモをとってわけでもないので、ディテールに齟齬がある部分は勘弁いただきたい。
↓
その後、母親の妹が新しい母親となり、母親の実家に疎開(?)をする
↓
亡くなった母親の思い出もあり、新しい母親に真人は心を開けない
↓
金持ち仕草に抵抗のない父親が車に乗せて初登校をしたため、ガキ大将的な奴と喧嘩になるがMMAの能力があったため圧倒する
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帰り道に石で自分の頭を殴り✳︎1 かつ犯人を言わないという知的な叱られ対策を行う
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亡くなった母親の残した「君たちはどう生きるか」に出会う ✳︎2
↓
ご覧の様にストーリーは極めてシンプルである。そして、✳︎2の描写が本作品の大部分を占めている。
いやいや、おしいれのぼうけんのさとしとあきらのぼうけんは実際に異世界へ行ったのであるよ。そういう人もいるだろうし、多感な子供がおしいれに罰として閉じ込められるという昭和のみ許された罰によって生じた脳への過大なストレスで発生したイマジネーションの中の世界という人もいるだろう。
今回は後者の説をとらせて貰いたい。
真人はあまりに強く石で頭を打ってしまい、かつ慣れない場所でのストレスから母親が残してくれた「君たちはどう生きるのか」に没頭してしまう。
この原著は小学生の時に読んだことがあり、その歳からは3倍以上の歳となってしまったので
あるが、コペルくんという快活な出来杉くんが日々体験した葛藤とかに、「叔父さん」が真摯に答えてくれるという内容で、漫画化されて話題になった時の売り文句を見ても感じたのだが、児童文学の姿を借りた思想書/啓蒙書である。
うっすら覚えている内容も、格差によるキャズムと父親の金持ち仕草でいきなり浮きまくって喧嘩となり、派手な登校拒否スタートとなった真人とは重なる点も多く、「叔父さん」の回答は真人の心に刺さるものが多かったろう。
聞くところによると反戦主義者であった吉野源三郎は、自由な言論活動が抑制された戦前、戦中において、その活路を児童文学に見出したようだ。
吉野源三郎とニーチェの対比については東洋哲学的視点で語る人は少なくない。戦前、戦中においてはニーチェが死んだと評した絶対的価値観と同様のものがこの国に溢れていたのは事実だろう。
そういった意味では吉野源三郎を日本のニーチェと感じる人はいてもおかしくないのだろうけど、昭和の小学生であった自分には全く刺さらなかった一冊であった。
なんにせよ、真人少年はこの本を読み、心の中のぼうけんへとでかける。
庭にある「塔」はよそから飛来した飛翔体で、大叔父は「これは大事なものだから」と新しい建築物で囲った。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」(ルカ5章38節)当時の慣例を無視したイエスは、新しい思想は、新しい環境にて受け入れかし的な意味で言ったらしい。
と宿るじゃ大きく意味が異なるので、この辺も解釈によって随分と違う。
さておき。この大叔父の言っている「これは大事なものだから」は絶対的な価値観で、この絶対的価値観を装飾したり保護したものが戦前、戦中に世に溢れていた「常識」なのだろう。
この常識に対して、「君たちはどう生きるのか」は児童文学というN国ハックを成功し、無事相対的価値観を真人少年に届けることに成功する。
✳︎母親も塔で行方不明になった時期があり、大叔父は姿を消したままなのは、絶対的価値観に対する「疑問」を持ったことに対して、思想警察等の介入を招いたという事なのでは?といった解釈もなりたつ。一方で、隠れキリシタンのマリア像的な「進歩的思想」を表すものとも受け取れるがその場合にはいくつかの齟齬が生まれる。
本作でトリックスターとして描かれるアオサギは古代エジプトのベヌウを始めとして様々な宗教で描かれている。
混沌に現れたベヌウがアトゥムとなりそしてラーとなったが古代エジプト神話の創世記で、ベヌウはその後もフェニックスになったり、旧約聖書で忌むべきものと描かれたりと様々な存在であり続ける。
全てのアオサギは嘘つきだとアオサギは言った。これは本当か?!
という問答が本作ではあったが、アオサギは「相対的価値観」のメタファとして描かれたのでは?と私は思う。
見る人によって、見る時によって解釈が異なる存在は相対的価値観の象徴としてこの上ない。
ソクラテスの良き友人であり、ソクラテスをソクラテスとならしめ、そして死に追いやった「ダイモン」はその後「デーモン」となり絶対悪となる。
アオサギは創世の核から、忌むべきもの、そして後世では聖職者やキリストとしても解釈をされている。相対的価値観の象徴として登場するに相応しい扱いのブレブレさ。
嘘つきを「悪」や「忌みもの」と置き換えたとしても時代、そして答えるもののスタンスでその答えが変わるだろうアオサギをトリックスターに据えたのは、アオサギが不死鳥=火の鳥としての立ち位置だと考えても中々に面白いのではないだろうか?
わらわらが空に舞うシーンとペリカンの登場をみて、多くの人が空襲によって生まれるはずの命が奪われていったのをイメージしたのではないだろうか。
出雲大社をはじめ、神道の結婚式では玉串をおさめるさいに、新郎と新婦は螺旋の様に左右に交わりながら神前に進む。
この「螺旋」という存在は、永劫回帰にもつながる東洋思想の根幹となるもので、すべてのものは平等に無価値で、それぞれが相対的な価値をそれぞれに対して持ち、または持たない。
下の世界は明示的に「地獄」と表記されてたのであるが、おそらく描かれてるのは冥界だろう。
ニーチェが死んだと評したものはそれ以前のキリスト教における始まりのある絶対的な価値観というのが有力な説であるが、その絶対的価値観を作った人物の1人である聖アウグスティヌスが「聖心、自己犠牲」の象徴とし、その後も様々な紋章で愛されたペリカンが魚の内蔵餌にし、上の世界での誕生を待つわらわらの命を次々と奪っていくのは宮崎駿のフラットな「反戦思想」が読み取れる極めてシニカルなメタファーではないだろうか。
ペリカンは第二次世界大戦でも輸送機や爆撃機のノーズアートとして愛用をされていたのは、ミリタリーに造詣の深い宮崎駿なら知らないわけはないだろうと考える次第である。
インコの軍団の描かれかたは、当時の日本の軍部の急進派やポピュリズムに扇動された国民をイメージとさせる。
ところが、インコはアオサギやペリカンの様に何かのメタファとして使われてた例を少なくとも私は知らない。
あえて言えば、ポピュリズムに扇動される一定数の国民は今も変わらない、その人たちはみな同じ様ち聞いたことを繰り返す。
これらに対しての皮肉を込めて、鸚鵡はアレだからインコにするか、となったくらいしか思いつかない。
1シーン、インコたちが「陰謀論者」を彷彿とさせるセリフを言ってたのが気になるが、それにしても偶然の一致だろう。
本作は極めてシンプルな構成で少年の成長の数年間を描きつつ、そのきっかけとなった一冊の本のバックボーンを深く掘り下げた作品だと思う。
ただ、その一冊が示すところは当たり前の様に社会に実存する不条理や、固定された常識を「畜知」として個々の持つ倫理観や、相対的価値観を持って超越すべきと描くものだった上に宮崎翁の表現だ。わかりやすく理解が困難であるところが極めてわかりやすい。
現象界では常に変化が起こり、全く同じ真理などは存在せず、全てのものに等しく「無」だけがその拠点として存在すると、ナウシカで宮崎駿は伝えたかった気もするのだけど、これすら三連休の最終日にしこたまアルコールを飲んで歩くのすらおぼつかない私の中だけの相対的な宮崎駿評である。
なんにしても本作の序盤の数分で感じるスパイダーバース同様の狂気は、宮崎駿存命の間しか味わうことが出来ない、スタッフロールと引き換えに命を削った各コマを作り上げた人々の命の結晶である。時間は貴重だ。一方、チケット代なんて酒を2、3杯飲むのと引き換えられる程度の数字が書かれた概念でしかないだろう。
よっぽど忙しい人や、ジブリや宮崎駿が嫌いな人も最初の10分で良いから見てほしい。
昨晩、地下室からのふしぎな旅を改めて読んだ。柏葉幸子は素晴らしい。
宮崎駿は引退するまでに一回で良いから柏葉幸子作品の監督をやりたいはずと、私は勝手に思っており、君たちはどう生きるかもその色眼鏡で鑑賞するといくつかのシーンから妄想が膨らむ。「鈴木くん。柏葉幸子は素晴らしいぃぞぉ」という宮崎駿の声が脳内で響く。
ジブリの新作がそうでもなかったや…という事実にしょんぼりした理由は、自分に響いたのが
持つ者の冒険譚
よりも
持たざる者の救済譚
だったからだ。
ピンドラについてはいろんな人が言及してると思うから割愛する。
今回は、ジブリの新作がピンと来なかった地味なショックについて書こうと思う。
君たちはどう生きるかの中で印象に残ったのは、黄泉の国という名の生き地獄になっていたペリカンたちが最後あの塔から飛び出して、眞人に「出られたんだ、よかったね」と言われるところ。
そこで初めて自分が、乙事主よろしく老いたペリカンが語った「絶望感」に共感していたのだと気づいた。
扉を開ける直前にお母さんが言い放った「火は得意よ、素敵じゃない!」は普通に泣かせポイントだったからそれはそれとして、
たしか、家族観をめちゃくちゃ大事にする文化を持つ韓国の人たちが千と千尋を見た時に号泣したのが冒頭の「両親が豚になる」シーンだったと聞いた。
それと同様に、半ば宮崎駿の自伝ともいえる今作の通低音が「今を生きる人たちのバックボーン」とは異なりすぎてて、しかも我々のそれが割と地獄めなベクトルへ向いていることを、「自分にピンとこなかった」ことで改めて突きつけられたような気がしたのだ。
冒頭から描かれる「すげえいいとこの家」という事象だけがギラギラしちゃって、内容が頭に入ってこない。
「金持ちの家の子」という要素だけで、「自分とは違う子」として切り離して捉えちゃって、主人公やその周りの人物の誰にも共感できない。
目の前に展開されているのはフルスロットルの宮崎駿なのに、最後までついぞ一緒に冒険できなかったのだ。
金持ち描写一つで足止めを喰らい、あの作品を正面から喜んで受け取れないくらいには、自分が貧しくなっていた。
なんかそれが妙にショックだったというか、悔しかった。
と同時に、かねがね思っていた〝最前線の文化教養は「生存に不安のない者」たちからしか生まれてこねーんだな、そいつらの夢想という名の創作物をありがたがって消費してるのが私なんだな〟という、自分でもびっくりするほど狭量な感覚に襲われた。
ってゆー結論になっちゃうのがどうしても悔しいからもう一回観に行きたいなとは思ってるんだけど、Twitterとかで「とりまもっかい見る」つってる人たちの心の中、なんか同じような感覚の人いない?
ねえいない??
同じ内容自分のブログに書くかもしれんがそんときは黙ってスルーしてください
メインシナリオ公開部分までは終わらせた
まあ、想定はしてましたが
エデン条約が一番盛り上がる、というのは読んでて分かったが、
キャラ背景もバックボーンも学園間対立の描写もそこに至るまでに特に見なかったので、
テキストの技術として盛り上げてるのはわかるが、面白い、出来がいい、という感想にはならない
減点されそうなとこを減点される前に消しとく感じ
もちろん、今どきのSNSでの盛り上がりはこのぐらいのを神シナリオと持ち上げるのは通常運営なのはわかってるので
いやそうか? 攻めた性癖ってプリコネのリマとかを言うのでは? となりがちだし
ペド方面でいうとリトルリリカルのミソギのガチ感のがヤバない? となりがちだし
グラフィックでアカンやろっていうと白夜極光のガルーのが完全に素肌に色塗ってるだけなじゃない? となりがちだし
うーん
いや、ガチだと手出ししにくいから、ちょっと手垢ついて無難なほうがSNSで盛り上がるのはわかる
二次創作的にも原作が完成度低い方が手出ししやすいのは常識だし、二次創作で盛り上がるのもわかる
しかし二次創作で盛り上がれるものを最優先で神と持ち上げてしまうと、
本当に攻めてるもの、尖ってるものの情報って手に入らなくなるよなあ、みたいなことを再確認する内容ではあった
はじめに
想像以上に燃えてた(笑) https://anond.hatelabo.jp/20230609153447
残りの学生生活を楽しみながら有意義に過ごし、皆様のように自立して生きていけるような社会人になれるよう頑張ります。
文学部でよかった!
文学部行きたいと思って入ったよ〜!
おもんない、つまんないってブクマ?でコメントするのなんで?笑
最終的に自分の意思やで!文学部意思があるならいいと思うよ!私は文学部で個人的にはありがたいことに満足就活できました!のポジティブで締めたつもりでした。宗教論争を増田でしちゃダメだな〜って思いました。文系云々に関するトピックというか学部叩きはタブーぽいですね。
今まで思ったことネットに放ちたいな〜と思って書いたものを匿名性の高いここにしたのですが、記事に対するリプ?だけじゃなくブクマでもご意見書けるのですね(^^)
以下いただいて印象に残ったご意見
→すみません(><) 諸先輩方の意見たいへん参考になりました。これから頑張っておもしれ〜大人になれたらなと思います。
○長い、読みづらい、読まない、途中でやめた
→ワードで書いたものをそのままコピペしたので増田での1行の長さとかわからずに読みづらくなってしまいました。初めて書いたのではてな技法?とかも初耳でした。大幅に改編するのは恥ずかしかったのでちょっとだけ改行入れたりしました(><)チャットGPTで今北産業みたいにしてくれた人ありがとうございます。著者属性とか文章の雰囲気で辞めた人は正解ですよ〜。無料で読める文章のいいところですから。有料記事だったらどんだけキモくても最後まで読んじゃいがちですよね。
○学んだことや就活での経験を活かして簡潔に書けるとよかったね
→あなたがベストオブハイパーちくちく言葉第1位です!これから頑張ります!!!!!
○(涙)で説明した気になってる
→すみません(涙)
→ごめん(><)
→私が会社を決められたのはなんとなく将来の夢を高校生の時に持った上で学部を決定してブレずに勉強できたからなのかなと振り返って思いました。この学部で大学を卒業してから就職したいと高校の時に思ったので就職と学部を結びつけるような学部選びになりました。
→ごめん(><)文学部やめとけ→文学部考えてる人は読んでね的な意図でしたが真面目な高校生は増田なんて読んでないなとネットに放ってから思いました。文学部生の数だけ人生があるもんね。みんな偉いです。
○この人他学部でも変わらなさそう
→わかる〜心の声をネットでクソデカ声でぶちまけてる時点でお察しですよね^_^
○その文章(笑)だから就活うまくいかない/社会性に問題あるからうまくいかない
→ESは広告/マスコミ/映像はウケがよく(通過できて)、歴史の長いメーカーはダメダメでした。そこでメーカーは向いていないんだなと思いました。/好きな授業を好きなだけとって、学校遠いのでサークル・部活入らずだった結果授業やグルワでは話すけどそれ以外では他人みたいな関係しかできなかったです。インターンで知り合った人や高校時代の友人と楽しくできたので困ったことはありませんでした。出席も課題も自分で全部できる人だったらこういうタイプ意外にいそうだけどな〜。
→たしカニ〜〜。
○お前は実家都会だし大学行ってるからじゅうぶんに上位、スペック高いよ
→どうしてもTwitterの就活界隈や受験界隈を見たり自称進出身の背景があったり、高学歴・ハイパーガクチカが集う業界を志望していたりしたのがあって自分のことを上位層だと認識していなかったです。生まれた家はすごく恵まれているなと感じています、進学先に文句を言わず大学に行かせてくれたことも含めてこれから親にたくさん優しくしていきたいです。
→現在大学を卒業されて社会でご活躍のことと推察いたします。先輩方のように自分の力で生活できるようにこれから頑張ります。私の代わりにいいとこ書いてくれた人もありがとうございます。文学部でよかったな〜とより思います。
○別に読めるよ〜って書いてくれた人
○木簡読める?
→読めないです。木簡をはじめくずし字の文章が読めるのは文学部の中でもさらに国文か歴史専攻で、その上で中世らへんを専門としていないと読めないと思います。米主さんは相当努力されたのですね。
さいごに
文学部哀れ増田は私の怪文書とブクマコメントと記事へのリプを合わせて完成すると思います。ピークが終わった頃に本来読んで欲しかった受験生とかそのパパとママが読んで進路決定の一助にしてくれればと思います。色々なコメントがつくほどに進路を考えるヒントが増えるんじゃないでしょうか。不快にされた方がいたらごめんなさい。
「就活を経験したくらいで文学部は止めとけとかクソ浅いはてな増田読んで共感性羞恥でしにそう。いやー、これくらいの経験で語っちゃうよね分かるー。
文学部でいいよ。俺は文学部の新卒でエンジニアだしとくに不自由ない。文系とか理系とかはCSやってから言え」は米欄で言え!!!!!!!!!!!!!!!!!数弱からしたら文学部卒SEはかっこいいし私には絶対できないすごい仕事だと思うから仕事頑張ってな(^_−)−☆