はてなキーワード: 音韻とは
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「味はふ」「手伝ふ」の五段活用の「はひふへほ」が「わいうえお」に音韻変化したのであって、一旦「あ」を経由して「わ」に変わったわけじゃないだろ
横だけど気になって仕方がない
君は日本語何派だ?
日本語は、孤立した言語のひとつとされ、その系統については定説はない。
本項目では、主として日本語が他の言語から派生したとする仮説に基づいた、日本語(日琉語族)と他の言語(語族)との系統関係(日本語系統論ともいう)について解説する。
日本語(本土方言、あるいは日本語派)と琉球列島の琉球語(琉球方言、あるいは琉球語派・琉球諸語)との系統関係は明らかである。
国際的には、両者を別言語とみなし、合わせて日琉語族を形成するという立場が一般的であるが、日本語の起源論では、琉球語と日本語の系統関係は証明済みとし、「日本語の起源」という言葉で「日本語+琉球語」全体(日琉語族)の起源を論ずることが一般的である。
これまでにいくつかの系統関係に関する理論仮説は出されてきたものの、総意を得たものは無い。換言すれば他言語起源の論拠は一切無いが、これまでの理論仮説で、類縁関係が強いと主張された言語系統には、以下のものがある。
朝鮮語とは文法構造における類似性が非常に高く、基礎語彙については一部単語の類似性が指摘されているものの相違な点も多い。音韻の面では、固有語において語頭に流音が立たないこと、一種の母音調和があることなど、アルタイ諸語と共通点がある一方で、閉音節であること、子音連結の存在、有声・無声の区別が無いなどの相違点もある。
死語である高句麗語とは、数詞など似る語彙もあるという説。高句麗語は扶余諸語の一つであることから、扶余諸語との関係との見方もある。
アルタイ語族仮説では、日本語、朝鮮語は共にアルタイ語族の一員とする。朝鮮語との関係と同様に、文法構造での高い類似性、音韻面での部分的類似性がある一方で、基礎語彙については同系統とするに足るだけの類似性は見出されていない。
オーストロネシア系言語は、文法・形態は日本語と異なるが、音韻については発音体系が比較的単純で開音節であるなど日本語と似ており、基礎語彙についても一部類似性が指摘されている。
また、日本語をオーストロネシア系言語とアルタイ系言語との混合言語だとする説もある。しかし、近年の研究ではオーストロネシア系言語は古くは閉音節だったとされ、また語彙の類似性についても偶然の一致の範囲を出るものとは言い難い。
例えばヒロインの家名をオジリナルで「ハフナ」とかつけたとするじゃん?
で魔王の名前が「ド=ジャゴン」で、辺境の異民族の長が「カィ」で、都の名前は「ナコーナオイス」とか
そりゃ地球の言語に無関係にハチャメチャに命名しようと思えばできるけど、なんでその名前になったの?って気にならない?
健二だったら次男で健康に育ってほしいとかそういう意味があるわけじゃん
オリジナルの名称ならそういうバックボーンがなくてもいいよって人もいるかも知れないけど、俺はそんなふうにやるくらいならラテン語や古代ギリシャ語を借用してくる方が健康的な名付けができると思ってる
ちなみにいま即興でつけた「ナコーナオイス」は「冠詞+ハフナ+土地」という意味の古語が音韻変化したものでヒロインの血筋とも関係してるという設定なんだけど、ハイファンタジー名乗るならすべての名称にこれくらい理屈をつけてほしいの俺は
日本における弥生系の人々の中心地であろう関西の言葉のアクセントパターンが他の地方の方言に比べてトーン言語の特徴をより強く帯びている点や、助詞の省略が多くて孤立語的な性格がやや強い点を考えると、どうも弥生人の主流は中国南部から(おそらくは朝鮮半島南部を経て)日本へ来たという説が説得力があるように思えるのだが。
音韻ぜんぜんなってねェ♪😫
ここでいう「ラテン語」というのは古代ローマで使われていたものではなく「中世ラテン語」なんだよ。
中世ラテン語(ちゅうせいラテンご、英: medieval latin)は、中世にカトリック教会で文語として用いられたラテン語である。
現代におけるラテン語と同様、あくまでも第2言語として使用されたものである。
各使用者は必ず別の言語を母語としてもっており、そうした諸言語の特徴が、音韻・文法両面で、中世ラテン語に大きく影響している。
現代でも学術用語として似非ラテン語を使ったりするけどそれに近い。
つまり中世ラテン語としての「sectio caesarea」というのは一種の造語なんだよね。
そして、だからこそ由来がはっきりしてないわけ。
海賊版サイトでfakku等によって原本から翻訳されたものが幅を利かせせているので、本来なら原本を買えば済む話なのだが、とにかく日本人側は翻訳版の再翻訳をしなければならない歪んだ状況に立たされているという話になっていた。
そういう話の流れで出たのが双龍の漫画「こういうのがいい」ってどの言語でも訳せなそうだよねという話だった(あえて言い古された「ちんちん亭」には触れない)。
もちろんこれは「こういうのがいい」の翻訳版を謳うものが出た場合は既に元の台詞回しのニュアンスが壊れているはずなので、また原本の日本語自身が独特なので、元の台詞を復元することは困難であるという含みもある。
台詞回しの一例をあげてみよう。
女:ワキガチェックしてくれたまへ
男:剃り残しがございます
女:うむむ…永久脱毛の金を稼がねば…って違うぞ違うぞぉ?臭いはどうなんじゃ
男:…なんか甘いんだが
女:スイーツだと
文章の随所において終助詞など細かく拘られていて、独特のテンポが形成されている。
ただ何より注目すべきなのは、このピンクの美少女が「違うぞぉ?」とか「どうなんじゃ」とか中性的かあるいはどちらかといえば男性的な口調でものを言っていることだろう。
この言語的倒錯が生むチャーミングさといったら一体どう翻訳すれば保存できるのだろうか。
たとえば英語圏にも男性口調とか女性口調の区別は確かにあるのかもしれないが、ただ女性に男性口調に相当する言葉を言わせる「ずらし」でそれは再現可能なのか。
上記の男口調は、俺妹にも拙者が一人称の男言葉を使う女はいるが、あの口調ともまた、それが放たれたときに読み聞きした側が感じる空気感というか味わいといったものが異なると思う。
つまり同じ言語内における言語的倒錯についても、ずらし元とずらし先の違いによってそうしたニュアンスが異なってくるのに、その各ニュアンスを別言語において再現可能なのかということだ。なかなか難しいものがあると直感される。ちなみに現代の女性が「たまえ」というだけでも面白いがそれが「たまへ」と表記されたときの独特の滑稽味もまた再現し難いだろう。
もう一例あげておこう。場面は風呂場の脱衣所で男女が裸になっているという状況だ。
女:ふいータオル貸してー
男:いいよーっておいそれ昨日使ったやつだぞ洗ったのあるよ
女:いいよ別に乾いてるし
女:むっ雄の香り
男:えっ?酸っぱい?お酢?
女:ちゃうオスメスの雄w
やや育ちの悪そうな自然体の男女カップルの会話が自然に、あるいは少し技巧的過ぎるかもしれないが、素晴らしい具合に再現されている。ちなみにネカマするならこういう本からこそ口調を見習うべきだろうとも思う。
後半の雄とお酢の畳みかけは、男の受け答えが女の意図したいことに対してあながち間違っていない(絶対酸っぱい匂いがするという意図もあったはず)という点も含めて言葉遊びとして面白い。
しかしこうした言葉遊びの翻訳は後述するが映画翻訳業界では十八番のようなもので、比較的なんとかなる類のものかもしれない。
さらに続きを見てみよう。
女:乾かして―
男:なんで至れり尽くせり体制なん
女:頼むぅいいじゃんよぅ
男:だが断る
女:えぇなんでー面白いのになー
女:でも勃起サイズアップするらしい…ってあれあれ~?復活ですかー?
男:いや刺激与えたらそりゃな?
もはや語尾の小文字と長音符の使い分けなど、この作者の文体の妙を説明するうえでは些末な類だろう。
「至れり尽くせり体制」などの日本語母語話者が談話においてしがちな咄嗟な造語はどう訳せばそのニュアンスを海外の読み手にも届けられるのか。
伏字になってない伏字も面白味があるがこれは比較的なんとかなりそうだ(相変わらず女の使う「だぜ口調」が翻訳の難所になろうが)。
男がジョジョの言葉を使っていることも注目しておきたい。誤用であるかもしれないことは作者も承知している可能性があるのであえて触れないとして、こういったものはどう訳せばいいのか。
そもそもこういった台詞は元ネタを知っているかしないかで同じ日本人でも読んだときの感覚は異なっているだろう。
結局ジョジョが世界的に有名な作品なだけあって、その言語圏で出版されているジョジョの該当セリフをそのまま引用してあげれば割とスムーズに我々が感じているニュアンスを届けてあげられるのかもしれない。
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ある言葉が翻訳可能かについては、そもそも出版や映画の世界の翻訳技術の長年の蓄積があるのだから、薄っぺらなのは承知でこれらにも触れておく。
先述したが言葉遊びの部分を別の言語に落とし込むことは映画翻訳が得意とするところである。
その言語の音韻体系でしか成立しないだろというものもうまく落とし込まれているものである。ぴんと来ないなら参考にtedの生音声と字幕を比較してみることをおすすめする。
「ぼくのワンダフルジャーニー」の原題は"the dog"である(the objectを「遊星からの物体X」と訳すのとは似て非なる事情だと思う)。
素人目にはどうしてこんなアクロバティックな翻訳な成立するのだろうと思わずにはいられない。
逆に向こうの人にとって"the dog"という訳はどういう印象を持っているのか?個人的にはお堅い文学的な味わいすらも感じられるが、それを母語とする人にはひらがなで「いぬ」と書いた程度のニュアンスまで幅広くカバーしているのかもしれない。
「いぬ」と「ぼくのワンダフルジャーニー」なら、まずまず対応していると言えなくもない…か?
あるいは端からニュアンスを丸ごと保存しようとは翻訳家も考えないものなのかもしれない。
その文章の文体やテンポが、鑑賞者にとってのニュアンスや味わいに対して重要な要素としてどれだけ影響を与えているか、支配しているかということは弁えているものなのかもしれない。
たとえば注意書きの文章をテクニカルライターとして翻訳するにあたって、日本語の注意書き、特に箇条書きが持つ淡泊さを独特のニュアンスとして捉えその存在性を肯定することはできるかもしれないが、日本人が注意書きを読むにあたってそのニュアンスを重要としていないのと同様、そのニュアンスが保存されているかどうかにまで気配りする必要はないだろう、という具合だ。
とっくの昔に源氏物語が様々な言語に翻訳されていることも押さえておくべき事実だろう。
これもまた古文が持つ独特の味わいをどう翻訳しているのか、あるいは翻訳を放棄しているのかという話になる。
日本人の心には中等高等教育を経て古文単語に対して、仰々しさをはじめとした独特の感性が培われている。
その感性を通してこそ「変態糞中納言」は独特のギャグとして成立するわけだ。
しかし源氏物語にはギャグの要素はあったとしても重要ではないだろうし、結局助動詞とか係り結びに使う助詞が持つあのニュアンスは全部放棄しているのだろうか。
アーサー王物語時代の古英語でも使えばあるいは教養ある英語話者に似た味わいを感じてもらえるかもしれないが、これは英語圏の人間に限られる手法となってしまう。汎用的な手法を見出せないものか。
ところで海外の人が日本のアニメを字幕付きで見るということが大いに行われている。
主観になるが吹き替え版は可愛くない。仮に可愛いのだとしても、少なくともそれは日本人声優の演技とは別質のものである気がする。そのあたりにもなにがしかのニュアンスが宿っているかもしれない。
そのニュアンスは非言語的な要素が持つものであって話がずれていると言われればそれまでだし、因果関係上は先に生の動画があってその日本語が分からないから字幕をつけているというものに過ぎないわけだが、とにかく日本人声優の演技というのも、字幕の持つニュアンスを補うための日本語の音声という側面があると私は解釈している。
私なりに長々語って来たわけだが、私の関心はあくまでこうした「多言語に訳せない言語」が日本以外に諸言語にあるか、それにはどういった事情があるかなどといったことであって、巷で言われるような「日本語は難しい」的な自言語を特別視する態度は持ち合わせていない。
むしろ浅学でわずかな日本語と英語の例で比較したり考察したりすることしかできないのが嘆かわしいぐらいである。
戸田奈津子や村上春樹や、最近だと東大に40言語話せるハイパーグロットがいるらしいが、彼らに自分が「訳せない言葉」と思うものを持ち込んで翻訳をお願いし、その翻訳作業をじっくり見学したいものである。知見も深まるというものだろう。