はてなキーワード: 自伝とは
わたしも同じ傾向を持ってる。
「過度に一般化された自伝的記憶(Overgeneral autobiographical memory)」という名称がついてるらしい。
鬱病との関連性が強いのだとか。
わたし自身はそれを問題だとは感じていなかったのだけど、パートナーと暮らしはじめてエピソード記憶の欠落を申し訳なく思うようになり、それで大量に写真を撮るようになった。
日付のあるイメージの繋がりがあれば、そこそこエピソードを思い出せる(あるいはその場で再構成してる?)ので。
案外普通の人たちも、定期的に思い出を人に話すことでエピソードを編集したり定着させたりしてるのかもしれないと思ったりもする。
でふと思い出したんだけど、スナフキンか誰かの台詞で、「旅の思い出を人に話すと、人に話した記憶ばかりが残ってしまう(ので思い出話はしない)」みたいなのがあった気がする。
だからなんだという話だけど。
この3部作やエッセイ漫画「ほのぼの劇場」からさくらももこを追いかけてきた人は大体似たような気持ちになったんじゃないだろうか
そんなことない?
そしたらごめんね
とにかく、メルヘン翁で爆笑し、ぶさいくで憎たらしい猫の残した抜け毛で涙した
海外で豪遊、宝石を語り、ビートたけしが自宅に現れ、みーやんと結婚、ビートルズで離婚、よくわからん男と再婚、そして死んでしまった
その間にはまじが自伝を出したりしたけど、まあそれはいい、読んでない
もうね、読者とエッセイ内の自分との距離感?みたいな?バランス感覚?みたいなのがどんどん消えていってしまった
会社で居眠りして原因を問いつめられ、マンガですと格好良く答えた挙げ句クビになるみたいな
みんなそうでしょ?
え?ちがう?ごめんなさいね
別に死人にむち打つわけじゃない、好きだったのは本当なんだ
難しいね
そんなに難しい話かな?
人によっては「これを真似したら成功するに違いない」と信じてしまう
こういうのは「◯◯したら必ず成功する」とは言わない
例:田舎からスタンフォードに入った←実は環境が特殊で才能もあった
成功確率が低かったり、特殊な環境、才能が必要なことを隠しつつ
誰でもできるよ!みたいな論調で話すのはこれもう半分詐欺で邪悪度が高い
騙そうとしている
例:未経験でも半年でフリーランスエンジニアになって年収1000万稼ぐ方法
例:「田舎からスタンフォードに入った」という本を買わせ、努力を求める
夢を追わせるパターンが今回のような本
邪悪度はかなり高い
本なんかは普通に出回ってるけど、洒落にならない人数の数年が奪われていると思う
今回のはエンターテイナーとかスポーツマンよりかは努力が無駄にならなさそうだから邪悪度は低いように見えるが
おそらく「頭がよく恵まれた上に奇抜な格好した人がやってる」でかなり反感を買ったのだと思う
これがスポーツマンとかの「田舎からメジャーリーグ行った」みたいな本だったらここまで燃えないと思うよね、当然反感は買うけど
・成功確率が低い、なんならノーチャンスであることを隠し、誰でもチャンスが有るような書き方をする(特殊環境や才能を隠す)
・金を払わせる
・労力を払わせる
世の中こんな本ばっかだけどね
・少なくとも、スマホの主観視点になっていないシーンは編集済み=虚構。ほかのシーンについては解釈の余地あり
・どこが虚構でどこが現実かについては作者にとって重要ではない。重要なのは読者が気持ちよく思い出を残すこと。
・爆発オチや、思いつきそうな感想を先回りして潰して大量に予防線を張ることで、まじめに言及したら負けのような状態を作っている。多少の言い訳なら鼻につくところだが、やりすぎることによって逆に面白くなっている。
■本作は五重構造になっている
②を映画にして上映したが、盛大に失敗。謎の女と共にリベンジで映画作る主人公
あとは無数の映画のオマージュ、それから作者の過去作や実体験も重なってくる。
身もふたもないことを言ってしまえばすべて虚構。なぜなら最後の爆破オチは現実ではありえないから。また、マンガなんだから全部虚構だろともいえる。ただ、それだと何も言っていないのと同じなので、作中世界で起こった事実を基に編集によって脚色されている、と捉える。じゃあどこが事実でどこが脚色なのか?これは作中でわかりやすく表現されている、主観/俯瞰視点と、手ブレ表現を手掛かりにする。この二つを抑えておけば切り分けできる。
■①
最初は主観視点でスマホ撮影している。全体を通してだが、移動シーンやシーンの切り替えの際は、いちいち手ブレ表現を入れている。このへんはいわゆるドキュメンタリー映画の王道表現なだがマンガでこれをやって読者に伝わるのか?
18P、主観視点になっていない=スマホで撮っていないので編集シーン。ここテストに出ます。
P19、雑な爆発シーンは後付けであることが容易にわかるのだが、P18の構図には映像を取っているはずの主人公が映っている→誰が撮影している?→後撮り。さらに、P123において優太は車から出ていないことが示されており、そうするとP16からすでに父親が演技していることまで疑えてしまう。
■②
P21の俯瞰視点、これは何をどうやっても後撮りでないと撮影できない。P23も怪しい。P27はスマホで隠し撮りしているとすれば後撮りでなくても可能。そして最初の作品批評がここ。読者の思ったことをわざわざ言語化してくれているのが、逆にこの作品の非常に批評しづらいところ(どういう感想をつぶやこうとしても、作品内で先取りされてしまう)、そのまま引用。
★"母親の死を冒とく"”あんな映像流して母親に申し訳ないと思わないのか”そして極めつけの"ラストなんで爆発させた?"
続いて自殺シーン。P32のメメントモリ、は死を思え、という慣用句だが映画の文脈では映画メメントを思い出させる。いっそメメントみたいに時系列シャッフルすればよかったのに、と思うところだが、実は時系列が編集によって巧みにシャッフルされているという捉え方もできる。実際にリアルタイムでスマホで撮った映像と、後撮りした映像がシームレスに混ざっているが、普通にマンガを読んだだけでは気づかないようになっている。もちろん全部後撮りの可能性もあるが、それだと考察のしようがないので手ブレしてるところは本物と考える。
P39、作中で言及されている通り本来は眼鏡かけてて矯正もしているので、A.めちゃくちゃ頑張って撮りためた映像をソフトで編集した、B.わざわざ撮影のために演技して撮り直した、C.完全なる創作かの三択となる。中学生の技術力を考えるとBかC。
P45、プロジェクターの真ん前にカメラを置いているから、完全に後撮り。ちなみにここで映っているのは映画ファイトクラブ。ファイトクラブは、本作のどこまでが現実で空想かわからないというネタ元の一つになっている。話がそれるが、ファイトクラブといえば選挙演説で有名な外山恒一の批評が異様に完成度が高く、未視聴でも必読。ほかにもメタ構造のネタでヒットしたカメラを止めるな!も思い浮かぶ。あとニューシネマパラダイスとか、そもそも本作のタイトルとページ数の元ネタであるぼくのエリ 200歳の少女など、挙げればきりがないと思うし俺なんかより作者の方が100倍くらい映画をみてそうなんでネタ元を挙げ切るのは不可能だが、個人的にはこのへんの映画を思い出した。
★P52、作品批評"どこまでが事実でどこまでが創作かわからない"。
P63、二人はしばらくずっと映画見ているが、ここもプロジェクター視点になってる。ちなみに、このひたすら映画を見て感想言う特訓だが、これは作者自身が過去に編集と似たようなやりとりしてたことを過去のインタビューで語っていた。
★P79にて、これも一応作品批評になるのか、一見意味不明な爆発シーンを入れた動機が主人公の口から言語化されている。
★P82で、作品のテーマである"ファンタジーをひとつまみ"=吸血鬼と爆発要素。
P84で、①のネタばらし。実は母親の嫌なところは編集でバッサリカットされていることが判明し、作中描写に編集のウソが混ざっていることが明示される。
★P86にて自己分析という体で、①を批評している。"主人公の抱えている問題は…多分…映画をバカにされた事じゃなくて…母親の死を撮らなかったこと"そして、吸血鬼が死ぬシーンの説明。
P87で絵梨が意味深に沈黙しているシーン、ここで彼女の死期が近いことが偶然にも主人公の提案したプロットと被ってしまい、その動揺を表すために意図的に同じコマが挿入されている。動揺しているからこそ表情が動かないというのは逆説的だが、P85の喜怒哀楽表現との対比により、余計に目立つ。P85~86も過去回想シーンのため、編集。
P90~P93もそう。意図的に沈黙を配置することで画面に緊張感を作っている。さっきの彼女の沈黙と比べるとわかりやすい。こういう間を作る表現は、週刊連載のページ数に囚われないからこそやりやすい表現で、電子掲載の特性が生かされていて良い。
★P93~の父親の名演技。これも作品批評になっている。"自分が面白いと思って作った作品が馬鹿にされオモチャにされたらまともじゃいられないんだ"。
前のルックバックに対する批判を思い出す。ちなみに作者の自伝的要素としては思い当たるふしがもうひとつあって、チェーンソーマンの前作ファイアパンチでも作中のある印象的なコマが切り取られて海外(主に4chanの/a/)でネットミームというおもちゃになっている。"kino meme"で検索したらたくさん出てくる。
P97、この父親の怒りすらも演技という体。父親に作品批評をそのまま言わせてしまうのとわかりやすすぎだが、あえてそれを"演技ですよ、本当はそんなこと思っていませんよ"と自虐的にネタにしてアピールすることで、ネタにマジレスを防ぐと同時に、この作品のテーマの一つである虚構と現実の境目がわからない状態を作り出していて一石二鳥となっている。
★P99、ここで批評をもう一発かましてくる。"創作って受け手が抱えている問題に踏み込んで笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?作り手も傷つかないとフェアじゃないよね"
ここは非常に巧妙で、さっきの作品批評がわざとらしい感じだが対比してこっちは本音を語っているように見える。傷つきはするけどしょうがないよね、そしてなにより、創作ってのは受け手も傷ついてなんぼのもんだろ、という主張を相当オブラートに包んで発言している。
P100、"今のセリフいいでしょ?"とこの本音を語っているように見せた発言すらメタってしまう。これすら本音ではないと言っており、さすがに照れ隠しじゃねーのと思うが予防線になっている。
P108。最初の出会いが病院なわけで、何らかの病気であることは元々暗示されていたが、ここで絵梨が倒れこみ、病気の存在が劇的な形で示される。手ブレにより躍動感が表現されていて気持ちがよいがこれ伝わるのか?(2度目)。
P109、病院では一切手ブレがなく動と静の対比。P117、①のような素人臭い動きの画面が続き、主人公の動揺する心理が表れている。この漫画ほぼモノローグがない代わりに、マンガなのにもかかわらずこういうカメラワークでの映画的表現をうまく使って心情を表現していて、作者はやはり天才か?となる。
P122、お母さんの性格の悪さが開示され、①はかなり編集が入っていたと判明する。ただし、嘘だったとしても、思い出を美化するのはいいことだと主張している。
★P130、作品批評。"優太はどんな風に思い出すか、自分で決める力があるんだよ それって実は凄い事なんだ みんながどういう風に絵梨ちゃんを思い出すのか 絵梨ちゃんは優太に決めてほしかったんじゃないかな……"
ここは今までと違って、一切茶化していない。編集により現実が捻じ曲げられる恐ろしさというネガティブな側面を前もって提示しておきながら、でも思い出を美化するのもいいよね、と肯定する流れ。否定的にしたいなら順序を逆にすればいいだけなので、これは割と「作者がほんとうに伝えたかった事」としてとらえていいんじゃないかな?と思う。
P131、編集シーンが入ることで、②もまた生の現実ではなく、美化された思い出、編集された虚構ということが暗示される。
■③
P151にて場面転換。
P155、本来の絵梨は矯正している、眼鏡をかけていることが明らかになり、②のネタばらし。P130~132に対するわかりやすい答え合わせになっている。
P164、ここから主人公のモノローグ。終盤の展開がモノローグではしょられるの、低予算あるあるで笑える。本筋じゃないし時間内の200Pに収まらないからカットされたのかもしれない。そうなると、ディレクターズカット版の単行本では未公開映像が流れるのかな?
P167、低予算映画あるあるの、父親役と本人役が一人二役なんじゃないのかという考察を見たが、見た目違うとはいえ割とありそう。
■④
P177、ここにきて見開きばーん。P151以来のタメがあるのでとても気持ちが良い。①~④の間の場面転換すべてに共通して、見開きが挿入されたタイミングで、作中作→現実へメタ構造が切り替わる仕組みになっている。そして、さんざん言ったように主観視点になっていないので、これはすべて後撮り。よって吸血鬼は実在しない。Q.E.D. あとこれ面白いのが、絵梨がメガネしてないし矯正もしてないところ。この吸血鬼は映画の美化された絵梨を真似しているため、見た目も現実ではなく映画準拠になっている。
★P180、"そうかっ 夢か…… それか僕のイカれた幻覚で…"とわざわざ口に出して言う。
映画のタイトルだけ羅列してもわかりにくいので、夢か現実かわからない状況を読者向けに解説する。あとシックスセンス、定番のネタバレなんでしょうがないけど笑うわこんなん。
★P181、作品批評。"恋人が死んで終わる映画って在り来りだから後半に飛躍がほしいかな… ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?"
恋人が死んで終わる映画って在り来りだよねーという批判が飛んでくることがわかっていて予防線を張っており、後半の飛躍をまさに今行っている最中なので、言うまでもなく非常にメタい。
★P191、最期の作品批評、"見る度に貴方に会える… 私が何度貴方を忘れても 何度でもまた思い出す それって素敵な事じゃない?"
作中の元になった出来事が忘れられても、作者が死んだとしても、作品が残れば思い出は受け継がれていく。たとえそれが美化され、脚色され、編集されたものだったとしても。つまり、映画の内容がどこまで虚構でどこまで現実かはどうでもよく、受け取る観客がいい思い出を残してもらうことが大事、という壮大なちゃぶ台返し。最後の爆破オチで壮大に茶化されているとしても、作者の伝えたい主張にウソはないだろう。
P199、ここは皆さん一番好きな映画の爆発を思い浮かべながら。予防線をあまりにも張り巡らしているせいで作品が予防線の塊になっており、最後に爆発オチを持ってきてすべては創作だと主張することで、主客転倒が完成。終幕。
すべては爆発のための前振りととらえることもできなくはないが、ルックバックで思ってもなかった方向からダメージ食らったので、思いつく限りの主張を先回りしてそれ自体を作品にしてやろうというところなのではないか。脚本作る労力を考えると本当に頭が下がる。
一昨年うつ病と診断された現役大学生だが服薬しながら休んでたけど、薬を飲んでも悪夢ばかりで全く休めないこと、ネットで薬のことを調べるとあまり良くない情報が目に入ってしまい、怖くなってきて勝手に断薬した。
シャンビリ感、反跳性不眠、頭痛、肩こり、筋肉の強張りとか離脱症状に悩まされてるけど、最近少しおさまってきて、生活リズムをできるだけ直して、漢方を飲んだり、たんぱく質とかマグネシウムを摂るようにご飯をちゃんと食べたりして養生中。
なぜ自分が解離性健忘なのかと思ったのか、経緯を話したい。(書いてみたら結構長くなってしまったので読める人だけどうぞ…)
去年の春休み、ひたすら眠ることしか出来ず、トイレに起き上がるのも一苦労だった。すごく死にたがってて(これもちょっと記憶が曖昧)、どうせ死ぬなら今まで読もうにも読めなかった漫画を買って読んでから死のうと思い、気になる漫画を電子書籍で数万単位使って買った。
昔から漫画は好きだったし、コロナ禍で外に遊びに行くことは減り、バイトで貯めていたお金が余っていたのでそれを崩して買った。活字だけの本は読めなかったけど、漫画なら読めた。それから夏休みはずっと漫画を読んでいて、寝るか、漫画を読むかの生活だった。何もやる気は起きなかったけど漫画だけは読めたから、これが酷い時期から脱する回復に繋がったのかもしれないと今では思う。
春休み明け、春休み前にいくら読んでも内容が理解できなかった活字だけの本を、レポート課題のために読み直した。すると、なんとスラスラ情景が浮かび、登場人物の名前も覚えられる。今まで登場人物の名前、関係性がぱっと理解できず、悩みまくってたことを不思議に思うくらいに。
頭の中の霧が晴れるようだった。今までの悩み事が全部解消された感じ。
でもよく見慣れたはずのゼミの人たちと話している時に違和感があった。顔と名前は覚えているけど、第一印象とかその人と話していて自分が感じたこと、思ったことは全く思い出せない。
その後も仲のいい友人と会って思い出話になる時、表面上では「そんなことあったね〜」と流してはいたが、ほとんどの場合は「そうだっけ?」「そんなことあったっけ?」「その時、自分はどう思ったんだっけ?」「その時、自分は何も感じなかったから覚えてないのか?」と考えることが多かった。ただ忘れただけかと思ってたけど、あまりにも覚えてなさすぎる。なぜ自分はこんなに出来事を覚えていないんだ?
調べてみるとうつ病の人は物忘れが多いこと、短期記憶が難しいこと、あと薬の副作用でもそうなるらしいことがわかった。該当しないことはないが、本が読めるようになったから違うのでは?と思った。さらに調べていくと、健忘というのが目に入った。全般性健忘、解離性健忘…周りから見ると普通だが、本人からは同一性がなくなっているだとかなんとか…。これっぽいなと思った。自伝記憶?エピソード記憶?というのがあまりないように思える。付け焼き刃の知識なので、勉強不足のように感じると思うがそこは許してくれ。
自分にまつわる「事実」を思い出すことはできる。自分の名前、出身地、生年月日、母校、家族の名前と顔、友人の名前と顔、アルバイト先、所属していた部活、通っていた病院…これらに密接に関係していた時に、付随しているはずの感じたこととか思ったことの記憶がほとんどない。
昔の記憶を思い出そうとしても、主観的ではなくて、自分をその場の第三者視点から見ているようなものが多い気がする。
去年の春休み前までの記憶がすっぽり抜け落ちている感覚。海面の部分は見えるけど、そこから下はすぐに深海みたいなイメージ。…分かりづらいな。本当に氷山の一角だけ思い出せるような感覚かも。
書きながら思ったが、むしろ記憶を失くす前の自分が覚えすぎていただけか?
これと言ってトラウマになるような戦争体験とか事故、性的な虐待経験はないが、無意識下の心理的葛藤が原因なら該当するかもと思った。人間関係でよく悩んでいたし、自分の一挙一動を振り返って反省する癖もあった。
病院に行って診察受けて自己同一性を再獲得すべきなのか、このまま生きていってもいいのか、ここ数日悩んでいたため書いてみた。でも医師を信じるという行為が今の自分にはまだ難しいので、通院は無理だろうな。せっかく断薬したBZ系の薬も飲みたくないし。
今までと同じように接してくれている友人、家族に感謝しつつ、このことを打ち明けようか、かなり悩んでいる。一時的なものですぐに記憶が戻ればいいけど。
長々と書いたが、とりあえず今の自分の気持ちを誰かの目の止まるところに吐き出したかった。
とりあえず飯食って休むのが今は良いのかもしれない。
医者を変えても良いという言葉を聞いて、だいぶ病院への向き合い方が変わりました。ありがとうございます。
その後、他の病院に行って大学も休学し、とりあえずうつ病の治療に入った。離脱症状はなくなりました。
医者によって処方の仕方とか診断とかかなり違うんだな。
健忘のことについては、今のところ日常生活に支障が出るほどではないのでもう少しして辛くなることがあったら後々医師に話そうと思う…。
私は以前スピリチュアルにはまっていて、総額300万円以上費やしていた。だから小林麻耶さんみたいな人とたくさん会ってきたし、自分もそんな時があった。亡くなった人や聖なる存在(守護霊とか神とかエンジェルとか龍とか)から声が聞こえるとか言って、自分の都合の良い解釈をして人に伝えるのだ。そこには「私はそういう声が聞こえる特別な存在なのだ」という自尊心を高める要素もあり、一度ハマると抜け出せなくなる。私はそういう声を聞くために講座に通ったこともあるし、確かにそんな声が聞こえるような気がして、聞こえた言葉通りに行動したり、ブログに書いたりしていた。すると、ブログでいいねをたくさんもらったり、スピリチュアル部門のランキングに載ったりするようになり、ますますその気になってしまった。ただ私生活ではそのような面はできるだけ出さないようにしていた。変な人と思われるのが嫌だったからだ。
私がスピチリュアルの世界から去ったのは、私生活に影響が出始めたからだ。最初は興味本位で踏み入れていたのだが、入ってしまうとズブズブと抜け出せなくなる。スピリチュアル界の著名人はよく「○○ヒーリング習得コース」などを開き、それを履修すると資格がもらえるパターンがある。国家資格でもないし何の意味もないのだが、ひとつスキルを獲得したようで嬉しくなる。コースは初級は数万円だが、中級、上級となると10万円、20万円とどんどん高くなる。彼らはそうやって儲けを出しているのだ。パワーストーンやパワーソルトやアクセサリーなどグッズは尽きず、私も収入の大半をスピリチュアルにつぎ込んでいた。
そうしているうちに、私は自分が「一角の人物」になっているような感覚になった。一般人とは違う能力を持ち、常識の中で生きている人たちを見下すような気持ちになっていった。初めはその気持ちを言葉に出すことはなく内に秘めるだけだったのだが、少しずつ表に出すようになっていった。スピあるあるの一つとして、「本音で生きる」というものがある。周りの目を気にせず、自分の思ったことを話し、思ったとおりに行動すべきだという考え方だ。そうすると宇宙が味方をしてくれる、周りが去っていったとしてもそれでいいという覚悟を持て。こんな教えなので、私は家族や友人にそのような態度で接するようになっていった。そうすると自然に友人たちは私から離れていってしまった。でも私は「理解できる人だけが残ればいい」、そんな気持ちだった。
そんなある日。私が受けていたスピリチュアルの講座で、先生とマンツーマンでセッションを受けていたときのことだった。先生が私に強い口調で説教をし始めたのだ。「あなたほど心の弱い人間はいない」「逃げてばかりだ」などと一時間以上説教をした。初めはそうなのかと我慢して聞いていたのだが、よく考えると私はこの1回90分のセッションで2万円払っている。2万円払って説教するだけ?それっておかしくない?流石に私にも怒りが込み上げてきた。セッションが終わり、一人になって考えみた。何かがおかしい。違和感がある。ここで私はX JAPANのToshiが書いた「洗脳」という自伝を思い出した。Toshiは洗脳側であるMASAYAに散々こき使われ罵倒され殴られてきたのだけど、洗脳が解けなかった。だが「お金を稼ぐためにX JAPANの活動を再開していい」という話をMASAYAから聞いたとき、「結局金かよ」と思い、そこから洗脳が解けたということだった。私もそうなのかな?私は先生のストレス発散と金儲けの金づるとして使われてるだけなのでは?まさか?でもここまでお金と時間を使ってきたのだし、今更・・・。
そんな気持ちにもなったのだけど、私はこのセッションでこの講座を辞め、先生から遠ざかった。そして次に、散々悩んだのだけど、ブログも閉鎖することにした。辞めないといけない、そんな気持ちが強かった。ブログを閉鎖してもGoogleのキャッシュには残るので、それも削除依頼を出した。なんだか恥ずかしくなって、なにもかも消してしまいたかったのだ。ブログをやめたことにより、ブログ繋がりの友人とも疎遠になった。先生とも会わなくなったので、それ繋がりの友人とも会わなくなった。ああ私は一人ぼっちになってしまった。以前からの友人には冷たくしてしまったし・・・。でもこのままではいけないと思い、LINEで謝りのメッセージと、スピリチュアルはやめたことを伝えた。すると、数人の友人とはまた繋がることができた。スピリチュアルグッズは全て捨てた。書籍も全て捨てた。これまでのお金と努力が、とも思ったが、捨ててしまえばスッキリもした。結果、生活にスピ関係のものは一切なくなった。
こんな経緯があったから、小林麻耶さんの陥ってる状態がなんとなく分かる。スピリチュアルは危険なのだ。趣味の一部として軽い感覚でする(パワーストーンを身につけるとか、パワースポットに行くとか)レベルなら大丈夫だけど、大金をつぎ込むようになったり、誰かに説教するようになったら危険水域に達している。でもここまで来ると誰も止められなくなる。スピリチュアルを教えている側は、それがビジネスなので、辞めろとは決して言わない。むしろ、あれをしろこれをしろと、最終的に自身の稼ぎにつながるようなアドバイスをしてくる。けれど周囲はすでに離れてしまっているので、もう止める人が誰もいない。じゃあ誰が止めるのか?それは、自分自身しかいない。Toshiさんもそうだったし、私もそうだった。洗脳に気付けるのは、最終的に自分自身しかいない。だから、小林麻耶さんも、自分が間違っていることに自分で気付くしかない。
では周りの人間は何もできないのだろうか。いや、できることはある。それは、間違ってると気付いた人を、もう一度暖かく受け入れることだ。Toshiさんもその後復帰して素晴らしい活躍をしているし、私自身も友人に受け入れられ元の生活に戻ることができた。小林麻耶さんも、いつか気づく日が来ると思う。数年後とか、もっと先になるかもしれないけど、彼女が気づき、現在のような状態から完全に足を洗い、謝って反省したとき、世の中に彼女を受け入れる優しさがあればいいなと思う。少なくとも私は受け入れたい。私自身もそうだったから。
子ども時代や学生時代に関する記述はほとんど無くて、ほぼ不動産の取引や開発に関することばかり。
おかげであまり楽しめず、半分近くまで読んだところで止めることにした。
冒頭の第1章で、トランプの月~金の仕事のスケジュールが描かれているが、彼は毎日多くの人に電話したり、
取引をしたり、土地開発の進捗を管理したりと忙しい仕事人生を歩んでいる。
その章の終わりの金曜日の夕方、あるタレントがトランプタワーに挨拶に来るのだが、
そのタレントはトランプに対して、「金曜の午後に突然電話して会うことができるなんて、あなたは意外と暇なんでしょう」とからかう。
それに対してトランプ曰く、「そうなんですよ、正直、何もすることが無いんです」。
偶数月の末日頃発売。電子版は基本的に翌月の10日前後に発売なのだが、今回は4日発売と、いつもより早かった。今回も私の推し作家・座裏屋蘭丸先生はお休みだ。ひぃん。しかし『Daria』で連載中の『コヨーテ』が佳境なので仕方ない……。再来月まで待てがんばる……。
そして今回は前号で最終回を迎えた、『 鴆(ジェン) 天狼の目』(文善やよひ)の記念特集が紙本版にはドドンと入っているはずなのだが、電子版には文善やよひ先生のコメントまでひっくるめて一切掲載されていない。悲しい。なんでそんなに電子派を冷遇するの……。Canna公式Twitterによれば、特集記事のほかに各鴆シリーズの第1話も一挙再掲載されているらしい。
鴆シリーズは獣人(鳥人)ものという、BLの中でも特殊なジャンルではあるけれども、とても漫画の上手な作家さんの描いた漫画で読みやすいので、BL初心者とジャンル不問で漫画好きの人におすすめ。個人的に好きかと問われると、微妙なのだが……(単純な好みの問題)。
ということで、 鴆特集は電子派の私には読めないので、それ以外の掲載作の感想をば。
新連載きた! バンドマンBL。主人公が性的なトラウマ持ちでしかも感性が周囲とズレていて浮きまくる系の人。ゆえにすっかりメンヘラに成長しており、おそらく攻めであろうバンド仲間(ベース担当)に面倒を見られてなんとか生きてる感じ。
1話目なのでなんとも言えないが、バンドマンBLというと『ギヴン』という超人気作品の存在がよぎるので、チャレンジャーだなと。
去年の暮れ辺りに完結した『ヤクヨメ♂』のスピンオフ作品。ヤクヨメ♂の攻め・いわおの子分的な人のツレが主人公。タイトルは主人公の職業が漫画家であるためにバクマンみたいになったようだが、かといって主人公がちゃんと漫画家稼業に励んでいる描写があるわけではない。カップリングが替わってもなお、作者の例のあの性癖をてんこ盛りに盛った内容である。まあ幸せそうでなにより♂♂♂
読み切り。パン屋×米屋の幼なじみBL。エロはない。ピュアラブ系。絵柄が『この世界の片隅に』のこうの史代先生的なふんわり系で、ストーリーにも尖ったところはない。最初から最後まで可愛くほわほわしていた。たぶん、二次創作でしかBLを知らない人の漠然と思う「BLってこんな感じ」に近いんじゃないかと。なごむ。
逃げる相手を追うのが好きな男×逃げ癖のある男。あ、攻め受けこれで合ってるかな?
前編から間が空いてしまったので、どんな話だったっけな……。出来れば短い話は毎回掲載されるといいんだけど、BL読みにおいては短気は損気だ。
絵柄がリアル寄りでがっつりと大人の男同士のゲイものって感じ。
フラッととんずらをこく方もこく方もだが、昔とった杵柄とコネで相手の居場所を特定してくる奴もだいぶヤベェ。もはや犯罪だし。でも追う方からはターゲットはびびりながらもちょっと嬉しそうに見えたらしい。うん、それって幻覚じゃないかな。
今となっては一般ジャンルでも大人気小説家でBL小説家でもある凪良ゆう先生の人気作品のコミカライズ版。世間知らずの坊っちゃん医者×詐欺師。
毎度思うけど、凪良ゆう先生の小説は大部分が心理描写に費やされているし、分かりやすくてノリのいい文体が魅力なので、それを絵で見せられてもなぁ……という感じ。いくら上手い絵でも。凪良ゆう先生の小説が好きだが『積み木の恋』は未読の私としては、ただ原作を読みたくなるだけ。凪良ゆう先生を全く知らない人が読んだらどう思うだろうな? 一読してスルーかな。
まあ、コミカライズ担当の漫画家が悪いんじゃなくて、いくら出版不況で小説が売れないからってこんな企画立てちゃう編集部がよくないんだ。
『 鴆(ジェン)』特集は冒頭に書いた通り電子版には載っていないので、省く。
ゲイカップル・いまぢとほづつみの家に猫に擬態した宇宙人のサンが転がり込んできて、地球侵略の為の情報を得るためにいまぢとほづつみの暮らしを観察しているという話。
痴話喧嘩回。今回はサンの出番が多くてよかった。自転車をこぐいまぢの後頭部に貼り付いているサンの後ろ足がとってもキュート。サンは中身が宇宙人なだけあって人の心を解さないかと思いきや、人間の夜の営みをガン見で観察した結果、恋愛アドバイスができるまでに成長してしまった。すごい猫だ。釈迦に説法感のあるアドバイスだったけれど。
ラストの引きが強い。これは続きが気になるぞ……。
旅人×猫耳獣人。旅人のオルは癖の強い城塞都市国に入国するなり引ったくりに遭い、無一文身元不明人になってしまう。なり行きで働くことになった、猫耳獣人ばかり売っている娼館で、美しい娼夫アコニと出逢う。
ハーレクインのような美麗な絵とストーリー。しかしBLである意味がもはやなくないか? というほどに娼夫達の見た目が女性的。
今回はあまりストーリーに進展がなかったな……。オルが重大な決断をしただけで(それが「進展」というやつなのでは?)
サイボーグ×人間。酸素濃度のやたら高い星に来た元軍用サイボーグが、植物の調査研究をしている人間の護衛だかお守りだかを担当する話。
もはやハードボイルドの可能性はすっかり消し飛んでしまった……。人の心を薄くしか持っていないサイボーグが、ワンコキャラな人間に恋してしまい、誰が見てもほわほわと浮わついているという話。これは温かく見守るしかない……。正直、もっと渋いのを期待してたのだが。山なしオチなし意味なし略して「やおい」まさにこれ。
オメガバース作品。政略結婚と人身売買の中間みたいなカップルなんだけど、買った方の攻めは受けの事を好きなわりに受けの愛を信頼してはおらず、買われた受けの方は実は真っ直ぐ攻めを愛している。猜疑心故に素直になれない攻めと、惚れた弱みで腹を割って話すことが出来ずに攻めの顔色をびくびく窺い続ける受けの、ディスコミュニケーションぶりが、読んでて非常に辛い。
現代的な人権意識と家庭内の前時代的な価値観による閉塞感のギャップがえげつない。ていうかこれ完全にDVじゃん。受けの人全力で逃げて!
……と思うんだけど、逃げねんだよなぁー。それでも攻めを愛してるからってよー。
そんな古風なストーリーなんだけど、今回は実在の最新型避妊薬「インプラノン」が登場する。えっこれもう認可されてたっけ? と思わずググってしまった。マッチ棒くらいの長さの筒の中にホルモン薬の仕込まれた避妊薬で、二の腕の皮下に埋める。三年くらい避妊効果が続く。飲み忘れリスクがないので、99%くらいの確率の避妊効果があるそうだ。
そんな文明の利器を受けの人は良かれと思って攻めの人と相談せずに独断で使用してしまう。そしてそれが新たな修羅場を生む。
あのさぁ、そんだけの行動力があるなら事前に攻めの人とよく話し合おうよ。とも思うけど、攻めは攻めで支配欲と嫉妬の塊で受けとの約束をあっさり覆してくるやつなので、話し合ったところで受けにとって良いような流れには、ならないんだなあ。
今時こういうストーリーはただ只管に辛いばかりなのだが、このギチギチに古風なDVカップルがどのように軟着陸するのか(Cannaだからバドエンではない、と信じたい)、興味はある。
『嘘つきな愛を買う』のDVカップルでがっつりテンションを落とされた後で、今度は陽気に? サバサバしたディスコミュニケーションカップルのやつですよ。ゾンビの佐田×マッドサイエンティスト間宮の日常BL。
前回、一泊温泉旅行(+一泊)にて、恋バナで盛り上がった佐田と間宮。佐田の独特な恋愛観……実は世間一般でいう所の恋愛というもののべたべたしているところが苦手で、それよりセックスの出来る友達くらいの距離感で人と付き合えるといいなと思ってる(間宮と付き合いたいとはミリも言っていない)……を聴いた間宮は、じゃあセックスしよう(もう友達だから)と提案(という名の強制)をしてきて、佐田大ピンチ。
『スリーピングデッド』上巻のレビューには「受けの間宮がだいぶ無理。これで萌えろと言われても」的なことが書かれていがちなのだが、主人公の佐田にとっても間宮はかなり無理だったというのには笑った。正直に「たぶん無理……」と言ってしまうBLの攻め様ってどうなのw
そんな佐田に好かれようと一生懸命な間宮がとても可愛かった。まだ3月なのに可愛い受けオブ・ザ・イヤーが来てしまったぞ大変だ。思いがけない佐田の行動にびびった時の間宮が、死ぬほど驚き怯えた時のハムスターみたいに両手を胸の前で縮こめて目を見開く姿が可愛くて可愛くて可愛くて可愛い。
一方、佐田はといえば間宮がツンツンしまくりながら無茶な要求・暴言・暴挙をぶつけてくるのに案外律儀に応える体でいて、最終的には首尾よく間宮を丸め込んでちゃっかり自分の身を守り切るところが、学校の先生って感じだった。お前そういうとこやぞ……。
もはやゾンビ物とは? って感じのストーリーで今回は特に息抜き回色が強かったが、次回からはどう話が転がって行くのだろうか。ずっと間宮の純愛ネタばかり描かれる訳じゃないだろうし。もうすでに単行本1冊ぶんくらいの分量は書かれたわけだし。既刊が「1巻」ではなく「上巻」なので、あと1、2話で完結して下巻が出るか、1回くらい休載して中巻が出るかかな。
男同士でがっつりド派手に致しているところが見たい人には物足りないんだろうけど、大人の恋愛漫画としてとても面白いので私は好きだな。
耽美SF少年愛BL小説家・長野まゆみ先生が十代の頃に心ふるわせた珠玉の小説、随筆、詩歌のなかから、耽美入門に相応しい全26作を精選。全作品に長野先生のコメント付き。巻末に解説もあり。
目次を見渡すと錚々たる顔ぶれに眩暈がするけど、幻想文学好きは必ず履修する作家ばかりだ。
が、私は現代の幻想小説はわりと好きなんだけど(長野まゆみ先生のほか、川上弘美先生や金子薫先生や今村夏子先生とか)、明治~昭和前期の幻想小説はあまり得意ではないんだよなあ。三島由紀夫は『潮騒』しか読んだ覚えがなかったし、泉鏡花は戯曲『海神別荘』しか読んでいないという体たらく。なお内田百閒は開始十行で寝落ちした。
そんな私が、いくら長野先生のファンだからって、本作品集を買っても最後まで読み切れるのか、甚だ疑問だ……。
では、頑張って読めたぶんだけ。
遊園地で二十七羽ものインド孔雀が殺される事件があって、その重要参考人・富岡の家に刑事が訪れる。富岡はただ前日に公園で孔雀達を長時間眺めていたというだけで犯人ではなさそう。だが富岡家の応接間の異様さと、壁にかけられた美少年の写真のことが、気になってしまう刑事だった。
冒頭を数行読んで、長野まゆみ先生と文体がよく似ていることに驚いた。もしも著者名を伏せられたまま読んでいたら、長野先生が書いたものかと容易く信じそう。文体が似るほど三島由紀夫に影響を受けていたとは。『潮騒』を読んだ時は、似てるとは思わなかったけどなぁ。
かつては美少年だったことを誰にも信じて貰えないほどに老いた男が、孔雀の羽の輝きに魅せられる。(孔雀の羽の色は色素で染まったものではなく、羽の構造が光を反射したものなので、永久に劣化しないのだ。)何者かの起こした事件により、孔雀の美を完成させるには死が不可欠だと気づいた男は、自分こそが事件の犯人ではないのかと妄想をし始める。
ラストシーンは男の美への執念が具現化したみたいでぞくりとした。
雑誌『象徴』の編集長・磯貝が出勤すると、先ほどまた蕗谷から電話があったという。蕗谷というのは筆書きの原稿を持ち込んだ美少年だ。日頃からどんな無名の作家の書いた作品でも必ず目を通すことにしている磯貝は、さっそく蕗谷の小説『蔵の中』を読み始めた。
冒頭は蕗谷の自伝風で、亡き姉との思い出を書き綴ったものであった。だが、姉の死後に蔵の中に独り引きこもるようになった主人公がとある楽しみを見出だした場面から、物語は思わぬ展開に……。
『偏愛耽美作品集』のどこら辺が「偏愛」なのかといえば、美少年が登場するものばかりをピックアップしているところで。さすが長野先生なだけあって。
無名作家の小説『蔵の中』と現実の出来事が交錯し、やがて殺人事件の真相を描いてゆく、と見せかけて……。という現実と虚構が入れ子状になっていてしかもその境界が曖昧な感じ。長野まゆみ先生の『左近の桜』に受け継がれているよなぁ。
蕗谷が女装にハマって鏡の前で表情を作るシーンがとくに印象に残った。
山の手に生まれ育った令嬢のとく子は、眼病の治療のために下町の病院へと入院する。その病院の近所には時春という下町っ子でぽっちゃりめの美少年が住んでいて、しばしばとく子を遊びに連れ出すのだった。
縁日の夕にも時春はとく子を呼び出し、つれ回した。あまりの美しさにどこへ行ってもモテモテで人気者の時春がわざわざとく子を連れ回す理由は見栄のためと、とく子は見抜いていた。とく子の令嬢然とした着物姿を見せびらかすために時春は彼女の手を引くのだと。そこに本心からの労りや思い遣りはない。
時春はとく子を火事現場の跡地に連れ込んだ。「君にほんとうのことを聴いて貰う」と時春は言うが……。
顔が美しいのが唯一の美点の少年。美しい顔はそのままで素顔ではなく見栄の一部となってしまい、その口から出てくる言葉の全てが人の気を惹くための嘘っぽくなる。美しい顔というのは実は醜い顔と同じく異形の一つなのだ。
時春の見栄っ張りを女の子の目敏さで見抜いてしまうとく子だが、時春の美貌の下に隠れた本当の孤独の寂しさには触れようとしない。そんな憐れな話。
ラストシーンで、時春の本心をちゃんととく子が見抜いていたというのが明かされるのが切ない。なんかこれじゃ、時春死んじゃってよかったみたいじゃん……。
はぁ、まだあと23作品もある……。これを私はあと何百年後に読み終わるんだろうか。しかも岡本かの子の次は泉鏡花だし。開始数行でうっ、苦手かも……と思い、もう数日放置している。
朝5時に目が覚め、することもないのでスマホをいじっていると、以前言及したブルマー情報局というサイトで、フランス映画「Peppermint Soda」でブルマーが見られると書いてあった。しばらくはブルマーについて調べるのはよそうと思っていたのだが、目覚めた直後には自制心があまり働いていないせいだろうか。ついつい時間を費やしてしまった。たばこを吸ったことはないのだが、禁煙をしていてつらいのは目ざめの一服を我慢することじゃないか、とあてずっぽうで考えた。
原題は「Diabolo menthe」で、1977年に公開された青春映画だ。監督はDiane Kurysで、女優でもある。ウィキペディアによれば半自伝的な作品が多い。以下、英語版のウィキペディアから抜粋する。
舞台は1963年、13歳のアンヌと15歳のフレデリックは両親が離婚したユダヤ系の姉妹である。二人は母とパリに住み、夏休みは海辺で父と過ごすが気まずく感じている。二人の通う学校は規律が厳しい。
妹のアンヌは思春期の入り口にいるがあまり社交的ではなく、成績もよくない。周囲で何が起きているかを母や姉から盗み聞きして知ろうとする。成績は良くなく標準以下で、不公平な教師に対処しないといけない。あるときは姉の一年前に書いた小論文を剽窃したのが見つかっている。また、初めての生理や男の子と話すことや、問題を起こした後で母と問題に対処しなければならない。
対照的に姉のフレデリックはより外向的で政治的意識も高い。特にアルジェリア問題と反核運動に関心を持っている。自分よりずっと年上の人に片思いをして、初めて本格的な恋の痛みを感じ始めている。また、初めて逃げだした友人や、価値観の違いによる友情の喪失も経験する。
例えばyoutubeの予告編に出てくる。大体0:38頃である。
https://www.youtube.com/watch?v=lGpU3y8RAFM&ab_channel=DulacDistribution
他にももう少し鮮明な画像があるページもあったが、「映画を無料でダウンロード!」と書いてある危険そうなサイトだったり、映画での性的なシーンをつなぎ合わせた違法アップロードだったりするので、リンクは張らない。どうしても気になる方は英語やフランス語のタイトルで検索してほしい。
で、肝心のブルマーを見てみると、ブルマーというよりは極端な短パンに見える。前列右から2番目の子を除いて、他の国のようなショーツ型ブルマーではないようだ。さらに、生徒によって短パンやシャツの色が違っている。フランスではブルマーが制服として採用されたのではないらしい。
しかし、逆にそこが興味深い。この仮定が正しければ、制服ほどの強制はなかったにもかかわらず、1960年代のフランスではブルマーに近い短パンを生徒が自主的に着ていた可能性があるからだ。もちろん何の証拠もないし、強制ではないにせよブルマをはく雰囲気があっただけでも強要されたように感じた人もいるだろう。ただ、当時のファッションの傾向としてブルマ的短パンが許容される風土があったのやもしれない。奇しくも60年代はミニスカートが初めて流行した時代である。当時の青ブルマーはおしゃれの先端だったのだろうか。
この映画、ちょっとだけ年端もいかない少女の下着姿や乳房が映っている(該当シーンがアップらされていたのも、リンクを貼らなかった理由の一つだ)。昔の芸術系の映画にはたまにあるが、やっぱりショックだ。ショックなのはそのためらいのなさと、どうしても一瞬は美しいと感じてしまう自分の感覚だ。
ここでは表現の自由と検閲の是非については議論しない。専門外なので解像度の低い議論はしたくない。
ただ断っておくと、今は少女の裸体を(少なくとも実在する児童の写真・映像なら)禁じるのは当然だと思う。悪の定義が「なにも知らぬ無知なる者を……自分の利益だけのために利用する」ことならば、まさにその定義に該当するからだ。性についてまだ知らない相手を同意なく性的に扱うのは間違っている。
一方で、グーグルで「少女 ヌード」と画像検索すると一件も引っかからない。正しい処置だと思う。けど、大企業によるあからさまな検閲は正しくてもなんだか怖い。
映画の配信とかも怖いと感じるのがそれで、どのような理由であれ、いつ同意なく内容を差し替えられてしまうか、それが怖い。
ところで、表現の自由に調べてみると興味深い事実に行きあたることがある。
たとえば英語版wikipediaの「Pornography_in_Europe」を読んでいると、「Like Denmark and the Netherlands, Sweden does not regulate pornography and the country has no age laws for the possession or viewing of pornography.」つまり、スウェーデンでは18歳未満であってもエロ本を見ることは違法ではないのだ。「Some shops follow a voluntary limit and do not sell to minors.」ともあり、実際には売らない店もあるらしいのだが、売るなと法で定めているわけではない。
またフィンランドでは「It is legal to sell pornography in any store, but magazines may not be sold to buyers less than 15 years of age, and hardcore is restricted to buyers aged at least 18.」つまりソフトコアなら15禁、ハードコアなら18禁とわかれているらしい。
ただし、どちらの国でも18歳以下のモデルは禁じられている。
以上、全くの余談だ。
一応、初めてテニスの見せパンをはいた選手について書こうとは思っている。ただし、いつになるかはわからない。数ヶ月後くらいかな。
こっそり追記。
ドイツに一歩及ばず。
文学者・文芸者としては超一流だった。都知事の会見での回答なども文学者っぽかった。
そういう点では宮崎駿監督も同じ匂いを感じる。絵描き・映像監督と政治家で違うけども、根本は文学者だと思う。
文学や新聞がメディアの中心でなくなった以上、こういう人はもう現れないだろうなあ。
石原慎太郎氏、自作を語る『わが人生の時の時』、死の影と生の充実
「こんなにいろいろ体験した物書きはいない。ある意味、ぜいたくな人生だと思うよ」と話す石原慎太郎さん(酒巻俊介撮影)
DSC_3468『わが人生の時の時』
政界を引退して4年余りが過ぎた石原慎太郎さん(86)はサッカーにヨットにダイビングに、とさまざまなスポーツに熱中してきた。そんな“肉体派”作家の身体と感性が鮮やかに結晶したのが、平成が始まって間もなく刊行された自伝的掌編集『わが人生の時の時』(平成2年)。かけがえのない時の断片を乾いた筆致でつづった40の掌編は死と隣り合わせにある生の輝きを静かにうたいあげる。(聞き手 海老沢類)
この本は不思議なきっかけでね、大江健三郎のおかげなんですよ。テレビ局の依頼で反核運動が盛んだった西ドイツ(当時)に取材に行ったら、同じ目的で来ていた大江と会った。ベルリンの壁の前で僕は覚えたてのスキューバダイビングの話を彼にしたんです。この本に書いたオキノエラブウナギという猛毒をもった不思議なウミヘビと遭遇した体験を語って「海の底は全然違う宇宙で、いろんな発見があるんだ」と。大江はやけに感心して「石原さん、そういう話、絶対書きとめておいた方がいいですよ」と言う。
思えば、僕は他の作家にはない体験をしてきたし、いろんな人と出会って面白い話も聞いてきた。人生を記録として残そうとしたんです。書きながら人生を感じ直したよね、強烈に。
《収録された40編の多くが海での体験談。知人の遭難や自身の大けが、巨大な生物との遭遇などが回想される。弟の俳優・裕次郎さんとの別れや霊の存在を示唆するような不思議な出来事、戦時の日常も描かれる》
僕は肉体派だからね。肉体を使った行為というのはその裏側に必ず死の影がある。スキューバダイビングでも随分怖い目に遭ったし、遭難にも立ち合った。避けようもない落雷をヨットの甲板上で目にする「落雷」という一編があるけれど、あのときはコンパスがクルクル回るのが気持ち悪かったね。
ただ僕はね、恐怖は人間が味わう一番の感動だと思う。恐怖が通り過ぎた後には安息があるし、たった今過ぎていった凝縮された時間の充実をも感じる。死とのコントラストの中での生の味わいは深いですよ。死は人間にとって最後の未知だから興味がある。この掌編群はいわば、いつ死ぬのかな、という緊張の中でとらえた生と死のフラグメント(断片)なんです。
戦時の体験も書きました。横須賀から出航する前、家族と最後の別れをする将校の姿とかね。僕らをかわいがって膝の上に乗せて頭をなでてくれた青年将校が死んでいく。その妻が葬式で何も入っていない骨壺を抱いている…。戦争の不条理や残酷さは僕の中に鬱積して、国家への愛着、そしてアメリカに対する反発となった。盛田昭夫さん(ソニー元会長)との共著『「NO」と言える日本』(元年)もそういうものが潜在意識にあって書いたんです。
《26年、衆議院議員を最後に政界を引退。精力的に執筆を続け、田中角栄元首相の生涯を一人称でつづった『天才』(28年)は大ベストセラーに。現在も文芸誌に小説を連載する》
随分危ないこともやってきたと思うけれど、僕はそれはそれでとてもエンジョイしてきた。自分をつき動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね。
ライフワークが一つあってね。仏教徒だから法華経を現代語に訳そうと思っている。法華経は非常に哲学的で、存在や時間について深く考えさせる。今は道半ばだけれど死ぬまでに完成したい。
やっぱり小説が一番面白いよ。政治家同士のだまし合いなんか、最も薄っぺらいね。僕は作家だしヨットマンですよ、ずっと。でも時化(しけ)たレースではさすがにもう乗れないな。
◇
『わが人生の時の時』 文芸誌「新潮」の平成元年10、11月号に掲載。翌2年に新潮社から単行本が刊行され、後に文庫化された。『石原愼太郎の文学』(全10巻、文芸春秋)の第8巻に、エッセー『わが人生の時の会話』とともに収められている。
◇
〈いしはら・しんたろう〉昭和7年、神戸市生まれ。一橋大在学中の30年に「太陽の季節」でデビューし、翌年に同作で芥川賞。『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、『生還』で平林たい子文学賞。43年に参議院議員に当選。後に衆議院に移り環境庁長官、運輸相などを歴任。平成11年から24年まで東京都知事を務めた。
クラムノベル作家 馳星周の自伝的小説。馳星周先生が若い頃にゴールデン街の「深夜プラス1」でアルバイトをしていた頃のことをモチーフとして書かれた。
バブル時代。本好きの大学生・坂本は、ゴールデン街のバー「マーロウ」でバーテンのバイトをしていた。コメディアンで書評家の斎藤顕の勧めで上京し、ハードボイルドミステリや冒険小説好きの本読みが集まるというマーロウで働くことになったものの、斎藤顕の酒癖の悪さとゴールデン街の酔っぱらい達に辟易し、心が鬱屈した中年のように老けてしまっていた。
そんな坂本を、ナベさんやリリー、バイト仲間の田丸や常連客など、ゴールデン街の仲間達が慰め支えてくれていた。
ところが、そんなゴールデン街に暗雲が立ち込める。地上げ屋達がゴールデン街の土地に目を着けたのだ。なかなか土地や店を手放そうとしない、ゴールデン街の人々に業を煮やした地上げ屋が、店に放火しているとの噂が立つ。そこで、坂本の敬愛するナベさんがゴールデン街を守ろうと立ち上がったのだが……。
これが馳星周先生の書いた小説なのか!? 最近の馳先生の作品をさっぱり読んでいなかったので、文体の変わりように驚いた。地の文が柔らかい。トゲトゲしていない。ものを投擲しないし、あんまり呪詛の言葉を吐かない。ひぇぇ、まるで別人! でも根のピュアなところは昔のまま残っている。
ノスタルジックなストーリーだ。昔のこと書いてあるんだから当たり前か。あー、青春だなぁって感じ。同じような経験はないけど気持ちだけは共通するような若い懐かしい時代は自分にもあるから、同時に思い出してしんみりしてしまう。
直近に『鎮魂歌』を読んだので、坂本が犬を飼いたいって思ってるシーンで『鎮魂歌』の主人公の一人郭秋生を思い出してふふってなった。
どうしても斎藤顕をゆるせない坂本、許してやれと諭すナベさんや佳子母さん、どっちの気持ちもわかる気がするのは自分も年を取ったからかな。
映画が好きだった。いや、大好きだった。
こんな事を言ったら蓮實重彦に怒られそうだ。でも、有村昆なら許してくれそう。
本当に映画が大好きだった。
映画館には年に百回以上行っていた。TOHOシネマズ、イオンシネマ、ユーロースペース、シネマカリテ、ギンレイホール、シネマヴェーラ、新文芸坐、早稲田松竹、地域の映画上映会……。
コロナ禍になってからは行ける機会がほぼなくなった。そして、映画館の経営危機のニュース。SAVE the CINEMA の募金が始まったらすぐに入金した。世界が元に戻ったら、毎日のように映画館に通おう。そう思っていた。
2日程度で終わると言われたが、私の場合は終わらなかった。どんどん悪くなっていき、事前に言われてた副反応以外の事が起こり続けた。
たまたまだろうと気楽に放置していたが、放置すればするほど悪くなった。1ヶ月目あたりから色々な医者に診てもらったが何もわからない。やがて、通院すら厳しい体調になった。家でほぼ寝たきりの生活。
それぐらいから初めてネットで調べた。本当に珍しいようだが、私のような人が相当数いるらしかった。みんな困っていた。診てくれる病院が無い。
どうやら最悪のくじを引いてしまったらしい。
ずっと映画のことを考えていた。
接種直後から首と肩の激痛が始まって「これじゃ映画館には行けないな」と思った。
九月の終わりには自宅ですら映画が観れなくなった。5分ほどで強い症状が出てきたからだ。どうやら映画はかなりの負担がかかるようで「二度と映画は観れないかもしれない」と思った。
それから映画を観なかった。何度も試して、身体の反応と映画が結びついてトラウマになるのが怖かった。
4ヶ月が経ち、いろいろな出会いがあった。
いくつかの症状は対症療法で苦痛が抑えられる事もわかった。ほぼ寝たきりに変わりはないが、症状をコントロールするための武器が増えた。
ふと、ネットフリックスを見る。
『チック、チック…ブーン!』が配信されている。ずっと気になっていたミュージカル映画。『RENT』を作ったジョナサン・ラーソンの自伝的舞台が原作だ。
ラーソン自身は35歳で早逝している。大動脈解離による急死。ウィキによると、正しく診断されていれば亡くなっていなかっただろうと書いてある。妙な親近感を覚えてしまう。
テレビからドゥーンという音が鳴る。懐かしいネットフリックスのSE。
手元のApple Watchを見る。心拍数は安定している。
映画が始まる。
これは持論だが、テレビやラジオと映画の大きな違いは「出演者のカメラへの意識」だ。もちろん、映画であろうと演者はカメラを意識している。だが、原則として「俳優がカメラを意識していないように見えている事」がその良し悪しに直結する。テレビやラジオはその点がもっと緩いのだ。多くの映画監督が「俳優は演技しなくてよい」と言っているが、これはある種逆で映画観客こそが「演技をしない俳優」を求めているのだ。
妙なこだわりを吐露してしまったが、要は映画独特の演技をしている人間を久しぶりに見ることができたのだ。
それだけで嬉しかった。喜怒哀楽を揺さぶるシーンでもないのに涙が流れる。流れ続ける。
手元のApple Watchの心拍数を見る。心拍数は安定している。
物語は続いていた。
『チック、チック…ブーン!』は90年代のニューヨークを舞台にしたミュージカル。美しいメロディとウィットに富んだ詞、そして優しい物語。
主人公の三十路前のジョナサンはミュージカル作曲家を夢見ており、彼の周囲には貧しい芸術家たちがいた。ダンサーの恋人、LGBTの広告マン、そしてHIVの友達。
HIVなので「やあ、今日のT細胞は順調だったよ」なんて会話が出てくる。ああ、似たような会話、今日SNSでもやったなあ。
観ている間、ずっと涙が止まらなかった。
観終わった後、鋭い眼痛とやや強い頭痛が長時間続いたが、幸いにもひと眠りしたら収まった。どうやら通して観るにはまだ早いらしい。
それから週に1回だけ、30分おきに休憩を入れながら映画を観るようになった。
途中で止めるなんて、以前の私なら映画への侮辱だと思っていたかもしれない。
でも、いいじゃないか。
ラーソンのミュージカル『RENT』に「SEASONS OF LOVE」という歌がある。
歌詞がなかなか興味深い。
525,600分、この人生における一年分の時間を人はどうやって測るんだろう?というような内容だ。
歌にはいろんな単位が出てくる。コーヒーを淹れた回数、笑った回数、喧嘩した回数。
自分も思い浮かべてみる。
Suicaを改札にかざす回数。
上司に怒られる回数。
後輩に冗談を飛ばす回数。
朝の散歩で澄んだ外気を吸い込む回数。
映画館に行く回数。
8月を境に数えられなくなったものがたくさんある。
何で測ればいいんだろう。何で測れば救われるのだろう。
でも、いい言葉だと思った。
例えまったく外出できなくても、これから何かを、誰かを愛する事は出来る。
そして、こうなってしまってから助けられた、たくさんの愛を数える事ができる。
決して今までの人生に負けてない。
ポルノ禁に関して全面的に共感、肯定したい。オナ禁については個人的には懐疑的で、ムラムラした時には低刺激のオカズを使用して行ってもいいと思っている。
そもそも人間には発情期などなく一年中交尾ができるような身体の作りになっておりそれは何万年も前から続くものでやりすぎで体調を崩すほどでなければ今更流行りでオナ禁はすべきではないと思うし、少し調べたら医師連中が口を揃えて使わない器官は衰え精子が劣化して奇形や不妊につながることもあるし男性にとっては前立腺ガンや重篤なストレスを誘発し、鬱の可能性もあるので大変危険であると言っているにも関わらず、それは性産業の圧力である!や、インドのクンダリニ?よくわからないがすごい人がいてその人は何年もオナニーをしていないから凄いパワーがある…!(何を成し遂げたんだ其奴は…笑)…他方、白人の凄い人が悪魔と会話をした自伝のなかでオナ禁について語られていた…!という非科学的な内容ばかりオナ禁者は妄信しており議論しようとしてもこちらの話には耳を貸さないほどの熱狂ぶりですべての情熱を注いでオナ禁に励んでいるようである。
なぜ彼らは精神患者のように極端な思考でしか物事を考えられないのであろうか。彼らにはほどほどや適度にという言葉が悪魔の囁きにでも思えているのだろうか?
そもそもポルノ禁に関しては科学的に脳によくないことが実証されているのに、オナ禁には科学的な話は一切無視して精子を長期間保存することでとてつもないパワーが得られる!と自信満々な方々が信者には多いのだが本当に意味がわからないので呆れるしかないのである。
そこで優しく色々話してくれる、大学生の男の人がいた。
大学生の男の人はすごくその界隈で人気があって、いっぱい女の子からリプが来ていた
当時発売開始された、彼が好きな清涼飲料を飲んではTwitterに報告して、リプ待ちをしていた。
いつしか好きが高まりすぎて、DMで告白した。彼女にしてくれることになった。
ただその人は関西に住んでいて、中学生の私にはとても会いに行ける距離ではなく
会いたい会いたいと繰り返すものの、会いに来てくれるわけでもなく
しかも顔も知らないままだった
彼は相変わらず界隈の女の子に人気があったので、それに私は嫉妬しまくって駄々をこねたが
めんどくさがられて、しんどくなった。
そんな時に、別の2つ上の男の子が優しくしてくれたので、そっちを好きになっていった。