一つの物語に対して一つのファンタジー、というのが大原則ではある。そのファンタジーを基軸にして世界観や物語が構築されて行き、表現したい何かを鋭くえぐり取り表現することができれば最高だ。
だが主人公が好きな「ファンタジーをひとつまみ」は蛇足にしかならない。なんで最後爆発させた?なんで顔をドラゴンにした?特に意味はない。そのファンタジーが作品の芸術性に寄与していない。
だが物語が進むにつれて、母親の爆発オチは無意味な蛇足ではなく、実は意味のあるものだったのだと徐々に明らかになる。
やがて主人公は「身近な死」「作品発表」という二つの通過儀礼を正しくやり直すことで成長を遂げる。めでたしめでたし。おわり。
主人公はずっと「おわり。」を繰り返すが何度も終わり損ねた。ずっとオチを失敗し続けたが、ここで一旦キレイにオチがついた。
死んだはずの絵莉が生きていた。
キレイにオチがついて終わったはずの物語が終わっていなかった。
解:爆発させればいい。
クソみたいな蛇足の物語をクソみたいな爆発オチで吹き飛ばす爽快感。本来なら無意味でクソだったはずの爆発が意味と文脈を持つ逆転のカタルシス。クソみたいなオチに向けて物語が収束していく、パズルが完成したときのような達成感。酷評された爆発オチを物語に昇華させた主人公の真の成長。それが見開き1ページでどかん。
大爆笑させてもらった。
ブコメで 絵莉が生きてたシーンは生前に撮影していたものを 編集(と少量の画像合成)したものという意見があってなるほどと思った。 最後のシーンまで全てが映画監督になった優太...