はてなキーワード: 社会科とは
知人の話なんだが、文章を読むと大体書いた人の年齢、性別、生きていた時代がわかるというんだ
興味深いのは、本人が言うには文章を読むときに頭のなかで声に変換されるらしく、その印象通りに特徴をいうと大体あたっているらしい
例えばテストで「これに続く文章はどれか」とかいう設問があった場合、内容よりもその声が同じかどうかで判断できると言っていった
試しにラノベから純文学まで作者を隠していくつかの作品をかいつまんで読ませんたんだけど、時代はなんとなく言葉遣いでわかるとしても性別と執筆当時の年齢も前後10歳くらいで言い当てやがった
ちなみに男性が女性目線で書いてたりその逆の場合だったりすると、2ページくらい読むとオカマ声に聞こえてくるらしく、本人はそれが耐えられなくてすぐに読むのをやめてしまうのだそうだ
そのためか国語の成績だけはずば抜けてよいのだが、文学オタクかというと別にそういうわけでもなく、他の教科は社会科、理数、英語どれも赤点ギリギリで危うく留年しそうだったところを国語が人並み以上の理解力だからという理由でセーフになったようなヤツだ
しいていえば、ゲームは人より少し上手いかもしれない
ジャンル問わずどのゲームもそつなくこなすので、協力プレイにはよく呼ばれていたが、ずば抜けて上手いゲームはひとつもなかった
話が少し脱線してしまったのだけれど、実際に目の当たりにしてもやっぱり声で聞こえるという点が未だに信じられない
もし身近なエピソードをお持ちの方がいたらぜひお聞かせ願いたいのだが
★某塾のテストで、
「スーパーマーケットの店舗レイアウトで、肉や魚は店のどこに陳列されているでしょう?」
「そして、それは何故でしょう?」という問題がでたらしい。
(正解は、「店の一番奥まった部分」。顧客の回遊動線を考えると、結局共通の店舗レイアウトに収れんしていく)
★でも「ドンキホーテ」って、塾や社会科教科書に反した店舗レイアウトだな
その問題解いた小学生で、「ウチの近くのドンキは、こんな教科書通りのレイアウトしてません」と反論したら、どうなんだろう?
成城石井や紀伊國屋スーパーのような、真っ当なスーパーを使わなきゃ、受験で落ちろぞ」と教師に叱られる?
★なぜ成城石井や紀伊國屋が「中学受験に効く」のか、わかるかな?
これらスーパーでは、ちゃんと「旬のモノ」を正しく売ってるからだね。
中学受験では、理科や社会の問題で食品や動植物の旬を出題するから、旬を守ってるスーパーで買い物するように、お母さんにお願いしようね。
★でも、植物工場が急速に普及して、野菜の旬が無意味になった将来の、中学受験の内容が気になる。
子供が「ウチは植物工場の野菜食べてますから、年中●●が食べれます」となったら、教師はどう反論する?
ちょっと前の教科書なら、「レタスは主に長野県とか群馬県の高原地帯で採れます」と書いていたが、
あと5年もしたら、この記載は無効になるだろうな。
「工場の遊休スペースで、全国で広く栽培されてます」と記載が変わるのか?
★そもそもレタスという野菜自体が日本に定着したのが最近(70年代以降)だからな。
生サラダの食習慣とか、サンドイッチに挟む、という食習慣、つまりパン食の普及とセット。
ちなみにすかいらーくの元役員が著書で「レタスを日本に定着させたのはすかいらーく」と豪語してた。
生サラダの食習慣が定着した、というのは、裏を返せば「堆肥農業から化学肥料農業に転換し、寄生虫の心配がなくなったから」なんだよな。
ぜひ、中学受験では「なぜレタスが日本に定着したのか?」というテーマで、寄生虫の問題とか化学肥料の発明とかまで「発展学習」して欲しい。
★冗談抜きで、そろそろ「植物工場」は、小学4年の社会科教科書なんかで掲載を開始してもいいレベルだと思う。
あと、「どの農作物が、どの地方で、どの季節で採れますか?」を教育するより、
「どの農作物は、気温何度で生育しますか?水量はいくらいりますか?背丈は?生育期間は?投入エネルギー量は?」を教育した方が、植物工場時代には有用。
なぜなら、将来は植物工場時代で、産地の知識より生育条件知識のほうが、はるかに役立つ
でも、「農水省さん、植物工場を社会科教科書に載せましょう」という文部科学省の提案は、
「あれは邪道な農業。相談するなら経産省にしてよ」という農水省のツレナイ反応で、ボツになったのだった(※想像)
★自分が子供の頃(70年代)の社会科教科書では、「デパート」「商店街」は登場しても、スーパーマーケットは登場してなかった記憶がある。
既にダイエーが三越を抜いて、日本一の小売事業者になった時点(70年代)の社会科教科書でも、そんなもの。
では70年代の時点で、社会科の教科書は「スーパーマーケット」を大々的に取り上げるべきだったか?
たぶんそのころだと、このように教科書に書かれただろう。
「スーパーマーケットは、駅前の立地で、広い売り場スペースを確保して、何でも買えるようにしています。」
で、「70年代的スーパーマーケット」を多数抱えていたダイエーは潰れたのは周知のとおり。
生き残ったのは、郊外に巨大駐車場を用意し、専門店も誘致したモール型のイオン
★30年前、カイワレダイコンの工場生産がブームになり、各社一斉に生産を拡大して、カイワレダイコンが大暴落して、多くの業者が倒産した。
現代の「植物工場レタスブーム」、カイワレダイコンの二の舞にならないか?少し心配。
★カイワレダイコンが工場生産で価格下落し、植物工場レタスも後を追う展開。
工場生産による価格破壊の「元祖」が鶏卵であることは、意外と知られていない。
戦前は鶏卵は貴重品だったんだよな。1960年代に鶏卵の「生産革命(=工場生産)が起き、価格破壊が起き、食文化が変わった
★食材価格ランキングって、生産体制や物流で全然変わるからなあ。
その背景には「エネルギー革命で木炭がダブつき、木炭原料を使った椎茸が価格破壊された」一方で「森林管理がなされなくなり松茸高騰」という実態がある。
★おそらく、植物工場革命で、食材価格ランキングがガラッと入れ替わる。
植物工場で生産最適化される食材価格は暴落し、植物工場じゃ生産できない食材は高騰する
逆にいえば、従来型農業しかできない農家、植物工場を作る資本力がない農家は、
「絶対に植物工場化されない食材」に特化するのが勝利の方程式。
生産に時間が掛かるミカンとか柿とかが、植物工場化される心配もなくて安全じゃないかな?
★ダイヤモンドオンラインによれば、「2045年には、介護業従業員数は、製造業従業員数を上回る」(計算にならざるを得ない)らしい。
(野口悠紀雄氏の試算、http://htn.to/yyz6Qk)
これって、「消滅自治体が続出」レポートに勝るとも劣らない、衝撃なレポートなんじゃないか?
日本の経済、教育、文化、すべてにおいて「製造業ファースト」だったのが、「介護業ファースト」になる、そういう時代になってしまう。
★例えば「経済界」への影響だと、現在東証一部銘柄の半分程度が製造業だと思うが、
★地方財界の盟主も、今は「地銀」「マスコミ」「電力」「バス会社」辺りだが、
これが2045には「介護業者」が地方財界の要職を占めるようになる。
日経新聞なんかも、今は紙面のうち3ページ位はメーカーについて記載しているが、これがせいぜい1ページ程度になり、
代わりに1~2ページ程度、介護業界のニュースばかり載せるようになり、そして「日経介護新聞」が創刊される。
東京ビッグサイトの展示も、今は半分程度が製造業系の展示ばかりで、介護系の展示などは数える程度だが、
2045には、これも逆転する。
★教育分野で言えば、製造業向けの人材輩出母体である大学工学部とか高専とか、今の半分で済んでしまい、
★現状、今の介護業界は、マンパワーの大半は中高年主婦に頼ってる。
逆に言えば、中高年主婦のマンパワーだけでなんとか間に合っていて、若者新卒のマンパワーはさほど投入しなくても済んでいる。
これが2045には、「新卒の数割は介護業界に入社しないと間に合わなくなる」社会になる。
就活で学生が回る先の3割4割が介護会社、という社会を想像してほしい。
★30年前などは、そもそも「介護業界」という業界そのものが存在しなかった。
それが30年後には「全業界の中で最大の業界」になる。これほどの劇的な変化は想像しづらい
現代日本人は「製造業最適」な思考パターンになっていて、その証拠に小学校4年では「製造業から見た日本地理」を教育する。
これも2045には、小学校4年の社会授業は「介護業から見た日本地理」に変わらざるを得ない
2045の小学校社会科では、「愛知県でクルマを作ってます」とか「海岸にコンビナートを作ります」なんて授業は、もう必要とされない。
2045の小学校社会科では「老人ホームとサ高住の違い」とか「なぜグループホームは少人数、木造がいいのか? 」を授業してる。
あるいは、高校あたりで必修科目で「老人心理学」「老人行動学」を学ばせる、「介護」授業が高校(或いは中学)に入ってくるんだろうなあ。
★欧米では「今の小学生の6割は、まだ世の中に出現していない新職業に就く」とされてる。社会のダイナミズムを感じる。
・・・日本じゃ「今の小学生の6割は、介護業界に就く」てなハナシになる。
まあ6割よりは少ないだろうが
★子供の社会科教科書を見ると、堂々と「吉野ヶ里遺跡」と「三内丸山遺跡」が載っていて、
激しく「ジェネレーションギャップ」を感じてしまった。
というのも、われわれ世代(40歳代)にとっては、吉野ヶ里や三内丸山は「ニュースの事象」であり、
吉野ヶ里の「発見」が1989、三内丸山の「発見」が1992。
当時自分は大学生ないし社会人で、これら遺跡は「ニュースで知った」ものであり、「教科書で知った」ものではない。
たぶん、今の40代より上の世代は、教科書でこの2つは習っていないはず。
なので、今の40代とか50代では、吉野ヶ里や三内丸山は「そもそも知らない」という人の方が多数派なんじゃないか?
これら世代で吉野ヶ里等を知っているのは、地元民または観光業界人または歴史マニア。
という訳で、
「遺跡が見つかるキッカケは、公共工事や商工業開発が多い」という「生きた授業」を子供相手に展開してやった。
★我々の世代は、せいぜい「登呂遺跡」を覚えておけば、事足りたと思う。
一方、今の子供の世代は、登呂遺跡以外にも吉野ヶ里とか三内丸山とか、覚えることが増えて大変だなあと同情してしまう。
吉野ヶ里とか、工業団地開発を計画しなかったら、遺跡は見つからなかった=教科書の記載も減ったわけでして。
・・・と書こうと思ったら、「登呂遺跡は、教科書によっては、記載を外しているケースもある」らしい。
子供の記憶容量は有限だから、教科書記載事項を巡る「競争」は激しく、スクラップ&ビルドも激しいらしい
・・・となると、おじいちゃんおばあちゃんが、孫を連れて静岡に行って、「これが有名な登呂遺跡だよ」と案内しても、
孫が「何それ?習ってないよ」という世代間すれ違いの悲劇が発生してしまう危険性がある。
※というか、実際静岡の人のブログを見ると「子供の教科書に載ってなくて会話すれ違い」報告有
★「一番歴史学習が大変だった」世代は、「1999頃に歴史を学習していた世代」じゃないか、という気がする。
あの頃は三内丸山も教科書に掲載されたうえ、旧石器時代の記載も「充実」していた。
→その後、毎日新聞のスクープで、旧石器時代の殆どが教科書から削除された
吉野ヶ里や三内丸山クラスの遺跡発掘のニュースが、この20年間聞こえてこない、
そのこと自体が「失われた20年」を象徴している。(公共工事激減と比例)
・・・或いはアベノミクスで、再び吉野ヶ里クラスのが見つかるか?
★登呂遺跡の件、もう少し調べてみたら、実は「登呂遺跡の教科書記載」そのものに「政治的な意義」があったらしい。
登呂遺跡発見の「政治的意義」とは、「日本書紀記載の年代以前に、東日本に稲作が伝わったこと」の立証。つまり「日本書紀の否定」
まあ、実際の学問レベルでは、日本書紀を否定する研究もされていたのかもしれないが、それが義務教育教科書に掲載されることがなかった。
義務教育には日本書紀や古事記が掲載され、子供は歴代天皇の暗記を強要された
つまり、「日本書紀・古事記・歴代天皇暗証の「偽歴史」を教育する」、そういうナンセンスな歴史教育は終了した、
そういう「歴史教育民主化・自由化」「もはや戦前ではない」のシンボルとして登呂遺跡が存在した。天皇の人間宣言と同趣旨
となると、直近の「登呂遺跡の教科書引退」の政治的意義は、歴史教育において「もはや戦後ではない」とアピールする効果。
登呂遺跡の「政治的役割」は、歴史的意義を終えた、ということなのかもしれない。
※GHQが必要以上に登呂遺跡の「意義」を強調するよう、教育介入したような気もする
★縄文時代、旧石器時代の存在は、日本書紀や古事記と真っ向対立。
多分、戦前の教育では縄文や旧石器時代は存在しないことになってた
だから、最大70万年前の旧石器時代の遺跡を発掘した「ゴッドハンド藤村某」などは、世が世なれば不敬罪になってたんじゃないかと心配する。
そもそも日本書紀や古事記の世界では、神がイザナギ・イザナミを作って、それから世界が出来た。
→多分、戦前は「恐竜の存在」は義務教育では認められなかったのではないか?
そう考えると、恐竜をモチーフとした「映画ゴジラ」は、イザナミ・イザナギの世界観を否定する恐竜をモチーフにした、ということで、極めて戦後的な気がする。
http://otonanomatome.blog.jp/archives/1008110693.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/otonanomatome.blog.jp/archives/1008110693.html
代々木ゼミナールが30年前から少子化を見越して経営戦略を立てていてすごいって話だけど、45の俺が小学生のころ社会科で人口ピラミッドがピラミッド型から釣鐘型になりますって少子化を習ったのを覚えてるくらいだから、少子化を予測するのは誰でもできていたはず。
(経営として目先じゃなくて長期的な戦略をたててそれを実行するのはなかなかできなさそうだけど)
むしろ、なぜお役所や政治家が少子化対策を、少子化が目に見えて進行しだすまで放置してたかとか、年金を少子化を見越して運用してなかったとかのほうが疑問に思うわ。日本の官僚が優秀だなんて嘘だろ。
http://m.newsweekjapan.jp/reizei/2014/04/post-637_1.php
→ 結局どんな内容であろうが偉人の話ばっか聞かされても「しょせん他人の話、昔の話、自分は違う」って思う生徒が出てくるはず。意味ない。
- ありのままの自分を受け入れられるような価値観を教えるこそ必要なんじゃん??
領土問題について
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-222955-storytopic-11.html
来春から小学校で使う社会科の教科書全てが、韓国と中国が領有権を主張する島根県の竹島(韓国名・独島)と尖閣諸島(中国名・釣魚島)について記述し、日本の領土であることを明記した。
教科書検定に際し出版社が、愛国心教育を重視する安倍政権に配慮して、政府見解を紹介した格好だ。
既に多くの中学、高校の教科書が竹島や尖閣諸島に触れ「日本の領土」と記述しており、この流れに沿って小学校でも領土教育が強められることになる。
しかし教科書では、領土問題でどのような対立や見解の違いがあるかなどは触れていない。容量の限界や小学校でどこまで教えるかの議論はあろうが、政府見解を教えるだけでは多角的なものの見方や想像力を育むことはできない。
→ いや触れろよっていう><;これじゃあ韓国と中国と揉めてる現実丸無視で、批難されても仕方がないように思う。もともと日本のだから!って思っても、それはあっち側も思ってることだし、こんな姿勢で「スーパーグローバル大学」みたいにグローバル化推しです!とか言われてもってかんじ。近所の国と揉めて続けて解決しようとするのか分からん国が本当にグローバル化してると言えるのか?グローバル化はなにも英語が話せることじゃない。外国人とコミュニケーションが取れることです。政府がそれをできてないように思う。そしてそんな国を「好きになれや!」(愛国心教育)って言われても、どうやって?と思う。
プラス、領土の所有権の主張から愛国心を測るって不思議なやり方。
上位大学10校に対し年間5億、グローバル型牽引制大学上位20校に年間3億の支援。(計110億)
もとからいる上位層にさらに金をつぎ込んで、上位層のレベル=国としてのレベルを引き上げたいんだろうけど、教育はそんな速足で行われるものじゃないはず!下位層どうにかするっていう長い目で取り組まないと結局、国としてはレベル上げにならない。貧困が犯罪を生むのは定石じゃないの。
私自身やあなた自身の問題であるはずの「結婚」や「少子化」の話題にまるで他人事のようなコメントが多いような気がする。
私自身が属している団体やグループ、友人、職場などでも、出産している女性にお目にかからない。
インターネットなどでは「30過ぎは卵子が腐る」「ババア」などと呼ばれているのをよく見る。
インターネットのそれらの言葉はすこし暴言ではあるが、実際高齢出産が増えたため帝王切開が増えた、等という記事を見るに、30歳というのは本来なら母になるべき年なのだろう。
年上の女性に「若いんだからいつか子供産むんだし体を大切にしなくちゃダメよ」といわれても、産むことになる未来が想像できない。
理由としては「金銭面」と「精神面」なのかなあと思う。
・お金の問題
http://allabout.co.jp/gm/gc/12003/
私の現在の年収は300に行かないくらいである。到底無理な額だ。
平均で350程度、平均なので、上もいれば下もいるのだろう。
しかし若い時に貰っていても体を壊したり仕事を首になれば意味はない。
若くて給料が高いのは、周囲を見ればIT企業なのかなあと思うが、彼らは毎日終電間際、あるいは終電過ぎまで体を犠牲にして働いて、高いお金を貰っている。
安定した仕事など無いのだ。公務員は若い時に一人暮らしをするのがつらいほどの低賃金、高賃金な職種ほど体を壊す。
将来的に収入を得られる見通しもない。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2803S_Y4A320C1CR8000/
このご時世、自分の技能だけが頼りだ。「技能がない者はセーフティネットに頼らず死ね」という風潮がすくなからずあるように感じる。子どもに安心して生き延びて貰うためにはまず親となる私たち自身が金を稼げる人間でなくてはならない。
結婚したくない男性が一定数いるのはわかる、独身は良い。自分の稼いだお金、人生を自己のために使う。
しかし、結婚したくないのに彼女、彼氏がいるというのはなぜなのかと周囲を見ていると思うのだ。
男性にとっては結婚は人生の墓場であり、女性にとって結婚は人生のプランにおいて必須なことの様な扱いをされている。なぜかと考えると、結局産む体を持ってしまった女性にとって「結婚」は「出産」を考える上で一つの到達しなくてはいけない関門だからなのではないか。
男性にとって結婚とは自分の付き合っている女性を確保する程度の意味合いしかないのではないか。親同様自立するための結婚等という考え、イマドキ、結婚が昇進に直結する大企業勤めの人しか考えないだろう。
私自身が男性ではないので男性が結婚しない理由については憶測でしかない。「結婚しなくてはならない」という気持ちの人は少ないだろうと思う。男女ともに皆いつか、そのうち、3人目くらいの彼氏彼女と、落ち着けそうな雰囲気の人と30手前くらいで結婚できればいいな、くらいしか考えていないように思う。
そして女性が焦るのは28から34くらい、男性が焦るのが35過ぎなのではないか。
男性にとって結婚は必須ではなく、女性にとって結婚は必須のようであるが、口に出さない人が多いのではないかと思う。
若い人(本来妊娠適齢期とされる人)ほど出産を「いつかすること」と他人事に捉えている、と私は感じている。
出生率2.0なんてあり得ないだろう、生まれてからずっと、小学校の社会科で少子高齢化を勉強した時からずっと出生率は下がってる。毎年毎年下がり続けているので、2.07に回復する見込みの将来労働力試算なんて面白くて笑ってしまった。なるわけがないだろう、と一個人としては思う。
学校で役に立つことを教えろ、ねえ…
まあ、読み書き算盤といわれたような、50音と漢字の読み方、足し算引き算掛け算割り算はできないと困るなあ。
今みたいな文学入りの国語はやめちゃっていいや。そんなものより、説明書の読み方書き方を教えるべきだと思う。テクニカルライティングな。
社会科は何県の名産が何でなんてどうでも良いから、法律とその活用の仕方(区役所市役所県庁と警察と裁判所と弁護士の使い方と商用契約の結び方)を教えるべき。
歴史は「何があったか」を全部捨てて「どうしてこういう流れになったか」に重点置いてほしい。あともっと科学史を。
数学はもっとみっちり。高校物理と高校微積分のへんな分離はもっと融合して欲しかったと思うけど今どうなってるのかな。
理系だった自分は、高校2年以降は地理を学んだが、1年で必修だった世界史から解放されてせいせいしたことを覚えている。
自分の感覚だと、社会科で地理ほど簡単な教科なんてなくね?と思ってしまうのだが、世の中には地理が大の苦手という人が少なからずいてびっくりしてしまう。
あーでも、地図に全く興味がないとかいう人だったら難易度跳ね上がるかもね。というか地図見ないで何をどうやって覚えるんだって感じ。
逆に、言われなくてもヒマさえあれば地図帳を眺めてるような人(自分のことだけど)は、地図と結びつきにくい統計以外は楽勝になると。
歴史のほうは、当時は絵に描いたような童貞高校生だった自分としては、歴史物エロゲでもやりまくれば乗り切れたかも(法律上買えないけどな!)。
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され一部で話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』に続いて『天帝のはしたなき果実』を読了したので、前回(http://anond.hatelabo.jp/20131221141558)に続いて比較検証していきたいと思う。ちなみに私が読んだのは講談社ノベルス版(通称「旧訳」)である。古野まほろとしては全面改稿した幻冬舎文庫版(通称「新訳」)を決定稿としたいようだが、諸事情から旧訳を参考とした。以下の比較検証において新訳では違ってくる部分があることをあらかじめ了承いただきたい。
12月7日にTwitterに於いて古野まほろが「関係性の説明」をした。それは大きく分けて【学校の設定】【死体発見時の言動等】【推理合戦】の3点である。今回はその中から【死体発見時の言動等】について検証していきたい。古野まほろが挙げた「同一性」は以下の通りである。
・警察への通報を拒否する理由は、高校生として「重要なイベント」のためである
・結果、その場にいる生徒による、多数決が行われる
・最後の一票により、イベントを優先して通報しないことが決まる
1つ1つの要素の問題ではありません(要素で見ても厳しいかな、とは思いますが・・・)。私が問題にしているのは、これらすべての要素の「組合せ」です。このような「組合せ」が、まったく別個の作家により、偶然に案出される可能性は、ゼロです。死体発見時の言動等もまた「同一性」の問題です。
古野まほろ(作者)は「死体発見時の言動等」と銘打っているが、前半は被害者の特徴についてである。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、メインとなる密室殺人事件の被害者となるのは「灘瀬朝臣(なだせあそん)」である。灘瀬について記述してある部分を引用したい。
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。
灘瀬朝臣は社会科担当教諭であり、専門が世界史なのか倫理なのかは本文中で特定されていない。高校で世界史を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(地理歴史)」であり、倫理を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(公民)」だ。それぞれ別ではあるが、実際は両方を取得しどちらも教えるというケースが多い。
『天帝のはしたなき果実』において殺人事件は何度か起こるが、メインとなる首無し殺人事件の被害者となったのは「瀬尾兵太(せおひょうた)」である。瀬尾兵太は世界史担当教諭である。本文中に世界史以外の社会科科目を教えているとの記述はない。
黄昏の音楽室に入ってきたのは、我が県立勁草館高等学校で世界史の教師を勤めるとともに、同校吹奏楽部の顧問に任じる瀬尾兵太だ。
「要素」で判断する限りは「社会科担当教諭(専門は世界史か倫理か不明)」と「世界史担当教諭」を「同一性」と表現するのは厳密な意味においては正確ではない。だが、少なくとも数学と英語のように全く関係がない教科ではなく、非常に類似している「要素」であるといえる。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の特徴が「理不尽な質問と悪態」であることは、さきほど引用した文のすぐ後に書かれている。特筆すべきなのは、実際に灘瀬朝臣が生徒に理不尽な質問をしたり、答えられない生徒に悪態をつくような場面が一切登場しないことだ。設定として生徒に恨まれる理由があることを示す以上のものはない。
根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の特徴が「理不尽な質問と悪態」と断言していいものかは迷う。『ロジック・ロック・フェスティバル』の灘瀬朝臣がただの記号として描かれているのに対し、瀬尾兵太ははるかに血の通ったキャラクターで、特徴として挙げるべき点が複数あるからだ。主人公たちの所属する吹奏楽部のOBであるとか、東京帝大法学部出身であるとか、胸に大きな緑色の宝石を付けているとか、語学の達人であるとか……。
そこで、まずは「理不尽な質問と悪態」に該当しそうな部分を探してみることにする。第一章から瀬尾兵太が生徒に質問するシーンを抜粋したのが以下だ。
「p、って何だ」
「阿呆(ドゥラーク)かお前! 確かにfは『強く』でもいいが、pは『静かに』。(後略)
「あと峰葉、お前は腕立て二セット追加だ――理由は?」
「唇に歌口(マッピ)の跡が付きすぎて興を削ぐな。何でそうなるんだ?」
「それは何でだ?」
(前略)音がボケてる。どうしてだ?」
「舌遣い(タンギング)が柔かすぎたからでしょうか(はふう、想定の範囲内)」
瀬尾兵太が吹奏楽部の録音を聴いて指導する場面である。「理不尽」かどうかは判断が分かれるところだが、「質問」をすることによって生徒にどこがよくなかったのか自ら考えさせるのが瀬尾兵太のやり方のようだ。そして適切な答えを返せなかった生徒には、「阿呆かお前!」と悪態をついている。「悪態」については具体的にその言葉が出てくる箇所がある。
「まずは誰も口論の当事者だって名乗りでてこないからです。瀬尾先生の悪態というか音楽に関しての辛辣かつストレートな要求は今に始まったことじゃありません。誰だって何度もボコボコにされてます」
この発言をした登場人物は瀬尾の言動は「悪態」そのものではなく、「悪態」と表現してもいいような「音楽に関しての辛辣かつストレートな要求」と認識しているようだ。
これまでに記述したとおりメインとなる殺人事件を比較した場合、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「被害者は、成年男性1人」で間違いない。しかし『ロジック・ロック・フェスティバル』は日常の謎を解く場面がいくつかあったのち、メインとなる密室殺人事件が描かれるのに対し、『天帝のはしたなき果実』は連続殺人事件を扱っている。その被害者は男子生徒、女子生徒、教師(これが「成年男性1人」に当たる)である。つまり、メインとなる事件だけを比較対象にした場合「同一性」に該当するが、比較対象を物語全体に敷衍した場合「同一性」には該当しないことになる。
「クローズドな施設」という表現が、含みを持たせている。ミステリーにおいては「密室」と「クローズド・サークル」というふたつの閉鎖状況がある。『ロジック・ロック・フェスティバル』において描かれるのは密室殺人事件だ。文化祭開催期間中に、密室となった社会科研究室で死体が発見される。
「……密室」
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
高校の敷地や建物は文化祭期間中で一般にも広く開放されているので「クローズド・サークル」ではない。しかし、社会科研究室を含む四階は、唯一の階段がふたりのバスケットボール部員によって監視されている。
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
『天帝のはしたなき果実』において、メインとなる首無し殺人事件が起こるのは、アンサンブルコンテスト県大会が行われている姫山市文化会館の第7楽屋である。この第7楽屋には死体発見時に鍵が掛けられていたが、オートロック式で関係者が鍵を持っていたこともあり「密室」とは呼べない。
ここの楽屋はオートロック式で、カードキィを持っていなければ開かない代わりに、内側からは鍵もチェーンも掛けられない珍しい扉になっています(朝のミーティングのとき瀬尾がいいましたね)。
姫山市文化会館は一般に広く開放されている公共施設であるので「クローズド・サークル」ではない。しかし、楽屋を含むエリアは関係者以外立ち入り禁止となっている。
「非公開区域にはリボンないと入れへんし、第7楽屋のドアは専用のカードキィないと入れへんで、念のため。借りたら記録残るし」
鷹松学園も姫山市文化会館も一般に広く開放されている。しかし「クローズドな施設」という含みを持った表現をすれば、どちらの作品も外部との出入りが制限される場所で死体が発見されており、当てはまることになる。
ここから死体発見時の状況になる。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の死体を発見するのは、主人公(中村あき)、山手線太郎、鋸りりこ、万亀千鶴、生徒会長(衿井雪)、副会長(成宮鳴海)の6人である。
四階に辿り着くと、そこにはなんと会長までもが参席していた。
「鍵、持ってきてくれたか! 早く、嫌な予感がする」
既に事態も把握しているようだ。
走り寄って僕がポケットから鍵を取り出すと、会長が引っつかむようにしてさっさと鍵穴へ差し込んだ。
かちり、と確かに鍵の外れる音。
社会科研究室の扉が開くと、中から冷気が溢れ出した。エアコンがかけっ放しらしい。何か異様な雰囲気と共に、確かな臭気がその中に感じ取れた。
「うっ……なに、この臭い」
千鶴が鼻を押さえる。
呼び掛けながら室内に足を踏み入れる会長。僕がその後に続いた。
研究室の入り口付近は左手にすぐ壁、そして右手に本棚といった配置である。そのため本棚が途切れたところで、ようやく部屋の全容が見渡せた。
目に飛び込んでくるのは痛いほど鮮かで、残酷な色彩。
一面の赤色。
血の海。
赤の海。
そこに沈む、ぐにゃりとした男の体。
深紅に溺れる、こと切れた灘瀬がそこにいた。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の死体を発見するのは、主人公(古野まほろ)、峰葉詩織の2人である。
うひゃあ! 前を歩いていた瓶緑色(ボトルグリーン)のブレザー着た集団も飛び上がった。彼女はず、ずいと第7楽屋の前に立つ。「キィは?」
「こちらです」
ピ、と脳天気な電子音とともに若草色(リーフグリーン)のランプが灯る。彼女は目を伏せがちにいった。
「こんどは檸檬、買ってくるのよ。古野君の勝――」
次いで教科書どおりの、深々とした、背筋の伸びた息継ぎ(ブレス)。
「僕の、か?」
彼女の凍てついた顔を、僕は忘れない。陸奥(みちのく)の安達ケ原の姫山に、鬼籠もれりというは真実(まこと)か――
そこには、嵌め殺しの机にもたれ、ドアに背を向ける形で、瀬尾だった物体があった。
肩からうえには、首がなく。
それは、避けられない宿業のようだった。
上記に引用したとおり、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「発見者が生徒である」ことは間違いない。付け加えるならどちらの作品も「死体の発見者が主人公を含む集団である」と言っていいだろう。また主人公自身が鍵を開けるのではなく、別の人物に促されて主人公が鍵を渡す点も共通点と言える。
ここからは、死体を発見したものの警察へ通報しないという判断をするシーンである。上記ふたつについて引用部分が同じなので同時に検証する。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、通報を拒否する生徒は生徒会長(衿井雪)である。その理由は自身が実行委員長として力を注いできた文化祭を最後まで終わらせたいというものである。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
『天帝のはしたなき果実』において、最初に通報を拒否する生徒は主人公(古野まほろ)である。その理由はすでに演奏が終わったアンサンブル・コンテスト県大会の結果が聞きたいというものである。
「差し当たり重要なことは」一馬が厳かに口火を切った。「ひとつしかないわ。通報か沈黙か。それが設問よ(ザットイズザクエスチョン)」
「僕は沈黙派だよ」と僕。
(中略)
「今通報すれば、会場は大混乱、大会どころじゃなくなる。あれだけの演奏ができたのは瀬尾のお陰だし、客観的にもその評価を得るのが供養だと思う」
けど、「とりあえず賛成」 → 「消極的にだけど一応賛成」くらいに変わりました。
TV見てないのでネット上の反対派の意見表明的な記事を2,3本見て、なんか感情的っつーか抽象的な意見ばっかりでよくわかんなくて保留にしといた。
で今日やっと、法案の本文挙げながらどのへんが問題と言われてるのか書いてくれてる記事をみつけたので、ちょっと考えてみようと思った。
↓
http://d.hatena.ne.jp/aliliput/20131205
で以下読んだ記事など
↑はForsightで「政治をゼロから考える」シリーズを書いてた人で、割とまっとうな感じの人。しかし記事の内容がイマイチ抽象的な感じ
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39354
http://www.foreignaffairsj.co.jp/archive/focalpoints/201312.htm#4
どこかのコメント欄で「対中国の防衛問題が喫緊の課題となっているので多少いけないところがあっても秘密保護法を早期成立させるべき」というのを見たので、フォーリンアフェアーズの特集ページを見に行ってみた。なんか思ってたよりやばかった。冷戦時代でやばいときの米ソ関係よりさらにヤバくなるかもしれないらしい。
http://blogos.com/article/74813/
↑民主党の議員の方の意見。私はアンチ民主だけど、この記事はすごくまともに見える。
私は法律に関しては「ナニワ金融道読んでました」ってくらい何も知らない素人なんで、法律の解釈がどうのという話はよくわかんないです。
そういう認識の上で、特定秘密保護法案への反対意見なんかを小一時間見て回りました。それで反対派が一体何について反対しているのかということを把握したかったのですが、なんだかこんがらがっていて良くわかりませんでした。それでも小一時間で見つけたもののうち、重要そうな意見を挙げてみます。
アメリカには大統領令13526号というのがあるらしく、秘密の対象となるものを厳密に定めているのだそう。(法律素人の私には日本の法案とどちらが曖昧なのか全く判別できませんでした。「その他」があるからダメなのか。)
さらに大統領令13526号は「政府に都合の悪い情報を秘密にしてはならない」という項目があるらしい。安全保障上秘密にすべき事項かつ政府に都合の悪い情報だったらどうするのかしら。「政府に都合の悪い情報を秘密にしてはならない」が優先するなら、スノーデンがロシアに亡命する必要なかったような気もするけど(素人考えです)。
今年の6月に「ツワネ原則」(国家安全保障と情報への権利に関する国際原則)というのができたらしく、政府法案における「情報公開」はこの原則を満たすレベルにないという意見もありました。
賛成派は官庁が指定して内閣が審査する?から大丈夫みたいな感じの事を言ってるけど、中学校の社会科で習った三権分立からいくと、行政が行政を監視するというのでは心もとないような気がする。だけど独立の監視機関を置くとしたら、その人材はどこが審査認定するの?行政かな?司法の方に来歴や家族関係、思想を洗い出して秘密にかかわるべき人材か審査してもらうなんてできるのかな?解決策がわからない問題です。
普通の刑法では既遂の教唆が処罰の対象になるらしいのですが、なぜそこが違っているのか?は小一時間ではわかりませんでした。なぜなの?
まぁほかにも「秘密にされる期間が無期限」とか「普通に生きてても逮捕されるかも怖い」的なご意見もありましたが、ちょっと曖昧で何言ってるかよくわからなかったので項目には挙げませんでした。
小一時間見て回った結果として、反対論者にも理があること(当たり前ですが)がわかり、反対するのも理解できる、と思いました。
一方で、やはり秘密保護法はどうしても無くてはならないもの(私は中学生の頃から「スパイ防止法」的なものが必要だと考えてきましたのでこれはなかなか変わりません)だと思うので、成立できるうちに成立させるべきだとも思います。それで「法案を少し修正して成立すればいいなぁ」という消極的賛成の立場に落ち着きました。
最後についでにアメリカについてどうでもいい話を書いておきます。アメリカはたぶんずっと前から秘密保護法みたいなのがあって、CIAとかNSAが活躍してきた国です。インテリジェンスという側面で見れば、日本よりも遥かに進んだ国です。膨大な秘密を持っていますが、さすがに秘密作りすぎじゃない?ということになったのか、数年前に(オバマ)大統領令13526号などが出されて、秘密の制限と情報公開の方向に向かったようです。そんな進んだ国アメリカですが、昨年から話題になっているエドワード・スノーデン氏は所謂ギークであり、思想背景も出自も真っ白とはいえない人物だったそうです。能力があるとはいえ、そういう人物を雇用しなければならなかったCIAやNSAは、深刻な人材不足だったのでしょうか。
nix in desertis:「ロボットは東大に入れるか」発表会(11/23)レポート
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/52165212.html
・解法は,やはり社会科とほぼ同じ。もちろん,教科書ではなくて評論や小説の「本文」と,選択肢に登場する単語の一致数で正誤判定を行った。小説は感情表現(喜怒哀楽)の文字に,重点をつける操作を追加で施した。
・そんないい加減なやり方では無理だろうと思っていたが,何年度か模試と本試を解いてみたところ,平均的な得点はなんと5割をマーク。最高点は70点弱。それでいいのかセンター試験。一致する文字数をカウントして,一番多かった選択肢を正しいとみなしているだけなんだぞ(会場爆笑)。ただ,英語同様に点数のブレが非常に激しく,今回解いた代ゼミ模試は42点(100点満点)と伸び悩んだ。安定性が必要。
入試現代文、特にセンター試験のようなマーク式・選択式の場合「本文と同じ内容が書いてある選択肢を見つけ出す」というのが基本であり全てだと思う。
本文中に書いていないことを記述してある選択肢は間違い。何故なら本文中に書かれていないことはどう頑張ったところで正解にしようがないから。(即ち自分で勝手に本文の意味を解釈するのは御法度)
出題側はそれらしく解釈できるけれども本文に書いていない内容の選択肢であったり、本文の論理構成から少し外れた言い換えを用いた選択肢などを紛れさせて解答者を試すのだ。
逆に解答者目線で「どうしてこれが正解(誤り)なのか分からない」という場合、自分で勝手に解釈した結果文意を思い込みで作り上げてしまっていたり、本文の論理構成を正しく理解できていないために言い換えであったり各種主従関係を正しく解釈できていないということが原因ではないかと思われる。
そう考えれば「単語の一致率による判定」という手法はあながちデタラメなものではなく、むしろ正攻法に近いと思うのだがどうだろう。
小学生に掛け算を交換法則が成立しないかのように教える文章題限定のアホ法則を適用する教師の話をtogetterで読みました。
私は肉体労働者が多く集まる学区の小学校に通っていました。ご近所の小金持ちさんたちの子息は多くが越境して隣の学区に通っていました。
私の親は目ざとい方ではないので、私が小学校入学の時にすんなり肉体労働学区の小学校に通わせました。
私は体が小さく、小学校は腕力こそ正義の空間で、その学区の中学校はそれに拍車をかけたような場所だそうでした。一説によるとあらゆるガラスが割られた結果全部アクリルにすげかわったとかいいます。
私の親はこのままいったら子供が死ぬと思ったらしく、中学受験をさせることにしました。塾通いが始まりました。
四年の時、社会科以外の勉強は大好きで、特に算数は好きでした。
五年の前半には、ほとんどの受験算数は問題を読んだだけで即座に回答の数値が出るようになりました。1秒とかからないのです。
私にはどうしても「文章題の式」がきちんと立てられなかったのです。受験算数どころか、ずっと100点以外を取っていなかった学校のテストでも同じで、答えがあっていて式にバツがつくことがあいつぎました。学校の算数のほうが、式については難しかったとおもいます。
これによって算数は苦手科目に陥り、たいそう悩んでそれらしい式を立て、順番に計算し、「わかった回答」と異なるので何度も書き直すことを繰り返していたのです。苦手意識はずっと続き、数学に入っても長らく嫌いなままになっています。
今ならわかります。足し算の順番が違うとか、掛け算の順番が違うとか、ひとかたまりにする組み合わせが間違っているとか、そういう数学ならなんの意味も持たないことを、算数だからといって要求されていたのです。
1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、
その家の娘の身代わりとなって満州に連行され従軍慰安婦となった」
2「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、
3「私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、
仕方なく慰安所に行ったんだ」
4「満18歳になったある日、男がやって来て、
5『村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅され、
1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした。』
黄さんは話芸でメシ食ってる感覚だと思う。
(2)国連・経済社会理事会クマラスワミ報告 / 1996年1月4日
もう本人、読んでないかな
心療内科で気持ちが楽になって、勉強のパフォーマンスが上がって
そのまま学問の道で頑張れそうなら、それならそれでよかったと思うけど・・・
盲腸みたいに「散らしたら大丈夫だった」っていう類の"病"じゃなくて
腎臓病みたいに、じわじわと人間の心や生活を蝕んでいくようなものである気が、多分にするので
安易に心療内科に頼らないで、若くて胆力ある時に、自分のダメさ加減や世間様が見た客観的な順位と向き合って
プライドの高そうな増田の自己評価と世間のギャップに対処できるようにしておいた方が、将来の糧にはなったかもね
まぁ、安易な解決方法を選んじゃう性格の人は、大学だろうが企業の研究職だろうが向いてないよ
自分は企業で研究職をやってたこともあるけど、この増田が部下にきたら正直イヤだもの 笑
http://anond.hatelabo.jp/20130904111911
その時計はあの人からの贈り物だった。私が教師になった日、当時あこがれでもあり、尊敬の対象でもあったあの人は、記念にと精巧なゼンマイ式の置き時計をプレゼントしてくれた。外側が透けていて、中の歯車が動いているのが見える、アンティーク調のものだった。
「教師になるんだから、時間はきちんと守るようにね。今までみたいに寝坊ばっかりしてちゃだめだよ」
あの人は目元をほころばせながら、いたずらっぽくそう言った。私は嬉しさと緊張のあまり、お礼の言葉もうまく言えなかった。
それから数年後、あの人は飲酒運転のトラックが起こした事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。二人で結婚式での衣装を決めたその帰り道でのことだった。私はまだ学校に仕事が残っていたので、貸し衣装屋から学校へと戻り、あの人は自宅へと帰る途中だった。巨大な鉄の塊に押しつぶされたあの人は、ほぼ原形をとどめていなかった。だから余計に、私は長い間あの人の突然の死を受け入れることができなかった。
あれから10年。何度かお付き合いをする相手はいたが、結婚にまでは至らなかった。あの人を越える女性に出会えなかったからだ。いつも冷静で大人っぽいくせに、時折見せるいたずらっ子のような無垢な表情。とても聡明で賢いくせに、誰にでも優しく、生徒からも慕われ、常にまわりを穏やかに明るくしてくれる。そんな人だった。誰といても、常にあの人と比べてしまう。そんな状態で結婚なんてするのは、相手にも失礼だと思ったし、自分自身も耐えられないと思った。
あの人との思い出の品はそれほど多く残っていなかった。元々、物に執着する人ではなかったし、私も事故後の辛さからいくつかの思い出の品を処分してしまった。残っているものといえば、就職祝いでもらったこの置き時計くらいだった。手巻きのゼンマイ式だったが、あの人から貰って十数年、一度もこの時計を止めたことはなかった。職場の机の上に置き、初心を見失わぬよう、あの人からの戒めを忘れぬよう、常に自分への戒めの象徴としていた。
ある日、気がつくとその置き時計のねじ巻き部分が折れ、カバーにヒビが入っていた。古いものだが、ずっと大事にしてきた。一度も落としたことなどない。傷ひとつつけたことはなかった。しかし今その時計のねじ巻きの部分がぽっきりと折れ、カバーが無残にも傷ついてしまっていたのだ。私はあの日の事故を思い出してしまった。何気ない日常だと思っていた日が、突如として崩れ、壊され、絶望へと変わる。あの感覚を。
もちろん、たかが時計のことである。あの日、あの人を失った事故と比べれば取るにらない。それに時計は完全に壊れたわけではない。ほんの一部が欠けただけだ。直して直せないことはないだろう。それでもなぜか、とても大切なものが、私のこの十数年が、あの人ととの大切な思い出が、不意に傷つけられたような気がして、目の前が真っ暗になっていった。
放課後、一人の生徒が私の元にやってきた。「社会科準備室でふざけていたら、誤って時計を落とし、壊してしまった」と告白してきた。言いづらいことを素直に告白してきた生徒の勇気は認めたかったが、一方で入る必要のない部屋に入り、ふざけて私の大切なものを壊したということに対して、抑えようのない怒りを感じていた。それでもあえて冷静に努め、私は生徒に問うた。
生徒は打ちひしがれた様子で答えた。
「すいません、弁償します」
簡単に言ってくれる。あの人との思い出を、私の十数年を、元の形にして弁償してくれるとでも言うのか。そうでなくとも、この時計は中学生が小遣いで弁償できるような安物ではない。今では時計の制作会社もなくなり、この時計を入手することさえ困難だろう。
「弁償ってこの時計高いんだぞ? そんな金持ってないだろ?」
「お、親に頼んで・・・・・」
残念な答えだった。せめて「将来働き始めたら必ず弁償します」とでも答えてくれていれば、許す気持ちも持てたかもしれない。しかし生徒は、自らの失態の尻拭いを親にさせようというのだ。私の語気は我知らずきつくなり、その後は生徒を詰問するような言い方になってしまった。私とて、何か結論や正解を持っていたわけではない。生徒がどう答えても、完全には納得できなかったかもしれない。生徒も必死で謝罪していた。それでも、もっと何か、納得できる答えを求めてしまっていた。
もちろん、教師といえどただの人間だ。感情的に大切なモノを壊された怒りをぶつけていた部分もあった。しかしそれよりも・・・加害者として人の大切なものを壊してしまうことの深刻さを、もっと知ってもらいたかった。今回はたかが時計だ。しかし場合によっては、飲酒運転で事故を起こし、誰かの人生を、その人を大切に思う人の一生を、潰して消してしまうことがある。それは大げさな言い方かもしれない。しかし、悪ふざけや、「ちょっとくらいいいだろう」という気持ちが、そういう惨事を引き起こすということを知ってもらいたかった。わかってもらいたかった。教師というより、大切な人を失った者のエゴ、だったかもしれないが。
それから数週間の間、私はその生徒を呼び出し、詰問した。しつこかったかもしれない。加害者としての責務を知ってもらいたかった、というのは本心だったが、自分の怒りと憤りを晴らすという部分があったということも否定はしきれない。そして叱責を繰り返すたびに、後者の部分が大きくなり、生徒のためにというより、そうやって己のうさを晴らすようになっていただけだったのかもしれない。生徒は泣いていたが、それも自分の境遇が辛くて泣いているようにしか見えなかった。
そんなある日、夢を見た。目の前にあの人が立っていた。その横には、あの生徒がいて泣きじゃくっていた。あの人は生徒の肩に手をかけて、顔を覗きこむようにして何かを話していた。あの人はしばらくして私に向き直ると、穏やかな声で「ちゃんと反省してるから、許してあげよ」と言った。そして私の側にそっと歩み寄ってきて「ずっとありがとう。でも私は大丈夫だよ」とはにかんだ笑顔で言った。私は恥ずかしかった。あの人なら、たとえ大切なものを壊されても、生徒にあんな風に怒ったりはしなかっただろう。私はあの人のようになろうとして、まったくなれていなかった。忘れていた。ずっと覚えていたつもりでいたのに、あの人の心を忘れていたのだ。私は泣きじゃくった。夢の中のあの人の胸で、子どものように大泣きをした。目を覚ました私は、布団の中でやっぱり泣いていた。
それ以降、私はその生徒を呼び出すのをやめた。
卒業式の日、久しぶりのその生徒の姿を目にした。避けていたわけではないが、避けられてはいたのかもしれない。生徒はバツがわるそうに目を伏せていた。正直なところ、私の方もバツが悪かった。人間として未熟な部分を生徒に見せてしまった。なにか声をかけようと思ったが、いい言葉が思い浮かばなかった。何を言っても言い訳に聞こえてしまうだろうし、下手をするとまた説教めいたことを口にしてしまうかもしれない。そう思って黙ってすれ違った。
私はまだまだ未熟者だ。あの人のようになれる日はまだ遠い。
中学時代、掃除中社会科準備室で遊んでいたら、机の上にあった先生の置き時計を落とした。衝撃で時計の横についている細工が折れた。一瞬元々外れるようになっている造りだったんだと思い込もうとしたが、やはりどう見ても折れていた。その場に先生はいなかった。しかし、謝らなければいけないと思って放課後、緊張しながら社会科準備室へ行くと先生が怖い顔をして一人で座っていた。自分はびびりながらも正直に話した。
先生「弁償ってこの時計高いんだぞ? そんな金持ってないだろ?」
先生「はあ? 自分でやったことなのに親に責任取って貰おうとするな。お前はどう責任取るんだ?」
それもそうだと思ったが、それならどうしたらいいのか判らなく黙りこくるしかなかった。とにかく先生は「責任をどう取るんだ?」と言った。
話が進まないまま1時間ほどした後、次の日も放課後社会科準備室に来るように言われた。翌日に準備屋へ行くと、また話は「どう責任を取るんだ?」ということだった。
先生「そんなことして欲しくない」
先生「お前にはできないだろ」
いろいろと言ったがどれも駄目だった。もう自分に責任を取る能力がないことは自分でもはっきりと自覚していたし、先生も当然判っていたと思う。
また1時間ほどした後、話は終わった。しかし、先生は「次の日にまた来い」と言わなかった。自分はこれで終わったんだと思った。結局何もできずに終わったが、安心はしたのは事実だった。
しかし、それから三日ほど経ってまた呼び出され「責任を取れ」と言われた。
もうこっちは泣くしかなかった。泣いたところで許しては貰えなかったけど。
それから断続的に呼び出されることが3週間くらい続いた後、急に呼び出されなくなった。いつかまた「責任を取れ」と言われるんじゃないかと思って眠れなくなることもあったが、それ以来何も言われることなく、卒業を向かえた。
卒業式の日、先生が自分の方に向かって歩いて来た。俺は少し忘れかけていた時計のことを思い出し、身体が硬くなった。先生は
先生「あの時の事件で学んだろ? 一度壊れたものは元に戻らないんだよ。責任の取れないことはするものじゃないし、責任が取れないことに繋がるようなことだってしてはいけないんだ」
と言うこともなく、ただ自分の横を通り過ぎただけだった。
残念ながら気の利いたオチはこの話にはない。でも、責任の取れないことはするものではないとは学んだ。
あの時に感じた「責任を取る」という言葉が含む重さや怖さが今でも心に残っていて、この言葉を聞く度に身体が硬くなってしまう。
http://anond.hatelabo.jp/20130616020650
あと、小4社会科教科書に地図記号載ってたが、いまどき「桑畑」なんて地図記号、暗記する必要あるんかいな?
念のため、子供に「桑って、そもそも何なのか知ってるか?」と聞いてみたら「知らない」と言っていた。
今だと、桑の地図記号暗記するより、「メガソーラー発電所」の地図記号を新設する方が先決じゃないのか?
たまたま、子供(小4)の社会科副読本、明治図書出版の「わたしたちの東京都」という副読本を見てみた。
東京奥多摩、檜原村が取り上げられ、「山間部なので農業林業が盛ん」と書いてある。
しかし、そのページに檜原村の職業比率(国勢調査結果)も円グラフに載っている。
それによると、畑・林業に従事している人は、実はわずか3%しかない。
建設業が3%、工場勤務が10%、商店旅館勤務が28%、病院介護勤務が30%、その他が26%。
つまり、「農林業が盛ん」と文章では書かれているが、円グラフを素直に読めば、
「農林業従事者なんて、マイナー、ニッチな存在」と読み解くしかない。
なのに、文章では
「畑仕事する人や、林業にたずさわる人が多いほか、建設業にたずさわる人や、商店や旅館にたずさわる人が多いです」
確か、小学4年では、算数の授業で、円グラフの読み方も教わる筈だ。
「先生、檜原村では、林業が盛ん、と書いてますが、でも円グラフを見たら、病院介護が多いんじゃないですか?」と
円グラフでは「最多勢力」である病院介護は、文章解説ではひと言も触れられていない。
恐らく、「都内では立地しづらい、特別養護老人ホームの類が、檜原村に集中している」のでは?と推察される。
東京都の福祉行政の歪みが、檜原村に現出してしまった観があるが、そのような「大人の事情」「不都合な真実」を、
小学4年に説明するのは、まず無理だ。
檜原村の「実態」(介護関係者最多)を教育せず、「農林業ののどかな村」というステレオタイプな像を教育したい、という