はてなキーワード: 社会科とは
GF(仮)いうアニメがある。アニメオタクの中ではクソアニメと言われていて、自分でも確かに出来はよくないとは思うんだけど、それでも自分は結構好き。
ストーリーは何の変哲もない日常系なんだけど、登場人物の言動に前向きで温かい感じ、なんというかすべてを許すような所作が感じ取れる。
大げさだが自分はここにいてもいいんだ、というような安心感がある。具体的にどのセリフがどうこうという話ではなく雰囲気としてそういう傾向がある。
誰も同意してくれないだろうし同意してほしいとは思わないが自分の中ではそうだ。
こっちはGF(仮)より優しさと暖かさが具体的に説明しやすい。生まれつき不幸な体質の人間を集めてその人達に幸福を掴み取るための教育を施す「幸福クラス」で、主人公がクラスメートたちと学校生活を送る様子を描くアニメ。全体的にコミカルでバカバカしくて笑える作風になっている。今は不幸でも、皆で協力して自分のペースでゆっくりと幸せになっていけばいいじゃないか。客観的には不幸に見えても、本人が幸せだと思っているなら幸せなんだ。そういったメッセージがあって、見ていて前向きな気分になれるアニメだ。
別に、精神が荒んでいたわけでも疲れていたわけでもないけど、自分はどうも優しさと暖かさが染み出すようなアニメに弱いようだ。
ただARIAや夏目友人帳なんかは違う。あれも確かに優しさと暖かさはあるし、超好きだけど、今言ったようなアニメとはちょっと方向性が違うとは思う。中学校の頃、社会科の先生が「始めて弥勒菩薩を間近で見たとき、そのすべてを許すような微笑みを前にしばらく泣いてしまった」と言っていた。残念ながら自分は弥勒菩薩を見たことはないが、弥勒菩薩を見て泣く感覚はなんとなく理解はできる。多分これらのアニメを見て涙がでるときの感情と同じだと思う。ARIAや夏目友人帳なんかは、理屈として言葉にするのが難しいが、優しくて暖かいだけで許しがないんじゃないかと思う。感覚的な話で申し訳ないがなにかそういうアニメはないだろうか。
自慢だが昔から勉強ができた。当時は自分が周囲より努力しているので成績が良いのだと思っていたが、おそらくそれだけではなく人より記憶力が良かったんだと思う。今は全然何も覚えられないが。
加えて深く考えずに勉強ができる性格だった。分数の割り算はなぜ分母と分子をひっくり返してかけるのか?そういうものだからだ。マイナスかけるマイナスがなぜプラスになるか?そういうものだからだ。大学生になって家庭教師のアルバイトをした時に「英語の主語と動詞をひっくり返すと疑問文になるのはなぜか?」と質問されて「そういうものだからとにかく覚えなさい」と指導した。家庭教師には向いていなかった。
社会科系も頑張って覚えていただけ。受験とともにさっぱり忘れ去ったが。
それでもう自分は勉強さえすれば何でも分からないものはないと思っていた。社会学における分類が、社会を観察した結果「こうやって分類したら分かりやすいんちゃう?」という世界を理解する方法の一つであるというのが分かっていなかった。もともと分類があって全てどこかに帰属するものだと思っていた。まだまだ分からないことが世の中にたくさんあるということも分かっていなかった。
大学に入ると覚えるだけでは勉強についていけなかった。でも勉強についていかなくても適当にしてれば単位の取れる大学だったので簡単に卒業した。別に大学に入ってから社会学を志したわけではない。ただ大学に入ったら全然世の中分からないことだらけだなと気付いた、それだけのこと。
多分、その気になれば、そこまで難しいことではないと思う。
以下、列挙していく。
ネットはリアルタイムでトップに来る項目が変わるため、「その瞬間」のニュースに惑わされる。
それより、「昨日一日何が起こったのか」をまとめられたものを読んだほうが良い。
リアルタイム性にこだわるより、きちっと、毎日何が起こったのかを、把握するほうが良いし、
そこまで「瞬時にニュースを知らなければならない必要は、あんまりない。株取引とかやってなければ。
あと、何をトップに持ってきて、見出しをどの大きさにするのかは、新聞社のニュース価値の判断を示しているので、
蔑ろにすべきではない。
産経は、思想や主義主張以前のレベルで、誤報や事実誤認が多いので(他紙に全くないわけではないが、産経よりまし)
あまりお勧めしない。
「読売と朝日」、「日経と毎日」とか、傾向の違う新聞を併読すると尚可。
とくにビジネス方面に強くなりたければ、当然、日経がメインになる。
それぞれのジャンルの入門書や、最近話題のトピックについての概説書が毎月出ているわけだから、
うまく活用すべし。
池上氏が選挙特番でお得意とする「創価学会ネタ」なんかも、十分新書レベルで手に入る。
で、ちゃんとした著書のちゃんとした書籍ならば、参考/引用図書とかでてるから、さらに深堀りしたければ、
そこから入るのが近道。
とりあえず、自然災害からテロ、科学上の大発見まで、大きなトピックはたいていNHKスペシャルで「最新報告」をしてくれる。
受信料に対する怒りが軽減される。
ネットの情報が玉石混交なのは今更いうまでもないが、けっこう使えるのは、「議事録」とか「発表資料」とか
「記者会見の映像」とか、その他、いろいろな「原典」に直接当たれるのが、最大の強み。
多分、これくらいのことを継続していけば、
「あの人、いろんなこと知ってるねえ、池上さんみたいだねえ」と尊敬される程度の知識は身につくと思う。
ただし、これはあくまでインプットの方法なので、アウトプットの仕方を間違えると
ただのウザい人になりかねないが。
池上彰という人は、抜きんでた専門分野もないし、
ジャーナリストとしても、ものすごいスクープをとったことがあるとか、そういう実力はないと思うけれど、
情報を取捨選択してわかりやすく伝える能力と、選挙特番に見られるような、瞬時に判断して的確に質問する力がハンパないと思う。
残念ながら、こういうアウトプット能力の磨き方は、うまくまとめられないので、
どこかの増田さん、まとめてくれないだろうか?
shiraivin 数学じゃなくて算数だろ、と思いながら読んだけど、確かに数学だわ。そして、これを小学生に説明するのは俺には無理。さすが東大
まてやこいつ!
さすが東大、じゃないから。東大生だったら誰でも出来るという話じゃないから! りょーすけって人がスゴイだけだから。ほんと勘弁して下さい。
お前らショーンKの事件で肩書なんて意味ないよねって話になったんじゃねえのかよ。
東大生がスゴイんじゃなくてりょーすけという一人の人間がすごいってことに気付いてくださいほんとお願いします。
http://b.hatena.ne.jp/entry/nanaio.hatenablog.com/entry/2016/03/24/110406
このりょーすけって人も、こういうので東大生のハードル上げるのやめろいややめてくださいお願いします。
私みたいに英語と国語と社会科だけ得意だったけど理科や数学は全くダメでこんな質問されても説明なんて無理っていう雑魚もいるんですよ!!
けっ!どうせこのりょーすけってやつガチ理系なんだろと思ってたら文系だし。なんなんだよ完璧超人かよ。
tohokuaiki 東大生でイケメンでユーモアと実行力もあって数学の問題も丁寧に小学生に応えられて、どんだけスペック積むんですか?きょうびマンガでもそんな属性盛りませんよ。
同じ東大通ってたけど生きててすみません穴掘って埋まっておきます!という気分になるから本当にやめろください。
そうだそうだ。りょーすけさんがおかしいのであって、こんなん俺達に期待するな。上司や同僚の根拠の無い期待がいつも重たくて死にそうなんだよ。
cj3029412 くっそーw 東大卒だがただのねこちゃん下僕おっさんの1日を5円で売りますやるか! くっそw 万葉仮名語る需要があるとは思えん… 記事ええ話しやw
わ か る わ。 やけくそで同じようなことやれって言われても俺他人から求められるような知識や能力ないよ。
あえて私が自慢できることがあるとしたらこれだよね。私も身近にりょーすけみたいな先生がいた。
たいして頭良くなかった俺が東大いけた理由があるならコレ以外に考えられないから運は良かった。
頭いい子は小学校通わせずにこういう教育受けれる機会がもっと増えてほしいよな。大事なのはそれだけだと思うし。
ネットでいろんなサービスあるけどさ。 学校教育やら塾の代替みたいなサービスよりもさ。
こういう学校教育になじまないやつが良い先生とめぐりあって自分の力をぐいぐい伸ばしていけるようなサービスができて、それを国が支援していくみたいなのやっていこうぜ。
続き
なにかの拍子に
「数学とか物理が1番簡単じゃん。1番教科書薄いんだから。社会科の科目とかって字も細かいし、多いし、まとまってないし、」
と言ってたことがある。
彼にとってはそうだったんだと思う。
自分も、理数系の科目ではたびたび全国模試で偏差値70くらいはとっていた。
偏差値70といえば、上位5%以上なので、ある種の陶酔感があったし、数字の神秘を感じたような気がした。
でも、彼と話すと自分の感じてるそれは違うのだと思い知らされる。
成績の問題ではない。
「数学を使いこなして、いい点を取って、偏差値70、俺sugeeeeeee!数学楽しい!」
と思ってる横で、
「数学とか物理って電卓みたいなもんでしょ。ちょっと慣れれば誰でも使いこなせる」
という風な態度にハッとさせられる。
彼は、スマートフォン教室に通う老人をみるような、不思議な気分で皆をみていたに違いない。
しかし、彼は彼で、楽しそうではあった。
それが、数学や物理の教師が、理学部物理学科、理学部数学科を勧める理由だったと思う。
例えるなら
「スマホをいじるのが楽しい。スマホでいろんなことを出来るのが便利!」
というような感情を抱いていただけで
などとは微塵も思ってなかった。
彼の思考は完全に実学向きで、今でも就職先では優秀な社員をしてると思う。
器用すぎるところが災いして、おそらく生涯、一技術者として生きると思う。
あるいは、任天堂の岩田聡社長のように、技術者としてはスタンドプレイ、典型的なパワーコーダーでも、ポジションが変われば全体最適のためにその能力を魔法使いのように発揮する人間なのかもしれない。
出来の良いSPIじゃね?
高卒のくせに面積の計算ができない人、大卒のくせに微分がチンプンカンプンの人、そういう人が沢山いるならもう就活に高卒や大卒なんて要求してもしょうがないじゃん。
大学入試や高校入試がSPIの代わりになってるなんて言うならそういう人達がいるのがそもそもおかしい訳でさ。
じゃあ何が必要かと言えばそれぞれの企業が必要だと思う能力を正確に測れるSPIなんじゃないかって事。
それを企業ごとにやっていたら大変だからセンター試験みたいに求職者全員で一斉に受ける仕組みにしたら良いんじゃないのって事。
その結果を見て会社は「まあうちは社会科は50点足切りでいいからこの内容の数学は90点超えてくれないと困るかな」とか「うちは営業だから算数クラスができてればいいよ。でも国語は80点超えてね」とかやっていけばいいんじゃないのって事。
どうかなこのアイディア?
色々いっぺんに解決出来ね?
おっと「奨学金返せない人は今泣いてるんですよ!」なんてただ過去を悔やんでばかりいるだけのネガティブ意見はサンキューノーノーでごぜーますぜ。
おれは忘れもしない。
小学校の社会科で初めて農業や貿易について学んだころ、おれは調べ学習のため図書館に来ていた。
そこで手に取ったのは、たしか日本の食糧事情についての本だったと思う。
その中の統計表にあった「熱量」という言葉の意味が、その時のおれにはわからなかった。
だが時を同じくして国語辞典の引き方も教わったばかりのおれだ。
早速家から持ってきていた辞典で「熱量」を調べると、そこにはこう書かれていた。
「カロリー」と。
おれは混乱した。
作物の生産量ならキログラムとかトンとか、重量で記述するものじゃないの?
もちろん今ならわかる。
食料自給率をカロリーベースで見るだとか、そういう意図の下で作られた統計だったのだろう。
だが当時は混乱した。
ところで現状を振り返ってみてほしい。
何か盛り上がっている様子や、勢いがあるさまを「すごい熱量」と表現しているのを見かけたことはないだろうか。
おれはこの表現がどうしても納得いかないのだ。
そこは「熱意」とか「熱気」とか「すごい勢い」とか、他に適切な表現があるじゃないかと。
おれが思うには2012年、満島ひかりが中島みゆき「ファイト」を歌うカロリーメイトのCMがきっかけだと思っている。
とどけ、熱量。
このキャッチコピーのせいではないか。
このコピー自体の出来はともかくとして、言わんとしていることはわかる。
カロリーメイトは、カロリーも含めた様々な栄養素を豊富に含んだ食品である。
それを届ける大塚製薬は、人々にエネルギー(カロリーという意味でも、もっと精神的な活力という意味でも)を届けたいという思いをこのコピーに込めたのだろう。
それ以外の文脈で「熱量」を使うと、それはもうカロリーという意味である。
みんな、ちゃんと意味を把握せずに使っているんじゃないか?
印象的な「熱量」シーンがある。
元博報堂の社員で、ブログの退職エントリーが話題になった人だ。
彼が以前、自分の参加したプロレス興行について、その盛り上がりをもっと広めていきたいという趣旨のツイートをしていた。
個人的な意見になるが、この三富というレスラーは勘違いをしている。
アントニオ猪木以降、プロレス界のスターというのはみんな見かけによらずクレバーだと言われている。
プロレスにおいては、アスリート的な能力だけでなく観客を盛り上げる能力が必要とされる。
前者は練習あるのみだが、後者はかなり頭を使わないと発揮できない部分だ。
そしてこの三富だが、彼はプロレスラーがみんなクレバーであるからといって「おれって考えてますよ」アピールだけをする男なのだ。
頭で考え、体で発信する、これがプロレスラーの仕事である。これらはどちらが欠けてもいけない。
しかし三富は頭で考えたことを、ツイッターなどで発信するだけなのである。
彼はパーソナルトレーナーの資格を持っていながら、体はお世辞にもグッドシェイプとはいえない。
単に増量期なのかもしれないが、それは見る者には関係ないのだ。
そして博報堂と兼業でやっていたために試合の機会は少なく、名勝負製造機からは程遠い選手である。
そんな彼が「俺はプロレス界を盛り上げる」などと言っていても説得力がないだろう。
ましてや「熱気」でいいところを「熱量」という誤った言葉で表現してしまうという配慮の無さである。
意識の高さは結構だが、その発言は勝者が行ってこそ意味のあるものである。
話を戻そう。
もちろんおれだって、言葉の意味が時代によって移り変わることは知っている。
他人が何と言おうが、辞書に何と書いてあろうが、言葉の意味は使う人のものだ。
他者とのコミュニケーションの場合でも、両者が了解しているならばどういう意味で使おうと自由である。
それに、拡大解釈すればおれが誤用だと思っている「熱量」もあながち間違ってないように思えてくる。
その場の盛り上がりとか雰囲気のすごみを伝えるなら、熱”気”とか熱”意”とか、客観的に測れないものを使う方がそれらしいじゃないか。
その場の空気を感じている人たちだって、その感動は量より質という類のものであるはずだ。
熱量警察と言いつつ、おれも別に見つけるや否や指摘するような真似はしない。
しかし自分がどういう意味を相手に伝えたいのか、それにはどういう言葉が最適なのかをよく考えてほしい。
それが君たちの周りにいる人たち、支えてくれる人たちに真摯に向き合うということなんじゃないかな。
でも忘れないでくれ、熱量の意味は熱エネルギーだということを。
そして、何か感動を覚えたとき、とっさに思い付いた言葉がそれを形容するのにふさわしいかどうか、よく考えてほしい。
これがおれの「熱意」だ。
「憲法9条と、基本的人権の各条文は、それこそ丸暗記してください」
これ、もし「改憲」なんてことになると、中学受験の社会は大混乱するなあ。
上の子の受験は兎も角、下の子(小学2年)の際は、憲法変わってそうで怖い
「主権者は天皇から国民に変わりました」と教えているが、これも雲行き怪しい。
2.N能研の社会時事問題で、「戦後70年談話」が出題されていた
3.「日本地理のポイントは、①②が農業と工業、③が水産、④が林業です。」
自分が子供の頃は、筑豊三池とか北炭とか、それなりに覚えさせられていたのだが、国内炭鉱全滅だから、不要なのか。
今風に言えば、「九州は太陽光発電が盛ん」とか「北海道は風力発電が盛ん」のような、
4.そして「①②が農業と工業、③が水産、④が林業」ということは、
「第一次産業、第二次産業の立地は覚えさせるが、第三次産業は覚えるのは不要」というだよね。
例えば小売がどこで多いか、地方では郊外商業化しているとか、首都圏では駅前商業が隆盛とか、インバウンド商業とか。
「地方中核都市(札幌仙台広島福岡)には企業の支店が多い」とか
「県庁所在都市では県庁公務員や地銀・大学・地方紙の勤務者が多く、割と高収入な人が多い」とか、
「介護産業は首都圏で不足している」とか「医療産業は東京都心と西日本に多く、首都圏外縁部では少ない」とか、
第三次産業の立地論の話の方が、実生活では第一次産業よりはるかに要求されていると思うのだが。
簿記の基本を学校で教えとけっていう増田(http://anond.hatelabo.jp/20151109212125)がいて、ブコメもたくさん集まっていて、
だいたい「その通りだ」という意見とか、「そんなもん、必要になったら学べばよい」みたいな意見とか、
「何を削るんだよ。学校では基礎教養を教えるべき」とかいろいろあるけど、
多分、問題なのは、そこそこ一流という学歴を得るための日本の教育カリキュラムをまっとうにこなしても、
簿記とか会計の仕組みや考え方が、世の中においてかなり大事な仕組みであり、しかも、人類の知的遺産の一つである、という認識が
で、そのまま、管理職になったり政治家になったりジャーナリストになったり評論家になったりして、
なんか、いろいろ混乱させている気がする。
「必要になったら自分で身につけられる」って、それは当たり前で、必要になりゃ人は学ぶもんだ。
あと、別に実務的な帳簿のつけ方を、必ずしも全員に教える必要もなくて、
それより学校で教えるべきことは、いろいろあるとは思う。
例えば、政治の分やでは学校で民主主義とか基本的人権が大事ですよとか、現代につながるそういう思想は
市民革命を経て生まれたんですよとか、そういうことを、学んだりする。
それは、必ずしも、いわゆる「公民」の分野だけじゃなくて、世界史とか学んでも、そういう視点がある。
なのに、会計学とか、株式会社とか、そういう概念については、あんまりそういう視点で教えない。
簿記の起源や諸説あるらしいが、そのうちベネチアやジェノバの商人に導入され、ヨーロッパで洗練されていったものらしい。
オレ自身、詳しくはないが(なにせ、学校で習わないし)、その後、株式会社というものが生まれて、
ヨーロッパ文明が大航海時代から植民地支配へと、傍若無人な力を発揮するうえで、
で、今の社会だの世界情勢だのを語るうえで、企業というものを無視するわけにはいかんだろう。
日本の社会の多数派がそこに属しているわけだし、一生かかわらずに生きる人は多分いない。
別に、具体的に仕分けがどうこうとか、細かく必修で教える必要はないだろうし、
そんなことして別の内容を削る必要もないと思うが、
世に複式簿記というものがあり、それがどんな重要な役割をはたしているかということだけは
教えておけばいいのではないか?
その程度だったら、既存の社会科の内容をちょっと手直しすりゃ、できると思う。
少なくとも、日本史で、仏像の写真みて仏師の名前をこたえられるようになったりするより、大事な気がするし
社会科といえば「いいくにつくろう鎌倉幕府」(最近は、年号違うらしいけど)とかを思い浮かべるばっかりとかいうより、
ましな結果になると思う。
興味が湧いたやつは、そこから深堀したり、進学先を経営学部や商学部にしたりするだろう。
そもそも、学校で学ぶ範囲の中で「興味を持つ」ことすら難しいんじゃないか?
オレは学校で周期律というのを習ったが、社会に出て実際に役に立ったことは、ほぼ無い。
それでも、過去にああいうものが作られて、それで世の中の物質がすべて説明できて、
そういう知識が積み重なって化学が発展してったことを
学校で学んだことはムダだったとは思わない。
実際に帳簿を付けたり仕分けをしたりはしない人たちにとっても、
そういう感じで、「複式簿記というものがあり、それは大事なものなんだなあ」と知っておくべきだと思う。
社会に出て、実際に具体的な知識を身につける必要に迫られた人は、多分
「ああ、社会科の時間になんかいってたのは、こういうことなんだなあ。もっと学生時代に勉強しとけばよかった」
と思うはずだ。
ヨーロッパの文明が「複式簿記」という仕組みを洗練させ、それが、現代まで続く、企業会計の基礎になってきたという
そのことを知るのは「教養」だと思う。
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
国民的議論という言葉は、恐ろしく空虚なくせに、どこまでも無神経なハリボテのように私には思える。あるいは、どこにも辿り着かない作りかけのジェットコースターみたいにも感じられる。そして、どこにも辿り着かない原因を、乗っている人間の気持ちや努力が足りないせいだと言っているように、責任を放棄しているようにも聞こえることがある。
いつからだろうか。その国民的議論という非実際的な言葉が、バラの香りつきのダブルロールの糞拭き紙のように大量消費されるようになったのは。それは日々生まれ落ちていく。そして汚水に渦巻き、下水道に落ちていく。溶けていって消えていく。それが私には気に入らない。とても、激しく。
国会議員や大臣から、その反対の立場を取る論客とか文化人きどりのバカな芸能人まで、テレビでラジオで新聞で、ことあるごとに、誰もが言うようになった。国民的議論が必要だと。ガチャガチャ、騒いでいる。なんだおまえらクツワムシか……。しかし、おそらくは、それだけではないんだろう。人前でもって何かを話すような偉い方々は、例えば、禿げ上がった社会科教師や、ぶんぷく茶釜みたいな地方議員なんかも、そのような薄い言葉を(偉そうに)使っているに違いない。
だから、もう止めませんか。
国民的議論という言葉は、それは美しい言葉だ。それは認めます。人の精神の高貴さを讃え、鼓舞する言葉でもある。しかし同時に、それが愚かしいほどの理想論を下敷きにしなければ息ができないような都合の良い言葉だということにも気づいている筈だ。そもそも、国民的議論というものは、どこでどのようにして行われて、何を成す力があるのだろうか。いや、具体的に考えてみれば、それはどのような具象的な力も持っていないことが、誰にとっても、はっきりと分かる。我々は限られた場所で生活を行い、限られた人々とのみ、限られた意見をもって、差し出しあうことしかできないのだ。それは総括しあって、大小様々な結論を生むかもしれない。だが、それだけだ。何にもならない。そして現実には、それすら起こらない。起こっていない。起こったこともない。有権者全体の意識の変革など、できるわけがないのが現実だ。仮に、なんらかの技術革新に基づく発展があれば、いや、その補助があってさえ、不可能かもしれない。それは人間という生物種の、ひとつの社会的限界なのかもしれない。だが、ひとまずそれは置いておこう。
書いていて、大分、怒りが収まってきた。とにかく、私は国民的議論などという言葉を、語りかける言葉として使ってはいけないと考えていることを表現したかったのだ。そんな場当たり的で曖昧な、儀礼的でしかない誤魔化しを使うのは、互いを互いに貶めることに他ならない。そんな体裁第一主義からは、日本人は、もういい加減に卒業しなければならない。
この記事は東大の理科類を志望して関東圏で浪人することを考えている方へ向けた記事です。筆者の経歴の都合上、河合塾のハイパー東大理類コースに関することが主となりますが、予備校やコースの選択について少しでも役に立てば幸いです。
現役時76点差で東京大学理科二類に不合格。河合塾本郷校のハイパー東大理類コースを経て1浪で東京大学理科二類に入学。現役時、東大即応オープンでは第1回、第2回ともに理科二類D判定、東大入試実戦模試では第1回、第2回ともに同E判定をとる。浪人時は、東大入試即応オープンでは第1回理科一類C判定、第2回同A判定、東大入試実戦模試では第1回同B判定、第2回同A判定。全統記述模試の偏差値は第1回、第2回、第3回の順に国理65.0→69.9→71.2、理系67.6→72.1→73.7。
浪人の方法として自宅浪人、仮面受験も考えられますがここでは塾・予備校について筆者の経験を交えつつ書きます。
欲しいもの
・質問に答えてくれる人
・添削
(・現代文の授業)
筆者の場合上記のような感じでした。この時点で自宅浪人の選択肢は消えました。奨学金制度を考えない場合、私立大学で4年間過ごすよりも1年間浪人してから東大で4年過ごす方が安く済みます。また「切磋琢磨することができる友達」の数の点で実績のある大手予備校に絞られました。つまり、低迷している(ように感じられる)代々木ゼミナールとまだ既卒生の事業に参入して間もない東進ハイスクールを選択肢から除外し、駿台予備学校と河合塾から決めることにしました。この2つは学校法人でもあります。以下は駿台予備学校と河合塾の比較になります。※2014年度版
・費用
授業料(年間)
・特徴
50分授業(1日最大8時限)
1日の時間割には「10分休憩」が4回、「20分休憩」が2回、「50分休憩」が1回ある
・費用
入塾金 10,0000円
授業料(年間)
東大理類 680,000円
・特徴
90分授業(1日最大5時限)
休憩時間は各20分で昼の休憩が50分
週に1度ロングホームルームがあるが、ホームルームは存在しない
チューターと講師の間に連携がある(指導する上で重要だと思います)
通常授業は主に基礎シリーズ(4~7月)、完成シリーズ(9~11月)、実戦シリーズ(11月、12月をまたぐ2週間)からなる
駿台予備学校にはティーチングアドバイザー、河合塾にはフェローと呼ばれる「質問に答えてくれる人」(添削指導も頼めば行ってくれる)が講師とは別にいる
自習室には解放教室(授業をする教室を自習用に開放している部屋)と個別ブースがある(ただし駿台はいずれも座席指定制であるのに対し、河合塾では個別ブースは指定制、解放教室は基本的に座席自由である)
塾生寮が存在する
駿台予備学校にはフロンティアホール、河合塾にはスカイラウンジといったような食事の可能なスペースがあり昼食の時間には賑わう(教室でも休み時間は飲食できます)
東大クラスだが、京大、東工大のような国立や医学部を志望する生徒も所属している
おおまかには以上のようになります。次に東大専門校舎における各コースの特徴を見てみます。以下にざっとまとめましたが、筆者は浪人時駿台に在籍していないので「スーパー東大理系」や「駿台東大クラス」等のワードで検索すると駿台のクラスに関するより有益な情報が得られるかと思います。
この2つのコースの授業は合同で行われます。スーパー東大理系コースのコマ数はおよそ31コマで、集中コースの生徒には加えて土曜日にパワーアップセミナーと呼ばれる演習の授業(4コマに相当)があります。4月に実施されるプレースメントテストの出来により上から順にSA,SB,SCとクラスが振り分けられるそうです。1クラスの人数は150~200人だそうです。SAは4割程度、SBは数人が受かり、SCは滅多に受からないと聞きます。
コース名の通り演習を重点的に行うコースです。授業は通常約32コマで土曜日にテストを行うことが数回あるそうです。4月に実施されるプレースメントテストの出来により上から順にSX,SY,SZとクラスが振り分けられるそうです。1クラスの人数は30~40人らしいです。SXはほぼ全員、SYは8~9割、SZは4割程度が受かるそうです。
数学、理科の授業が必修で英語、国語、センター試験対策(社会科目のみ)は自由選択です。数学、理科以外の授業は6つまでの選択では料金が変わらず7つ以上選択すると上で述べた料金に1つ当たり18,000円(記憶が曖昧ですがこれぐらいの値段だったと思います)が加算されます。授業をすべて選択しても東大理類コースよりも安いので非常にお得です。筆者は現代文、センター試験対策以外の計7つの授業を選択しました。すべての授業を選択した場合週18コマです。クラスは1つのみで、1クラス60人程度でした。説明会では7割が受かると聞いていましたがその通りだったように思います。東大即応オープンにおけるクラスの平均点は第1回、第2回ともに理科一類のA判定ラインを超えていました。理三には少なくとも3人受かっていました。
数学がSEG監修のテキストでプレミアム専用です。講師もSEGで教えている先生です。筆者の在籍していた年は物理の講師が苑田先生でした。授業時間の延長が大変多いが高校範囲にとどまらない面白い授業だったと聞いております。週18コマで授業はすべて必修です。クラスは1つのみで、1クラス60人程度でした。説明会では7割が受かると聞きました。東大即応オープンにおけるクラスの平均点は第1回、第2回ともに理科一類のA判定ラインを超えていました。
・東大理類コース
週18コマで授業はすべて必修です。クラスは1つのみで、1クラス70人程度だったような気がします。説明会では3割が受かると聞きました。
「東大理類コース」の授業に加えて土曜日にプラスゼミと呼ばれる演習の授業があります。クラスは1つのみで、1クラス60人程度だったような気がします。説明会では3割が受かると聞きました。
以上の情報と「周囲のレベルが高い方が成績は伸びる」という過去の経験、駿台に通っていて合格は確実と思われていたのに東大に落ちた3人の知り合いの存在(飽く迄個人的なものです)などから筆者は河合塾本郷校のハイパー東大理類コースに決めました。細かく言えば、テストゼミと添削が多いことや授業が自由選択であること、東大の理科、数学の試験時間が150分であるため90分授業の方が都合がよいことやMEPLOの合格実績、自習室が充実していること、本郷校の校舎が綺麗であったこと、何より料金が比較的安いことが理由です。なおハイパー、プレミアムも東大即応オープンでC判定以上をとったことがあるか全統模試の成績がそれなりに良ければ認定が下りますし、認定テストの基準もおそらく緩いので認定が欲しければ臆せず認定テストを受けると良いです。
河合塾理系コースについてより詳しく説明します。生物、現代文、センター試験対策の授業については書けませんがご了承下さい。
専用のテキストを使用します。基礎シリーズでは3週間に2回程90分4題のテストゼミを行います。テキスト、テストの問題のレベルは市販の問題集で言うと「やさしい理系数学」程度だったように思います。完成シリーズでは3つある授業のうち2つがテストゼミのみになります。一方は150分6題の東大型東大レベルのテストを行い、次の週に解説という形式です。つまり2週間に1回東大模試を受けるような感じです。もう一方は毎週分野別の90分4題のテストです。こちらも東大本試験レベルだったように思います。残る1つの授業は演習の授業で、テキストの問題は骨のあるものばかりなのでじっくり考えて授業に臨むと良いと思います。基礎シリーズに積分計算に重点を置いた自習用テキストとハイパー専用の基本事項集が貰えます。基本事項集から学ぶことも多かったので蔑ろにしない方が良いと思います。夏前に分野別で問題が掲載された自習用問題集が貰えますが授業と比べると簡単です。
プレミアムと共用の専用テキストを用います。基礎シリーズは力学、熱、波動を扱います。各分野の確認として基礎シリーズに3回75分3題のテストゼミがあります。問題のレベルは東大と同程度かそれ以上だったと思います。完成シリーズでは電気、磁気、原子を扱います。こちらも各分野の確認として2回75分3題の同様のテストゼミがあります。テキストが終わると4回ほど東大形式の75分3題のテストゼミを行います。実戦シリーズでも同様にテストゼミを行います。テストには東工大や早稲田の問題や東北大後期試験などを用いているので75分で解ききることはほぼ不可能ですが問題を解く順番や記述の仕方を工夫して得点を最大化することを目標に取り組むと良いと思います。ハイパーとプレミアム専用の自習用テキストが貰えるのですがこれはテーマが明確で解答も極めて簡潔なので個人的に「難問題の系統とその解き方」や「名門の森」よりも学習効果が高いように感じました。
こちらもプレミアムと共用の専用テキストです。基礎シリーズでは理論、有機を扱い、完成シリーズでは無機を扱います、基礎シリーズに2回、完成シリーズに1回東大型のテストゼミがあります。そのほかに完成シリーズでは理論、有機のテストを行います。実戦シリーズでは東大型のテストゼミを行います。テキストには自習用の問題も載っているのですべて解くと良いと思います。
通常の「東大理類コース」と同じテキストです。基礎シリーズは文法・語法、英作文、英文解釈、長文読解、いわゆるネイティヴによるリスニングと自由英作文の授業があります。完成シリーズは文法・語法、英作文、英文読解、東大形式の英語、東大形式のリスニング・英作文の授業があります。
古文と漢文
通常の「東大理類コース」と同じテキストです。どちらも非常にわかりやすい授業でした。東大の問題に限定されていませんが、論述に軸を置いた授業で、基礎シリーズ、完成シリーズではそれぞれ4回ずつ添削してもらえます。サブテキストが役立ちました。
上で述べた通りSEG監修のテキストを用います。こちらもハイパーと同様にテストゼミがあるようです。内容についてはよく知りませんがテストは難しく平均点が80点満点で20~30点だと聞いたような気がします。
他の科目はハイパーと変わりませんが物理は苑田先生、化学はSEGでも教えている先生だったそうです。
ハイパーと比べるといくぶんか基本的な内容だったように思います。そのぶんハイパーよりも演習量は多そうです。テストゼミは実戦シリーズのみだったかと思います。
基礎シリーズで全分野を網羅し完成シリーズで応用問題を解くそうです。テストは通常カリキュラムにはなかったような気がします。
他の科目はハイパーと変わりません。
どのクラスも追加料金がかかりますが自然科学系小論文の授業を取ることができます。
夏期講習、冬期講習は生活習慣の維持や自分で進んではやらない科目の演習量確保が主な目的となると思います。通常授業だけでも十分なので特に目的がない、必要を感じないのであれば取る必要はないと思います。通常授業の復習の方が大事だと思います。筆者は夏に英語、冬に英語とセンター地理の要点整理の授業を取りました。多少不満な点でしたがこの講習だけでセンター地理で8割取れたのでやはりセンター対策の通常授業は取らなくても良い気がしました。
直前講習は東大形式のテストゼミが多いのでセンターぼけからの復帰(初めからセンターぼけしなければ何の問題もありませんが)などの目的で受けることを勧めます。早慶対策と東大対策のテストをすべて受けましたが早慶対策は問題形式が早慶と一致しているか怪しかったので効果があったかは疑問です。不安ならば受けると良いと思います。
様々な塾・予備校、コース、クラスに入り浪人した同期の友人を見ていると合否は授業やテキスト以上に環境の影響を受けて決まっているように思われます。ぜひ塾・予備校選びの段階から慎重に考え悔いのない選択をして欲しいと思います。初めに筆者は現役時76点差で落ちたと書きましたがハイパーの友人で現役時に50点差、60点差で落ちている友人は複数人いたので環境が良ければ珍しいことでもないと思います。個人的には「ハイパー東大理類コース」は最高の環境だと考えていますが、環境もまたその内部の人々によって影響を受けるので年によっても異なるでしょう。現役で合格できれば何の問題もありませんが、もし不合格となってしまったならば次で決めればよいだけです。浪人するからには点を伸ばし合格最低点を超えるために必要なことを考え、実行し、第1志望校に合格しましょう。あなたが最後まで油断せず悔いのない浪人生活を送ることを願います。
でもって、指摘された部分は、確かに突っ込まれる隙だよね。筆者は言い訳してるけど、突っ込んでくる人が全て言い訳聞いてくれるとは限らないからね。
要は、リスクを背負ってでも守りたいと思えるほど面白い漫画じゃないしねって。
まあそれだけのことなんだよね。
ギャグも中途半端だし、メッセージにしては底が浅いし、筆者が何が隙で好きで何を読ませたいのかよく分からんね。展開も、なんかあきれるほどアリキタリだしね。
だって、そもそも論として、トランスセクシャルと、ホモセクシャルは、また違う話であって、この話が描いてるのは「男が好きだから女になって男と愛し合います」とか「男のときは意識してなかったけど女になったので意識してしまいます」という、極めて『健全な』異性愛者だけであって、同性愛者の痛みとか葛藤とか、そういうヒリヒリしたものは全然描けてないと思うんだ。それをコメディータッチでやられて、そんでオッケーとかやられても、そりゃ違和感あるなあ、という。
SFものとしても中途半端でね。現実問題として、身体的な性が変更可能になったら生じるであろう社会の大きな変化とか、人々の意識の変化、教育の変化などについて、余りにも適当(小学校の社会科でならった、とか)なんだよね。未成年でも性別変更が許されるんだとしたら、親が子どもの性を勝手に変更する→成長した子どもが再変更する、とかそういうのも想像できるし、天然物の性が別に特権化するんじゃないかとか(たとえば整形/非整形みたいな)、ips使った身体加工がもっとフリークスな方向(たとえば人工フタナリとか、副乳、三つ眼とか)へと向かう社会とか、そういうのも想像できるんだけど、どうなの、という。その結果、社会はもっと混乱してると思うのね。
まあ、そういうモロモロを無視してもいいと思えるだけのおもしろさがあれば、別にいいのよ。ハードSFじゃないんだから。でもね、言うほど面白くないしね。だから、細かい設定がいろいろ突っ込まれるわけで。
要はオモんないねんという。結論としては割と詰まらない感想なんだよね。まあ、折角炎上したから、救いの手をさしのべるところもあるかもしれないけど、個人的にはもっと漫画を面白くする方向で努力するか、もっと本当に書きたいことを突き詰めるかするべきだと思うね。今のままじゃ余りに中途半端だわ。たとえば、エロがやりたいならエロやれ、と。
以上。