はてなキーワード: 吉野ヶ里とは
吉野ヶ里発掘のニュースで、自分の中の邪馬台国畿内説vs九州説へのロマンが盛り上がったので書く
まず自分は古代日本史や考古学の全くの素人であることをお断りしておく。
古事記・日本書紀が伝説として好きで子どものころから繰返し現代語訳で読んでいた。
学生時代、九州旅行で記紀に地名が出てくる場所を訪れロマンを掻き立てられたこともあり、自分は昔から九州説派である。
奈良県がまとめている古事記ゆかり地マップは全国のゆかり地がマッピングされていて親切だ。
だが、ここ5年ぐらいで専門家の間では畿内説がほぼ鉄板となったという話は何度も聞いていた。
専門家の意見に一定の価値を置く自分としては寂しさを感じつつ受け入れていたが、今回のニュースで改めてググってみると、やはり改めて九州説を自分は強く推したいと思う。
(因みにネット上の情報は圧倒的に九州説が多いので、ネット情報を中心に接種すると九州説派になる模様。)
こう書くとバカみたいだが、
⇒ 埋葬されている王は歴史に残る大王であったと考えるのが普通
⇒ 中国との交易品を考えると邪馬台国は大国であったはず。纏向にあったのが邪馬台国でないなら、中国は地方の小国と交易していたことになり不自然。
ということなので、考古学的証拠から邪馬台国=大和国で、纏向に首都があったと考えるのは納得できる。
・新版 古代史の基礎知識 (角川選書)の前半(倭の五王まで)
まず邪馬台国=大和国は自分も同意。「たい」なんて音は日本語の発音になじまない。
そのうえで、自分はこのYoutubeで関川尚功氏が指摘している「女王の住居が奈良なら、伊都国(大宰府周辺と推定されている)で女王への贈答品の確認はしないだろう」という意見に強く賛成する。
https://www.youtube.com/watch?v=dA3e14517Ek
現代にも通じる物流の常識感で、中国から奈良まで水路でこの後運ぶ荷物の確認は、一旦寄港した福岡でなく最終水揚港の大阪付近になるはずだろう。
伊都国で贈答品の確認をしたという魏志倭人伝の記載はこのリンクでも紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/25route.html
記紀ではうっかりか意図的にかの違いはあれ、三輪山の神に去られた百襲姫が女性器を箸でついて死んだとある。これはどう見ても性交または出産に関したトラブルで死んだように読める。
また、その墓は夜は神が昼は人が作ったとある。この表現は緊張関係にある2つの部族が彼女のために距離を置きつつも協力して墓を作ったように読める。
卑弥呼が何歳で他界したかはわからないが、魏志倭人伝から長い治世だったと考えると性交出産トラブルで死ぬような年齢だったのか疑問がある。
次に、魏志倭人伝に卑弥呼が死んですぐまた国が乱れ台与を女王にたてたとあるので、争いあう二つの部族が卑弥呼の墓を一定期間協力して作ったというのが想像しにくい。
九州の大和国が卑弥呼を女王に立て勢力を伸ばし、彼女の在位中に近畿に東征し、奈良の三輪山周辺に拠点を持っていた大物主一族と姻戚関係を結びながら(神武天皇の皇后も大物主の姫)、最終的には大物主一族も亡ぼしたのではないかと思う。それが記紀で神武東征伝説として書かれた内容だろう。
卑弥呼が自分の兄弟である神武(または崇神)(※二人とも「はつくにしらすすめらみこと」)と共に近畿に移動したかわからないが、中年女は引越しを嫌うので九州に残ったかもしれない。
だが、ある程度近畿で大和国が勢力を持ってから即位しただろう台与は近畿で生活していただろう。
彼女が死んだとき、大物主一族と大和国の間は既に緊張がありつつ協力して墓を作るぐらいの関係性はあったのではないか。
その後、大和が謀略か戦争かで大物主一族を滅亡させたため、その祟りを恐れ、記紀にあるように一緒に祀っていた大物主と天照(卑弥呼か?)を分けて、それぞれ三輪山と伊勢神宮に祀ったのではないか。
吉野ヶ里で今発掘中の貴人の墓は、卑弥呼の墓として魏志倭人伝に書かれている径百余歩の大きさに到底及ばない規模らしい。自分は吉野ヶ里は卑弥呼の墓ではないだろうと思う。
卑弥呼の墓はまだ発見されておらず、台与の墓は先代と同じ規模にということで箸墓が径百余歩の大きさなのではないか。
魏志倭人伝にある邪馬台国の場所の説明は、神武東征が始まる前、または、まだ卑弥呼が九州に残っている時のものなのではないか。
★子供の社会科教科書を見ると、堂々と「吉野ヶ里遺跡」と「三内丸山遺跡」が載っていて、
激しく「ジェネレーションギャップ」を感じてしまった。
というのも、われわれ世代(40歳代)にとっては、吉野ヶ里や三内丸山は「ニュースの事象」であり、
吉野ヶ里の「発見」が1989、三内丸山の「発見」が1992。
当時自分は大学生ないし社会人で、これら遺跡は「ニュースで知った」ものであり、「教科書で知った」ものではない。
たぶん、今の40代より上の世代は、教科書でこの2つは習っていないはず。
なので、今の40代とか50代では、吉野ヶ里や三内丸山は「そもそも知らない」という人の方が多数派なんじゃないか?
これら世代で吉野ヶ里等を知っているのは、地元民または観光業界人または歴史マニア。
という訳で、
「遺跡が見つかるキッカケは、公共工事や商工業開発が多い」という「生きた授業」を子供相手に展開してやった。
★我々の世代は、せいぜい「登呂遺跡」を覚えておけば、事足りたと思う。
一方、今の子供の世代は、登呂遺跡以外にも吉野ヶ里とか三内丸山とか、覚えることが増えて大変だなあと同情してしまう。
吉野ヶ里とか、工業団地開発を計画しなかったら、遺跡は見つからなかった=教科書の記載も減ったわけでして。
・・・と書こうと思ったら、「登呂遺跡は、教科書によっては、記載を外しているケースもある」らしい。
子供の記憶容量は有限だから、教科書記載事項を巡る「競争」は激しく、スクラップ&ビルドも激しいらしい
・・・となると、おじいちゃんおばあちゃんが、孫を連れて静岡に行って、「これが有名な登呂遺跡だよ」と案内しても、
孫が「何それ?習ってないよ」という世代間すれ違いの悲劇が発生してしまう危険性がある。
※というか、実際静岡の人のブログを見ると「子供の教科書に載ってなくて会話すれ違い」報告有
★「一番歴史学習が大変だった」世代は、「1999頃に歴史を学習していた世代」じゃないか、という気がする。
あの頃は三内丸山も教科書に掲載されたうえ、旧石器時代の記載も「充実」していた。
→その後、毎日新聞のスクープで、旧石器時代の殆どが教科書から削除された
吉野ヶ里や三内丸山クラスの遺跡発掘のニュースが、この20年間聞こえてこない、
そのこと自体が「失われた20年」を象徴している。(公共工事激減と比例)
・・・或いはアベノミクスで、再び吉野ヶ里クラスのが見つかるか?
★登呂遺跡の件、もう少し調べてみたら、実は「登呂遺跡の教科書記載」そのものに「政治的な意義」があったらしい。
登呂遺跡発見の「政治的意義」とは、「日本書紀記載の年代以前に、東日本に稲作が伝わったこと」の立証。つまり「日本書紀の否定」
まあ、実際の学問レベルでは、日本書紀を否定する研究もされていたのかもしれないが、それが義務教育教科書に掲載されることがなかった。
義務教育には日本書紀や古事記が掲載され、子供は歴代天皇の暗記を強要された
つまり、「日本書紀・古事記・歴代天皇暗証の「偽歴史」を教育する」、そういうナンセンスな歴史教育は終了した、
そういう「歴史教育民主化・自由化」「もはや戦前ではない」のシンボルとして登呂遺跡が存在した。天皇の人間宣言と同趣旨
となると、直近の「登呂遺跡の教科書引退」の政治的意義は、歴史教育において「もはや戦後ではない」とアピールする効果。
登呂遺跡の「政治的役割」は、歴史的意義を終えた、ということなのかもしれない。
※GHQが必要以上に登呂遺跡の「意義」を強調するよう、教育介入したような気もする
★縄文時代、旧石器時代の存在は、日本書紀や古事記と真っ向対立。
多分、戦前の教育では縄文や旧石器時代は存在しないことになってた
だから、最大70万年前の旧石器時代の遺跡を発掘した「ゴッドハンド藤村某」などは、世が世なれば不敬罪になってたんじゃないかと心配する。
そもそも日本書紀や古事記の世界では、神がイザナギ・イザナミを作って、それから世界が出来た。
→多分、戦前は「恐竜の存在」は義務教育では認められなかったのではないか?
そう考えると、恐竜をモチーフとした「映画ゴジラ」は、イザナミ・イザナギの世界観を否定する恐竜をモチーフにした、ということで、極めて戦後的な気がする。