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2018-11-24

大阪万博をやる意味について考えてみた

1.万博のコンセプト面

2025年の大阪万博テーマは「いのち輝く未来社会デザインである。このテーマ博覧会日本で開くと考えた時に、確かに大阪以外に開ける場所存在していないのではないか

これまで大阪関西地方東京一極集中によって長年に渡って疲弊し続けてきたと指摘されている。

かに大手商社家電工業などの主要産業東京移転してしまったが、同時に関西地方では今後の日本成長産業黎明ともいえる新産業が生まれつつある。

それが「医療産業である医療産業については、韓国中国などの新興国にはマネできず、日本アメリカなどの成熟先進国の独壇場である

ご存じのように、今日本で医療産業が一番集積しているのはぶっちぎりで関西地方である

神戸ポートアイランド神戸医療再生都市京都南部けいはんな学研都市京大阪大などの最先端医療研究などである

iPS細胞を開発した京大山中教授など、最先端医療人材面においても関西地方は全国トップであろう。

大阪船場の近くには、道修町という名前の製薬街があるんだけど、1990年代から2000年代にかけてこの町は衰退していた。

しかし今の道修町は、医療産業の集積によって息を吹き返しているのだ。

小保方さんのSTAP細胞騒動などの笑い話もあるくらい、今の関西医療産業が急成長している。

大阪関西の21世紀の主力産業医療産業だ。iPS細胞を生かした再生医療産業ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑特別教授研究など、これから日本医療産業はどこまで拡大するか予想もつかない。

家電や鉄鋼、造船などの産業海外移転など、関西日本でいち早く産業空洞化経験したが、新産業の立ち上げも日本でいち早く実現できたのだ。

そんな医療産業を中心とした博覧会を、2025年の大阪で開催するのだ。

万博経済効果は約2兆円と試算されているけど、今後の関西医療産業の集積の誘い水としての万博だと位置づければ、はっきり言って2兆円では済まないだろう。

2.大阪岸部の開発の面

大阪人であればご存じの話ではあるが、今回の2025年万博を開催する此花区大阪港・夢洲のことである

2008年のオリンピック招致に失敗し、現在は広大な空き地のまま放置され続けている人工島

あの人工島をどうするのか、橋下前大阪市長も松井知事も考えて続けてきたが、ようやくそ道筋ができて良かったと思う。

東京お台場も同じような状況だったが、2020年のオリンピックでようやく軌道に乗せることが出来ているらしいよね。

2015-12-14

中学受験社会メモメモ

N能研の保護者説明会で言ってた話を増田でも開陳

1.「社会公民は、日本国憲法記憶、これに尽きます。」

  「憲法9条と、基本的人権の各条文は、それこそ丸暗記してください」

  

  これ、もし「改憲」なんてことになると、中学受験社会は大混乱するなあ。

  上の子受験は兎も角、下の子小学2年)の際は、憲法変わってそうで怖い

  「主権者天皇から国民に変わりました」と教えているが、これも雲行き怪しい。

2.N能研の社会時事問題で、「戦後70年談話」が出題されていた

3.「日本地理ポイントは、①②が農業工業、③が水産、④が林業です。」

  ・・・鉱業は、無いんかい!?

  自分子供の頃は、筑豊三池とか北炭とか、それなりに覚えさせられていたのだが、国内炭鉱全滅だから不要なのか。

  今風に言えば、「九州太陽光発電が盛ん」とか「北海道風力発電が盛ん」のような、

  自然エネルギー立地の教育は、やってもいいのでは?

4.そして「①②が農業工業、③が水産、④が林業」ということは、

 「第一次産業第二次産業の立地は覚えさせるが、第三次産業は覚えるのは不要」というだよね。

 「サービス産業の立地」は、中学受験で出ないの?

  例えば小売がどこで多いか、地方では郊外商業化しているとか、首都圏では駅前商業が隆盛とか、インバウンド商業とか。

 

 「地方中核都市札幌仙台広島福岡)には企業支店が多い」とか

 「県庁所在都市では県庁公務員地銀大学地方紙の勤務者が多く、割と高収入な人が多い」とか、

 「介護産業首都圏で不足している」とか「医療産業東京都心と西日本に多く、首都圏外縁部では少ない」とか、

 第三次産業立地論の話の方が、実生活では第一次産業よりはるか要求されていると思うのだが。

 「社会教科書記述が固まったのが(第三次産業がまだ少なかった)昭和30~40年代で、

 その後アップデートを怠っている」ということなんだろうか?

 まあ、2030年とか2040年の社会科教科書では、否が応でも介護産業立地論」を小学社会で教えているんだろうな。

2015-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20151024023259

 にもかかわらず、エピローグでは、全人類意識ハーモニクスされたように書かれている。

 書かれていない。

 この作者は、自分が書いた設定を忘れている!

 忘れていないと思う。

 以下、簡単に異論を述べておこう。

 まず最初に、すでにはてなブックマークコメントなどでかるく指摘している人もいるようだが、実はこの小説エンディング近くの箇所(以下、「エピローグ」と記す)では「全人類意識ハーモニクスされた」とははっきり記されていない。

 そう読むことも可能だが、べつの読み方をすることもできるのだ。

 おそらく、上記の文章書き手が「全人類意識ハーモニクスされたように書かれている」と考えたのは、結末間近の以下の箇所から推測したからだろう。

 これが人類意識最後の日。

 これが全世界数十億人の「わたし」が消滅した日。

 本テクストは 、それについて当事者であった人間主観で綴られた物語だ。

 「人類意識最後の日」ということは、この日を境に全人類意識喪失したはずだ。おかしいじゃないか、矛盾しているじゃないか、破綻しているじゃないか、こんなものを崇めるSFファンなんてろくなものじゃねえ、と考えることはわからなくはない。

 しかし、ここでは「人類」とは書かれていても「全人類」とは書かれていない。したがって、この「人類」という表現には解釈余地がある。ここで書かれている「人類」は「一部の人類」のことなのでは?

 いや、何も言葉遊びをしようというわけではない。ほんとうにそう読む余地が残されていると思うのだ。というのも、このエピローグでは、かなり慎重な書き分けがされていると考えるからだ。たとえば、この箇所。

 あのコーカサス風景の後の話をしよう。

 トァンが下山して間もなく、老人たちは意識の消滅、社会構成員の完全な一致を決断した。権限を持つ老人たちそれぞれの部屋で、端末にコ ードと生体認証入力される。瞬間、その調和せよという歌を天使たちは携えて、WatchMeをインストールしている人々の許へ、あまねく世界へ、その羽を広げていった。天使の羽が人々の脳をひと触れすると、もうそこに意識意志はなかった 。

 ここでははっきり「WatchMeをインストールしている人々」と書かれている。また、以下の箇所。

 だから暴動はすぐに収まった。

 皆それぞれが思い出したかのように社会システムに戻っていった。WatchMeをインストールしていた世界数十億人の人間は、動物であることを完全にやめた。

 ここでも「WatchMeをインストールされた世界数十億の人々」と限定的表現が使われている。これらを読む限り、作者は「ハーモニープログラム」の効果がWatchMe使用者限定的であることを自覚しているように思われる。

 そう考えることのほうが、作者が突然健忘症にかかって自分の書いた設定を忘れてしまったと考えるよりも常識的ではないだろうか。

 しかし、このエピローグでは再度「人類」という表現が出て来るところがある。

 医療産業社会との完全なハーモニーを見た人類

 今からは推測することも難しいが、かつて「わたし」や「意識」「意思」が選択において重要役割を果たすと信じられていた時代は決して短くなかったのだ。システムに完全に準拠した現在人類にとって、旧人類がヒーローや神と呼んでいたようなアイコンはまったく不必要だが、それを知っておくことも無駄ではない。

 天国なるものがこの世のどこかにあるとしたら。

 完全な何かに人類が触れることができるとしたら。

 おそらく、「進化」というその場しのぎの集積から出発した継ぎ接ぎの脊椎動物としては、これこそが望みうる最高に天国に近い状態なのだろう。社会事故完全に一致した存在への階梯を登ることが。

 といった箇所、そして、ラストの、

 いま人類は、とても幸福だ。

 とても、

 とても。

 という結びのことである。これらの「人類」をも、「一部の人類」のことだと強弁することができるだろうか。

 実はできると思う。というのも、二番目に引用した個所でさりげなく現在人類」と「旧人類」が分けられているからだ。

 ここから、これら一連の引用個所で書かれている「人類」とは「現在人類」だけを指し、「旧人類」とその子孫を廃した言葉であると推測できる。

 「現在人類」とは、当然、ハーモニープログラムによって変容した人類のことを指しているから、つまりエピローグで書かれている「人類」はすべてハーモニープログラムを受けて変わった人類「のみ」を指していると考えることができるだろう。

 ようするに、そのプログラムによって一段階「存在への階梯を昇」った人物にとって、もはやそうでない存在人類として認識されていないと考えられるということなのだ。

 これは、エピローグ書き手プログラムを受けて「進化」した人類のひとりであるらしいことを考えればさほど無茶な想像ではないと思う。

 つまりエピローグにおいてもなお、広い意味での人類すべてがハーモニー化したわけではないかもしれないということである

 そう考えれば、この結末に特に大きな矛盾はないし、破綻しているわけでもないということができる。

 この話には、根拠がある。エピローグ中の以下の箇所だ。

 老人たちがそれぞれのコード入力し、ハーモニープログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味自我自意識自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。

 「ほぼ」すべての争い、と記されていることに注目してほしい。

 これを読みかえると、「(人類社会から)完全に争いがなくなったわけではない」というふうに読める。

 それでは、いったいなぜ争いが残っているのだろう? ハーモニー化して「たましい」を失った人類に争いの種があるわけがない。考えられる結論は、ひとつだ。

 少なくともこの時点では「人類の外部」との戦いがまだ残っていたのだ。その「外部」とは何か? それはまだWatchMeをインストールされていない子供たちかもしれないし、WatchMeが普及していない地方の住人かもしれない。真実はわからない。

 いずれにしろハーモニープログラムエピローグの時点で完全無欠でないこと、そしてどうやら作者がそのことを意識していたことはこの箇所を読めばはっきりしていると思う。

 あるいは作者は、さらなる続編を意識していたのかもしれないが、いまとなってはすべての可能性は失われてしまった。しかし、

 この作者は、自分が書いた設定を忘れている!

 以上のような根拠をもって、この主張は間違いであると考える。

 この作品日本SFオールタイム・ベストに挙げることが正しいかどうか、その成否はぼくが決めることではないが、少なくとも作者が自分作品の設定を忘れているに違いないというのは、端的に正しくないと考える。

 ぼくとしては最低でも上記に引用した箇所はみな作者の計算範疇であると読むほうがよほど常識的だと信じる。

 裸の王様なんていなかったのだ。

 そう思いませんか。

 
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