はてなキーワード: 変化球とは
ッカァ〜! オナ禁が開けたら何をオカズにオナニィをするか、想像がはかどるぜぇ。
化粧厚塗りの熟女ええなあ、目尻の小ジワを凝視しつつのフェラは最高やろうな。だらしない体した美熟女モノはホントに、最高なんだよなあ。
黒髪の清楚系もええなあ、やっぱ制服、変化球で尻コキもありだなあ。こんなに精子が溜まってるときは、スカートぶっかけもありかと思うんだけど、あんまメジャーじゃないからナ。サラサラの黒髪、透き通るような色白。クリッっとした眼。こんなAV女優を探しているんだ。
ニーソ・タイツ・パンストの類に着目するのもありだなあ。この正月休み中、散々ニーソ太ももを魅せつけられたのだ。ニーソコキをオカズにしたってバチは当たらないだろう。
競泳水着とローションのゴールデンコンビもいい。ただ、やたらと脱がそうとするものが多いだけに残念。
オナ禁して敏感になっているってことは、普段巨乳・巨尻派のオレも貧乳の侘び寂びを堪能するチャンスじゃあないかな。正月TVを見てたら、浮き出た肋骨に釘付けになってたからな、案外イケるかもしれない。
ここまで来たら、レズものもいいぞぉ〜。だけどさあ、レズ物って美人を2名組み合わせる苦労がすごい大変なんだろうな。大抵、どっちかの女優がブスでさ、でも「この組み合わせキタ!」って思うと、速攻で全裸になって機械的にァンァン言ったりしてて、世界は理不尽なんだ。そうそう、忘れちゃいけない、レズマッサージという手もあったな。ヌルテカなbodyを無表情な女が撫で続けるのは、すごく興奮する。あ〜〜、タマラン。
こんなにオカズ候補があってもさあ、オナニィってのは一回きりなんだよな...
誰か、このオナ禁にふさわしい最高のオカズを選ぶ方法をご教授ください。
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乳の美しさ、乳首のピンクさ、肌の白さこの3つが揃っているのはホント素晴らしいと思う。何らかの無形文化財か人間国宝級のモノに指定すべきだとすら思う。顔は可愛くないが、ソソる顔。
黒髪いいなあ、アニメコスプレもええな。ドS調教ものもええなぁ。もはや、JKモノでも人妻モノでも、有村千佳が出演している時点で、実家のような安心感を感じる。フェラを始める前の丁寧な「焦らし」が絶妙。
親戚の集まりで、「ほら、ビリギャルに出てたあの子...有村...」って言われて「千佳!」と答えたら、その発言がなかったことにされたのは秘密だ。
こっちも黒髪ええなあ、でも、正月早々フシギダネはいかんかなぁ。この娘は時々猛烈にオカズにしたくなるんだけど、一度興奮すると3ヶ月は結構ですという感じだわな。
時々ブスで抜きたくなったとき専用。
昔は結構お世話になったが、目の周りを大量に黒く塗るメイクに気づいてからは萎えちゃった。
コスプレ物でウィッグを被っていて、タマンネェ美人だなと思ったら、地毛はショートヘアであんまり似合ってないと思う。某剛力なんちゃらと同じで、ロングヘアが似合う。
無駄な肉が無い体、興奮の対象は体よりもその振る舞い。熟れた匂いを画面越しに感じることができれば最高に興奮。記念すべき美熟女モノとのファーストコンタクトを飾る女優。
いま、オレがオナニィできるギリギリのライン。あと一歩でデブ、あと一歩でババア、その限界を攻めながらオナニィしていく感じがたまらない。
高齢の両親の面倒を一人でみている。親父は要介護4,生活全般に人の助けがいる。そんな在宅介護をしていれば,大好きな野球見物もままならない。
でも,数十年来のひいきチームの14年ぶりの日本シリーズ出場だ。1試合ぐらいは見に行きたい。忙しい弟に半日の代打を頼み込んだ。
問題はいつ行くかだ。もちろん福岡に遠征することはできない。地元の神宮3戦のうちのどれにするか。4戦は介護の事情で無理。3戦か5戦かの二者択一。
最初は3戦目にしようと思った。何しろ相手はぶっちぎりの90勝でリーグを制し2連覇を狙うソフトバンクだ。4連敗もありうる。下馬評でそんな声も聞こえた。もっともだろう。
でも俺は,クライマックスシリーズの巨人戦を見る限り(介護の仕事が終わった後,テレビ録画ですべて見た),それはないだろうと踏んだ。巨人に負けるんじゃないかと思ったら,存外強かった。強くなった。そんな印象から5戦目を選んだ。
久しぶりのプロ野球観戦だ。いい試合,いい場面が見たい。これは人情だろう。5戦目なら,下手すりゃ真中監督の胴上げだって見られるかもしれない。4勝1敗でヤクルトが勝つなんて甘い夢か。でも,そういうものに賭けるのがファンってものの心理だろう。
そして,結果はご存知の通りだ。自慢の強力打線は再び零封された。期待していたベテランのエースは持ち味の粘りを発揮することなく,またしても5回も持たずに沈んだ。正規には購入できず,割高のネットオークションで手に入れた内野3塁側の良席で,真中じゃなく工藤監督の胴上げを見る羽目になった。
いま俺は思い切り後悔している。3戦目を選んどきゃよかった。そしたら,山田哲人の歴史的な3連発を見られた。それだけで十分に報われた。それなのに,何で俺はこうも間が悪いのか。これも欲をかいたってことなのか。
翌日は,親父の便失禁の始末から始まった。向こうは体が動かない。こっちは腰が悪い。朝っぱらから重労働だ。昼食後は便意を訴えた。抱えるようにしてトイレに連れて行く。夕食後のおむつ交換のときも失禁していた。今季初のうんこのトリプルヘッダー。そんな日常。いいことなんてこれっぽっちもない。
ホームランにこそならなかったが,山田の最終打席は見応えがあった。球場全体を揺らす大声援の中,追い込まれながら,何球もファールで粘った。そして,難しい低目の変化球を左翼席直前までライナーで運んだ。
「山田哲人」の片鱗は見た。いまはこれで満足しよう。来季こそは,一度でいいから胸のすくような一発を生で見たい。そんなことを思いながら,毎日,俺は親父の尻を拭いている。
いや俺も持ってないけどこの間不意に付けられた話聞いて。
いつもの帰り道だったんだけど、曲がり角で唐突に遭遇したんだよ。ノリノリで歌いながら歩いてる奴に。
夕暮れ時だったこともあって、誰も居ないからと盛り上がっちゃったのかなぁと思ってそのまま歩いたんだけど、それでも全然やめる気配がないんだよね。
聞いたことない曲だけど近頃のアニメソング(声優ソング?)っぽい感じで、ノリノリに歌いながらしかもイントロとかまでご丁寧に再現。
多分本人になりきってるから抑揚とか大げさなほどつけられれてて、それだけでもかなりツボなのに、そこから畳み掛けるようなイントロがギュワワーン♪テクッテクッ♪ツクツクツクツクツクツクドンッ!で、歌!みたいな感じ。
とにかく楽しそうなのはわかった。それは何よりだ。
まぁそういう人もいるよねと思ってそのまま歩いてたんだけど、どうやらしばらく帰り道が同じっぽくてそのノリノリが一定距離でずっとついてくるんだよね。
ところが、ふとした時に「なんかこれ、おれが入場テーマ引っさげて歩いてるみたいじゃね?」って気づいてしまってからが完全にアウト。
だって向こうから歩いてくる人にしてみれば、反対側から専属ヒューマンジュークボックスつれた男が歩いてくるわけでしょ。
完全におれまで変態です。本当にありがとうございました。
それに気づいてからというもののどれだけ頑張っても顔からニヤニヤが落ちない。むしろ変に我慢しようとすると「ムヒョ」とか「ウヒ」とか変な声でちゃう。
結局、家に入る最後の曲がり角までずっとそれが続いてたんだけど、その間すれ違う人からしてみれば、ニヤニヤ歩いてるおれが最初に見えて、その後にノリノリで歌いながら歩いている男が現れるっていうかなり異様な光景だったと思う。
それくらいその時はあのノリの良さが耐えられなかった。
当然同じ時間ような帯に同じ道を通るのでその後も数回同じようなことが合ったのだけど、2回目をすぎればなんとか我慢できたのね。(2回目はヤバイと思って道を変えた。)
ところが昨日のこと、興味の対象が変わったのか突然変化球投げてきやがりましてね。
今度は歌じゃなくて効果音。
何かに合わせて、トテトテトテ、ボコッ!テュリーン!ボウッボウッとかずっと口にしてんの。
あぁわかっちゃった。これはマリオだ。
マリオメーカー流行ってるし、察するに動画サイト見るのが趣味というところだな。
それでどうやらマリオの映像が脳内再生されてて、その効果音を口にしているらしい。
夕暮れ時に目の前からマリオの効果音で歩いてくる中年のさえないおっさん。しかも顔は耐えられない笑いに歪んだニヤニヤ。それが俺だー!!!!!
だいたいどこの店に行っても買えるし(重要)、香りや味わいのバランスも繊細で女性に受けることが多く、デザインも明確で優れてる。
ブランドもLVMHだし、みんなが何となくしってる良いワインです。
果実味が強すぎる嫌いがあるモエ・シャンドン ブリュットより美味しいと思う人は多いと思います。
なのでもし相手がちょっとでもワインを飲む相手であれば、少し変化球を投げてみてはいかがでしょう。
ビルカール・サルモン ブリュット・レゼルヴ (シャンパーニュ)
https://www.enoteca.co.jp/item/detail/LD4490882300
適度にしっかりした味わいと、酸の繊細さを両立している。
http://onemoreglass.shop-pro.jp/?pid=91619494
2014年がファーストビンテージのロゼワインで、日本では数ヶ月前から一部店舗で販売している。
ロゼのイメージとは違い甘みはほとんどなく、やわらかい口当たりと果実味。
僅かに甘美な甘みがあるが、綺麗な酸で流れて後を引かない。
ピエール・エルメのローズ・マカロンとのマリアージュが最高。セットで贈ろう。
(ラデュレだと甘すぎるので、エルメくらいの軽さが良い)
シュタニンガー ソーヴィニョンブラン ゼクト(オーストリア)
http://store.shopping.yahoo.co.jp/wineuki/0800004000033.html
白ワイン好きの人はソーヴィニョンブランが好きな人は結構多い。
草原、グレープフルーツの香り、切れ味の良い果実味。夏に飲むのに最高。
http://canadawine.yi.shopserve.jp/SHOP/D001S00108.html
酸のエレガントさ、引き締まった果実味。
http://anond.hatelabo.jp/20150826021119
感謝の気持ちを伝えるのに考える労力を惜しまなかった文章を読むと、書き手の人柄に良い印象を受けます。
まずは「ありがとう」を
「厚く御礼申し上げます」
と言い換えて変化をつけるだけでも、言葉選びが惜しくないほど感謝していると意思表示できますね。
それでも伝えきれないほどの気持ちがあるなら、
「大変にありがたく、お礼の言葉もございません」
みたいな変化球もありかもしれません。
それから、もっと具体的に何がどうありがたかったかを述べることでも感謝は伝わりますね。
助かりました。
嬉しかったです。
みんなが喜んでいます。
のように。他にも、やり方が分かった、経験を積むことができた、たくさんのことを学べた。相手が自分に与えてくれたものをきちんと述べることで(だから感謝してます)と間接的に伝えることができます。
目線を変えるのも有効です。ここまでは、自分側にどんな利益があったかという自分目線。では相手がどれほど力を尽くしてくれたのだろうと想像するのはどうでしょう。
自分の努力や気遣いが伝わっていると読み取れると嬉しいですし、こちらの意図を汲み取ってくれているとわかると報われた気持ちになります。
先にはてなブログを登録していたものの鳴かず飛ばずで、なんとなくはてなブックマークも始めて、なんとなく匿名ダイアリーを覗くようになっていた。
アノニマスダイアリーだから増田と呼ぶのだということすら、当時はまだ知らずにいた。
好き勝手なことばかり書いてあるみたいで、なんとなく、自由がここにあるような気がした。
ブクマがついた。
嬉しかった。
それから、日常のどうということない思いつきや、過去のあんなことこんなことを少しばかり脚色して書き込んだ。
ブクマがつかないこともあるけれど、それなりにたくさんのブクマをつけてもらえることもあった。
調子に乗った。
実体験であること、日記であることを心掛けていたつもりだったけど、少しずつ箍が外れてきた。
できるだけおもしろくなるように、できるだけ共感してもらえるように。
時には煽るように。時には見下すように。
こういうエントリーはあの人なら好きなんじゃないかな。
こういう変化球はどうだろう。
自分の日記、記録として書き始めたはずが、いつしか、ブクマカの人たちにいかにしてブクマしてもらうか、という目的意識に変化していた。
怖くなった。
「はてな匿名ダイアリー」には、無数の、多様なエントリーが並んでいる。
私のエントリーもその中に溶け込んでいる。
もはや私が書いたものか、他の誰かが書いたのか、見分けがつかない。
私が書いたわけでもないのに自分が書いたように錯覚することもあれば、
自分が書いたエントリーでも自分が書いたという実感がないものもある。
私の日記の一覧を見ることもできるけれども、本当に私が書いたものなのかあやふやな文字列ばかりがずらずらと並んでいる。
時に夫であり、時に妻であり、時に上司であり、時に部下であり。
私が増田になってゆく。
はてブホットエントリーの30選(http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1141321068543131601)がイマイチ感性に響かなかった(普段読書しない人向けか?)ので、俺選してみる。
【反省会】
※前提として、AVは視聴者の性癖や趣味にかなり影響されます。自分の記述は、全て自信を持っていますが、自分の主観に基づくものであり、自分が異常な性癖の持ち主であればそもそも最初から間違っていることもありえます。その真偽は本人である自分にはわかりません。
今日、TSUTAYAでAVを借りようと思ってお店に入った。だが、何も借りずに出た。初めてだ。
いつもは、AVは10本ぐらいまとめて借りる。女子校生、熟女、巨乳、ギャル系、コスプレ、ロリ系、素人etc...と、30分から1時間ぐらいかけて会社帰りにじっくり厳選し、いろいろなジャンルを横断して借りている。そこまで毎回借りているのに、今回初めて何も借りずに店を出た。
性欲が衰えた?それとも、飽きた?あるいは、他のものを借りたくなった?
いや、どれでもない。AVはレンタルビデオ店でバイトしていた時から飽きるほどパッケージを見てきて、そして200本か、それ以上か、多くのAVを観てきた。
そして、毎日2回は抜いている。美人の婚約者(生身の女性です)がいながらもここまでの絶倫っぷり、正直自分でも異常だと思っている。
それでも単純に、「観たい!」と思ったAVが無かったのだ。なぜだろうか。
今回はそれを紐解きながら、AV業界になんら関係無いただの25歳のお兄さんがAV業界に警鐘を鳴らそうと思う。
AVコーナーに入った時(前々からこうなっていたが俺は気が付かないようにしていた)、そこに並んでいるパッケージの女優が、全員同じ見た目に見えたのだ。
それは、アイドルに関心の無い人間がジャニーズやAKB48が全員同じに見える現象と同じだ。
茶髪か黒か金髪で、ストレートで、まつげが長くて、巨乳。ランキング上位に来ているのはそういう女優ばかりではないだろうか?
肯定的にに捉えれば、これはある意味1つのAVの偉大な進歩とも言える。
AVは昔に比べて女優が美人でアイドルのような見た目になり、容姿にケチのつけようがなくなった。
それは作り手や、俺以外の大半の視聴者の好みがそれを求めているからかもしれない。そして、それに対して女優が、元々の持ち味や、メイクや、整形、演技で応えた結果かもしれない。
もしかしたら、自分が異常な性癖の持ち主なだけで、大半の視聴者はそれでいいと思っているのかもしれない。
だが、そうだとしても、自分は現状のAV業界はよくないと思っているし、これから衰退すると思う。
作り手、女優、視聴者、あらゆる人々が美人を追求した結果、確かに美人が生まれた。だが、その一方で最近のアイドルと同じように「皆が好みに感じる容姿」であるために、見た目が同じになってしまったのだ。
話は変わるが、AVは何のためにあるだろうか。
あるいは、有り余って仕方のない性欲を吐き出したい若者のために?
人それぞれに存在意義はあるだろう。
だが俺はそれらのどれでもないと思う。
AVは何のためにあるか。
それは「この女を脱がせたい」という欲望や、
「この女がベッドで乱れるところを見たい」という夢を叶えるためにある。
どういうことだろうか。
ところで今日あなたは通勤中あるいは通学中に駅で、道路で、電車で、バスで、何人の女性とすれ違っただろうか?
うち、何人に対して「この人を犯したい」と思っただろうか?
首都圏で、通勤ラッシュに巻き込まれているのであれば、最低でも2〜3人はそういう人がいただろう。
その「すれ違った人を脱がせたい」「すれ違った人の胸を見てみたい」「すれ違った人におちんちんぶちこみたい」という夢を、できるだけ願った人の欲望を投影して、できるだけ似せて叶える装置がAVだ。
TVの旅番組が一定の人気を確保しているのは、少し背伸びすれば手に届く範囲でできる旅行を夢見ることができるから。行ったつもりになれるのが旅番組で、イッたつもりになれるのがAVなのだ。
だから痴漢モノやナンパモノが流行るわけだし、「嫁の姉が……」といったありそうで無いシチュエーションの作品に長く一定の需要がある。
わかりやすく言うと、脱衣ブロック崩しや、脱衣麻雀の類をやったことがあるだろうか?
遊んだ経験がある人は、失敗すると何度も何度も繰り返し、運が悪いと何時間も経過していることがあったり、なんとかソースを探して画像を直リンクで探そうとした経験が必ずあるはずだ。
その原動力はなんだろうか?それこそ「この女を脱がせたい」という欲望だ。そういう意味では脱衣ブロック崩しや脱衣麻雀は合理的なシステムとも言えるし、男たちがAVを観るための理由で、AVの存在意義だろう。
だがその「この女を脱がせたい」という欲望を駆り立てる魅力が、今のAVには無い。
「今朝駅ですれ違った女の裸を見たい」「おしとやかに見える同僚の女がベッドで乱れる様子を見たい」という欲望を駆り立てるようなものでないといけない。
だからといって「AVに脱衣麻雀やブロック崩しをつけろ」という意味ではない。それは障害を増やすだけであり、ストレスを溜めるだけだ。溜めるのは精液だけでいい。
「すれ違った女の裸が見たい」というかなわぬ難しい欲望に対して、
AVがただの「皆が好きな絶世の美女」しか用意できず、ちょっとブサイクでも「今朝新宿駅ですれ違った女」に相当する役者を用意出来ていないのが問題なのだ。
「脱がせたい」という欲望を叶えるためにAVはある(と俺は思っている)が、それを駆り立てるためには作り手はどうしたらいいだろうか?
例えば、出演している女優が絶世の美女でも、すれ違った女でも、同じような見た目で、最初から全裸で待機していたらどうだろうか。多分、視聴者は萎えるだろう。
最近のAVのパッケージを見て欲しい。絶世の美女が最初から全裸か、全裸に近い形で写っていないだろうか?
そうでなくても、裏返すと全裸でおちんちんぶちこまれてあえいでる画像が出てこないだろうか?
あるいは、全裸じゃなくても、普段ありえないようなスケスケの制服とかに見を包んでたりしないだろうか?
それはきっとAVのパッケージのデザイナーが必死に考えて作ったモノなのかもしれないし、訴求効果を高めた結果だろう。
「どうすればエロく見えるか」を追求した結果できあがったものだろう。
だが、それではダメだと思う。
自分が思うに、AVに映る女とは、小学生の時に母親が作ってくれたお弁当のようなものだ。
お弁当は、開けるまで何が入っているのかわからない。開けるまでのドキドキがある。
一番上の蓋をパカっと外して、2つ目の箸とかが入っている白い蓋を外して、おかずと白いごはんが見えるまでの、1枚ずつ蓋を外していく過程にこそ楽しみがある。
AVも同じだ。
普段裸を絶対に見ることができないような女性がパッケージに写っていて、その中身で裸を見ることができる。その過程が今のAVには圧倒的に欠けている。
最初からスケスケだったり、全裸だったら、確かに視聴者の目を惹くが、楽しみを最初から奪ってしまうという悲しい事になってしまう。
そんな「平坦化」したAV業界だが、作り手はマンネリを感じたのか、最近変化球が多くなっていないだろうか?
どれも、斜め上に先鋭化していて空振りしている気がしてならない。
コスプレAVについては、版権の問題もあるかもしれないが、男の娘に関しては大島薫以外男の娘以前に男じゃねーか!!と叫びたくなるような出来である。
一方、AVの引き合いに出していたアイドル業界だが、今は何が起こっているだろうか?
アイドルに関してはあまり詳しくないので詳細な説明は避けるが、AKBやももクロやハロプロ等、既に盤石な地位を築いたアイドルに各プロダクションが競って肩を並べようとする競合があまりに多いせいで、今何が起こっているだろうか?
自分が思うに、話題性を重視するあまり、先鋭化していないだろうか?
そうすると何が起こるだろうか?
ごく一部の熱狂的なファンだけが、何百万単位でお金をつぎ込み、残りの人々は離れていく。
さて、ここまで散々自分の主観で現状のAV業界の危機を叫んだが、今後どのようなAVが作られていくべきだろうか?
自分が思うに、以下の3つがある。
「今日すれ違った女を脱がせたい」という願望を叶えるのであれば、
アイドルのようなホームラン級の美女よりも、10人のそこそこヒットを打てるそこそこの女優を発掘すべきだ。
あと選択肢が増える。
女優に多様性を持たせるのもいいだろう。例えば日本人にかぎらず、日本初の黒人女優とか、中東系の女優とかはどうだろう?
前述の通り、「服の中身を見る楽しみ」を演出すべき。
これは暴論かもしれないが、自分は本気でそうすべきだと思っている。
AV女優がブログやTwitterを開設していて、日常生活について垂れ流していても、新作の宣伝になるかもしれないが、視聴者からすると
「こんなに身近な存在なのに、ヤらせてくれないんだろうな」と感じてしまい、少し辛いものがある。
AV女優は、自分がAVに出ていることをブログやTwitterで宣伝するのではなく、身近な男友達にLINEで教えてあげよう。
きっと教えてもらった人はドン引きするかもしれないが、その後一番の熱心なファンになる。
事実、俺が今まで一番抜いたAVは、大学の友達が出ている奴だ。
あとでブコメとかで「女性の性的搾取」とかそういうのが出てきそうなんで先に言っておく。
俺はAVについて話しているわけで、女性について話してはいない。搾取がどうとかキレイ事いってんじゃねえ、AV観て何が悪い。
わたしの職場に、自他ともに認めるクラシック・マニアがいる。近・現代の作曲家は一通り聴いているというが、中でもお気に入りはスクリャービンで、携帯の着信音とアラームには「神秘和音」が設定してあるくらいだ。
その彼が、最近、急にジャズに興味を持つようになった。なんでも娘さんが部活でサックスを始めたのがきっかけらしい。彼の机には娘さんの小さいころの写真が立てかけてあるが、父親と血がつながっているとは思えないかわいらしさだ。パパだってジャズくらい分かるんだぞ、ということにしたいのかもしれない。
彼はわたしがジャズ・ギターを弾くことを知っている。音楽に関して(だけ)は寛容なので、各種イヴェントの際には有給を消化しても嫌な顔ひとつしない。
「ちょっと私用なんだが」と彼は言った。「こんどの休みは空いてるか? お前の好きなジャズのCDを10枚くらい持ってきてくれ。うちのオーディオで聴こう」
「CDならお貸ししますよ」とわたしは答えた。特に予定はないが、できれば休日はゆっくり寝ていたい。
「まあそう言うなよ」と彼はつづけた。「プレゼンの訓練だと思えばいい。ジャズの聴きどころを存分に語ってくれ。昼はうなぎを食わせてやるぞ。それとも――」
「それとも?」
「もう有給は当分いらないということか?」
こうして、わたしは休日をつぶして彼の家を訪ねることになった。どのCDを持っていくかはなかなか決められなかったが、一日でジャズの百年の歴史を追いかけるのは無理だと割り切って、わたし自身がジャズを聴き始めた高校生のころ――もう15年も前の話だ――に感銘を受けたものを選ぶことにした。マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』、ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビー』、ジョン・コルトレーン『ジャイアント・ステップス』はもうコレクション済みだということだったので、それら以外で。
手土産の菓子と20枚ほどのCDを抱えて最寄駅に着くと――結局10枚には絞り込めなかった――彼の車が目に留まった。
「きょうは夕方まで家に誰もいないからな。気兼ねしなくていい」
「そうでしたか」
「いるのは猫だけだ」
「猫? 以前お邪魔したときには見かけませんでしたが」
「公園で拾ってきたんだ」
「娘さんが?」
「いや俺が。子供のころに飼っていた猫とよく似ていたものだから」
ノラ猫を拾う人間と、ショスタコーヴィチの交響曲全集を部下に聴かせて感想を求める人間が、ひとりの男の中に同居している。この世界は分からないことだらけだ。
「ちーちゃん、お客様にご挨拶だ」と彼は居間の扉を開けながら言った。ちーちゃんと呼ばれた白い猫は、こちらを一瞬だけ見るとソファのかげに隠れてしまった。そそくさと。
「ご機嫌ななめだな。まあいい。そっちに掛けてくれ。座ったままでディスクを交換できるから。いまコーヒーを淹れてくる」
――これ以降は対話形式で進めていきます。
( ・3・) さっそく始めよう。
――マイルスについてはご存じだと思いますが、次々に作風を変化させながらジャズを牽引していった、アメリカの文化的ヒーローです。デューク・エリントンはマイルスについて「ジャズのピカソだ」と述べました。
――はい。その作品の後に注目したいんですが、60年代の半ばに、ウェイン・ショーターというサックス奏者がマイルスのバンドに加わります。この時期の録音はひときわ優れた内容で、ジャズのリスナーやプレイヤーからはヒマラヤ山脈のように見なされています。
Prince of Darkness (1967) http://youtu.be/-wckZlb-KYY
( ・3・) ヒマラヤ山脈か。空気が薄いというか、調性の感覚が希薄だな。テーマの部分だけでも不思議なところに臨時記号のフラットがついている。
――主音を軸にして、ひとつのフレーズごとに旋法を変えています。コードが「進行」するというよりは、コードが「変化」するといったほうが近いかもしれません。
( ・3・) ピアノがコードを弾かないから、なおさら調性が見えにくいのかもしれないな。
――はい。余計な音をそぎ落とした、ストイックな演奏です。
( ・3・) 体脂肪率ゼロ。
――マイルスのバンドには一流のプレイヤーでなければ居られませんから、各々が緊張の張りつめた演奏をしています。
Nefertiti (1967) http://youtu.be/JtQLolwNByw
――これはとても有名な曲。ウェイン・ショーターの作曲です。
( ・3・) テーマで12音をぜんぶ使ってるな。
――覚めそうで覚めない夢のような旋律です。このテーマがずっと反復される。
――ボレロではスネア・ドラムが単一のリズムを繰り返しますが、こちらはもっと自由奔放ですよ。ドラムが主役に躍り出ます。
( ・3・) おお、加速していく。
――テンポ自体は速くなるわけではありません。ドラムは元のテンポを体で保ったまま、「そこだけ時間の流れ方がちがう」ような叩き方をしています。
( ・3・) ドラムが暴れている間も管楽器は淡々としたものだな。
――はい。超然とした態度で、高度なことを難なくやってみせるのが、このクインテットの魅力ではないかと思います。
Emphasis (1961) http://youtu.be/QRyNUxMJ18s
( ・3・) また調性があるような無いような曲を持って来よって。
――はい。この曲は基本的にはブルースだと思うのですが、テーマでは12音が使われています。ジミー・ジューフリーというクラリネット奏者のバンドです。アメリカのルーツ音楽と、クラシックとの両方が背景にあって、実際に演奏するのはジャズという一風変わった人です。
――ドラム抜きの三人のアンサンブルというアイディアは、ドビュッシーの「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」に由来するそうです。
( ・3・) いいのかそれで。ジャズといえば「スウィングしなけりゃ意味がない」んじゃなかったのか?
――スウィングしたくない人だっているんですよ。といっても、ベースはフォー・ビートで弾いていますが。
( ・3・) これが録音されたのは……ええと、1961年か。ジャズもずいぶん進んでいたんだな。
――いえ、この人たちが異常なだけで、当時の主流というわけではありません。さっぱり売れませんでした。表現自体は抑制・洗練されていて、いかにも前衛というわけではないのに。同じ年のライヴ録音も聴いてみましょうか。
Stretching Out (1961) http://youtu.be/2bZy3amAZkE
( ・3・) おい、ピアノの中に手を突っ込んでるぞ。(3分16秒にて)
――まあ、それくらいはするでしょう。
( ・3・) おい、トーン・クラスターが出てきたぞ。(4分16秒にて)
――それでも全体としては熱くならない、ひんやりした演奏です。
――さて、次はエリック・ドルフィー。作曲の才能だったり、バンドを統率する才能だったり、音楽の才能にもいろいろありますが、この人はひとりの即興プレイヤーとして群を抜いていました。同じコード進行を与えられても、ほかのプレイヤーとは出てくる音の幅がちがう。さらに楽器の持ち替えもできるという万能ぶり。順番に聴いていきましょう。まずアルト・サックスから。
Miss Ann (1960) http://youtu.be/7adgnSKgZ7Q
( ・3・) なんだか迷子になりそうな曲だな。
――14小節で1コーラスだと思います。きちんとしたフォームはあるのですが、ドルフィーはフォームに収まらないようなフレーズの区切り方でソロをとっています。1小節ずつ意識して数えながらソロを追ってみてください。ああ、いま一巡してコーラスの最初に戻ったな、とついていけたら、耳の良さを誇ってもいいと思いますよ。
Left Alone (1960) http://youtu.be/S1JIcn5W_9o
――次はフルート。
( ・3・) ソロに入ると、コード進行に対して付かず離れず、絶妙なラインを狙っていくな。鳥の鳴き声というか、メシアンの「クロウタドリ」に似ている。
――鳥の歌に合わせて練習していたといいますから、まさにメシアンです。あるいはアッシジのフランチェスコか。ほかにもヴァレーズの「密度21.5」を演奏したり、イタリアのフルートの名手であるガッゼローニの名前を自作曲のタイトルにしたり、意外なところで現代音楽とのつながりがあります。
参考 Le Merle Noir (Messiaen, 1952) https://youtu.be/IhEHsGrRfyY
It’s Magic (1960) http://youtu.be/QxKVa8kTYPI
――最後にバスクラ。吹奏楽でバスクラ担当だったけど、主旋律で活躍する場面がなくて泣いてばかりいた方々に朗報です。
――いえ、当時、長いソロを吹いた人はあまりいませんでした。
( ・3・) バスクラ自体がめずらしいという点を措いても、独特な音色だな。
――村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にこんなくだりがあります。「死の床にあるダライ・ラマに向かって、エリック・ドルフィーがバス・クラリネットの音色の変化によって、自動車のエンジン・オイルの選択の重要性を説いている……」
( ・3・) どういう意味?
――楽器の音が肉声のようにきこえる。でも何をしゃべっているのかはよく分からないという意味だと思います。あと、ミニマリズムの作曲家のスティーヴ・ライヒはバスクラを効果的に使いますが……
( ・3・) 「18人の音楽家のための音楽」とか、「ニューヨーク・カウンターポイント」とか。
――はい。彼はドルフィーの演奏を聴いてバスクラに開眼したと語っています。 [1]
――真打登場です。サックス奏者のオーネット・コールマン。50年代の末に現れて、前衛ジャズの象徴的な存在になった人です。といっても、難しい音楽ではありません。子供が笑いだすような音楽です。ちょっと変化球で、70年代の録音から聴いてみましょう。
Theme from Captain Black (1978) http://youtu.be/0P39dklV76o
――ギターのリフで始まります。
( ・3・) あれ、ベースがおかしなことやってるな。キーがずれていくぞ。
――はい、各パートが同時に異なるキーで演奏してもいいというアイディアです。イントロのギターが床に立っている状態だとすると、ベースは重力を無視して、ふらふらと壁や天井を歩きだす。
( ・3・) 複調を即興でやるのか?
――どのていど即興なのかはわかりません。コンサートに行ったことがあるのですが、譜面を立てて演奏していましたよ。でも、別にダリウス・ミヨーに作曲を教わったというわけではなくて、アイディアを得たきっかけは些細なことだったんじゃないでしょうか。たとえばサックスが移調楽器であることを知らなかったとか。「なんかずれてるな、でもまあいいか」みたいな。
( ・3・) それはいくらなんでも。もし本当だったら天才だな。
Peace (1959) http://youtu.be/bJULMOw69EI
――これは初期の歴史的名盤から。当時、レナード・バーンスタインがオーネットを絶賛して、自分がいちばんでなければ気のすまないマイルス・デイヴィスがたいそう機嫌を損ねました。
( ・3・) さっきのに比べると普通にきこえるが……
――1分40秒あたりからサックスのソロが始まります。集中してください。
( ・3・) (4分12秒にて)ん? いま、俺の辞書には載っていないことが起きた気がするな。
――ここはいつ聴いても笑ってしまいます。そのタイミングで転調するのか、脈絡なさすぎだろうって。ソロをとりながら、いつでも自分の好きな調に転調していいというアイディアです。
( ・3・) 言うは易しだが、真似できそうにはないな。
――どの調に跳んだら気持ちよく響くか、という個人的な経験則はあるはずです。突飛な転調でも、「これでいいのだ」といわれれば、たしかにその通り、すばらしい歌ですと認めざるを得ません。
――お昼はうなぎだと聞いておりましたが。
( ・3・) そのつもりだったんだが、いつの間にか値段が高騰していてな。「梅」のうなぎよりも、うまい天ぷら蕎麦のほうがいいじゃないか。
――この人も、オーネット・コールマンと同じくらい重要なミュージシャンです。テキサス出身のオーネットに対して、セシル・テイラーはニューヨーク出身。都市と芸術の世界の住人です。ピアノを弾くだけではなくて、舞踊や詩の朗読もします。これは1973年に来日したときの録音。
Cecil Taylor Solo (1973) http://youtu.be/X7evuMwqjQQ
( ・3・) バルトークとシュトックハウゼンの楽譜を細かく切って、よくかき混ぜて、コンタルスキーが弾きましたという感じだな。70年代にはずいぶん手ごわいジャズも出てきたんだ。
――いえ、テイラーは50年代から活動しています。チャック・ベリーやリトル・リチャードと同じ世代。この人が異常なだけで、当時の主流ではありませんが。さっきも似たようなことを言いましたね。
( ・3・) このスタイルでよく続けてこられたな。
――継続は力なり。2013年には京都賞を受賞して、東京でもコンサートがありました。
( ・3・) どうだった?
――会場で野菜を売っていたので、買って切って食った。
――文字通りの意味なのですが、それについては別の機会にしましょう。演奏の話に戻ると、混沌と一定の秩序とがせめぎあって、台風のさなかに家を建てている大工のような趣があります。「壊す人」というよりは「組み立てる人」です。また、あるフレーズを弾いて、復唱するようにもういちど同じフレーズを弾く箇所が多いのも特徴です。
( ・3・) いちどしか起こらないことは偶然に過ぎないが、もういちど起こるなら、そこには何らかの構造が見えてくるということか。
参考 Klavierstücke (Stockhausen, rec. 1965) http://youtu.be/mmimSOOry7s
――きょう紹介するのは北米の人ばかりなのですが、デレク・ベイリーは唯一の例外で、イギリス人です。さっそく聴いてみましょう。これも日本に来たときの録音。
New Sights, Old Sounds (1978) http://youtu.be/nQEGQT5VPFE
( ・3・) とりつくしまがない……。
――そうですか? クラシック好きな方には思い当たる文脈があるはずですが。
( ・3・) 無調で点描的なところはヴェーベルン。でも対位法的に作曲されたものではないみたいだ。あと、初期の電子音楽。ミルトン・バビットとか……。
――模範解答です。
( ・3・) でも即興でヴェーベルンをやるというのは正気の沙汰とは思えんな。
――即興の12音技法ではありません。それは千年後の人類に任せましょう。ベイリーがやっているのは、調性的な旋律や和音を避けながら演奏することです。最初に聴いたマイルス・デイヴィスも緊張の張りつめた音楽でしたが、こちらも負けず劣らずです。文法に則った言葉を発してはいけないわけですから。
( ・3・) 「どてどてとてたてててたてた/たてとて/てれてれたとことこと/ららんぴぴぴぴ ぴ/とつてんととのぷ/ん/んんんん ん」
――ちょっと意味が分かりませんが。
( ・3・) 尾形亀之助の詩だ。お前も少しは本を読んだらどうだ。それはともかく、こういう人が観念的な作曲に向かわずに、即興の道に進んだのは不思議な気がするな。
――いちプレイヤーとして生涯を全うしたというのは重要で、ベイリーの音楽はベイリーの体から切り離せないと思います。彼の遺作は、病気で手が動かなくなってからのリハビリを記録したものでした。
( ・3・) プレイヤーとしての凄みが音楽の凄みに直結しているということか?
――はい。技術的にも高い水準のギタリストでした。無駄な動きのない、きれいなフォームで弾いています。気が向いたら動画を探してみてください。
( ・3・) まあ、ギター弾きのお前がそう言うなら上手いんだろうな。
――楽器の経験の有無で受け止め方は変わってくるかもしれません。ジャズ一般について言えることですが、鑑賞者としてではなく、その演奏に参加するような気持ちで聴くと楽しみも増すと思いますよ。
ベイリーの即興演奏(動画) http://youtu.be/H5EMuO5P174
参考 Ensembles for Synthesizer (Babbitt, 1964) http://youtu.be/W5n1pZn4izI
――セロニアス・モンクは、存在自体が貴重なピアニストです。生まれてきてくれてありがとう、とお母さんみたいなことを言いたくなる。
( ・3・) 初めて聴く者にとっては何のこっちゃの説明だな。
――とてもユニークなスタイルで、代わりになる人が思いつかない、くらいの意味です。まあ聴いてみましょう。
Everything Happens to Me (Monk, 1959) http://youtu.be/YW4gTg3MrrQ
( ・3・) これは彼の代表曲?
――いえ、そういうわけではありません。モンクの場合、どの演奏にも見逃しようのない「モンクの署名」が刻まれているようなものなので、わたしの好きな曲を選びました。有名なスタンダードです。最初に歌ったのは若いころのフランク・シナトラ。
Everything Happens to Me (Sinatra, 1941) http://youtu.be/ZWw-b6peFAU
――1941年の録音ですが、信じがたい音質の良さ。さすがスター。さすが大資本。これがヒットして、多くのジャズ・ミュージシャンのレパートリーになりました。ちなみに曲名は「僕には悪いことばかり降りかかる」というニュアンスです。恋人に手紙を送ったらさよならの返事が返ってきた。しかも郵便料金はこちらもちで、みたいな。もうひとつだけ聴いてみましょう。
Everything Happens to Me (Baker, 1955) http://youtu.be/UI61fb4C9Sw
( ・3・) このいけすかないイケメンは?
――チェット・ベイカー。50年代の西海岸を代表するジャンキーです。シナトラに比べると、ショウビズっぽさがなくなって、一気に退廃の世界に引きずりこまれる。で、モンクの話に戻りますが――
( ・3・) ショウビズではないし、退廃でもない。
――もっと抽象的な次元で音楽を考えている人だと思います。
( ・3・) 素材はポピュラー・チューンなのに、ずいぶん鋭い和音が出てくるな。
――調性の枠内で本来なら聴こえないはずの音が聴こえてくると、デレク・ベイリーのような無重力の音楽とはまた別種の怖さがあります。幻聴の怖さとでもいうべきか。さいごにぽつんと置かれる減5度の音には、「聴いてはいけないものを聴いてしまった」という感じがよく出ています。
( ・3・) 減5度はジャズでは珍しくないんじゃないのか?
――はい。でも、その音をどう響かせるか、その音にどういう意味を持たせるかというのは全く別の問題です。そういう音の配置に関してモンクは天才的でした。
( ・3・) カキーン、コキーンと石に楔を打ちこむようなタッチで、ピアノの先生が卒倒しそうだが。
――意図的に選択されたスタイルだと思います。プライヴェートではショパンを弾いたりもしていたそうですよ。 [2]
( ・3・) 見かけによらないものだな。
――小さいころから必死に練習すれば、いつかはマウリツィオ・ポリーニの水準に達するかもしれません。しかし、ピアニストとしてモンクを超えるというのは、端的に不可能です。それがどういう事態を意味するのか想像できませんから。
( ・3・) 四角い三角形を想像できないように、か。
――アンドリュー・ヒルは作曲・編曲に秀でたピアニストです。『ポイント・オブ・ディパーチャー』というアルバムが有名ですが、録音から半世紀を経たいまでも新鮮にきこえます。ペンギンブックスのジャズ・ガイド(なぜか翻訳されない)では、初版からずっと王冠の印が与えられていました。
( ・3・) 英語圏では別格扱いということか。
――ヒルは若いころ、ヒンデミットの下で学んだという話もあるのですが……
――誇張も混ざっているかもしれません。ヒルの経歴は、生年や出身地も事実とは異なる情報が流れていたので。
Refuge (1964) http://youtu.be/zquk2Tb-D6I
( ・3・) 何かひっかかるような弾き方のピアノだな。
――ヒルには吃音がありました。 [3] 言いたいことの手前でつっかえて、解決を先延ばしにするような演奏は、しばしばそのことに結びつけられます。
――ヒテーシンガク?
( ・3・) ほら、メルヴィルの『モービー・ディック』で、神秘的な白鯨の本質については語れないから、迂回してクジラにまつわる雑学的な記述が延々とつづくだろ?
――どうでしょう。アナロジーとしては分からなくもないですが。
( ・3・) 形而下の世界に戻るか。あれ、このサックス奏者、さっきも出てきたんじゃないか? (2分58秒にて)
――エリック・ドルフィー。共演者の共演者を辿っていくと、きょう紹介する人たちはみんなつながっています。
( ・3・) デレク・ベイリーも?
――はい。セシル・テイラーと共演していますし、この次に紹介する人ともアルバムを出しています。
( ・3・) なんだかドルフィーに耳を持っていかれてしまうな。
――圧倒的です。ねずみ花火のような軌道と瞬発力。数か月後に死ぬ人間の演奏とは思えません。
( ・3・) すぐ死んでしまうん?
――はい。ドラッグでもアルコールでもなく、ハチミツのオーバードーズで。正式な診断ではありませんが、糖尿病だったといいます。 [4][5]
( ・3・) ハチミツって、くまのプーさんみたいなやつだな。――ん? いまミスしなかったか? (6分36秒にて)
( ・3・) やり直しになるんじゃないの?
――ジャズは減点方式ではなく加点方式ですから。ミスがあっても、総合的にはこのテイクが最良という判断だと思います。
「日本は身勝手な国といわれる」移民受け入れ、早急な議論が必要(産経新聞)
http://www.sankei.com/premium/news/150201/prm1502010002-n1.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150201-00000569-san-asia
Aではインドネシア語、Bではスペイン語、Cでは中国語、Dではタイ語、etcetc.
基本、農業や林業、漁業など、第一次産業をやって貰う。或いは伝統工芸の継承者。アニメーターもw
変化球として、主に日本人向けの介護施設を集めた特区を作り、そこのスタッフなども良い。
無論然るべく報酬は出す。
トム・クルーズ良い演技してるし。
それはさておき。
広義と狭義という、広い狭いじゃ無いと思うなあ。
全くの極悪人から、正義のヒーロー、金にがめつい商売人、ハードボイルドな男まで、幾百通りのロールプレイが楽しめる、そんなゲームなのです。だから、一旦メインシナリオをクリアしても、今度は別のロールプレイで遊びたくなる。
このように、「ループもの」と言われる様な作品も、「ループ自体に楽しみがある」か「ループを繰り返すという手段によって、最終目的が達成される」という二つの類型があるのではないかと、僕は考えるわけです。なぜかゼロ年代には両者一緒に「ループもの」と同一視されてきたわけですが、しかし「ループを手段とするか目的とするか」で、「ループもの」は全く二つに分かれるのです。
やっぱ、「ループもの」って巨大なくくりがあって、それを2つにワケるって話をしてるから、絞り込みとは違うと思うんだよね。
で、そもそもループものって言われがちだけどループじゃないもの入れてねーかなって話。
サザエさん時空は、不老ものであって、ループものとして対立軸に持ってくるの変だと思うのよ。
うる星やつら、ドラえもん、クレヨンしんちゃん、ケロロ軍曹、銀魂……なぜこれらの作品が好きなのかといえば、それは「ループしているからこそ、その一回一回の中でハチャメチャに面白いことが起きて、世界の豊かさを垣間見ることが出来る」からです。
で、そのハチャメチャしても次の日にシレッとそこにいる代表格である両津勘吉と部長の関係ってさ「ループものだから」じゃ無いだろ。
だから基の記事の「ループものに2種類あって、おれは片方が好きでもう片方が嫌いだ」って、なんか変な気がするんだよね。
上位目標のために繰り返し作業をするのが下らないって主張にループもの持ってくるのまでは判らんでもないが、テーマは逆の作品が多いと思うんだよ。
映画版の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」とか細田守版の「時をかける少女」とか、「一回こっきり」がメインテーマになってるだろあれ。
小説の「エンドレスエイト」になると、ループは悪いものとして描かれてるわけだし。
漫画の「はるかリフレイン」とか、ちと変化球の作品もなくは無いわけだが。(目標のためにループするが、ループそのものが主人公救済の手段になってる)
ループ自体に楽しみがあるってのは、個人的には退廃的な趣味だと思うんだよね。どっちかというと後ろ向き。
で、その退廃的な『幾百通りのロールプレイ』を、超楽しい→飽きた→抜けだせねえ→前向きに生きるか→ハッピーエンドとやったのが
かの有名な映画「恋はデジャ・ブ(原題Groundhog Day)」なわけで。
んで、CGコンプの為に繰り返し遊ばせる仕組みのゲームがくだらなく感じるってのと、
最終目標のためにループを続けて経験値を蓄積していくってのと、
全部違うと思うんだよね。
まあ、「ビューティフル・ドリーマー」は「学園祭の前日がループする」事を通じて
「不老で繰り返し続く日常(サザエさん時空)」のメタ批判をしてるって構造だから、微妙ではあるんだが。
うまくまとまらんが、基記事って、なんかこう「何をしても『日常』が保証される」ことに対する憧れに見えるんだよね。
だからたぶん不老もの(基記事いうところのループもの)である漫画「並木橋通りアオバ自転車店」は、基記事の人ダメだと思うんだよね。
アレに出てくる主人公のアオバは小学校4年生のママ変わんないけど、描かれる日常は、取り返しがつかない人生の話ばっかりだし。
■本文。
うう……今回こそちゃんとゲームレビューをやろうと思っているんだけども、とりあえず、前回の思考の続きから入ります。いや、書かないとイライラして、安心して本題に入れないんですよ……。
まず、美少女ゲームの主流が、オブジェクト嗜好による「萌え」至上主義に至った理由を考えると、前にも書いたけども、次のステップとなるべき目標が不明瞭になっているからだろう。社会的な成功といったものに価値を見いだせない世界であるために、細分化された個人主義……拡散という現象になるのだろう。もっとも、求心力のある価値観を求める動きが無かった訳ではないのだけど、それは、エヴァンゲリオンで暴発した結果、衰退し、その後は保守反動的な状況がずっと続いている。
これは、過去においてもそうで、アニメを取り巻く言論は、『うる星やつら~ビューティフルドリーマー』など、問題作が次々と出現した、1984年を頂点に、アニメ情報誌として特化されたニュータイプが台頭してくる80年代後半にかけて、急激な反動化が起こっている。以後、閉塞に伴う縮小再生産を繰り返しながら、消費スピードは加速していく。また、ゲームという媒体が台頭し、それが大量消費に適した媒体だったことも、更に状況を加速した。
結局、そんな閉塞が行き着いた状況で現れた、エヴァンゲリオンという暴発の反動で、何も考えたくないという心境に陥った人々は、萌えという言葉で思考を止めて、大量消費を自己肯定する事で精神の安定を求めているのだと思う。現在は「閉塞による安定の状態」と考えてもいいだろう。だけども、極端な状態には変わりはない。
おそらく、創作にしろ、批評にしろ、これからは商品という手段をもって、極端な両者の格差を埋める作業が必要になってくるだろう。また、そうでなければ肝心な人々には届かないと思う。そのためには、バランスの取れた商品が必要になってくる……やべ、今回こそきちんとゲームレビューをやらなくては……。
さて、いきなりあからさまな発言なのだが、『フロレアール~好き好き大好き』というゲームを買う動機は、メルンに萌えるか、前作『好き好き大好き』の続編(?)だから、のどちらかだと思う。メイドで、妹(的キャラ)で、ロリという、現在の美少女ゲームにおいての最大公約数的な設定のキャラクターであるメルンに、ヒロインを一本化したことは、『好き好き~』に比べて、牙を突き立てる対象……もとい、購買層の狙いを絞ったことを伺わせる。だが、『好き好き大好き』をプレイした人にとっては、『フロレアール』には別の期待があったはずだ。
実は、筆者も後者に属していたのだが……結論から先に書いてしまうと、どちらの期待も最終的には超越してしまった感があるのだ。
『好き好き~』が、自己の内面とひたすら対峙する内容……ヒロインの存在はあっても、ヒロイン像は自己の内面にのみ存在しており、その内面が現実との摩擦で生じるギャップに物語としての強度を求めた……いわば、変化球的なアプローチだったのに対し、『フロレアール』の場合は、メルンとのコミュニケーションから生じるギャップから、自己の内面を浮き彫りにする手法を採っている。言ってみれば、正統派でストレートな演出を行っている訳だ。そして、その演出を反復することで、物語の強度を上げているし、あくまでメルンという中心軸を崩さないあたりは、非常に慎重でもある。
まあ、筆者も某誌のレビューでは『好き好き~』を「プレイする人を選ぶゲーム」と書いたのだけど、今回はむしろ、「こんなに分かりやすくしていいのか?」という感想を持った。確かに、平気で会話の中に「ハイデガー」とか「象徴交換と死」なんていう固有名詞が出てくるので、敷居が高い印象を受けがちなのだが、そういう単語に頼っている訳ではなく……シナリオの中で、普遍化する作業がきちんと行われているので、意識しなくても意味そのものは把握できるだろうし、作り手の思考が一貫しているため、むしろ分かりやすい作品になっている。
そして、この認識を間違えると食わず嫌いでもったいないことになる……というか、『フロレアール』は、結果として、両者の中間を行ってしまったのだ。これは、どちらの期待をしていた人にとっても、予想外の事態だったと思うし、ニーズを意識した上での意外性には、商品としての誠実さも感じられた。
だけども、物語としての強度が、商品としての強度とは必ずしもイコールにならないという状況がある。完結する物語や、密度の高い物語にユーザーが興味を示さないというか、ユーザーはバランスの取れた作品より、歪んだ構造の作品に惹かれるのが、現在の状況である。
確かに、物語を楽しむということは、「自分の人生と違う人生を体験する」ことだけども、それは、「何も考えたくない」「楽しいことだけ考えたい」という意志を肯定するものではない。そういう態度は、あまりにも想像力に欠けた姿勢だと思う。基本的に創作や批評という行為は、想像力の限界を拡げるような意外性と強度を持つ必要があると筆者は考えている。それは、「萌え」とか「泣き」という、偏向した一つの感情ではなく、喜・怒・哀・楽、全ての感情を刺激して、初めて成立するものだと思う。何故なら、想像力の欠けた世界は、縮小再生産へ向かうだけだからだ。……まあ、青臭い理想ではあるのだが。
偏向したニーズに合わせて、偏向した物語が生み出され、大量消費されていくという、最初から意外性を排除した状況からは、当然、意外なものは生まれないし、想像力の限界は決して拡がらないだろう。
だけども、巨大な意志の集合体としての「市場」を無視しては、届く訳もないし、商業的にも成立しない。作家性と商業性の相克という問題は、本来、作り手と呼ばれる人々が抱える基本的なテーマだったはずなのだが、オブジェクト嗜好による極端な記号化という、個人主義の究極的な所まで解体されてしまった世界では、作家性や意味といったものは、ノイズとしか扱われないので、意味の伝達そのものが困難で、作家性自体に意味が見いだせなくなってくる。従って、慎重なバランス取りを行った『フロレアール』の誠実さが、単なる徒労に終わる可能性は高いと言わざるを得ないのだが……。
そして、批評が追いつけないのは「個人」による創作ではなく、巨大な意志の集合体としての「市場」なのだ。深く閉塞し、肥大し拡散していく状況に追いつけないのだ。
結局、物語と記号はどちらも極端な……両極と言える位置に離れてしまった。しかし、その両者はコインの裏表でもある。そして、両者を繋ぐものの可能性はどこにあるのだろうか……と、ぼやけた頭で考えているのだけども。
確かに、新マシンを買ったこと自体は嬉しいんだけども、鬱の症状は悪化の一途で、あと何回この連載が続けられるか分からないし、自分がどうなるかも分からない。本文ではああいうことを書いても、自分に関しては、批評する意義とかは既に分からないし、実際、だんだん書けなくなってきているし……考えていると、際限なく落ちていきそうで……とにかく、このコラムは自分への認知療法なのだと割り切って書くしかないんだろうなあ……新マシンで貯金ゼロになってしまったし。いや、実は、うかつに貯金があったりすると、逃亡の旅に出てしまいそうだったんで……という訳で、来月は本当に未定です。どうしよう……。
http://anond.hatelabo.jp/20130106115608の続きです。アルファベットの互換性はありません。
年上の熟女美人のAとは、引き続き月に一回の安定した付き合い。セックスに面白みはないけど、さっぱりした性格だし、仕事の悩みなどでも腹を割って話せる、希有なセフレだ。
スレンダーな人妻のBとは、とても仲のよい間柄を過ごした。ほぼ1年。趣味の会話も、セックスも、ものの考え方も。一緒にいて何もかも楽しかった。でも、婚外は基本的にセフレであるべきが、彼女は恋愛に踏み込んでしまったように感じた。もともと弱かったメンタルケアに、さらに無理してはじめたピルの服用に、彼女はからだと気持ちのバランスを崩していき、勤務先の大学も休みがちになってしまった。悪いのは私だ。でも私には身を引くことしかできない。つらかった。すまない。
19歳のC。ツイッターでフォローして、くすぐったらすぐリプが来てフォローされ、数日後ひまだったので遊ばない? とDMしたらすぐに成立。ふだんからこのような流れをもっている女の子のようだ。1時間ほど運転して、遊園地のある町のコンビニへ。彼女はいた。ややぽちゃ。ラブホテルが乱立する貯水池のまわりを、おざなりに軽くドライブ。ホテルでは彼女はまずテレビを見始めたが、肩に手をやりキスしていくだけで、10分後にはもう彼女のなかにいた。「そういうのは、いらないの」「大丈夫だから」という彼女に、3回ほど放った。翌月の彼女は「まぢ妊娠してたらどうしよう」「来ないんです」とツイートしていた。さらに翌月も、気軽な馴れ合いツイートのなかに「まだ来ません」と時おり入れて、さらに「誰か結婚してください!」という発言も増えた。その翌月、ツイッターやめます! と発言して、ネットから見える彼女の形跡はそこで終わった。
ひとつ上の人妻D。1年以上前からツイッターではたまにエロ会話で軽くからんでいた。時おり会ってみようかという会話が挟まるようになり、ある日に急に話が具体的になり、休日に待ち合わせて午前中から山手線の大きな乗換駅で会った。脚は若干太かったが、素朴な美人顔に、ふくよかでいやらしいからだ。ただしかすかに香るわきがに、どうにも硬さが乗らず。しかし最終戦ではなんとか挽回した。それからは会っていない。ツイッターも止めたようだ。あまり印象が薄い。
三十代前半と、まさにおいしい盛りの人妻E。どうも、とある有名なカメラマンに憧れており個人的にも知り合いになれていて、しかしそのカメラマンと私は友人なので、うっかり妙なつながりに気づかれないよう少し気を使った。ボーイッシュな顔だちに、はきはきした性格。これは健全なドライブで終わるのかと一瞬思ったが、ランチの後で肩に頬を寄せてきて、あとはホテルで彼女をむさぼるだけだった。彼女の感じ方はすさまじく、感じるその声の音量もすさまじく、とても普通の家屋では彼女とはセックスできない。旦那にはいつもバスタオルを口に咬まされるらしい。明るい貪欲さを示されたこともあり、久々に4回も達成。毎回彼女は口で受けてくれ、体がふるえるほど気持ちよかった。その後も会いたいという話だったが、気づいたらブロック。ADHDレベルの頭のリズムだったので、まともにかかわるのも大変だと思っていたところもあり、これでいい。
位置情報チャットアプリで知り合った人妻F。ほぼお遊び冷やかしアプリとして遊んでいたので、リアルに会うことになるとは思いもしていなかった。途中からとクロージングはLINE。脚は少し太いが、ある運動の先生をしていることもあって、からだのいやらしさはすばらしい。彼女も相当に激しい感じ方とあえぎ声を放っていた。初回から中出しを望まれる。結局連続4回も彼女の中に放った。5回めに彼女の性器に顔を近づけたところ、固まった淫毛も含めてむせかえるような私の精液の匂い。よって最終回は未遂に終わった。さらにもう一度会って濃い時間を過ごしたが、流石に明らかに家が近いこともあったのか、延期がちな返事が増え、私も追うのはやめた。
会って飲んだり食事しただけのG, H, I, J, K, L, M, Nのことは省略します。
そういえば、隣県に買い物にいった空き時間に、この位置情報チャットアプリで絨毯爆撃チャットで遊んでいたら、「私、貴方とセックスしたことあるわ」と言われ、ただの会話の変化球だと思っていたら、場所や季節や特徴など言われ、思い当たったという体験もした。あれこれ言われたが、彼女はなんでも黒くネガティブに発言をするたちで、セックスは自分勝手、加えて体の横幅も通常の1.5倍はある人で、私がどうにも気が乗らず、面倒でバイブとローターに任せて強制イキで倒したことを根に持っているようだったが、もう二度と会わない人の気を害しても私にも何の得もないので、そうだね、そうだね、ごめんね。と適当に会話して、ブロックした。
いずれもここ10年ぐらいの競技の変革にプロ選手の体が追いついていないかんじ。
野球は投手に関してはもはや肘やったらすぐトミー・ジョンして1〜2年かけて復帰するのが当たり前になってきて、
ダルが苦言を呈してるけど中5日は最低取って欲しいところ。
肘をやってしまうのはまぁ変化球が多彩になってきたからだと思う。スプリットやらツーシームやらね。
NPB、MLB共にツーシームで芯を外されても強引にもっていく力は足りないってだけ。
だから更に体をデカくするんだけど、デカくしても節や骨が強くなるわけではないので、
その結果怪我をするっていうパターンだと思う。
サッカーはもはや走るサッカーでなければサッカーではないみたいな風潮すらあるため、
怪我が本当に多くなった。ウッチーなんか慢性化してるし、長谷部とかたぶんウチのサカティも…
ハードワーク・ハイプレス…全員で攻撃して全員で守るのはいいけれど、
ドルトムントやシャルケを見ると選手を資産としてきちんと守っているのか?そのサッカーでいいのか?と思ってしまう。
ショートカウンターなんか前線の選手の負担を考えると恐ろしい。Cロナウドやらロッベンやら大きな怪我もなく、本当にすごい。
サッカーでも選手の怪我が多いクラブは、運動量を極力減らして勝てるサッカーを追求するべきだと思う。
つまんないと言われようが選手を潰してまでやるよりは広島サッカーとかでいいんじゃないかな。
サッカーでも野球でも負傷箇所をトレーニングすれば?というのもあるけど、
久保康友。
松坂世代最後の大物として、社会人からロッテに入団。トレードで阪神へ行き、FAで今年から横浜。
成績と言えば地味の一言。
先発としての登板が多いがシーズン勝利数や投球回数は微妙。10勝以上は二度だけ。
これと言ってとくに特徴のないフォームからチェンジアップやフォークを投げ込む。
そんな地味な久保が、3球団目の久保が、何故か今年最多勝を狙える位置にある。
2005年に新人王を取った久保も今年34歳。ベテランと呼ばれる年になった。
足を挙げるタイミングをずらして打ちづらくする老獪な工夫をしている久保。
ここまで地味ながらもチームに必要とされて1軍で登板していた久保。
一花咲かせる時が来た。
頑張れ。
https://twitter.com/sahoobb/status/505525364521570304
要するに、「音楽の話をせずに」、「好きなもんを好きな様に聞けば」いいのだ。
そうやって過ごせれば、こんなに平和なことはないなんて赤ん坊でもわかる。そうやって過ごせればどんなにいいか。
「音楽に国境はない」。とても有名で、とてもすてきな言葉だ。たぶんボブ・ディランの歌詞だろう。音楽関係の名言の九割はボブ・ディランの口から発しているとされおり、すごく有り難い。
ところが現実はボブ・ディランではない。各国の土着・民族音楽に使用されている音源はおのおので笑えるくらいに異なり、「国境なんてないんだ」などとほざいて通じるように聞こえる西洋音階によるポップチャート侵略主義の結果に過ぎない。しかしだ。ここはあえてボブ・ディランに百歩譲りたい。音楽に国境はない。その呑気なテーゼを容認したうえで、ボブ・ディランはこう付言する。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togech.jp/2014/08/30/12027
ここにコメントを書いているブクマカ(死語)は全員、本質を見誤っている。
音楽の話において、人が他人を見下すのはそいつがマイナージャンルを好きだからではない。過去の自分を見ているからでもない。人間は見下すように生まれた動物だから、というのはちょっとあるが、決定的ではない。
女が泣くのは、音楽の話をコミュニケーションの道具に使うからだ。
そもそも音楽の話はコミュニケーションの媒介として非常に燃費が悪い。なんせ、実物がないとその曲がどういうものか、ぼんやりとすらわからない。小説や漫画には筋がある、映画には役者がいる、スポーツには様式化されたアクションが、アイドルや芸能人にはゴシップが、文学にもゴシップが、それぞれ素人にも言語化しやすい形で道具として可視状態にある。
音楽には何もない。楽器に触れたこともない素人二人が互いに片方しか知らない曲の話をする場合、だいたいはエモーショナルでよくわからない表現に頼るしかない。あるいは「いいんだよ」だ。「うまく言えないけど、とにかくヤバイの」。これでは何も伝わらない。即時性を重要視するコミュニケーションの現場では、音楽など、口下手な二人の間で放置され冷めたフライドポテトよりも価値がない。すくなくとも冷めたポテトは「まずい」という互いがすぐに了解しあえる話題のフックを備えている。
なんだ、当たり前の話じゃないか、そんなことは昔からわかっているよ、とあんたは言うだろう。
ところがあんたは昔とおなじくらいに何もわかっちゃいない。
順序を間違えている。
人は他人を見下す生き物であり、だから、音楽の話でコミュニケーションを取ろうとすると悲劇が起こる、あんたはそう考えている。でなければ、あんた以外の誰かはそう考えている。
違う。逆だ。
音楽の話でコミュニケーションを取ろうとするから、他人を見下す生き物としての人の顔が顕現してしまうのだ。これは理屈でも論理でもなく、真理だ。
音楽は門戸がビッチの(ピー)なみにガバガバに広い。食べ物と似た感覚で「うまい」と「まずい」を直感的に判断できる。その直感は、一見まじりけなく、自分の本質、アーイデーンティーティがぁーー♪に直結しているように思われる。
だが、アウトプットしようとなると、童貞のケツ穴のごとく狭窄だ。和音? コード進行? ポリフォニック? Perfumeのゴリラ?
なんだそれは? なんだそれは? なんだそのわけのわからない……専門用語は?
そして、俺を含めた素人の九割はその意味を知ろうとしない。「しろうと」だけに。これは駄洒落でも冗談でもなく、真理だ。いや、ほんとうに。
ゆえに、聞く行為そのものが直感的な好みへ直ケツし、下痢気味の短腸生物のごとく未消化でそのまま「おれのアイデンティティ」へ繋がる。
すると、どうなる?
コミュニケーションバトラーたちは「○○を聞いている俺=俺自身」で勝負するしかなくなる。変化球も切り札も伏せカードも強欲な壺もない、各種ジュアルルールも適用されない生の殴り合い。怯んではならない。ダウンしてはならない。なぜなら、その曲は「俺」の魂そのものであるからだ。
それはかつて冷戦下で想定された最悪のシナリオに酷似している。発動されてしまった相互確証破壊戦略。スクリーンを飛び出してしまったスター・ウォーズ。後には誰も残らない。灰と水曜日以外、残らない。
20XX年、ここは音楽の話の核の炎に包まれた日本だ。モヒカン(ゲスの極み乙女。)が汚物(イグザイル)をルールする日本だ。
みんなが音楽の話をしている。フェイスブックで、twitterで、日常会話で、好きなアーティストを主張しまくっている。もう手遅れだ。
最初の女の嘆きに戻ろう。すまない。君には嘘をついた。「君一人が黙ればすむ」だなんて。
でも、さっき言ったように、ほんとうはもう全世界的に手遅れなの、君一人が黙ってももうダメなの、ごめんね、でもほんとうです。
しかし、本当のおわりが来る前に試みることができる解決策が二つ、ある。もちろん、択一だ。どちらかが正解のコードかもしれないし、どちらを切っても結局爆発するのかもしれない。なんであれ、やってみるだけの価値はある。
一つ目、耳を塞いで今君のいるコミュニティ(フィジカルなものもバーチャルなものも)から遁走し、誰も音楽になんてプリミティブな代物以上の興味を持たない新天地(老人ホームがおすすめだ)を探し出し、そこに逃げ込んで、鼓膜を破り、二度とiPhoneの再生ボタンを押さないことだ。
二つ目――これはきみが臆病者でない場合のプランだ、当然、保険はきかない。
とりあえず、だれでもいい、きみの周囲のモヒカンを無作為に選び出し、襟を拳で持ち上げ、殴れ。
ボコボコにしろ。そして、耳をかっぽじってよく言い聞かせるのだ。
「これから二度と私の前で、音楽の話なんてするんじゃないよ」と。
相手は腫れ上がったクチビルで言い返すだろう。「勘弁してくれ、音楽は俺の魂なんだ」と。
言ってやれ。「あんたは○○○かい? 音楽なんざいくらでも聞きな、あたしは『音楽の話』をするな、って言ってんだ!!」
それから、相手の携帯を出すように命じろ。ロック解除のパスワードを聞き出したなら、フェイスブックとその他諸々のSNSへアクセスしろ。まず、プロフィール欄の「好きな音楽」を抹消しろ。twitterのプロフィールは「わたしは卑怯なネオナチの豚野郎です」と書き換えろ。
それから、そいつが過去にweb上で行ったあらゆる音楽関係の発言を消してまわれ。終わったら、君はその携帯を愛をもって持ち主に返却するか、悪魔の笑みを浮かべて膝で叩き割るか、電子レンジでチンするか、そのどれかを選べる。この選択は択一ではない。
君に関係する豚野郎どもの携帯がすべてアルミのメルトチーズと化したころ、君はようやくお気に入りのイヤフォンであるATH-CKN70を耳孔に接続できる。
もはや君の周囲で音楽の話をする豚はいない。君に話しかける人間もいない。誰にも邪魔されない。
本物の安寧と平和が手に入る。
本物の安寧と平和、いい言葉だ。きっとボブ・ディランが作ったに違いない。あるいは残りの一割を司るアジカンの眼鏡が。
ピース。
コミュニケーションが下手な人の中には、会話と議論の使い分けができていない人が多い。
私とあなたは共通点があり、親しい存在ですよってことを確認しあう行為。
wikipediaには言葉のキャッチボールだと書いてある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E8%A9%B1
ボールを相手の胸元にやさしく投げることを求められている。相手の投げたボールを地面に叩きつけたり、豪速球や変化球をなげようとしたり、ボールを持ったまま立ち尽くしたりしてはいけない。
対して議論とは、ある話題に対して意見を述べ合うことで、互いの考えを深めたり新たな発想を得ることだ。
議論の時には相手と同じ視点しか持っていなければ、お互いに得られることが少ない。
否定も変化球も豪速球もありだ。ボールを地面に叩きつけるのもアリだ(こんなクソみたいな議題はゴメンだぜ)
なるべく多くの視点を持っていることが議論を深める鍵になる。
一応ウィクショナリー貼っとくね。http://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AD%B0%E8%AB%96
話の種類ってのはもっとたくさんあるけども、おおまかにこの2つのどっちなんだろうということを頭に入れておくと、コミュニケーションがスムーズに進むかもしれないよ。