はてなキーワード: 薄っぺらとは
観終わった最初の感想は、漫画『聲の形』が映像化されないことを確信したショックだ。
まず先に断わっておくが私が言いたいことは原作を崇めて原作未読者や映画を馬鹿にするといった内容ではない。
映画製作に携わる人間が『聲の形』をどういったつもりで再構成したのか、
そのせいで映画『聲の形』(以下、映画)しか漫画『聲の形』(以下、漫画)に触れていない多くの人に誤解させてしまったということ、
そしてこの世で漫画『聲の形』が漫画『聲の形』という作品でしか伝えられなかった、他のラブストーリーや青春物語ではできなかったこと…映画からは外されてしまったことについて触れる。
この日記を読んで少しでも漫画に興味を抱いたのなら、漫画にて『聲の形』というコンテンツを全て消化すべきであり、
本当の答えを噛みしめ、確認しなければ作品『聲の形』には全く触れないで人生を終えるといっても過言ではないと言っておこう。
これはステマではない。
なお漫画のネタバレになりかねないよう、これから漫画を読む人間にとって害にならない程度に極力抑えるつもりだ。
これはステマではない(繰り返し)。
そしてあくまでも日記なので読みづらさや誤字脱字などは勘弁してもらいたい。
単純に2時間半に収めるには物理的な無理があったため、大幅にカット、再構成されている。
その点だけでも漫画と映画は全くの別物と言っても差し支えない。
しかしこれは映画1本に収めるという制約上仕方のないことで、これに関しては特に言及するつもりはない。
要は、漫画が伝えたかった要素をコンパクトにして映画で伝えられたらいいだけだからだ。
つまり、私が問題にしているということはその再構成で漫画が伝えなければいけなかったことを大部分が外されているからだ。
制作スタッフは映画を見に来た観客にできるだけ「負の感情」を強く抱かせないように気を使って再構成している。
分かりやすく言うと「なんだよこのクソ鬱映画!!」みたいな感想にならないよう、できるだけイライラ不愉快になるような要素や、
生々しい要素をオミットしている…その商業的にも負になりかねない要素たちだけ、
この映画への梯子が外されて下に蹴落とされている…といったイメージだ。
漫画では読者の心をえぐってくるような要素が宝石箱のように詰め込まれている。
主人公・石田にともすれば殺意を抱かせるだけの強いクズの描写がされており、
小学生時代の石田を無条件に悪だと読者は強く確信でき、そこに同情の余地もなければクラスの手のひら返しにも憤慨するだろう。
映画ではかなりあっさりと流されていて、このせいで不快な思いをだいぶ軽減されているが、
石田の「俺は清算して死ぬべきだ」という気持ちが映画視聴者に軽く受け取られやすくなってしまった、薄っぺらく見られやすくなってしまっている。
漫画の特色として、読者の暗い感情をこういった不快ないじめや生々しい描写で刺激しつつ、
当事者である石田がどうやってそれを乗り越え、まともに生きることはできない、けれど死ぬこともできなくなったところを出発点に歩き出した、
というのが最初の石田と西宮の出会いで、だからこそいじめた本人である自分が友達になろうとするという不条理を進まなければならなくなったという経緯がある。
つまり、最初の死への渇望とその道を閉ざされた石田の心理描写を読者に刷り込ませるためには、
石田の所業が到底擁護できないくらい行き過ぎた描写であることが『聲の形』という作品には不可欠なのだ。
それを見た読者の底にドロドロと横たわりだした感情を燃料にして、出会いが種火となり燃えながら、時には火が消えかけながら、それでも何とか大きくなろうとする炎の様子が、本当の『聲の形』の姿だ。
作品として、「読者(視聴者)の負の感情」が必要なのだが、これは前述したとおり耐性のある人間を選んでしまうため商業的に足かせともなりかねない、
と判断され軽減・外した、というのが制作スタッフが再構成で行ったことだ。
ピンと来ないなら激辛だと食べれないから中辛にした、ということだと思って欲しい。
そのおかげで結果として極力不快要素を外し京アニの作画力とキャラの可愛さで万人が食べれる作品へと変化し、
映画『聲の形』は売れることに邪魔になる重りを捨て去り新品のランニングシューズを履いて走り抜けた。
でもそれは漫画が這いつくばってたどり着いたところとは違うゴールであり、
その漫画がたどったコースとゴールは今後二度と映像化され現実化されないということを確信し、制作の手腕の勝利も同時に確信し、私はショックを受けた。
帰ってレビューに目を通すと、やはり石田の心理描写が把握しきれていなかったり、
障碍者としての西宮の葛藤や苦悩もかなりあっさりされているので重いテーマだったという感想はありつつも、
そこから広がりを感じるような形としての感想が出てこず、実は何も考えさせられてないというのが観察できた。
西宮がなぜ笑い続けなければいけなかったのか、西宮がなぜ思い詰めてしまったのか、
石田も同様になぜ最初に思い詰めて、それでも西宮と違い諦めなかったのかということに説得感を出すためには、
やはり前述した「読者の中に生まれたドロドロとした暗いもの」を燃料にするための不快要素がオミットされたことが原因である。
聾唖の人たちからの意見も、この不快要素オミットのために発生した説明不足、その他ところどころに出てきてしまった脈絡のないように見える行動もこのオミット行為の副作用となっている。
ただ、それは商業的な成功には必要なかったし、事実それで勝利を収めてしまった。
これは作品の特色であってもビジネス上で不利益とみなされたものは無かったことにしていいという資本主義思想に対する芸術・創作の完全敗北と言い換えてもいい。
とにかく大多数に対して理解されやすければ、消化しやすいコンテンツであるならばいくらでも特色を消してしまっていいという姿勢だ。
それに深く静かな絶望を覚えたのは、漫画既読組には少なからずいただろう。
家に帰ったあとそれは視聴した沢山の人のレビューを読んで感じているかもしれない、私みたいに。
一体、映画を見た人の何割が石田と自分を重ねることができたのだろうか。
嫌な汗はかくことができただろうか。
漫画の『聲の形』は、一度死を望んだ石田が自分が行ったことを思い知らされ、なおかつ死ぬという逃げ道すら断たれたことで、
前を向いて、半ば仕方なく、半ばやけくそで行動する・西宮の友達になるというスタートで物語が始まる。
石田のやったことがどれだけ許されないことなのか、また当時の登場人物たちが流され、無力で、愚かで、間違えてきたことが心をえぐられる程度に描かれている。
この最初の導入でしつこいまでに鬱要素をぶっこむことで読者は自分が過去やってしまった罪の意識を思い出し、無意識に石田に重ねる、石田は読者の暗い過去だ。
今風にいうと黒歴史を人物化したキャラクターとしてこれで形作られる。
過去が黒ければ黒いと形をはっきりしてくるキャラクターだ、それは視聴者の闇の色と同じ色をしているからだ。
それをやらなかった映画が石田に対する感情移入がバラバラなのは、つまりは、その黒歴史へのアクセスが不十分になってしまったからだ。
普通、そこまで思い返すほどのトラウマや黒歴史を持つ人間は少ないので、
その場合は石田に代行させて罪の意識を増幅させるためにも石田のやったことは大きく描写されていた方が感情移入のためのパイプを築ける。
そして、死ぬことを閉ざされた石田が、つまりは黒歴史から目を背けずに、常に意識して生きなければいけなくなった「あなた」は、
どうやって生きていけばいいのか、どう周りと接していけばいいのか、取り返しがつかない過去と石田・あなたはどう向き合っていけばいいのか。
石田が黒歴史を貼りつけながら歩き続けるプレイヤーとなり、読者は過去が脅かすことに石田と共にドキドキしながら、辛さを共有しながら、
最初は不快感を感じていたはずの石田・自分に、いつしか何とかしようと奔走する石田を応援しだす。
けれどこれからの西宮・未来は泣かせないように行動することができる。
過去の追跡がどれだけ辛く暗いものなのかが、このテーマを重く受け止めるために必要な手順だ。
ところが、何度もいうがこれをオブラートに包むか削除してしまったため、このテーマが盛大にぼやけてしまった。
漫画では西宮の家庭環境や小学校の教師との再会や映画作り、いてもいなくても一緒だった真柴のちゃんとした存在意義など、
この暗さと前向きにもがく様を描くための要素が何度も繰り返されている。
その最後の結末が、読者のこれからの背中を押す形で終わっている。
生き続ける石田と現実に生きる私たちへの、エールへと繋げられている。
そしてそれが他のラブストーリーにできなかったことで、『聲の形』だけができたことだった。
他のラブストーリーに、何とかしようとして上手くいかずに古傷をえぐらせるような真似をして、
それでも読まざるを得ないという状況にもっていけるだけの能力がない。
「これはどうなってしまうのか?(他人事とは思えない感想)」と思わせるのがこの作品の面白さでもある。
◆
『聲の形』にとって障碍者という要素はいじめの歴史を作るためのただの道具の1つに過ぎず、それが本質ではない。
本質は、変えられない過去と変えられる未来、そして過去を受け入れるというこの3つの要素だ。
消極的に変わらざるを得なかった石田が変えられない西宮を救い、
一緒に変わっていこう、と2人とも前向きになるという完全に内面の話なのだ。
そして変わりたいけど変われなかったという気持ちの重さ、辛さ、ドロドロした暗い時間の積み重ねを描き切ったのが漫画だ。
読んでいる人間が石田の状況に嫌な汗をかき、そして小さくホッとする作品なのだ。
大ヒットをしている。
そう、思った。
映画館で聲の形から心をえぐられることに2時間半耐えられるか悩んだからだった。
ところが実際は、別のことでえぐられるとはそのとき私は思いもしなかった…
小利口なエリート集団みたいなところと自分は近い位置にいるんだってことを匂わせて
いわゆる底辺層を大義という自分が責任負わなくてもいいもんをバックに
排除することが世の中のためみたいな薄っぺらい自己満足から抜け出せないからなんだよな。
どうせ元ジャーナリスト(笑)としての能力を生かすならその「自己責任で糖尿病から透析が必要になった人」にも医師と同じくらい話聞けばいいのに。
まあ100000歩譲ってヤツに同情するとしたら、今時正論をまっとうな方法で主張しても誰も食いつかないから過激な言葉にすることにしたってことで
ある意味ヤツのあれを作り上げたのは便所の小バエのごときネット民てことになるんだろうな。
ていうかみんな優しいな。
とてもじゃないけど自分からあのアホのブログとか読みに行く気がしないわ。
http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/48511272.html
あとあいつの書く文章のキモいところは、内容に賛成することで「私もそんな小利口エリート集団に近い意識もってまーす」みたいな優越感に浸れる仕組みになってるとこなんだよな。
小学生の頃は他人に罵詈雑言やワガママをぶつけながらその自覚がなく、当たり前のように孤立していた。
中学時代にこの言動でトラブルを起こしてからは一転して徹底的にいい人を演じるようになった。高校生のときは自分から頼まれてもいないクラスの仕事をどんどんやって、聖人扱いされた。だけど受験前に心の余裕がなくなっていった。偏差値が上がらなくて泣いているクラスメイトに余計な言葉をかけて神経を逆撫でしてしまったこともあった。化けの皮が剥がれて、卒業するときは周りの人から話しかけられることも少なくなっていた。
大学に入るときにはリセットしようと思って焦りすぎた。空回って周りと打ち解けられず、気づけばみんな仲の良い友達を見つけていた。周りが談笑しているときには何が面白いのかわからない。サークルの新歓でも私が喋ると空気が冷える。高校生のときよりずっと寂しいけど、もう取り返しがつかない。誰とも会話がかみ合わない。まともな人間関係が成り立たないのだ。
幸いなことに、長期休みごとに遊びに行くような友達は片手の数ほどだがいる。けれど、その人達にはもっと楽しく笑って遊べる別の友達がいて、私はお情けで一緒にいてもらっているだけな気がする。その友達が悩みを私に話すことがなく、息のあった会話もできないのは、私が自分のことで精一杯で人の悩みを聞いたり、その人の1番いってほしいことを言えるような人間ではないからだ。自覚はある。でも、どうすれば他人が気持ちよくなれるのか、私にはどうしてもわからない。頭でわかっていても実行はできない。
そして、私も遠慮と不信感が重なって本当の悩みは言えないし自分は出せない。心を開いていないことを悟らせないように、口から次から次へと薄っぺらくてつまらなくてひどい言葉が湧いてきて、止めることも誤魔化すことも下手だ。そのうちに話すことに疲れて、相手にも興味が持てなくなる。そのことを相手もわかっているから、お互いに心の扉は閉じたままだ。
もう20歳になるが、心から笑って話せるのは家族だけだ。精神的に疲れたときに甘える相手は母親しかいない。それ以外の人だと、相手の許容範囲がわからずに疲れさせてしまうから。
周りの同級生は、やすやすと人と打ち解け、スケジュール帳をびっしり埋めて、楽しく生きているように見える。彼らにも彼らなりの悩みはあるはずだ。でも、私はそこにすら到達できない。いたずらにだした話題を面白いと思っているのかつまらないと思っているのかわからない。相手の話題に素直なリアクションがとれない。何もかも壊れたあとで気づく。
こんな私でも中学のときよりはマシだと思う。結果が残せたとは言いづらいけど、それでもあのとき変われたのだから、とも思う。けれど、20年も続いてきた自分本位な考え方を変えたり、あるいは誰かに依存せずに済むように自分の足で立つことが、果たして社会に出るまでにできるのだろうか。
要領は悪かったけど勉強だけはできたから、そのことで自尊心を保っていたけど、大学に入った今、私より頭のいい人が星の数ほどいることぐらいはわかっている。それなのに自分の知識を無意識のうちにひけらかしてしまうこともある。技術も社交性もない私に一体なんの価値があるのだろう。頭でっかちで半端な知識を撒き散らす壊れたスピーカーだ。
幸か不幸かギリギリのところでレールからは降りずに生きているけど、そろそろ限界が見えてくる。いつまでも親に甘えて頼り切ってしまったら、いつか親が私を支えられなくなったときに共倒れだ。そのときに親を支えられるような人間になれるだろうか。そして辛いときに支えになる人を、大人の世界で私は見つけられるだろうか。そしてその人が倒れそうなときにも支えられるようになれるだろうか。その人を笑わせたい、悲しませたくないと素直に思えて、そのために心を尽くせる人はできるだろうか。
今すぐにでも動かなきゃいけないはずなのに、エラーしてでもトライしなければならないのに、さもなければもっと知識や技術をつけて強くならなければならないのに、そのどれも私はできずにいる。永遠に家で何もせず暮らせていけるものだと心のどこかで信じている。そんなことはないのに。
一体私という存在にどんな意味があるのだろう。ネットの海で痛みをごまかそうとしたけど、無数の「ふつうのひと」の言葉がますます無力感や自己否定を招くだけだった。こうしている間にも夜が明けて、私はまた1日を無駄にする。足踏みを繰り返す。頭だけが空回ってオーバーヒートする。なんの解決にもならないパニックを起こす。
頭で考えたことを実行するのがいつからこんなに下手になったのだろうか。
このまま消えてしまいたいけど、それも勇気がなくてできない。こんなの20歳の悩みじゃない。真面目なせいで単位は揃っているから、順調に大人の世界が近づいてくる。
遅れて鑑賞。若い子も多かったがカップル以外の客も増えていて、結構年齢層も公開初週よりは上がって来たのではないだろうか。以下、長い。
年間とかではなく今までの興行収入ランキングみたいなものを見たら分かると思う。
何故売れたのか?と疑問に思うものまでさまざまだ。
少なくとも「スカスカ」映画ではなかったし「何故売れたのか」という点でも完璧ではないが、ある程度説明つくのではないか。
ステマだけではなく本当に評判が良い映画が自分に響かないと、ただ普通につまらない映画を見たとき以上にガックリくる。
この映画を見る今日まで、映画通やら映画通という名のアニメファンやら映画通という名のやり○ん騒動男やらの、いろんな批判を見た。
映画が好きな自分からすると、「そうか。食いつける映画なんだな」ということで、自分にとっては逆宣伝になった。
(まぁ信頼する映画通たちは結構試写時点で絶賛してたんだけど)
映画が好きだと書いたが、アニメ映画に関してはもっぱら円盤待ちの人間なので、その自分を映画館に行かせたという効果は絶大だ。
まず自称新海ファン評の「新海らしくない映画」だが、しっくりこない。
むしろ新海監督のファンサービスがちりばめられていて、過去作好きこそ振り回される映画ではないだろうか。
キャラ、ストーリー構成から唐突感だったり、詩的な部分だったり、感覚的な部分。とても「新海らしい映画」だと感じた。
むしろ新海らしくないというのなら、何らしいのか。
思いつかないので、やっぱり新海らしい映画だった。
隣りで見てた50オーバーが号泣し、終わった後感想を熱弁していた。50オーバーを若い世代という世界には住んでいない。
しかし確かに今まで見てきたアニメ映画とは、一味もふた味も違うのかもしれない。
ニュージェネレーションに対するギャップが、ある人にとっては大きかったのかもしれない。
例えば主役が高校生だから高校生しか感動しない。というのは馬鹿な話である。
じいさんが主役でも、子供が主役でも、感動するものは感動するだろう。無理なら想像力が欠如している、と言っているようなもんである。
RADWIMPSは嗜む程度だが、あまりRADWIMPSらしくもなかったので、激烈RADファンからすると絶賛はしにくいんじゃないか。
自分のような嗜む程度のやつに、ちょうどよかった。
歌もしっかりはまっていたし、劇判にも仄かにRADらしさがあった。しかしやっぱりそんなにRADらしさは無かったかもね。
つまりファン以外も満足しているということだ。(ファンもある種の初期RAD感が出ていて嬉しいのかもしれないが)
ここはとても「邦画」感が溢れていた。秒速~以外に、自称映画通なら何作品か思い浮かべたいところだ。
昨今の邦画は設定を詰め込み、それを全て説明しようとしてくる。故に物語に勢いが無くなったりする。
しかしそこまで説明されずとも作りこまれている映画に傑作が多い。本家アカデミー賞受賞作などを見ると、設定をしっかりした上でとにかく勢いが凄くて、設定なんてどうでもよくなる。
その部分がエンタメ邦画には足りないなぁと常々思っている。(無いとは言わないし、説明カットし過ぎてダメなのも邦画あるある)
結局作りこみすぎると、ヲタクは解説したくなってしまうのだ。(ヲタク=脚本家・監督)
君の名は。はその絶妙なバランスにたどり着いた。日本人が受け入れられる塩梅での。勢いと説明の狭間だ。
例えば、見てない人には分からないだろうネタバレだが、三つ葉が父を説得するシーンが今作には無い。しかし説得した、と分かる。
でも後々…もしかしたら見終わった後で、もしかしたら2回見た後で「あ、そういえば説得してたな」と気付く仕組みになっている。
見ても無い自分が「フィクションだからさぁ…」と突っ込みたくなるような批判だったが、見た今なら「あれはこういう意味があったんじゃないかな?」と推測できる部分がしっかりある。むしろちりばめられている。突っ込んだ人はもっとストーリーをみるべきだった。
きっとリピーターは血眼で探しているだろうし、他のそういう手品のトリックみたいな演出も、多分2回見たいと思わせる構成だ。
男女入れ変わりと聞いたら、転校生を始めいろんな作品が頭をよぎるだろう。使い古された設定に見えるかもしれない。ボーイミーツガールは王道だし。
その設定を使ったこういう構成の脚本を、薄っぺらいと言うのか。本当にそう思ったのなら絶望的な感覚である。とまで言っちゃう。
「薄っぺらい」ではなく「説明なさすぎ」の言い間違いじゃないのかなあ。
これくらいで良いと思うけどね。商業映画は。(もう一度見て理解したいと思わせる技は必須)
おっぱい揉んだりパンツが見えたりしただけでヲタク向けになるのか。
パンチラは角度的にどうしても見えてるだけであって、逆に見えないのはあの画の中では大きすぎる嘘になってしまう。
パンツが見えないのはギャグだ。リアリティがない。むしろ日常萌えアニメはミニスカで絶対見えるパンツを描かないことで、フィクション感をだしている。
ていうかパンツ一瞬しか見えない。コンマ何秒とかしか見えない。騙された。
この理屈と同じで、実際あの状況なら胸は揉むだろ。
そんなわけであがっている批判を見ても、「え?なんでそんな批判があがるの?」というものばかり。
(例えば漫画原作のように<漫画という神>と違うからという批判は、心情的に良く分かる。調理した方と見た方の問題は根深い。)
是非まだ見てない人に、見てから判断してほしいと頼みたい。別に批判をする人がわるいわけではない。的外れな批判が溢れているだけだ。
どうも売れすぎて、色んな雑音が耳に飛び込んでくる状況になっている。
これを読んでる人は、君の名は。のことが気になっているはずだ。素直に、自分がどう感じどう思うか?と映画で考える良いチャンスなのだ。
そういう空気が付きまとう世界情勢で、映画界、とくに邦画界にもある時点から閉塞感があった。
いつだって現実が向かってきたし、夢物語は無い。そう示してくる話が多く、心の片隅が窮屈な想いをしていた。
若者たちは経済が少し上向いても無駄遣いをしない世代になった。夢を見るやつは、馬鹿だと思っていた。
でも「君の名は。」は希望のある夢を見せた。ここまでの大きな夢は、もしかしたらあの時の自粛ムードと共にタブーになっていたたのではないかと思う。
フィクションだから、アニメだから、一つの大きな嘘を内包することができた。
なにかの穴を埋めてくれたのかもしれない。
僕は京都の大学に通っている.元々東京で育っていたがその大学への憧れと京都に住みたい実家を飛び出したいという気持ちで京都の大学への受験を決めた、そして何とか拾ってもらい今京都に住んでいる。
大学生になって実感したのは周りの人間がどんどん海外に行くということ。高校の同級生と久々の同窓会で再会したときも、夏休みに数カ月留学してたんだとか、今度どこどこの国に行くとか、そういう話ばっかだった。
そういう人間は多かれ少なかれ海外に行ったことを示すためにTwitterやFacebookに写真を投稿する。どんな人もまあそうするよね海外の風景なんて珍しいんだから。
でも行って何をしたかって言ったらサバイバル力磨いただけじゃないの?正直海外に行くことで何を得ているのかよく分からない。
単純に海外旅行に行って遊んできました~ならうわ羨ましいなお前でいいんだけど、留学、これは本当に何をしているんだ?
例えばサッカー選手が海外に挑戦するみたいに、よりレベルの高い環境で自分の力を試すなら分かる。自分の専門についてその本場で学びたいと言うのならよく分かる。「○○先生のところで勉強したくて!」って理由なら「おお頑張れよ!」って思える。
でも、大抵の留学に行く人間ってそういう理由で行ってないだろ?他人とは違う経験がしたいから、その場にあった留学に飛びついたんじゃないの?お前は何しに海外に行ってんだ?
1回気になって留学に行く人に「なんで留学に行くの?」って聞いたことがある。そしたらそいつは「なんでだろうね。でも行きたいんだ。君は留学行きたくないの?」って答えやがった。ふざけるな真面目に考えてくれよ。
正直に言って俺は英語が苦手だ。文章を読むことは出来るけど会話は絶望的に出来ない。これはまあ中高の英語教育が(喋ることを重視し始めているとは言っても)読み書きに偏重しているから、そういう訓練を積んでいない、それだけだ。
京都という土地柄外国人に道を聞かれることは多い。そういう時「OK」「there(指差し)」「I don't know」ぐらいしか言えないぐらいにはクソな英語力だ。しかも超キョドってる。我ながらひどい。
だから、そういう英語弱者のコンプレックスから海外に行く人間を妬んでいるのかもしれないって自分でも思うよ。でも、だからこそ海外に行くメリットをちゃんと教えてくれよ。英語の出来ない俺を見捨てて海外に行かないでくれ。
海外に行くのは凄く怖いことに思える。
http://www.suzutaro.net/entry/2016/09/18/174626
でもこういう記事を読むとやっぱり本当にムカつくんだよな。大学に通っていても勉強してないのはお前だろ。そういう留学に行く人間の方が授業を真面目に聞かないんだろ。ふざけるな。
俺は今京都の大学で凄く授業が楽しいよ。そりゃ眠くなったり、全然集中出来ないときだってあるけど、それでも授業受けるだけでどんどん自分の中で知が広がっていく。特に哲学の授業なんかはこれまで考えもしなかったことを考えるんだ。俺はデカルトの認識論や観念論、現象学も講義を受けたけど今まで知らなかったことしかなくて本当に面白かったよ。でも友人はLINEで突然「○○の授業ってレポート課題出てたっけ?」とか試験直前に「○○の授業取ってるー?」とか聞いてきやがる。
今まで授業で一回も見なかった人間だ。他にも、授業後に「今の授業聞いてた?笑」とか聞いてくるやつだっている。興味ないなら来ないでくれよ。興味ないのに来るならもう少し申し訳なさそうにしてくれよ。。。
大学は授業出てるだけで面白いことはたくさんある。最初からそれを無視して勝手に大学の講義はつまらないとか行く価値がないとか言い切らないでくれよ。
上に貼った記事でも「ただ大学を卒業して、」って書いてあるけど、それ自体面白いんだって。
他にも日本で楽しいことはたくさんある。怪しげな地下イベントとか行ったことあるか?テレビでタモリ倶楽部見たことあるか?展覧会は行ったことあるか?
本を読んだことはあるか?京都は古本屋がたくさんある。古本屋で棚から棚へ視線をじっくり動かして掘り出し物探したことあるか?映画は行ったことあるか?ただあてもなく散歩したことあるか?何も考えずに路地裏を探検したことあるか?
毎日生きているだけで精神的に充実させることが出来てしまう。インターネットでいくらでも面白い記事が読める。YouTubeでMVを見てるだけで一日が終わったことがある。毎日生きるだけで楽しい。なあ、日本ってそんなにつまんないのか?
別にそんなことないだろ?京都にいるだけでも毎日を充実させようと思ったら出来てしまう。だから特別日本がつまらないって俺は思わない。
日本の文化の面白さって言ったらなんか薄っぺらいけどさ、でも面白さはあるんだよ。日本の文化っていうよりもうそれ自体が面白い、価値はよくわかんないけど好きだってものが。
だから、日本を軽く見て海外に目を向ける大学生はまずもっと毎日の生活を見つめてみようぜ。音楽でも文学でもアカデミックでもスポーツでもゲームでも何でもいいからハマれるものにハマってみようじゃんか。
意外と面白いものって視界のすぐ外側とか隅っこにあったりするんだって。だから安易に日本を捨てて海外に行くなんて言うなって。海外に素晴らしいものもたくさんあるだろうけど、日本で生きていたって十分面白い。
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2016/09/14/122251
この底の浅いヒョロヒョロな評論考察を読んでイライラしてしまった。ライターが仕事ほしくてケツにローション塗りたくって新海と川村と野田にケツ差し出して媚びてるようなヌルヌル文章だよ。こんなの。
まあネットを巡回して色んな意見をまとめて自分の考えをたとえ薄っぺらい内容でも分かりやすく主張して言っているという部分ではローションライターとしてはいい線いってるんじゃないか。
で、内容は
東浩紀や渡邉大輔とかはリア充性に注目しているけど、そうじゃない、エンタメ技術論なんだと。うん。その方法論の実現のためにRADWIMPSという存在があると。うん。で、そういう組み合わせを仕掛けた川村元気が天才的なんだと。ううん?
ど、どういうことだろう。一体この人は何を言ってるんだろう。
>こういう風にお互いに共通する世界観、作家性を持つクリエイターを結びつけるのが、まさに「プロデューサーの仕事」なんだなと思う。そして、「音楽×映画」という観点で見ると、川村元気という人はいろんな実績がある。
中略
>高木正勝や山口一郎や野田洋次郎や中田ヤスタカのような作家性の強いアーティストに「映画のための音楽」を作らせる手腕。さらに主題歌と劇伴を同じアーティストが手掛けることによって、映画と音楽が密接に関わりあう作品に仕上げる手腕。そのあたりは、『バクマン』や『君の名は。』や『何者』に共通する、川村元気のプロデューサーとしての天才性だと思う。
おうおうおうおう、いぇいいぇいえいぇい。そうね。はいはいはい。
なんか知ってるなあ。こういう物語と音楽のあり方、なんだっけなあ。昔あったな~、同人誌のタイトルで、椎名林檎とかcoccoとかポルノグラフィティとかの曲名を同人誌のタイトルにしたりさあ。自分の好きなカプのテーマ曲を脳内設定したりあったなあ。つか今でも見かけるなあ。
結局川村元気においての映画と音楽なんてのはこういうことを東宝のプロデューサーとしてのスケールでやっているだけで、天才的な手腕でも何でもない。ただの凡庸さゆえにより大きなマーケットに向けての仕事ができるというだけです。村上春樹聞きながらレディオヘッドとか聞いてる学生と似たようなもんなんです。たぶん、人脈つくりや人と仲良くなることが得意なんでしょう。どうでもいいことですが。
本題なんだけど、もうさ、君の名は。の褒め文章、どれもこれも高校生のポエムみたいなのでうんざりする。なにがちょうちょ結びだよ。テーマが結びだ? んな程度のことたいていの物語系のコンテンツで君の名は。以上の水準でやってるよ。挿入歌の歌詞の考察でアニメ映画の評論かいな。さらにそんなスッカスカの考察のアホみたいな文章にブコメで称賛するスーパーアホもわんさか。こういうアホどもをあぶりだしたことが君の名は。の最大の達成かもしれんな。あと褒めるべきは、中高生をひたすら甘やかしてうっとりした気持にさせるためだけに日本のアニメシーンで最高峰の人材が浪費されたのは虚しいこととはいえけっこうな金儲けになったことだけはまあ褒めてもいいだろう。問題はそんな映画についてクソポエムを書いてしまう連中とそれにくっついていくクソオタ。
チャーリーのポエムに続けて40のオッサンが「ここはまさに同意」じゃないんだよ。
君の名は。に前史みたいなものがもしあるとしたら、適当に今考えつくだけでも、書けるだろう。
そして新海誠が作った山崎まさよしのPVになってしまったような秒速5センチメートルが公開されたのは2007年、ハルヒダンスなんかも当時の中高生にとっては重要なのかな。適当に言ってるだけだけど。
つまり、アニメ文化とPV的映像センスの親和性と消費者のリテラシーがこの10年間でとんでもなく浸透し、上昇した。具体的には、自己像を架空の世界、二次元キャラアニメ世界に没入させる技術が今の10代20代はそれ以前の世代と比べて圧倒的に優れているわけ。
そしてさらにカゲロウプロジェクトや告白実行委員会、ボカロ小説といった、若者向け物語文化がさらにそういうPV的な音楽と物語の需要にさらに拍車をかけた。
はっきり言って、やってること同じでしょ? 君の名は。とカゲプロとかずっと前から好きでしたとかって。新宿感はストリート感に対応しているし、青春ドキドキ胸キュンストーリーだし。
震災をダシにしつつ実際は自分の恋愛の成就にしか興味がないウスラバカのための映画で子供の背伸びにもピッタリ。
というのはまあクソオタ向けのまとめであって、なんでこんなとてつもないヒットしたかって、結局のところ新海誠のくどい撮影のキラキラ画面というのは、大衆にとって衝撃的な画面として映ったってことでしょう。しかも、描かれているものはスピリチュアルでスケールが大きい。ただ素朴に、「え~。アニメでこんなにキラキラした画面初めて~。すご~い」ですよ。それを映画館の大画面で見るんだからカルチャーショックでしょう。物語の内容がアホみたいな間の抜けた王子様とお姫様のきっしょいラブストーリーだとしてもね。べつに中高生がうっとりするのにはそれでいいんですよ。(本当はよくない) 問題はそんなのでポエムしちゃう連中。
田中将賀のパンピ向けデザインが安藤雅司ほかのとんでもない水準のリアリズム超作画で青春ドキドキ胸キュンストーリーが、実際の物語としての出来はともかく、予告だけ見てたらとんでもなくヘルシーで健康的な印象でしょ。そういうただひたすらキュンキュンときめきたいっていう大衆の眠っていた願望を呼び覚ますには充分すぎる画面を提示することができたわけ。本当にただそれだけなの。凡庸な物語センスの新海誠と凡庸な音楽の仕掛け人であるところの川村元気のセンスが大衆向けの子供だましクールジャパンアニメの到達点として結実したというのが妥当な見解でしょうよ。
物語コンテンツの需要における文脈や楽しむための作法には積み重なっていく歴史があるんだということさえ理解できないバカが大量宣伝を大衆向けの物語でやったから川村がすごいんだと単細胞な意見でつっかかってるんだね。ガンダムとマクロスをたとえに出して、君の名は。とカゲプロが似てると思うのは老いだぞ、とか。このエントリの文意さえ読み取れてないみたいで、これはバカでも分かるように書かなかったこっちが悪いのかな。それともバカなのが悪いのかな。
君の名は。をバカにされて頭がフットーしてる人、ケチつけられることがつらい人にオススメなのは川村元気は他所の畑で実った果実を自分の畑で植え直して大衆に売ることの天才とでも思っとけば川村でも天才扱いできるからいいんじゃない?
こっちはライターがフェアな関係であるべき対象を天才とか軽々しく言い出したのがイラついただけなんでね。
文脈なんて前提だよって人もいるけど、だったらライターはその文脈を歴史として記述しなきゃ。ポエムなんかよりも。
なぜヒットしたのか? 天才プロデューサーの仕事だからでありますって。ちゃんちゃらおかしいよ。ライターがプロデューサー褒めそやしてバカな素人がそれに乗っかって「これが君の名は。の正しい評論だよなあ」って好きなもの同士の特権意識で頷き合ってる気持ち悪い構図になってるんだがら。
このライターの人も君の名は。をRADWIMPSの音楽で読み解きたいんじゃなくてただ取引先ともっと仲良くなりたいってだけなんじゃないかなあ。業界の仕組みなんて知らないけどさ。
ここ見てると、ブクマ稼いでる割に内容の薄っぺらかったりする怪しいのがボチボチ出てくるんだわ。
id:hahalife0は何故か常連、他にid:lacucaracha、id:allmashiかな、他にもいるけど。
サービス開始当初は誰もボイスなんてついてなければCDも出ていなかった。キャラごとに出番の差はあれどそこそこ平等だったはずだ。
でもだからこそ、どのキャラをトップアイドルに導きたいか自由度が高かった。
それが今はどうしたことか。
アニメが始まり、スターライトステージが配信されて以降、声なきアイドルたちは更に取り残されるばかりだ。
そして私の担当アイドルはその取り残された…つまり、「シンデレラになれなかった」グループに属している。
まもなく1周年を迎えるスターライトステージにも未だ実装されていない。
私の身の回りにもプロデューサーが多く、ネットでの交流は盛んで、オフ会で出会うことも少なくない。
そういった人たちの担当が次々と輝ける舞台に立っていってるのに、自分の担当アイドルだけは未だにそこに立てていないままだ。
これに関してはあくまで身内間の話しでしかないのでさして重要なものではないが。
お願い!シンデレラの歌詞「誰もがシンデレラ」の歌詞が今となってはものすごく薄っぺらいものに聞こえて仕方がない。
そして時々思ってしまう。
「俺が彼女をプロデュースしようと思ったことは間違いだったのだろうか」と。
声や歌が与えられるアイドルとそうでないアイドルがいて、自分が選んだのは後者だった。
自分が惹かれ、共に歩んでいきたいと思ったアイドルに対し我ながら失礼だし申し訳なくも思う。
本当のことを言えばまだ希望を捨てきれずにいるのだが…結局彼女たちの運命を決めるのは運営である。
方や約束された舞台が用意されている声付きアイドル、方や将来が見えない声無しアイドル、
どちらのグループを選ぶかは火を見るよりも明らかだろう。
今後声なきアイドルたちとそのプロデューサーは、何を目指し歩んでいけばいいのだろうか。
(※以下9/2 23:45ごろ追記)
担当は高峯のあです。優遇不遇どちらに入るか、こちらからはノーコメントとさせていただきます。
カード総数は比較的多い部類に入りますが、傾向として総選挙直前~投票可能時期には登場しないというのが見られます(故に票が入りづらいところがある)。
以下参考に。
・総選挙→第2回35位 第3回47位 第4回44位
・ボイスオーディション19位
(※以下9/3 12:15ごろ追記)
担当を明かしたらやはり「お前の担当は恵まれてる方だろう」的なことを言われたので自分なりに思うところを。
確かに「本家モバマスに限れば」それは間違ってないと思う。本家でも出番格差があるのは否定しようがないし。
けれどデレステ以降、アニメ未登場及び声無しアイドルがアニメ以降参入してきた人たちからモブ呼ばわりされるような風潮が出来上がってるんですよ。
そういった層に高峯のあを知ってますかと聞いても「は?誰それ?」で返されて終わりなわけで(何らかのきっかけでモバマスにも触れていればそうとも限らないだろうが)。
デレステで声のないとあるアイドルがSSRになった時に「声無しでSSRとか」っていう反応が多く見られたのを覚えてる。あれは彼女の担当じゃない自分でも見てて辛かった。
なのでもはや「モバマスで扱いがいい」ことはもうアドにはならないと思う。声がないって時点で等しくモブ。個人的にはむかつくけど認めざるを得ない。
余談として、個人的に不安なのがデレステ登場時に銀髪、天体観測と被ってるところがあるアナスタシアの「二番煎じ」扱いを受けそうっていうこと。
公式でもアーニャの方ばかり天体観測要素がフィーチャーされまくってるので運営的にもうちの担当はもう下位互換なのかなと邪推してしまったり。
2年ほど前のある日、雷にうたれたように浮世絵にハマって、それから半年くらいは俺もそうだった。
少しでも食いついてくれたら、チャンスと思って布教活動してた。
いま考えるとかなりキモいが、布教用のプレゼンのパワポ資料をタブレットに保存して持ち歩いてた。
「面白いね!」
と好感触だったら、次の資料、次の資料、と出せるように複数作ってあった。
ちなみに、全9種類。
だいぶ友人を失ったと思う。
オタクに悪気はないんだ。
許してやってくれ。
追記
間違いなく、ネットにあがってる浮世絵まとめのどれよりも、方向性が多岐にわたる資料だ。
ジブリと浮世絵を絡め、まどマギと浮世絵を絡め、細田守と浮世絵を絡めてアニオタにアプローチ用の資料。
マッキントッシュとジョブズと浮世絵を絡めて、アップル信者用の資料。
浮世絵を買い漁り(復刻含めれば100枚はある)手にとって色んな角度で鑑賞し、匂いを嗅いだり目立たないところを舐めたり頰ずりしたりするくらいハマった。
枕元に立て、眺めながら寝た。
資料作りをやめたのは、浮世絵の魅力を伝えるつもりで資料を作っていたはずが、なんとか説明しようと資料を作るうちに新しい魅力をわんさと見つけてしまい、
「ダメだ、こんな薄っぺらい内容じゃ半分も魅力が伝わらない!」
たまにこういうハマりかたをする人がいるらしい。
正直、そうした話は見たことがない。
それでも、
「おおかみこども」の細田監督という人ならば、
(前者はシン・ゴジラの大成功以降、国民的監督とか言い出す人が出かねない勢いだ)
アニメファンでない私が、漏れ伝わる声からイメージする新海誠の評価って、
「たった一人でアニメを作っていうスゴイことをやった」
「なんか絵がきれいらしい」
という認識だ。
つまり、この人の卓越した実績ってのは『一人で作った』ってところであって、
ひとりでここまで作っちゃうなんてすごい時代だねー、この人は多才だねー
ってことなんじゃないの?乱暴な言い方なんだろうけど。
だから、アニメ界を背負って立つとか、そういう評価じゃないんじゃないの?そもそも。
それとも私が知らないだけで、
プロモーションがあったの?
すごいめちゃくちゃで、ふわふわとした話を圧縮して(いるかのように騙されながら)、勢いで見せられたという感じである。
思いつくまま適当に文句を言います。誤字脱字はスルーしてください。読みやすさは保証できません。
単純に、これ、この二人の恋愛物語が、なんでこういう話でないといけなかったんだろうって思ってしまった。現実世界を写実的にアニメビジュアルで美しい世界でやっていればいるほど、プロットが進めば進むほど、リアリティがなくなって、ふわふわしてくる。秒速5センチとかは、ファンタジー要素は、クズ主人公が理由もなくモテること以外は別段、物語に存在しないから、ああいうクズのナルシシズムの物語として説得力があったが、君の名は。みたいに大きな舞台設定をコントロールする力量がないからもうひたすらめちゃくちゃで、あきれる。なんか最後の方とかエヴァもどきの精神世界みたいな描写とかもあったし。2016年であんな描写見て、何を説得したいのか謎だった。もっと普通のドラマの描写を作って言いたいこと言えよ。
もし、これがテレビアニメ1クールだったら、予算も時間も潤沢でなく、画面にオーラもなくお得意の映像美もろくすっぽ使えないだろうから、物語面が強調されて、みんながアレコレと粗を突っつくので「すごいきれいな映像の映画を見た!」っていう勢いがなくなり、凡作認定されていただろう。元々新海誠みたいなのって、エヴァンゲリオンと村上春樹を創作のよりどころにしているような、たいして才能のない作家であって、自意識過剰で独りよがりな恥ずかしい妄想で物語を構築しようとする奴が一人で短編アニメをそういう感性で作ってそれが玄人筋にセカイ系だのと変な刺さり方をしたせいで、なまじポエムとかキラキラした画面作りがうまかったせいで長編アニメ映画作家としてのレールに乗ってしまったのが間違い。このあたりの、「アニメーション映画の作家」のブランド化を擁立する回路と発想の貧しさってかなり根本的にどうしようもないことになってると思う。漫画みたいにさ何十人何百人と作家がいるんならいいんだけど、新海誠って、ただ異様に夢見がちで異様にロマンチストなだけでしょ? それがこのひとの作家性でしょう? 東宝が大衆向けに成立させるためにいろいろテコ入れ指導しただけで、悪いところは何にも治ってないよ。寝取られ趣味を指導されてセルフパロディで両想いハッピーエンドなんてところは作家の力量の場所じゃないだろう。
君の名は。にしたって文芸的な発想として、基本的にやってることは、ぶっちゃけ今やってるアニメだとリゼロあたりとほとんど変わらない。何か一つか二つ、使い古された仕掛けを元ネタとして、そこに自分の価値観人生観恋愛観青春観家族観女性観男性観などを展開していく土台にするわけだけど、この映画、雰囲気しかない。ひたすら美しい彗星を見上げるキミとボク、っていう。あそこから恋愛物語を出発させていくんだけど、それが、あの映画。40過ぎた男が「オリジナルで」やるのが、あれ。背景美術の美麗さ、超豪華アニメーター陣の画面の力をとっぱらえば、何がある? 単なる借り物の想像力で自分語りしているだけでしょ? その自分があまりに貧相なんでもうつらいつらい。
ポスト宮崎? つまり20年後の国民的な映画作家? 本当にこの人でいいの? まあジャニーズ帝国みたいにジブリ帝国だった時期があるせいでこういうことになってしまったんだろうけど、画面作りに非凡な才能があるというだけで、大した教養もない奴を神棚に飾らなければならないカリスマを祭り上げる発想が薄気味悪いし居心地悪いしもう最悪。
コイツ一度でもテレビアニメの平均的な予算と時間でやらせたほうがいいわ。君の名は。ではこれまでついてきてくれたアニメーターたちを切り捨てて東宝マネーであてがわれた超豪華なメンツのアニメーター引き連れて興行収入はこれまでの最高が1,5億を初日だけで軽々と塗り替えるくらいの大宣伝攻勢。プロデューサーたちは頑張ったよねえ。シン・ゴジラより興行収入あげちゃうかもしれないんだから。宣伝はうまくいったよね。口コミはどうなんだろうなあ。シンゴジラみたいになるのかなあ。どう考えても駄作だけどなあ。
本編のうざったさは、まず、入れ替わりの際の決まりごとの曖昧さ、具体的なルールや法則性の明示のされなさ。これにいらつく。元に戻れば記憶が薄れるとか、バカにしてるだろ。
他人と入れ替わったのに学校に行きバイトに行き、お互いの素性を知っても連絡を取ろうとしない。そんな日常を代行するくらい打ち解けても自分が生きている時間や日付に気付かないという脚本がわざと主人公たちをバカにしていて、もう序盤で冷めていた。写実的アニメのくせしてこのラインのリアリティの話なんだなと。思春期の男女が入れ替わって? 家族や友人がそれまでと変わらずに? 陰口叩いてくる同級生の威嚇のために机を蹴っ飛ばすの? ホントに大丈夫? そのレベルのリアリティでやってくの? 女子力が高い男子高校生と女子大生が仲良くなる過程のディテールもろくにかけないからランチして笑ってればいいの?
前半のガバガバなリアリティが死ぬほど退屈で、アホらしかったわ。憧れの年上のお姉さんのマネキンっぷり、生々しさの演出がタバコって失笑でしかない女性観。もう一段階読み込むと、バカな男たちが惹かれる顔と身体だけの女として、あの先輩を描いているかもしれない。青春の幻影的な? まあ嘘だけどね。魅力的な現代的な女性像なんて新海誠に誰も期待してないでしょう。もう単純に、長澤まさみばりにいい女っていう記号でしかない。
主人公をめぐる人間関係にしたって、後半の探索を円滑に進めるメンツの確保のためでしかなくて、ハリボテ感がすごいんだよね。まあこういう部分はオリンピック見ても分かるように日本中がスクールガールスクールボーイコンプレックスで単に学園物っていう牢獄にいるようなもんだから、ガキっぽい世界観になるのは国民病なんだけど、ただの事実として、選択した物語のギミックにふさわしい舞台設定の調整と情報量のコントロールがド下手。何か原作をつけてアニメを作ったこともない、TV放送で1話20分で回したこともないんじゃそうなって当然だよ。
まあこういう勢いで迫力を出している、野生のバカであるがゆえの新海誠という作家性があるのも事実とはいえ、君の名は。を名作として崇めようとするのはやめたほうがいい。新海誠は文芸的にはリゼロと同レベルなんだから。あのバイト先のレストラン、高級シャレオツぶってるけど、客の民度から察するに最低ランクでしょ? パンケーキのお店のほうがランクはるかに上なんでしょ? 物語の動かし方がつまようじドキュンを活用することでしか分からないんでしょ? やばいよ、あれは。つうか長澤まさみがなんか機転を利かすのかと思ったら謝るだけだったし、ガチで思春期男子が顔と身体だけであこがれてる女性っていうイメージなのかもしれないなあ。まあどうでもいいが。
最初から最後まで、子供っぽいふわふわした基準のリアリティで物事が進んでいく。入れ替わりギミックのぼんやりした設定だけじゃなくて、人間関係とかもヒロインにおいてすら、投げっぱなし。思わせぶりなセリフで色々匂わせるんだけど、それだけ。冒頭で、ヒロインとおばあちゃんが父親とうまくいっていないという物語的な課題を提示しているのにほっぽりだす。ヒロインの家系の巫女的能力があることだけほのめかして、クライマックスの筋に絡まない。ものすごい空虚な存在でしょ、父親が。碇ゲンドウ的ですらない。母親なんて排除しちゃってるもん。
後半の畳みかけるような展開は、正確に把握できたかどうか自信がないけど、もしかしたら、きっちりつじつまが合うように作られているのかもしれないけど、仮にそうだとしても、見ている側との意思疎通がほとんど感じられない。何がどうなれば物語としてオーケーなのか、ゴールが正確に提示されないでしょ? 酒を飲んだら入れ替わりが発生するとか、そんなん言われても、法則性はないのでどうとでもなる展開でさ。
んで助けに来て、おばあちゃんは入れ替わりに気付いても、彗星の話は信じないとか意味不明だろ。父親を説得にも失敗して声を荒げたら「お前は誰だ?」というところでやっぱりあの家系は死んだ母親ふくめて代々そういうことがあったんだと示唆されるわけだけど、なぜか場面転換して逃げ出すように「俺じゃ説得できないのか」って好きな女性の父親とのコミュニケーションを放棄して、なんか展開おかしいなあと思ったけど、彼女とバトンタッチで世代を超えて組糸の家族の和解がテーマかと思ったらそっちも何もない。わだかまりを解消するとっかかりが示されるわけでもない。
土建屋と放送部とか、人間関係と設定がご都合主義的なのはまだ許せても、カタルシスが用意できてない。子供と大人が揉めて、対立して、そこで何かしらのきっかけでうまくいきはじめて、カタルシスが生まれるはずなのに、あれ、なに? 避難訓練て。リゼロみたいに、自分が頑張ってますってアピールするためだけにあの状況があったの? 大人たちは?
現実なのかよくわからない「たそがれ」の場所で幻想的な背景の中でマジックで「好きだ」ださいわ~、普通書かれたらその場で見るだろ。ださいわ~。
そのへんのラノベアニメにないもんっつったら時間のメタファ~()であるあの伝統工芸とかなんだろうけど、物語の中のアリバイ作りとかになっちゃってない? 組糸にしたって、ただのドラマティックな恋愛の盛り上げ役っていうかさ、あのアニメの中の世界であの伝統芸能がどういう存在でこれからどうなっていくのか、とか故郷を災害で失い、跡形もなく消し飛ばされた人々は、東京でつつましく暮らして結婚とかしちゃいますよ? 憧れの先輩も結婚とかしちゃいますよ 君たちも幸せになろう? 頑張っていこう?
は?
震災の記憶と自意識過剰な文学青年が出会って作品にしちゃう最悪のケースの一つ。自分たちを彩る美しい壮大な光景、君の名は。の描く震災は、ロマンティックで残酷な恋愛が体験できるアトラクションなんだよ。BGMはRADWIMPSでさ。
要するに、子供の幼稚な恋愛の話しか興味がないし、子供の幼稚な恋愛の話しかできないの。この人は。庵野が言うコピー世代っていうのよりもう一段階ひどい。子供の世界観でしか物を語れないうえに、何か題材を選んだとしても、それを自分の自意識のファッションみたいに扱ってしまう。
なんか、今回の新海誠をとりまくメディアとかアニメファンの状況が、裸の王様が誕生した瞬間を目撃したような気分になる。
追記
トラックバックで白状がどうとか頭のおかしいこと言っている人がいますがなりすましの変人です。書いてることも奇妙でどういう意図があるのかよく分かりませんが。
@huji_jun 謝罪の必要全くないと思いますよ。同意見です。これで突っかかってくるほうがおかしい。 https://t.co/EsE61u4R8X— 清義明 (@masterlow) 2016年8月22日
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漫画家の先生のほうは、身内以外の不特定多数に公開するにしてはうかつな内容だけど正直な感想ではあったんだろうなーと思う反面
薄っぺらい逆張りマンは本当に薄っぺらい逆張り自体が目的で、自分より燃えてる相手に擦り寄っていってるの見苦しくてマジ面白い
それは僕です。
ネットを検索してみると、「自分が自己中心的な考えをしているかどうか」のチェックリストがありました。
以下のようなものです。(http://www.career-rise.info/blog/selfishness/ より)
みなさまも良かったら、チェックをしてみてください。
・誰かに指図されることが嫌い
・他人が困っていても気にならない
・失敗した時は他人のせいにする
・人の話を聞くのは苦手
・気分がコロコロ変わりがち
・目立ちたがり屋である
皆さんはどうでしたか。
僕は
・失敗した時は他人のせいにする
以外のすべての項目が自分の性格に良く当てはまっていると自覚しています。
自分が自己中心的だと思ってはいたのですが、こうやってハッキリと明文化されたリストに従って
チェックをしてみると、とてもショッキングな結果でした。
思えば、幼少期の家族・友達関係がルーツのような気がします。(ちっぽけな話です。)
姉はとても甘え上手な性格で、長女ということもありわがままを言っても両親は、聞き入れていました。(モノが欲しい・習い事をしたい等々)
弟は末っ子とということで、両親にとても可愛がられていました。
僕は両親からの愛は受けていたのだと思いますが、姉弟と比較してしまい、ほとんど幼少期愛されたという実感がないのです。
また、僕が小学生になる時、引っ越しすることになり、隣町の学校に行くことになりました。
両親は、3兄妹を養うために共働きをしており、僕は1人慣れない土地でいつも1人でいました。(姉と弟は人懐っこいので友達がすぐ出来ました。)
どんどん、1人の世界や考え方を構築していくようになり、小学校高学年ぐらいの頃には、完全にひねくれ、大体こんな感じの考え方・行動習慣が染み付きました。
・初対面の人、目上の人には真面目に接し、ある程度評価されるが、面白みがないと思われる。
・同年代や知り合いとは他愛もない話はできるが、自分の話をどうしたらいいのかわからない。
・自分の話が苦手で別に伝えなくてもいいかな、と思ってしまう分、他人の話も染みこんでこない。(あまり覚えられない。)
・自分自身の力でなんとかなる、と考えているくせに肝心な部分を人に頼る。
・他人に何一つ与えることができない。(自分が損しないのが肝心)
まあ、本当にクズなんですよね笑
「知り合い」は居ますが、心から「友達」と呼べる人は全くいません。
こんな薄っぺらいやつ、僕だったら付き合わないでしょうね・・・。
駄文垂れ流して、勝手な自己分析を続けてきましたが、もちろんこのような性格を直したいと思うのです。
まず、他人に優しくする、自分から与えるという行動を取りたいのですが
何を持ってその行動が自分のためになるか、上手くいったかという尺度がわからないのです。
もし、同じように自己中心的な考えや習慣を改善した方がいらっしゃったら、教えて下さい。
・どのような行動を起こしたか
・どのような考えを軸にしたのか
シンプルだが、プリパラとラブライブの作品性の違いを言い表している。
ラブライブはプリパラ&プリティーリズムのライブ演出を担当した京極尚彦が監督を担当していることから、とりあえずラブライブを肯定的に捉える要素をあることないこと紐付けして論じたいラブライバーが京極尚彦は菱田イズムを継承していて~ラブライブは尊い~みたいなことを言ってるが、そんなことは無い。むしろ反面教師にしているというくらいに長所を捨て去った作品作り。
特に分かりやすいのは、この増田の記事のような、作品におけるキャラクター扱いの妙の差。
話数が大幅に違うので単純比較はできないにせよ、ラブライブも元々はスクールアイドルという誰でもアイドルになれる要素を謳ってる作品だったし、映画ではそのことを主題にしたりもした。しかし内容はそれに追い着いていなかったどころか、追い着こうとする気すらないような体たらく。
実際、そんなラブライブに失望したオタクがプリパラに救いを見出していくパターンも多い。
ただ、ラブライブは従来的な意味のキモオタに媚びた作品ではない。
従来のタイプのキモオタはラブライブみたいな面白みも萌えも何もない何の工夫もない欺瞞の塊みたいな作品にはあまり引っかからないし、ラブライブもターゲットにしていない(できていない)。
ラブライブは新型のキモオタを生み出し、それに受けたといえる。連中は似非ヤンキーで似非オタク。
ヤンキーみたいな薄っぺらい格好付けをするのが好きだがオタク趣味。オタク趣味だがオタクというほど作品内容について語ることができない。稀に語る奴もいるがもっともらしく語ってるふり(格好付け)であって妥当性は皆無。
適当にスタッフ名だの専門用語だのをぺらぺらくっちゃべって最後に尊いとかよさみたいなことを言っておけば連中の中ではわかりてわかりてとチヤホヤされるので満足できる連中。
辻褄が大間違いでも表向きいい話っぽければ満足する。
他人のことは好みだけで偉そうに叩くが、自分や自分の好きな作品のこととなると悪いことをしていても盲目的に擁護するしかできない。
仲間が自業自得で炎上や逮捕などされた際に何の根拠もなく「○○は悪くない」「良い奴だから」と言って擁護するヤンキーやDQNのようである。
以下、ネタバレ感想。未見の人はまず映画館へ。かなりよくできていて、金の無駄だと発狂するレベルではありません。少なくとも「エヴァンゲリオンQ」よりは面白いよ!!!平成ゴジラではナンバーワンだね!(白目)
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【ストーリー】
2004年以来、12年ぶりの国産ゴジラ。いわゆるリブートってやつで、今までのゴジラシリーズをちゃらにしてゴジラ初登場という映画になります。エヴァンゲリオンの庵野秀明が脚本、総監督。
で、ストーリーはだいたい以下のとおり。
自衛隊出すの?鳥獣駆除?防衛出動?関係省庁の意見のすりあわせ大変や~とかステレオタイプの官僚主義会議が続く
まあ自衛隊だしたらワンパンチやろ!と思ったらめっちゃ強いじゃん
当初は「ゴジラで得られる科学的知見はうちがごっそりいただいていくで~」と陰謀たくましくしていたアメリカ、ゴジラが子どもを産んで世界滅亡の危機ありと知るや核ミサイルを東京にぶっこむ宣言
東京を救うべくぎりぎりのところで粘る日本の政治家&官僚、研究者
最後は高層生コン・ポンプ車でゴジラの口にお薬を注入して封印に成功”
映画の枠組みを一言で言ってしまうと、「福島原発事故がこんな感じで解決されていたら良かったね☆」というもの。ポンプ車での冷却とか、米軍の無人機出動とか、放射線気にしながらの作業とかわかりやすすぎ。官僚主義とか御神輿首相とかダメダメ日本だったわけですが、危機に際して覚醒。「この国にはまだ希望がある」(わかりやすく劇中で出てくる台詞)ですよ。棚ぼたの奇跡じゃなくて、人々(といっても政治家、官僚、科学者、自衛隊、土建企業の皆さん、あとトモダチ作戦の米軍有志)の努力で日本は救われる。
映画見ていてちょっと泣いた。あー、こんな風に福島原発事故が解決していたら良かったのに、と。
「日本人にはまだ力がある。このダメダメな現状を変えられるッ!」というエールととらえればすばらしいんじゃないでしょうか。
でもね、もう福島原発事故から5年が立っちゃったんですよ。震災で民草がうちひしがれている時、2012年ぐらいまでにこの映画があったら手放しで喜べたと思うんですよ。私も2011年当時、「この大震災から日本は立ち直るのだ、復興するのだ」とがらにもなく魂をふるわしましたよ。でも結局、日本人は覚醒しなかったし、ダメダメな構造は今も続いている。その状況で「福島原発事故がこんな感じで解決されていたら良かったね☆」っつーのはたんなる自慰行為ではないでしょうか。
日本のなにがダメダメかっていちいちあげませんが、少なくとも映画内でもそのがっかり感はたっぷりとにじみでています。米国が主導する多国籍軍の核攻撃を遅らせる官僚のがんばりが「知り合いのフランス政府関係者に連絡」「首相代理が駐日フランス大使に頭を下げる」だったのにはあんぐり。あと「日本政府は米国の犬なので、米国大統領「東京に攻撃するよ♪」日本首相「I Understand」と速攻受け入れ」とかの単純化を見ていると、問題の本質に向き合おうとしない日本のダメさかげんが反映されているとしか。
首相代理にひたすらお願いされるフランス、ゴジラの解析にスパコンを貸してくれるドイツの研究所の偉い人。そして「安保理は東京への核攻撃に賛成。特に中国とロシアが」「東京に核ぶっこんだら、おわびに各国が復興資金出してくれるんやって」という台詞ベースの説明ぐらい。
でもさ、ゴジラの口にお薬をぶっこむポンプ車ですが、あれって福島原発事故の時に中国の三一重工が供与してくれたエピソードから採用しているわけですよね?なんで中国が出てこないの?台湾もぼくらの馬英九総統(当時)が特番で煽りまくって募金を集めまくってくれたわけですが、そのエピソードも無視。
いや、福島原発事故のエピソードを全部ぶっ込めというつもりはないっすよ。でも日本にとっての国際関係は米国しかないのかい?!とか言いたくなってしまうわけで。この薄っぺらい国際感覚で日本は覚醒できるのでしょうか?復興できるのでしょうか?
【その他】
・さんざん文句をつけましたが、絵作りとか特撮とか最高。予算15億円と聞きましたが、古い怪獣映画らしい雰囲気を出すことで低予算を苦にしない絵になっていると思いました。特に列車爆弾のシーンはスタンディングオベーションしたいぐらい。最高っす。ハリウッド版ゴジラと比べたら100倍ぐらい面白いよん。
・テンポが邦画とは思えないほどいい。会議シーンが多いのに飽きさせない。
・なぜスカイツリーを壊さないのか?!隅田川にこいよ、ゴジラ!
・石原さとみは大好き。妻が見ていたドラマ(洋菓子屋の若旦那と不倫するやつ、坊さんと恋愛するやつ、IT企業の風雲児と恋愛するやつ)を見ていて思ったんですが、あんなにエロさを出せる女優さんは日本にいないんじゃないでしょうか。でも今作は……。石原さとみの英語を聞くたびに発狂しそうに。
違うのではないかと思います。増田が考えている「他者像」が薄っぺらすぎるので炎上しているのではないでしょうか。
>ご飯が美味しかったり、夕焼けがきれいだったり、ピカチュウ捕まえたり、アイスのくじが当たりだったり、出世したり、海外出張がうまくいったり、転職成功したり、素敵なタワマンに引っ越せたり、大から小まで幸せって
>例えば病気とか、親戚や親の不幸とか、仕事の残業連日で辛いぜ~とか、今日のカンファレンスはうまく発言できなかったな~とか
薄っぺらいですね。
そういった極めて具体的で、他者との比較優位でしか幸せや不幸を語れないことを、個人的にはいい年して少し恥ずかしい人だな、と感じます。
更に言えば、薄っぺらい幸福像・不幸像しかない者が、他人に「私にとってあなたのステータスだと辛いんだけど、生きがいってあるの?」と聞くのは、個人的には、相当不遜だなとも思います。
言っていますね。
>私的には一人で生きていくのって結構大変で、だから独身の人って結構辛いんじゃないかなって想像する
邪推に邪推を重ねますが、恐らく、未婚のご友人に聞いて、はかばかしい返事が得られなかったことなども影響して
自分のアイデンティティの立脚点が自分自身の中にないことに不安を抱いた結果の、他者への攻撃的な発露につながっている可能性がありませんか?
一方で、ご友人方が、ひょっとして能天気に自分の薄っぺらい価値観を押し付ける増田にイラッとして
攻撃的に「別に結婚が生きがいのすべてとか思わねーし」と言いかえされている可能性もあります。
未婚のご友人方に、ストレスをぶつけられているのかもしれませんが、そのストレス源になってる自覚も、同時にしておいた方が良いでしょう。
総合すると、やはり、人格が未熟で責任に無自覚だなぁという印象です。
このままだと、本当に「家族にべったり依存する毒親」になる可能性がそこそこあるかもしれませんね。
お前、離婚する可能性だってゼロじゃないのに、大丈夫か?と言っておきます。あえて死別の可能性については申し上げませんが。って言っちゃったけどね。