はてなキーワード: 演出家とは
こんばんは
脚本家たちの深夜密談です
と言いますのもですね
やっぱり脚本家の深夜密談ということで
はい急遽決めました
私たちだけでは心もとないので
伴さんのお話を
お伺いしたいと思いますが
お伺いする前に
一応ちょっとここまでの経緯を
まずこの件の発端というのが
で当初は9割方脚本家を攻めるような
28日になって原作者の方が攻撃したかったわけではなくてごめんなさいというツイートを残してアカウントを消されてるんですよね
その段階で私自身も伴さんにこの話したいんだとお願いしてはいたんですけれど
やはり当事者の方がもう触れてほしくないのかなというツイートをアカウントを消されてるってことは
もう取り消しにしたいのかなというので触れない方がいいのかなと考えたりもしていたんですけれど
今日になって芦原さんがお亡くなりになったというニュースが届きまして
やはりここはちゃんと取り上げて
あくまでも報道やSNS上ご自身たちの発信で知ったことが全てですので
手に入れてお話しするつもりもありません
ドラマ作りなどあるいは脚色の仕方など
どんなことを脚本家がしてどんなトラブルこれまで起こってたのかなどを
お伝えできればなと思っております
伴さんもこれまでの経緯をかなり
チェックされたりされているかと思うんですけれど
伴
進んでしまってるのが一番の原因かなと思ったんですよね
僕は揉めたことなくて
そうですね
お友達になって飲みに行ってっていう方の方が多いんですけどね
ドラマを成立させてくれたんだなとは今振り返って思っててね
話し合いをしたいとこっちが言ってるけれども
間に入る編集者とかプロデューサーがそこは合わせない方がいいと思ったのか
お互い忖度してくれてるのか
合わずに
話が進んじゃう
面白かったですって言ってくれたりみたいなことがあったので
会う時間がなかったのかもしれないけれども
何かあったら直接会って話すっていうのは一番誤解もとけるし
そうですよね
私はしがちですけどね
私はして当然だと思ったりするところもあるんですよね
ただそんなに何だろう
トラブルになる
トラブルが全くなかったってわけではなく
原作者の方からこういう要請が来ましたみたいなことは結構ありますし
そこで意見がぶつかって
呼びつけられて
あなたって本当に私の原作のこと全然わかってないわねみたいなことを言われてたこともありましたけど
ただ基本的に直接脚本家が原作者の方と会うってなかなかないですよね
それはやっぱりですよね
だからそんなのを合わせたらお互い対立するに違いないみたいなこともあったり
プロデューサーが間に入り調整した結果
5聞くことにして5は原作者の方に納得していただいて
持ち帰った5だけはこちらが説得されて直すとか
やっぱりツイッター上でX上でね
とっても心が痛んだんですよね
伴
いや僕の場合結構そういう意味では原作から変えてることが多いんですよ
例えばツイッターにも書きましたけど
クリカンとか
あともう1人子供も加わってみたいなことまで
それをプロデューサー止めてたのかどうかもわからないんですけれども
本当に面白かったみたいに言っていただいて
みたいなことまで
犬がパートナーっていうのも
あのこっちで作ったやつだと思うんですよね
それが参りましたみたいなね
本当に面白いこういう漫画を書きたかったみたいなことまで書かれてたんですよ
なるほどね
そのお二人の原作に
入る時にですよ
原作ってどれくらい変えていいですよみたいな説明ってありました?
伴
これをやるんだったらこうしたいとかね
で大体そこでまとまったら
そういうのをやったと思いますよ
やっぱりそれは企画会議っていうプロデューサーさんとの会議を経て
なんか決定することですよね
そうでその企画会議でいやいやこれは原作通りにやってくださいって言われた時に
伴さんであったとしてもなかなか変えられるものではないですよね
伴
えっと原作通りにやれっていうことですか?
まあまあ会議上
伴
まあそれはもちろん同意がないとできないですもんね
できないですよねっていう
あの僕がやる時は大体プロデューサーと一緒に本を作ることにしてて
出来上がったもので
でただ****の場合はもう現場の周りもすごい面白い監督なんで
まあやったんですけどそれもまあ僕のシナリオからはみ出してない
それも面白がってくれてたんですよね
あの原作者の方の中にはやっぱりなんか2種類いるなと思っていて
もうご自由にどうぞ出来上がりを楽しみにしていますっていうタイプの
まあそういうタイプの多分今のね2ケースの場合は2ケースの場合は多分そういう原作者さんだったのかなっていう気もするんですけど
その一方で特にあの
初めて書いた本ですとか小説ですっていう原作者さんに多いのがやっぱり自分にとってすごくこだわりがあるので
原作はなるべく変えてもらいたくないですっていうようなケースもありますよね
まあ以前前々回かな深夜密談でもちょっと話題に出た柔らかい生活のね
小説なのでっていうことでまあちょっと裁判になってしまったりとか
伴
この作品だったら自由にやってくださいでもこれはっていうのがあって
だから私の場合は原作で企画ができた段階で原作者の方ってどれくらい変えていい方なんですかっていうのはまず聞くようにしてますね
そういうぐらいちょっと最近はやはりこだわられる方が増えてるのかなっていう以前よりも感覚として
という感じは
伴
で実は東野圭吾さんが**賞を撮って放課後っていうのを脚本してるんですよ
それは高校が舞台のやつだったんでもうちょっと青春よりな青春ものっぽいノリで書いたんですけど
それに関しても東野さんと会ってもいないし
なんか*****も聞いたこともないんですよね
うんうんうんそうなんですよね
ただやはり今回の場合すごく実は特殊なケースだったんだなって後から分かったのが
そのドラマ化を許可する段階の条件として原作通りにやってくださいという条件が出されていたっていうのが
ただそれを受けてしまったというか伴さん可能ですかと思うんですよね映像化するにあたって
原作まんまみたいな
伴
何をもってまんまっていうのかだってもう媒体が違うわけだから絶対同じものにはならないじゃないですか
同じものにはならない
そうですね
なんですけれどやっぱりそれをどこまでならないですよ
だけどできる限り原作を生かす方向でいきますみたいな説明がなされたのかとか
やっぱりそのあたりがまずどうだったのかっていうことと
あとその点をどれだけ脚本家に伝えていたのかっていうこの2点が分からないので
伴
脚本家のインスタ見るとそれは全く伝わってない感じですもんね
それは丸山雅樹さんが書かれたけれどもこれだから約束ごとの問題ですよね
なんか良い悪いとかじゃなくてそこがちゃんと伝わってない
両方が思ってることが違うっていう違ってたっていうことですもんね
伴
えっと僕とは多分交わしてると思うんですけど
伴
どういう約束しましたかみたいなことは聞くことは可能かと思うんですけど
ただえっと
**せ再びって
筒井康隆さんの原作のやつをNHKでやったことがあるんですけど
その時にはもうプロデューサーが筒井さんにこういう風に変えたい
なぜならこういう理由でみたいなことを愛を込めた文章でメールを送られて
そういったところから始まったみたいですね
それもこういう理由でみたいな
そういったことを言って多分テレビ化をOKしてくれたと思うんですよ
原作者チェック以上にここはこのセリフは繋がってるかみたいなことまで毎回メールをいただいて
そういうやりとりをやりました
始まる前にちょっと原宿のお家にも挨拶というか説明に行ったこともありますけどね
いやだけどなんか伴さんの今の話を聞いてなんとなく問題点が分かってきたなって ちょっと感じたのがですね
とある原作者の方がすごくドラマ化に当たってもめている最中にその原作者の方と
あってお話する機会があったんですよ 私はかからなかったんですけど そしたらその原作者が言うには別に変えてくれてもいいんだけど
変えるなら変えるなりの理由を説明してもらいたいんだよっていう そういうあたりをふわっとしたまま変えられても納得いくわけないじゃないですか
その方がおっしゃってて うんまっその通りだなと思ったんですよねうん こっちだってね他の方の原作を変えるには 変えた方がいいっていう確信がなかったら
安易に変えてるわけじゃないじゃないですか でそれをどれだけねお伝えして納得していただけるかっていうのはやっぱり丁寧な
プロセスだし時間が必要なんだと思うんですよ だけどやっぱり最近のテレビドラマの撮影のスケジュールとか制作のスケジュールを見る
ともうそういうスケジュールを取る余裕さえないような状況で作られている場合と多いかなと思うんで なんかまあねー
でもそこは時間かけるべきところですよねぇ
ほんとそう思いますねーどってそこに時間掛けなかったら その原作者にも意図も伝わらないし
うーん脚本家にもにもう 何ですか原作者にも意図が伝わらないから
そうなんですよだから不信感だけが募ってって ことなのかなってちょっとコメントいただいているので
木村さん、芦原さんは最後の2話をご自身で脚本を書かれていますが、全話ご自身で脚本を書く話はなかったのかなと思いました
いやそれは多分ご自身もなんか出ているニュースを読む限りは本当は書きたいよ 書きたくて書いたわけではなかったという
うんでねえまあを推測はしないというは言いましたけど 多分最初の約束として提示されていたんですってこれを憶測じゃなく事実として出てるん
ですけれど 完結していないからドラマの完結するその話に関しては
自分の通ストーリーを使ってほしいし、セリフもそのまま書いてくださいという条件を出していたんです
企画の時に でただその最中ですごく加筆が多くて時間的なことも考えて自分で書いた方がいいん
じゃないかって決断されたんだろうと思うんですよね だからやはり脚本は脚本家で最初のうちはきちんと任されていたんだろうと思います
そんなになんか色んな要求をされていたわけでもないしいただ やはり
何て言うんでしょうね その芦原さんには芦原さんのファンもいらっしゃるし
その脚本家さんには脚本家さんのファンもいるわけでそのファンの方々がそれぞれね自分の好きな脚本家さんあるいは原作者さんに期待するものが多いしその期待に応えたといと
思うのってやっぱりそれはねお二人とも当然 じゃないですかだからああいう説明に至っ
たんだろうと思うんですよね でそれぞれのファンの方はそれ読んで納得
すればそれで済むことだったのに そうじゃない人たちが
なんかあまりにも攻めすぎなんじゃないのっていうのは
ちょっと感じましたね
伴
まあね芦原さんの最後のツイートがツイートっていうかポストがね攻撃したかってわけじゃ
なくてって そうなんですよだからこれね
それなのに原作者がこういうことを書くっていうのはやっぱり
心を痛められたのかなぁと思っちゃいますよね
まあ 推察なんですけど
その辺りはあれなんですけれど
そうなんですあのなんでしょうねやっぱり ここ最近本当に私自身がもういけない風潮だなーって
やめてもらいたいなと思っているの がすぐに対立構造でものを語りたがる
対立したりしていた話ではなかったように思うんですよ
なんかそれで脚本家が意地悪をしたとかねー
語ってしまっているからこういう 原作者さんにしても胸を痛めるような
になってしまったのじゃないかと思いますし なんか意見を言うのは本当にねまあ
憲法で保証されている 言論の自由みたいなものを重ねておっしゃる
作られるのか先ほども言ったように脚本家1人の独断でなんて絶対改編できないのに
そんなことも知らずに なんか脚本家が一人で
な原作を変えたかのように決めつけ 避難するっていうそこはやっぱりしてはいけないことだと
私は思いましたし それは本当に皆さんにお伝えしたいなと思って
うーん今回時間を設けさせていただいているんですが
つづく
→ https://anond.hatelabo.jp/20240203204953
ブラックジャックによろしくの作者、海猿の作者のエントリーがバズってるけど、
実際、舞台俳優なんかは演出家(脚本家)に奴隷のように扱われるのがこれまでのスタンダードだったじゃん??
良し悪しは別としてね。
役者なんてのは、監督や脚本家は愚か、照明だのカメラマンだの、メイクさんだのの、その辺の下っ端スタッフよりも下の位置付けだろ。
実際、人気俳優はそういう立場にはならずに、立場逆転してる事はよくあるけど。
まぁ、一番の底辺よ。
一番の底辺が神とも言うべき原作者を邪魔者扱いしても、なんだかんだ許す雰囲気なのが、
マジで、はてなの連中って自分の好きなものは許して、嫌いなものは嫌いだから叩く、そんなマスゴミ的なクズ集団なんだなぁ、と思った。
漫画を映像にしたり、文章を漫画にしたりする上で「脚色」という言葉があります。
そんなのは知ってる、と皆さんは言うでしょう。
でも実際には分かっていない事が多いんだと思います。
私だって完全には分かりません。
ですが、違う媒体で全く同じに作るというのは、殆ど難しいというのは分かります。
例えば漫画にはコマがあるしページがある。映像には固定フレームや時間がある。
別物です。
「契約」で全てを約束するのは到底難しいのではないでしょうか。
(こんな主張をしておきながら、ハリウッド映画の様にきちんと役職を細かく分ければあるいは、と今ふと思いました。
おそらく予算の問題で難しいでしょうが、それはそれで実現可能なら見てみたい未来です)
私は今回の件で誰かかを擁護したいとは思っていません。
ただ、私は、原作者の個性が好き、脚本家の個性が好き、監督や演出家の個性が好き。
原作のここはよかったけど、映像はここの演出はいいな。とかそういう感じ。
その上で、私が言いたいこと。
原作が無ければ形にならないのだから、原作者が一番偉い、という主張はどうなんでしょうか。
私が好きなタイトルでも、実写映画化された物より原作小説が好きなものはあります。
ですが、その逆も然りです。
いま、誰が一番偉いとかいう論争をするのは下らないと思いませんか?
原作者を大事にしなかったからこうなったんだ、というのは陥りやすいミスリーディングではないですか?
作っている人たちの想いが乗っかっていると思っています。
お互いにリスペクトして、なるべく手を繋いで作っていって欲しいし、自分も作りたい。
誰が偉いとかそういう話は、社会の分断を深めるだけではないでしょうか。
乱文失礼しました。
本当どうしてくれるんだよ!!!!!
もう何も考えたくないよ!!!!!!!本人コメント以外のコンテンツに触れる勇気がまだない!!!!!!!!!だからもしこれを見つけてしまったオタクの皆さん解釈違ってたら本当にごめんなさい
推し(自担)の中島健人さんが所属グループであるSexyZoneから卒業するそうです。
今、推しが大きな前触れもなく脱退するとはどういうことかとても噛み締めています。本当に永遠ってないんだな!存在しないからこそ何気ない瞬間で「こんな素敵なことが永遠に続くかもしれないな……」と感じることがめちゃくちゃ尊くて価値のあることなんだね!!!!!
私は中島健人のいるSexyZoneに永遠を感じてしまったよ!!!!!たとえステージを降りる仲間がいようといつも同じ空気感でしょうもないこと喋っては年下メンバーたちが窘めようとして、上手くいかなくてまた話が転がっていってわちゃついて、でもひとたびパフォーマンスするとなると全力で世界観を作り上げに来るフロント、それからスタッフの方々が本当に良くて、素晴らしくて、飽きなくて、一時期離れちゃったときもあったけど何だかんだ自分が心から楽しめるエンタメを提供しているのはやっぱりここだと思って帰ってきたんだよ!!!
入口はたしかにJMK中島健人のラブホリ王子様があまりにトンチキなのに本人が至って真剣に乙女ゲー攻略キャラやってておもしれー男だったからだけど、グループの楽曲もめちゃくちゃ好きだよ!!!!!何故かやたらと楽曲提供者が自分に刺さるのも本当に何なんだよ!!!!!トフビもiriもNulbarichも岡崎体育もLUCKY TAPESもPenthouseも楽曲提供される前から聞いとったアーティストばっかりやどうしてくれんねん!!nobodyknows+だってココロオドル聴きながらジム通ってんねん!!!!!多分そのうちSyrupも楽曲提供すると思う。知らんけど。
でも!!!私は!!!!私の生けるバイブル椎名林檎の提供楽曲をセクゾが歌うという夢が叶っても図々しいから☆Taku Takahashiの曲だって歌ってほしかった!!!!!!!風磨とMCでm-floが好きって話してたじゃねえか!!!!!!!!もうあなたのいるグループでこれが実現する確率めちゃくちゃ低いじゃん…………どうしたらいい???????
本当にパフォも楽曲もその他諸々の立ち振る舞いも素晴らしい気高くスマートなアイドルなんてもう替えが利かないよ!!!!あなたのいないグループを私はどんな気持ちで応援したらいい?????中島健人に出会わなければこんな最高なグループ知らずに済んだのに……本当にあんた最低だよ、罪すぎるよ
でもソロでやっていこうと決断した中島健人さんのことを嫌いになれないよ!!!!!!そういう強かさも含めていいなって思ってしまう自分がいるよ!!!!!!!もっと真っ直ぐ応援したいのに応援できない!!!!!!!グループにいてほしい!!!!!!苦しい
だって、もともと根っからの陽キャとは言えなさそうな男の子がかつて海馬瀬人に向けていた変身願望をアイドルに向けた瞬間、こんなにも彼が煌めき出すとは思わないじゃない!!!こんなにもアイドルとして完璧な振る舞いを繰り出し続けてて、こんなにおもしれー男(性アイドル)いないよ……しかも今日まで「自分はこういう人物なんだ」と思い込み続けるこの強烈な変身願望のようなもの、そしてその結果に満足せず日々「自分はこういう人物なんだ」という己の目標像を修正しては緻密に、時々無意識的に自らを高め続けるストイックさを持ちながら人生の半分を過ごしてきているんだよ?????これをバケモンと呼ばずして何と呼ぶ?こんな伸び代しかないモンスターアイドル応援して得しかないだろ!!!!!!当初は完璧アイドルでないといけないと思い詰めていた中島健人さんがある時からパブイメと実際の正確にギャップがあった方が良いと気がついて素に近い気負わない部分を見せてくるようになったときは本当に震えたよ。マジでこういう人が報われてくれよ世界
ただ、こうやって今まで生きてる人間のほんの断片だけ見て勝手にツギハギしてこんなナマモノ二次創作とも言える醜く気持ち悪い解釈をぶつけて過ごしてきたけど、今は中島健人さんに対して少し疑念を抱いているよ
今の中島健人はどんな仕事をしても「アイドル」を主軸にした評価を受けがちだと思う。なんか見てる感じそこまで今後はアイドルに主軸を置きそうではない中、本当に「アイドルにしては〜」という枕詞抜きで本当に彼が評価される日が来るのか怖いよ。推しを信じられないなんてやっぱオタクとしてはダメかもしれねえ
例えば、映像系の俳優業で名を上げたいする。俳優として売れたいなら強みを持たなければならない。自分が持っている潜在的な視聴率であったり、演技力であったり、その他特定の役に対するスペシャリティだったり。でも今持っている強みは概ね「アイドルであり固定客がいること」であって、グループ卒業により一定数ファンが離脱することを考えると昨今の映像業界でサバイブしていくってなかなか難しいなと思っている。ブレークスルーしていくためには出世作が必要だろう。でも比較的手近な日本のドラマ界隈は脚本が粗雑だったり演出がいまひとつだったりすることはよくあるし、そうした作品を引き続けていたらずっと燻ってしまう。逆にそのリスクを負わないように有名な脚本家や演出家の下で芝居をしたいと願うなら結局何らかの強みを持っていなければキャスティングに漕ぎ着けるのは厳しいんだろうなと感じている。あとはひたすらにオーディションを受けまくるしかないだろうが、本当に実力だけで戦っていつ結果が出るのかあまりにも未知数すぎるし正直、最悪の場合どうしようもなくなって深海魚状態になった推しを見続けられる心の強さが自分にはない。そうならないと信じたいけど。
でもグループから独り立ちしてやっていこうという決意があるなら、そこにはこんなしょうもないオタクより酸いも甘いも芸能界を知っている中島健人さん本人が描いているちゃんとしたプランがあるだろうし、そうしたものがなくても背水の陣で新しい道に進んで行きたいということなんだろうなと思う。やっぱ今まで見てきたその力で道を切り開いていくところは目を離せない。
いろいろ言って不安になりながらもどうにか前向きになろうとしてきたけどどう足掻いてもSexyZoneから中島健人が居なくなるの惜しいよ!!!!!!!!!まだデュエルディスク柄のうちわ作ってねえだろ私が!!どんなに細かくて面倒でも「強靭!無敵!!最強!!!」って蛍光シートくり抜いて文字作りたかった。
ただ、アイドルがいちばん輝くときは卒業を発表したあとって言うだろ???????もうこれを楽しみにするしかないなんてあんまりだ!!!!!!!!!!でもめちゃくちゃ期待している自分がいる!!!!!!!!!!頼む!!!!!!!!!SexyZoneの中島健人として最後に最高の輝きを見せてくれ ケンティーってやっぱすごかったね、完璧で究極のアイドルだねって皆に言われてほしい!!!!!!!!!!!正直これからどんな風に磨きがかかるかすげえワクワクしてるよ!!!!!!!!!
24,488人が平和を求め 軍拡を許さない女たちの会さんのオンライン署名に賛同しました。目標賛同数25,000を一緒に目指しましょう!
岸田政権は、5年で43兆円、GDP比2%という防衛費の増額を打ち出しました。しかし、防衛費は、その詳細が明らかにされておらず、どう捻出するかも決まっていません。むしろ、この軍拡は周辺諸国の緊張を高めました。これが、私たちの国のためになるのでしょうか。
政府がこれまで掲げてきた、少子化対策や労働者の賃上げ、女性や1人親家庭、非正規労働者、性的マイノリティ、子どもなど、社会的弱者のための公的支援の政策が、マイナスの影響を受けるのは明らかです。
政府の全世代型社会保障構築会議は昨年末、改革の方向を示しましたが、働く女性の過半数を占める非正規労働者、子育て支援のための財源論は先送りされました。現状の日本の教育への公的支出は先進国で最低レベルです。大学までの教育無償化や給食費無償化は、3兆円でできると言われながらも先送りされました。これでは物価高の中、子育て世帯の負担は重くのしかかるばかりで、この国の喫緊の課題である少子化が防げません。
ところが、自民党税制調査会は、こうした課題に真剣に取り組まず、軍事費増額については、法人税、所得税、たばこ税の3税を増税して財源の一部にあてることを大筋合意しました。
子どもや女性、少子化対策をなおざりにした軍拡は、この国を衰退させ、諸外国に敵を作るだけです。軍拡の前にもっと外交努力を積み重ね、平和を模索してください。
今こそ、軍事に進む政治から脱し、生活と平和を守る「女性」目線の政治が必要です。軍需産業の育成でなく、平和のための産業や技術、人材に投資してください。女性が安心して生活し、働ける環境なしでは、男性も子どもも貧困化します。
戦後の安全保障原則の大転換が、国会審議も、総選挙や国民投票もなく、特に女性や社会的弱者の声を聞くこともなく進められています。私たちはこの歯止めのなき軍拡の決定を認めません。
私たちは、岸田文雄首相、政府・与党、野党各党の代表、連合代表に対し、
2、歯止めなき軍拡を押し進めることをやめ、そして女性や子ども、若者や社会的弱者の目線に立った政策を進めること
この2点を行うことを強く求めます。
菱山南帆子 市民運動家
駒井知会 弁護士
宮嶋みぎわ 音楽家
黒部エリ 叙述業
髙橋済 弁護士
海北由希子 自営業
出田阿生 新聞記者
丸川司文 僧侶
森祐昭 僧侶
徳正俊平 僧侶
朝岡晶子 団体職員
松元ヒロ スタンダップ・コメディアン
打越正行 社会学者
立岩陽一郎 InFact 編集長
丹羽雅代 一票で変える女たちの会
いや〜〜〜〜〜思ってた以上に終わってんなと思ったわ昨夜のTw…Xの様相。
元Jヲタで、嵐のデビューくらいからハマって、そこから色々辿ってJr.に担当(いわゆる“推し”的な意味)ができたけどその子がデビューせず事務所やめたあたりでなんとなくフェードアウトして5年くらい。でもライブは楽しいので入っているファンクラブはあるしオフィシャルサイトの有料会員も続けてた…くらいの中途半端な存在ですが。
SNS上でのオタクの思慮のない動きが話題になる度、まぁ思慮がないから余計なこと言うんだろ、って思ってたし、実際私がフォローしている旧知の社会人オタクの大半はあまり極端なことは言わず沈黙していた人が多かったように思う。たまにこういうのが回ってきて絡めて言及する程度。
https://note.com/ki_nandemo/n/n94b4bf3a74c7
事務所が公式に認めるまでの間にSNS上で強い口調で非難していた連中の中には、単に「無能なイケメンとそれを奉り立てる馬鹿女」みたいな構図が大好きでわざわざ寄ってきていた連中も結構いた。まぁ今もいるよね、はてなこそそういの多いし。というかさあ、ジャニヲタやってると学校でも職場でもそうやってニヤニヤしながらわざわざ人の好きなものを馬鹿にしたがる人たちの相手させられるのがほんとめんどくさかったんだよね。なんかそういうのの延長で…自衛として“外野”の言葉はシカトするスタンスが染み付いてるジャニヲタってけっこういるんじゃないかな〜って。私がそうなので…
でもやっぱり、事務所が認めたことでもうフェーズは変わってるじゃん。全然違うところに来てるじゃん。「性加害」なんて言葉を使ってるけど、自分らで「ファミリー」を自称してるし、実態としては「児童虐待」じゃん。現在進行形のタレントの動きがどうであれ、児童虐待の事実を認めてその責を受けて解体する組織じゃん。そこに対してさぁ、15年前にオフ会で会ったキリだけどなんとなくずっとフォローしあってて結婚して子供できたこともSNS上で報告してた子とか、10年前にライブのチケット交換してからたまにいいねしあってる福祉の仕事で毎日へろへろになってる子とか、わりと今まで沈黙寄りのスタンスだったフォロワーが「#ジャニーズ事務所ありがとう」なんてタグで最後のチャンスとばかりになんか言ってんの見てしまって、たぶん今までで一番失望してしまった。終わってるわ。なんで子供がいるのに、公共のお仕事してんのに、そこで踏みとどまれないんだろ?
なんだろうね、社会性がないんだよね。確かにさぁ、今でいう推し活とかってある種の現実逃避というか。実生活的の、社会とは切り離されたところで楽しむのが推奨されるお作法みたいなとこはあるけど。でもだからといって社会とは無縁ではいられないじゃん。個人的にはこのあたりは東日本大震災の時に色々考えたところで、現実の悲惨さに対してエンターテインメントは無力だけど無力ではない、社会に対しての希望の灯火たる力があると信じることで成り立つものである、っていうのにジャニヲタは賛同してたじゃん。結局は社会との関与なしで成り立つエンタメなんてありえなくて、個々の体験の物語とは別のところで、社会の中でどう在るかが問われるじゃん。社会に対するプラスの作用の話のときだけ盛り上がって、逆のときは見ないふりして居直るのっていいご身分だよなと思うわ。
というかこれはタレントこそそうだろうがよ。この期に及んで他人事みたいなコメントしかしない、看板の話にすり替える、内輪のMCだからって内輪でウケる逆境精神見せて悦に浸ってるのなんなの? いい大人が。名前変えりゃいいってもんじゃないとは思うけど、「名前が変わったところで美しさは変わらない」なら、名前を変えたところであなたたちのその無責任さも変わらないんですかね? 過去時点において1タレントに何ができたわけじゃない意味としてはタレント無罪かもしんないけど、これから変えなきゃ、変わらなきゃいけないって話をしてるところにその態度は少なくとも誠実・清廉とは言えないだろ。
私自身はあの事務所のエンタメへの妥協のなさは大好きだし代替不能な精神性やノウハウのようなものはあると思ってるよ。メディアの露出が多いから大して知りもしない外野も知ったつもりになってて色々うるさいけど、あの事務所の「SHOW」の真髄はそんな外野が一生見ないであろう「現場」にあると信じているタイプなので。女の子の顧客に向けた夢を、女向けの嘲りのない質で提供してくれていた功績は計り知れないと思っている。そういえば先代が亡くなった際に自分のTLで上がっていた話題があって。そのニュースを報じるワイドショーでテリー伊藤が「Jは女性ファンばかりだけど、演出のクオリティが高いから男性にこそ見てほしい。女性は顔しか見てないのでもったいない」みたいなこと言ってて、なんでこいつに既存のファンをバカにされなきゃなんないんだ?ってちょっと燃えてたんだわ。仮にも演出家の肩書を持ってるおっさんがそんなことを堂々と言って褒めたつもりになってるエンタメ界ってほんとクソだし、その中において、侮られずに主体であることを当たり前に許容される場の居心地の良さったらなかった。
そのあたりに関して、先代はそうやって女の子をバカにしなかったよね〜と持ち上げる人もいたけど、一方で、いやあの人そもそも女に興味がなかったよ、って言ってた人たちもいて、私の感覚も後者に近いなー、みたいな話をぽろぽろとTwitterでしてたんだよね。あのじいさんの女の性への興味のなさって要は少年の性へのある種の執着の反転だってうっすら気づきながらも同調して消費“する”側に回れる感覚はなかったとは言えないので、私がオタクとして省みてるポイントのひとつはそこではある。今に至っても証拠の無い言いがかりだ!って吹き上がってられる人はそのへん無自覚で気楽でいいよなって思うよ。まぁでも見てたところによるか。私は最終的にJr.まで見るようになったから余計思ってたかも。嵐とかV6とかだけ見てたら、あのあたりは直近なんかあからさまに興味なさそうだったもん先代は。嵐が近年のライブで、じいさんのウエットさをオミットした形でのイズムの再構築を試みるテーマを掲げていたこともあったわね。ああいうのだけ継承していけばいいのに、事務所の体制と不可分かのように思考停止して外側が何も見えてないのがほんと終わってる。
ちなみに男と男。
半年前の昨年12月、『週刊文春』が、歌劇団所属の演出家・原田諒氏が男性演出助手へのセクハラ行為や生徒へのパワハラを報じ、原田氏は同26日付で退団した。
この日もAは迎えに来てくれ、2人で軽く食事をして私の滞在先のホテルに着いたのは深夜3時過ぎ。
車を降りようとしたとき、Aとこんな会話をした。
「お迎えに上がります!」
「いや大丈夫です!」
私の疲労は極限に達し、迎えに来るの来ないの、
そんな押し問答をする体力も気力も残っていなかった。
「大丈夫じゃないやん。君が全然寝られへんやん。それやったらもう泊まっていき。
でもベッドひとつしかないから、犯すかもわからへんで」
と冗談めかして言った。
それで互いに大笑いとなり、ようやくAは帰って行った
自分が好きだったライブコンテンツがひとりでにどっか行ってしまったという話。
基本的にお気持ちがベースの感想であるので、アレルギー症状をお持ちの方はブラウザバックなり、閉じて頂くなりが幸せに生きられると思う。
私的には世の中には自分が傷ついてまで見る事は無いというのが全てで、何でも見えるネット時代だからこそ、何でも見てしまうよりは知らず生きる幸せをかみしめてほしいと思う。
お気持ちベースで書き鳴らしているので場所によっては乱雑な文章が取っ散らかっている所がありますので、ご容赦下さい。
正確には私も私で時計の針を一歩進めてしまい、どこかへ歩んでしまったが為に私にも原因の一端があるので、
キモオタクの単なる戯言だと思って聞き流してほしい。むしろこのような記事を時間を割いてまで見るべきではないと思う。
世の中にはこういう意見もあるのだなあと思うならばそれは引き止めませんが、結果や貴方の健康までは保証しません。
九月の頭、愛知県での事だった。片日だけのチケットを握りしめた私は高く飛び過ぎたイカロスのように叩き落されてしまった。
片翼では飛べなかったのだ。それも一番最後にだ。私を好きなら今すぐ来てねという声を聴いたっきり、私は明日また会う事が出来なかった……。
…と、いう事で片翼のオタクの戯言を聞いてほしい。私は1日目しか行かなかったので1日目の演目の下、話を進めようと思う。
これは全てのコンテンツライブに言えるが、1日目と2日目が同じタイトルな以上は、両日お互いに対して余計な負荷を掛けたり文脈を持たせるのは間違っていると思うからだ。
同じタイトルである以上、両日はツアーの大トリで無い限りはどちらにも重きを置かずにある程度はその日だけでも楽しめる演目を組んでいただけるとありがたいと筆者が望んでいるからである。
これは、全ての人間に言えるかもしれないが、仕事などの都合がつかずに、或いはチケットの都合上、片日しか行かれなかった場合、翌日に対して意味ありげな演出をされても困るので、
そういう意味では翌日に負荷をかけるトリの演目というのは好ましくない…と思っていたのだが…。演出家は検問所にある計測所において過積載で捕まる心配をした方がいいと思う。
ただ、同タイトルであれ、二日通しでお楽しみ頂けるように組んでいくのであれば二日通し券があるべきなのでは…?と思う。折角チケット先行用のプレミアム会員もあるのに…。
と、いうのがまずはお気持ちの一つ。まあ、ゲームでは毎日会えるので不健康なオタククンはおうちでブルーライトと仲良くしてなさいと言うならばその通りに受け止めるが…。
何曲かは過去の同地で行ったウケの良い演目をオマージュしたいのだろうか、そういう選曲がなされているのは理解しているが、
余りにも毎回やっているのでそろそろ飽きが来たこと、そしてどうせこの曲が来てしまうと言う展開が読めてしまう事に一つある。
特に本年の愛知公演でも1日目13番目の演目は、一昨年に行われた同地前回の2日目に出て来ていて、更に遡ると名古屋市内の公演でも披露していて、
土地=楽曲が著しく結びついて意外性という面白味に欠けると筆者は考えているからだ。方言キャラは多くないのに曲に地域性があるらしい。凄く奇習だと思う。
近年は意外性を売りにしているコンテンツライブだと筆者が受け止めていたばかりに、楽曲が予想の立てられるものでは非常に面白くないという話でもある。
1日目を取っても5曲ほどは過去2年で同地で行われた楽曲が含まれている。なんと演目の約20%だ。降水確率なら雨の心配をするレベルでもある。
思い出話をしたい人には良い話だが、わざわざ遠征までして見たものが過去の焼き直しというのはまったく面白くない話だ。家で円盤を見た方がマシだろう。
それならば百均で売っているHIT曲のコンピレーションアルバムを買う方が安上がりだと思う。実に100分の1の値段で済むというから良心的な話だ。
当コンテンツには――――税と呼ばれるまでに高騰化しているチケット代という概念が既にあるのに、更にコンピレーションアルバムを流されているようでは溜まったものではない。
特に先ほどの13番目の曲はコロナ禍前にも同地域でやった事がある演目が故に、特に薄味として印象深い。5年で3公演に顔を出している。皆勤賞狙いか。
他、強いオマージュを感じる公演としてコロナ禍前最後の大阪での公演の事を強く思うが、今回の28曲の内3曲が被っている。概ね300曲を超える曲数のコンテンツライブとは思い難い被りようだ。
内一曲は演目の場所といい特殊バージョンのイントロといい強くオマージュを感じざるを得なかった。この曲の起用方法に関しても少し思うところがあるが、少なくとも思い出は思い出でじっとしておいて欲しかった。
もっと曲数が少ない所でももう少しいい組み方をする所はあるし、過去の演目同士を切り貼りしてもキモいフランケンシュタインが出来るだけだと思う。これからパッチワーク教室でも開くなら是非頑張ってほしい。
ここのコンテンツのファンは熱心なファンが多く、機会均等法を声高に叫ぶファンが大変多い為しっかり起用に応えてくれたのはある種一つ良かったと思う。ここだけは評価している。
ただ、その陰でこのコンテンツが元来持っていた時に人を傷つけるような美しい鋭さは失われ、特に機会が均等に機械的に割られただけで、
センターの回数までは気が回って居なかったり、楽曲が持つイメージを損なってしまったりしていた演目があったのは一つ残念な点として深く印象に残った。
出場機会の均等を図るくらいならば偏りがあってもセンターをしっかり廻すべきだったと思う。私が応援していたのは果たしてアイドルコンテンツだったのか…?と疑問に思ったくらいに。
あと、楽曲が持つイメージを損なったという点では意外性のある選出やキャラクターの新しい一面を見る為の科学反応の為の選出ならば目を瞑るが、
三角形をイメージした楽曲に6人投入するのはどういう意図なのかは掴みそこねた。六角形は半分にしても三角形にはならないというのに。
こういう滅茶苦茶な演目の組み方をする事が近年の公演で増えており、イメージ先行でのみで組んで、歌詞の割り振りなどの子細にまで目がいかなくなってしまったのかと悲しみを感じる。
どの演目とは言わないが2人がユニットでの相方や一人からの選出に対して、残り一人が公式で絡みがあるだけで特にユニットが組まれた選出ではなかった演目があり、個人的には疑問に感じた。
もしその人の推しであるならば大変申し訳ないのだが、あくまでも公式として謳って出しているものが非公式的に近い事に対しては納得がいっていない為である。キャラクターや演者に罪は無い。
そういったこともあり、深い意味合いで文脈が無くなってしまったが為に演者サイドからのサインを受け取るのも難しくなった。魔法が解けた灰被りのお姫様を見ている気分だ。
私らは吊るされた男ではなく一端の魔術師としてこのコンテンツライブを見に来たつもりなんだけどな…。運命の輪というのは時に残酷なカードである。
結局大きなコンテンツと言うのは人数を収容しなければならない以上、場所を選んでしまうので多少仕方がない事ではあるという事は理解しているがやはり平面と言うのは…。
そもそもハコを見て応募を辞めようとも思えばいい事だというのは重々理解しているが、それはそうとして推しが出ている以上は行ってみるか…と応募したがばかリにこれを強く思う。
と言うのも筆者は身長が約150cmしかなく、とてもではないが前方席を引かなければ170cmや180cmなどの有象無象に埋もれてしまう事に一端があるとしても、多少手心があれば…と。
厚底の靴などで身長を積み増せばいいとは思うが、今回のハコは大変僻地もいい所の絶海の孤島なので動きやすい恰好が望ましいと思った次第でどうにもこうにもならなかったというのが一つ。
是非よろしければ低くなって頂ければありがたいが、強要をするのも間違っているとも思うので、次回から平面の客席を採用する際は竹馬を利用する事をどうか許してほしいと思う。最低限は脚立。
それから、パイプ椅子による指定席で隣の人と距離が近すぎる上に、隣人を選べないというのも一つ困ったという話だと思った。どれだけ身が細くても斜めに立たないと肩が当たる気がする。
卒業式のように姿勢よく座るならまだしも、多少動きの生じるライブでパイプ椅子というのはちょっと狭くないかなあと思うところがある。幸いにも圧迫はされたことはない。
筆者が最近はライブハウスに通う事が多くなり、様々な曲や演目、人間に対してご自由にポジショニングを取る事に慣れてしまったので致し方ない部分はあるが、
流石に外出するに際して見てくれの悪いオタクや二階三列四番の雰囲気を漂わせた隣人を2時間もの間同じ空間に居合わせてしまうのも考え物だなと思ったからだ。
頼むから家を出る前に最低限の見てくれと香りは何とかしてほしい。別にそこさえ担保してくれるなら絵具を混ぜた様な情けないナンセンスなコンテンツTシャツを着てても許すから。
因みにだが、別にオタクが好き勝手自分の頭上や近隣で暴れたり光ってくれる分には特には思わない。その人の推しが居てその人なりの表現があると筆者は考えているので。
むしろある程度元気な方が演者と観客の対話的なコミュニケーションみたいで大変面白いので積極的にやってほしいと考えている。勿論、レギュレーションの範囲内での話だが。
こう明記しておかないとこのコンテンツは勝手に余計な文脈を取って独りでに発狂する大変熱心なファンが多い為にコメントを返信する時の私が苦心するのでここに記しておく。
今回一番良かったと思うのはコンテンツの新人が暖かく迎えられたという事だ。
拍手喝采でこの大舞台に迎えられてしっかりと立っているのを見ると、私のような逆張りオタクではなく、もっと相応しい人が客席に立つべきだと感じたからである。
つい4年前はこのコンテンツの熱心な盲信者たちが私の心地よいインターネットの楽園を荒らしていたと思うともう隔世の感が出てきたが、
そういった逆張りをしなくてもよくなったというのは一つ明るい話であったと思う。もし過去にそういう事をしたと思うならばしっかり反省してほしい。
長々と語ってしまいましたが、無計画な闇鍋によって昔のような歌詞割りや演目による演者からの文脈を感じ取る事が出来なくなり、
過去公演の焼き直しと新曲披露会のような地方の産業館で見る様な薄味の展示会に高いチケット代を支払うのは勿体なく感じてしまった為に
このように文句を垂れているオタクの戯言にお付き合い頂き、本当にありがとうございます。
こうしてみるとこのタイトルは半分くらい間違っていると今思っています。でも正直向こうも半分は間違えている気もしている。私が勝手に。
これは一端のマジョリティでもあります私のお気持ちであり、大多数が今のままでいいと望むならばそのコンテンツはそのように進めばいいと思います。
たまたま持っていた銀河鉄道の切符が、今回で私の終着駅となったからです。今まで楽しい旅をさせて頂きありがとうございました。
これからが目ざましい活躍を見せる推しのオタクはここからが始発駅ですし、勿論ここに至るまでに終点に至ったオタクも居ると思います。
推し方は人それぞれで、私はここで一旦区切りがついたと思っているだけですので、是非どうか私の事は呼び留めずに忘れてください…。
今、私は安いチケット代と共に無計画な闇鍋の極みみたいなフェスなどを空中浮遊しております。別に規模や演者に一切の貴賤はありません。
もし気になれば知見を広めるためにも様々な「アイドル」に触れてみるのは如何でしょうか。素敵な音楽や出会い、様々な人々の熱い思いなど、
色んな物を吸収してみるのも一つの栄養ではないか?と思っています。このような場でお勧めするのも私としても大変心苦しいものがありますが…。
また、どこかで亡霊となった私をどこかの会場で見掛けた際は、暖かく出迎えて頂けると幸いです…。本当にお読みいただきありがとうございました。
を観てきた。
主演の伊藤英明のビジュアルと、数年前の大河ドラマ『麒麟がくる』における伊藤氏の役どころが素晴らしかったため、今回もそれを期待して行ったわけである。
あらすじは公式ホームページにあるが、
https://stage.parco.jp/program/aviewfromthebridge
ステレオタイプなジェンダーロールに拘泥し家長として振る舞うエディ(伊藤氏)とその妻ビー(坂井真紀)、妻の姉の娘でエディが愛してやまず、成長してなお家に縛り付けられているキャサリン(福地桃子)、そして妻の従兄弟でありイタリアから不法移民としてやってくる兄弟、マルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)の物語である。
で、何が書きたいかというと、よくわからない観劇体験をしてしまったという話。
冒頭は、狂言回しの弁護士(高橋克己)の澱みないモノローグで始まる。その後幕が開き、幸福な頃の一家の姿が描写されるが、伊藤氏が口を開いた瞬間に強い違和感が襲ってくる。
棒読みだ。
言葉の一つ一つが、『セリフ』として意味を持たず流れ落ちていく。
キャサリンは帰宅した叔父の胸に飛び込み、絡みつくように抱き合う。不穏さを感じさせる、目に焼きつくほど無邪気な愛の光景と共に、低音で棒読みのセリフが流れ落ちていく。
劇が進行し、過保護に育てられ男を知らないキャサリンは、初めて目の前に現れた若い移民の独身男性・ロドルフォに一目で恋に落ちる。エディはロドルフォが『カマ野郎』(ママ。70年も昔の戯曲なのだ)であると言いがかりをつけ、そんな男に姪が奪われてなるものかと旧知の弁護士の元へ駆け込んだ。「法にできることはない」と窘める弁護士に激昂した口調で激しく詰め寄る。激昂した口調で激しく詰め寄っているのにも関わらず、セリフは相変わらず流れていく。会話が成立していないのだ。
高橋克己演じる弁護士は、本能的かつインモラルな嫉妬に駆られた男を前にした常識人というより、意味を持たない言葉の奔流の前に、言語の限界を知って戸惑い立ち尽くすインテリといった様相を呈してくる。
ビーを演じる坂井真紀氏は、妻として夫に寄り添い、あるいは向き合う姿そのままに、崩れがちな家庭の場面を立て直そうとしていたが、やはり圧倒的に流れていく主演のセリフ量の前には勝てない。
ロドルフォとキャサリンとの会話は慣れてくれば違和感がなかったが、おそらく物語の構造上、その若き二人は、そもそも一人の人間として彼に見られていないためだ。だから会話が成立しなくても大丈夫なのだ。
しかし今度はそのせいで、二人がエディに向ける愛や憎悪、困惑に一切の重みがなくなってくる。あの純粋に不可解な言語の羅列に対し、何を真っ当に苦悩しているのだ、という感じがしてくる。
そしてその異様な不協和音を抱えたまま、劇は終盤の悲劇へなだれ込んでいく。
失礼なことばかり書いてしまったが、伊藤英明氏はおそらく演技が下手なわけではないと思う。「演技の適性がピーキーすぎる」だけだ。正直動きだけで言えば他の役者の方が怪しいところもなくはなく、伊藤氏がそれをカバーしていたところもあった。
エディのくたびれた労働者の姿態、日常的に男らしさを意識しつけた一挙手一投足、戯れにロドルフォにボクシングを仕掛ける時の軽やかで悪意を秘めた動きと笑い、嫉妬を滾らせて部屋の隅に沈み込んでいる姿の不気味さ。舞台映えしないとは決して言わせない長身も相まって、エディという男そのものを見事に、しかも色気と悲哀を横溢させて表している。
ただひとたびセリフを発すると、演劇空間の位相が容赦無くズレ出してしまう。
パンフレットを買えなかった(持ち帰る袋がなかった)ので薄い理解ではあるが、アーサー・ミラーの脚本は、シンプルに受け止めれば、移民への差別意識問題と女性の自立・連帯の問題をからみつけつつ、家父長としての姿にこだわる男の自尊心と、その体面の下に押さえつけられた欲望を鋭く抉り出したものだろう。
ただそんな真っ当な狙いを外れて、主演のセリフの大半が機能しない状況で、この舞台は圧倒的な不条理劇として立ち上がってくる。冒頭の弁護士のモノローグで、ギリシア悲劇的な『条理』は示されているにもかかわらずである。
繰り返されるエディの「尊重されたい」という言葉は発されるそばから空疎になり、なんの意味も持たずに空を彷徨う。圧倒的な空疎に対して周囲は嘆き、怒り、困惑し、愛を語り、そして悲劇を止められないことをなぜか勝手に悟る。
そしてその空を彷徨うような言葉で表される自尊心に怒りを掻き立てられ、エディはあまりにも無意味で不可解な死へと突っ込んでいくのである。伊藤氏の怒りの演技は見応えのあるものであるが故に、その怒りの根源が空虚でしかないという不条理性はいや増していく。
そして唐突に死んだエディを、役者たちは無表情で見下ろす。我々の中に紛れ込んでいた全くの異分子がやっと去った、という解放感さえ浮かべて。
それはとりもなおさず、エディが脚本上囚われていたすべてのものの虚しさを示す、メタ的かつ正確な表現に他ならない。
あるいは、棒読みの彼こそがリアルな人間であり、周りの役者たちを「芝居がかった偽物たち」と捉えることさえできる。
人間の感情を言葉で表すことなど到底無意味であり、根底にあるのは超言語的な(本能的な)愛と嫉妬、憎悪だけだ。それでも周囲の「芝居がかった偽物たち」とエディは、無意味で空疎な言葉でコミュニケーションする他ない。そして彼は己のものでない空虚な言葉で己を取り繕い、縛り、孤立し、ついには偽物たちに殺されてしまう。
この姿が、あらゆるイズムに囲まれた現代人の戯画でなくてなんだろう。
つまりこの劇を伊藤英明の演技が不条理劇に昇華することによって、今回の舞台は一応の成立を見ているのである。
幕が降りた後、私はいい観劇体験をしたのかどうか一考した。期待していたものではなかった。しかし無ではない。あのエディは間違いなく、ただ達者な役者が演じるよりはるかに深みのある造型をしていた。よくわからない観劇体験だったが、今私にこれほどの長文を書かせるほどの体験ではあった。