はてなキーワード: オゾン層とは
エリザベーッス
本日はオゾン層保護のための国際デー、日本においてはハイビジョンの日、競馬の日、日本中央競馬会発足記念日、牛とろの日、アイドルコピーダンスの日となっております。
自分が常に稼げる金額がいくらぐらいか見極めて、そこから使える金額の何分の一かしか使っちゃダメです。
それ以上はしんどくなります。
まぁわかってても雪だるま式で浪費する金額は増えていくんですけどね。
そう考えるとゲートウェイじみてるなぁと思わなくもないです。
やるな、とは言わないです。
やるにしても趣味程度にしましょう、というギリギリな感じの回答です。
つまり、しなけりゃそれが一番いいよねって話ですね。
ということで本日は【やることの確認よいか】でいきたいと思います。
フロンガスを使うことでオゾン層が破壊されて穴が空いてしまったという問題。
1987年のモントリオール議定書によってフロンガスの使用が禁止された結果、オゾンホールには縮小の兆候が見られている。
とはいえ、オゾンホールはいまだ大きく、本格的な問題解決は21世紀末になるという。
が、とりあえずは打てる手は打ったし、ということで、あまり言われなくなったのだろう。
工場の煙などに含まれる汚染物質により、雨が酸性になって木々が枯れ、人体にも悪影響を与えるかもしれないという問題。
日本では80年代から現在に至るまでずっとpH4.7くらいで変わっていないようだ。
国際条約で二酸化硫黄や窒素酸化物の規制が進んだことで、それらの排出量は減少し、欧米では酸性雨は「解決」扱いになっている。
日本でも排出ガスの規制は進んでいるし、「pH4.7くらいなら思ったより悪影響なくね?」みたいな論調もあって、あまり言われなくなったようだ。
窒素酸化物や炭化水素が、日光の紫外線により変質してオゾンを発生させることにより、人体に健康被害をもたらす、という問題。
ピークは70年代だけど、現在でも続いていて、たとえば近年の東京では年間5〜10日ほど光化学スモッグ注意報が発令されているようだ。
とはいえ、排出ガス規制により窒素酸化物の排出は減っているし、70年代ほどの被害にはなっていないから、ということで言われなくなったのか?
100年以上も前から「あと数十年で石油は枯渇する!」と言われてきた問題。
もともと「可採年数」というのは「既に発見されていて、技術的に採掘可能で、採掘コストに見合う石油の量」にもとづいているので、
新しく油田が発見されれば可採年数は伸びるし、シェール革命のような新技術で安く採掘できるようになっても伸びる、ということらしい。
おっさんだけどセンス・オブ・ワンダーということばをさいしょにしったのはレイチェル・カーソンの本でしたわ
まあタイトルだけで読んだことはないのですけれど
ブックマークのトップには炎上マーケティングをねらった半ば嘘みたいな記事もあるし
それに対して「そこまで悲観的にならなくていいだろ!」というブコメがつくことで押し上げるタイプのものも実際多い。
だから読んでいて特別に悲観的とおもったことはないんだよな(まじめくさっているとは思う)
もちろん、たとえば、特殊な例として「コロナで外にいけないとなると人生の99%の喜びを遮断されたと感じる」人にとっては
毎日自粛記事があるブックマークは悲観につぐ悲観、もう見ていられないレベルなんだろうけど
田舎暮らしで人と会わないのが日常の人にとっては「お~また都会人がやっとんな。それより新しいゲームどうなったん」程度。
元増田は悲観にまきこまれやすいだけじゃないのかね。そういう人がまきこまれやすいはてなだといえばそうなんだろうけど。
どいつもこいつも、はやく我に返れよ。心配するのは半径5メートル程度、今日の夕ご飯のことくらいでいいんだよ
おまえらが一人ずつで世界をあんじてやきもきしてもうつ病の薬の消費量が増えるばっかでなにも起こらないよ
いちいち世界をあんじてたら冷戦時代のいつソ連とアメリカが核戦争始めるかわからん中の沈黙の春だとかリサイクルもしないでフロンガスがオゾン層にあなあけてって同時多発人類滅亡要因が明らかになってきたときにみんなストレス性胃炎で死に絶えてるっての
賛同者の署名を集める行為ってリベラル思想として正当性の根拠になるのかな?
個別包装に賛成する人が同じ数だけ署名を集めてきたら数の根拠がなくなるよね。
環境保護なら環境保護につながるという科学的根拠と論理で主張を裏づければそれで良いのであって、100万人が不思議な力を信じたらオゾン層の穴が塞がったり石油が無限に湧いたりするようにならないよね。
それに数が多ければ多いほど良いって考えは、むしろ少数派の黙殺につながることもあるけど、整合性とれるのかな?
例えば悪魔のような差別主義者が選挙に立候補して数十万票を獲得したとき、それはいくらたくさんの人の支持を得たからといって、リベラル的には全く許容できる存在ではないはずだよね。
世間では感情に寄った先鋭化したやり取りが繰り広げられているが、人類は学問的根拠によって理知的な判断ができなければ争いを繰り返すだけだ。
奇しくも世界のトップを担った過去もある英国が、非常に感情的な選挙結果によりさらなる沈没に向かおうとしているが、この点については教養の重要性を後々証拠付ける事件になるだろう。
数十年前からフロンによるオゾン層の破壊だなんだのと、ずーっと扱われてきた問題だ。
時には二酸化炭素の増加と温暖化は科学的根拠に欠けるだとか言われたこともあるし、アマゾンやインドネシアでの森林破壊が重要な原因だとされ、割り箸やめよう!とかいう間伐材の利活用など見てもいない極めて感情的な取り組みが実施されたこともあった。
過去には重工業が最たる悪とされ、昨今のように牧畜による温室効果ガスの排出量がなかなかバカにできない量であることなど示されてもいなかった。
しかし、温暖化については上の世代ほど「環境問題」として教育を強く受けた感は強いのだ。
上の世代は昔より技術的取り組みによりクリーンな方向に改善しているという思いがある。海外においての環境問題の教育がどこまで行き届いているかは不知であるが、やはり我々としては環境問題についてそれがどこまでアップデートされているかは別にして「知っている」という感、そしてそれには技術的対策が日々講じられているという「思い」がある。
となると、面と向かって「何も動いてないバカ」と言われるとムキになったり、何も知らん娘だな。学校にも行ってないんでしょ?となるのだ。
あままこ氏の「常に改善を考えなきゃいけない生活とか大嫌いで、できる限り何も考えないで日々を過ごしたい」という意見に関して、経済成長推進派からコメントします。
http://amamako.hateblo.jp/entry/2017/02/21/194528
あままこ氏の意見は経済学ではきわめて一般的なものです。実際、ほぼすべてのマクロモデルで、労働は効用(=幸福度)を下げるものと仮定されています。これは、みんな働かなくてもいいなら働きたくないよね、という単純な観察をもとにしています。労働は自己実現の手段だ、マズローを知らんのか、みたいな話は、政治家と経営コンサルタントにまかせておきましょう。
そして、日々の小さな改善を奨励せず、現状維持を続ける社会がどうなるかは、私たちは知っています。
ソビエト社会では、ボトムアップの改善が禁止されていました。その結果、ソ連経済は次第に硬直性を増し、効率性を落とし、最終的にアメリカとの軍事競争についていくことができず、経済が崩壊しました。共産経済が崩壊して市場経済への移行するまでの間に、殺人率と自殺率が跳ね上がり、平均寿命が10年下がっています。また、「超大国」だったソ連は、「新興国の一つ」にまで落ちぶれています。
日本の江戸時代には、農家がコメの代わりに商品作物作ったり、商人が金融市場を発達させようとしたりしていましたが、江戸幕府は「神君家康公の時代に戻る」という題目を掲げ、数次の改革で農家や商人の勃興と武家の没落を防ごうとしました。しかし、アメリカの優れた技術と軍事力による圧力で、神君の時代を維持するという目標が夢物語に過ぎないことがはっきりしました。日本は幸運なことに植民地化を逃れましたが、江戸後半は、日本という国家の存続がかなり危なかった時期だと思います。
あままこ氏が示唆するように、改善大好き!な人は実際あまりいないので、ソビエトや江戸時代の例に習わないためには、日本も社会として成長を奨励するしかなさそうです。人権の擁護は別に対立する話ではなく、むしろ成長していたほうが人権擁護もやりやすいので、経済成長の奨励をしないという選択肢には特に魅力を感じません。アメリカと中国とヨーロッパが脱成長をはじめないかぎり、日本で脱成長が現実的な選択肢になる可能性はないと思います。
あと、「改善を止める」ということの具体的なイメージがわかっていない人も多すぎると思います。日本がバブル崩壊前の40年前まで改善を止めたら、携帯電話はないし、インターネットはないし、学校にエアコンはないし、牛肉は高くて庶民はなかなか買えないし、CO2は垂れ流しだし、フロンで南極のオゾン層を破壊し続けているわけだよ。社会の面で見たら、普通の女性はせいぜい短大までで、オフィスにはヌード写真が貼ってあり、学校で体罰がふつうにあり、立ちションするひとをよく見かける時代。