はてなキーワード: 比喩表現とは
※フレーズの流用や見解のサンプリングはパクりと言えないかもしれないけど、借金玉がreiにしてるパクリ認定基準を採用するとパクリ。また借金玉はパクるだけじゃなく、起源を主張して他人の流用を許さない領土化を行っている。パクリよりこちらの方が深刻な問題であり、発達障害当事者の言論が不当に制限されるのみならず、当事者が積み重ねてきた言語自体の強奪に他ならない。作家なら他人の言葉に敬意を払えよ
「フォロワーは自分に向けられた銃口の数」→元ネタはエターナル総書記の「フォロワーは自分に向けられた銃口の数だよ」と思われる。本人は自分のオリジナルと主張。本来の意味でのパクツイに近い
「お気持ち」→揶揄として使ったのはTwitterではむしが最古かつ界隈で使われていた。本人は自分のオリジナルと主張
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「会話を独演会にする」→昔からずっと使われてた比喩表現。また同表現を使った『一流の人の話し方 二流の人の話し方』はベストセラー。本人は自分のオリジナルと主張
「やっていき」→界隈で普遍的に使われていたが借金玉が起源主張して領土化した為、ダサくなったのもあって使われなくなった。本人は自分のオリジナルと主張
「自己肯定感は塩水」→ショーペンハウアーの「富は塩水」を元ネタとして、精神科医高垣忠一郎が公演や本でよく用いていた表現。本人は自分のオリジナルと主張
「ポリコレ棒」→元ネタは砂鉄蛙の「ポリコレという棒を振り回してる」。本人は自分のオリジナルと主張
「発達障害は安易なライフハックに頼る前にまず基礎生活を整えろ」→まくるめの借金玉に対する苦言を、その翌日に自分の意見としてツイート
「奇妙な共感」→恒内
「身体にいいものばかり食べさせられた子供がマクドナルドにハマる」→まくるめが教育者の親族から聞いて借金玉に話した事であるが、本人は自分の見分としてツイート
大きな白紙にアイデアを書く→心理学者トニー・ブザンが提唱し、シリコンバレーで広まったマインドマップという手法。本人は自分のオリジナルと主張
茶番センサー→kentzが作り界隈で普及していたフレーズ。借金玉が起源主張して領土化した為、ダサくなったのもあって使われなくなった。本人は自分のオリジナルと主張
神棚ハック、本質ボックス、扉のない棚で視覚化&一覧アクセス→いずれも元財務省官僚野口悠紀雄の記したベストセラー『「超」整理法―情報検索と発想の新システム』に記載されてるライフハック。本人は自分のオリジナルと主張。ここまで一つの本から被ってるとなると本来の意味でのパクリの可能性あり
机の上の物をザーッとやる→小説家スティーブンキングが公演でよく言うジョーク。「小説の書き方」にて同じようなニュアンスのジョークを多数載せている。本人は自分のオリジナルかつ「ジョークである」と主張
生活では着る物を制限したして決断を減らせ→スティーブ・ジョブズがいつも同じ服装をしている理由として有名。本人は自分のオリジナルと主張
見えない通貨、会話のプロトコル→霊長類学者ロビン・ダイバーが「ことばの起源」で述べている考え方。ダイバー自身は言葉の交換を形のない通貨と表現。本人は自分のオリジナルと主張
就活の記事→借金玉が就活の記事案件を書けないので、まくるめが代理執筆していたような事をツイートする。また就活記事は大体本人の経験もしくは知見として語ったりTwitterで宣伝
https://i.imgur.com/zY7znRk.jpg
https://i.imgur.com/EjQdfkn.jpg
逃げてもいいんだよってことは撤退戦、遅滞戦闘、殿軍配属希望を選択してもいいよってことだよ
それがどれだけ厳しく辛いことかは味わってから判断(今回は無理、生きていれば次回からの選択に逃げを選択するかどうかの経験を得る)すればいいよってことだよ
今回の撤退では死なんやろ(生物学的にではなく境遇的に再度自分が選択してその場まで到達するかどうかの意)と思ってるから言うのことだよ
生きるっていうのが生死も含んでたりするけどおおよそ「その状態においてその役割でそこにいること」のことだよ
職を失ったら死ぬしかないって比喩表現がまちがってなくそのままなら、生物学的な死でもあるという意味は含んでるけどね
その退路を往くのが楽なのか厳しいのかは実際やってみないとわからんけどね
https://note.com/historicalmoc/n/n284957b96801
村上春樹の作品はほぼ読んだので大体同意だけれど、肝心の文章について全く語られていないのは片手落ちとしか言いようがない。こういう何かを語っているようでその内実がわかりにくい言葉を並べるからハルキストだのなんだの揶揄られるんだ。ファンなら真面目にやれ。村上春樹以外の人間が村上春樹の真似したら中身がない駄文にしかならないって小学校で教わらなかったのか。
つーか村上春樹の文章は別にうまくねえから。特徴的で読解大好き人間ほいほいってだけ。
というこの3点が村上春樹の文章でもっとも印象に残る要素である。本気で語るなら時期によっての文体の変化とか、もっといえば情景描写についてもまとめたいのだけれど、とりあえず書き散らす。なお、3に関しては他作品に関する読解を含み、ひとによってはネタバレと解釈しうるものも混じるので注意。
実例を挙げてみる。
四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。
正直言ってそれほど綺麗な女の子ではない。目立つところがあるわけでもない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方にはしつこい寝癖がついたままだし、歳だってもう若くはない。もう三十に近いはずだ。厳密にいえば女の子とも呼べないだろう。しかしそれにもかかわらず、3メートルも先から僕にはちゃんとわかっていた。彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。
1文1文が短い。技巧的な表現を使うわけでもない。文章から浮かんでくるイメージが閃烈鮮烈なわけでもない。日常語彙から離れた単語を使うこともない(「閃烈鮮烈」とか「語彙」といった単語が読めない人間は思いの他外多いからな。ここでの「他外(ほか)」とか/悪いATOKに頼りすぎて誤用なの気づいてなかった。指摘ありがとう)。ただただ「シンプル」だ。わかりやすい。
また、冒頭の1文の次にくるのは「~ない」で終わる文章の連続だ。テンポがいい。あと、どのくらい意図的なおかわからないが、↑の文章を音読していみると適度に七五調がまじっているのがわかる。そして、大事なところで「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断言を入れる。リズムで読者を惹きつけた上ですっと断定されると、その一文がすっと印象的に刺さってくるのである。
つまり、別に「うまい」わけじゃないんですよ。ただ「読みやすい」。それにつきる。読みやすい以外の褒め言葉はあんまり信用しちゃいけない。「うまさ」って意味なら村上春樹をこえる作家なんてゴマンといるし、村上春樹の「文章」がすごいなんてことは絶対にない。うまいとか下手とかを語るならナボコフあたり読んだ方がいい。
とはいえ、個人的な所感だと、この「読みやすさ」は村上春樹が発見あるいは発明した最大のポイントだ。「リズムがよくわかりやすい文章で圧倒的リーダビリティを獲得する」という、一見してみんなやってそうでやっていない方策を村上春樹が徹底しているせいで、誰でも座れそうなその席に座ろうとすると村上春樹と闘わなければならない。
で、そのあとにくるのが「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。」という文章である。村上春樹の比喩表現は独特で、たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を適当にパラパラめくって見つけた表現として、「不気味な皮膚病の予兆のよう」「インカの井戸くらい深いため息」「エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて」といったものもあった。この、比喩表現の多様さは彼の最大の持ち味であり、真似しようにもなかなか真似できない。
そして何より、「100パーセントの女の子」である。何が100パーセントなのか、どういうことなのか、この6ページの短編ではその詳細が説明されることはない。ただ、語り手による「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断定だけが確かなもので、読者はそれを受け入れざるをえない。それはこの短編に限らない。「かえるくん、東京を救う」におけるかえるくんとは。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における〈世界の終わり〉とは。「パン屋再襲撃」はなんでパン屋を襲うのか。「象の消失」で象はなぜ消失するのか。「レーダーホーセン」でどうして妻は離婚するのか。羊男ってなに。
こういった例には枚挙に暇が無い。文章単体のレベルでは「読むことはできる」のに対して、村上春樹の小説は比喩・モチーフ・物語様々なレベルで「言っていることはわかるが何を言っているかがわからない」ことが、ものすごく多いのだ。
じゃあ、「村上春樹の作品はふわふわしたものを描いているだけなのか?」と言えば、そんなことはない。村上春樹の作品には「答えがある」ものが、地味に多い。
たとえば、「納屋を焼く」という作品がある。ある男が恋人の紹介で「納屋を焼く」のが趣味だという男性と出会い、ふわふわした会話をして、ふわふわとした話が進み、語り手は時々恋人とセックスをするが、そのうち女性がいなくなる。読んでいるうちは「そうか、この男は納屋を焼いているのか」という、村上春樹っぽいよくわからないことをするよくわからない男だな……という風に、読んでいるうちは受け入れることができる。
だけれど、この作品の問題は、「納屋を焼く」とは「女の子を殺す」というメタファーの可能性がある……ということを、うっかりしていると完全に読み飛ばしてしまうことだ(あらすじをまとめるとそんな印象は受けないかも知れないが、本当に読み落とす)。それが答えとは明示されていないけど、そう考えるとふわふわとした会話だと思っていたものが一気に恐怖に裏返り、同時に腑に落ちるのである。
その他、上記の「レーダーホーセン」においてレーダーホーセンが「男性にぐちゃぐちゃにされる女性」というメタファーでありそれを見た妻が夫に愛想をつかした、という読みが可能だし、「UFOが釧路に降りる」でふわふわとゆきずりの女と釧路に行ってセックスする話は「新興宗教に勧誘されそうになっている男」の話と読み解くことができる(『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年1-3月頃をモチーフにしている)。
勿論、これらはあくまで「そういう解釈が可能」というだけの話で、絶対的な答えではない。ただ、そもそもデビュー作『風の歌を聴け』自体が断章の寄せ集めという手法をとったことで作中に「小指のない女の子」の恋人が出てきていることが巧妙に隠されていたりするし(文学論文レベルでガンガン指摘されてる)、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書かせた村上春樹がその小説の中で実は死とセックスに関する話題を織り込みまくっている。近作では『色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年』で○○を××した犯人は誰なのかということを推測することは可能らしい。
たとえば、『ノルウェイの森』で主人公が自分のことを「普通」と表現する箇所があったが、村上春樹作品の主人公が「普通」なわけない。基本的に信頼できない語り手なのだ。信用できないからしっかり読み解かないといけないようにも思える。
(なお、なんなら村上春樹が自分の作品について語ることも本当の部分でどこまで信用していいのかわからない。「○○は読んでない」とか「××には意味がない」とか、読解が確定してしまうような発言はめちゃくちゃ避けてる節がある)
ただ、勿論全部が全部そうというわけじゃなく、羊男とかいるかホテルって何よとかって話には特に答えがなさそうだけれど、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』あたりは何がなんだか全くわからないようにも見えるし、しかし何かを含意しているのでは、あるいは村上春樹本人が意図していないことであっても、読み解くことのできる何かがあるのではないか、そういう風な気持ちにさせるものが、彼の作品のなかにはある。
このように、村上春樹のメタファーやモチーフには、「答えがあるかもしれない」という点において、読者を惹きつける強い魅力があるのである。
増田も昔は村上春樹を「雰囲気のある作家」くらいの認識で読んでたんだけど、『風の歌を聴け』の読解で「自分が作品をちゃんと読んでないだけだった」ということに気づかされて頭をハンマーで殴られる経験してから「村上春樹には真面目に向き合わないと良くないな」と思い直して今も読み続けてる。
……なお、それはそれとして、セックスしすぎで気持ち悪いとか(やれやれ。僕は射精した)、そもそも文章がぐねぐねしてるとか(何が100パーセントだよ『天気の子』でも観とけ)(なお「4月のある晴れた朝に~」が『天気の子』の元ネタのひとつなのは有名な話)、そういう微妙な要素に関して、ここまで書いた特徴は別にそれらを帳消ししてくれたりする訳じゃないんだよね。
たとえば『ノルウェイの森』は大多数の人間が経験することの多い「好きな人と結ばれないこと」と「知人の死を経験し、受け入れること」を描いたから多くの人間に刺さったと自分は思っているが、だけどそれが刺さらない人だって世の中にはたくさんいるのは想像に難くない。
だから、嫌いな人は嫌いなままでいいと思う。小説は良くも悪くも娯楽なんだから。
マジで村上春樹論やるなら初期~中期村上春樹作品における「直子」のモチーフの変遷、「井戸」や「エレベーター」をはじめとした垂直の経路を伝って辿り着く異界、あたりが有名な要素ではあるんだけれど、まあその辺は割愛します。あと解る人にはわかると思いますがこの増田の元ネタは加藤典洋と石原千秋なので興味ある人はその辺読んでね。
「うまくない」って連呼しながら「『うまい』のは何かって話をしてないのおかしくない?」 というツッコミはたしかにと思ったので、「この増田が考える『うまい』って何?」というのを試しに例示してみようと思う。村上春樹に対する「別に文章うまくない」とはここで挙げるような視点からの話なので、別の視点からのうまさは当然あってよい。
小説家の文章が読みやすいのは当たり前だが、「文章が読みやすい」なら「文章が読みやすい」と書けばいいのであって、わざわざ「文章がうまい」なんて書くなら、そこでの文章」は「小説じゃなきゃ書けない文章」であるはずだ。
じゃあ、増田が考える「(小説の)文章がうまい」は何か。読んでる間にこちらのイメージをガッと喚起させてくるものが、短い文章のなかで多ければ多いほど、それは「文章がうまい」と認識する。小説のなかで読者に喚起させるイメージの情報量が多いってことだから。
具体例を挙げてみる。
長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。
そのころのマコンドは、先史時代の怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
ガルシア=マルケス『百年の孤独』の冒頭。大佐が子どもの頃を回想して大昔のマコンドに話が飛ぶ際、「先史時代の」という単語を選んでいることで文章上での時間的跳躍が(実際はせいぜいが数十年程度のはずなのに)先史時代にまで遡るように一瞬錯覚する。
津原泰水『バレエ・メカニック』1章ラスト。昏睡状態のままで何年も眠り続ける娘の夢が現実に溢れだして混乱に陥った東京で、父親が世界を元に戻すために夢の中の浜辺で娘と最期の会話をするシーン。
「お父さんは?」
「ここにいる」君はおどける。
「さあ……仕事で遠くまで出掛けているか、それとも天国かな。お母さんがいない子供は いないのと同じく、お父さんのいない子供もいない。世界のどこか、それとも天国、どちらかに必ずいるよ」
彼女は君の答に満ち足りて、子供らしい笑みを泛べる。立ち上がろうとする彼女を、君は咄嗟に抱きとめる。すると君の腕のなかで、まぼろしの浜の流木の上で、奇蹟が織り成したネットワークのなかで、彼女はたちまち健やかに育って十六の美しい娘になる。「ああ面白かった」
理沙は消え、浜も海も消える。君は景色を確かめ、自分が腰掛けていたのが青山通りと 表参道が形成する交差の、一角に積まれた煉瓦であったことを知る。街は閑寂としている。 鴉が一羽、下り坂の歩道を跳ねている。間もなくそれも飛び去ってしまう。君は夢の終焉を悟る。電話が鳴りはじめる。
作中の主観時間にしてわずか数秒であろう情景、ありえたかもしれない姿とその幸せな笑顔から夢のなかで消えて一瞬で現実に引き戻すこの落差、そこから生まれる余韻の美しさですよ。
あるいは(佐藤亜紀『小説のストラテジー』からの受け売りで)ナボコフ「フィアルタの春」という小説のラスト。
フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲども、幸福の龍どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。
ふわーっと情景描写がホワイトアウトしていって、最後にふっと現実に引き戻される。この情景イメージの跳躍というか、記述の中でいつの間にか時間や空間がふっと別の場所に移動してしまうことができるというのがナボコフの特徴のひとつである。
散文として時間や空間が一気に跳躍して物語世界を一気に拡張してしまう、この広がりを「わずかな文章」だけで実現していたとき増田は「文章がうまい」と認識する。自分が村上春樹の文章を「うまくない」って書く時、そのような意味での「小説としての文章」を判断軸にしてた。
村上春樹は下手ではない。村上春樹に下手って言える人いるならよっぽどの書き手だし、その意味で村上春樹に関しちゃ言うことはないでしょう。しかしごく個人的な私見を言えば、「文章」って観点だと、文章から喚起されるイメージに「こちらの想像を超えてくる」ものがめちゃくちゃあるわけではないと思う。
日本語の文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベルの知識で可能で、その点村上春樹は文章のプロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない。平易な文章を徹底しつつその内実との間に謎や寓話やモチーフを織り込んで物語を構築するところがすごいのであり、そこで特段褒められるべきは構成力や比喩表現の多様さだろう。その際に使うべきは「構成力がうまい」でも「比喩表現がうまい」であって、「文章」などという曖昧模糊とした単語で「うまい」と表現することはない。小説=散文芸術において「文章がうまい」と表現しうるとき、もっと文章としてできることは多いはずなので。そして、このことは、村上春樹がしばしば(「小説」ではなく)「エッセイは面白い」と言及されることと無関係ではない。
ちなみに、増田は津原泰水やナボコフの文章技巧には翻訳を村上春樹じゃおよぶべくもないと思ってるけど、面白いと思うのは圧倒的に村上春樹ですよ。技巧と好き嫌いは別の話なので。
ここで書こうとした「うまさ」は佐藤亜紀がいうところの「記述の運動」を増田なりに表現したもので、元ネタは佐藤亜紀『小説のストラテジー』です。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
「シンデレラガール」はアイドルグループのデビュー曲である。「君は〜シンデレラガール マイプレシャスワン〜」で始まるあの曲だ。イケメン達が王子様みたいな服を着て少女漫画の主人公しか体験できないような世界観の歌詞を歌いあげるのだが、私はこの曲が好きです。聴くと「あっっ…私って…シンデレラガールだったもんね?…?(催眠状態)」となる。少女マンガに憧れる気持ち全く知らずに生きてきたけど、この曲を聴いて完全に分かった。
なんでここまで私がこの曲を好きになったのか、整理してみる。
アイドルは永遠との戦いだろ。というか愛は永遠との戦いだろ。だから結婚って形で相手に契約させたりする。好きなものなんて永遠になくならないで欲しいし永遠に好きでいたいに決まってる。でも愛ってどこかで終わりがちだし、アイドルは卒業するし、永遠なんてものはどこにもない。だからドルオタって最終的に「瞬間」に重きを置くようになるよね。「いまが最高!」とか言っちゃってね。もう今この瞬間を楽しむしか残された選択肢ないから。
そんなアイドルの無常を知っている私に対して、シンデレラガールは永遠を約束してくる。「いつになってもいくつになっても僕は君を守り続ける」とか言う。デビュー曲で、この世に存在しえないものを、誓ってくる。あーおいおい何にも分かってないこの若者達やっちまいましたよ…ありがとう。そう、これが最高の「瞬間」なのである。永遠なんて存在しないのに、なのにもうこの歌詞を聴いている瞬間だけは、「永遠」の存在を確信する。この若者たちと共に過ごす幸せな未来しか見渡せない。ありがとう、ずっと永遠に好きだよ。デビュー曲で永遠を提供してくるのは福利厚生よすぎだよ。
つまり何が言いたいかというと、真に輝いてるアイドルは「瞬間」の中に「永遠」を作り出すことができるし、シンデレラガールはその力を最大限に引き出す曲なのだ。
だが永遠を歌う曲はアイドル業界に山ほどある。なぜシンデレラガールはそこまで私を感動させたのか。それは2番の歌詞にリアリティがあるからだ。
ある時友人が恋人と別れた時に言っていたのだが、「恋してるときの方がよっぽど異常な状態で、別れるのは正気に戻るってことだ」と。その友人が本当にそう思っていたのか、自分にそう言い聞かせていたのかは分からないが、なるほどそういうものかもな。恋してる時は、終わりを想定できるほど賢くなれない。盲目で異常で精神病だ。あれ待てよ、これって瞬間の中に永遠を見出すか意味わからないことを言って必死になってる私のことか?
となったところでキンプリは一度現実を思い出させてくれる。2番の歌詞で「時が経てば宝石もガラス玉さ」と言ってくるのだ。ここで私はほっとする。なぜなら現実には永遠などないと知っているから。1番の歌詞のノリが2番も来てたら、なんとなく他人事で聴いちゃってると思う。だからここで一般論として「愛は冷めるらしい」というのを出してくることで、架空と現実の距離が一気に近づく。
そしてその上でキンプリさんは言うんだ、愛が冷め、形が変わっても、君が君でいる限り、僕はまた君に恋をすることになると。もうこのガラス玉の比喩表現が絶妙すぎて上手く訳せないんだけど、とりあえず2番の歌詞は遠い先を見越しているのだ。冷めきった結婚生活だと思っていた日々が、ある時をきっかけにこれが幸せで穏やかな毎日だと気づく、そういう瞬間をリアルに描いている。愛は冷めないのではなく、愛が何度でもはじまると言っている。「瞬間」の連続により「永遠」を実現する。ああ、そういうことか。永遠なんてないと思ってたけど、瞬間の連続の中に永遠があるんだな…これが愛だし、アイドルなんだな…やっぱ現実に「永遠」あるじゃん…となる。
つまり何が言いたいかというと、シンデレラガールの2番の歌詞には、「永遠」に現実感を持たせる説得力があるので、非常に魅力的曲になっている、ということだ。
あと関連してもう一つ言いたいのは、おそらくこの曲の歌詞はキンプリというグループに重ね合わせられてしまう点です。
デビューってジャニーズアイドル的には一番盛り上がるタイミングじゃん。無敵じゃん。そんなタイミングで永遠を誓う。これからはもう楽しい予感しかしない。推し(自担)が大好きで推しが誰よりも人気者で…もう最高だよね。分かる。でもさそんな宝石みたいな日々は過去になることを、古いオタク達はしってるんだよ。痛いほど知っている。CDの売り上げが落ちたり、テレビに出ることが減ったり、箱にスカスカ感が否めなくなったり、誰かがグループ抜けたり、あからさまにオワコン扱いされたり。そんな中で担降りする日が来て、今キンプリを追ったり、はたまたキンプリから降りたりするわけじゃん。
でも、そんな日が来たとしても、好きだった日々を懐かしい思い出だと言って、今を楽しく生きてくれるなら、それでいいってキンプリさんは言ってるんだよ。宝石がただのガラス玉になった時、捨てるでもしまっておくでもなく、普段使いの耳飾りにする、その姿に恋をするっていうのは、そういうことじゃないのか。キンプリデビュー時の勢いでファンになったけど、数年してファンを辞めた子。たまたま音楽番組で、キンプリ10周年とかいうの見かける。この歌詞を聴く。絶対泣くじゃん。この宝石みたいなデビュー曲を聴きながら、それを大切におもうし、その時の自分の延長に今の自分がいると気づくじゃん。はやくこれになりたい。
つまり何が言いたいかというと、この曲は今後、デビュー時のみんながキンプリに恋した日々をメタ的に歌った曲としての意味も持つようになり、より歌詞に深みを増すだろうということ。
長いし、読む価値は無いので、読んでからガッカリしたとしても自己責任でお願いします。
子供の頃からなんとなく漠然と、自分の人生は二十歳で終わると思っていた。
高校受験、学校見学で魅力的な学校を見つけ、どうしても入りたくて、頑張った。
憧れた高校に入学して、そのあと何をしたらいいのか分からなくなった。
高校生活は何をすればいいのかわからなくて、とりあえず「それっぽい」ことをして終わった。
憧れた高校生活は、ほとんど何もせず、ただ好きな制服を着て、かっこいい校舎を彷徨くだけだった。
それで満足していたし、それ以上はなかった。
大学は行きたくなかった。
やりたい事はほぼなくて、勉強もできないし、将来の目標も無いから、行く意味が分からなかった。
小学生の頃の昼休み、友達に「絵が上手いから漫画家になればいいじゃん」と言われた。
その時からなんとなく漠然と、自分は漫画家になるんだ、と思っていたし、漫画家になるなら専門学校の方がいいと思っていた。
あとは、当時見た3D映画がかっこよくて、そういうのを作る人になりたいと漠然と思って、そういう専門学校も考えていた。
結局、絶対大学じゃなきゃダメだという両親に説得され、漫画も3Dも学べる大学に入った。
新設の学部だったし、入試説明会や案内には、漫画やアニメ…それこそ専門学校のようなラインナップが書かれていて、親が許さず専門学校ではなくこちらにきた、という人が私以外にも大勢いた。8割はそうだったと思う。
実際、入学前に散々確認した3Dのモデリングに関する知識のある講師は、入学後には存在しなかった。
かろうじて漫画の講義はあったが、ただのオタクおじさんが自分のロリ趣味を語って聞かせるだけで、そこに学べるもの(例えば、そのロリの魅力、なぜいいのか、どういうところがファンの心を掴むポイントなのか、などを話されればまだしも、ただ「かわいい」としか話されなかった)は無かった。
これは、このままここにいても意味がない。このままじゃ無駄な時間を過ごしすぎる。
二十歳まで残り2年、アルバイトを頑張って、大学在学中に夜間の漫画専門学校に通った。
それでも学校に行ったのは、私自身がそうしないと一作も描けない人間だったからだ。
つまり、この時点で気づくべきだった。
私に漫画は向いてない。
授業は週一、1年間。必死で稼いだバイト代のほとんどを注ぎ込んだ。最大限に有効活用して作品作りに役立てようと息巻いていた。
入学特典として、時間外でも個別相談で作品を見てもらえたので、入学2ヶ月後、早速初めてのネームを見てもらった。
ストーリーも何もかもボロボロで、とても酷いネームだったと思う。
それでも、丁寧に指導してもらえて、学ぶことがたくさんあって嬉しかった。
教えてもらった事を活かすために、早速新しいものを描いて、2週間後にまた持っていった。
「あなたのネームは長いし、見るのに時間がかかるからなぁ。僕、家が郊外で遠いし、嫁が家で待ってるから」
それ以来、週一の授業も休みがちになり、半年をこえた頃には専門学校は行かなくなった。
自分でなんとかしなきゃ。
とにかく、まずは一作。
そうして、専門学校卒業前に1人で作品を完成させ、初めての持ち込みに行った。
せっかく描いたし、なるべくたくさんの意見を聞いて次に活かしたい。
5個の編集部に持ち込みに行った。
うち2箇所で、二度と漫画を描くなと言われた。
そんなバカな、誇張が過ぎると思うでしょ?一箇所はあくまでやんわり、自分の担当作家と私との違いを長々と話した上で、向いてないと思うと言われた。
もう一箇所は誇張無しでハッキリと、「二度と描くな」だった。
でも、2度目を描くことも許されないとは思わなかった。
帰り道の足取りは重かった。
初めての単身上京、知らない街。
足を止めたら消えてなくなる気がしたから。
うち一つは、みんなの憧れで厳しいと言われる場所で、なんならそここそ絶対無理だと思っていた場所だ。持ち込み予約の電話時点で扱いが悪かったし、当日も約束の時間に行って、30分待たされて、待ってる間他の人が酷評されているのが聞こえて、怖くて途中で帰ろうかと思っていた。
でも、そこの編集者が1番優しくて、また見せてほしいと言われた。
でも結局、編集部の名前が凄すぎて恐れ多いし、なにより田舎者の自分はそう簡単に持ち込みに行けないので、もう1箇所の名刺をくれた人にネームを送るようになった。
結果から話すと、うまく行かなかった。
その頃には大学も卒業の年になり、最後の思い出のつもりで卒業制作を別の編集部に投稿した。
持ち込みの時にも行った編集部だが、持ち込みの反応はかなり悪かったし、きっと今回もダメだと思っていたが、卒業旅行中の魚市場で受賞の連絡を貰った。
漠然と、自分は漫画家になる、と思っていたから、就活はしていなかった。
元々していたアルバイトをフルタイムにして、漫画を描いていた。
しかしバイトがハードすぎて漫画を描く時間はなかった。休憩時間に事務所でトーン貼りしたりしてた。
鬱になった。
正確には鬱になったのは卒業制作中、同じゼミの子と比べられるプレッシャー、作品ができない焦り、バイトの繁忙期が重なってパンクした。
ある日突然、プツンと何かが切れるような感覚があって、それ以降、目の前で話しかけられても、音声として認識できても言葉として理解できなかった。
話を聞いているのに、聞き取れない。理解できない。
当時の店長に相談して、接客から裏方作業に切り替えてなんとか過ごしていたが、色々あって結局辞めた。
元々2年で辞めるつもりだったし、漫画もバイトもうまく行かなくて、就活を考えた。2年以内ならまだ第二新卒枠がある。
それでも雇ってくれるという会社があった。絵を描ける技術を買ってくれて、新しく雇用形態も増やして、漫画の夢を追いながらうちで働けるようにサポートしてくれる、と。
すごく嬉しかったが、断った。
雇ってくれるという会社は、夜の街に近かったし、それに隣接するお店も取引先になっていた。
両親はそれが心配だったらしい。
「周りの人に、そんなとこで働いてるって言えるの?」
私は働いた事がないから分からないけど、親が言うならそうなのかも、と思ってしまって、断った。
今思えば、あの時あの会社で働いていたのが、1番幸せな分岐だったのかもしれない。
面接をしては落ち、を繰り返している間にふと、どうせ働くなら漫画に近い場所の方がいいのでは?と、アシスタント先を探すことにした。
当時はまだアナログが主流で、どこも都内で通いの募集ばかり。田舎者の自分には不可能だった。
家から自転車で行ける場所、未経験者可、自分にとっては最高の条件。
早速応募して、面接。
そこで初めて、現役の漫画家さんと話した。
作家さんの仕事場はフルデジで、ワンルームに作家さんと私用のPCと液タブが、それぞれ壁を向いて設置されていた。他は何も無い。
お互いにコミュ障で、会話はあまり弾まなかった。それでも、ネームを見てもらったり、トーンの貼り方をなんとなく教わったりした(基本的には「いい感じにして」の指示だったので、ほとんどは独学だった)。
その作家さんは漫画業界の闇に触れすぎて疲れていたので、ほとんど話し相手の役割だったが(そもそも週刊と月刊の2本連載をほぼ1人で描く狂人だった)、私にとっては貴重な話がたくさん聞けた。
あと、その話を聞いてて、「漫画家なんてなるもんじゃないのかもしれないな」、とも思った。(作家さんが毎日のように辞めたいと言っていたから。そもそも異常な執筆量を1人でこなしてたし、そりゃ辞めたくもなるわな、と今は思う。)
そこで1年半すごし、作家さんの連載の終了と共に辞めた。
その頃は、何度か原稿を送って、1番小さい賞を何度か取っていた。しかし担当さんとはうまくいかないし、原稿送っても「悪くは無いけどよくもない」しか言われず、何をどうしていいか分からない状態だった。
そしてふと、自分は今まで一度も漫画を楽しく描いた事がないことに気づいた。
展開が、目線誘導が、読者の盛り上がりが…
初めて描いた時から、そんな事を気にしてばかりで、自分自身が楽しく漫画を描いたことがなかった。
アシスタントも無くなり、名実ともに無職になり、再度就活を始めた。
相変わらず履歴書を笑われて、嘘つきな採用担当に意味不明な事を言われながら、最後に自分の好きなものを描いてみようと思った。
何を描いても、誰にも何も言われない。
好きなように、楽しく。
結果的にやっぱり「読者の目が〜」とか「起承転結が〜」とかを気にしてしまい、完全には楽しくなかったけど、それでも、今までで1番気楽に描けた。
せっかく描いたし、SNSにあげてみた。
今まで私の漫画は学校の先生と、編集部の人くらいしか見たことがないし、反応をもらえた事はない。
いいねが1万件ついた。
びっくりした。
たった一晩で想像もしない人数が見てくれた。感想のコメントもいっぱいついた。
嬉しかった。
それから、就職が決まるまでの間…と、少しずつ好きな作品を描いた。
これで漫画は最後にしようと思っていたのに、やっぱり描きたくなった。
ほとんど返事はなかったが、1箇所だけ返ってきた。
そしてそこで、いきなり連載になった。
今までもらった事ない反応が続いて、ある種のハイ状態だった事もあり、その連載もうまくやれる気がしていた。
そして実際単行本も出した。
これだけ聞くと、SNSで人気出て連載、書籍化、すごく順調っぽい。
当時の自分もそう思っていた。
でも実際は違う。
話数が増えて、人気もちょっとずつ出て、物語にちょっと複雑な内容を追加した。
とはいえ、ただエロシーンが続くだけでは読者も飽きるし面白くない。何より話が続けられない。
そして元々少年漫画が描きたかった私は、エロだけを描くのは本意では無い。
今までは「いつか人気が出れば複雑な話も描けるから」と言われて頑張っていたが、その「いつか」が来ない。
担当にはっきりと、「絵がそこそこ描ければ話なんてどうでもいいから」と言われ、自分から打ち切りを申し出た。
今でも配信サイトのコメント欄には続きを望む声が書かれていて、非常に申し訳ない。
描けなかった。
今度こそ、きちんと、話で勝負できるように。
連載の経験もあるし、単行本も出てる。今までとは違う。採用にならなくても、作品を良くする話をしてもらえるはず。
「よくこれで本が出ましたね」
持っていったネームも単行本も、今までのどの持ち込みよりも酷い評価だった。
曲がりなりにも約2年、頑張って描いていたのはなんどったのか。
当たり前といえばそうかもしれない。
過去に2社で連載をしたが、その二つ共が作品の打ち合わせはほぼ無かった。
一社に関しては一応ネームチェックがあり、エロの量だけ指示された。
もう一社に関しては、企画段階で一度だけ電話があり、メールの内容の復唱だけして終わった。以降は何を送っても「いいですね!」何も良くない。こっちが頑張って、相談しても特に取りあわれず、返事は全て「いいですね!」
一応お金をもらっていたけど、やってる事はSNSの投稿漫画と同じ。
商業作品の魅せ方のノウハウはもちろん無く、作品作りの才能がない自分には、自分だけの力で読者を惹きつける漫画を描くことはできなかった。
3度目の、「もう漫画やめよう」が来た。
悔しいけど、やっぱり自分には描けない。
その漫画は、内容にアラは感じていたが、今までで1番楽しく描けた。
その作品を持って出張編集部に行って、そこでも2社声がかかった。
描けなかった。
私の中でイメージするキャラは持ち込みの時から変わっていない。けれど、いくらネームを描き直しても、担当さんからはキャラブレ、別人になってるという指摘をされた。
だんだん自分でもそのキャラがどんな子なのかわからなくなった。
しばらく練り直して、やはり変わらなくて。
諦めて別の話を描くことにした。
そこからは真っ暗闇だった。
どんな話を描いても、中身が全部同じと言われる。
下手に考えるより、自分の好きなものを好きなように描いて、それを膨らませる。
そう言う方法で描いた方がうまくいくタイプなのは自覚していたから、そのように描いていたつもりだ。
結局実力も追いついていなかったし、描きたいものも分からなくなってダメだった。
そんな事が2年近く続いた。
別の編集部の人に、考えている途中のネームを見せたこともある。
足りないのは実力じゃなくて話の一番の見せ所だ。あとちょっとでうまくいきそうだし是非頑張って。
それは、私が初めての持ち込みの時からずっと言われている事だった。
そろそろ30になる。
二十歳で死ぬと思っていたのに、10年もロスタイムを生きてしまった。
一番仲がいいと自分では思ってたし、昨日まで仲良く遊んでたのに。
突然クラスの男子からいじめに遭い、それを一番仲が良い友達に相談していた。
男子を使ったいじめの首謀者がその子だと気づいた時は目の前が真っ白になった。
はっきりと意思表示をした。思い直してくれることに期待した。
「別にいいし」
友達を作るのが怖くなった。
どんなに仲良くなっても、弱みを握られるだけだ。
ある程度損得が考えられる生徒が多かったから、いじめにはならなかった。
3年でようやくできた友達は、卒業と同時に「私たち高校の間だけの友達じゃん」と言われた。
友達って難しいな。
親には言えなかった。
友達に言うとまたいじめられるかもしれない。親なら相談に乗ってもらえるだろう。
そのまま卒業した。
そう言われ続けて卒業した。
何人か連絡先を交換して話したりした。
仲良くなった人もいる。
ちょうどアシスタントを始めた頃で、それまでバイトの都合で服装に制限があったし、オシャレはほぼした事がなかった。
ネイルと言うにはお粗末だが、100均の安いマニキュアを買ってなんとなく色をつけて喜んでいた。
100均のマニキュアを使った事がある人なら分かると思うが、乾くのが早い代わりに、木工用ボンドみたいにペロッと剥がす事ができたりする。
オシャレに無頓着な私はそれが何となく楽しくて、塗った後しばらくたって剥がれたマニキュアをめくったりもしていた。
ある日、LINEのやりとりで仲良くなった1人に食事に誘われた。
趣味の話とかゲームとか、そう言う楽しい話をしていた、異性で初めてできた友達の感覚だった。
自分の指先が、剥がし掛けのマニキュアでボロボロなのを完全に忘れて食事に行った。
向かい合った個室のテーブルで、その爪に気づいたその人に、「ネイルやってるの?見せて」と手を握られた。
そして、ボロボロの爪を見られた。
「オシャレだね」
怖くなった。
ボロボロにハゲた公園の遊具のペンキみたいな指先を綺麗と言ったのだ。
しかも、気持ち悪い笑顔を貼り付けて、視線は全く手を見ていなかった。
男女でただの友達になれるのは大学まで、そのあと仲良くなれるのは下心のある人だけらしい。
それがたまらなく怖かった。
その後も何度か友達までの付き合いの人はいたが、例えばふとした瞬間肩を触られたり、手を握られたり。
そう言うのが怖くて続かなかった。
そのままもうすぐ30だ。
家を出る能力がないので実家暮らし、毎日両親…特に母に怯えて生きている。
「家にいるんだから家事しなさい」「他の人は外に働きに出てるんだから」
少ないながらに在宅でアシスタントはしている。
両親の中で、外に通勤していない、在宅労働は「仕事」ではないらしい。
本当は拘束時間が長い職場だが、家事があるため作家さんに頼んで短くしてもらっている。
当然、その分給料は減る。
給料が少ないから、その分早く自分の原稿で稼げるために作品作りに励む。焦る。
それでもようやく希望が見えてきて、前向きに色々挑戦できそうになってきた。
真夜中に叩き起こされ、いつ結婚するのかと叱責された。
完全に寝ていたので、はじめ何を言われているのか分からなかった。
「後ろのものが透ける」という意味での「透明性」の象徴として使うことはあっても「見えにくさ」の象徴として使うのはそれこそ海外フェミニズム由来の「ガラスの天井」ぐらいでは
磨りガラスとか型板ガラスとか、ガラスに彩色したり凹凸加工した工芸品とかがめちゃくちゃ普及していた日本では「ガラス=見えにくい」なんていうイメージ自体があまりない
現実問題ガラスの何かがそこにあるのを認識できない状況もめったにないので、磨りガラスや型板ガラスが減った現在でも、新用法として若者の間でそういう比喩表現が多用されるようになったなどという事実もない
少なくとも日本語では「ガラスの〇〇」と脆い何かを比喩的に表現するのは一般的だし、上限のことを「天井」と比喩的に表現するのも一般的であり、まともな日本語話者があの文脈で
「ガラスの天井」の意味を誤解することは99.9999%あり得ないし、フェミニズム文脈を知らなければごくごく普通に理解したはず
一方でフェミニズム文脈で占有できるほど創造的な表現ではない(ごくごく一般的な比喩表現の組み合わせで、偶発的な発生を否定できない)ので、
もちろんこの組み合わせがフェミニズム文脈で特定の意味を持つことを政治家が知らないのは教養がなさすぎるという批判はあっても構わないけど、
言葉の簒奪とか言っている連中はいったい何の権限があって「ガラス」「の」「天井」というわずか3語の組み合わせを独占しているんだ?
それは流石に比喩表現だと思うで 横
https://anond.hatelabo.jp/20201210074954
https://b.hatena.ne.jp/entry/4695336495910429090/comment/naga_yamas
このブコメは本当に「差別」につながる発言なのだろうか。その他にはダイレクトに貧困層や低学歴層を蔑視するようなブコメも確かにあって、そういった発言が差別的というのは分かる。しかしこのブコメはどうか。
前提として、「公立中学出身者」は、私立中学が選択肢にある一部の社会階層の人々を除いたすべての日本国民であって、特に貧困層や低学歴層を指しているとは言えないのではないだろうか。
https://www.jili.or.jp/lifeplan/lifeevent/education/4.html
追記:気になって調べてみたところ、私立中学に通う人の割合は2018年で7.3%だった。
ブコメの表現の主眼は、公立中学出身当事者の立場から、いじめ等の苛烈な環境を「動物園」と比喩し、そういった環境を避けられるのであれば私立中学には確かにメリットがあるのだろうなあという感じだろう。「十分良さはわかるよ」からは文字通り「メリットは理解できる」程度なのか、より強く私立中学を選好しているのかの価値観までは読み取ることができない。
元増田その他に「はてなリベラル」の「ダブスタ」を指摘したい人たちが多くいるのが観測される。では批判派は、このブコメの「動物園」と同等の比喩表現はダブスタなく一貫してあらゆる領域について取り締まるべき、という立場なのだろうか。意識高いポリコレも真っ青なほど表現に厳しい立場だと思うが、彼らはそういう人たちなのだろうか。そうだとすればむしろ「はてなリベラル」と仲良くできそうだが…。
他者の表現の自由を侵害しようと言うのであれば、その表現がどのように表現対象の人権(自由)を侵害する差別的な表現なのか、ということを十分に社会的合意が得られるレベルで示す必要がある。「自由」と「自由」の対立の調停を図るのが本来のリベラリズムの立場のはずだ。この2つの自由のうち、表現の自由の方を極端に軽視するのが、行き過ぎたポリコレ推進派が本当に「リベラル」なのかと、自己矛盾を感じさせるポイントだろう。しかし「はてなリベラル」嫌いの人たちは、「動物園」の表現の取り締まりにまったく躊躇がないらしく、その点で彼らが嫌いなはずのダメなリベラルに良く似いる。
本当に反差別を考える立場であれば、「はてなリベラル」のような藁人形を叩くのではなく、「動物園」のブコメがどのように差別的な効果を持つか丁寧に説明すべきだろう。そもそも「公立中学差別」とは何なのかまともに定義して話している人が観測されず、議論の不毛さを感じる。
この間、買い物から帰るとすでに姪っ子と姉が来ていた。
大人たち全員で晩ごはんを食べていたので、終わるまで姪っ子の相手をして(こうしないと姪っ子が誰かの膝に乗り晩ごはんをねだる。やんちゃで食欲旺盛なのだ)、頃合いを見計らって部屋着に着替えにリビングを出た。
事件はその時起きた。
リビングを出て10秒、部屋にいるのに姪っ子の大きな泣き声が聞こえてきたのである。
最近めったに聞かなくなった「うぇ〜〜〜ん!!!」という渾身の大泣きだ。
おば増田は激しく焦った。まずい、泣かせた…。
この年になると誰かを泣かせる機会もそうそうないので、心臓に悪い。
あわてて着替えをすませてリビングのドアを開けると、姪っ子はそこにいた。
ドア前の壁によっかかり、うつむき、両手を下ろしぎゅっと握りしめて。
(母はのちに「となりのトトロのメイみたいだったね」と語っていた。比喩表現100万点だった)
どうやらいなくなったことに気づくと、姪っ子は「ちゃん!ちゃん!」と叫んでいたそうな。(※ちゃん=増田のあだ名)
秋葉原通り魔事件。宮崎勤の事件。ああいう事件で「抑圧されて育った人間の歪み」を見聞きするたびに、他人事ではないなと感じる。
母親は教育関係の仕事をしており、子どもを立派な大学に入れたスーパーマザーである。
しかし、その子どもは、無事に無い内定引きこもり無職(一応学生)となっている。社会性が育つ場面で極端に制限をかけられた子どもがどうなるか。20年をかけた壮大な人体実験の記録を一つ読んで欲しい。
1.恐怖で抑圧させて勉強させられてきた幼少期
私は物心つく3歳の頃から、毎日「ノルマ」を課せられ、やりたくもない勉強と向き合い続けてきた。母親が帰ってくる前までに母親の決めた「ノルマ」を仕上げないといけない。このノルマが終わっていないと、「指導」が始まるのである。例えば、「なぜ今日は出来なかったのか」について一時間、二時間、と向き合う。答えられず無言でいると「そうやって私を無視するのか」と詰められ、「バカだったからです」と答えれば「勉強が出来ないバカは家から追い出す」、「離婚したダメ父親の元に送る」、などが提案される。この「話し合い」は深夜にまで及び、「なぜできなかったのか」答えさせられる「自己批判」の時間では「どのように答えればこの人は納得して寝かせてくれるのだろうか」をパニック状態の頭で考えることとなるが、どれを答えても地雷。最後には不甲斐ない自分に関する悔し涙を流す。すると「反省しているポーズをとるな」と詰められる。涙を拭けとティッシュを渡され、鼻水を拭いたティッシュを丸めて置いておく。
「今日のノルマをやってから寝るよ」。勉強をしていて情けなさに涙をこぼすと、「泣くな!」と怒られ、鼻水を拭いたティッシュを口に入れられることもあった。彼女自身、子どもを支配するのに必死だったように思う。子どもの一日というのは大変長く、誘惑に満ちているので、ついつい遊んでしまうのだが、昨晩課された、あるいはノルマ棚に置かれたプリントを見て勉強をするほど私は賢くはなく、この「指導」の時間が辛く無駄な時間だったと感じる。
そんな物理的な圧で勉強に向かわせてくる母親であったから、うちはゲームが禁止だった。周りの友達が全員「たまごっち」を持っている中、買ってもらえずに輪に入れないということもあった。何度かお願いをしてみたのだが、ダメだったし、この人には何を言ってもダメだと分かっていたから、諦めた。現在、「スーパーマリオ」や「ポケモン」は基礎教養だと思うが、私はそれらで遊んだことが無く、アクセスできなかったため、それらに関する話題が出た時に全くついていけないのがかなり困っている。一生困ると思う。「ポケモンの金銀並みだな~」とかいう比喩表現を聞いたとき、「そうですね」とへらへらと笑って合わせていくスキルを20過ぎに身に着けたが、付け焼刃感というか、相手の言っていることが何も分からないので悲しい。
友達の家でやればいいというお声もあるだろうが、「母の目の敵にしているゲームを触ること」は私にとっては「大麻にトライすること」くらいハードルが高かったのである。今でもゲームをしている人を見ると謎の居心地の悪さを覚えてしまう。
漫画は、年の離れた兄弟が大量に所持しており、そこからこっそりと借りることが出来た。捨てられたジャンプから、好きな漫画をカッターで切り抜いて、単行本を作っていた。ただし見つかると「私刑」である。生命活動を勉強時間に全振りすることで東大に合格できると思い込んでいた母親は、勉強以外の活動をしていると烈火のごとく怒った。弟の気に入って隠し読んでいた「純情パイン」は八つ裂きにされて捨てられてしまった。
幸いにして私は小説を読む方にはまっており、私のメインの趣味である読書は「推奨」される行為だった。(ただしノルマをやった後、寝る時間を惜しんで読書を優先すると叩かれる)図書館のお気に入りの本は読みつくしたし、母親の検閲(中身には興味がなく、文字かそうじゃないかが重要だった)をクリアする「涼宮ハルヒの憂鬱」等ライトノベルには大変お世話になった。グロ系や耽美、18禁のものも、「本」なので良かった。ここに関しては寛大な処置を頂いたと思っている。
そんな読書少女に育った私は、頭でっかちの、言語性だけが身に付いた、悲しいモンスターだった。小学生の頃、女子特有のクラスのトラブルに悩んだ時、最高指導者である母に相談してみた。すると「増田ちゃんはそんなレベルの低い子と無理して仲良くしたいの?」と一刀両断。そうか。周りの子はレベルが低いから、関わらなくていいのか。誤解した増田ちゃんは「基本的に物腰は柔らかいが、トラブルにすら巻き込まれないように一歩身をひく付き合い」を心がけるようになる。また、友達と遊ぶことは制限されており、家に友だちを呼んではいけなかった。新しい友達も「どこの、誰で、何をしている親の、どういう子」かを説明するという責任があり、母親に認められない子と遊ぶことは良い顔をされなかった。そんな中でも文通をしたり、こっそり会うといった方法で仲良くしてくれた友人には頭が上がらないのだが、やはり「友人と遊ぶ」ことがダメなので、せっかく仲良くなったクラスメイトとお祭りや、ショッピングなど楽しいイベントに出かけることは出来なかった。(そもそも自由なお金がなかったし、バスにも乗れなった)
高校では、最初は素敵な友人グループに属させてもらった。友人たちと仲良くしてもらって感謝しているが、その中でも「この間のショッピングモールで~」のような会話にはついていけないことが増えていく。ついに深い交流をすることは出来なかった。今でも交友関係を続けている同級生同士がとても羨ましい。
そういった抑圧の下で生きてきた結果、やはり20代半ばで実感しているのが、「勉強だけ出来てもダメ」ということだ。
最近の教育分野では「非認知能力(社交性とかもろもろ)」が重視されているが、詰め込みノルマ型の勉強の成果をどうにか形にしたり、就職して社会に還元したりする上ではこの能力が必須である。元々ASD傾向がある上に、社交の一切合切を無駄と切り捨てられて育ったことは大変大きな損失だった。そもそも母親も社交スキルが低く、同級生のママを見下しながら、自分が適応できないことの憂さ晴らしをしていた。母親も、社交スキルをどう教えて良いか分からなかったのだと思う。その結果、「コミュ強を見下す」という戦略に走ってしまった。結果はどうか。増田で長文を投稿し、コロナもあって友人関係が更に狭まり、就活で全滅の、「無敵の人」予備軍の出来上がりである。
母親は上記のようなことをほぼ忘れ、「でも〇大に受かったから、よくママ頑張ったでしょ」と承認を求めてくる。〇大に受かっていなかったら、今よりも肩身が狭い、バカのコミュ障が出来上がっていたかもしれない。
ただ、〇大に受かった後、うつになり、頭の良さがかなり下がったので、結局「何もできないコミュ障」が完成してしまった。
20年をかけ、社会的なコミュニケーション能力を切り捨てて詰め込み教育をするとどうなるか??うつになり、頭も悪くなる。
「アルジャーノンに花束を」のチャーリィよろしく、どんどん阿呆になっていく様を記録して後世に残すことが私の役目なのかもしれない。
ドロ刑の 福田秀 氏がスタートアップをテーマにした、ベタだけどすごく気持ちのいいスカッとするビジネスマンガを描いてるよ
毎回、起業ターゲットが変わって主人公が変わるよ。ヤンジャンアプリでいま8話まで見れるよ👍
第1話の子会社永久出向の部長さんの話と、第3話の専業主婦の話が特にオススメ!
https://tonarinoyj.jp/episode/13933686331665821621
・・・と、まぁ、お勧めマンガだよ😆 はサラッと流しつつ(そのうち筆の立つ人やマンガオタクが良レビュー書くだろう)
増田に書きたかったのは『ベンチャー』と『500万』の方なんですけどね
で、『スタンドUPスタート』の作中にもイケイケ・オラオラのベンチャーが出てくる
年商10億(月商でも純利益でもあらず)で、渋谷のおそらく駅近に50人入れる箱借りて、東大・早稲田・慶應レベルの人材入れて
メイン事業が単なるイベント屋は、いくら経費(原価)が掛からないとはいえ無理があるじゃろ・・・と、ツッコミどころはありつつ、
とりあえず急成長して外車乗ってブイブイ言わせているベンチャーの設定です
そんでそのベンチャーの役員がコンプライアンスをガン無視の言動をしていて
私的に女に500万使ったりするんですよ
うーん、マンガらしく胸糞悪い悪役だなぁ🤔って思うじゃないですか???
ふはははははは、現実でも何度も見てるぞコラ ♡♡♡
コンプライアンスが叫ばれる昨今にどこのヤクザのフロント企業かな?って感じですが
反社ではないハズです
というかちゃんと顧問弁護士がいて社内に法務部があって労務部に社労士がいて専門家が内外のリスク管理してる規模感の会社なんですが
役員自体がリスクっていうね(あるいは役員が連れてきた上級マネージャー自体がリスク)、
まぁエリートじゃないんで色んなところで色んな経験はしてますが、思いの外、ベンチャー時代のこと・・・
いろいろ困ったちゃんを見てきていますがそれらとは明らかに種類が違います
文字通りの意味で人を人と思っていないってヤツですね、シンプルにサイコパスとしか思えません
でも嘘か真か暗黒期の営業マンや広告屋は規模感関係なくどこも近しいノリだったという話も聞くので
我々は本当にいい時代に生まれましたね。はははははははははは😊
・・・で、トラウマが呼び起こされたのはそれだけじゃ無くてですね、
マンガの中でベンチャー役員が私的に女性に500万出すシーンが出てくるんですけど (女性は被災した実家を援助したいそうな)、
その条件が胸に社名のロゴのタトゥーを入れる事なんですよ、そして女性はそのタトゥーを入れちゃいます
コンプライアンスをガン無視の言動はリアルでも見ますが、流石にタトゥーまではリアルではないです
“500万だったら喜んで入れる”、 “タトゥーくらいで500万なんて良心的”、
ぐぎゃーーーーーーーー!!!!😨思考停止の豚どもめ!!!!!!!!!!!!!!!😫
リアルで肌が粟立ちましたよ、ええ。比喩表現じゃないです。ガチで肌が粟立ちました
まぁ、ちゃんとよく見たら、“桁がひとつ足りない”ってコメントもあって安心しましたし、
増田と同じく単なるノリと気分で書いただけだと思うんですけど、
とりあえず社内イベントで負けたら坊主はあってそれはフツーに実行されてました
エンジニアやスタッフ部門の人間はこういう方々のノリに付き合わされないで済むのですが
こんな会社にエンジニアが入る・居つくと思っているとしたら、確実に脳に疾患がありますよね???
某外資のブランディングも愛社精神チェックもクソうざかったですが、
国内ベンチャーではなく、某外資に入ると、望みのものが得られ、多少は健全で良いと思います
会社のお金で好き勝手やらせて頂きました。その点については文句無しに最高でございました
しかしピンポイントで役員周りについてだけ肌が粟立つレベルのトラウマになっており
思い出して気分がダダ下がったのでこれで終わりにしたいと思います