はてなキーワード: 二項対立とは
遊びも勉強だから真面目にやった方がいいよ。相手の示唆していることが分からないことにメリットは全然ないし、それを身に付けるには実技しかない。言語能力が発達していれば勉強も軽く済むし。日本語がわからないおじさんは地獄でしかない。収入もないし。
勉強と遊びを二項対立に持っていく論法は実は勉強をしない人の言い分で、勉強ができる人は人と対話ができるから遊びができるし、意図が理解できて問題が解ける。できない人は指示を明確化されないと解けない、というか解かれた問題を読むことしかできないから、何らかの概念が理解できていないように周りからは映る。人間のコミュニケーションは細かな意図の組み合わせで、誰かの固まりきっていない意図を汲み取って自分のそれと組み合わせることで新しい意図ができ、それが価値になる。「勉強だけした人」はそれができないので、意図は完成していて単純に手が空いていない仕事を厳密に指示されることしかできない。それがどんなに高度な手作業でも、人間を離れて高度であること自体に価値はほとんどない。
だから高校では人間との共同作業をきちんと勉強したほうがいいよ。できれば高校では小中で実践してきた協調を価値に変える実践に入ったほうがいいよ。おじさんには知識しかないからもうすべてが手遅れだけど。
時代が進むにつれて、オタク的なコンテンツが一般社会で肯定的に扱われることが増えてきている。
往年の電車男、最近では紅白などのNHKや各種民放、芸能人ならGacktにTMRに小林幸子に叶姉妹、萌えマスコットに萌えおこし、最大手なのがクールジャパン。
ああいうのに対して、いい顔をしないオタクもいるじゃないですか。
見ててイタ恥ずかしいからやめろとか、石の裏の虫を太陽にさらすなとか、リア充が流入してほしくないとか。
私としては、その中でも「オタクに媚びやがって」、って反感が強い。
でも考えてみれば、媚びられて何が悪いのか。
あんまりにも持ち上げられるといつかハシゴ外された時がキツい、というリスクはあるものの、ある程度までなら、オタクが世の中に受け入れられて地位が向上するのは、オタクが生きやすくなることに繋がる。
「地位が上がらなくたっていい、そっとしておいてくれれば」なんて言う人もいるけど、その「そっとしておいてもらう」ためにも一定の地位が必要なんだよ。そうじゃないと叩かれる。
たとえビジネスに利用されてるだけだとしても、利用価値があると思われてる方がオタに一定の配慮をしてもらえるようになるわけで、隠遁オタクでも生きやすくなる。(今はまだまだだが今後に期待)
金も回ってきやすくなるしコンテンツも更に充実する。(今はまだまだだが今後に期待)
……っていう、オタクが社会に受け入れられるのは双方にとってwin-winだって理屈はわかるけど、やっぱムカつくんすよ。
なんでかってのを言語化すると、一般社会がオタクに歩み寄ってこようというなら、その前にこれまでオタクを馬鹿にして叩いてきた過去を、非オタ全員がキッチリガッチリ謝罪して清算してほしいわけ。
オタクにも実利があるでしょ、ってんでなあなあで仲直りさせられるのは大変腹が立つ。侮辱の追い打ちだとすら感じる。
人は実利がなけりゃ動かないけれど、実利だけで感情的わだかまりを解決することもできないんだよ。
たとえばなにか事件被害を受けた時に慰謝料払われたとして、「払いたくねえなあ~、しゃあねえなあ、この守銭奴がよ」って態度で払われたら許せないでしょ。
誠心誠意の土下座と共に払えと。加害者全員ゲザれと。その上で払うもん払えと。そしたら和解してもいいよと。
はあ~、でも一般社会が全員でしっかりごめんなさいすることなんて未来永劫ないんだろうなあ~。
「一般社会」というのが捉えどころがないものだってのを差し引いても、大きな集団がみんな謝るなんてありえない。
もしかしたら、オタクバッシング報道をしてきたテレビ局の偉い人、政府や自治体の偉い人、みたいな代表者が反省の弁を述べることはありえなくもない。
でもその周囲とか下部には「上の人は頭下げてるけど自分は悪いと思ってないんで、オタクなんて有害なんで」って雰囲気を出す奴が絶対いるだろう。
そんなんじゃこちとらちっとも許せませんよ。頭下げてる人の隣でお尻ぺんぺんされてるんだから。
だから、今、私のような一般社会からオタクに対する歩み寄りに反感を持ってる人の一定割合は、その悪感情をずっと抱き続けるはずだ。
我々が死に絶えるころには、もうオタクは一般社会に対する恨みなんて持ってないのかもしれないけど。
或いは、若いオタクに一般社会からの迫害の歴史を語り継ぐことで、恨みの遺産を残すことができるかもしれない。
まあとりあえず私は一般社会からもらえるもんはもらうけど謝られない限りは舌打ちをし続けていきます。
努力も環境によって影響を受ける行動の一つにすぎないのに、「環境か努力か」という二項対立を立てて主張をしている人がどういうレベルの視点で問題設定してるのかよくわからずとりあえず自分の考え方を書くのですが。
生物学などのレベルで言えば、おそらく「生まれか育ちか」つまり遺伝子か環境のどっちかもしくはその両方でのみ人間のすべての行動は決定されるわけで。
このレベルだと当然自己責任云々のような話は出てきようがないですし、物理学的にも自由意志とかないので責任などという概念は成り立たないのですが。
反対に「自分には自由意志がある」という自意識感覚を持った人間が集まって作った社会のレベル、要するに政治などのレベルで見ると、政策や法律などをどう設定するかという問題意識で「自己責任」「個人の努力」などの概念が出てくると思うのですが。
この場合そもそも社会が存在しないまっさらな状態だと生存権や所有権などというものも保障されるわけがないので、ある意味全てを自己責任と設定することも可能なわけで、どこからが自己責任かというラインは恣意的に設定されるものに過ぎないと思われます。
そうなると「〇〇は自己責任だ」という言明は意味を持たず「〇〇を自己責任に設定すると社会がこのようにうまくいく」のような言明しか意味も持たないはずです。
要するに「〇〇は自己責任だ、個人の努力の範囲だ」と「〇〇は環境のせいだ」という意見は視点のレベルの違いによって両立可能ですし、逆に同じ視点レベルで並び立つような単語じゃないはずなので二項対立で論じれる話じゃないと思うということです。
妙にブクマ集めてるけど、星野智幸ってアンチ自民な芸風で売ってる人だからね
http://www.magazine9.jp/article/konohito/10301/
https://m.facebook.com/sports.instructor.support/posts/667049159984606
「正しいのか、間違っているのか。二項対立に回収されていく言葉は不毛です。それを無効化したいと思っていました。そこで考えないといけないのは、結果として対立のための対立のなかで、誰が得をするのか。どんな問題が残り、誰が損を被るのか」
これ、自分が負け組になるのが不可避と踏んで「対立なんて無意味だしやめよう」と言い出してるだけだからね
興行収入は遂に風立ちぬを越え、もう上にはジブリ映画しかいないという状況だそうだ。
それ故に、作品の情報はネットをやっていると否応なしに目につく。
ツイッターでは「もしかして」「入れ替わってる!?」のコピペが大量に作られ、
pixivやニコニコ静画など画像投稿サービスではイラストがひっきりなしに投稿されている。
演出に注目したものから制作体制、スタッフ登用など組織論なような話まで、数数多の記事が出ている。
事前に情報を触れてしまうことに抵抗がある人はなかなか大変だろうなぁ、と思う。
記事の名は、こちら
無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問
「興味深い見方だった」という肯定的なコメントがつけられていたことと、
サイト内ランキング1位(10月1日当時)に釣られて読んでみたものの、
いざ読んでみると、
「ふむふむ。」
「……ん?」
「はぁ!?何言ってるの?」
となってしまう、久々に猛烈に反論したい記事内容だった。自分「君の名は。」未視聴なのに!
そして、この気持ちをぶつけるところがなかなか見つからないため、
ここでひっそりと所感を書き連ねることにする。
この記事の主点はあくまで地方論であり、作者の主張はこうである。
特に後半。地方を暗く扱った作品は確かに探せば存在するだろうが、
戦後サブ・カルチャーの潮流として、地方への鬱屈や屈折の描写が常に存在していたかというと、そうは思えない。
片方で「地方賛美系のご当地アニメ」を取り上げ、批判しておきながら、
というか、自らが「地方の賛美・消費と並行して」と言っているのに、
戦後のアニメ・マンガの主流であるかのように扱うのかいかがなものだろうか。
アニメと地方を考えた論評は、この記事に限らず最近は非常に多い。
それに伴い、聖地巡礼やアニメによる町興しが注目されていること、
経済停滞や少子高齢化により地方のあり方の議論が盛んであること、
などが理由として考えられるだろう。
しかし、それらの論評で見過ごされていると見過ごされていることがある、と私は思っている。
それは「地方であれ、都会であれ、あくまで舞台は舞台」ということである。
細やかな小道具があり、大きな絡繰りがあり、巧みな照明効果や音響がある、
それらが充実しているか、特色だっているかは、作品の評価を左右する一要素かもしれない。
しかし、それはあくまで一要素であり、舞台の上で演者が動かない限り作品とはならないのが通常である。
地方である、都会である、ということは物語の展開に大きく絡む。
しかし、作品のメインテーマになるまで比重が高くなることはそこまで多くない。
ペルソナ4という作品を例に挙げよう。原作はゲームで、アニメ化されている作品である。
そこは大型総合スーパーが進出し、地元の商店街がその影響で衰退している。
主要人物の中には、周囲との軋轢が生じている総合スーパー店長の息子や
こう見ると、まさにこの作品は地方の屈折した部分を描いた作品である。
では、これは記事作者が主張する「地方の軽薄な理想化に一定の留保を付け加える」作品だろうか。
自分はそうは思わない。
ゲームプレー済・アニメ視聴済を知ってる人なら分かると思うが、
この作品、リア充ゲームと揶揄されることがあるくらい、終盤になると仲間の結束が固くなる。
主人公が転校してきてから去るまでの1年間で、彼らは忘れられない思い出を作り、心を強くする。
ならば、この作品は「地方暮らしもすばらしい」的な地方賛美の作品だろうか。
それも違うだろう。
つまり、地方都市の性質・描写は極めて重要な位置にあるのは確かだが、
舞台の基本設定であるが故に、物語の主題にまではなかなか上り詰めないことが多い。
その舞台で登場人物がどう動くか、どんな出来事に遭遇し、乗り越えるか、
そのような舞台設定以外の重要事項が大抵の作品には存在しているのである
(もちろん、舞台設定全押しのご当地振興系作品もないわけではないけども)。
また、舞台装置であるが故に、物語の展開に応じて描かれ方が変わる、ということも起きる。
良い出来事が起きればその背を押すように明るく描かれ、
良くない出来事が起きればその気持ちを代弁するかのように暗さが出るが舞台装置である。
そのため、後味が良いラストとなる作品ならば、当然その舞台の地域は後味よく描かれることになる。
そして、娯楽作品である以上、漫画・アニメで後味が良いラストと後味が悪いラスト、
これに加え、
「人間、そう簡単に地元から移動しない。両親に頼るところが大きい高校生以下ならばなおさら」
ということも多くの場合、見過ごされていると感じる。
高校生以下の場合、特段な理由がなければ通学範囲+αが彼らの行動範囲となる。
背景が実在の場所に忠実で、聖地巡礼が盛んに行われる作品の中で、
一番舞台が全国に分散している作品として、私は咲が思いつくが、
それは、「全国大会に各地から集まってきた女子高生」を描いているからであり、
・身内の都合です(転校など)
・突然ワープしてました
これらのような特段の理由がなければ、登場人物はなかなか生活圏から離れて動かない。
だからそこ余計に、舞台の明るさ・暗さは展開の明るさ・暗さに密接にかかわる。
描かれる街が単一の都市圏に絞られるのだから、バッドエンドを目指してない限り、
舞台となる地方は物語の展開に連動して明るくに描かれるのである。
そこに舞台となる町が素晴らしい、というメッセージが入るかどうかは作品それぞれだが、
舞台である=描かれた地方は作品の重大なテーマである、という構図は
必ずしも成り立たないと思うのである。
この記事に対して気になるところがもう一つある。
というよりも、先述した結論としての主張や「君の名は。」の分析よりも
東京が揺らがなかったことへの不満、
そういう東京が良く描かれていることへの不満が文章の端々から漏れている。
「東京に隕石が落ちて壊滅することを期待してしまった」までくるともはや怨恨の類すら感じる。
この観点において、もっとも瑕疵があると思えるのは3ページ目のこの部分である。
物語をあくまで散文的に見直せば、『君の名は。』は、故郷のない男と、故郷を失った女が、東京で故郷の幻想と特別な異性を妄想する話といえるのかもしれない。
これはもう、誤読していると扱ってしまっていいのではないだろうか。
それに付随した人間関係や馴染みの店もある。
高度経済成長期に断絶しているという最も日の浅い解釈をしても40年の歴史がある。
当然、そこで生まれ、育ち、その場所に愛着を持っている人が存在する訳であり、
というよりも、この作品は地方と東京の対比が大きな要素でもあるのだから、
人間関係や行動範囲があるからこそ成立している作品だと思うのだけれども……。
もしテロや地震があり、瀧自身や近い関係の人物に危害があったら、
きっと、瀧も三葉もお互い逆の立場で必死に動くと思うのだが、いかがだろうか。
規模が小さい、独自性があるなどの性質から、創作の世界において、
物語を進めるための非現実的な設定を地方が押し付けられる傾向が強いということは事実である。
パロディに満ちた謎の施設や人物がやりたい放題するTRICKのような作品は極端だとしても、
地方賛美という面ではこれ以上に多くの意見が出たサマー・ウォーズなど、
悪い言い方をすると、ご都合的に地方が歪められて描かれることは多々ある。
地方を味方する立場で活動を行っている人からすれば、良い思いはしないだろうし、
作品に反映するかどうかは別にして、そのような不満があることは受け止めるべきである。
しかし、それを受け止めるのは制作サイドであり、東京ではない。
そのような設定を組んだのは新海氏、堤氏、細田氏であり、東京が作ったわけではない。
批判の向きは新海氏、堤氏、細田氏、もしくは各委員会、はたまたワーナー、テレビ朝日、東宝に対して
向かうべきであり、東京に矛先を向けるのは間違っているだろう。
地方を「消費」可能な商品に仕立てているのは、(所在は大都市かもしれないが)
作者および制作組織であり、大都市そのものでは決してないのである。
地方と大都市という二項対立は、研究においても創作においても非常に分かりやすいしよく使われる。
しかし、本記事のように地方の不満は全て大都市が起こしているものだ、
という構図にまで落としてしまうのは、単純化が過剰であるだろう。
不満の捌け口をほぼ全で大都市東京に向けている所が、非常に鼻につく記事であった。
http://anond.hatelabo.jp/20160829084435
raitu 新海誠の新作アニメ映画「2日間で観客動員約59万人、興行収入約7億7000万円(26日が約3億4800万円、27日が約4億2200万円)を記録」今回は「君の名は。」という中高女子向けの人気原作であることも寄与してるっぽい
それはさておき。
現状のはてなの騒がれ方は、元増田みたいな認識よりももっとずっと手前ではないのか。
近い時期にシン・ゴジラがあったもんだから、それと二項対立を組めばいいんだとしか思ってないバカが「オタクのシンゴジ、非オタの君の名は」みたいな構図で安い叩きを量産している。海猿叩く時の文章のまま、タイトルだけ変えたやつ。
以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。
当時は慣れない土地で一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。
ドロドロしたものや葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的に被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。
今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。
そしてブログに文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。
その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定な身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベートの人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。
特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。
自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。
ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログに文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。
社会と対峙するつもりでブログに文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分が自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界に対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。
当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境や社会を糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。
あのときはブログに文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。
あるいはブログに文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義な行為であるかのようにすら感じていた。
それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。
当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境や社会にあるのだ、と決めつけていた。
そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。
今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界と自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。
社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。
そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実に自分の身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものからは乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。
現実に自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。
そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的な衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能な怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。
そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。
一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。
当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分を世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。
どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。
けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。
どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。
いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。
だから、あぁそうだ、自分はたまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。
以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。
当時は慣れない土地で一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。
ドロドロしたものや葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的に被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。
今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。
そしてブログに文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。
その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定な身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベートの人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。
特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。
自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。
ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログに文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。
社会と対峙するつもりでブログに文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分が自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界に対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。
当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境や社会を糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。
あのときはブログに文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。
あるいはブログに文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義な行為であるかのようにすら感じていた。
それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。
当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境や社会にあるのだ、と決めつけていた。
そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。
今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界と自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。
社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。
そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実に自分の身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものからは乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。
現実に自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。
そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的な衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能な怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。
そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。
一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。
当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分を世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。
どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。
けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。
どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。
いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。
だから、あぁそうだ、自分はたまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。
三宅洋平という人を知っているだろうか?
今回の参院選に東京選挙区から立候補していて、演説動画が異例の50万回再生、最近ネットでもちょっと話題になっている人物だ。
出馬当時はほぼ無名で全く話題にもならなかったが、演説動画の再生回数が増えるにつれ、
特にここ数日は区議会議員やブロガーなどそれなりの有名人も批判するようになっている。
確かに彼の考えは未熟だ。
ではなぜそれでもなお彼を支持するのか?
それは彼が「自由」と「対話」とに基づいた民主主義を重視する人物に思えるからだ。
「なんか悪の権化とか、安部やめろとか、安部倒せとかだけでは、
そこに、対話を阻害する要因があるんですよ。
安保法制に反対しているといえば「反日勢力」だの「脳内お花畑」だのと罵られ、
安保法制に賛成しているといえば「アメポチ」だの「ナチス」だのと罵られる。
改憲VS護憲、原発再稼働VS反原発、高齢者VS若年者、正規VS非正規、大企業VS労働者、…。
相手の本当の考えなど知ろうともせず、勝手に都合のいい言い分を想定し「敵」を批判する。
「味方」同士でしか通用しない論理で盛り上がり、「敵」からの批判には耳を傾けない。
そんな言論が硬直化し教条的となってしまっている現代において、
三宅洋平が語る、たとえ意見が違っても相手を尊重するという姿勢、相手の意見をちゃんと聞き、自分の意見をちゃんと言う、
「対話」を通じて問題を解決しようとする古くて新しい考え方はとても貴重なものだ。
しかしそれは彼の周りにいるブレインがダメなだけだと考えている。
したがって今の彼の主張が政策がダメダメなのは周りの仲間、そして彼に色々な知識を吹き込むブレインの考えがダメダメなだけなのだ。
もし彼がそういった陰謀論を盲信する狂信者なら私は彼を支持しないだろう。
でも彼は「対話」を大切にしている。
彼に「それって本当なの?」と疑問を投げかければ、「それっておかしくない?」と批判を投げかければ、
彼はちゃんと知らべ、考え、そして意見を返してくれる。
対話をすることで考えを改めたり深めたりすることができる。
まともで説得力のある現実的な政策に変えていくことが可能なのだ。
これは特定の支援者や組織に縛られた他の政治家では絶対にできない。
というわけで、私は三宅洋平を支持する。
http://anond.hatelabo.jp/20160605113308
まずこの作品の伝えたいテーマのひとつが「野性」って概念は幻想であるってことなんだよ。
これは元増田もわかっていて、そこが表現されていないと不満に感じたんだと思うんだけど、実は描写されている。
この事は後に触れるとして、まずは
>肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。
についてのフォロー。
そもそも「野性」ってなに?
「本能」ってなに?
社会から切り離されてジャングルでたった一人で育った人間の人格が「本来の人間」なのか?
そうじゃないだろう。
今自分達が生きている文化や環境を含めて、人間の人格というものは成り立っている。
そもそも野性(本能)と理性(社会性)は切り離せられないものなんだ。
たとえば精神障害で錯乱してしまったら、大通りで裸になったりウンコしたりしちゃうわけ。
でもそれはその人の「本来の」人格ではない。病気が治った後、その人に「あれが君の本性なんだね」って言える?無理でしょ。
ズートピアの野生化しちゃった人達は、薬物によって一時的に錯乱を引き起こした状態なわけ。
高次的な思考を司る脳みそが一時的に阻害されちゃったとかそういう症状であろうと推測できる。
そんな状態なので「肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒」は「野性」の描写ではないし、
むしろ「「野性」とは凶暴なものだ」と思い込んでいる観客へのカウンターになっている。
ニュースメディアはそれを(ニュース映えするので)「肉食動物の本能」として騒ぎ立てるが、それはあくまで異常な状態であって、その人の「本質」ではない。
偽りの「本性」だ。
そう、「「野性」とは凶暴なもの」に代表される思い込みを否定するのがズートピアのテーマであると言っても過言じゃない。
ズートピアでは人種差別やらフェミニズムやらのあるあるジョークが、山のように引用されている。
例えばエンディングで交わされるニックとジュディの会話。
日本でも男脳・女脳の本がベストセラーになったことがあったけど、その題名って「地図の読めない女性」みたいな感じだったよね。
統計だかでも、女性は三次元構造を脳内再生するのが苦手みたいな結果が出たとかどこかで読んだけど、そういう傾向があるにしても女性全員がそうだってわけじゃないし、現に女性もバンバン車を運転している。
((女性はコミュニケーション能力が高いので、男性の運転技術は自分よりも上だと持ち上げている/または男性よりも自分が楽をするために男性に運転をさせている結果である、という説もある))
でもこれ、劇中では否定されてたけど本当のことだよね?と思うなら、それは偏見に侵されている(かもしれない)。
上記と同様に変換してみよう。
アウト!!!アウトです。
「男性が痴漢するのは本能だから女性は我慢すべき」理論のあれこれははてなでも頻出しているけど、他の場所でもそうらしい。
男性は性欲を司る視床下部が女性より大きいから仕方ないよね……な、わけはない。
上に書いたように、人は理性と野性との混合体だ。社会に住んでいる以上、一般常識として女性を襲っちゃいけないということは知っているしやらない。
ダメだと言われてやるのは犯罪者と、そういう文化圏に住んでいる人たちだけだ。
そういう文化圏に住んでいても、相手の女性が嫌がることはしないという男性だっている。人は相手を慮る能力を「本能的に」備えているからだ。
性欲も他人への共感能力もどちらも同じく「本能的」な脳の機能だ。
人によって強かったり弱かったりする。犯罪者は我欲が強くてセーフできず罪を犯すし、倫理観の強さも遺伝的な部分が大きい。
でもそういった「本能」は本人の努力や周囲の理解によって乗り越えられる。
そんな世界がいいよね。というのがズートピアの掲げる「知恵」の力だ。
野性の「ありのまま」の自分なんて受け入れてもらえない。弾き出されてしまう。
だから生きやすい形に整えた街を動物たちは作り出した。つまり社会だ。
社会は人の集合だから、自分の願望と他人の願望が衝突することもある。
そこを折衝して生きていこうというのが理性であり知恵だ。
夢見がちな理想主義ではなく、地に足をつけて一緒に生きていこうという意思だ。
それすら理想にすぎないのかもしれないけど、ディズニーが子供に手渡す「知恵の武器」なら少しくらい甘味も混ぜないと吐き出されちゃうから、いい案配だと思うよ。
ニックとジュディが和解するシーンで、感極まったジュディがボロボロ落涙してしまった時のニックの一言。
これはストレートな事実なんでご存じの方も多いんじゃないだろうか。
よく職場でちょっと叱った程度で泣き出したとか、喧嘩では女性のほうが先に泣き出して何も言えなくなるからズルい、
精神的に軟弱で覚悟がないから泣くのだ、というように思う人も多いらしいですが、ホルモンの影響で女性は男性よりも泣きやすいという「本能的」な理由がある。
彼女たちにしても本当は敵の前で弱みを見せたくないし、泣いたら許してもらえると思って涙を流すわけではない。
ただ、身体的な反射なので仕方がないのだ。
ましてやジュディは様々なハードルを乗り越えてきたガチのリブで、精神的にもタフであろうとし続けてきた。
そんな彼女が決壊してしまい((ニックに対して心理的障壁を張る必要がなくなったという暗示))弱さを見せている状況で、差別的なジョークを放っても許し合える間柄になったという描写なわけ。
ジュディは「肉食本能」を偏見から非難したが、ニックは「涙腺」を分かったうえでジョークにした。
「本能」なんてそんな程度のもんさ、とお互いに許し合う。
偏見や差別を打ち砕くのには「相互理解」と「共感」が架け橋になるという強いメッセージが放たれている。
差別ジョークの引用はフェミニズム以外にも色々あるんだけど、二項対立でわかりやすかったので取り上げてみた。
> 社会差別、偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。
その通りですね。
それでも「野性」を解き放ちたいという人のために…………そう、秘密クラブがある。
保育園の開園を断念して「これはひどい」とかブコメ付けてるやつがいるけど、例外者批判(実際には批判にもなってないただの批難ばかり)も甚だしい。
次に出てくる言葉が何かと思ったら「子どもを大切にしない」だとか言うけどさ、実際に保育園か幼稚園の隣に住んでみろっつーの。
例えば航空自衛隊のある町の近くに住むと二重ガラスにする補助がもらえたりするけど、保育園にはそういう近隣住民に対しての何か配慮ってあるの?
「子どもを大切にする精神」だけを求められるのであれば、是非とも保育園の近隣に率先して住んでくれ。
とか言ったら「会社がー」「通勤がー」とか言いやがるだろ?その程度の関心しかないんだわ、そういう人たちって。
なんのためのフレックスタイム出勤だよ、と思わざるを得ないくらい朝はゆっくり寝られない。
誰だって迷惑をかけるんだったら、しかもそれが子どもであるのならば、迷惑をかけないように如何に配慮するのかってのが大人の役割なんじゃねーの?
「防音対策をしっかりする→建設費用がー」という問題が出て来て始めて国政に声を挙げられるんじゃねーの?
それ以前の批難しかできない人たちが選挙権を持っていることの方が日本の未来の暗さな気がするわ。
そういう大人ができること、配慮することを無視して「日本ノミライガー」とか、驚くほど知性を感じさせない大人という念しか懐かない。
マジで飛行場の方が静かなレベルだからね、保育園の隣に住むというのは。
そもそも子どもは騒がしい生き物なんじゃない、大人が騒がせている=元気溌剌だと勘違いしているだけなんじゃないのか。
子どもを黙らせるんじゃなくて、静かにならないのならば配慮できる理性を備えた大人が対処するものなんじゃないのか。
そういう大人だからできるもの、むしろ大人だからすべきものを全く無視して「若者ガー」とか何言ってんだ?
重要だからこそ、しっかりと環境や実状を踏まえてどうすべきかを考える。
そういう人たちが増えることを願ってやまない。
追記::
「実際に隣に住んでみろ」っていうと「極論ダ―」が現れそうだから、一応付けたしておくよ。
先にも述べたけど「実際に住め」と言われて「通勤通学ガー」と言い訳する奴らなんて、本当は「保育園」に興味なんて1マイクロもないんだ。
ただただ世間で話題になったことがらに、インテレサントなものにだけ興味を引かれて、脊髄反射的に批難する言葉が出てきているだけで頭なんて使っちゃいない。
自らの経験や周辺住民の声を聞いて、それらを踏まえてどういうことをしていくか、あるいは為していくか、それが科学的な思考であって、義務教育を終えた人が為し得る考え方なんじゃないのか?
それは面倒だし簡単にできることじゃない。
そういう面倒なことをやってまできちんと「これからどうすべきか」を考える人たちが必要なんだけど、そういうところにお金は廻らない。
このような状況を全く踏まえないですぐに「コドモガー」というのは、そういう短絡的な大人に教育されている子どもが最も不憫でならない。
追記その2::(4月12日12時ごろ)
なんか知らんけど沢山ブクマ付いてて個人的には興味深くて考えさせられるものも沢山あった。
批判は真摯に受け止めたいし、どんなコメントをくれた人でも全ての人へありがとさん!とは言っておきた。
私は口も悪けりゃ頭も悪い。挙句に文才なんて胎内に忘れてきたようなタイプなので支離滅裂な文はご寛恕いただきたい。
想定していた「私は気にならなかった」系のブコメはやっぱりあった。
もちろん他意はなくて自らの意見を述べているんだろうけど、そこで留まっていれば声としてとても重要なものだと思う。
だけど、そこから一歩進んでしまって、住宅の施設や立地などの諸条件を捨象して、結果を「神経質」というような単純化していく論の持って行き方は賢くない。
賢くないと言っているだけで、嫌いだとかダメだとか言っているわけじゃないことだけは理解して欲しい。
もはや忘却の彼方にある「民主主義ってなんだ!?」「これだ!」なんて語られてたけど、あんなのは民主主義とは言わないんじゃないかと思う。
既存のイデオロギーがあってそこに邁進していくんでもなくて多数決をするんでもない。
多種多様な生き方をしている人たちの声を聞いて、さまざまな問題を語り合って共に解決していくものなんじゃないのかな。
もちろん複雑化していくのは火を見るよりも明らかだけど、日本死ね!って感じて諦めたくねーんだわ、私はね。
そもそも何かに対して「死ね」だなんて良くも簡単に言えたもんだなとは思うけどね、私は口は悪いとは思っているけど「死ね」みたいな言葉は使わないように心がけている。
チラシの裏書きみたいなものだから、本当に散文的なものになってるんだけど、常々思うことを書いて筆を降ろしたいと思う。
日本が悪い、社会が悪いみたいなこというけどさ、そういう人たちは何と戦ってんだろね。
追記その3::(4月12日18時くらい)
チラシの裏2枚目。
色々な声が聞けるインターネッツってやっぱり素晴らしいな、と思ってる。
ブコメを読むと「すっごい頭がキレッキレ(いい意味で)な人で弟子入りしたい!」と思うものもあれば「何ちょっとこの人文盲?」って思うものもある。
そして何より感動しているのは「共存」かそういう類のキーワードを挙げている人がいること。そうなんだよ、それなんだよ、これからの時代って、と個人的に思ってる。
いずれにしても、どのブコメを読んでも個人の素晴らしい意見で、何かこう勝手にカタルシスのようなものを感じちゃってる。
ちなみに増田個人の見解として「こうしたらいいんじゃね?」みたいのは、少しだけ提示したつもり。
もちろん個人の見解(防音対策)はかなりの片手落ち、どころか飛車角を落とした感じ、あるいはキングのいないチェスみたいな(適当)
だから頭をこねくり回して考えてみたけど、これから述べるところの要約を先に言えば「私個人としての結論はない」これが答えだ。
「は?」かもしれないけれど、ソリューションへの道は集積が第一であって一人の意見に可否を付けることじゃないと思うし(震え声
まず、引っ越した先に保育園があるのと、住んでいたところに保育園ができるのとでは意味が異なる。
極端な例を出せば、基地の隣に引っ越したのか、それとも住んでいたところに基地ができるのかでは意味が異なる。
間違いなく別の観点から斬りかかってくる(例えば命の危機だとか何とかね)人がいるけれど、こういう極端な例を出さなきゃ分からない人がいるからこそ、あえて極端な例をあげてみた。
さて、既存の保育園の近隣に引っ越すということは、そういう騒音リスクも承知でなければならない。
決して安い金で引っ越すわけじゃないんだから、徹底的にリサーチが必要だ。
「やっぱり土いじりしたいっすw」ということで一階の部屋を選択し、気晴らし程度の目隠しと1mくらいの道路とフェンス一枚を隔てた向こう側が保育園だった。
演奏会の練習を夏に窓を開け放してやってくれるもんだから、夜勤明けなんて寝てらんない。
ちなみに飛行場関係では、勤務地から歩いていける方がいいじゃん!ってことで岐阜県のK市に航空自衛隊の側に部屋を借りて失敗した。
この失敗は、その町にある既存の施設がどのようなメリットとデメリットがあるのかを考えなかった、単なるリサーチ不足だ。
これに関しては、移住者である私が悪い。そこを選択したのは私だ。保育園が迷惑なんじゃない、基地が迷惑なんじゃない、自分から迷惑に飛び込んで自分から苦しむ一番ダメなパターン。
既存の保育園が足りないというのであれば新設するか、あるいは増床するかという選択になると思う。
今回の開園中止なんてのは新設するパターンだったわけで、上述した既存の保育園とは問題の質が異なる。
新設の場合は、そういうリスクを避けていた人たちに影響が及ぶ。
だから新設するのであれば説明しなくてはならないと思う(問題は賃貸に住む住民にそういう説明があるのか否かというところだけど、個人的な経験がないからどうなの?聞かせて!)
防音設備をしっかりするだとか、お迎えようの駐車場をしっかり設けるだとか、リスクを避けていた人たちがそのリスクを許容できる話をしなきゃいけないと思う。
どうでもいいよって人もいれば、敢えて保育園のない場所を選んだ人もいる可能性はなくはないからね。
こういう話をすると、いろんな考えの人が居て収拾のつかないような議論が続くっていう人もいる。
だけど、それが不毛なやりとりだなんて思わない。
自分の主張をせずに黙り込んで、いかなる困難にも耐え忍んでいくのが美徳なんだろうか。
不毛なやりとりに見えても、実はそこに斬新なアイデアがでるかもしれない。
脱線しちゃったけど、保育園を新たに開園するのであれば、その立地を選んだ条件、なぜそこでなければならなかったのか、という説明はしかるべき事だと思う。
例えば、山の中に大きな保育園を作ってバスで送迎なんて手段もできないことはないだろう。可能性という意味ではね。
経営主体が「私」、つまり利益を出さなくちゃいけない、しかも公益に供するわけだから半端な経営計画が起因して倒産して公益に損害を与えてはいけない。
そういう諸条件を吟味して「ここ!」という選択が行われるとは思うわけだけど、公共の福祉のために個人の幸福が犠牲になるってのは、いささか頂けない。
もちろんこれが国であれば、そりゃもう判例だとか出ちゃってるから「ぐぬぬ」と飲まざるを得ないこともある。
法律を作ってるのは国会だけど、その構成員は日本国民の代表であるから日本人の意思として決めた法律だ。
それに反するというのは、自分で約束したことを自分で「そんなこと言ってねーし」と言うような、無責任な人だと思う。
だけど、保育園の経営主体が「私」となれば、私人が私人の幸福追求を阻害していいのかって話にもならざるを得ないだろう。
「じゃあどうすんの?」って声が上がるのは当然で、一人で考えるよりも三人で文殊の知恵、十人なら聖徳太子やぞ!ということで、いろいろな声を発するのが大切だと思う。
それらを拾って吟味するのが、我らが国民の代表たる政治家!!だと思うんですけどねー。
裏を返せば国民の意識が政治家として表れてるだけでしょうから、政治家がう○こなら、国民もう○こなんです。
はい、私もう○こです。生きて腸に届きすぎた感じの時のう○こです。
「う○こは臭い」と当然のことを指摘して、何かを言ったつもりになったっていいじゃない。何も言わないよりはね。
当然なことかもしれないけれど、その当然なことすら声として発しないと耳を傾けて聞けない人がたくさんいるんだ。
わけ分かんなくなったかもしれないけど、既に述べたように「私の結論はない」からご寛恕ください。
海外の状況ってどうなの?っていうのは、個人的にはブラジルでの経験しかないから「海外」とひとくくりにはできないけど、すくなくとも甲高い「奇声」をあげることはなかったように記憶している。
ただそれは、たまーに迎えにいった時の状況であって、常にそうなのかは知らない。
海外での経験がなくったて、Youtubeでnursery schoolとか何とか、そういう言葉で検索してみると海外の保育園の姿が少しは分かるんじゃないかと思う。
そういうところからも学ぶところはたくさんあると思う。
ところで、どっかの昔の首相がベンサムの最大多数の最大幸福なんて言ってたけど、こんなの私はクソだと思う。
問題をすごく簡素にしてしまうから誤解の嫌いは免れないだろうけど、1億人のうち5001万人が幸せな道であれば4999万人は不幸でもいいのかな?
もちろん1か0かの二項対立で考えるべき言葉じゃないのは分かってんだけど、こうやって簡素化しないと考えられない人っているじゃない?
それでもいいって主張する多くの人は、自分がその最大多数に入れると思ってて、案外4999万人の1人になっちゃうタイプ。
今の格差社会って最大多数の最大幸福で例を挙げた5001万人と4999万人って感じになっちゃってると思わない?
最大多数の幸福のためならば少数派の幸福は侵害してもしかたないんだからね。
おわり。
ゲーム好きが多そうなインターネット関連の仕事をしているが、社会人になってからは自分ではほとんどテレビゲームには触れていない。今となっては、子供たちがたまに遊んでいるのを眺める程度のものだ。
そんな俺だけど、最近、ひどいソシャゲ課金問題がニュースになったり、実況動画のユーチューバーに扇動されるキッズたちがそんなゲームにハマっていたり、息子の3DSを発狂して叩き割るヴァイオリニストがいたり、そういうニュースを見て大人が眉を顰めていたりするのを見て、そういうのはものづくりとしてなんか残念だなぁって思い、ふと思い立ってこれを書いている。
俺は本当は元々ゲームが大好きだった。どうしようもなく好きだった。たぶんここでマニアを名乗れるほどでは無いけれど、ファミコン世代ど真ん中で、小学生時代は任天堂に憧れ、ファミコンとディスクシステムに埋もれて育った。反抗期はメガドライブで道を踏み外し、幾多の良ゲークソゲーにまみれてサターンで遊んだ(結局スーファミもプレステも持ってたけど)。この世代によくいるエンジニアの例に漏れず、ゲーム好きをこじらせた結果、IT関連の仕事に進んだ。
社会人になってからは大好きなゲームで遊ぶ機会は徐々に減り、いつしかまったく触れることも無くなった。
興味が無かったわけじゃないけれど、ネットとWebとコミュニティ関連の仕事をしていたら、やたら忙しくて使える時間は限られたものになり、そのうち自分の家庭を持つようになり、結果として一見何も生産されない(ように感じる)ゲームにひとりで貴重な時間を費やすのは勿体無いと割りきって考えるようになったのだ。
仕事でもプライベートでも、どうせディスプレイに向かうのなら何か成果物を残せるか、実際に人との繋がりを作れる仕組みに力を入れようと考えるようになった。それはクラシックなホームページだったりECサイトだったり、ブログだったりSNSだったりしたのだけれど、いずれにしても「俺たちのインターネット」は今までと違う新しい世界を作るんだ、という気概のようなものを勝手に持っていたような気がする。つまり、ゲームを作る側でも無い普通の人間にとって、「ゲームで遊ぶ」という行為はクリエイティブな行動とは考えなかったのだと思う。
そのうち自分の子も大きくなり、人並みにDSやWiiで遊ぶようになった。
でも、うちの子たちがそこまでゲームに熱中しているほうでもなく、妻がゲーム嫌いなこともあって、それほど家庭の中でゲームが話題になることはなかった。俺自身もWiiを見たときに、すごいユーザフレンドリーで簡単に遊べて任天堂はすごいなーって思ったり、子供たちとちょっと遊んだスマブラが面白いなーと感じたりしたことはあったけれど、基本的には世代を超えてマリオに親しむ子供たちの姿を見て微笑ましく思ったり、良い物は良いねって言ってみたり、つまりは親として、第三者的な感想を述べるという以上に自分自身がのめり込むような体験が再来するようなことはなく、ああ、やっぱり自分が少年の頃感じたあの感動や興奮は、あの時期特有のものだったんだろうなあ、子供たちが今のゲームに同じように感じることはあったとしても、自分自身がもう一度あの感覚を体験することは無いんだろうなあ、などと悟ったようなことをちょっと寂しく勝手に考えていた。
我が家はそんな、ゲームにそれほど熱くなっていない一家なので、最新のゲーム機やゲームがすぐ家にやってくるというようなこともなく、WiiUも発売から3年経ってようやく我が家にやってきた。息子のクリスマスプレゼントということで、義母が買って送ってくれたのだ。正直随分とリッチなクリスマスプレゼントだと思う。
その半年ほど前、なんかイカがインクを塗るゲームが発売されて話題になっているということは知っていた。俺はホッテントリにそのゲームがしばしば上がるのを面白そうだなーと思いながら眺めていたし、息子もそれが欲しかったのだろうということはなんとなくわかった。
かくして、流行から半年ちょっと遅れて我が家にもWiiUとイカのゲームがやってきたのである。
すっかりゲームに興味が薄れてしまったおやじである俺は、息子が喜び勇んでイカのゲームで遊ぶのを温かい目で後で眺めていた。とても面白そうだった。
一台のWiiUでは基本的にはひとりずつしか遊べないので、パパにやらせろよと言うでもなく、オシャレでいいなこれ、っていう程度のことを思っていた。
その穏やかな認識が一変するのは、その一週間後の大晦日のことだった。
12月31日、仕事やら親戚の都合やらなんやらで予定が合わず、年越しは妻と子供たちだけが実家に帰り、俺はひとり寂しく自宅に帰って新年を迎えることになった。やり残した掃除を済ませて一息つき、ひとりで年末番組を見る気にもならずビールを飲んでだらだらしていたが、すぐ退屈になってしまった。そこで、なんとなく一週間前にやってきたWiiUの電源を入れ、自分のIDを登録して息子が遊んでいるイカのゲームをやってみたのだ。
ほうほうどれどれ、操作は複雑そうだが簡単に覚えられそうだ、とりあえずバトルに参加してみるか、しかしこれ音楽カッケーな、と……
かくしてイカを操作し始めた俺は、すぐにとんでもない衝撃を受けることになる。なんせ、俺はゲーム体験の歴史が軽く15年は飛んでいる老帰還兵なのだ。
操作に慣れるまでのタイムは僅か0.05秒にすぎない、とまではイカないが、少なくとも開始30秒後には俺はなんかすごいものに触っているぞという気になりはじめ、思った方向に画面が動き、自分が向いた方に画面が回り、目の前の画面に映るイカが自分と一体化した気分になり、それを気持ちいいと感じるまでに実に1分もかからなかった。大げさでなく、これはすごいことだ。ものすごいUIだ。
正直、まるでダイナモローラーで全力でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
なんだこれは。
気持ち良すぎる。楽しすぎる。
気が付くと、がむしゃらにわけもわからずインクを塗っているだけであっという間に1ゲーム終わっていた。
一体、なんなんだこれは……!!
3戦、4戦と繰り返しあっという間に30分くらい過ぎてしまった。
なんだか涙が出てきた。ていうか、恥ずかしいことにおっさんの俺はひとりでゲームをやりながらボロボロと涙が止まらなくなってしまった。
別に、大晦日にひとりでゲームをやっていたのが虚しくて涙が出てきたわけじゃなかった。自由に軽快に動くイカのキャラを見て、夢中で空間を走り回っていたら、子供の頃、家にやってきたファミコンで初めてスーパーマリオを動かしてまるで自分の思いのままにマリオが走ったときの感動や、自分のお年玉を貯めて買った発売されたてのメガドラで似非3Dのスペハリ2がぬるぬる動くところを見たときのことや、ゲーセンで「自分の思うままに3D対戦できるゲームが現実になるなんて!」とバーチャロンに100円玉を積んだ思い出なんかが次々蘇ってきた。
とんでもないものを作る人がいる。
そうだ、楽しいゲームをプレイしたときの体験と感動っていうのはこういうものだ。ありがとう、それを思い出したし、世界は過去より進化している。
かつて夢に見た未来がここにある、そんなことを思った。
だって、フィールドを思い通りに走り回り、リアルな人間同士がスポーツのように対戦でき、公平で、平等で、みんなが活躍できる。
去年の5月から遊んでいる人達にとっては超今さらな話なんだと思うけど、これってとんでもないデザインじゃなイカ。
良かった、どうやら俺が枯れてしまったわけではなかったようだ。だって、ゲームで遊んで猛烈に感動したもの。良い物は良い、ていうのはこういうことを言うんだろう。
気が付くと、外は元旦の日が昇っていた。
信じられないことに、どハマりしすぎて正月になってしまったのだ。その時にはその日フク屋にあったギアは全部買い、その時持っていたギアの中で一番イカす組み合わせをコーディネートする程度にはインクの沼に溺れきっていた。ちょっと妻と子供たちには言えないが、ひどい年明けだけどどうしてなかなか気持ち良かった。
すさまじいゲームバランスと運営で成り立っている世界だ。幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦のスナイパーみたいなマニアと、たかしくん5歳(推定)やさくらちゃん4歳(推定)が同じ世界の上で楽しくワイワイとインクを塗って遊んでいるのだ。よくできたレベルごとのマッチングもあるにせよ、殺イカ鬼みたいなプレーヤーが前線で戦っている後方で、たかしくん5歳(推定)がコロコロとローラーでインクを塗って喜んでいるフィールド。みんなそれぞれ楽しい世界だ。任天堂だからできるっていうことはあるにせよ、ゲームで楽しませるんだ、新しい世界を見せるんだという思いがビシバシと伝わってくる。ガチャですり減るばかりのソシャゲのようなものとは本質的に違う。すごいゲームを作るものだと感心しながら家族の待つ実家に向かった。1月1日、俺の頭の中はカラフルなインクでいっぱいで、なぜだか不思議とクリエイティブな気分だった。
ところで、上の方にインターネットに関わる仕事をしていると書いたけど、もはや「俺たちのインターネット」的なコミュニケーションに特別な思いを抱く時代では無いんだなあ、っていうことを改めてしみじみと思った。
普段、仕事でわりと年配の方も使うWebサービスに関わっているんだけど、残念ながら2016年現在の今なお、インターネットを特別なもの、得体の知れない不穏なものと敬遠する層があり、そういう世界がある。世代間ギャップだけの問題だけではなく、サービスの内容にもよって向き不向きもある。流通業なんかだと、いまだに「リアル対ネットの戦い」だとか、「紙媒体とWebメディアの二項対立」なんていうものがあり、「オムニチャネル」なんていう言葉が持て囃されたりする。
仕方ないんだけど相変わらず、クラシックな層に対して「インターネットの普及」を懸命にやらなければならなかったりする(だいたいインフラの話とアプリケーションの話がごっちゃになっている)。正直ウンザリすることもあるけれど、それが現実だと受け止めている。
しかし一方で、イカのゲームで遊ぶ子供たちを見てつくづく考えさせられるのは、もはやこの世界で成長して大人になっていく今の子供たちにとってはインターネットがそこにあるかどうかなんてことは考えることすら無いし、我々が90年代後半から00年台にかけて見てきたような「俺たちのインターネット」としてネットの場を特別視するようなことも無いのだ。彼らにとって、ネットは電気や水道と同じようにあたりまえにそこにあって、ゲームをやろうとスイッチを入れれば、仲間や対戦相手が生身の人間であることがあたりまえなのだ。
既に、テレビゲームで遊んでいてそれがリアルかバーチャルかなんていう議論ももうあまり意味が無いんだろうなあ。それはバーチャルな場を使用したリアルであって、線引き自体がよくわからない。近い将来親になる世代に対してはネットは「普及」するものですらなく、このコミュニケーションがスタート地点ですらある世界がいよいよ本当にやってくるのだ。
思うがままに書いたけど、たぶん、ずっとゲームをやり続けてきた人から見たら何年も前から当然のようなことなのかもしれないね。
対人で対戦できるFPSやTPSだって、オンラインのRPGだって20年くらい前にはあったし、上に書いたようなネットゲーム体験はそれからずっと培われてきた技術によって成り立っているんだろうなって思った。
でも、そうやって新しい物好きやマニアの層が開拓してきた技術や経験がいよいよ一般層にまで展開されて、子供たちが何も考えずにその世界の上で育っていくという現実に、なんだかもううかうかしてられない危機感と楽しみみたいなものを感じずにはいられない今日この頃。
少々長いタイトルで申し訳ない。パリのテロを受け、できるだけ多くの人に考えてもらいたいことがあり、要素を詰め込んでしまった結果である。下記では、冷静な文章が残せるように努めたい。また、IDをつい1時間前に取得したばかりのはてな新参者であるため、慣例のようなものをスルーしてしまっていたら何卒ご容赦願いたい。
つくづくFacebook社は行動が早い。 LGBTへの支持を表明するレインボーと同じように、今回のテロへの哀悼を示すトリコロールへプロフィール写真を手軽に変更できる機能がリリースされた。
ユーザーは続々と自らのプロフィール写真をトリコロールに変え、一方でそうしないユーザーはそれに対して続々とアイロニーを寄せている。自分の観測範囲内だと、「どうせ何も考えてないんだろ?」「お気軽すぎるんだよな」「で、その写真はいつ元に戻すの?」「承認欲求も大概にしろ」などなど。
レインボーブームのときから、自分はそれを「冷笑主義」と呼んでいる。これについて掘り下げればキリがないから簡潔に済ますが、「何かをする人」と「それをバカにする人」の二項対立になってしまった日本社会の象徴のような光景だと思う。「何かをする人」を下に見て、その背景や動機に何があるかを考えようとせず、一様に冷笑する行為が蔓延しているのである。
このようなソーシャルムーブメントに対する「冷笑主義」について、自分は「いい加減にしてくれよ」と思ってしまう。民主主義というのは、いつもこういう未熟なところから発展するものなのではないだろうか?小さな波が世論となり、それが政治を動かす光景を、われわれは何度も見てきたはずだ。むやみにアイロニーを飛ばすことは、民主主義の停滞につながるとさえ思う。
そもそも、SNS上でアイロニーを飛ばしたって、なんのプラスにもならないのではないか。「憎しみの連鎖を断ち切らなきゃ」とは、プリキュアも名言を生んだものである(聞きかじりゆえ、諸兄には何卒ご容赦願いたい)。
自分は前述したとおり、このようなソーシャルムーブメントには賛成の立場をとる。これだけ冷笑主義が満ち溢れている時代に、アクションを起こした人の勇気はけなされるものでは決してないと思う。
ただ、レインボーとトリコロールについては、分けて考えなければならない。レインボーを表明することは、すべての人の幸せにつながる(「傷つく人がいない」といった表現は控えるが、つまるところそうだと思う)。しかし、トリコロールを掲げることで傷つく人は、世界中にいるからだ。
下記のツイートを見てほしい。
@SaeedSato
「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います。」 シリア出身UAE在住の女性アナウンサー
つまりは、こういうことなのだ。イラクやシリアで「100人が亡くなる」といった悲惨な出来事が、この1年に何回起きたか。そしてなぜ、それらの国の国旗がFacebook上でプロフィール写真にならないのか(Facebookがアメリカのサービスであることをおいておいても)。なぜ、「#prayforsyria」や「#prayforiraq」がTwitter上でトレンドに入らないのか。
自分自身も今回テロについて調べるなかで、アフガニスタンやパキスタン、ナイジェリアなどで多くの人が亡くなっていることをはじめて知った。無知を恥ずかしく、恐ろしく思った。
「Facebookのプロフィール写真をトリコロールにする」という行為は、個人の自由だ。一個人の「哀悼の示し方」についてアイロニーや批判を飛ばしたりしてはいけないと思う。加えて、先述したように、それは民主主義の問題にもつながる。
けれど自分には、そのアイコンが、欧米世界と中東世界の分断を深めているように思えてならないのだ。
今回の事件が発生してから24時間、(日本の)ネット上で主に見られた議論は「マス・メディアに対する不信や批判」。そして次の24時間は、先述した「トリコロールブームに対する違和感や批判」であった。
本当にそれでよいのだろうか。われわれが今、情報収集し、考え、話し合うべきことは、本当にそれでよいのだろうか。自分は、そうではないと思う。この事件の本質こそに、目を向けなくてはならない。
ー軍事力行使でテロが封じ込められたとしても、それは新たな憎しみと悲劇を生むだけではないのか。かといって、平和的な対話でテロが封じ込められるのか。
ー難民を受け入れた場合、欧州は政治的にも経済的にも混乱するだろう。それがテロの温床を生むとの意見も否定はできない。しかし、受け入れないという選択肢はさらに世界を混迷に陥れるだろうし、そもそもそれは「人間として」正しいのだろうか。そして日本は、どのように行動すればよいのだろうか。
ーオバマ大統領の演説にあった”the universal values that we share”、この”WE”とはいったい誰なのだろうか。
誰も正解は分からない。政治家や学者でさえも、正しい道を示すことができない。それについて考えることは難しい。自分も、上記のような問題について情報を集めれば集めるほど、考えれば考えるほど、絶望のようなものを覚える。
繰り返すが、今われわれが見つめるべきものは、「トリコロールブームへの批判」でもなく、「メディアへの批判」でもない(これについては長期的に考えるべき問題だ)。この事件の本質について考えるのが難しいからこそ、わかりやすい別の何かに怒りをぶつけたくなってしまうが、そこで諦めたり逃げたりしてはいけない。
そのことを伝えたいという想いで、キーボードを打っている。書きたいことは山程あるが、長くなっても意味がないので、このあたりで終わりにしたいと思う。とはいえもうずいぶん長くなってしまったが、このような長文駄文を最後までお読みいただいたことに心より感謝を申し上げる。ありがとうございます。浅学菲才な部分も多くお恥ずかしいが、その点はぜひご指摘をいただければ幸いである。
落第騎士の英雄譚の1話って客観的に(ここでは学園での評価軸)みた天才ステラと落第生黒鉄の話だと思うんだけど、ここでその対立軸を凡才ステラと天才黒鉄って二項対立に代えちゃってるのがあれ。実際は天才と称される実際は努力を重ねる秀才(あるいは凡人)ステラと、落第生と称される実際は努力を重ねる秀才黒鉄って対立軸でしょう。原作よんでないから知らんけど1話観てこれほど誤読して、かつ語れちゃうのかと感心するレベル。
そっくりそのままお返ししましょう。僕は確かに落第騎士をきっかけにあの記事を書いたが落第騎士以外の話もかなりしてるし、落第騎士だけの話という書き方もしていない。あなたの方こそこれほど誤読して語れるのかと私は感心する
だいたい、全く努力してない人間を探すほうが難しいんですよ。才能なんてものはその多くは家庭の事情(親と同じ属性を持ってたから親が寛大で突き抜けたり、幼い頃から高いす順にあったから努力の自覚がない程度のもの)であって、努力と呼ぶかはともかく、努力をしてない人間なんかいないんですよ
それを努力だと思ってやってる人間を努力家だの真面目系クズだのと呼び、努力せずに自然と秀でた人間を変わり者や面白い奴と呼ぶ。変わり者とか面白いが3つも4つも固まったところにあって何かを作り上げてしまうような人が天才なのである
とこんなことをあのブログを読んでも気づけないバカがラノベを文化だ、テンプレで何が悪いと居直るから「程度の低いご趣味ですね」としか言いたくなくなるわけです。大抵のものには妥協点を探す僕でもラノベのテンプレ大好きな人は「いいテンプレと悪いテンプレも判別しないバカが多すぎる」と言うわけ
生まれてきた途端から歩き出して、しゃべるお釈迦様みたいに本当に努力しないで一度で何かができちゃう人なんかそうそういないんですよ。そして、僕はブログを書く前にあれこれ考えてからそれを書いて、それが終わった時に面白い意見が出なかったら考え方をそれで固める。つまり終わった話なのだよ
基本的に作品の好き嫌いってその人間の好き嫌いと直結するから僕がテンプレみたいなラノベに歩み寄って「あーやっぱりダメか」と言ってることも不毛だし、そのファンが僕から見たらバカかカルトにしか見えないこともまた不毛な話でしかないんですけど…もういいや。
いやさ、最近のラノベよりも最近のラノベクラスタ(≠ラノベ読み)の方が重症だよ。昔の禁書のファンは禁書が否定された時に「まぁ、せやろな」ぐらいに言う度量というか謙虚さがあったけど、最近の禁書の廉価版コピーみたいなライトノベルの信者は話題になってほしそうにして「嫌なら見るな」だもん。
いや、ゲームの分野の方が明るいからかもしれないけど、ソシャゲーの方がまだ批判されてる割には希望ある気がしてきた。ラノベ読みが好きなあんまアニメ化されないラノベは僕も好きだけど、ラノベクラスタが好きな挿絵目当てで買うラノベは「だったら、四コマ萌えアニメかアニメオリジナルでええやん」
年々ファンが狂信化する辺りも萌えが宗教たるゆえんなのだろうが、人が集まることの大抵の動機と組織メカニズムは宗教と同じような道筋をたどる(濃く煮詰まって滅ぶか、浅くなってい形骸化して残る)からなぁ…
康芳英@y_yoshihide
≫y_yoshihide キモくて金のない男女は今でも救われてないが、シングルマザー支援が強化されると男性側はさらに救えないことになる(北欧でのデータあり)から文句言ってるって構図ですかねえ
康芳英@y_yoshihide
男性と女性という二項対立の中で男性は強者として扱われるけど、男性の皆が強者としてあるわけでもなくその中に社会的に弱者としてくくられる存在がいるというのに二項対立の中ではそれが無視されてしまうのが問題である、ならわかるんだけど、それがフェミニズムに丸投げされてお前ら対処しないとか言うのはちょっと理解できない。
≫y_yoshihide 女性が既婚のいい男と不倫してシングルマザーになるのは難しくないが、男性が既婚のいい女と不倫して子供だけ引き取ってシングルファザーになるのはかなり困難という非対称性が前提ですね。これは現実的に北欧を含む世界の観測データとして表れているので。
康芳英@y_yoshihide
社会的弱者の男性の問題はフェミニズムが原因なのか、みたいなところから考えてみればまあただのストレス発散としかうけとられないよねえ。
≫y_yoshihide
①社会的弱者の男性自体の生成理由はフェミニズムが原因ではない②フェミニズムの主張の一つであるシングルマザー支援は社会的弱者の男性をさらに痛めつける原因となる(実証データあり)、というだけでしょう。
康芳英@y_yoshihide
北欧の話持ち出されても「俺は女を獲得して子供作らせたいのに一部の男に女が集中するのは許せない」と言ってるようにしか見えない。
≫y_yoshihide いや、別に「全ての女性は平均以上の男を好む」(大まかな近似)というところまでは単なる事実であり、事実は事実だなと思いますよ。それを尊重して少子化対策(独身税)を加えると、事実上キモくて金のないおっさんは生かさず殺さず奴隷化して最後は野垂れ死ねという反人権的結果が得られ、全員の自由意思と人権を尊重すると少子化という結果が得られる、ということなわけで。
康芳英@y_yoshihide
≫y_yoshihide 出生動向基本調査とか読めば分かると思うけど、女性は結婚相手に求めるものとして収入が最上位に来るし、実際の未婚率調査でも男性の30代の収入と未婚率は強く反比例するよ。思ってるというか単なるデータ。
康芳英@y_yoshihide
≫y_yoshihide 徴税段階で独身重いですがな。ドイツあたりでは大雑把に年収の半分を税で持ってかれるが、被扶養者がいると3割くらいになる。というか自分はもともと税金と社会保障の側から入ってこの問題に接したのであって、フェミニズム・反フェミニズムから入ったわけではないんで。
康芳英@y_yoshihide
扶養者がいるよりも扶養者がいない方が金銭的な余裕はあるのどからそこから税金がとられるのはなんの不思議もないし、それを搾取何て言ってしまうのはあまりにも杜撰。
y_yoshihide 個々に見たら当然と思うことが結果的に弱者を痛めつけてるという話をしてるんですが……ついでに言うとドイツは独身なら平均収入の2/3でも5割持ってかれるが、平均的な子あり夫婦だと平均収入より上でも3割くらい。
≫y_yoshihide もう一度書くけど、女性は得てして結婚相手の選択基準に収入を置く+子育てのために独身税は当然=キモくて金のないおっさんは「当然のこととして」可処分所得を減らされてさらに結婚から遠のき、男性の二極分化が福祉経由で拡大していて、さすがにノルウェーの男女平等白書的な資料でも1ページ割かざるを得なくなった、という話なわけだが。
康芳英@y_yoshihide
あ、消せないからもう一度かきなおすけど、子あり夫婦よりも独身者が貧困であるって話じゃないでしょ。結婚しないと裕福に暮らせないから結婚しないとアウトというのはむしろ女性なのに。
≫y_yoshihide いまちゃっくり計算してきたけど、子供含めて一人当たり可処分所得を見たとき、税引き前年収3.5万EUR独身子なしと税引き前年収6万EUR夫婦子1人だと後者がやや多い程度になるかな。あくまで平均からの計算なんで具体的な額は向こうの税務の人に聞かないと分からんけど。
あ、上の数字は子供に対する再分配の政府支出含まないんで、税引き前年収3.5万EUR独身子なしと税引き前年収6万EUR夫婦子2人程度で子供含めた1人当たり可処分所得が均衡するくらいかと思う。