努力も環境によって影響を受ける行動の一つにすぎないのに、「環境か努力か」という二項対立を立てて主張をしている人がどういうレベルの視点で問題設定してるのかよくわからずとりあえず自分の考え方を書くのですが。
生物学などのレベルで言えば、おそらく「生まれか育ちか」つまり遺伝子か環境のどっちかもしくはその両方でのみ人間のすべての行動は決定されるわけで。
このレベルだと当然自己責任云々のような話は出てきようがないですし、物理学的にも自由意志とかないので責任などという概念は成り立たないのですが。
反対に「自分には自由意志がある」という自意識感覚を持った人間が集まって作った社会のレベル、要するに政治などのレベルで見ると、政策や法律などをどう設定するかという問題意識で「自己責任」「個人の努力」などの概念が出てくると思うのですが。
この場合そもそも社会が存在しないまっさらな状態だと生存権や所有権などというものも保障されるわけがないので、ある意味全てを自己責任と設定することも可能なわけで、どこからが自己責任かというラインは恣意的に設定されるものに過ぎないと思われます。
そうなると「〇〇は自己責任だ」という言明は意味を持たず「〇〇を自己責任に設定すると社会がこのようにうまくいく」のような言明しか意味も持たないはずです。
要するに「〇〇は自己責任だ、個人の努力の範囲だ」と「〇〇は環境のせいだ」という意見は視点のレベルの違いによって両立可能ですし、逆に同じ視点レベルで並び立つような単語じゃないはずなので二項対立で論じれる話じゃないと思うということです。