興行収入は遂に風立ちぬを越え、もう上にはジブリ映画しかいないという状況だそうだ。
それ故に、作品の情報はネットをやっていると否応なしに目につく。
ツイッターでは「もしかして」「入れ替わってる!?」のコピペが大量に作られ、
pixivやニコニコ静画など画像投稿サービスではイラストがひっきりなしに投稿されている。
演出に注目したものから制作体制、スタッフ登用など組織論なような話まで、数数多の記事が出ている。
事前に情報を触れてしまうことに抵抗がある人はなかなか大変だろうなぁ、と思う。
記事の名は、こちら
無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問
「興味深い見方だった」という肯定的なコメントがつけられていたことと、
サイト内ランキング1位(10月1日当時)に釣られて読んでみたものの、
いざ読んでみると、
「ふむふむ。」
「……ん?」
「はぁ!?何言ってるの?」
となってしまう、久々に猛烈に反論したい記事内容だった。自分「君の名は。」未視聴なのに!
そして、この気持ちをぶつけるところがなかなか見つからないため、
ここでひっそりと所感を書き連ねることにする。
この記事の主点はあくまで地方論であり、作者の主張はこうである。
特に後半。地方を暗く扱った作品は確かに探せば存在するだろうが、
戦後サブ・カルチャーの潮流として、地方への鬱屈や屈折の描写が常に存在していたかというと、そうは思えない。
片方で「地方賛美系のご当地アニメ」を取り上げ、批判しておきながら、
というか、自らが「地方の賛美・消費と並行して」と言っているのに、
戦後のアニメ・マンガの主流であるかのように扱うのかいかがなものだろうか。
アニメと地方を考えた論評は、この記事に限らず最近は非常に多い。
それに伴い、聖地巡礼やアニメによる町興しが注目されていること、
経済停滞や少子高齢化により地方のあり方の議論が盛んであること、
などが理由として考えられるだろう。
しかし、それらの論評で見過ごされていると見過ごされていることがある、と私は思っている。
それは「地方であれ、都会であれ、あくまで舞台は舞台」ということである。
細やかな小道具があり、大きな絡繰りがあり、巧みな照明効果や音響がある、
それらが充実しているか、特色だっているかは、作品の評価を左右する一要素かもしれない。
しかし、それはあくまで一要素であり、舞台の上で演者が動かない限り作品とはならないのが通常である。
地方である、都会である、ということは物語の展開に大きく絡む。
しかし、作品のメインテーマになるまで比重が高くなることはそこまで多くない。
ペルソナ4という作品を例に挙げよう。原作はゲームで、アニメ化されている作品である。
そこは大型総合スーパーが進出し、地元の商店街がその影響で衰退している。
主要人物の中には、周囲との軋轢が生じている総合スーパー店長の息子や
こう見ると、まさにこの作品は地方の屈折した部分を描いた作品である。
では、これは記事作者が主張する「地方の軽薄な理想化に一定の留保を付け加える」作品だろうか。
自分はそうは思わない。
ゲームプレー済・アニメ視聴済を知ってる人なら分かると思うが、
この作品、リア充ゲームと揶揄されることがあるくらい、終盤になると仲間の結束が固くなる。
主人公が転校してきてから去るまでの1年間で、彼らは忘れられない思い出を作り、心を強くする。
ならば、この作品は「地方暮らしもすばらしい」的な地方賛美の作品だろうか。
それも違うだろう。
つまり、地方都市の性質・描写は極めて重要な位置にあるのは確かだが、
舞台の基本設定であるが故に、物語の主題にまではなかなか上り詰めないことが多い。
その舞台で登場人物がどう動くか、どんな出来事に遭遇し、乗り越えるか、
そのような舞台設定以外の重要事項が大抵の作品には存在しているのである
(もちろん、舞台設定全押しのご当地振興系作品もないわけではないけども)。
また、舞台装置であるが故に、物語の展開に応じて描かれ方が変わる、ということも起きる。
良い出来事が起きればその背を押すように明るく描かれ、
良くない出来事が起きればその気持ちを代弁するかのように暗さが出るが舞台装置である。
そのため、後味が良いラストとなる作品ならば、当然その舞台の地域は後味よく描かれることになる。
そして、娯楽作品である以上、漫画・アニメで後味が良いラストと後味が悪いラスト、
これに加え、
「人間、そう簡単に地元から移動しない。両親に頼るところが大きい高校生以下ならばなおさら」
ということも多くの場合、見過ごされていると感じる。
高校生以下の場合、特段な理由がなければ通学範囲+αが彼らの行動範囲となる。
背景が実在の場所に忠実で、聖地巡礼が盛んに行われる作品の中で、
一番舞台が全国に分散している作品として、私は咲が思いつくが、
それは、「全国大会に各地から集まってきた女子高生」を描いているからであり、
・身内の都合です(転校など)
・突然ワープしてました
これらのような特段の理由がなければ、登場人物はなかなか生活圏から離れて動かない。
だからそこ余計に、舞台の明るさ・暗さは展開の明るさ・暗さに密接にかかわる。
描かれる街が単一の都市圏に絞られるのだから、バッドエンドを目指してない限り、
舞台となる地方は物語の展開に連動して明るくに描かれるのである。
そこに舞台となる町が素晴らしい、というメッセージが入るかどうかは作品それぞれだが、
舞台である=描かれた地方は作品の重大なテーマである、という構図は
必ずしも成り立たないと思うのである。
この記事に対して気になるところがもう一つある。
というよりも、先述した結論としての主張や「君の名は。」の分析よりも
東京が揺らがなかったことへの不満、
そういう東京が良く描かれていることへの不満が文章の端々から漏れている。
「東京に隕石が落ちて壊滅することを期待してしまった」までくるともはや怨恨の類すら感じる。
この観点において、もっとも瑕疵があると思えるのは3ページ目のこの部分である。
物語をあくまで散文的に見直せば、『君の名は。』は、故郷のない男と、故郷を失った女が、東京で故郷の幻想と特別な異性を妄想する話といえるのかもしれない。
これはもう、誤読していると扱ってしまっていいのではないだろうか。
それに付随した人間関係や馴染みの店もある。
高度経済成長期に断絶しているという最も日の浅い解釈をしても40年の歴史がある。
当然、そこで生まれ、育ち、その場所に愛着を持っている人が存在する訳であり、
というよりも、この作品は地方と東京の対比が大きな要素でもあるのだから、
人間関係や行動範囲があるからこそ成立している作品だと思うのだけれども……。
もしテロや地震があり、瀧自身や近い関係の人物に危害があったら、
きっと、瀧も三葉もお互い逆の立場で必死に動くと思うのだが、いかがだろうか。
規模が小さい、独自性があるなどの性質から、創作の世界において、
物語を進めるための非現実的な設定を地方が押し付けられる傾向が強いということは事実である。
パロディに満ちた謎の施設や人物がやりたい放題するTRICKのような作品は極端だとしても、
地方賛美という面ではこれ以上に多くの意見が出たサマー・ウォーズなど、
悪い言い方をすると、ご都合的に地方が歪められて描かれることは多々ある。
地方を味方する立場で活動を行っている人からすれば、良い思いはしないだろうし、
作品に反映するかどうかは別にして、そのような不満があることは受け止めるべきである。
しかし、それを受け止めるのは制作サイドであり、東京ではない。
そのような設定を組んだのは新海氏、堤氏、細田氏であり、東京が作ったわけではない。
批判の向きは新海氏、堤氏、細田氏、もしくは各委員会、はたまたワーナー、テレビ朝日、東宝に対して
向かうべきであり、東京に矛先を向けるのは間違っているだろう。
地方を「消費」可能な商品に仕立てているのは、(所在は大都市かもしれないが)
作者および制作組織であり、大都市そのものでは決してないのである。
地方と大都市という二項対立は、研究においても創作においても非常に分かりやすいしよく使われる。
しかし、本記事のように地方の不満は全て大都市が起こしているものだ、
という構図にまで落としてしまうのは、単純化が過剰であるだろう。
不満の捌け口をほぼ全で大都市東京に向けている所が、非常に鼻につく記事であった。