はてなキーワード: 二項対立とは
大学も卒業するタイミングで腐れ縁の友人と食事に行く機会があった。
友人は高校の同窓会幹事みたいな役割だったので、自然に同級生の話になり。
「そういえば、あいつ入籍するらしいよ」と、卒業後大阪に行ったやつの現況を知らされて驚いた。
まあ、遅かれ早かれ結婚するとは思っていたけれど、そいつがトップバッターになるとは思わなかったから。
高校時代の彼とは、出身がうちの親の集落ということもあって仲が良かった。
顔立ちは整っており、特進クラスの中でも物理が得意で、落伍者の自分は度々お世話になったこともある。
一方で現役時代は柔道に明け暮れていて浮いた話はあまり聞かなかったはず。
そんな彼が今や入籍とは、時間が経ったものだなぁ、と二人で感慨深げになっていた。
それがトリガーというか。
思い返せば同級生にもいろんなやつがいたなぁと懐かしく思っていた。
東大の前期に落ちたはずなのに後期に受かった化け物みたいなやつ。
Jリーグで今も選手としてサッカー続けているやつ。競輪選手で若手のホープになってるやつ。
アイドルグループに入ったやつもいれば、記者になってあちこち飛び回ってるやつもいる。
小説家になったやつ、教師の首を絞める喧嘩をしたやつ、バイクで事故って成人式前に死んだやつ。
自殺未遂を引き起こした奴、アカデミックを目指して進学するやつ……本当に千差万別というか、個性的な奴らばっかりだったと思う。
目の前で炒飯を掻っ込む腐れ縁の友人だって春から県庁勤めが決まっているので、こいつも凄いやつの一人ではあるけれど。
そうやって同年代の、同地域にいたやつらと自分を比較していくと、自分がぼんくらで何もない、虚無感に苛まれる。
良かれ悪かれ、何かを成し遂げ、自分の人生を歩いている奴らにあまりにも多くて。
たかだか修士のペーペーには、そいつらの歩く道はまぶしすぎるし、到底辿り着けない道なんだろうな、と諦観が生まれている。
価値観の定義は「何に価値があると認めるかに関する考え方」らしいのだけど、価値観という判断基準ほどわかりにくいものはないかもしれないということを思う。
相手が自分の望み通りに動いてくれたら「価値観が合う」といい、相手が自分の望み通りに動いてくれなかったら「価値観が合わない」ということになるのだろうか。 もし価値観がそのようなものであると断定した場合、価値観というものは「利害の一致」と言い換えることもできる。
だが、それだと少し違うような気もする。 利害が一致せずとも、好きなものが一緒であるとか、同じ感覚を抱いたというときには「価値観が合う」という場合もあるからだ。
たとえば演劇や映画などを鑑賞したときに、この演出やシーンがよかったとお互いに合意が取れた場合、「価値観が合うね」と言い合うことがある。 ただ、同じものを見たときに違う印象を持った場合には、それについて「価値観が合わない」とはなかなか言わず「そのような捉え方もあるのだ」とむしろ合点する場合さえある。
つまり、当人だけでは気づいていない捉え方を指摘されたとき「価値観が合わない」とは言わず「新しい着眼点だ」として、その内容を受容するような状況がしばしば発生するのである。
もっとマクロに捉えてみて、もし2人が同じ状況を指向している状態であれば、価値観が合うとみなすことが可能なのだろうかということについても考えてみる。 例として、海が好きな人と山が好きな人の存在を仮定する。はたして、この人たちは価値観が合うのだろうか。
もし自然という切り口からこの関係にアプローチをする場合、この2人は「自然が好き」という共通項でくくることができる。 だが、それだからといって、直ちに「価値観が合う」と断定することはできないだろう。
自然が好きという共通項が存在していたとしても、山と海という二項対立の関係で両者の関係を分析した場合、この2人はお互いに対立したものが好きなのだと見なすこともできるからだ。 そのため、同様の関係ながらも「価値観が合わない」と判断を下すことも可能であるからだ。
こうした問いを繰り返していくと、価値観というものは、その時の自分の気持ちに大きく依存するものなのかもしれないとさえ思えてくる。
自分の想定する通りに相手が動いてくれなかったらといって「価値観が合わない」と安易に判断を下せるわけでもないし、自分が想像できない状態を相手が保持していることを「価値観が合わない」というわけでもなければ、共通項がないからと言って必ずしも「価値観が合わない」ということができるわけでもない。
となると、私が日常的にふと思う「価値観が合った」と思える瞬間は一体何なのだろうという疑問もまた湧いてきて、最初の問いに改めて戻るのである。
絵描きとしてデザイン、イラスト、漫画など様々な業種に携わってきた身で、これは重要だと感じること
・自分の代わりはいくらでもいるが、クライアントと「今、ここ」を共有しているのは自分しかいない。縁は大事に。
・自分の実力など大したものではないが、だからこそ伸びる。自分に厳しくしすぎず、だが甘やかしてもいけない。
・注力すべき眼前の仕事と、中長期的に目指すビジョンを並立させる。中長期的なビジョンがなければ、ステップアップのチャンスを見逃し、ジリ貧になる。
SNSで世界中のクリエイターを総覧できるこの時代に、オンリーワンであり続けることは難しい。
代替可能でも、さほど重要でなくとも、自分はクリエイターをやっていていいのだ。
そういう靭やかで弾力性のある自己肯定感を持った(合理化がうまいとも言う)人が
なにを当たり前のことを、と思われるかもしれないが意外とこれが理解されていない。
自尊感情を拗らせて攻撃的になりクリエイターや業界の「べき」を論ったり
https://anond.hatelabo.jp/20180214020955
気持ちは分かるんだけど、双方議論がふわっとしている。それは、そこで言ってる「同性婚」が何を指すのか明らかになっていないからだ。
まずはっきりさせておきたいことは、「同性婚」が同性者間の婚姻契約を意味してるなら、現行法でもこれは禁止されていないし、法的拘束力もきちんと生じるということだ。
その理由は契約自由の原則(憲法13条)があるからだ。(なお憲法24条は同性者間の婚姻契約を禁止する趣旨ではない。)。
これは例えば、男性同士のカップルが、お互いに婚姻契約書を取り交わして婚姻契約を締結することは妨げられないということだ。実際にもこういう例は多くある(らしい)。
そして、その契約書に書かれた扶養義務や婚姻費用分担の定めは、きちんと法的拘束力が生じる。
禁止されていない以上、賛成も反対もないのであって、結婚したい奴はその意思に基づいて勝手にやってください、ということになる。
上記の点を踏まえると、「じゃあみんな何を議論して騒いでいるの?」ということになるが、みんなが議論している「同性婚」とは、民法第4編第2章が定める”婚姻”だ。
この場合、上述した当事者間の婚姻契約と異なり、お役所に届出が必要となる(民法739条1項)。
男性同士のカップルが婚姻届をお役所に届けたとしても、民法第4編第2章が定める”婚姻”は成立しないことになる。
結論から言えばその理由は、民法第4編第2章が定める”婚姻”に付属する効果(≒特典)が、徹頭徹尾、男女間の婚姻を念頭において制度設計されているからだ。
例えば所得税における配偶者控除、相続分、相続税、などなど、枚挙に暇がない。
民法第4編第2章が定める”婚姻”を同性者に対して認めるということは、これらの制度を同性者間のカップルを念頭において1個1個検討しなおす(そしてそれは膨大な量の立法作業になる)ということを意味する。
だからこれは「賛成か反対か」という大雑把な議論ではないのだ。効果の1つ1つについて議論を詰めていかないといけない問題なのだ。
じゃあどうすりゃ良いのよ、という問題になるが、理屈からいえば、「同性者間の婚姻についてどのような効果(特典)を認めていくべきか1個1個詰めていくべき」ということになる。具体的には、同性婚を望むLGBTに取材するなどして、議論の基礎となる資料をかき集める必要がある。
(ただここで問題になるのが、LGBTの人らが本当に同性婚を望んでいるのか?という点なのだが、客観的な資料があるわけでもないのでとりあえずこの点は措く。)
世の中の人間には「幹事体質」を持つ人と持たない人がいる。「幹事体質」は私の造語だが、読んで字のごとく「幹事」になりやすい性質のことである。
ONE PIECEの「覇王色の覇気」みたいなもので、幹事体質の人は子供の頃からずっと「幹事」とカテゴライズされる立場になり続ける運命にある。この説明を聞いて、陽キャと陰キャとか、リア充と非リア充とか、優等生と劣等生のようなスクールカースト上の二項対立を思い出す人がいるかもしれないが、そうではない。実際、オタク的なコミュニティにもヤンキー的なコミュニティにも、幹事体質の人は存在し、そのコミュニティの中での幹事的な役回りをしている。
幹事体質の人が集団の中で持つことになる役割は、人生の段階に置いてさまざまな形をとる。学級委員、部活の部長、サークルの幹事長、飲み会の幹事、町内会の役員……。あらゆる集団は幹事体質を必要としていると言っても過言ではない。幹事体質の人間は、時に集団の中心で皆をひっぱるリーダーのようであり、時に集団の中心から離れて面倒事を引き受ける雑用係のようである。
幹事体質に必要なスキルは特にない。皆の前に立つのが得意な人、人の話を聞くのに抵抗がない人、隅々までものごとを考え尽くすことができる人、豊かな文化的物質的資源を持つ人、それぞれが自らのスキルを活かして幹事の職を全うするので、個人の性格やスキルは「幹事体質」とほとんど関係ないと言っていいだろう。
ここまで聞いてピンとこない人はごめんなさい。きっと私の文章が稚拙であるか、周りの「幹事」たちに気づかない人生を送ってきたのだと思う。
こういう文章を書いていることからも察せられるように、私自身もさまざまな幹事をつとめてきたんだけどね。だからなんだって話なんですが。最近色々うまくいかないので文章書いてみたくなったんですよ
ここでは学問を、理系と文系の二項対立的に捉える、と仮定する。
科学技術がなければ豊かな生活が送れない、という理系の研究に比べて、文系はおろそかにされがちである。
法学や政治学は歴史上の経緯を学んだ上で国家という団体を統治するために必要な要素であり、
そのような魅力が理系・文系にあるにも関わらず、高校時代に数学が出来なかったからという理由だけで
他者から決められたルールに基づき、強制的に存在する学問の半分を切り捨てなければならないことは残念である。
また、数学をすることで鍛えられるとされる、論理的思考力は法学においても重要な要素の1つである。
にも関わらず、今の世の中は高校1年生の段階で"大人の都合"によって進路を半分に狭めることが求められる。
また、近頃文部科学省が言い出した「国公立大学の文系廃止論」が実施されると、ただでさえ半分に狭められた進路をより限定的にされる。
「プログラミングができる人材を育成する」「社会の現状を知る」だけの薄っぺらい知識は専門学校の範疇であると思う。
学問とは、先人たちが発見した知恵を生かして、社会を豊かにする方法を自ら提案することであるように感じる。
大学に通うことで今後の社会を豊かにする方法を自ら提案できる力を鍛えられるような大学が生き残り、
現状維持を目指すための人材育成は専門学校に任せるべきであると思う。
受験生は「この学問をすることで【現在存在する】この問題を解決し、それによって【将来的に】このようなことが解決されることが期待されるから
この大学の学部学科で学びたい」という意思のもと、大学を選び、成長されたい。
また、文部科学省は現状の考え方を改め、5年後の世の中がプラスに動くことも重要だが、それ以上に50年後の世の中に対してプラスに動く政策をとって欲しいところである。
簡単に言えば持ってる人/持ってない人の二項対立で描かれる映画なんだけど、その境界や定義っていうのがすごく曖昧で行き来する人が多いのが現実ぽいと思う。
ミュージカル映画としては素敵な映画だったけど、その一方で興行として人権侵害甚だしい見世物小屋としてのサーカスが人気を博していたことは考えなければならないことだと感じた。
バーナムは人の個性に囚われない、面白い人ならなんでもいい、という反差別派のように見えるけど、差別される側/する側で二項対立させたとき、バーナムは間違いなく差別する側なんだよね。
現実ではもっとペテン師、興行師としてクソ男だったと思うんだけど、そこを美化しすぎてる、というか観客にそう感じさせるストーリーになってると思った。現実の度合いと映画の度合いが違いすぎるのが気持ち悪かったな。
たぶんヒュージャックマン以外の全員に共感できるし、逆に言えばヒュージャックマンには全く共感できない。
この映画の根本的な価値観は人生の生きづらさ、満たされなさみたいなもだと思って、だからこそNever Enoughがすごく効果的だと感じた。まぁレベッカファーガソンのあの終わらせ方には全く納得できてないけど…
一度負った心の傷は完全に癒されることは全くなくて心のどこかに絶対残ってしまって、だからこそ何をしても満たされないし過度な成功を求めてしまうの、なんとなくわかるような気がした。
でも結局楽団の皆がヒュージャックマンに本当に怒りきれなかったのは彼の満たされなさをみんな理解してたからだと思う。
私も本当に信頼している人には何されても許してしまうだろうなっていう気持ちがあるんだけど、それに近い気がした。ただ、そう解釈するにはストーリーが不十分すぎると思ったし、This Is Meをバーナム(ヒュージャックマン)が見てない時点で、彼らのことをわかってあげる人はいないのかなと切なくなった。
もちろん、みんなでThis Is Meを歌うところは本当にかっこよくて痺れたけど。ただ、この歌を主題歌とするならもっとフリークスと呼ばれた劇団のみんなに焦点を当てて欲しかった。このストーリーなら主題歌The Greatest Showmanの方でよかったと思うよ。
あと、十分に説明されなかったところが多すぎて…一番謎だったの、りんごをくれたおばさんとの出会いなんだけど、あれは一体何を意味してるの??ヒュージャックマンが単なる差別主義者っていうことを明らかにさせただけだと思うんだけど…
あと、町の住民がなぜそこまでフリークスとサーカスを嫌ったのかが描かれてなさすぎて、理由もなく差別するほうを一方的に悪として描いていて、その反動でヒュージャックマンがいい人に見えるってだけでは…って思ったりもした。
あと、LALALANDと比較されがちだけど映画のテーマやモチーフが違うのにそんな簡単に比較できないでしょう…好みの問題でいえば私は完全にLALALAND派ですし。
ただ、似ている部分でいえば序盤の構成はやっぱりLALALANDとまったく同じだと思う。
特にAnother Day Of Sun~Someone In The Crowdの流れとThe Greatest Showman~Million Dreamsの流れはすごく似てると思った。観客の判断力を奪う圧倒的な歌唱力と演出はやっぱり素敵でした。
生後2週間ぐらいの、犬というよりは小熊みたいな子犬とその母親の動画。
子犬はしきりに猫パンチのような動作をするのだが、脚が短すぎるためまったくお母さんに届いていない。
肉体の不便さにもがくような様がおかしくて、自分でも驚くほど笑ってしまった。そういえば最近3秒間以上笑うことがなかった。
しばらくするとお母さんが自分の後ろ足を舐めるのでそれをみた子犬が真似しようとするのたが、体が短すぎるせいで足に舌が届かない。
それでも必死にお母さんの真似をしようとする。
ここで笑いを通り越して号泣してしまった。よく笑いすぎて涙が出ることはあるけど、あれとはまた質の違う、不透明な感情が水分を絞り出した。
それから色々試して、どうやら子犬、特に柴犬が動いている動画を観ると内容に関わらず意味不明になって泣き笑いしてしまうことがわかった。
なぜ柴犬が特に効くのかはわからないけど、造形や所作が自分の脳にピタリとはまったんだと思う。
そういえば人間の赤ちゃんが泣いているところもなんだか可笑しい。成熟していない肉体の枷が厭わしいのは心底同意できる。
周りのひとに話してもあまりわかってもらえないし、良いことなのか悪いことなのかもわからないのでとりあえず子犬の動画を観るのはやめた。
定型発達の人だったらコミュニケーションに問題ないでしょ、という前提からして雑なんですよね。
「世の中は発達障害の人と定型発達の人の2つに分けられる。前者はコミュニケーションに問題があり後者はコミュニケーションに問題がない」……世の中はそんなに単純ではありません。
他のコミュニケーションに問題が生じる疾患、例えば統合失調症も有病率は高いですし、社交不安障害も有病率は高いです。
極端なパーソナリティの偏りによりコミュニケーションを始めとして持続的に生活に支障をきたすパーソナリティ障害も有病率は非常に高いです。
精神疾患でなくとも、器質的障害によってコミュニケーションに困難を生じる場合だってあります。
発達障害当事者の方やその周辺の方々にしばしば見られる、「世の中は発達障害と定型発達の2つに分けられる」という二項対立的な世界感に私はどうしても抵抗感を覚えてしまうのですね。
発達障害であろうが定型発達であろうが他の精神疾患であろうが、お互いに尊重しあって生きていきましょうというのが理想であって、発達障害だけを特別視する必要性は薄いのではないかと私は考えています。
ですが当事者の方はなかなかそうは捉えにくいといのも分かります。
だからこそ、当事者の方々の声のみを鵜呑みにしてしまうと、バランスの取れた物事の見方ができなくなってしまう危険性があると私は危惧するのです。