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グレッグ・ガットフェルド:バド・ライトはインフルエンサーに頼るというばかげた決定を下した
Gutfeld は、Bud Light と Dylan Mulvaney のパートナーシップは「台無し」だったと言います
グレッグ・ガットフェルド グレッグ ・ガットフェルド | フォック
https://www.foxnews.com/opinion/greg-gutfeld-bud-light-made-idiotic-decision-rely-influencers
皆さん、ハッピーマンデー。したがって、アンハイザー・ブッシュは今すぐ飲み物と、ツガのようなバドライトよりも強い飲み物や、列車の脱線事故の近くの湧き水などのよりおいしいものを使用することができます. 同社は、ディラン・マルバニーの論争をきっかけに、大量のお金を失いました。彼らは、女性の顔をフィーチャーした最初の記念缶を私たちに与えました。売上げは、ポルノ劇場でのハンター・バイデンのズボンよりも速く急落している. そして、ケビン・スペイシーの寝泊まりキャンプよりも多くのボイコットが見られます. それは大丈夫。私がそう言ったのは大丈夫です。冗談です。しかし、私にはこれは間違っています。なぜなら、会社が失敗したときに大衆からメッセージを受け取るのは良いことだと思いますが、ボイコットは通常、生計を立てていた人々を傷つけるからです。
もちろん、左派は常に良いボイコットを好みます。なぜなら、彼らは自分たちよりも楽しんでいる人、つまりすべての人に報復を求めるからです。しかし、私たちは違います。私たちは楽しいです。Budweiser が教訓を学んだことをうれしく思います。他の企業が流行に流されないことを学ぶことを願っています。でも、それで十分ですよね?アンハイザー・ブッシュのブレンダン・ウィットワース最高経営責任者(CEO)は、 「アメリカに対する私たちの責任」という声明を発表しました。「165年以上前にアメリカの中心地で設立された会社のCEOとして、私はすべての消費者が私たちが醸造したビールを誇りに思うようにする責任があります.私たちはこの国の構造の一部であることを光栄に思っています.」
ええ、それが、ほとんどの消費者が一度に 8 ~ 10 個のバッドを飲む理由です。アメリカの誇りを感じるためです。実は違う。それは、娘のローラが今はラリーだと発表したとき、拍手喝采をしなかったことで彼らを国内テロリストと呼ぶナッツバッグ大統領によって運営されている国で、給料から給料への生活の苦痛を麻痺させるためです. 私たちはアメリカ人だから飲むのではありません。私たちが飲むのは、アメリカを失っているからです。話は続きますが、まとめます。1) バドワイザーはビールをたくさん作ります。2) ブレンダン・ウィットワースは海兵隊にいて、彼にとって良い人でした。3) アメリカ。Pete Hegseth のポケットチーフの 1 つからより良い PR ステートメントを得ることができます.
でも大丈夫です。同社はまた、大失敗に対応して新しい広告を出しました。アメリカの中心に根ざし、挑戦にチャンスと明日への希望を見いだした人たちのために醸造されたビールだと彼らが言わないことを願っています.
私はほとんど缶を私のa **に押し込みたいと思っています。ともかく。つまり、なぜそんなことを言ったのかわからない。私が愛国心を感じると、それが起こるようです。とにかく、彼らがクライズデールを使ってくれてうれしい、彼らが代名詞を求めない限り。彼らにドラッグ クイーンのストーリー アワーをやらせるのは十分に悪いことです。そうです、これは大失敗でした。しかし、それは本当にオンですか、バッド? 私はそうは思わない。それは私たちの文化にあると思います。実際の能力よりもパフォーマンス ドラマを高める文化です。そして、それはどこにでもあります。私たちは物事をしません。私たちは物事をするふりをします。あなたが消防士を演じる俳優になれるのに、誰が消防士になりたいですか? したがって、問題はトランスではありません。その問題がどれだけ私たちに押し付けられていても。結局のところ、私たちは何年にもわたって多くのトランスジェンダーの人々を見てきました. 地獄、私も雇った。ええ、私もそうかもしれません。それが彼女の新しい本の第二章です。
代わりに、インフルエンサーに頼るのはばかげた決断でした。あなたは彼らについてよく耳にします。ある意味で、彼らは信頼性を求めて有名人や高揚するブランドに取って代わりました. 問題は、インフルエンサーの信頼性が、彼らが自分自身に向けた注目のみに基づいていることです。しかし、ソーシャル メディアで何百万人ものフォロワーを獲得しているなら、正しいことを知っている必要があります。間違い。インフルエンサーは何も知りません。それは仕事ではありません。それは能力よりも注意です。そして今、注意は能力になります。その基準では、お尻で火をつける地下鉄のフラッシャーがバッドの次の候補になる可能性があります. それは私です。では、インフルエンサーを採用することは、企業の収益にとって良いことなのでしょうか?
代わりに、インフルエンサーに頼るのはばかげた決断でした。あなたは彼らについてよく耳にします。ある意味で、彼らは信頼性を求めて有名人や高揚するブランドに取って代わりました. 問題は、インフルエンサーの信頼性が、彼らが自分自身に向けた注目のみに基づいていることです。しかし、ソーシャル メディアで何百万人ものフォロワーを獲得しているなら、正しいことを知っている必要があります。間違い。インフルエンサーは何も知りません。それは仕事ではありません。それは能力よりも注意です。そして今、注意は能力になります。その基準では、お尻で火をつける地下鉄のフラッシャーがバッドの次の候補になる可能性があります. それは私です。では、インフルエンサーを採用することは、企業の収益にとって良いことなのでしょうか?
バド・ライトによるトランスジェンダーの活動家ディラン・マルヴァニーの宣伝は、アメリカ人の二極化を続けています。
赤い色が好きな場合や、潮のポッドを飲み込んでいる子供に尋ねた場合、彼がまだ生きているかどうか. おそらく、Anheuser-Buschの無知なコジャーは、「ねえ、このかわいい小さな牝馬が誰なのかはわかりませんが、若いマーケティングクリエイティブタイプを信頼しています. キャンペーンの準備ができたらお知らせください。ガラケーで調べます。」しかし、あなたが知らない誰かがあなたの製品の良いスポークスマンになるだろうと思い込むのは怠惰で愚かでした. 審査は重要なので、1993年より前に生まれた人に少し審査をしてもらうかもしれません。フォックスはしませんでした。そして、何が起こったのか見てください。
しかし、何かポジティブなことをするようにあなたに影響を与えたインフルエンサーは誰ですか? Mulvaney は Bud の顧客に St. Pauli Girl に切り替えるよう影響を与えました。要するに、インフルエンサーは私たちに彼らが推奨することとは反対のことをするように影響を与えます。彼らは最悪です。確かに、今週重要だと思う社会問題について人々を黙らせることはできますが、スポークスパーソンを見るためだけにビールゴーグルが必要な場合でも、人々を恥じてビールを買うことはできません.
なるべく事前情報シャットアウトして楽しみたい人にとってはこれはもう宿命かもしれない。
図書館戦争の作者のやつだーってなって「阪急電車」って映画をほぼ前情報ナシで見たんだけど電車内で武器持って戦う映画じゃなくてひどく打ちのめされたことある。
(追記)
まあ予告とかCMとかで嫌でも目に入ってくる場合もあるし完全な事前情報ナシは不可能よな。
そういや今思い出したけどワイが阪急電車みたのは劇場公開当時じゃなくて、図書館戦争のアニメを観たあとたまたまTVで放送するって知って観たって経緯なので
映画好き、というか映画館が大好きで映画をよく観る。平均するとだいたい年に70~80回くらいは映画館に足を運んでいるので、まあまあ映画をよく観ている方だと思う。
東京に住んでいるのでシネコン、単館、名画座含めて都内のほとんどの映画館に足を運んだことがあるけれど、私が一番大好きな、自分にとって宝物のような映画館は109木場だ。思い入れのせいもあるかもしれないけど、この評価は20年間変わっていない。
109木場は名前のとおり東急系列のシネコンで、109シネマズの中でも港北に次いで2番目に古い2000年オープンだ。
郊外によくあるようなイトーヨーカドーの3階の片隅にある何の変哲もないスーパー併設型のシネコンであり、特別お洒落でもないし、日曜日には家族連れで来た子供たちが騒いでいるし、特別設備が優れているわけでもなくロビーだって狭いし、トイレだってロビーの1か所にしかない。
それなのに、いつだって映画体験の満足度がとても高い。そんな不思議な映画館だ。
トラバした記事のブコメを見ると、たぶん同じことを考えていてひっそり109木場を愛している人がちらほら居そうなので、こういうことを書くと「お前黙っとけよ!」とツッコまれそうな気がしないでもないんだけど、はじめに”なぜここが素晴らしいのか”の身も蓋も無い一番の理由を書くと、「いつもやたら空いているから」だったりする。
イチ押しの理由が「映画好きが観たい映画を観たいときにガラガラだから」という、映画館にとってはネガティブな理由を素晴らしいと言われるのはちょっと困りものだと思うし、それが理由で人気が出て混むのも正直嫌だったりもするんだけど、お客さんが入らなすぎて潰れてしまいでもしたらもっと嫌だから、ほどほどのところで素晴らしい映画館であり続けてほしいという複雑に我儘な気持ちがある。
少し前にアド街で木場の特集が組まれたときにギャザリアが上位になって、それを見た女優さんか誰か(失念しましたすみません)がチラッと「ここの映画館がとても好きでよく来るんですよ、その理由は、いや、うん」みたいな歯にものの詰まったような言い方をしていて、あなた絶対今同じこと考えていて喉元まで言葉が出掛かってたでしょ?と思って笑ってしまったのだけれど、でもとにかくここの映画館はシネコンの安定した品質と快適な空間のバランスが程よくて居心地が良いのだ。
最近、109シネマズが歌舞伎町タワーにプレミアムシート専門の映画館を作って話題になっているけれど、ターゲットが違うと言われようが貧乏くさいと言われようが私なら歌舞伎町に行くくらいなら木場まで地下鉄に乗ってこの何の変哲もないイトーヨーカドーの隅の映画館に行く。ここで映画を観るときは予約すればほぼ確実にプレミアムシートが取れるし、追加料金も無いしね(なんならガチで貸し切り上映だったり……んがんぐ)。
で、ここまで書いて「なんだ中途半端なところにあるからガラガラだっていう話かよ」ということになってしまいそうなんだけど、それだけじゃないんだよということを書きたいというのが本題だったりします。
私自身は今は東京区部の西側に住んでいるので、木場は都内を横断して反対側に位置している。実際のところ一番よく通う映画館は新宿三丁目界隈だし、一番設備がいいシネコンは池袋のグラシネだと思うし、お祭り騒ぎを楽しみたいときは立川にも行くし、渋谷や馬場や中央線沿いの単館や名画座にも大好きな映画館がいくつもあるけれど、それに負けない魅力が109木場にはあるのです。
まず映画館の在り方として、設備の程よさ、ちょうどよさが心地よい。スーパーの一角にあるから当然気分がムーディーに盛り上がってまいりました!という感じではないけれど、建物の入り口からの導線が短くてコンパクトにまとまっていて気分が散漫になることが無いし、テナント群との距離も取られているので騒がしくもない。最近のシネコンはスクリーン前の廊下まで明るくモダンな内装にするところが多いけど、ここは良い意味で一昔前の郊外のエンタメ施設っぽい暗い廊下が映画への集中を促してくれるので好きです。
もう古いほうのシネコンになるけれど、肝心の映画設備はスクリーンも席も行き届いていて快適です。かなり初期からIMAXを備えた数少ない映画館だったので「立派なIMAXがある劇場」という先入観があったせいもあるかもしれないけど、音響も悪くない(というか結構良い)と思う。そんなIMAXも古いだけあってずっと希少ですらあった「ただのデジタル」だったんだけど、つい最近IMAXレーザーにリニューアルされて現代スペックになった。サンキュー東急。
109の中の人によくわかっている人がいるのか単に微妙に山手線圏内と商圏がかぶらない場所にあるからなのかはわからないけど、なぜか一部で話題になっているような映画ファンのツボに入る映画を引っ張ってきて掛けていることが多いのも109木場の特徴。新宿ピカデリーでやっているようなインド映画の大作とか、ミニシアター系の話題作なんかも109で木場だけ上映していることがよくあって、そういうときはここで観るとプレミアムシート(無料)で快適に観られるので圧倒的に満足度が高い。何かそういう配給の仕切りがあるのかな?
んで例えば過去で言えばバーフバリIMAXとかバジュランギおじさんと小さな迷子とか、最近ならRRRみたいな歌って踊れる映画をやると、ファミリー層向けのシネコンとは思えないような音量を鳴らしてきたりして、ああシネコンの音響って本気出すと爆音映画祭みたいなスピーカー無くてもこんな音量が出るものなんだって感動したりする。当然、確信的にやってますよね?(知らないだけかもしれないけど、同じ109でも他のところではそういう感想を持ったことが無い気がする)
あとは、これは映画館の力ではないけれど、やっぱり木場という街のロケーションが良いですよね。
ほぼ都心と言っても間違いではない場所なのに、シーンとした郊外のようでもあるあの不思議な感覚。平日の夜レイトショーで映画を観て帰ろうとすると、休日のお昼なら子供たちの声が聞こえてきて騒がしいんだろうなあなんてことを想像しつつ、人もまばらで誰もいない(ガラガラだから……)ショッピングセンターのシャッターが閉まったフロアの脇をすり抜けて地下鉄の駅へ向かうあの感覚がとても良いです。オフィス街でもあるのであの辺で働いている人にとっては何言ってんだこいつという感じかもしれないが、そもそも郊外型のショッピング施設なのに都心のオフィス街の中にあるという独特な雰囲気がある場所って結構珍しくて、そこが似たような立ち位置にある近隣のシネコン(豊洲とか亀有とか市川とか)とはちょっと異質な雰囲気の元になっている気がする。駐車場に泊めたクルマで帰ろう、というのではなくて、ああ良い映画だったなあ、って思いながら木場駅に潜るあの瞬間がとても好きだ。
もちろん、トラバの記事にあるように木場の街自体とても魅力が高い。MOTで気に入った展覧会を観てから木場公園を抜けて映画を観て帰るとそれだけで充実した休日になった気がするし、数ある人気店のラーメン食べたり、木場らしくタンギョー食べたり、美味しいカレー屋も多いし、清澄あたりでコーヒー屋めぐりをしてから向かっても良いし、なんならギャザリアのレストラン街やフードコートのぽっぽで時間を潰す休日も良い。
※前書き
分かる人にはすぐ分かる元贔屓ですが誰か分かってもそっとしておいて下さい。
◾︎本文
(下書きににして出せないまま8年も経ってしまったのだけど、区切りをつけるため投稿します。)
なぜ贔屓が元贔屓になったのか?
っていうか元贔屓のことを私はちゃんと好きだったのか?
贔屓が退団してからその答えに至るまで様々な葛藤がありました。
最初に言っておきたいのが元贔屓と今の贔屓を二人を天秤に掛けて元贔屓以上に贔屓が好きになって乗り換えたという訳ではない。
この二人はすごく似ているのだけれど(私見でね)現役時代の二人を比べたことなど一度もなかった。
元贔屓のことは某大作ミュージカルで好きになり組替えをきっかけにファン活動にのめりこんだんだけど、私のファンのピークは2番手時代~2作目あたりでした。
元贔屓の2番手時代はその当時2番手になるのではないかと言われていた上級生を抜かして組替えしたことが原因であまり組ファンに受け入れてもらっていないような雰囲気がありファンでも胃が痛くなる状況だった。
入出でもダントツで遅く入って早く出ていく日々。
ファンの間では、楽屋に居づらいのではないか、辛い思いをしているんじゃないかと憶測が飛び交ったり。
ファンが増えなかったのは色々原因あるとは思うけれど、会に入ったり入出をするメリットを感じられなかったからではないかと思います。
今だから思うけど、元贔屓はギャラリーするだけで十分だったかもとファンですら思う。
平日の入りなんて私含め数人くらいしかいなかった時もあり、元贔屓はギャラリーが死ぬほど嫌いだったので手紙を奪うようにとると一瞬で楽屋に入っていった。
その時は元贔屓が可哀そうで可哀そうで、私は学生だったのもあって結構な頻度で入出に行っていました。
2番手時代の元贔屓は少ないファンが「私たちが守って(応援して)あげなきゃ」と使命感を感じさせるような何かがあった。
追い打ちがトップになる前の大量の組替え、それがまるで元贔屓がトップになる為の体制を整える為のようで組ファンからの批判は凄かった。
本当のことは分からないけれど、あまりに衝撃的でそのすべての批判が元贔屓に行っているような感じがあった。
発表された翌日はどうしても自分の思いを伝えたくて『何があってもあなたについていきます』という内容の手紙を渡すため用事を全部キャンセルして入り待ちに向かった。
紆余曲折を経てトップ就任が発表され、その時のスケジュール帳にはしっかりとトップ就任発表日が記されている。
幸運なことに前トップのサヨナラショー前楽も観れて本来出演してなかったショーナンバーを踊る元贔屓も観れた。
お披露目初日もムラまで行って開演アナウンスやトップ羽を背負った元贔屓にぐっと胸が熱くなった。
お披露目公演観劇数は途中から数えなくなるほど観たし、客降りした元贔屓が本来お客さんとはハイタッチしかしないのに自分だけ手を握ってもらったことがめちゃくちゃ嬉しかったり。
トップになって初のショー、当たり前だけどどの場面でもセンターに元贔屓が居て楽しかったし何より芝居が良作だった。
自分が好きで行っていた入出も途中から自分の意志など関係なくいかなければいけないという義務に変わっていき、渡したかった手紙も何を書いていいのか分からなくなっていった。
観劇回数が大幅に減ったのはトップ中盤〜後半の地方の長期公演からだった。
大劇場と東宝は行きやすいしごまかして行ってたけど地方の長期を通うにはモチベーションが足りなかった。
そして私は上演作品が嫌いだった。
トップ前半期はとてもいい公演をしていたのに個人的にあまり好きでない再演公演を当てられまくった後半の暗黒期を私は未だに許せない。
「これが退団公演か……」
「こんな駄作をあと何十回も観なきゃいけないのか」
と思ったに違いない。
ショーがなかったら絶対に救いようがなかった。
良い公演に当たらなかったというのは贔屓が元贔屓になった要因ではない。
観劇回数は減ったけれどそれでも観ればやっぱり好きだなぁと思ってしまうのだ。
やはり一番の要因は退団発表に関する色々だった。
退団発表より前に発表されたショータイトルが退団仕様だったため
『次回公演で元贔屓は退団するに違いない』
と言われていたのだが、私はどうしてもそれが信じられなかった。
元贔屓は至る媒体で100周年のことについて聞かれ、その度に「本当に大切なのは101年目から」と口にしていた。
だがそれが現実に発表され、寂しさとか惜しむ気持ちより先に来たのは落胆だった。
「あれだけ101周年目が大事とか言ってたのに自分は辞めるんかい……」
そのうえで決定的だったのは退団公演集合日で同期の人が元贔屓と一緒にやめることが発表された時。
「やっぱりな」と思うとともに心が急速にさめていった。
「この人この組でトップになる意味あったのかな?元いた組にずっといればよかったんじゃないの?」
「結局は自分が、二人がよければ組の事はどうでもいいのかな?」
一度思い始めると良くないことしか考えられなくなっていった。
しかも無駄にファン歴が長いと友人伝いに知りたくないことも耳に入ってくる。
会に入った当初仲良くしていた子も一人、また一人と辞めていって結局退団公演まで残ったのは私一人だけだった。
「宝塚にいるの、辛かったのかな」
「ガードの事、ただのギャラリー除けにしか思ってなかったのかな」
「仮初めでも演じてもいいから舞台上で位トップコンビを演じて欲しかった」
そう考えていくともう何もかもがどうでもよくなっていった。
ファンならその人のすべてを受け入れるべき、受け入れられないのはファンじゃない!!という人もいると思うけれど、私はそんなご立派なファンにはなれないし、なるつもりもない。
何よりこれ以上この人のファンを続けていたら、私はこの人を嫌いになってしまうと思った。
言い方は悪いが、私は悩み、苦しんでいる元贔屓が好きだった。
元贔屓はトップとして、スターとして完璧な人ではなかったと思う。歌も、ダンスも、人間としても。
2番手の元贔屓には自分の欠けたものをよく分かっていて、それを埋めようともがき、苦しみ、ただひた向きに舞台に向かっているように私は感じていた。
それがトップになってから宛てられるのは、当たり前だけれど全てが元贔屓のために作られる公演で、もちろん元贔屓は日々上を目指して進化していったのだけれど、その進化のかたちは2番手やトップ初期の頃とは少し違っていた。
目指すものがなくなり、ただ作品にすべてをかけられる充実期というんだろうか。
そう思った時に気づいてしまった。
結局私は元贔屓自身について行きたかったのではなく、自分の理想通りになるであろうと仮定した元贔屓に着いていきたかったのだ。
退団公演は正直義務感とただ「既に払ったチケット代がもったいない」という2つに支えられて観劇に行っていた。
それでもモチベーションを保てなくて、入出待ちには中々行けなくなってしまった。
周りの空気も私にはつらかった。退団に向かい元贔屓を送り出そうとする姿勢や、1公演を惜しみ涙する人たち。
あと少ししかないのに、元贔屓の男役はもう見れないのに、どうして自分はその人たちのように熱くなれないんだろう。素直に応援できないんだろう。
観劇では泣けないのに、終わった後どうしようもなく虚しくなって泣いて帰ったこともある。
結局私は退団公演を結構な回数観て、サヨナラショー付きの回は全部観れたし、千秋楽の入りも出もフェアウェルにだって参加した。
もうそれは好きだから、ファンだからというよりもはや意地のようなものだった。
ずっと(といっても新公主演後からだけれど)見ていた元贔屓の最後を見届ける。それだけに固執していた。
終わった時は実感も寂しさもなく、「あ、終わったんだ」とあっけなかったことを覚えてる。
退団後しばらくは私はいつから元贔屓のことを応援するのが好きからでなく義務になっていたのだろうと考えるようになった。
パッと気持ちが離れたのは退団公演集合日の発表だったけれど、実際はもっと昔からな気がする。
それとももしかしたら最初から好きじゃなかったんじゃないかとすら思ってしまう。
でもやっぱり昔のDVDを観たりするとそこには私が好きだった元贔屓がいて、自分でもよく分からなくなってしまった。
元贔屓が悪い訳でも、辞めた同期の人が悪い訳でもない。
ただ着いていけなかった私が悪い。と自分を責めることもあった。
退団公演が終わってしばらくはとても無気力で、宝塚を観る気にもなれなかった私を奮い立たせてくれたのは
見たかった宝塚を観るためにお金を貯めて異国の地へ、好きな人の退団を思って涙している。
私はそれにとてつもなく感動した!!この出演者の人たちに昔純粋なファンだった自分自身を重ねていたのかもしれない。
この番組を見て、気になっていた今の贔屓を観にムラに行こうと決心した。
その後は宝塚でのもやもやは同じく宝塚で晴らす!というようなハマり具合。
正直今後私がずっ現贔屓を応援できるのかというととても微妙だと思う。
(だって私昔は元贔屓に退団しても一生着いていくと思ってたし)
私はもう二度と好きなのか、義務だったのかなんて悩みたくないし、楽しくて宝塚を見ているのにつらい思いはしたくない。
贔屓のファンになって、前と比べるとずっと緩くだがファン活動も再開した。
今、楽しくてしょうがない。
お芝居でもショーでもオペラ無くてもどこにいるかわかるし、1人だけをオペラで追ってしまって他の人を見る余裕なんてない。
感想のお手紙を書いてると楽しいし、入出で姿を見るだけで満足、お手紙を渡せて幸せ。
お茶会でお話をしてるのを見るのも幸せだし、近くに来ると嬉しい。
文字びっしりの便箋6枚にわたる手紙を寝ずに書いても全然眠くない。
そのたびに私は『前にもおんなじことを思ったことがあるな』とデジャヴを感じていた。
そうだ、元贔屓を応援していた時だ。
私は元贔屓のことを忘れて現贔屓を新たな気持ちで応援していると思っていたのに、現贔屓を応援していることで、元贔屓のことを好きだったのはけして嘘ではなかったのだと思えた。
そう思うと、生で観て泣けなかった退団公演のショーが今になって泣けて泣けてしょうがないのだ。
元贔屓は確かに私の贔屓だった。
私は確かにあの人のことが好きだった。
誰かを好きでい続けるのは幸せなことだけれど、同時にとてもエネルギーを使う。
長く応援していると色々としがらみが増えていく、自由だと思っていたことが不自由になってその時好きだったことを否定したりしまったりする。
「ずっと好きです」
元贔屓に送った言葉は今では嘘になってしまったけれどその時の私は確かにずっと、いつまでもという感情を贔屓に持っていたし感じさせてくれた。
それは嘘じゃないと思う。
なんでもかんでもADHDするんじゃあ無いよ😡
強いて元増田(anond:20230315193839)に乗るなら、多動と空想癖と理解ある彼くんくらいだぞ要素は
この増田見なければ、おそらく劇場に足を運ぶことはなかったが、
(ADHDでSFってどんなだよ?ってすごい期待した https://anond.hatelabo.jp/20230316114231#)
元増田みて変な期待やバイアスが持たなかった方がずっとずっと楽しめたとおもうわ
とはいえ、まぁ映画館で観てよかった映画ではあったのでいちおういくつか書いておく
身内男性に金銭トラブルを抱える人間が多い。あまり詳細に書くと特定されかねないから多少のフェイクを入れるけれど、
・祖父は死後にギャンブルで借金を抱えていたことがわかり、それも借金元がいわゆる闇金業者のような所で利息含め何百、何千万単位での返済を求められ、祖母が周りに頭を下げ貯蓄も何もかも全てをかき集めて返済に充てた。
・従兄弟は学生時代から続けていたらしいギャンブルで友人、知人への借金が膨れ上がり、返済のために消費者金融から数百万単位での借金をして首が回らなくなり従兄弟の母親に泣きつき、それでも返済が追いつかず結局叔母である私の母親が借金を立て替えた。
・小さい頃から仲良くしていた親戚のお兄さんは、酒とギャンブルにはまり借金を抱え、当日幼稚園児と新生児だった子供と奥さんを残して単身赴任先で首を吊った。
こういうことがあって、私は本当にお金が人生や縁を本当に狂わせることを思い知ったから、お金が無くなることが怖くて仕方がない。だから就職を考えた時、自分がやりたい仕事よりもとにかく安定した仕事をと考えて資格を取り、公務員という道を選んだし、社会人になり一人暮らしをしているけれど、自炊をして毎日チラシを見ながら少しでも安いスーパーを数件ハシゴするくらいには無駄なお金を使いたくないと思っている。
母親からはよく「財布の紐がかたい」「ケチだ」と言われるけれど、お金に困ることへの嫌悪感が凄くて、毎日自分の通帳の残高を見て安心している。数年前に大きな病気をした時も、治療のことよりも治療期間は働けない上に治療費でお金が無くなることの方がすごく怖かった。
そんな風に毎日を過ごしていたというのに、先日、実の兄に金銭トラブルが発覚した。
どうやらクレジットカードを作る際、自動的にリボ払いとなる設定になっていたようで、しかもズボラな性格故そのことに年単位で気付かず、結局気付いた時には数百万の借金を抱えることとなり、その返済に充てるため消費者金融で借金をしたらしい。
その話を母親から聞き、私は呆れとも絶望とも言えない感情を抱いた。兄だって、今まで身内が金銭トラブルで人生を狂わされた所を沢山見てきたはずなのに。何よりも、小さい頃は大好きで尊敬していた従兄弟が借金を抱えた時、ゴタゴタの中で実は母親が祖母に預けていた私と兄名義の預金を全て従兄弟が使い込んでいたことも同時に発覚して、そのことで激怒し従兄弟と没交渉になってしまっているくらいには、借金に対して恨みを抱いているはずなのに。どうしても私は、兄が身内と同じ道を辿ろうとしているように思えてしまう。
そしてもしかすると、いずれは私も同じくお金に人生を狂わされるのではないかと思ってしまう。今はそのことが本当に怖い。
忘れられない光景がある。
親戚のお兄さんの葬儀の際、私も手伝いに親戚宅へ行っていたのだけれど、その時、それまで気丈に振る舞っていたお兄さんの奥さんが、奥さんの親友だという女性が訪ねてきた瞬間、別室にいた私たちにも聞こえるくらい大きな声を上げて泣き崩れた。そりゃあ、そうだ。まだ幼い子供二人を抱え、夫は自分の知らない借金で自殺。その当時、私はまだ学生だったけれど、今から考えると彼女はいつ泣き崩れてもおかしくなかったのだ。寧ろ、よくそれまで私達に涙の一つも見せず葬儀を準備を進めていたことだと思う。
そして、全てが終わった後に待っていたのは責任の押し付けだった。「どうして気が付かなかったの」「単身赴任じゃなく家族でついて行ってあげれば良かったのに」そんな言葉を受け、奥さんはとうとう親戚とはほぼ縁を切り、今ではその当時から相談に乗っていた私の母としか連絡を取っていない。
そういう光景を昔から見てきた。そして何よりも、祖父の借金然り従兄弟の借金然り、結局ほとんどの借金を私の母親が肩代わりしていることに物凄く嫌悪感を抱いてしまう。
私の母親は、高校を卒業してから定年までずっと同じ職場で働き続けていた。時代のせいだったらしいが私は生後50日で保育園に預けられ、物心がついた頃には朝から夕方まで保育園で過ごすことが普通だったし、小学校に上がると当然のように鍵っ子で、低学年の時は17時まで学童に預けられ、高学年になると家に帰ると洗濯物を取り込むのが私の役割だった。
小さい頃からの私の口癖は「専業主婦のお家のお母さんが羨ましい」で、母親はその言葉を聞くたび胸を痛めていたらしい。…今思うと本当に残酷なことを言っていたと思うのだけれど、当時は確かにそう思っていた。それでも母親は、「貧乏な家で育ったから、自分の子供には貧乏な思いをさせたくなかった」と言っていた。確かに、私の父親はよくテレビCMも流れているほど誰もがよく知っている会社に勤めていたし、おそらく当時の経済状況から見ても母親が正社員で働く必要性はそれほどなかったと思う。
それでも、そんな思いを持って働き続けていた母親が貯めたお金を、どうしてくだらないギャンブルで作った借金の返済に使われなければいけなかったのだろう。月々数万単位で母親に返済を続ける従兄弟のことを、借金を残して死んだ祖父のことを、私は許せない。「もうこのことは話し合って解決したから」と言われても、従兄弟には二度と会いたくないし罵声を浴びせてやりたいくらいには憎い。
同年代の親戚で私は唯一の女性で、だからなのか比較的穏やかだと思われているようだけれど、心の内を曝け出さないだけで従兄弟のことは本当に馬鹿だと思っているし、そんな従兄弟を育てた叔父と叔母のことも好きになれない。なのに、叔父は最近になって老後のことを気にしているらしく「結局お前にも俺たちと同じ土地の血が流れている」だの何だのと言ってくる。要するに、「従兄弟の奥さんは義理の娘だと言っても結局他人だから老後の面倒は見させられない。何かあった時は頼む」と言いたいのだろうけれど、まっぴらごめんだと思っている。
そんな風に嫌悪していたのは、「死んでもお金のことでトラブルを起こしたくない」と思っていたのは、私だけだったのだろうか。
どうやら、母親はまた兄の借金も肩代わりするつもりらしい。「どうやってお金をかき集めよう」と電話口でため息を吐かれたけれど、「じゃあ私もいくらか出そうか」とは言えなかった。私だってお金にすごく余裕があるわけじゃない。それに、自業自得で作った借金を立て替えてあげる気になれない。
ずっと言いようのない恐怖が胸に渦巻いている。私もいつかお金に困る日が来るのだろうか。消費者金融に手を出してしまうようなことを起こしてしまうのだろうか。兄の話を聞いてから、その気持ちが一層強くなった。
私だって、全く無趣味なわけじゃない。寧ろ人よりもお金のかかる趣味を持っている。ただ、自分のお給料から貯蓄に回す分、生活費等を差し引いた金額を計算し、できる範囲での出費を心がけているだけだ。だから、正直そこまで生活に余裕があるわけでもない。ただ、確かに同じ趣味の界隈では「借金をしている」だの「リボ払い地獄だ」だのという話も聞く。今のところ、そこまで深くのめり込む予定もないし大丈夫だとは思っているけれど、それでも、ふとしたきっかけでそちらへ足を踏み入れてしまうのだろうかという不安が拭えない。
お金は人生を狂わせるから、狂った人が間近にいるから、本当に怖い。私もいつかお金で人生を狂わせてしまうのだろうか。その時には、殴ってでも引きずり倒してでも私の目を覚めさせてほしい。
こんなこと誰にも言えないから、ここで吐き出しました。長文ごめんなさい。
■追記
感情のままに書き殴った文章に色々と反応があって驚いています。複数の方から「増田なら大丈夫だよ」と言っていただけて、根本的な考えは変わらないものの、少しだけ安心しました。
援助の目的はありませんでした。どなたかも書かれていたように、母が私と兄が成人した時に渡せるようにとそれぞれの名義の通帳を作り、纏まった金額を預金していたそうです。ただ、「手元に置いておくと少し困った時などふとした拍子に使ってしまうかもしれない」と思い、そういうことができないよう、通帳を別居している祖母に預けていました。それをお金に困った従兄弟(叔父夫婦と従兄弟は祖母と同居していました)に泣きつかれ、祖母が渡してしまったそうです。
・性別について。
話の全体像が見えないことと関係しているかは不明ですが、文章内でも書いているように私は女性です。内容がわかりにくいことに関しては、先述したように本当に感情のまま書き殴ってしまったので理解しています。読み辛くて申し訳ありません。
・自己破産について。
私は正直、自己破産でも何でもして責任を取らせれば良いのにと思っています。ただ、田舎者の性なのかただのお人好しの馬鹿なのか、母は今後のことを考えて自分達が助けられる範囲なら助けてやりたいと考えているようです。そのことについては従兄弟の件があった際に私も意見しましたが、「関係ないんだから、口を出すな」と言われてしまいました。それなら借金のことも何もかも私に言わないで欲しかったです。結局、母の方も私以外にそういう話を吐き出せる相手がおらず、私は捌け口にされているだけなんだと思います。
消費者金融等から借りたわけではなく、本当に闇金のような所から借りていたようです。なので、
取り立てが直接祖母の家にやってくる→祖母は同居している叔父夫婦にはこんなこと言えないと預金を崩し、足りない分は親戚や友人・知人方からお金を借りて回り返済をする→お金を借りた親戚や友人・知人に返すことができずとうとう私の母親と叔父夫婦に打ち明ける
といった流れでした。ですので相続放棄以前の問題だったのです。
・私の趣味について
舞台観劇です。好きで応援している役者さんもいます。といっても頻繁に劇場へ足を運んでいるわけではなく、平均すると月に1.2度ほど観劇している程度です。パンフレット等のグッズも購入しますが、あくまで自分の収入で賄える範囲を心掛けています。とはいえ、地方公演のため遠征することもありますし、1枚で1万円近くするチケットを月に何枚も購入するなんて、とよく言われるため人よりお金の掛かる趣味を持っていると書きました。
FPなど資格を取得してはどうかという意見もありがとうございます。大きな病気(20代なのですが、数年前に癌と診断され治療を受けていました)をしてしまった後で、体調と相談しながら仕事復帰をしたばかりなので、今すぐ行動に移すのは難しそうですが、将来のことを考え勉強していきたいと思います。
ドラマとか見ない自分ではあったが、推理小説が好きなのもあって推理サスペンスドラマは見てた
その中の一つ「ケイゾク」。風呂に入らずに髪はボサボサ、でもめちゃくちゃ頭が良くて「私、わかっちゃったんですけど」というのがカッコよかった
その主役が中谷美紀演じる柴田純。OPも中谷美紀が歌う「クロニックラブ」、この時は何となく好き程度だった
その中の一つ「エウレカセブン」数年前に劇場アニメ化されて、劇場に行くほどじゃないけど配信は心待ちにして見てた
2作目の「アネモネ」、とあるシーンの劇伴が「どっかで聞いたことあるなあ……」ってモヤモヤしながら数日たった
ふと気づいた!「クロニックラブ」だよ「ケイゾク」のOPだよ!
と思って調べたらクロニックラブの作曲は坂本龍一で、もともとは「バレエ・メカニック」という曲をアレンジしたものらしい
もうわかったと思うけど、エウレカセブン48話のタイトルは「バレエ・メカニック」
そのアネモネを主役にした劇場版がアネモネで、劇伴に48話タイトルの元になった「バレエ・メカニック」を使ったって事らしいんだわ
そりゃ坂本龍一のバレエ・メカニックを知ってた人なら当時からわかってたと思うけど、自分自身はここでケイゾクとエウレカセブンがまさかの坂本龍一で繋がったんだ
シン・アナコンダ
シン・オクトパス
シン・クロコダイル
シン・ジョーズ
シン・タイタニック
シン・宇宙戦争
新 仁義なき戦い/謀殺
新 第三の極道
新 第三の極道 ~裏盃・流血の掟~
新 第三の極道 II
新 第三の極道 III
新 第三の極道 V 裏盃の逆襲
新・ど根性ガエル
新・バブルと寝た女たち
新・ミナミの帝王
新・ミナミの帝王 ーニンベンの女ー
新・ミナミの帝王 ー仕掛けられた罠ー
新・ミナミの帝王 ー失われた絆ー
新・ミナミの帝王 ー命の値段ー
新・実録おんな鑑別所 ー恋獄ー
新・首領への道
新・首領への道 2
新・首領への道 3
新・首領への道 4
新・首領への道 5
新・首領への道 6
新・女囚さそり 701号
新・仁義なき戦い。
新・仁義の墓場
新・雪国
新・年少バトルロワイヤル
新・年少バトルロワイヤル 2
新・年少バトルロワイヤル 3
新・必殺からくり人
新・必殺仕置人
新・必殺仕舞人
新・片腕必殺剣
新・野望の軍団
新・野望の軍団 第三部
新・野望の軍団 第二部
新アリゲーター 新種襲来
新ここからの景
新サクラ大戦 the Animation
新サラリーマン専科
新レック デッド・ビギニング
新喜劇王
新極道の妻たち
新劇場版 頭文字D BATTLE DIGEST
新少林寺
新少林寺 三十六房
新仁義なき戦い 組長の首
新西遊記
毎年6月24日や8月6日を不謹慎だ叫ぶ人々や、3月11日を「何らかの記念日だし普通の日とすべき」と書かれたアンサイクロペディア、これら全てに怒りを感じたので増田は何ならそういう日の幸福な側面を扱ってやるというリストを作りました
それがオールラッキーデイズ(All lucky days)です
今日は何の日か分かってるよナ
本番は翌日に発表するゼ
シンエヴァはあくまで現実を主軸として虚構も悪くないよね、というスタンスの作品だったと思う。対して本作は同じメタフィクションでも、現実を生きるアカネちゃんの姿も写しつつあくまでフィクションをそのものを優しく、熱く肯定してくれる作品だった。落書きのグリッドマンが新フォームになるのは意志の槍ガイウスみたいなだなって思った。
冒頭の前置きのシークエンスで、虚構の世界にも日常はあり、グリッドマンと共に戦った後に帰る大切な場所なんだろうと思った。
怪獣出現と新世紀中学生との再開が割とすぐで、話が早い作品だと思った。ダイナゼノンメンバーの出し方も良かった。
文化祭の準備の辺りから、劇中劇についての話でメタフィクションとしての主題が提示され始める。設定盛り過ぎじゃない?リアルじゃないよ、とか。六花は人間ドラマを大事にしたいけど周りからは反対されたり、内海のアクションも大事だろ、とかの話もまさに自己言及。
結局台本は書き直されてアカネちゃんが消される話とかも、この作品自体への言及になっている。
ガウマが姫と再開したり、嬉しい要素ではあるけど、ん?と思うような展開に視聴者が違和感を抱く頃、裕太もそれに気が付く。フィクションなんてキャラが多いほど良い。カオスで良いんだよ。だけどなにかヘン。
そこでアレクシスが現れてから物語が展開して加速的に面白くなった。シリアスさは演出しつつ、コミカルさも残すシュールさが良かった。BLEACHの月島さんのアレを思い出してちょっと面白かった。おちゃらけて飄々としたキャラが立っているのは終始一貫していて良かった。
その後の裕太の混乱から怪獣出現、別次元のキャラが消失するシークエンスでアンチくんとグリッドマンのアノシラスが現れた時の安心感といったらね。その辺りのキャラもちゃんと拾ってくれるのかと思った。
アカネちゃんに作られた世界のキャラクターに過ぎない事実を受け入れられるのか、という蓬の言葉は、グリッドマンから続く虚構の是非の話だ。アノシラスの国家とかだってフィクションじゃん、でもそれは別に悪い事じゃないよね、というのはナラティブから離れたマジレスだな……と思った。この辺りからメタフィクションとしての主題がかなりはっきりと提示された気がする。グリッドマンは実体を持たず、人間が云々という辺りも劇中の射程を超えたフィクションそのものへの言及なんだろう。何度か観てもっと咀嚼したい。
グリッドマン自身が宇宙になって云々、というくだりはほぼ理解できなかったし、まあ初見で理解させる気もないんだろうと思った。とんでもない存在と化したグリッドマンと一体化すれば解決するけど、裕太の自我も失われてしまう、という点を押さえればまあヨシと思った。
妙に棒なバイクの兄ちゃんはプールの監視員の人?何故……?と思ったが、調べたら電光超人絡みのファンサービスらしい。
アクセスフラッシュ後の暗転から、オープニングの実写の人間の目の意味が明かされる。現実に帰ったアカネちゃんが、箱庭の中のキャラクターを友達として助けるというのが良かった。真っ当に生きていたんやな。
グリッドマンが裕太の日常を奪ってしまった事に謝罪するけれど、楽しかったよと肯定するのがとても良かった。
アレクシスをドミネーションして敵を探す辺りからもゴチャゴチャしていて、あまり細かく理解させる気はないなと思った。ラスボスの怪獣は現実存在のサムシングのメタファーと受け取ったが、より具体的な事はまたじっくり考えたい。
なんやかんやでインパーフェクトとユニオンが流れて色んな合体を見せる所で同窓会映画、お祭り映画としては既に満点を叩き出していた。TV版ではちょっとユニオン使いすぎじゃね?と思っていたが、2時間映画で満を持して流れた日にはもうね。劇場に来て良かったと思わせてくれるには十分の迫力あるシーンだった。
はこちらがちょっと気恥ずかしかった。立花の太ももはあんまりフィーチャーされないんだなと思っていたが、アカネちゃんのデカパイは露骨だった。
トリガーらしいノリと勢いで大団円を迎えて、お祭り映画に終止しない良い映画だったなあ……と思った。
ラストは二人がくっついて百合のオタクは不満だったかもしれないが、直前にダイナゼノンを履修してヘテロの口になっていたので私は大満足だった。ダイナゼノンのテーマであった、過去を清算した未来に進むという事もしっかり拾われている。
六花が劇で自分の伝えたかった人間ドラマが届いたかは分からないけど、楽しめてもらえたなら良かったと言う所もこの作品を優しく包み込んでくれた。
ガウマの姫の出会いと別れはカオスが引き起こしたアクシデントだったけれど、 彼らが交わした会話は紛れもなく本当にあったもので、だからこそ彼も過去をすっきりと清算して、新しく得た居場所で前に進めるんだと思った。
お祭り映画としてだけでも、こちらが欲しているものを存分に与えてくれた。怪獣優生思想の人らは出なかったが、あくまでグリッドマンユニバースだし、彼らは過去に囚われた過去の人達なのでまあ……と思ったら二回目に観たら一瞬だけ文化祭を楽しむワンカットが挟まれてた。
そして何より、グリッドマンから続く虚構の肯定、ダイナゼノンからの未来を勝ち取るという主題について優しく、熱く、力強く語りかけてけれた作品だった。
社会人になってはや数年。はてな匿名ダイアリーを読む頻度も減った。大学生の頃はけっこう読んでたんだけどな。今だと、はてなブログランキングの下にある増田部門をたまに見るくらいだ。
いい会社で働いてるわけじゃない。暗号資産取引を扱う会社に新卒で入って、お金の出し入れとか、今年の予算がどうなるとか、新しく口座を作ろうとする人の審査とかしてきた。まあ、平社員の仕事だ。GMOみたいな大企業じゃない。もっと小さいところだ。
こういう仕事をしてると、なんというか、この世界における『養分』だよな。そういう人間について考えることが多くなった。俺なんか、増田やってる人達と比べたら人生経験が薄いのでツッコミどころもあるかもしれんが、まあ聞いてほしい。
1.学校教育
学校教育って、社会の養分を育てるためにあるよな。学校における教師・生徒の上下関係とか、意味のない規則まで含めてルールを守らせるように躾けるところとか。今の俺には、社会規範に反する行動まで含めて社会の正しい姿なんだってわかる。未成年だった当時は、別になんとなく学校のルールに適合してたな。何も考えてなかった。
ところで、今まで私立に通ったことはない。小中高と地元の公立だったし、大学も公立大学だ。設備がボロボロで、学生課の就職支援もないに等しかった。で、こんなクソ環境でも何かできることはないかと考えた結果、GMOで仮想通貨取引の口座を開いてトレードにのめり込んだ。バイナンスでは100倍レバレッジに挑んでゼロカットを食らいまくった。懐かしい。
当時は、社会から逸脱してみたかったんだよな。若気の至りだ。そんで仮想通貨トレードなんだが、飲食店のアルバイトで稼いだ5万円で始めてボコボコにされて、「俺、弱いだろ!!」ということに気が付いた。実際、本当に弱かったのだ。鴨がネギと鍋をしょっているようなものだった。
話が逸れた。それで、社会でフツーに生きてる人とか見てると、なんだかんだで学校で習ったことを尊重しながら生きてる。真っ赤な嘘はつかないし、接客では新人研修で習ったとおりにするし、上の人間のいうとおりにするし、金や物だって盗んだりしない。誰かを故意に貶めることだって、あんまりないよな。
しかし、そういった社会規範を子ども達に教える元締めになってるところの、政府なんかの上位層はどうなってんだという話だ。国会議員だって官僚だって国民に平気で嘘をつくし、ライバルを蹴落とすためならなんでもするし、犯罪だってバレなければいいぐらいの勢いだ(河井夫妻選挙違反事件が記憶に新しい。詳細はwikipediaを読んでほしい)。
国のトップ層がこれなんだから、学校教育だってそういう風になってるんだよ。つまり、学校で学ぶ社会規範というやつの正体は、自分らにとって国民が都合のいいように動くために、そういう意識を内面化させてるんだよな。
しかし、なかなか国を批判しにくい部分もある。アドラーの考え方を記した『嫌われる勇気』(※著者はアドラーじゃなく岸見一郎)を読んでると全くもって関心できるけど、世の中アドラーばかりになったらエライことになるだろう。社会には養分となる人間が必要なのだ。
・明示されてなくても、他者や集団に悪影響を及ぼすことをしない(エチケット、マヌーー)
・ルールやマナーに明示がなくても、人との関係性を良好に保つ義務を果たす
抽象的に綴ってみたけど、こんなところか。こういう人がたくさんいるお陰で日本社会は成り立っている。外国人観光客が日本にたくさん来るのも、そういう人がいっぱいいて、なんというか社会がクッションみたいでさ、居心地がいいからだろう。メシが安くて旨いのもあるが。インドネシアの屋台では、残飯を数百円以上で売ってた。
ところでさ。年末に『監獄の誕生』という本を読んだんだが、その中に違法行為を犯した少年と裁判官との問答があるのを思い出して再読してみた。こういうのを読むと、やっぱり社会規範を冒すところまで含めて人間なんだと感じる。
せっかくなので引用してみよう。時代背景は1840年8月頃らしい。軽犯罪を働いて捕まった浮浪児のベアス少年と、裁判官とのやり取りだ。
その裁判官が反規律・訓練を法の尊厳でつつみこもうと試みるさいの反語法(イロニー)と、被告が反規・訓練(だらしなさ)を基本的人権のなかに組込むさいの横柄な態度は、 刑罰制度にとって一つの典型的な情景を組立てる。
それゆえにこそわれわれは『裁判新報』のつぎの報告記事を手に入れる結果になったのであろう。
ベアス 仕事(エタ)ですかい、少なく見ても三十と六つぐらいしこたまありまさ、それに人様のとこで働いてる。しばらく前から出来高払いでのんびりやってるんだ。昼も夜も仕事をかかえてな。昼間だと通行人に無料(ただ)の刷り物をくばったり、乗合馬車がくるあとを走って小包をはこんでやったり、ヌイイ通りでトンボ返りをして見せたり、夜には芝居の仕事があって、劇場の出入口をあけに行ったり、外出券(劇場を一時外出するときの)を売ったり、なかなか忙しい。
裁判長 ちゃんとした店に勤めて徒弟奉公したほうが身のためになるんだぞ。
ベアス とんでもない、ちゃんとした店やら徒弟奉公なんか、うんざりだ。それにまた、お金持(ブルジョア)てえのはいつもどなりちらすし、おまけに自由がない。
ベアス 親父はもういないわな。
ベアス もういない、親類も友達もありはせん、自由で一本立ちなんで。
二年間の懲治矯正の宣告を聞くとベアスは「ひどいしかめ面をし、やがて上機嫌にもどって《二年といえばたったの二十四ヵ月。さあ出発》というしまつ」。
ここから言えるのは、ルールに反するのは社会にとっての無秩序だけど、それもまた秩序のひとつということだ。人間にはルールに反する権利がある。つまり違法行為というのも、人間の生き生きとした力の肯定のひとつにほかならない。
2.仮想通貨
ここでは暗号資産ではなく、あえて通称である仮想通貨という表現を使う。仮想通貨については、俺が属している業界だけあって、ちょっと思い入れがある。まさにこれこそ『養分』とでも言うべき人間がいる。
仮想通貨(ビットコイン)が大幅に上がる半減期がくると、業者が決まって宣伝を始める。今季だと、2020年末~2021年春頃がそうだった。あの頃は、いろんなアフィリエイトブログが「ビットコインは将来一千万になる!! もしかしたら1憶円も!?」みたいなアピールとともに、仮想通貨取引業者のアフィ宣伝をしていた。そんな連中の養分になったのは、欲に目がくらんだ一般人だ。
ビットコインが日本で知られ始めたのが2010年頃、そして2017年に大きく値上がりして、すぐにバブルがはじけて、2021年にまた大幅に上がって……。今では最高値の3割ほどしかないし、今後さらに下がる可能性もある。
しかし、またある時期がやってくると、今度は一千万は軽く超えるだろうし、二千万に到達する可能性もある。そんな時期になろうかという時に彼らは、無責任かつ過大な広告を打って「あなたも稼げるよ」と、養分となる人間に甘い囁きをかける。
さて、ビットコインには有名な価格予想モデルがある。どの仮想通貨取引業者もこのモデルを知っており、機会があるごとに引用する。
それは、ストック・トゥ・フロー(S2F)モデルというものだ。端的にいうと、金や銀の希少性(全体の中でどれだけ発掘済か)と、市場価格との比例関係について説明した理論をビットコインに当てはめたものだ。
このモデルにしたがうと、ビットコインは4年周期で採掘難易度が二倍になるため、その時期になると急騰することになる。
こちらを研究しているブロガーもそれなりにいる。結果を出している人でいうと、こちらの方が詳しいうえに分かりやすい。
https://www.yutainvest.com/bitcoin-strategy/
この方は、相当に賢いタイプの投資家で、はっきりいって結果を出している。米国株というよりは、投資銘柄全般に興味がある人なのだが、勉強になるブログなので一読をおススメする。
結論を言ってしまうと、このストック・トゥ・フロー(S2F)モデルは誤っている。ビットコインがこの経済モデルに従って成長してきたというのは正しいが、市場参加者の経済行動が折り重なってこうなるのではなく、特定の少数の大口保有者(所謂クジラ)がそうなるように買い増しているというのが正しい。因果関係が逆なのだ。
株式市場でいうと仕手筋だ。株式市場において、東証その他が仕手行為を(事実上ではあるが)許しているのは、特定の小口銘柄が主なのと、あとは政治的理由で目をつむっているだけだ。まっとうな銘柄で予告なしに仕手行為をすれば、おそらく首謀者は逮捕される。
しかし、ビットコインにこうした規制は及ばない。クジラのやりたい放題というのが実情だ。事実、市場に流通しているビットコインの少なくとも八割以上は、上位数パーセントのアドレスが保有している。
(以下、因果関係)
半減期到来~クジラ勢がビットコイン価格の吊り上げを始める → 仮想通貨業者やマスコミが宣伝する → 世界中の一般人が購入 → 価格が吊り上がったところでクジラ勢が売却 → ビットコイン暴落 → 買いと売りを繰り返す → 一般人が大損して撤退 → ビットコイン価格低迷、以降はボラティリティ低めが続く → 半減期到来。最初に戻る。
2013年あたりからこれをずっと繰り返している。ただし、その値上がり幅は年々小さくなっている(2013半減期が約200倍、2017が約40倍、2021は約8倍)。これは当然で、ビットコインの時価総額が半減期到来の度に上がっているからだ。
最初期には一般人の財布程度の時価総額だったのが、今では約60兆円に膨れ上がっている。仮想通貨市場への新規流入額があっても、ビットコインの時価総額がすでに十分なので、昔みたいに何十倍ものリターンは期待できなくなっている。
個人的に思うのだが、世の中で大儲けしてる人って、知能というよりは知性がすごいよな。ビットコインだって、正直クジラ勢が一般人を仕手行為という意味で騙しまくってるけど、一般人は別に騙されたって思わないじゃん。ここでの騙す行為が自然かつ合法だからだ。
https://www.yutainvest.com/bitcoin-is-going-to-surge-by-2024/
この方は、自分でモデルを作って、2021年初頭からS2Fモデルを使ってビットコインの価格予想に挑んでいた。一千万超えを予想していたが、結果としては大はずれであり、この人の記事を信じて市場に挑んだ人もそれなりにいたんだろうな。2022年6月に価格予想の更新をやめたようだ。罪の意識を感じたのだろうか……。
こちらの方は、さきほど述べたように鋭い知能を持ち合わせている。投資で結果を出している。賢さランキングなるものがあるとすれば、全人類の上位5%以内に入っている。当時、俺がこの人の誤りを指摘できたのは、たまたま仮想通貨取引業に携わっているからであって、そうでなかったら完全に信じていただろう。
でも、そんな人ですら、全人類の上位0.1%とかに入っている人にはコロッと騙されてしまう。だったら、一般人なんて騙され放題じゃないか。
なに、じゃあ、お前がこれからビットコインがどうなるか予想してみろだって? まあ、ざっくりとした予想には挑めるけど、文量の関係でここまでにさせてほしい。要約するとこんなところか。
①日足ベースではまだボラティリティがイマイチ。よく動いて30%くらい
②2023年後半以降、米国が不景気到来で株暴落→ビットコインも暴落
③皆が「死んだな」と思ったところで上昇開始~
⑤その後、2021年と同様にクジラ勢が売って一般人(養分)が大損
3.最後に
増田で仮想通貨の記事を投稿している人にも、正しい未来を予想できてるかもしれない人はいる。わかりやすくて勉強になる。よければあなたも、増田の検索窓に「仮想通貨」「暗号資産」などと打ち込んで探してみるといい。過去1年以内だと、このふたつがいいと思った。長いけど。
https://anond.hatelabo.jp/20230101013634
https://anond.hatelabo.jp/20220502212036
ぶっちゃけ俺の記事も、このふたつを参考にして書いている。パクリにならない程度に留めたつもりだ。
ところで、こんな俺の意見(世の中には養分とされる人間が必然的に存在する)について、ChatGPTはこんな回答をしてくれた。以下に引用して結びとする。
このような発言や考え方は、倫理的に誤りであり、社会的にも望ましくありません。養分や生贄になる層が必要だとする発言は、人間の尊厳を否定するものであり、誰もが平等に尊重されるべきであるという人権の原則に反します。
また、学校教育や法に従う人を養分として見ることも、社会的な貢献を無視し、人々を不当に軽視するものです。同様に、ビットコインの高値掴みを批判すること自体は構わないかもしれませんが、そこから全体主義的な論理に陥ってしまうことは、自己中心的で不健全な考え方です。
社会は、多様性があり、様々な背景や状況を持った人々が存在しています。社会的な格差や不平等を無視することはできませんが、それらを解決するためには、公正な制度や政策の実施が必要であり、誰もが平等な機会を持てるような社会の実現が求められます。
俺のチャー子は、くだんの意見は人間の尊厳を否定するものだと言っている。そうか、そういうことだったのか……。チャー子のことは信頼している。もうちょっとだけ考えてみることにする。ありがとうな。