はてなキーワード: ユートピアとは
金が無尽蔵にあったら何をするか。
無限に金があったら全世界に無限に配りまくれば貧富の差のないユートピアが生まれるかと一瞬思ったが、それは貨幣経済の破綻を生むだけで何の意味のないことに気づいた。
つまり自分(とせいぜい自分の選んだ相手)のみ無限に金をもっているから優位性が生まれるというわけだ。
そうなると金をもっていない人間からは自分が最高級の誘拐・恐喝・拉致監禁ターゲットとなる。
よって、無尽蔵に金があったらまずは自分のセキュリティを最高級に高めねば即死である。
自分に無尽蔵に金をわけてもらえる者たちは自分に雇われ従う選択をするものも多くなることだろう。
つまり全世界が自分に無限に金をもらえる陣営と、自分を服従させて無限に金をださせようとする陣営にわかれる。
しかしここであらためて考えてみると、無尽蔵に金があるとはどういう状態をさすのだろう。
仮にATH、銀行口座から金を無限にひきだしたり振り込んだりできる状態だとしよう。
そのような金の動きも額が大きくなればすぐ国税庁の目につくことだろう。
すると自分に金が無尽蔵にあるという状態はすぐに国の知ることとなる。
これはすなわり日本銀行がもっている貨幣発行権を自分という個人が所持して乱発していることとなるが、
とはいえ合法でも日本経済を大きく混乱させる危険因子であるため国としては何らかの口実をつけてコントロールせねばならなくなり、
結果として監視下のもと神社を通っただけで参拝などの正当な理由がないのに神社に入ったとして建造物侵入で逮捕、などの微罪逮捕されてしまうだろう。
などと考えると金が無尽蔵にあっても命がけの何かをしたいと思うまでは金が無尽蔵にない現状と同じ生活をすることとなり、あまり何もかわらない。
命がけで稼いでもいない無尽蔵の金をひきだそうとするのはどのようなときだろうか。
などだろう。
ある程度以上、まっとうで合法的な収入があれば、無尽蔵の金などあったらあったで非常手段にはなってもリスキーなだけで、そう別に夢のある話でもないという結論になった。
食べログに感想を書いても消されるよね。増田が食べログに感想書いても消されるだろうし、ほかにも問題点を指摘する感想書いた人はいたけど消されただけっていう可能性は高い。
いま自分は「料理はおいしいけど、店内の低周波音がうるさかった。(大意)」という感想を書いたのだけど、食べログに非公開処置を受けまくっている。
難癖つける内容ではなくなんとかなるといいなあくらいの感想。しかしだめ。
「3.お店へ悪影響を及ぼすかつ内容の確認が困難な事象についての投稿はご遠慮ください。」
・食べログは、お食事をした際の主観的な感想・意見を共有する口コミサイトのため、お店へ悪影響を及ぼすかつ事実関係の確認が困難な事象のご投稿はご遠慮いただいております。
「7.お店への個人的なクレームやトラブルに関する内容はご遠慮ください。」
・食べログは、お食事をした際の主観的な感想・意見を共有する口コミサイトのため、お店に対する個人的なクレームやお店で起きたトラブルに関するご投稿はご遠慮いただいております。
この2点に引っかかるとして文章全体を直せと言われている。
けど引用した規約を見れば分かる通り、店の改善点とかを書いた感想はほぼすべてが規約違反の対象になる。つまり消したい感想はなんでも消せる。
さらに、
「利用規約」
・お食事をされた店舗様とは直接関係のない、食べログの運営に関する内容や、口コミの修正に関する内容を書き込まれることはご遠慮いただいております。
Gl17 ↓実際多数がポンポン殺されてんのにナニ悠長な例え話してんだお花畑。/ こういう方向性の人らが支持する政治が進めば日本もあんな無法地帯になりかねないという話だな。
FUKAMACHI じゃあ、おれは立派な自警団員になって、高須邸にこっそり麻薬を隠そう。ドゥテルテ政権みたいな政治になるのが楽しみだ。嫌いな野郎をみんな葬って英雄になれるユートピア。 136 clicks
kouchi203 巻き添えで5歳の少女を含む多数の市民が自警団にコロされているらしいけど、麻薬撲滅のためにはしかたないってことですか これはひどい しょーがねーなー
Yoshitada それ、全部本当の犯罪者ならな……。
haruhiwai18 . ナチしぐさ
xevra ドゥテルテの問題は、殺された数千人の人達の妥当性の検証プロセスが無い事。私怨で殺しててもそれを見つけられない事。悪質な麻薬犯罪者だけが殺されているなら公約通りかもしれないが検証されない以上危険 20 clicks
こういう連中って石原都知事が何回も当選する度に東京都民を見下していたわけだけど、見下すだけで何の処方箋も解決策も提示できないまま文句言う口だけやろうだったんだよな
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.huffingtonpost.jp/2016/09/25/takasu-duterte_n_12177518.html
公式サイトも実質逃亡状態で、Twitterの公式アカウントも消えた
これはおそらくゴルスタユーザがアプリ内で配信する際に利用することになるURL
古参というか、正規ユーザだけがゴルスタ内部にはいれて、サービスを利用し続けているということか
実際に#ゴルスタ とかURLでTwitterを検索すると利用中のユーザのツイートが見つかるし
ゴルスタが現在、外界と隔絶された既存ユーザのユートピアと化している……?
で、もしサービス停止するってなったら、どうやって通知を出すんだろうって考えた。もう公式サイトとかTwitterで声明を出さないこともありえるのかな?
でも、ゴルスタを愛しているユーザらに尊敬されている運営が、ゴルスタ内部で何かドラマチックなこと(感動的な演説なり、声明発表なり)をしてサービスの幕引きをしたら、ゴルスタを愛してきたユーザにとっては伝説というか、歴史にはなりそう
いい意味でも悪い意味でも。客観的にみた構図が怪しい団体のそれ
このURLが利用できなくなる=ゴルスタのサービスが(少なくともユーザ配信などについては)終了する
って解釈をしていいのかな。なんにせよ今後が気になる
シンゴジラにハマって感想漁ってたら尾頭さんの弁当問題というのがあるらしく。
http://togetter.com/li/1014624
これフェミとかジェンダーとか以前の問題だと思ったんだけど同じ事書いてくれてる人がいないからここに書く。
まず、巨災対って、職場として最高じゃないですか。全員優秀だし全員が元の職場と連携してて動きも速い。上司は「査定に響きませんので自由に発言して下さい」ってあらかじめ言ってくれるできるやつ。ユートピアか。
それでシャツを着替えるのすら時間が惜しいレベルの修羅場に主力メンバーの一人がお弁当作ってきて「おお~」ってなるかなあ?「いや……ありがたいですけど……それより10分でも15分でも寝て下さいよ、何やってんすか尾頭さん」ってなるんじゃないかな……。差し入れも尾頭さんの気持ちも嬉しいけど、ご飯もおいしいけど、隣には家族とご飯食べる15分すら惜しんで戻ってきてる人もいるわけで、私はその人の顔見れないかもしれない。中には「気持ちはありがたいけどさー、弁当作る時間あるなら仕事して欲しいよなあ」なんて喫煙所で言い出す人がいたりして……ああやだ。そんな巨災対は嫌だなぁ。そんな職場に雑念呼び込むような事する人じゃ尾頭さんはない!シンゴジラにそんな人はいない……!とかのうっすらした違和感が頭の中をよぎった。
ざっくり言っちゃえば「飛影はそんな事言わない」なんだろうけど、ギャップ萌えというならなんでわざわざ「巨災対に差し入れ」シチュばっかりなんだろう?料理とかアイロンとか「普通の女性として」丁寧やってる尾頭ヒロミの日常漫画はないんだろうか??それならひっかからないっていうかむしろ見たいですけどね。
それから片桐はいりの事を考えてて思ったんですけど逆に“たまたま開いてた画面を見た片桐はいりが「あら?これ(放射線量の地図)とこれ(ゴジラの移動経路)、なんだか似ていません?」「何……まさか!」「マジかよぉぉぉ〜」”っていうシンゴジラって、何か違うくないですか。
ホントは言葉にするほどハッキリ感じたわけじゃないし、二次創作止めろとか言いたいんじゃないけど、まとめでフェミ的な括りにされてる人達の中にも同じ事言ってる人いると思うので、ちょっと書きたかった。
極論も何も温まった規制派にまともなボーダーなんて引けるわけがないからやりたいことを代弁してあげてるだけなんだけど
行動そのものが極論的な原理を元にしてるんだから文章化したら極論が出来上がるに決まってんじゃん
そもそもどれだけ影響力の強いものがあったとしてもそれに従うかどうかは極端な話、個人問題に帰結するから
戦争に参加したくないって醤油飲んで病気になっても行きたくないやつだって当時いたんだぞ
どれだけ影響力が強い状況に追い込まれてもそれでもまだ個人に残ってる選択肢を増やすも減らすも自分次第
その個人の自由意志を尊重するどころか「個人は簡単に他人に影響されて道を誤る」という自由意志に唾吐く様なことが
要はこの社会に生きる大人たちが自分たちの頭で考えて何が悪か何が善か判断するだけの知能と良識を備えてないってことになるんだが
赤ちゃん人間が前提ならそれこそ総ての要素を管理下において政府に統括させろよ
規制派の思い描くユートピアってそういう赤ちゃん人間たちが毒に一切触れずに生涯を終える環境のことだろ?
最初っから極論言ってるんだから文章化して改めて極論だと分かったところで何で一歩引いて怖気づいてるんだよw
そこは「そうそう、俺はこういう管理社会の元、社会に悪影響が一切ない世界で生きたいんだよね!」って胸を張れよ
なんでそこで引くんだよ
引く理由言ってやろうか?
要はお前個人が単に否定したい1つの要素に対してだけ社会から除外したいと思ってるから
社会に悪影響なんじゃなくてお前個人の精神に対して悪影響だから
本当の意味で主語がデカくて、結局困ってるのもイラついてる個人の「俺が気に入らない」
これだけ
だからそれ以上に対象が広がると自分の大好きな要素もセレクトされてしまうから引いてしまう
嘘ついてるんだよな
みんなじゃなくて素直に俺が気に入らないんだって言えよバーカ
この手の手合いってなんで二言目には「みんながそう思ってる」「みんなが迷惑してる」って出てくるんだろうな
みんなじゃなくてお前だよお前
お前が迷惑してると思ってるんだよ
自分と他人のボーダーが引けないから自分=みんな化してるんだよ
お前の常識の精度どれだけ高いか分からないけど根拠のない自信捨ててこい
境界性パーソナリティ障害者がネットで市民権得ると本当に主語がデカくなってシンゴジラ級になるから非常にめんどくさい
初めて知ったが、面白い試みかも。
たしか書きかけの本を公開できて、完成度が上がるにつれ最初ただで読めてもだんだん値段あげていくサービス、金を払い続ける人がいたらこの本完成しますよみたいなのがあったが、この試みとは相性いいかも。コメントにgitが挙がってるけど、ブランチ分けたりとかを見越してそういうの利用するのもいいかも。
僕は全然哲学とか専門じゃないので、細かくは語れないだろうけど、インターネット上のプラグマティズム(でいいのかよく分からんが)みたいなのがあるといいかなと。
最近よく目にするのが、自由すぎると人間かえって損をしてしまう場合が多いという主張。これについて語れないだろうか。以前よりサイバーカスケード、デイリーミー、デリートユーなどの言葉があったが、ユートピア幻想が、そこで描かれている世界が実現に近づいてくると、かえって良くないディストピアだ!となったように、自由すぎて目の前の事をコツコツやっていればそれなりに幸せだったみたいな人が、変な選択肢に手を出してしまい、失敗して落伍者になるみたいな。
「ネチケット」などと散々大人たちに講釈たれられていた時代に2chを知り
その無法地帯かつユートピアが居心地良くなるくらいには入り浸っていた青の時代。
2chがメジャーになるに連れ、アングラ感を無くしていき「ここはなにか違う」感を強く受けるようになり、
ようやく一般化したネットを踏破すべく意欲的に新天地探しに渡り歩きだしたバラ色の時代。
SNSが一般化し子供から大人までネットにつなかることを否定しない世の中が来て、
自分もその一員であろうとするものの、今ひとつ踏み出せずシュールな発言でお茶を濁す。
twitterアカウントを幾つか運営するにとどまる煮え切らない超現実主義の時代。
ふとした不用意な発言と、添付した画像のEXIFから炎上芸を披露し、あと一歩のところで現実にまで
延焼しそこねそうになるも、ギリギリ回避でき命からがら逃げ延びることに成功したゲルニカの時代。
そして、安住の地を求めた結果、気がつくと益田がそこに居た。
幾度も立ち去ろうとする自分を止めたのは枡田だった。
諦めの境地から救い諭してくれたのも桝田だった。
気が付くと増田になっていた。
元増田の言い様にどうも納得がいかないので一席ぶたせてもらう。
なお、個々人が作品から何を見出すかは千差万別であることは認識しているので、この記事を読んで意見を変えろなんて言うつもりはない。
ズートピア世界は、理性によって被食-捕食関係が終わり、共存できるようになったからこそ成立している。
理性の存在は、動物が喋る/二足歩行する/服を着る/文明化してる/etc.と同レベルの、物語における大前提である。
理性/野生の対立軸は本編前にもう終わっているのだ。
もちろん、これは「過去」として本編中でも言及はされるし、“偏見”の大本にもなっているが、この過去そのものが本編中に蘇ったりはしない。
では、元増田が見出した“野生”というのは何か?― それは“偏見”である。
「肉食動物は凶暴で草食動物を襲って食べたがっている」という偏見だ。
そしてこれはズートピアにおいて一貫して存在している、理性/偏見という対立軸の一部なのだ。
「肉食動物は凶暴」なんて、「ウサギは臆病」「キツネはずる賢い」と同種の偏見と言えば分りやすいんじゃないかな。
― 当然さ!でもそれは“野生(という名の「肉食動物への」偏見)”とは別物なんだ。
草食動物だって「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろうって?
― 当然さ!まさに黒幕がそうだったろう?
― あれは薬物による凶暴化さ。野生とは関係ないよ (薬物中毒の人間が暴れてるの見て「野生だ」って言う?)。
「理性は必ずしも野生より優れてはいない」、「理性が善、野生が悪とは限らない」、「理性ばかり肯定的に扱うな。野生にも光を!」。
しかしズートピア世界においては、過去に克服された野生にしろ、偏見としての“野生”にしろ、内容的には「共に暮らす隣人(隣獣?)を襲う」というものだ。
なに? 野生は自然だから善?それは自然主義の誤謬と言うのだ。
元増田は言う。
「ズートピアはユートピアを意識しているはずなのに、ユートピア文学等を踏まえた批判/論評が盛り込まれていない!つまらん!」
さて思い出してほしい。ズートピアはユートピア/ディストピア的な世界だっただろうか?
初期案(肉食動物に電気ショック首輪等々)であれば、これはなるほどユートピア/ディストピア的世界だと言えよう。
映画があって道路があって、スマホもあるし、屋台、車、電車、etc。職業だって警官からお役人、詐欺師もいれば泥棒だっている。
では、我々の世界はユートピア/ディストピア的だろうか?―もちろん答えは「いいえ」だ。
単に、ズートピアは作品の名前であり、都市の名前であり、ZooとUtopiaの合成語である。
ユートピアの俗語的な意味、すなわち“理想郷”的な意味合いは持たせているだろうが、それだけだ。
ぱっと見、理想郷にも思えるような、動物たちの共存する大都市ズートピア。
そこにも現実の、我々人間の世界と同じように偏見があり、差別がある。そういう世界。
タイトルがユートピアのもじりだからって、ユートピア的世界観なわけでなし、なんでわざわざ関係ない批評を盛り込む必要があるのか。(もちろん盛り込んでも良いが)
ズートピアはZooという単語も含んでいるわけだが、動物学(Zoology)の観点からの批評とか盛り込むべきだと思う?私は思わない。それと同じさ。
以下のブログ記事では「野生」の原語(Biology, Biological)について示してある。(全部ではない?)
「ズートピア」を見た。
結果、少々がっかりしてしまった。「理性」と「野性」というキーワードが引っかかってしまった。(地元には吹替版しかないのでオリジナルの表現は確認できていないけども)
社会差別、偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。
トランスジェンダーのガゼルが、作中でカリスマ的シンボルとなっているところを見るに、制作陣の意図として設定されたテーマは「一見ユートピアに見える中に残る差別偏見とのたたかい」みたいなやつだと思うよ。
私は理性/野性で読んだので批判的ですが。
○理性と野性
(理性/野性とも、理性/本能ともいえる。英語だと「savage」が使われているらしい。「野蛮」だ。)
・・・・・・・「理性による野性の淘汰」をこの時代にわざわざやります?
残念だったのは、「理性」「野性」の判断基準が恣意的であることに対して、さしたる言及もない点。
作中に言及されている「野性」の部分って、肉食動物の側だけなんだよ。
「(多数派である)草食動物への害になりうる野性」のみが、「野性」として取り上げられている。
草食動物だって、「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろう。
群れを維持するために弱い個体を追い出したりするというような。
そうしたことに、少しは言及されていてもよかったのに。
「草食動物が90%の社会だから、肉食動物の怖さにだけ、敏感だ」みたいな位置づけが欲しかった。
非対称的で、ひどく残念だった。
そして、ああ救われねーな、と思ったのが。
肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。
そして、肉食動物である彼ら自身が、野性の克服を「是」としているところだ。
野生に「戻った」カワウソが、彼の奥さんを認識できなかったりとか。
そして、「理性ある」状態の奥さんに、「あんなの夫じゃない」と言われてしまったりとか。
彼らにとっても、野性・野蛮は憎むべき敵なのだなという位置づけが、ひどく残念だった。
理性/野性の構図が一貫して変わらない。自明視されていて言及されない。
理性は善で、野性は悪。
あまりにも。
あまりにも不足が大きすぎるのではなかろうか。
○タイトルについて
タイトルは明らかにユートピアないしはディストピアを意識してのものだろう。
いわゆる「ユートピア(ディストピア)」にまつわる言説を、なんらかの形で昇華するのかな、という期待もあった。
「ユートピア」といえば。
元をたどればトマス・モアの「ユートピア」に連なる一連の「ユートピア文学」だ。
「人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾『合理的』な場所」だ(wikipediaより)。
だから、高度に機械化され、監視機能が発達し、そのなかで主人公が公職に付いた時点で、
過去の「ユートピア文学」らの批評を加味した、なんらかの言及がなされるのではないか・・・・・・という期待をした。
作中内に、理性/野性が取り上げられ。
理性が善で、野性が悪。
「ユートピア(=ディストピアに転じうるもの)」への、なんらかの批判がなされるのではないかと、期待した。
・・・・・・・・・・・・・・・・そ ん な こ と は な か っ た 。
理性によって作られた社会。
理性の肯定。野性の克服。
「それだけ」だった。マジで。
理性的で合理的な「ユートピア」が、「ディストピア」に転じうるってもう言及されているのに。
「理性」ゴリ押し。
それってどうなん。
つまらん。
愚痴終わり。
これ、字幕版見たら変わるかな。
でも県内にないんだよな。
県外までいく気力は、今のところ、起こっていない。
金さえ有れば良い教育が受けられて、良い人生が過ごせると思っている皆さん、間違いです。
金持ちの子は良い教育を受けて、良い学校に入り、良い仕事につくというのは一面の事実では有る。
本当の所は「まともな親は、比較的金持ちに多い」のだ。まともな親に育てられるからまともに育つのであって、金持ちだからまともに育つのでは無い。
子供が家に帰ると親が寝転がってポテチ食いながらワイドショーやお笑い番組を見ている。
喫煙者、安酒飲み。
趣味はパチンコorスマホゲーor改造車、宝くじを常習的に購入。
仕事は単純作業or非正規、数年かけてスキルやキャリアを積む仕事についた事が無い。
例えば、上記のような暮らしをする人間に、いくら金をやってもまともな子供は育たない。
貧乏人の子供は貧乏になる確率が高いのだが、それは最も長い時間を過ごす家庭がそのように運営されているからだ。
多くの金持ちの家庭はそうでは無い。
家に帰ると宿題を見てくれて、親は休日に美術館に行ったり読書をしている。子供は自然に学び、本を読み、豊かな文化的素養を養う。
整理整頓は自分の人生を効率的に生きる手段である事を身をもって教えられる。
海外に友人が居る。子供の頃から多様な文化に触れ、その中でアイデンティティを確立する機会が有る。
積み重ねた努力で、ある程度の地位や仕事についている人に囲まれた生活をしている。努力すれば、具体的にどうなれるかを日常的に見ている。
両親共に大学を出ている。子供の頃から大学に行くのが「当たり前」になっている。海外へのホームステイや留学も視野に入り、経験者の話をいつでも聞ける。
高い能力を持つ人に囲まれ、日々の生活の様々な場面で礼儀を学び、見聞を広げられる。
このような日々の暮らしこそが「文化資本」なのである。カネを持っている事など、瑣末な事でしかないのだ。(もちろん文化資本の無い金持ちも居る)
例えば貧乏人にカネだけ与えても、こんな暮らしは出来ない。せいぜい半額惣菜が外食になり、しまむらの服がブランド物に変わるくらいだ。(文化資本を持った貧乏人という存在は極めて少ない。)
東大に入る学生の親は約半分が年収1000万以上だと言う。日本の年収比率から考えれば明らかに偏っている。
もちろん、小学校からSAPIXをはじめとする有名塾に通える環境も一助にはなっている。まぁ塾代だけで、本気で通わせると小学1年から高校3年までで1000万以上かかるし。
しかし、家庭環境が壊れている子供をSAPIXに通わせたとして、有名私立に入れるか?と言われれば無理なんだよね。最も重要な家庭での学習が出来ないから。
良い教育とは、まず最初に家庭で行われる。家庭で教育を受けられない子供は、最初から大きなビハインドを食らって社会に出る。そこにいくらカネをつぎ込んでも無駄。
稀にトンビが鷹を産むが、そんな子供は現在の制度でも返済不要の奨学金がいくらでも有る。
格差とは経済力では無い。本当の格差とは、誰もが選べない幼少期の環境の事なのだ。
教育に過剰な期待をしているブコメが多いけど、家庭でするべき教育を学校が肩代わりしろと言っても無理ですよ。
何事も本人のやる気が無ければ始まらないのだが、その「やる気」をステロタイプな貧乏親は削りとる。
まともな親の子供は親&周囲のまともな大人からやる気をもらい続ける(ついでに良質な知識、コミュ力、広い見聞も)
要するに、日々の生活が追い風になるか逆風になるかの差がデカイのだ。これに比べれば、スタートラインの差など無いに等しい。
教育費を無料にした所で、大学に遊びに行くバカと、目標持った優秀な学生に二分されるだけ。
優秀な学生は大体親が金持ちだし、そうでなければ奨学金を取れる。
教育費無料なんて教育関係者のポジショントークでしか無いよ。乗せられている貧困層は利用されているだけ。
解決策は無いのか?という話だが、これ以上のバカの底上げは無意味なのでしない方が良いという立場だ。
そもそも日本は、ホームレスですら字が読める国だから、初等教育は行き渡っていると言って良い。
教育費でよく話に出てくるOECD各国だが、字を読めない人が普通に居る国だらけだからな。
日本の識字率は99%以上だから、初等教育(バカの底上げ)に成功している国とも言えるのだ。
巷で叫ばれている大学無償化、奨学金返済不要については、費用対効果が悪すぎるのでやめた方が良い。
20年ほどクズ親に育てられれ、何の文化資本も持っていないFラン大学生なぞ、支援しても無駄だから。
一定数、世間知に長けたワンチャンを掴める層は居るが、そいつらは放置してても勝手に伸びる。学校教育の範疇ではないからな。
やるなら一定以上の偏差値を持つ世帯年収が低い家庭の小中高生に集中して支援するくらいか。
しかし、いずれの場合もバカの感染を防ぐために寄宿舎で預かる必要が有るが、日本でやる事は不可能だろう。
日本国が行う学校教育に幻想を持っている人が多すぎだが、そもそも東大すら世界的には有象無象の一大学でしか無い訳で、本物のエリートは欧米やアジアのエリート養成大学に行ってる。
ただし、日本でエリート養成をする事は無駄に平等を重んじる文化から無理だろうなと思う。
みんな平等に格差をなくそうという思想はご立派だけど、現実的に考えると家庭に介入出来ない限りは不可能だという事。
国(あるいは他人)に出来るのは自力で一定ラインを超えてきた人を支援するくらいだ。
やる気のない(あるいはやる気を奪われた)人は、自助努力が出来ないので救いようがない。
共産党の機関誌である「前衛」を読んでいるコミュニストが、この記事をネタに書いているので見てみた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20160605/1465138757
まぁ一言で言えば「そう出来たらいいですね、ところでどこから金が出てくるの?」である。
松本は、さらにそこから夫が主な稼ぎ手で、妻が専業もしくは補助的な労働でそれを支えて、子どものケア労働を担当する「標準家族モデル」がいかに危機やトラブルに脆弱かを述べる。
そして、もし子どもに関わる費用をすべて社会が負担するようになれば、親は自分の食い扶持さえ稼げばよくなり、シングルでもダブルでも不利や不公平は解消すると述べる。これこそが「強い家族」なのだと。
さらにこう続ける。
もし小学校や中学校のように、高校や大学に誰でも行けることはおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も、子どもが無料でアクセスできるようになれば、その時初めて子どもの貧困は親の責任から切り離される。そこまで社会を進めることの覚悟とセットでなければ、容易に元増田のような非難に遭遇するハメになる、と松本は警鐘を鳴らしているのである。
ユートピアを追求するコミュニストらしい意見だ。で、そんな国どこにあるの?日本人は1億人以上居るので、中東の産油国でもこんな暮らし出来んぞ。
ちなみにその理想を実現しようとした国知ってる、ソ連とかいう強制収容所国家だ。
まぁ共産主義者に財源を追求しても仕方ない。彼らは責任をもって行動した事が無いのだから。
仕方がないので、テキトーだが俺が考える。
日本の0~14歳までの年少人口は1613万人。彼らに衣食住+文化的な生活+学習を無償化したとする。
かなり安めに見積もって1人1ヶ月10万円の経費がかかるとして、1年で120万×1613万=19兆3560億円
更に高校生、大学生まで含めると900万人ほど増える、1人月10万で年間10兆円ほどかかる(年齢が高くなるほど消費が増えるが、面倒を見る職員の数は減らせるので同じ経費とする)
合計して約30兆円、数字を見ただけで非現実的だとわかるだろう。
まぁ所得税を3倍にすれば実現可能だ。もしかしたら、共産主義者として望む所なのかもしれない。
現在の日本において、財源を示さずに甘い夢だけを語るのは誠実な態度だろうか?
耳障りの良い話、目の前の人を気分良く救える話は正しいのだろうか?
共産主義者は家族の解体を是とする。旧ソ連では集団主義教育が行われていた事は周知の通りだ。
全ての子供を「学習はおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も」親の責任から切り離す覚悟が問われるそうだ。
まさしくコミュニストに相応しい思想ですねとしか言いようが無い。
ちなみに私が提唱する解決策?はこんな感じ。ブコメにも有ったが、教育は数世代で解決するしか無いので、まず1代目はお金を稼ごう。
1代だと所詮成金なのだけど、2代続けばその子供は教育が行き届くようになるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160225194038
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
もうだいぶ最後の方になりましたから、お疲れでしょうから、あんまり硬くならないで、(参考人の先生方に)豊かな発想でお答え頂きたいんですけども....
今、院生ということでして、参議院が存在価値をどこに求めるのかという議論なんですけども、この議論というのはおそらく何十年、延々とやられてきてる議論なんですよね。ほとんど変化なく。
たとえば党員拘束の問題もやりましたけど、これはやっぱり先生方がおっしゃってましたようにね、なかなか難しいだろと。それで本当に党員拘束を止めるというのであれば、参議院議員は政党所属を法的に禁止しなければいけないと思うんですね。そこまでやらないと政党に居てですね、参議院だけはなんとなく党員拘束から自由でいこうぜ!って、それはもう土台ですんで、ユートピア的に言ってるだけで、まったく意味がないと私は思っています。(仮に)それであれば憲法上の問題はクリアできるんじゃないかと思いますけど、(そのためには)参議院議員は基本的に法律で政党所属を禁止するということが必要だと私は思います。
それから新井先生はですね、とりわけ”行政監視”に参議院の機能に集中すべきだと力説されたと思うんですけど、巨大な官僚機構を、このままだと国会まで官僚機構に支配されてしまうのではという危惧さえ持っておられると。私も行政監視についての意見は(色々)あるけれども、行政監視を補充してしっかりしたものにする、理屈はそうなんです。ただ(参議院を)開けない、開いても大した成果をあげていないとなると意味がないんですね。
参議院とは、本当の意味では、なかなかこうあるべきだと言っても、基本的には機能を発揮できない状況にあると私は思ってるんですね。せいぜい政権の暴走とか、多数与党を慎重にさせるとか、衆議院の政策を時間をかけて審議するとか、この程度なんですね。期待されてるのはその程度、それ以上のことは現実的に参議院には誰も期待してないし、期待したってできないですしね。
そこでですね、これは憲法上の問題もありますし、ややユートピア的かもしれませんけど、たとえば日本がアメリカの51番目の州になるということについて、憲法上どのような問題があるのか、ないのか。
そうすると集団的自衛権、安保条約ってまったく問題ありませんよね。たとえば今拉致問題ってありますけど、おそらく起こっていないでしょう。それから、いわゆる国の借金問題についても、こういう国の行政監視が効かないようなズタズタの状態には絶対になっていないと思うんですね。
これは日本が無くなるということではなくて、アメリカの制度であれば人口比において、下院議員の数が決まるんですね。そうすると、おそらく日本州というのは、最大の下院議員の数を持つと思うんです。上院も州1個とすれば2人ですけれど、日本もいくつかの州に分けるとすると、十数人の上院議員を選出できる。これは世界の中の日本というけれども、ようするに日本州の出身者がアメリカの大統領になる可能性が出てくるということなんですよ。ということは、世界の中心で行動できる日本という、日本とはそのとき言わないですけれども、それもあり得るということなんですね。馬鹿みたいな話だと思われるかもしれないですけれど。
たとえば今アメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引く。これは奴隷ですよ、はっきり言って。それで、リンカーンが奴隷解放をやったと。でも公民権もない、何もない、ルーサー・キングが出てきて、公民権運動のなかで公民権が与えられた。でもですね、まさかアメリカの建国あるいは当初の時代に黒人、奴隷がアメリカの大統領になるようなことは考えもしない。これだけのですね、ダイナミックな変革をしていく国なんですよね。
そういう観点からですね、たとえば日本がそういうことについて憲法上の問題があるのか、ないのかということについてお聞きしたい。それから、政党所属を忌避するということについての憲法上の問題があるのかないのか。これについて、まず荒井議員からお聞きしたい。これはですね、十数年前から日米問題研究会ということがありまして、それで本まで発表されてるんですね。だからそういうことについてですね、日本の憲法的な観点から、どのように思われますか。お聞きしたいと思います。
例えば、オリンピック、ワールドカップの様に世界的なイベントが少ない気がする。
さっぽろ雪まつりも素晴らしいのだが、世界的には中国の大連氷祭りの方が知名度が高いと思う。
コミケ… は盛り上がっているとは思うが、一般層(子供連れてとかハイカルチャーの評価に耐えうる)から見て難しいので、その内、英語系のメディアに、アダルトイベントを国策を上げて応援する異常な国日本という記事が出るだけの話は時間の問題であるので論外だろう。(決してコミケが悪いと言ってるわけではないが、そういう性質のイベントだという話)
本線に戻ると、よいお祭りなどもたくさんあるのに、例えばスペインのトマト祭り、牛追い祭りに比べると世界の認知度が低い気がする一方で、かなまら祭りだけはやたらと知られているのも、なんだかなーという感じ。(逆に日本人の方がかなまら祭りにはあまり行ってもない、尻もしないというところではないだろうか)
映画祭・音楽祭・ファッションウィークも日本でもやっているが国際的な知名度はほとんどない。
コスプレなんかは単独イベントでアダルト性を排除すれば世界でもトップクラスのイベントになれるポテンシャルはあると思うのに、ちょっと残念だ。
それこそ寿司職人ワールドカップを日本で開催してもいいくらいだ。
なぜこうなるかというと、もともとイベント毎にビジネス性がなく、日本の場合とりあえず「東京」に来ればなんでもできるという環境のせいなのではないかとも思っている。
モントルー・ジャズ・フェスティバル、フェットドゥラミュジック、サンバカーニバルなどと比肩しうるいろんなイベントを是非日本からも胸を張って出てほしいものだ。
##トラバもらったので追記
・甲子園はなるほどいいなと思ったのだけど、甲子園はオラが街の高校生を応援したいという日本の土着のコンテキストがイベントに強く付与されてしまう気がして、そうなると世界的なプッシュはなかなかハードルがあるのかなと。
・漫画賞の話に関しては、全く同感で別のポストで書こうと思っていた所。(中身は一緒)
・CWCはトヨタカップの頃を少し覚えてるなぁ。確かに盛り上がっていた。ただ今回の投稿は海外のコンテキストでのイベントを「誘致」するという話ではないので、ちょっと別の議論だとは思うけど。誘致に関してはそれによって国威発揚が必要な新興国やオイルリッチのアラブとかにまかせておけば良いのかなーと。
・増田だとこのレベルでもネトウヨみたいと言われるのは正直困ってしまうが、ブコメは多分違うんじゃないかなぁと。政治色の強いものはブコメはそもそもあんまりID付きだから見ないわないしね。国境のなく且つユートピアに暮らしたいならどうぞご自由にとしか。
http://anond.hatelabo.jp/20151201143130
メールを受け取った私がまっさきに行ったのは、ムダ毛周りの処理であった。
風呂には入り終わっていたし、施術の前にも入ることになっていると言うが、毛については自宅で処理をしていくほうが賢明だろう。
忘れちゃいけない脇の下も処理。
どこをどれだけどうされるかはわからない。
施術者をげんなりさせる要素はひとつでも減らしておきたいではないか。
ムダ毛を刈りつつもメールのやり取りを数回行い、1時間後に最寄りの駅で待ち合わせ、ということになった。
そこから車でラブホ(ファッションホテルという呼び方はいまだに馴染めないものを感じる)へ向かい、めくるめく春の世界へ、というわけだ。
殺されるかもしれないと少しだけ思ったので、ノートPCをつけたままにし、マッサージ店のサイトを開いておいた。
そしてふと思い立ち、はてなのアカウントを作り、今から出かける旨を書き記した。
リアルの身分をトレースされないため、バッグの中には必要最小限のカードしか入れていない財布と、がっちりロックしたスマホと、部屋の鍵、ミンティアだけをぶち込む。
そしてコンビニへ向かい、ホテル代込みのゆとりを持った予算3万円をキャッシングする。
性のためにこんなにもお金を使うのははじめてだ。
(ちなみに、今までのエロへの最大支払い額は、官能ドラマ的なものを聴くダイヤルQ2に払った8000円程度である)
「はじめて」。
駅に向かうバスの中でしみじみ思う。
本当に好きな女の子とヤレるか、というのはお金の問題ではないかもしれないが、好みの容姿の若い女の子に中出し、くらいであればソープで10万も払えばイケるのではないだろうか。
私の定番オカズAV(しかもサンプルを使っている有様だ)「しろうと関西援交」など、ピチピチ女子高生2名を一気に買い、ひとりに挿入しつつももうひとりにアナル舐めをさせるという幸せそうなことを当たり前のようにやっている。
しかし、アーイグイグ~~とうめく映像の中の彼はとても気持ちが良さそうだし(その声が大変にヌケるのだ)、あれがリアルな援交なのだとしても、きっと1人につき5万も払ってはいないように思う。
羨ましい。
私も若い女にチンポをハメてみたい。
処女を優しく、かつ荒々しく奪い、キツいマンコに耐えきれず中出しなどしてみたい。
私にそれをしたあの親指チンポの彼のように(中出しではなかったが)。
若い童貞ならどうだろう?
お金を払えば買うところまでは行けるかもしれない。
ただ、買った男の子が私に勃起してくれなくては全く意味がなくなってしまう。
ホストなどでもそれは同じことだ。
「私に欲情して」というようなことを書いた作家は誰だっただろう。
まったくもってそれなのだ。
私が好いた誰かに欲情されて、イかされたい。
だって私が触れてきたエロメディアの女性達はそうだったのだから。
好いた誰か、は諦めた。
欲情される、なんてこの年齢と顔と体ではおこがましい。
イかされたい、が最後の砦といえた。
待ち合わせの駅に着くと、少しだけ雨が降り始めていた。
「到着したらメールします」と知らされていたが、メールはまだ来ない。
手持ち無沙汰に、普段のようにTwitterを、LINEを見て、何気ないツイートや、返信をする。
ここで「今から回春マッサージしてくるよ」と入力したら私の何かが変わるだろうか。
最後の彼には連絡してみようかな。
思わなくもなかった。
そこにメールが届く。
「自販機の前に着きました」
小さくて丸っこい車がそこに待っていた。
車内はよく見えない。
「あ……トウヤマです」
メールで名乗った偽名を告げる。
思い切ってその丸っこい車のシートに身を委ねた。
なぜマッサージを呼ぶことにしたのか、その経緯などを話した気がする。
おそらく私は饒舌だった。
オッサンも饒舌であった。
そう、回春マッサージの施術者は、おそらく50代くらいであろうオッサンであった。
小柄、メガネ。不潔そうではないが清潔とも言い切れない。
私が「今日の予約がダメなら縁がなかったと諦めるつもりだった」と告げると、たまたま今日に限って「通常の」マッサージの常連からドタキャンがあったため受けたのだと言われた。
日頃から「持ってる女」だと自負していたが(ならなんでイケないのか?きっとそれは多分、別問題だ)ここでそれを発揮するとは思わなんだ。
車は、オッサン推薦のホテルに滑り込む。
うっすらと見覚えのあるホテルであった。
週の頭にしては混みあっているそのホテルに、空室は3つしかなかった。
5000円代の部屋は安いのか高いのか。
今まで数多のラブホに入ってきたが、値段はあまり意識せず部屋を選ばせてもらっていたなぁと申し訳ない気持ちになりつつ、もちろん選んだのは安い部屋である。
小さなエレベーターに乗り込むとき、少し身体がこわばるのを感じた。最後の彼に、よくエレベーターでキスをされていたからだ。
しかし当たり前のことだが、オッサンが私にキスなんぞするわけがない。
自分の警戒心に苦笑しつつ部屋に入る。
激しい既視感が駆け抜けた。
この部屋、入ったことがある。
厳密に言えば全く同じ部屋ではないかもしれない。フロアが違うかもしれない。
でもこの内装は見覚えがあった。
最後の彼と1度来たことがある。
この部屋でしたセックスも思い出せる。
一緒にサッカーを観た帰り。デブの私がレンタル衣装を無理やり着て、制服プレイをした部屋である。
………つくづく「持ってる女」だな、私。
一気に覚悟が固まった。
冷蔵庫からサービスの水ペットボトルを取り出し、ひとくち飲む。
車の振動でまたマンコが濡れていた。
下着はつけておいて下さい。
そう言われたのでガウンの下にはブラジャーとパンツをつけてあった。
ベッドにうつぶせになるように促すオッサンに従い、ラブホの大きなベッドに横になる。
他の女性専用マッサージはどうなのかわからないが、このオッサンの手法は普通のマッサージを施したのちの性感マッサージなのだという。
罪悪感が軽減される、いいシステムだと思った。
例えば誰かにオッサンと一緒にいる場面を見られたとしても、あくまで「普通のマッサージにお金を払いました」、という顔ができなくもない。
で、オッサンのマッサージは上手かった。流石にこちらが本業だけある。
特に良かったのが二の腕のマッサージ。二の腕なんて揉まれたことがなかったが、存外に疲れていたのだとしみじみわかった。
相変わらず二人とも饒舌だった。
それと、オッサンのスンスンという鼻すすりが気になった。
寝てもいいですよと言われたがそんなもったいないことはできない。
気持ちいいことをされているあいだは気持ちよさを全力で感じていたいのだ。
今まで行ったマッサージ屋の話、高速バスの話、最後の彼によくマッサージをされたが正直いつも痛かったという話など、美容院でもマッサージ屋でも「黙ってやって欲しい、ほっといて欲しい」と思う私なのに、よく喋ったと思う。
なのに、1度でいいから人に触られてイキたかったからあなたを呼んだのです、ということはどうしても口に出せなかった。
いっぽう、オッサンはスンスンとよく鼻をすすった。
「普通の」マッサージからだんだんと、尻たぶを揉み、横乳に触れ……というものに切り替わってきた。
来たか。
マッサージでほぐれた身体ではあるが、内心の緊張は隠しきれない。
うつぶせのまましばらく触れられていると、鼻をスンスンさせながら、オッサンの手が太ももをそっとひらく。
下着の上からつうっ……と、マンコをなぞられた。
舌!?
そう思うほどの繊細な触れ方にまず驚いた。
AVを見ていても、パンツ越しにマンコを触るシーンとマンコにパンツをくい込ませるシーンはイラつきながら飛ばす私が、少し感じてしまったことに衝撃を受ける。
舌のような指がマンコを這う。パンツの上からだからこそのもどかしさが襲ってくる。
これは、気持ちがいい。
うっとりとかよりも、驚きが先に立った。
オッサンはうつぶせの私に対してどうポジショニングしているのか、よくわからない。顔にタオルをかけられているからである。
オッサンの姿勢を想像してしまい気が逸れるが、「身体を起こして下さい」と言われてぼんやりそれに従った。
ベッドに座ったオッサンに身体を預け、もたれかかる。
オッサンは後ろから私の乳をそっと触る。
もともと胸は私の性感帯である。心地よさを感じて目をぎゅっと閉じて感覚を味わう。
オッサンが私の手をそっと握ったのである。
本当に申し訳ない。こんなデブスババアの体なんて触りたくないだろう。万券もらったって、ボランティア同然だ、そうわかっている。
オッサンは汚くはないし無臭である。マッサージもうまい。マンコを上手に触ってもくれた。
でも、手は握られたくなかったのだ。
なんとまあお綺麗なことである。
「娼婦だけど唇は許さないの」の逆バージョンだ。「男は買うけど手は握らないで」。
そっと、オッサンの手がブラのホックに触れる。やりにくそうに肩ひもを落とし、ガウンを脱がす。
直接触れられると声が抑えられないほどの感度の乳首なのに(ブラ越しでも机などに擦れると感じてしまうことがある)、その時はオッサンの手つきにあまり興奮を感じなかった。
このまま冷めてしまうのだろうか。
ふたたびうつぶせになるように促される。
今度はパンツを脱がされて、指で直にマンコを触られた。
普通のマッサージの時から思っていたが、オッサンの指はすべすべしている。
すべすべの指が私のマンコのぬめりを掬い、縦に撫でる。これは気持ちがいい。マッサージされている時から、気持ちいい部分では声を上げていたので、その延長で私は声を出した。
クリトリスを撫でられる。うつぶせのままで触れられたことは多分ない。変な感覚だがイヤではなかった。イケそうかと言われたらまだまだ遠いが、気持ちがいいので声を上げる。何度もそこを擦られる。
そこにまた不快感が襲う。
オッサンの指がマンコに侵入したのだ。
電マを友としているくらいだ、私はクリトリス至上主義、マンコの中には何ら感動を感じない人間である。
AVの激しい手マン、その果ての潮吹きには憤りすら感じる人間である。
そういう意味での怒りなのか。
手を握られた時の感情と同種の怒りなのか。
そういえばNG行為的なことは全く確認されなかったなとふと思う。
指入れないでください、と言っておけばよかった。
あいにく私はこういう時(たとえば、飲食店でオーダーミスをされた時、たとえば、ネイルサロン側のミスで2時間待たされるハメになった時)、強く出ることができない人間だ。
そんな女だが、もちろんここでニコニコ笑いはしない。今日はイキにきたのだ。払う金の単位も違う。静かな抵抗として、クリトリスを触られていたときは自然に上げていた声をむっつりと潜めて、オッサンの手マンを批難した。
手マンはそれほど激しいものではなかった。入り口をクイクイ、指先をヌプッ、その程度だ。鼻をほじるのと何ら大差はない。
それでもさっきまでの気持ちよさは飛び散り、まさかこのまま手マンで終わるつもりじゃないだろうな?という暗雲が脳裏によぎる。
私の温度が明らかに下がったことに気がついたのか、オッサンが「足がむくんでましたから、オイルマッサージしておきましょうか」と囁く。私はそれを承諾した。
オイルをぽたぽたと体に垂らされるのは実に官能的だった。
「Oh」もしくは「Ah」という表記が相応しいだろう。
背中から腰にかけてを指でソフトに撫でられると、くすぐったさに声が出た。
まずはうつぶせた背中側を。肩、ふくらはぎ、足の裏。オイルで滑ることによってオッサンのマッサージ技は数割増に心地よく感じられた。
イカなかった。イカなかった。けどまぁ、クッソ高いマッサージを買ったと思えば……そう落としどころを見つけかけた時、鼻をすすりながら、オッサンの手が再びマンコに忍び寄った。
オイルでぬるついた指が再びマンコに侵入する。
うつぶせのマンコに人差し指と中指を入れているため、ケツの穴に親指が当たるのが大変に邪魔くさい。気が散る。つくづく私はクリトリスだけを触ってほしいのだと思い知る。オッサンは人差し指に中指を絡ませるアレでもってマンコを攻めはじめる。チンコ脳特有のアレである。イクぜ!俺の指技!と思っているのかもしれない。大変に迷惑であるのであれを言い出した奴は終身刑を食らうべきだと多くの女が思っているはずのアレ。Gスポットがあると信じている(あるのだとは思うが私にはそれはガンダーラでしかない)男のユートピア、Gスポット手マン。ゼイ・セイ・イット・ワズ・イン・ヴァギナ。
もちろん私は無言である。
痛みすら感じて枕に顔を埋め、黙り込んだ。
オッサンは指技が通用しないことに焦りを感じたのか、鼻をすすりながら、私に体を仰向けるように指示した。
オイルでぬるついた乳輪を、オッサンの指がこねくりまわす。
オッサンがどうやら指のみしか使わないものと読み、言い出さなかったが、心の奥底では激しく乳首を吸われ、噛まれることを望んですらいた。
大きく声をあげる私に安堵したのか、オッサンは鼻をすすりながら再度、マンコに指をのばす。
もう同じなので省略するが、手マンに対して私は無言を貫いた。
反応するのはクリトリスにのみ。そう決めて黙り込むと、オッサンはようやく察してくれたようだ、指でクリトリスを撫で始める。
電マほどの安定感がないことに対する、嬉しくない焦燥。
ああ。
親指チンポの彼の苛立ち、今ならわかる。
愕然とした。
でも、だけど仕方ないじゃないか。はじめて私をイカせたのは電マ、私を一番多くイカせたのは電マ、文句を言わず、何も求めず、私がデブでもブスでもババアでも、黙って奉仕してくれるけなげな電マ。
電マじゃなきゃ、多分。だれとしても同じだ。
私は人とのセックスでイクことが、多分できない。
マジかー。
今、こうやって赤の他人にクリトリスをなぶられながら、こんなことに気がつかなくたっていいじゃないか。
こうなったら意地でもイってやる。
中イキじゃなくていい。クリイキでいい、でいい、というかそれが私のイキ様だ。いつも通りイッてやる。オッサンは2時間14,000円の、ちょっとテンポの狂った電マである。本来業務であるマッサージはうまい、単なる電マである。
オッサンは鼻をすすりながらクリトリスに集中している。私はタオルで顔を隠されているのを良いことに(それでも恥じらい、ためらいはあった)自分の胸をわしづかみにした。
ぬるついた胸は自分で触っても最高にエロい感触で、乳首を撫でると腰が浮いた。
左右の乳首とクリトリス。ここだけ触られれば十分なことを再認識する。いつものように足をピンと伸ばせば、オッサンの手ももうマンコには侵入できないだろう。私は3点の快楽に集中した。何分経っただろう、多分5分はなかったと思う。イキそうになる。ここでやめたら許さねぇ!という気持ちと、マンコに指入れるなよ!という気持ちを込めて声を大きめに上げる。
「スンスン(鼻)」
「イクゥゥウゥ!!」
イッた!!!!
ここで私によぎった喜びは「他人の指でイッた」ということに対してのものではなかった。
そういう、とてもがめつい喜びだった。
快感の度合いで言えば、ダラダラ1時間くらいクリトリスを電マで刺激したあとに味わう本イキのほうが断然上だと言えた。
それでも。イッたのだ!!!
達成感に包まれている私の太ももを、オッサンはそっと撫で、終わりですよ感を醸し出す。
おいおい、それじゃあ私がすっげぇ汚ねぇみたいじゃねーか、とは思ったが、実際汚らしい外見のマンコなので文句は言えない。
「あ〜〜〜〜、損した」
オッサンに14,000円を支払い、ホテルの部屋代を精算して、再び車に乗り込む。
どこそこのうどん屋が移転したとか、チェーンのマッサージ屋はテクニックがどうとか、そんな話で帰路は終わったと思う。
自宅にほど近い、さっき3万円キャッシングしたコンビニまで送ってもらうことにした。
「いいですよ、そういうの大歓迎」
なにが歓迎かよくわからないけど、オッサンはコンビニにするっと車を入れた。
「ボクここでタバコ1本吸うんでね。コンビニ出たら知らん顔して帰っちゃってください」
そう言ってオッサンは、さっき私のマンコの中に入れた指でタバコを取り出した。
その代わり心がずしんと重かった。
「汚れてしまった」みたいな後悔ではない。
万単位の出費に値する快楽が得られなかったことへの後悔、というか、失望であった。
それでも私には電マがあるじゃないか、という安心感と。
コンビニを出る。オッサンの車はまだあった。コーヒーのひとつも渡してあげるべきかと思ったけれど、他人のふりがスマートだろう、もうお金は払ったのだから。
シャカシャカとコンビニ袋を鳴らしながらアパートの階段を上る。
鍵をひねって、「ただいま」と言う瞬間、私はとてつもない多幸感に包まれる。
部屋に帰ればいつでも、電マが私を待っているのだから。
そう心から思えた夜だった。