はてなキーワード: 規則とは
境内は神域であり原則畜獣立入禁止なんだが、ごく普通に「散歩中ですよ」みたいなさわやかな顔して犬連れて入ってくる奴が非常に多い。
とはいえ地元の人間は殆どいなくて、他地域から来る人間や旅行者が大多数を占める。
常連にも犬連れが居るのかというとこれが一人もおらず、犬連れて入ってくる奴らはと言えば見た事もない連中ばかりだ。
しかしそれでも境内に犬の姿が絶えないんだから年間どれだけ一見さんが来てるのかっていう話でもある。
まあ私も犬は割と好きな方なんで、犬来ても仏頂面で「かわいい」と思って眺めるだけなんだが、流石に立場上あまりよろしくない。
境内での犬どもはいきなり知らない場所に連れて来られたせいか大抵おとなしいので問題が起きる事もないが、放置するのもまずい。
たまにリードすらつけずに飼い犬を野放しにしているとんでもない奴も来るが、犬も飼い主も問題起こさないので注意しづらい。
まあ犬嫌いの奴にとっちゃその犬がかわいいか無害かなんて関係ないわけだから、リードつけてないだけで十分な迷惑行為とも言えるんだが。
ただ、犬連れて旅行とかするくらいだし飼い主も感覚が麻痺してるのか、普通に犬連れて受付に来たりする。
受付者「…すみません、ワンちゃんはお外で待っていて頂けますでしょうか?」
夫「(気付く)ん?何で外行く?」
妻「犬は外で待てって」
こちらは常識を説いただけなんだからわざと悪意にまみれた翻訳をして夫を焚き付けるんじゃねえよクソ飼い主。
こういうのがあるので、犬連れの受付はスルーするようにしている。
他にも、
断られるのがハッキリわかってる質問を敢えてして一度断られたのにそこでまだ食い下がるんじゃねえよ常識考えろクソ飼い主。
というのがあったり、
飼い主「〇〇、〇〇、〇〇、タマ…」
受付者「…。(まあお婆ちゃんの名前かもしれないし…)」
飼い主「ジョン…」
受付者「……。(もしかしたら外人の家族がいるのかもしれないし…)」
飼い主「ミケ…」
ですが~じゃねえよ家族の名前言えって言われてんだから自己判断でペットの名前付け加えてねえで言われた通り家族の名前だけ言ってりゃいいんだよクソ飼い主。
というのがあったりするので、
どちらかというと大人しいペット達よりも無理難題を言い立てる飼い主の方が普通に畜生に見える。
人間の飼い主達よりもペット達の方が神社ではずっといい子にしている。
で、こういう事が続いたりしたので職場でも犬連れの参拝者に口頭注意するようになったんだが、これがまるで効き目が出ず、犬の数が一向に減らない。
そんなやり方では、口頭で注意した飼い主が、その後家に帰ってから口コミで「あの神社で犬連れてたら注意された」と広げ、やがて犬連れてくる人が減るのを期待するくらいしかない。
こりゃ長期戦を覚悟しなきゃならないか…と思っていたところ、ある日突然、境内をうろつく犬の数が激減した。
“景観保持の為こんな無粋なモノを張りたくない”としぶる向きも多かったが、ダメモトで、入り口に張り紙を一枚張る事に。
「境内に犬を連れて入らないで下さい」
あっさりと、犬の数が激減した。
要は、「犬連れて入っちゃダメ!って書かれてないから入ってオッケーなんじゃね?」って思われてたって事なんだろうな。
そういう事じゃねえんだがなあ。
見て分からない人間に言って分からせるのは難しい。こんな言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」。五十六ちゃんの名言だ。
見ても分からない人間に教えるのはかくも難しい。「見て分かるでしょ?」で済む「見て分かる人材」がいかに貴重なことか。
「1を聞いて10を知る」なんてまだまだ有能じゃない。「聞かなくても知る」のが真に有能だ。
人生には無数のシチュエーションがある。本で読んだ知識が通用しない時、頭で考えていた通りにいかない時も沢山ある。「言われなくても知る」には知識や思考だけではダメなんだ。
「見て分かる力」が大事なんだ。そんな「見て分かる力」を持った人こそ「地頭がよい」とみるべきだ。
ところで、程度の差はあれ見て知るのは誰でもやっていることである。私たち人間は頭で考えなくても見てある程度学習できる。
いちいち全てを頭で考えていたら頭がパンクする。時間もかかる。忙しい世の中にもついていけない。だから多くの知識は見て学ばねばならぬ。見て分かる力は超重要。
重要な力だが個人差は激しい。見ても中々覚えられない人から一発で覚えられる人までいる。見て一発で多くのことが分かる人は極めて少ない。そんな人材を我が国は育てるべきだ。
知識だけで役に立たない人間はいくらでもいる。そこで「生きた知識」って言葉が叫ばれる。臨機応変に使える知識。
そんな知識をつけるにはどうすればいいか?とにかく実践?そうじゃない。沢山実践しても要領をつかめないと意味がない。その要領をつかむために見て分かる力が重要なのだ。
「身体で覚える」という言葉は窓から投げ捨てよう。馬車馬のように働くのは御免だ。無駄な努力大好きなドMでもない限り。
日本は美徳の勤労を「無駄のない勤労」にアップデートすべき。国際競争に勝つためにも、そうすべき時代に来ている。今すぐにも見て分かる力を養成せねば。
見て分かる力は従来の学校教育では育たない。知識偏重は駄目ってことで思考を育てる教育が推進されてる。でも、思考偏重もダメなんだよ。
確かに論理的思考力は情報の真偽や矛盾を判断するのに重要だ。また、思考力があれば知識の少なさをかなりカバーできる。だから、思考力は育てたほうがよい。
だけど、思考力だけでは臨機応変にはほど遠い。いくら論理を構築しても現実に即していないと意味がない。論理性と実用性の間には解決しがたい隔たりがあるのだ。
なのに思考力ばかりが重視されてしまっている。それも本の知識をもとにした思考が想定されており、現場の知識はほとんど想定されない。
そんなことだから、それに反発して「とにかく実践」を連呼する実践至上主義が出てくる。結果、頭でっかちな人間と体育会系人間を育てているだけで、本当に必要な人材を育てていないのである。
そもそもの原因は思考への誤解である。思考など人間の情報処理の氷山の一角なのである。それがよく分かってないから思考偏重になる。
人間はいちいち考えずとも見て沢山の情報を処理している。思考はその一部をピックアップして制限された処理をしてるだけ。
具体的には、使用言語、論理性、興味、好み、道徳性、常識、先入観といった制限を受けるということだ。
そうした制限とは引き替えに良質な情報が得られるかはともかく、とにかくかなり制限される。仮に良質でも微量では役に立たない恐れがある。
そんな思考ばかりを推進せず、まず現場の実物や実態をよく見たほうが良い。そのほうが現実に即した情報が大量に入る。
この手段を世間では「観察」や「直観」と呼ぶ。「観察」だと得られるのは生データであり規則性を認識するニュアンスが弱い。よって、ここでは「直観」という言葉を用いる。
教育学において直観は古くから重視されてきた。しかし、教育制度や教育現場ではあまり重視されてこなかった。
思考への過剰な信頼が原因である。今こそ我が国はデカルトに象徴される西洋近代合理主義を振り払う時なのだ。
スローガンは「見りゃ分かる」だ。この言葉をどんどん使っていこう。「ググレカス」(調べれば分かる)や「頭使え」(考えれば分かる)は抑え目にしていこう。
俗に言われる「空気読め」という言葉や、世の会社で言われる「周り見ろ」という言葉もこの亜種だ。じつに妥当な言葉である。
ただ、「見ようとしないこと」を非難してはいけない。部下が言うことを聞かないのはあなたが部下を「見ていない」からである。
また、「見ても分からないこと」も非難してはいけない。誰でもステップバイステップで成長していくのであり例外はない。適切なステップを与えるのは教育者の役目である。
昨今では忌み嫌われる長文で、たいして面白くもない内容なので誰も読まないだろうが、それでいい。
軽く自己紹介。精神科病棟で働きはじめて一年になろうとしている。看護助手の契約社員。今年で21歳になった。
一浪して合格した、世間的には難関と認識されている、都内の有名私立大学()を半年で退学して、今の職場に入った。高卒資格なしで将来食っていけるか不安なので、不況でも食いっぱぐれないと聞く、看護師を目指そうと今は考えている。それ以前はコンビニのアルバイトと日雇いの倉庫作業くらいしかしたことがなかった。退学した理由はくだらない。授業に出席せず、単位取得における必須出席率(三分の二)に満たなかったので、留年がほぼ確定していたからである。受験当初から志望校などなく、勉強もさほどせず、たまたま合格した大学にとりあえず入ったという塩梅で、絶対に卒業しなければならないという意志もなかった。中流家庭で経済的には比較的恵まれていたので、仮に努力さえすれば(一般的な大学生にとってはそれは努力ではなく普通のことなのだろうが)一留したとしても卒業はできたはずである。まったく親不孝な息子である。
わたしが働いているのは比較的症状が安定した患者が療養する慢性期病棟である。患者の平均年齢は65歳くらいで、ほぼ全員が統合失調症の患者である。平均入院年数は約15年である。医学的知識に乏しいので統合失調症とは何かといった説明はしないが、約100人に1が罹患するとされている疾患である。自分の身近に統合失調症を患った者がいても珍しいことではない。事実、わたしの身内にも罹患者がいる。距離的に頻繁に会うことはできず、ほとんど疎遠であるが自分と年齢が近いこともあり気にかけている。
慢性期の開放病棟とは言え、当然ながらそれは院内における開放という意味であって、自由に院外に出られるという意味ではない。あたりまえのことだ。また患者各々の処遇によって、院内開放の認められる患者とそうでないものがいる。前者は全体の三割ほどだろうか。それ以外の患者は看護師同伴での外出の外は、ほぼ365日病棟内で過ごすことになる。彼らの生活は異常なほどに規則正しいものになっている。規定の時間に起床を促され、看護スタッフの監視(長年にわたる薬の服用がもとで嚥下に問題がある患者が多く、誤嚥で窒息する恐れがあるため)のもと朝食を済ませ、その日が入浴日であれば風呂に入るよう半ば強引(彼らは清潔観念が乏しく風呂嫌いが多い)に促され、昼食を食べ、自主参加ではあるが作業療法に参加し、夕食を済ませる。食後は各々に処方された抗精神病薬を服用し、就寝前には看護用語でVDSと呼ばれる就寝前薬を服用し消灯、就寝となる。もちろん彼ら全員がすんなりと眠ってくれるわけではないので、必要に応じて追加薬として眠剤をさらに服用させる。それでも睡眠ゼロ時間で朝をむかえる患者もいるが。
規則正しい生活が健康を保つ秘訣であるとは言われるが、物事がすべて規則的に進む環境に長く置かれれば、精神的に健康な人間でも何らかの精神症状を示すようになるのじゃないかと思う。何事も適度にやることが大切である。仮に自分が彼ら患者と同じ生活をしてみるとなれば、1ヶ月も耐え切れないのではないか。
普通の人から見れば異常な規則的生活を強いられているばかりでなく、彼らはプライベート空間を与えられていない。病室は4人1部屋の総室であり、ベッドにはカーテンが備え付けられはいるが、必要とあればスタッフが遠慮無く開けるのでプライバシーの確保としては機能しない。唯一例外として挙げられるとすれば個室トイレであるが、それでも外側から簡単に鍵を開けられる。もちろん理由はある。ここは精神科である。患者を1人にするのはリスクが伴う。その最悪のリスクが患者が病棟内で自殺するというケースだ。自殺するのに銃もロープも包丁も必要ない。タオルやシーツ1枚で十分である。首を吊る必要もなく頸動脈を絞めれば尻をついた体勢でも逝ける。患者に希死念慮の疑いがあれば、保護室と呼ばれる個室で隔離し、常時モニターで観察する。必要であれば拘束帯で手足、体幹を拘束する。それは仕方のないことであると個人的にも思う。そのようなことがあれば直ぐに訴訟になり、病院だけでなく医師、看護師、資格を有していない看護助手も裁判にかけられるのである。人間が外部との接触なく常に1人きりで長時間過ごすことに耐えられないのは、拘置所などにおけるSolitary Confinementが精神に及ぼす悪影響を鑑みれば明らかであるが、それでも生活の中に1人の時間を設けることは精神の安定にとって非常に重要なことである。
一日の中で病棟が最も活気にあふれるのは3時のおやつの時間である。患者は小学生の小遣いほどの小銭を握りしめて、病院に併設された売店へと向かう。わたしも幼少時代、同じように手汗にまみれた小銭を握りしめ駄菓子屋へ足を運んだ記憶があるが、自分より2回り以上年齢を重ねた彼らが喜びと興奮の面持ちで売店に赴くのである。もちろん離院されては困るのでスタッフ同伴である。なかには1時間も2時間も前から「○○さん、おかし」とこちらが辟易とするほど頻回に訪ねてくる患者もいる。そのたびに「△△さん、時計見てください。今何時ですか?3時まで待ってくださいね」と説明する。しかし時間を把握することができないのか、理解に乏しいのか、その後にわたって同じやりとりが何度となく繰り返される。そしておやつの時間が近づくと、患者は詰所(ナースステーション)に詰めかけて「かいもの、かいもの」の大合唱がはじまる。入社して形式的な研修を終え、病棟で働きはじめた初日、その光景を目の当たりにし、「これはなにごとか、いったい今から何が始まるんだ」と誇張なしで思ったものである。一度に売店へ連れていけるいけるのは、多くて5名である。それに対して2名の看護スタッフが同伴する。離院のリスクが高い患者はマン・ツー・マンで対応しなければならないので、業務の都合上、最後に後回しにしざるをえない。この対応に納得のいかない患者は時としてもの凄い険相でこちらを睨みつけたりもするが、申し訳ないが待って頂く。いざ売店へとたどり着くと、患者は菓子の並ぶ棚を物色し、各々お気に入りの菓子や飲み物(十中八九コーラである)を買うのだが、彼らの選択肢はさほど多くはない。金銭的な問題もあるが、誤嚥のリスクが高い菓子類(特にパンや、硬いもの)は遠慮してもらう。病棟へ戻り、スタッフの目の届く範囲のテーブルで購入した菓子を食べるのだが、彼らの食べる、飲むの早さは尋常ではない。これは食事においても同じである。コーラを飲み干す早さは、ハイキングウォーキングのQちゃんにも引けをとらないだろう。
余談だがこの病棟にはデイルームに自動販売機が1つ設置されているのだが、患者が選ぶのは常にコーラである。コーラの横に並ぶ水やお茶などを患者が買う場面を見た試しがない。聞くところによるとこの傾向はこの病棟(病院)に特異なものではないらしい。特にかくコーラの消費量が半端ではないのである。1日になんども業者がコーラの補充に来る。仮に1日のコーラ販売数が最も多い自販機であったとしても驚かないだろう。
ここで少しOT活動(作業療法)について触れておきたい。その内容ではなく病院経営の観点から見た作業療法である。わたしは不勉強で参加者1人あたりの診療報酬がいくらで、具体的に自分の働いてる病棟で月あたりどれほどの利益が出ているのかといったデータは知らないのだが、現状でも結構な額の利益を稼ぎだしているようなのである。しかしそれ自体はなんら問題ではない。病院も利益を出さないかぎり存続が危ぶまれるわけであり、それは結果として直接的に患者の不利益になるので致し方無いだろう。しかし病院経営者としては、さらなる診療報酬の増収を求めて参加者の今まで以上に増やすことを病棟にプレッシャーをかけてくる。だが経営的観点からのみ作業療法を考えるのは、本末転倒であり、本来の作業療法の意義を見失いやしないだろうか。普段活動意欲の乏しい患者たちの他者と交流する機会の場を提供したり、同じことの繰り返しである日常に些細でも刺激や楽しみを見出させ、活動意欲の向上を目指す。わたしは作業療法士ではないので専門的な知識はないが、研修のとき作業療法士からそのような目的を聞かされた記憶がある。作業療法は任意参加である。もちろん参加したほうが治療的には望ましいことは間違いないが、患者自身が活動に対して主体的にならなければ効果は期待できない。仮に活動に参加しない患者には売店へ行かせない等のやり方で、強制的に参加を促したところで継続しないのは明らかで、それ以前に患者自身の金でおかしを買わせないとなると人権侵害である。ある患者は「おもしろくないから、わたしはいいよ」と参加を断り続けている。確かにプログラムがマンネリ化していることは否めない。病院の作業療法士が仕事に対して不真面目であるからではない。みな限られた予算のなかで真面目に患者のことを思い必死でやっている。要は作業療法で得た診療報酬はどこに還元されているのかという話なのである。言うまでもなく、参加をしぶっている患者に対して毎日声掛けしている現場スタッフには還元されない。それは別にいい。しかしOT部門への予算を増やす、給料面で還元するなど多少はできないのだろうかと常々感じている。慢性期病棟でほとんどの患者は退院が見込めないため、患者を金づるにし作業療法による診療報酬で利益を出そうとう考えなのだろうか。これは完全なる愚痴である。
わたしは今まで目的も夢もなく堕落的に生きてきたので、それゆえか「生きがい」だとか「なぜ人は生きなければいけないのか」といった面と向かって口にするのは恥ずかしい問題だが、漠然と考えてきた。
いままでは、どちらかと言えば普遍的な命題として考えていたのだが、統合失調症を身内に持つものとして、同じ疾患の患者と毎日のように接触を持ち、「彼らに生きがい、あるいは生きる目的があるとすれば、それはなにか」といった具体的な疑問に変遷していった。
ある患者に病棟での生活で一番楽しいことはなんですか、と尋ねたところ「(部屋の窓から)道をみること」という答えが返ってきた。わたしから見れば、そんな些細なことが彼女にとって一番楽しいことなのである。別の患者は「婚約者と結婚して二人で暮らすこと」だと言う。彼には婚約者もいなければ彼女もいない。すべて妄想なのである。しかし誰が「あなたの言ってることは妄想によるものですよ」などと否定できるだろうか。このような閉鎖的な環境で長年生きていれば、自分で虚構の世界をつくりあげてそれにすがって生きていくしかないのではないかと個人的には思う。
精神疾患に対して偏見を持っている者は多くいるだろう。わたし自身も実際に今の職場で働き始めるまで偏見を持っていただろうし、今も偏見はあるだろう。偏見というものは概して無意識のうちに身体に染み付いているものであって、「わたしは○○に対して偏見はありません」などと平気で言う人々は疑ってかかったほうがいい。自分のなかに偏見があることを自覚し、それを少しでも減らしいくことしか我々にはできない。ちなみに今までこの文章は、一つの精神病院にたった一年しか勤めていない人間が書いたものなので多分にいろいろなバイアスがかかっていることだろう。
(追記)
ここで、わたしは実際のところ統合失調症の患者です、つい先日退院しました、と書けば結構な釣りになるのだろうが、残念ながらそうではない。
上記の文章を読まれたかたは、鬱屈した患者たちの姿を想像されるかもしれない。彼ら患者たちは、閉鎖的な環境で長期間に渡る入院生活を余儀なくされている。憐れむべき現実だろう。病棟に飾られた造花の紅葉では秋の匂いを感じさせてはくれない。夏が過ぎ去った後の秋風の涼しさを感じることもできない。しかし患者たちの表情は思いのほか明るく柔和である。無論、ついさっきまでニコニコとしていた患者が、いまにも殴りかからんばかりの表情に急変することは多々あるのだが。概して、彼らは彼らなりに現在の環境に適応し、楽しみを見つけながら生活している。
彼らは退院することなく死ぬまで病院で過ごすことになるのだろうか。慢性期病棟に長期間入院する患者の退院が難しいことは言うまでもない。特に高齢者となると退院後の受け入れ先が限られてくる。また患者自身が退院したいという意欲に乏しいという場合もある。それもそうだろう。入院生活が十数年にも及ぶとなると、社会復帰をためらうのも無理もない。病棟の五十代のある患者は精神症状もほとんど見られず、一見して彼が精神障害者であるとは思えない。人当たりの良いハゲのおじさんといった風貌である。精神保健福祉士が先頭に立って、退院実現を図ろうと粘り強く退院促進をすすめている。退院後は病院のデイケアを利用してもらう計画である。それでも普段多弁である彼は、退院という言葉を聞くとそっぽを向いて耳を貸さない。
『ショーシャンクの空に』という映画がある。有名な映画なので観たことのある人も多いだろう。そのなかでモーガン・フリーマン演ずる囚人レッドがこんなことを言う。
「あの塀を見てみろ。はじめは憎らしく見えるだろうが、しだいにそれに慣れ、しまいには依存するようになる」
わたしは退院をしぶる彼を見て、長期入院している精神科の患者も似たような心境の変遷をたどるのかもしれないと考えることがある。ホームレスと違い、入院していれば働かなくとも毎日腹を満たすことができる。そのかわり自由は制限されるが、ときとして自由は重荷にもなりうるのである。しかし彼は年齢的にまだ中年であり、やりたいことも多々あるだろう。彼が恐怖心を断ち切り、入院生活に終止符を打つことを願っている。ダメだったら戻ってくればいいいのである。
精神科で働いてわかったことは、統合失調症という人格は存在しないという当たり前の事実である。彼らには統合失調症という共通項があるにしても、性格も精神症状も皆異なる。それがこの疾患のおもしろいところと言うと語弊があるかもしれない。しかし患者と日々接するのは、うんざりするどころか楽しいのである。たまに患者にヤクザ口調で怒声を浴びたり、軽く殴られたりもするが、病気のせいだと考えれば、それも仕事だと思える。頓服薬を服用して落ち着いた患者は、自ら「さっきはごめん」と謝ってくる。わたしは「べつに気にしないでいい」と答えるだけである。
最後に、ある六十代の患者さんは「葬式ないよね?」と頻回にスタッフに尋ねる。彼女が「姉さん」と呼んでいる妹さんが死ぬという妄想があるようで、妹の葬式はないかと確認しているのである。とりわけ、わたしに対して尋ねてくる。恐らくはわたしが坊主頭で、彼女に坊さんと呼ばれているからであろう。わたしが実際に坊さんではないことは理解している様で、ある時冗談で、「○○さん(彼女)が死んだら、葬式は僕に任せて下さいね」と言うと、彼女は笑った。ブラックジョークを理解するだけのユーモア精神のある患者さんである。
先日、MENSA(メンサ)の試験を受けに行ったわけだが、見事に不合格だった。
ところで、合格者のブログは検索すれば枚挙に暇がない程見つかるが、不合格者のブログは数えるほどである。
そこで、これからMENSAの試験を受けに行く人に、『不合格者代表』として、受験料1万円をムダにしないために必要であろう情報を書き連ねていこうと思う。(とは言っても、私は不合格になっているので私が示せる情報は「これだけでは不十分」というモノだけであるが。)
大学生の時に解いたIQテストも概ね120前後(オンラインテスト)
次に、試験の内容について。
45問を20分で解く(問題形式はIQtest.dk http://www.iqtest.dk/main.swf と同様)
試験問題は何パターンか有るとのこと(2ch情報なので信憑性には欠けるが)
選択肢は6択であるが、正解の選び方が特徴的。正しいものに「×」。訂正の際には、訂正したい「×」を「より大きい○」で囲うことで取り消し。グローバル基準らしい。
数字問題や知識問題は皆無(ただし、最初の練習題だけは数字問題あり)。図形の規則性を見つける問題のみ。(その意味でも上述したIQtest.dkと同じ)
私は
http://h-kusunoki.blogspot.jp/2014/03/blog-post_430.html(kurokori日記)
こちらには、IQtestの問題と解答が特徴ごとに並べられている。
その他にも、ネットに有る同形式のIQテストを漁り100~200問程度の問題演習を行った。
基本的にはIQtest.dkの序盤から中盤の問題がひたすら続く感じのため、あまり難しいという印象を受けない。
分からなかった問題は4~5問程度であり、ほかは確信を持って解答できた。
ちなみに、上述の対策で試験本番の問題の9割は網羅できていると思う。
(ただし後述するが、合格最低ラインが2ミス程度なので上述の対策だけではIQ120程度の人が合格するためには不十分である。)
先に述べたように不合格であった。
ネットを漁った感じでは最低合格ラインは2ミス。もちろんこれは自己申告であり、そのため「自分の感覚として2ミス以内であれば合格の可能性が高い」といった程度に捉えて欲しい。自己申告で3ミスは合格不合格が割れる所らしいが基本的には不合格、4ミス以上はほぼ確実に不合格。
私はおそらく、自分の感覚では(マークミスがない限り)4~5ミスなので不合格だったのだろう。実際、合格者のブログやTwitterを見てみると、私が調べた限りでは一人を除いて全ての人が自己申告2ミス以内。(一人だけtwitterに3ミスの人が居たが)なので、「自分の感覚として2ミス程度」であれば合格出来る可能性が高いだろう。
もちろん、自己申告なので人によってばらつきが出るため、参考程度ということにはなるが。
ちなみに、お祈りメールには
「テストの審査結果はあなたの知能指数が高い事を示していましたが、」
という一文が添えられていた。
他の不合格者のお祈りメールをネットで調べた限りでは、このような文章を添えられている人は居なかったため、数点落ちとかのケースにのみこのような文章が添えられているのかもしれない。「あとどれほどで合格であったか」を知る一つの指標になるかも。
他のブログに書いていない事を、不合格者の目線から記してみた。
私はIQが120程度しか無いため、上述の対策では合格することができなかったが、IQが130有る人であれば、上述の対策で合格することが出来る可能性は十分にある。
服を切り裂いたり子どもの心に傷をつけている人種差別者は刑務所送りにし
東京・国立市の市議会はヘイトスピーチと呼ばれる民族差別的な言動など、人種や社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を国に対して求める意見書を可決し、今週中に、安倍総理大臣などに宛てて提出することにしています。
国連の人種差別撤廃委員会は先月29日、日本で在日韓国・朝鮮人らに対するヘイトスピーチがデモやインターネットを通じて広がっていることに懸念を示し、法律の整備を進めてヘイトスピーチを規制するよう日本政府に勧告しました。
これを受けて、東京・国立市の市議会に議員から、ヘイトスピーチなど人種や社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を国に対して求める意見書案が提出され、今月19日に開かれた本会議での採決の結果、賛成多数で可決されました。
意見書では、人種差別撤廃委員会が「弱者がヘイトスピーチから身を守る権利」を再認識するよう指摘しているなどとして、委員会の勧告を誠実に受け止めるよう求めています。
意見書を提出した1人の上村和子議員は「国は法整備をすることで差別に反対する姿勢を国内外に示すべきだ」と話しています。
国立市議会では、この意見書を今週中に安倍総理大臣や松島法務大臣などに宛てて郵送で提出することにしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140922/k10014779901000.html
http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/gikai/index.html
議員提出第13号議案 ヘイトスピーチを含む人種及び社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を求める意見書案 (PDF形式:7.1KB)
2014年 9月12日
提出者 上村 和子
〃 小川宏美
〃 藤田貴裕
〃 生方裕一
〃 重松朋宏
賛成者 石塚 陽一
〃 尾張美也子
〃 前田節子
〃 望月健一
〃 稗田美菜子
〃 小口俊明
議案の提出について
議員提出第 13 号議案
ヘイトスピーチを含む人種及び社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を求める意見書(案)
上記の議案を次のとおり、地方自治法第99条及び会議規則第13条の規定により提出します。
ヘイトスピーチを含む人種及び社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を求める意見書(案)
国連人種差別撤廃委員会は8月29 日、日本政府に対して、ヘイトスピーチ(憎悪表現)問題に「毅然(きぜん)と対処」し、法律で規制するよう勧告する「最終見解」を公表しました。
日本が1995 年に加入した「人種差別撤廃条約」では、参加国で差別が行われていないか、一定の期間を置きながら、国連の人権差別撤廃委員会が審査してきました。
今回の「最終見解」は、日本への審査の総括として 、同委員会が8月29 日に採択したものです。 最終見解は、日本のヘイトスピーチの状況にも言及しており、特に在日韓国・朝鮮人 (コリアン)への人種差別的デモ・集会をする団体によるヘイトスピーチの蔓延や、政治家・公人によるヘイトスピーチが報告されたことや、メディアでのヘイトスピーチの広がりなどについて、懸念が表明されています。さらに、そうした行為が適切 に捜査・起訴されていないことも、懸念点だとしています。
こうした懸念状況に対して、最終見解は、ヘイトスピーチを規制するための措置が、抗議する権利を奪う口実になってはならないと指摘するとともに、「弱者がヘイトスピーチやヘイトクライムから身を守る権利」を再認識するよう指摘しました。
そして、人種及び社会的マイノリティーへの差別的な表明や差別的暴力に断固として取り組むことや、メディアのヘイトスピーチと闘うため適切な手段をとること、そうした行為に責任のある個人・団体を訴追したり、ヘイトスピーチをする政治家・公人に制裁を科すことなどを、政府に勧告しています。
一刻も早く人種差別撤廃委員会の31項目の勧告を誠実に受けとめ、ヘイトスピーチを含む人種及び社会的マイノリティーへの差別を禁止する新たな法整備がなされることを、国立市議会として強く求めます。
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出するものである。
2014 年 9月 日
過去に、何回かStartupWeekendに参加し、またはオーガナイザーを幾たびも経験しました。
StartupWeekendは素晴らしいイベントで、楽しいです。みなさんに素晴らしさを伝えたいです。
私も過去何回も出て、経験を積み、各種イベントで色々な人と出会って楽しいです。
その楽しさを広げたいと思って、オーガナイザーやスタッフまでなりましたが、
悲しいことに、裏方のオーガナイザーの一部の人は、自分の「利権」「既得権」のごとく、
新規にイベントを立ててやろうとする人には「圧力」をかけてくる人がいるんです。
StartupWeekendでの「首都圏」でと、ごまかします。
圧力をかけてくる人は、一部・・・というよりずばり「その人」です。言うとばれてしまうので、いいません。
圧力をかけてくる「その人」は表向き、「正論」で攻撃してきて、NPO法人内部では緩やかな組織なのに、変に「コミュニティー」という実態のない世界を笠に着て、自分の影響力を誇示しようとする人です。
「その人」は会社の代表にもなっていて、自分の会社の事業に専念すればいいのに、なぜかこのStartupWeekend界隈に出没して、変な影響力をだそうと躍起です。
見てて滑稽ですが、初めての参加者たちがみると「へーこの人はすごい」という感じです。
「その人」の功績は、素晴らしいです。
過去に、有名な会社での場所確保から、スポンサー獲得、各種審査員、コーチまでの獲得まで、「その人」はすべて一人で行えます。
裏方では、相手の自尊心や名誉などを平気でつぶしにかかります。
この「その人」がしゃべらせたら正論・正攻法で来ます。まずはつぶされます。
「あなたのやり方・発言は、オーガナイザー全体で問題になります。いやなっています。」
確かに。真摯な人は、私に直接言ってくれますが、「その人」の発言力が大きいばかりに「どの程度全体で問題になっているのか」わかりません。明確にしないんですね。
単に、私が「ルール無視」レベルで場を荒らしているのか、「私が強引なまでに民主的なルールを無視した暴挙に出ているのか」。
もともとオーガナイザー間はゆるやかな組織感です。決めることも緩やかです。
きっちりとした組織固めしていないために、「オーガナイザー全体」とは、StartupWeekend全体での「正統性」得ていない感があるんです。
(正統性:きちんとした各コミュティーでも組織が大きくなったら、「コミュニティー規則」ぐらい明確したいです。)
発言の強さで、「オーガナイザー全体」の総意が決まっていませんか?
「その人」は、その発言の強さが強大。
「その人」を知る人は、適当に相槌をうつか、知らぬ存ぜぬで無視します。
逆にオープンな場にすべきところがクローズドな場になっている印象です。
StartupWeekendのブランド力は、今年に入って開催数とともに、増えてきました。
私は、StartupWeekendが大好きで、このイベントを世の中に広めたいと思いました。
しかし「その人」がいる限りは、私はつぶされることでしょう。
スタッフ・オーガナイザーとしては、金輪際一緒に仕事したくない人です。
だってそんなオーガナイザー間で、気を使って仕事するなんてしたくないし。
オーガナイザーやスタッフがやりたいことにも、この「その人」はしゃしゃり出て、ヘンに関わろうする。
まだ呼んでいない段階なのに「コミュニティーの同意」うんぬんと言ってくる。
StartupWeekend各地でコミュニティーがあるのは、分かります。大切です。
各地域でのコミュニティーは「多様性」があってこそ、コミュニティーであり楽しさがあります。
StartupWeekendの「首都圏」で、その多様性は大切です。
「その人」さん。名前明かしませんが、しゃしゃり出てこないでください。
正論・正攻法で、反論がないからと言って自分の意見が正しいと思わないでください。
自分の影響力を行使したいために、実態のない「コミュニティー」論を展開するのはやめてください。
あなたの功績は、誰もが認めます。歴任のオーガナイザーですらできなかった、スポンサーを招きました。偉いです。
イベント開催後は、おしまい。そこまでなんです。「エコシステム」ならしゃしゃり出てこないで、本業のしゃちょー業をやってください。
謙虚さをだしつつ、自分の影響力を虎視眈々と狙っている姿は、丸見えです。
私はこの匿名日記を使って、「その人」を攻撃しました。確かに卑怯です。しかしこれは私だけで済む話し。
「その人」が虎視眈々と狙ってる姿は、日本の歴史に出てくる「藤原家」そのものです。
StartupWeekendを乗っ取るような気配さえします。恐ろしいですね。
(天皇家=StartupWeekendのたとえ)
そんなStartupWeekendの裏方オーガナイザーには辟易しました。疲れました。
私は裏方のオーガナイザー・スタッフ関係からは一切手を引き、イベント参加のみに集中します。
最初で最後の愚痴と、StartupWeekendの「首都圏」界隈がより楽しい裏方になればいいかなーと思っての書き込みでした。
○湯山勇君 この前にお尋ねしておつたときの御答弁について、なお疑義がございますのでお尋ね申上げたいと思います。それは例の狩獵法の「ノイヌ」、「ノネコ」ですね、これはどういうふうになつているか、もう一度御説明頂きたいと思います。
○政府委員(楠本正康君) この「ノイヌ」「ノネコ」いずれも野犬その他の犬を意味いたしておりませんし、又猫とも全然別なもので、種類の違うことを意味しております。従つて狩猟法は犬及び猫には適用がないものと考えなければなりません。
○湯山勇君 ところがこれは林野庁長官から各府県知事に出ております通牒によりますとそういうふうにはなつていないのです。これは愛知県知事からの問合せに対して昭和二十五年十二月二十八日林野第一万六千九百九十九号を以て回答したのには、そういうふうにはなつていない。でこの「第一条のノイヌとは山野に常棲する犬をいう市街地村落に棲息する所謂野良犬はこの範疇には入らないものと解せられたい」と、こういうふうになつておりまして、結局この畜犬が山に入つたもの、種類としては同じものを指しているわけです。林野庁のほうの見解としては……。そうすると種類が違うというのじやなくて、ただその棲息の場所が違つただけであるのです。そうなりますと薬殺の場合に非常に問題になつて来るのじやないか、こういうふうに考えるのですが。
○政府委員(楠本正康君) 私この「ノイヌ」の見解を、動物園の古賀園長に実は尋ねたわけであります。古賀園長はこれは全然もう種類が違うものである。そしてすでに日本には現在はこの「ノイヌ」というものは残念ながらいなくなつたということを伺つておりますが、なお併し只今御指摘のような林野庁の見解等については、更にその点を質してみたい考えでございますが、なお実際に薬殺するというような場合に、山野の、人里離れた山野等において薬殺することはこれは考えられませんので、実際に人畜に傷害を与える犬を、つまり薬殺する意味であります。殊に現に狂犬が出て、真に緊急上止むを得ない場合に限つておりますので、さような観点からいたしましても山野に適用されることはあるまいと、かように考えておる次第であります。
○湯山勇君 今の見解は動物園長のお話だつたということですけれども、これは園長も恐らく若干勘違いしておられると思います。と思しますのは、学名じやなくて和名ですね、日本の名前というのは、いろいろな文献見たのですけれども、やはり「ノイヌ」という名前はありません。「山の犬」となつているのはあります。「山犬」若しくは「山の犬」、まあですから「ノイヌ」というのは、やはり林野庁の言う見解に立つたほうが、この法の適用上から言つても間違いないと思います。そうでなければ今部長の言われた処置もできなくなると思いますので……。
なお都市の中には、都市の真ん中に山がある、例えば私の郷里の松山なんかは市の真中に山があります。そうしてその山の中に相当多数の畜犬の野性化したものがいるのです。そうしていわゆる野良犬がそれに入り込むということもたくさんございまして、このことは、やはり林野庁との間にはつきりした見解統一をなさるのと、そうして今のように山に入ることはないというけれども、事実そういうこともあるということも併せて一つ事施上においては御検討頂きたいと思います。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0790/01904190790030c.html
○湯山委員 この問題は、ここで議論するにはあまりにもばからしい問題ですし、これでは話になりませんから、あとでもう少しはっきりするようにしたいと思います。
今度資料に直接入ります。たとえば狩猟鳥獣で、これも私はいいかげんな解釈をしておられるように思うのですが、狩猟鳥獣にノイヌ、ノネコというのがあるのです。これは何でしょうか。ノイヌ、ノネコという種名を持つ動物が日本にございますか。まずそれから伺います。
○若江説明員 ノイヌ、ノネコは、元来は家畜でございましたものが野性化いたしまして山野に自生いたしまして、野山におるというのを、のら犬、のらネコ等と区分いたしまして、この場合ノイヌ、ノネコと称しまして狩猟烏獣に入れておるわけでございますが、アメリカあるいはカナダ等におきましてはこれらをファーラル・ドッグあるいはファーラルーキャットというように区分いたしまして、やはり狩猟鳥獣にいたしておるというような例もあるわけでございます。それにならいまして野山に自生しておりますノイヌ、ノネコを狩猟鳥獣に入れておるわけでございます。ただしこれは動物学上の分類では区分がないわけでございます。
○若江説明員 たしか昭和二十二年に狩猟鳥獣に加えたというふうに考えております。
○湯山委員 昭和二十二年というのはちょうど占領下であって、そういうことがよくわからないで向こうの法律をそのまま訳したのではございませんか。
○若江説明員 先ほど申し上げましたように諸外国の例等に徴しまして加えたというふうに考えております。
○湯山委員 東京にノイヌがおりますか、あるいはノネコがおりますか。
○若江説明員 東京都下にはおりません。
○湯山委員 もう一ぺんお聞きします。東京都下にいるのかいないのかはっきりわからないのですか。どうなんですか。
○若江説明員 のら犬、のらネコはおりますけれども、ここでいうノイヌ、ノネコはいないと思います。
○湯山委員 それではどこにおったのでしょうか。それが狩猟されたという報告がございますか。いただいた資料にはそういうノイヌ、ノネコが狩猟されたというのは一つもないのですが。
○若江説明員 お手元に差し上げました資料の中には明記しておらなかったかもしれませんけれども、狩猟統計には狩猟された頭数があるわけでございますので、必要でございましたら、後刻年次別の頭数を御提出申し上げたいと思います。
○若江説明員 ここに持ち合わせておりませんけれども、あるようでございます。
○若江説明員 ノネコにつきまして資料を手持ちいたしておりませんが、あとで調べまして、お答え申し上げたいと思います。
○湯山委員 ノイヌ、ノネコ以外の犬、ネコを狩猟すれば違反になるわけですね。これはどうですか。
○若江説明員 狩猟鳥獣として指定されておりますノイヌ、ノネコを狩猟期間外に狩猟いたしますと違反でございます。
なお先ほど資料の手持ちがないので御答弁申し上げかねましたが、三十五年度の有害鳥獣の駆除の中には、ノイヌ、ノネコがそれぞれ八頭ずつ上がっております。
○湯山委員 狩猟期間以外、それからノイヌ、ノネコ以外の犬、ネコを狩猟すれば違反になるというけれども、狩猟されたものでノイヌ、ノネコと普通の犬、ネコの区別がつきますか。つまり店先につってあるそれを見てその区別がつきますか。
○若江説明員 判別は生息状況によって識別するのが最も判然とするのでございますが、これが店先に並べられたときに、どれがのらネコで、どれがノネコかということは、判別が非常に困難であろうかと思いますが、医学的に胃袋その他を検査して、食性の種類等で判別しなければならぬのではないかというように考えます。
○湯山委員 これは私、妙な問答をしようというつもりじゃないのです。こんな名前を残しておくことは不合理だ。これは今おっしゃったように判別困難だ。解剖して内蔵を見ればわかるだろうといってもわかるものではありません。そういう答弁じゃ何のために質問しておるかわからないので、そういうことをお尋ねしておるのじゃないのです。こういうわけのわからない、種類の名前でもないようなものはこの中からのけなければならぬでしょう。そうしてその野生化したものは人畜に害を加える場合があります。これはさっきおっしゃったように、ちゃんとはっきり野犬狩りとか、野猫狩りというのがあるかどうか知りませんけれども、そういう方法でやらないとできるものじゃないのです。あなた方のいうノイヌだって本来これは人になつく性格を持っていますから、野生化した犬だって、連れてきて飼えばけっこう役に立ちます。そうして非常に利口です。だからその区別をつけようたってつきません。私の家はちょうど松山の城山の下にありましたから、よく知っておりますが、あなた方の言うノイヌの子をとってきて飼うと、とてもいい犬が育ちます。そういうことですから、おそらくこれはアメリカあたりのほんとうの野生の犬というものとそれとをごっちゃにしておると思いますので、そういう判定もできないし、ことにそれによって処罰を受けるというときに、こういういいかげんなものを並べておくというのはよくないことだ。これは考えなければならない。そうでないと困るのじゃないでしょうか。
○若江説明員 仰せのようにノイヌ、ノネコとのら犬、のらネコとの識別は非常に困難でございますが、野生いたしておりますノイヌ、ノネコがいるということも事実でございます。この際これを狩猟鳥獣からはずしますと、ノイヌ、ノネコ等の狩猟に事かりまして、山野にこれを狩りに行くということになりますと、狩猟秩序を乱すということにもなりかねませんので、その点は先生の仰せのように、識別を十分行なうように考えて参りたいと思いますが、大へん困難な点はありますけれども、従前とも入れておりますし、ここでこれをはずすという特段の理由もありませんので、従前通り入れて参りたいと考えております。
○湯山委員 はずす理由がないという理由がわからないからお尋ねしておるのです。はずさなかったら今のように困るじゃありませんか。
○若江説明員 特にこの二種類を加えておりますために大きな障害があったという事例もないわけでございますし、今後ともそういうことのないように私の方でも運営して参りたいと考えるわけであります。
○湯山委員 障害は、こういうふうにお尋ねしてもはっきりお答えができない、また狂犬病の問題とも関連して参ります。そのほか関連するところ大きいのです。ネズミにはちゃんとノネズミという種類があるのです。ところが国の法律でノイヌ、ノネコというのがちゃんとあれば、これはずいぶん迷わしますよ。だからあって益なきものはやはり害があると見ていいわけなんですが、どうですか、これをのける意思はありませんか。
○若江説明員 先ほど来申し上げておりますように、これを直ちに除外するという考えはございません。
○湯山委員 それじゃ、めんどうになりますが、もう少しお尋ねしてよろしゅうございますか。
この犬、ネコの野生化したものですね、これは一体どの程度野生化したものをいうのですか、飼っている親が山に入って、山で生まれたその子はもうノイヌですか。それがたとい町へ出てきても、あるいはどこをどう通っていても、ノイヌというのですか。
○若江説明員 野生のノイヌから生まれましたいわゆる子犬でございますが、これは獲物を山野で得て、山野で自生していくという状態におきましては当然ノイヌと解しております。
○若江説明員 その行動範囲の中でたんぼ等へ出て参りましても、ノイヌであるということには変わりはないというふうに考えます。
○若江説明員 家の中に獲物を探しに来るという場合もあるいはあろうかと思いますが、それはたとえばイノシシが獲物がないために里山に来るというのと同じような現象であろうと思いますので、同然でございます。
○湯山委員 だから間違いを起こすのです。イノシシというのはイノシシという種類です。動物園の中にいようが、山の中にいようが、家の中にいようが、イノシシというのは動物の一つの極数の名前です。ところがあなたは、ノイヌというのは固定した種類の名前でなく、生息の状態であると言う。だから家にいたらどうなるか、田の中にいたらどうなるか、山にいたらどうなるかをお尋ねした。そうしたら今度はどこへ行ったってノイヌはノイヌだ――今度は種類になったのです。それならノイヌとはどういう種類ですか。またもとへ返りますが、どうなんですか。
○若江説明員 もともと山野におりまして、生まれた子供がたまたまたんぼに来た、家の付近まで来たというのは、行動半径の中で行動したのであって、本来終始山野で生活している限りにおいてはノイヌであるというふうに申し上げた次第であります。
○湯山委員 違うでしょう。今おっしゃったのは家の中に入ってきてもノイヌはノイヌ、だとおっしゃったのですよ。さっき私が申し上げたのはそれなんであって、あなたのいう意味のノイヌの子を飼えば、とても利口でいい犬ができます。それでもノイヌですか。生まれたのは山で生まれたのです。飼い方だっていろいろありますから、主た飼い方で聞かなければならぬことになるわけです。
○若江説明員 狩猟家がノイヌをとりまして自分の家で飼養するということになりますと、それは飼養鳥獣でありますので、自己の支配下で飼養されているノイヌであるというふうに解釈されます。
○湯山委員 そうすると、はっきり言ってノイヌというのはどこにどうあってもそれは撃っていいわけですね。
○若江説明員 先ほど来申し上げておりますいわゆるノイヌを免許者が期間中に撃つということは当然よろしいわけであります。
○若江説明員 欄、柵、囲障あるいは人家等で狩猟するということは禁止されておりますので、撃つわけには参りません。
○湯山委員 私はそういうことを尋ねているの、じゃないのです。つまり狩猟の対象になるかということを尋ねておるわけで、今大へんな間違いを犯しておるというのは、その生息の状態だと言われたのが、今部長の御答弁ではだんだん一つの品種になってきておるのです。よろしゅうございますか、品種でないものがだんだん今の御答弁でも、どこにいてもノイヌはノイヌだ、今のように別な規定を考慮に入れればどこで撃ったっていいんだ、こういうことまで変わってくれば、もうそれは、はっきり一つの品種になっているのです。大へんな間違いですから。
○若江説明員 最初に申し上げましたように、ノイヌという区分が動物学上にはないけれども、それが生息の状態からしましてノイヌと判定せられる犬がおる、それを狩猟鳥獣の中に入れておる、そのノイヌがたまたま山野から田畑の付近まで現われてもそれはまだノイヌであろう、こういうふうに申し上げた次第であります。
○湯山委員 あろうじゃなくてこうこうだということが明確でなければ、間違ったら狩猟法違反に問われるわけです。罰金をとられるわけです。だからそういう不明確なものは明確にする責任があります。ところが明確にしようたってノイヌ、ノネコに関する限りは明確にしようがありません。私は前に古賀園長にもこれは聞いたことがあるのです。そんなことはわからぬとはっきり言っておられる。よろしゅうございますか、ほかの動物学者に尋ねてみましても、それはわからない、こう言うのが常識です。もしあなた方がこの法律の中にある言葉だからあるいは規則にある言葉だからというので統一解釈をおつくりになっても、ほかでは通用しません。その証拠には、狩猟されたもので、はたしてノイヌであったかどうかという区別はつかないのですよ。ことに今おっしゃった内臓を抜いて皮と目だけにしてつっておけば、絶対区別がつく人はないでしょう。どうなんです、区別がつかないでしょう。
○若江説明員 内臓を抜きまして皮だけぶら下げたというふうな仮定の問題では、ほとんど識別が至難であろうとは思います。
○湯山委員 そして同じようにノウサギというのは種類の名前です。だがわかります。見ても区別がつくのです。そういうノウサギというのは区別のつく種類でいいのです。ノイヌというのは区別がつかない。ましてノネコに至っては全くわからない。それをなお個室されるところにこの法律がまだ脱皮していない。私が申し上げたのはそこなんです。白痴、瘋癲という、わけのわからない言葉がそのまま残っている。そしてノイヌ、ノネコというようなものが、まだどうもあるようなことになっている。そういうところに不徹底さがあるから、それで抜本的に考えなければならぬのじゃないか。今のようなお考えだとほんとうの鳥獣保護はできませんよ。取り締まる人にもわからないのだから。白痴、瘋癲なんて、読んでも法律もわからない。そしてまだかたかな書きでしょう。これはどうですかね、こういうことにこだわって、そういうお考えでほんとうに鳥獣保護をやっていこう、狩猟の適正化をやっていこうなんて、できますか。そういうお考えがなお残っておって、はたしてできるかどうかです。できないでしょう。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0408/04303120408017c.html
そうですね。ただし母親が何らかの事情で母乳を出せない/量が少ない状況にある場合は無理せずミルクを代用/併用する方が育児にプラスですよね。
そうですね。かぶれてしまう子は布を使う必要がありますがかぶれない子は全く問題ないですよね。
育児のド素人がほぼ一人でやる専業主婦の育児が、様々な資格と規則をクリアした上に作られている保育施設より全て100%優れたものであると言わんばかりですね。もしそうなら密室育児によってノイローゼになった母親による虐待なんて起きないでしょうが、保育施設職員による利用児への虐待より実母による実子への虐待の方が明らかに多いですね。
コミュニケーション能力ってなんでそんなに大事なんですか? - 考えたことについて書いていくにて、コミュニケーション不足がいじめに発展する件が載ってました。やりきれない内容ではありますが、基本的には人間の習性なので、こりゃ仕方ないねーと思ってますので、自分の思うメカニズムを記載。誰か学術的に解明して、改善(BUG-FIXか、Workaround)してくれ。
人間は特権を持つと、その特権を行使したがる習性があります。これは、脳みそに刻まれたBIOSみたいなもんですので、いわば人間の仕様です。
コミュニケーションが未達だと、まわりと効率的に情報を伝達できない、あるいは、集団として有利な地位を手に入れることが難しくなります。そもそも情報戦って、力や武力を越える程の実行力を持てると考えています。このような状態になると、コミュニケーション未達の人は情報収拾/活用において大変なハンディを背負うことになり、コミュニケーション優位な人はますますコミュニケーション未達な人に比べて圧倒的に優位に立てます。これが、コミュニケーション未達な人に対して、コミュニケーション優位な人が特権を持つ状況を生みます。
(最悪なのは、コミュニケーション未達な方は、状況を変える為に必要な情報すらも得られなくなってしまう場合があります。こうなると、不利な状況から逃げ出す事もできなくなります。これはコミュニケーション優位な人に圧倒的な特権を与える事につながります)
で、ここで、人間の習性であるところの、特権を行使したがるという人間の仕様が発動し、コミュニケーション優位な方は、道徳などの規律を越え、本能で特権を行使します。これがいじめなどの形で現れると考えています。
道徳は理性で悪い事を抑制する考え方ですが、そもそも本能(BIOS)に抗うことを損得抜きに自分に強いる事になるので、実行力に疑問があります。もっと他の規則(ゲームのルール、社会のルール)などを活用して、今回のケースでうっかり特権を行使すると、行使した当人に明確に不利益になる仕組みを作り上げ、本能による作用を抑制することが必要かと思ってます。
まあ、これがパワハラとか、セクハラに関する法律とかの社会的仕組みの1つなんだろうけどね。もうちょっと、法律以外に、しくみで解決できんのかなーと思った。
タブの数さえ揃えておけば、設定で一発でなおるけどどうなの?
いや無理。現実を見ろ。
実際のコードにはブロックとは関係ない行頭や行末コメント揃えが必要なときだってあるんだ。
void func() { if (condition1 || contidion2) // ここの行頭はどうする? { hoge(); // ここから… hogehoge(); // … hogehogehoge(); // …ここまでの行末コメント位置を揃えるにはどうする? } }
上記コードのコメント行をタブで揃えてしまうと、表示タブ幅を変更したときに文字位置崩れが発生する。
そりゃブロックを構成する行頭のみをタブで書けばいいってのは理屈だが、そんな規則が全員に常に守られるわけはない。
適切にタブが使われているかを判断するにはスペース数だけ数えても駄目(上記のif文の箇所の場合など)なので、単純な自動判定もできないしな。
1.働かない社員がいる
これは本当。組織にぶら下がってる職員がいる。
必要最低限の働きしかしない、もしくは最低限のこともできない人はいっぱいいる。(定年間際の男性に多い)
妊娠出産だけのために転職してくる人もいて、7年目だけど実質1年ちょっとしか働いてないとか普通にいる。
一方でそれはお前の仕事ではないだろうというところまでやる人もいる(中堅の女性に多い)
やりすぎの人々は「不真面目!」と怒っている。やらない人は「真面目、潔癖すぎ」と言う。
それ以外の人は次々と辞めていっており、極端な人ばかり残っている。
ただ、妊婦に対しての風当たりはきつい。それで辞めていく妊婦は多い。
やりすぎの人は妊婦に「組織で仕事するなら自分の開けた穴をどうするのか考えろ!代わりを連れて来い!」と言う。
どうかしてる。
周りは全て事務屋。事務屋からしてみればとんでもなく事務能力が低く迷惑な人材なのでいじめの対象となるようだ。
同じ。
4.書類にハンコがたくさん
うん。技術屋なので机に座っていられる時間が殆どないのだが、机に戻るとどうでもいい書類が机の上に山になっている。
本当にどうでもいい書類やパンフレットまで回ってくる。時間がないので殆ど読まずに回している。
書類作って決裁取ろうとすると本当に時間がかかるのなんとかしてほしい。
手続きが遅いって怒る人もいるけど、本当に無理なんだ。もっと時間があれば、自分で持って回るんだけど…ごめんよ。
うん。
申請した分は全額支給。
残業が多い=上が無能という評価になるので申請しても承認されない。
本当に人を増やすか仕事を減らすかだと思う。お役所には無理な話だけど。
時間外にのんびり新聞読んでたり雑談してたりする人がいる(残業申請はしないが)のも承認されない理由のひとつになっていると思う。
ただし実際は取れていない休憩時間が引かれる。
言われてみればそうだな。
8.掃除がない
不満はたくさんある。
資格職なので、民間に比べて本当に給料が安いと感じる。離職率高くて慢性的に人不足。
都道府県庁全体だと影響の大きい部署が多いと思うが、うちは殆ど変わらない。
11.経費を払ってもらえる(自費で払えよと思うものもあり)
交際費羨ましい。
12.営業があまり営業をしない
営業なし
経理やったことないのでなんとも。
14.基本給と賞与が高い
低いぞ。民間の同年代の同業と比べると手取りで10万以上低い。
賞与も低い。がんばらなくても変わらないのは良いことなんだろうけど、がんばっても変わらない。
うん。
16.それでも多額の利益を計上
利益考えなくて良いのは良いところかなと思う。
17.有給がとりたいときに堂々ととれる、よくわからない休憩もとれる
休みまくりの妊婦がいることと、人が足りてないことがあって有給殆ど使えていない。
仕事の都合で時間がずれてしまうともう昼は食べられない。(昼休み以外の時間にサボっていたと苦情が来るから。)
経済学科というところに所属しながら、恋人がいて、その恋人と結婚して、子供を産みたいと願っている。
これだけなら、普通かもしれない。
最近では誤診ではないかと思っている。
親は両親ともに生存中。
鬱というか、双極というか、そんな感じで精神神経科を受診している。
私も、統合失調の診断を受けてから心療内科というところへ通っている。
その昔、東南アジアの国へ、当時10代前半の女子と性的なことをするために、旅行した。
その中で、顔立ちが整ったある女性を身請けした。
その女性のあるSNSアカウントでは、幼児の写真が少し前からたくさんアップロードされていた。
私はその幼児は彼女の子供で、現地に別の彼氏がいるのだと思った。
そのころの、3人目の客。
それが今の彼氏だ。
値段交渉の場で、私は彼と話をしていて、惹かれた。
彼はお金はあまりない、一般的な援助交際の報酬は払えないと言った。
ラブホテルへ行き、甘えた。
施設への利用料は彼が支払い、私は彼に払ってもいいといったお金は受け取ってもらえず、結果私からは渡さなかった。
メールアドレスなどを交換し、交際した。
2010年に知り合ったのだから、もう4年付き合っているのだな。
その間に、私は売春から身を引き、今度はコンシューマゲーム機のRPGにはまって、そのゲームを共通の趣味とする女子の友達もできた。
そのつてで知り合った仲間と小説といスタイルで同人誌を発行したりもした。
冬コミというやつに参加したりした。
シアリスという男性の性的機能を補助する薬を月に一度利用し、ラブホテルでコンドームを使わずにしている。
それは4年間変わらない。
妊娠する気配はない。
それどころか、彼はゴムなしで私の女性器へのインサートをして、動かしていても、射精に至ったことは一度としてない。
彼が射精する様子を見たのは、彼が自分自身で手で刺激を与えて至る場合だけだ。
女性と実際にできない期間が長すぎたのと、マスターベーションで手による強い刺激に慣れすぎたのだろう。
40代でこれは、男性として、おそらくはショックなことだろう。
彼は、子供が欲しいとは思うらしい。
今年になって、彼は、私と結婚してもいいと言い始めた。
嬉しくて、私も経済学部を卒業したら結婚しようという話しで、親などにも話を始めている。
また、私の眼の前で殆ど射精に至らないため、知らなかったが、彼がマスターベーションで射精に至ると、怖いことになる。
体液を受け止めたティッシュなどのものは、真っ赤に染まり、血みどろになるのだ。
それだけを聞いて、インターネットなどで私が調べても、該当する病気は、前立腺がんだろうか。
今まで4年以上、コンドームもピルも利用ず交わっても、妊娠しなかったが、それには彼の前立腺の病気や抗鬱薬などの副作用のEDが強く疑われる。
それなりに生理痛はあるものの、およそ30日周期で生理がきて、5日ほど経血がでる。
婦人体温計で毎朝体温をはかり、ケータイサイトにメールやウェブ入力をして管理しているが、体温のグラフはきれいな形で線を結ぶ。
栄養状態も良く、偏食もあまりなく、BMIは21から22前後と、痩せすぎず、太りすぎず、健康的だ。
もし、二年して、入籍したら、すぐに生殖医療を行う婦人科、泌尿器科へ旦那となった彼を連れていきたい。
生殖医療、不妊治療のクリニックなどでは、男性にはトイレで自分で精液をコップに取りだしてもらうと聞く。
血が混じるのに、それは使えるのだろうか。
私は、彼氏のことが大好きだ。
私は出産し、育てるとする。
30歳くらいになるだろうか。
子供を幼稚園か子ども園(現在施行が進みつつある)にいれられる年齢になってから、仕事を探したい。
大学をでてすぐに就職を目指さないのは、先に不妊治療をしたいからであり、その間は彼の収入で生活する。
しかし、子供が成人する前に、彼は通常なら定年退職する年齢となる。
そして、彼は太ってもいて、血糖値も高く、腰痛もあり、血中コレステロールなども再三注意をされている。
命さえも危ないし、男性機能もいつリミットが来るかわからない。
だが、子供が産まれたら育てるためにお金はいるし、私も将来は働くつもりである。
目指す仕事は、広告業界で、広告プランナーやクリエイト職というものだ。
はじめはどこかの広告代理店などで、アシスタントや事務などを経たい。
個人と社会の関係をお金と商品、そしてどんな商品を買いたくなるか、どのような広告が効果的か、考えて媒体をクリエイトする。
それが私の夢である。
私の感覚は、変わっている。
創作が好きだ。
石田サナという、統合失調の平成生まれの女性の名を聞いたものも、ここには来ているだろう。
もちろんエイリアスだが。
まず休暇中にディズニー行こうが何しようがそれは本人の自由だ。そこは別にいいじゃない。
でもそれを叩く発言が徹底的に糾弾されるのもなあと思う。感じ悪いよね。
というか、これ、欝とは全く関係ないよね?
あのバカッターがどういう事由であの発言なのかはわからないけど、
もし、欝っぽくてちょっと体調悪いから有給取ります、っていうのを断罪してるならもう会社として終わってる。
まあ、日本の企業はそういうとこ多いけど、有給取るのに理由が居ること自体がおかしい話で。
そりゃ、多少は仕事の進行状況とか考慮スべきなところではあるけど、それは本人の努力義務程度であって決して強制されるものじゃない。
病気休暇なら医者の診断取って、その上できちんとした制度の中での休みだろうし、
普通の人からすると大したことじゃないと思うけど、もう会社の中に貢献しようと思う気が失せたので、その実態を書いておく。
ソフトウェアを自社開発していて、顧客自身がWebアプリケーションを作れるようなマルチテナントサービスを提供しています。
とある機能設計でCTOが「コレ出来るよね?」ってすごい適当な図((丸と線をつないだだけ))を書いて説明してて、
別の部署の部下がちゃんと理由((CTOには言葉の意味すらわかってなかったらしい))を説明して何度も断ってたのに、
無関係なうちの部長が呼び出されて「出来るよね?」って詰め寄られて「簡単にできますよ」ってさらっと援護してた。
彼自身はその機能に関して別に作業も具体的な設計をするわけでもないので、頭を悩ませるのは援護射撃をもらった担当の開発者たち。
社歴が長い分既存製品に関する知識があり度々オブザーバーとして呼ばれるが、今はその製品を開発している部署に所属しているわけでもなく、
最近の方向性や技術動向に関しては全然理解していないにも関わらず。
普段は雑談しながら笑ってることも多くて人柄は悪く無いと思ってるけど、仕事に関しては全部CTOの発言を決定事項として下ろしてくる。
自分が板挟みになりそうなら部下を責める。あなたの意図はどこ?
思考停止と思えるほどに「今までもこうやって来たんだし」がバンバン口から出てくる。
それを変えるやり方や新しい概念の導入に戸惑うとイライラして険しい顔でとにかく前例に合わせるようにする。
そうやって前例にこだわってきたからなのか、ちょっとしたエピソードがある。
たった4人の小さい部署だから毎週のMTGの余った時間で持ち回りの勉強会を提案して実施してたけど、
彼以外の3人がミドルウェアやフレームワークや新製品の説明をしているのに対し、彼は割とすぐネタが無くなったのか既存製品の話とか会社の規則に関する話が出てくるようになって、
最終的に「忙しいから」というよくわからない理由で勉強会が消えた。
3人共「楽しかったのになぁ」って口を揃えたんだけどね。
部長がいる僕の部署は新製品と銘打って開発を進めてるけど、例によってCTOの発言によって既に現行製品をなぞる方向でただの焼き直しを進める形になっている。
僕とサシで話した時は「現行製品と同じ機能を作っていくんだったら新製品を作る意味ってなんだろうねぇ(´Д`)ハァ…」とか言ってたくせにCTOの前ではハハハと笑っている。
以前指摘したけど、彼は新製品に関するプロダクトマネジメントやステークホルダーの立場ではなく、あくまで開発者らしい。
じゃあ誰が責任者でステークホルダーなんだよと思ったけど、そんなものは既存製品にもいなかった。
おかげさまで「あの時はこんな事情があって…」ばかりで迷走しまくってるんだけど、そういう反省は生かさないんだな。
基本的に技術に疎い。もともと企画をやってた人らしいけど、アイデアマン((その場の勝手な思いつきは多い))ではないなぁ。
バズワードは大好きだけど肝心の内容は何も知らないし間違いを指摘しても「そんな解釈もあるよね」ってごまかす。
でもそれでCTOっぽく技術をリードしていると思っているらしい。
その他にもいろいろ。「ifとforが使えれば何でもできるだろ」だの暴言も多い。
社長は彼がCTOとして問題があることに気づいているらしいが、役員だしなぁ。
来期は彼を開発部署の上から外してくれるといいな。でもその頃には僕はいない。
目の前の利益にはすぐ食いつく。
「こんな案件の依頼が来ていてお金はいいんですが、確実に専用のカスタマイズが必要なんですが…」というのに開発陣にヒアリングなしに受注を確定させる。
サーバだってもともと予算はないけどサクッと購入する。開発者たちにサーバを買う予算はないって渋りまくってるのに。
うまく行けば自分の実績として社内で大々的にアピールしまくるが、火消しに走るときは営業に文句行ったり開発者に文句行ったり。
そして保守のことは全然考えてないので、積み残されたカスタマイズサービス群が開発者や運用者、更には顧客への次の担当者を苦しめる。
現行製品の仕様を切り替えた時にカスタマイズで問題が起こったおかげで製品の仕様にカスタマイズを考慮したあれやこれやを要求されてがんじがらめ。
ちなみに、コレよりひどい自称元SIerの営業が居るが、とにかくカスタマイズ案件を取って受注しておいてPMをしないもんだから、
突然「お客さんが明日欲しいっていうんだけど」って焦って飛んでくる事態を連発する。
もちろんそんなことを連発してても「大型案件」を受注するから営業成績はMVPとりまくり。そこからずっと続く保守・運用は彼の仕事じゃないしね。
CTOの話に戻ると、僕らが作っている新製品(?)に関してもとにかく自分の理解の範囲内に収めるべく発言しまくるし、
新しい概念を持ちだされて意味がわからない時は「それって現行製品のコレはできるの?」で畳み掛けてくる。
もちろんそれを聞いた部長は「そうですよね。それも必要ですよね!」って援護してきて考えてきた設計がことごとく旧製品になっていく。
どうやらCTOの中では既存ユーザが内容を移行できる新製品にする予定で、機能まで全て踏襲するらしい。
そんなもん誰が使うんだろうねぇ。
「新製品を世に出していくには実案件で実績を作っていかなければ」って話をして、案件を持ってきた。
最初は短期間で終了する案件だったけど、運用期限の決まっていない案件が発生している。
そのために製品名もリリース時期も何も決めてないけど、メインから分離した保守ブランチができ、APIv1は提供済みだから今後はv2にならざるを得なくなり、
それすら新しい案件で潰されていくことだろう。
当初は「お客さんにはあくまで実験的なものと説明し、お金は取らない」((そんな話を受けるお客さんはたぶんいないって指摘したけど聞いてくれない))とか言ってたのに、
今は「売り上げあげなきゃこれまでの開発費がリカバリできない」とか言ってる。
まともなデバッグシステムやエディタを使わずに果たしてユーザはPHPコードを書いて開発をするだろうか?もちろん、否。
お客さんから依頼を受けたら営業担当者が四苦八苦しながら開発代行を行い納品する。
それでも難しい場合、パートナー企業に依頼をして開発をしてもらい、納品する。
そもそもPHP以外の機能自体も複雑になってて、開発者自身が「ここに機能追加しろって言われたけど、そもそもこの機能どうやって使えばいいの?」と迷うレベルだし、
想定してた使い方を超えてバグを付く動きを相談なしでお客さんに提供しちゃってるもんだから、
どれが正しい仕様なのかすら不明瞭になっている。
Javaってオブジェクト指向のプログラミングが出来るはずの言語なんだけど、オブジェクトなにそれ美味しいの?って状態。
クラスがただの関数置き場になっててメンバー変数をいじるもんだから、副作用のせいで同じオブジェクトを使う処理がことごとく影響を受ける。
それを避けるにはどうするか?もちろん似たような機能を持つ別オブジェクトを作ったり、別関数で違うメンバーを使うようにしたりする。
とにかく既存の流れを邪魔しないように新しいコードを作ればいい。おっと既存機能と同じ処理をする部分があるな。コピペコピペっと。
もうリファクタをしようと思う開発者はいないし、単体テストもないからできない。いや、無いんじゃなくて単体テストを作れない。
あちこちにDBコネクションとか埋め込んであって都度データ取得するから小さなコードでも動作するにはDBコネクションが必要なんだ。
僕は新卒メンバーには「会社内の書き方は(どの会社でもそうだけど、ここは特に)独自のやり方だから、コレが正しいと思わないように。
今後も開発者であるためにはxUnitとかバグの少ないコードの書き方とか自分自身で勉強するんだよ。」と言っておいた。
Conwayの法則とはよく言ったもので、まさしくリファクタできない密結合で暗黙のパラメータの多い組織。
自分の部署の立場を守る発言は多いけど、1年後2年後3年後どんなふうに仕事を進めていきたいからみんなでこうしていきましょう、って意思決定していくことは無い。
未来像を描いて推し進めようとする人とよく飲みに行くけど、その人もCTOからとにかく押さえつけられてたりする。
製品の結合度や他社サービスとの連携を図っていく基盤となる部分を提案しているのに、内容も全然理解してなくて「話が大きすぎて工数かかりすぎ」と言われ、
役員会でCTOが勝手に「仕様検討にかかった時間が負債になった」と報告したらしい。
「なにより、こんなことで諦める俺が憎い!」じゃないけど、そんな中途半端に辞めようと思う僕も駄目なやつだとは思う。
誰にも頼まれないまま開発インフラを変える動きを有志で立ち上げて色々やってCI((例によってユニットテストできない))が回るようになり始めたけど、それも中途半端。
運用インフラを変える部分もやっと使える状態になったけど、まだまだ中途半端。
そういった点は大変に申し訳ない。
でも、今のまま居たって僕に未来はない。
こんなところでこんなグチグチ言ってちゃダメなんだ。
だから、ゴメン!
人より遅れて定職に就いて、1ヶ月ほどが経過した。研修期間中ということもあり、規則正しい7時間労働しかこなしていないにもかかわらず、まったく余裕がない。仕事以外の時間をすべて休息に充当してもなお、重篤な倦怠感が残るのである。
趣味に没頭したり、人と遊んだりするなどもってのほかだ。そんなことをしていては心身ともに保つはずがない。週末や退勤後を充実させることの難しさを、身をもって痛感している。かねてから趣味と言えるようなものがなくなっていたこと、および人付き合いが悪かったことが、不幸中の幸いか。
部屋で1人、暴飲暴食を繰り返す自分が、自分ではなくなっていくような感覚が拭えない。現時点における「社会人の責任」とは、勤務時間外をも仕事にコントロールされること以外の何ものでもない。
君の考えを引用を中心にまとめるとこうなると思うんだよね。
「彼の心理を理解したいから」、「彼がどういう心理状況で日々を暮らしてきたのかを真剣に想像してみよう」。そのための道筋として、「これまでの経験や嗜好というドットのつながりと、起こした行動の間に、関連性を見出すのは自然だ」。というのも、自分自身の「これまでの経験や嗜好というドット」をつなぎ結ぶことで人は誰しも自分の「人生のストーリーを描いて」いるからだ。それは時として当人にとっても「明確に意識されていない」ものかもしれないが、必ずや「ある種の心理的状況」を作り出すことを通して、「自分自身を把握し、ある行動を起こす」ことへと導くものだ。だから、「この犯人の場合であれば」、たとえ「アニメ・カント・博士課程無職」といったそれぞれの単体では心理や把握している自分の人生というものに影響をもたなくとも、それらの「組み合わせというのが、犯罪と密接な関係を持っているということは認めるべき」だ。
この考えの前提の部分はともかくとして、気になるところがいくつかあるんだよね。
一つ目。君は個人を構成する「経験や嗜好」そのものではなく、それらの組み合わせが人格を作り上げると主張しているようだけど、ここでは「経験や嗜好」や経歴をそれ単体だけで取り上げた、何の変哲もない感想しか述べられてないよね。たとえば、博士課程へ進学しながら「まともな職を得られないというのは、精神的にきつい」としている。また、美少女アニメは「容易に現実逃避の対象」となるので、「それが現実対処能力を下げうる危険性がある」としている。そしてカント好きという要素についても、カントの理解に「誤解が生じた」、あるいは「なぜカントの言葉に従えなかったのか」という問いを立てている。これらはいずれも「組み合わせ」をもとにして作り出された「人生のストーリー」などではなく、単体の要素から「人物判断をイコールで導き出し」てしまっている好例ではないの? これがステレオタイプとどうちがうのか私には分からないんだよね。君は報道された経歴や嗜好をひとつひとつバラバラに一瞥する。「高学歴無職ってきつそう」「美少女アニメ好きって現実から逃げてるよね」「カント好きならこんなことしないよな」と、ありきたりな印象を述べながら。そして次に、そのように吐き出された感想に自分自身で同意するかのように、君は犯人に対して「共感」を示す。「ああ、こういうことの組み合わせで、こういうことを起こす心理状況になるのは分からんでもないなぁ」と。でもそれは「人生のストーリー」を形作る組み合わせでもなんでもない。もしそうなら、どうして犯人と同じ経歴や嗜好を持つ人が同じ犯罪を起こさないのだろうか? つまりこれはただのステレオタイプの組み合わせなわけで、君は君自身が抱くステレオタイプを用いて他人の心理状況を説明してしまっているんだよね。君の共感というのも、説明づけられた他人に対してではなく、ステレオタイプで分類された他人に対して示されたものではないの? 君はステレオタイプが確かに正しかったという結論に「empathy=in+pathos」したのではないの?
二つ目。君は自分の考えの前提と実際にやっていることのズレに半ば自覚的なようなので、こんな答弁を返しているね。
「経験は無数なのだから、どれをつないで自分のストーリーを作るかは恣意的だ。」
どうせ「恣意的」なのだから、みんな好き勝手に解釈すればいいし、自由に「彼のストーリー仮説」を作ればいいとちゃぶ台を返してしまうことで、君は犯人の「心理的状況を真剣に考え」るという当初の名目をもはや捨て去っているように見える。それでも君は自分の感想は「否定されること」ではなく、当初の目的に沿ったものだと弁護してこう言い張っているね。「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う。」ここで、奇妙な言い換えが起こっている。君は始め、ステレオタイプに頼らず「真剣に想像」することは彼の心理を「理解」するための方法だという主旨を述べたはずだよね。ところがここでは、みんなが自分の立場から好き勝手に感想を言うことそれ自体の重要性をアピールしている。こうなってしまうと、「これまでの経験や嗜好というドットのつながり」や「人生のストーリー」が個人の心理を解き明かす上でどのように求められるのか分からなくなってくる。それどころか、君はむしろ好きこのんでステレオタイプに基づいた判断をしたがっており、「人生のストーリー」というものが「人物判断をイコールで導き出」されたものの美辞麗句にさえ思えてくるんだよね。
三つ目。「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができない」というが、なぜ心理を想像するのに報道やマスメディアの断片的な情報があえて必要なの? 君は人生のストーリーを把握するためには「彼の供述を待つ必要がある」、「インタビューしてみないと分からない」と述べている。にも関わらず、供述を待つまでもなく、君は自分の感想を積極的に垂れ流しているよね。これによって、経歴についての君の感想は心理を理解するための方策ではなく、心理を想像するための過程ですらないと告白してしまっているように見える。ではそれは何なのかというと、報道をもとに君が抱いたステレオタイプな人格に他ならないんじゃないの? そしてなぜそのようなありきたりな感想に対して慎重に対処しようとしないの?
まとめると、君は終始、他人の人格を自分の偏見をもってステレオタイプに説明づけることしかしてないんだよね。そして他人からこの事実を指摘=説明されることから逃れるために、ありもしない高尚な動機を後づけでくっつけているように見える。君は二枚舌を使いまわしてこう主張する。「犯罪と結びつけるステレオタイプは排除しなければならない」。たとえ自身がステレオタイプにはまっていようとも、それは犯人の心理を理解したいから彼のストーリー仮説を作っているからであって、誤りではないということだ。
さらに滑稽なのは、「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う」と、下衆な報道を野次馬的に楽しむことを高らかに正当化していることだよね。カントは、ある善を実現するためには、それを信奉する万人が等しく同一の道徳規則に無条件にしたがわねばならないとしている。君の場合はまるで逆だ。君は君の判断を正当化するために、あるはずもなかった善を先取りして捏造してみせた。そしてその結果として君の行為はゆいいつ美しいものとなるはずだったけど、あまりにも目論見が馬鹿げているために君はそれさえも失敗した。紆余曲折したあまり最後には、ステレオタイプに基づいた判断のすべてが個人の心理状況を理解するための尊い「哲学的な問い」だという結論に逢着したようだけど、なるほど、これは確かにカントを逆順に理解したものだね。君は自分自身の身勝手な行為から出発して万人に当てはまる倫理を作り上げたんだよ。