連戦連敗はしているものの受け答えの準備もしっかり行いマナーにも細心の注意を払った。
何故か地元の政治家のポスターが貼ってある廊下を通り応接間に通され、アイスコーヒーが愛想のない事務員女性から手渡された。
2~3分ほど待っているとヨボヨボと初老の男性が「喫煙禁止」とポスターが貼られた応接間に登場した。
見た目はブルドッグを想像して頂きたい。ただし、ミニチュアブルドッグでは無く本家の方ね。
「あーーどうも、こんにちは」彼は煙草を吹かしつつ私に挨拶した。煙は風の流れで全て私の顔面に直撃したが誰もそれを指摘する者はいなかった。
初老の男性の圧巻の到着に多少色々な意味で怯んだが「ここで困惑したそぶりを見せてはいけない...」
うまくない腹具合
そんな状況もあり恋人には状況を打ち明けるのも気が引け、家族にも本音は言えず「いのちの電話」も私の話す内容にうなづき人形のように「うんうん」としか
答えないだけ。
そんなこんなで「希死願望」すら浮かぶようになってきた。
だがしかし、ここでなんとか地元のハ○ーワークで「1件の求人」を見かける。
犯罪なら何?お前に何ができんの?
私は所謂「アベノミクス」の恩恵などさほど受けずに就職活動を行った一介の都内の駅弁大学に通う文系女子学生であった。
運動系部活動にも所属せず、とりたてて顔が良いわけでも無くしいていえば「真面目(笑)」くらいしか取り柄のない本当にただの女子学生であった。
それでいて「やりたいこと」や「付きたい業界も無かった」
パクリだと知っててパクリ製品・商品・サービス・作品、を購入する消費者も犯罪で~す。
改良するなら大元・オリジナルにライセンス料(オリジナル料)をきちんと払いましょうね~!
これ、やめるまで何度も言いますよ~。
いや,弁護士しかできないことってあるよ。23条照会とか,戸籍や住民票の職務上請求とか。(職務上請求は他の士業でもできることがあるけど)
あなたの趣味は何ですかと聞かれたら私は即答するであろう。「自慰です」と。
小学生の頃から今日まで私は自慰ばかりしながら生きてきた。最初は一枚のティッシュでも十分だったのが、今では十数枚を無造作に引き抜き、大量の液体を思うさま放出する日々である。
一度で数億生じるともいわれるオタマジャクシは、私の身勝手な行為によって、無念にも犠牲になった。女体をまさぐった末に起こる肉体の変化に伴い発射されるのが自然の流れであるし、私が生んだオタマジャクシたちもそれを望んだであろうが、実際には、適当な画像や動画にみだらな欲情を起し、しこしこと上下に僅かな回数動かしただけで、彼らは無理やりこの世に引き出される。
きっと彼らは、温かい体内の中で、数億のライバルたちと対しながら、奴らに勝って卵に突入するという野心を燃やし、そのための準備も怠らなかったであろう。
それなのに。
勢いよく飛び出たところは、あるいは紙の上、あるいは手の上、あるいは、やったぞ性器のスタートラインにたどり着いたと思うやいなや、それが単なる玩具の中であったことに気づき、涙を流して生を終えたものも、少なくなかったにちがいない。
私は彼らに謝りたい。
だが、考えてもみてほしい。青年は、ほぼ例外なく、思春期に入ると自慰を始める。その青年が大人となり、子供を持つまでの間に創出するオタマジャクシの数は、無駄にされるオタマジャクシの数は、数百億、いや、数百兆匹をもかるがると超えてしまうのではないか。
そう、彼らの中で卵にたどり着けるのはたったの数匹(零かもしれない)。残りの、無限にも近いオタマジャクシたちの死は、宿命なのである。
しかし私は声を大にして言いたい。君たちの生は無駄ではなかった、と。
広大な野原にうっすらと積もった雪のように白いティッシュペーパーの上に、さっと撒かれた純白の蜜を眺め、ああ、この中には、俺の種がたくさん泳いでいるのだと、そう思うとき、私は言い知れぬ幸福を感ぜずにはいられない。私の生きがいである自慰に、君たちは華を添えてくれるのだ。
フィンランドが礼賛されるのは、そういう「厳しい環境」と、小国ならではの小回り(大阪府より人口少ないからな)によって、いろんなシステムがとても効率化されてるから。教育から組織までな。
対して、日本は増田が言うようにそれほど「厳しい環境」ではない。だから、非効率なシステムがいまだに幅を利かせてるところがある。フィンランド礼賛は、そんな日本が、フィンランドが開発した「効率的なシステム」を導入しようぜ……という話なのであって、「国としての日本最低、フィンランド万歳」ということではないのよ。
まあ、実は元増田がフィンランド万歳で、「弱者の武器(効率的システム)を掠め取るような真似すんなや」という主張なのだとしたら、それはそれで一つの見識ではあるけれども。
僕はブックリストが怖い。
はてな民とか、あとは読書系サークルに近寄るとぶつけられるアレだ。
僕はアレが怖くてしょうがない。
ひとこと「本読みます」と言ったが最後、彼らは口々にお勧めの作品を提示する。
それらはしばしばリストの形をとり、数冊単位、時には10冊、100冊なんて単位をとることもある。
作品を羅列するひとは、とても楽しそうだ。かなりの熱意をもって、矢継ぎ早に「これ面白いよ」「これも読んでおかないと」と勧めてくれる。
僕にはそれが苦しい。
僕はリストをメモに書き留めながら、心の中では昔行った祖母の家での記憶を再生している。
祖母は遠方から僕たち孫がくるといたく喜んで、次々に食べ物を出してくれた。山のようなおやつ、晩ごはん前の前菜に茹でたとうもろこしを挟んでたくさんの揚げ物、ごはん、ごはん。
僕たちは祖母の熱意に押されて断れず、苦しいくらいにごはんを食べたものだった。
あの時の感じと、ブックリストをぶつけられる感じは似ている。
勧める側と勧められる側の非対称性とか。勧める側の、与えよう、啓蒙しようという感じが僕は何となく苦手だ。
彼らは勧める相手を対等に扱わない。
教化しようとしている。
自分はそんなことない、上から目線で押し付けたりしていないという人もいるだろう。
そういう人も、ちょっと思い返してみてほしい。
あなたは、自分がリストを作る時にかけたのと同程度、相手がそのお勧めトークや作品じたいをどう受け取ったか、それを感知することに知的エネルギーをかけているか?
相手は困惑したり、あなたが勧めた本を今まで読んでいなかったことを恥じ入っている様子はないだろうか?
そもそも相手は積み上げられるリストにうんざりしている様子はなかったか?
僕に本を勧めてくれた人の多くは、リストを作るのが好きな人は多かったが、感想をじっくり聞いてくれる人は少なかった。
たいがいの人は、僕が読んだことを確認したら、そそくさと次の本を勧めにかかった。
僕がまるでスタンプカードのように、リストに則って粛々と作品を勧めてきた。
ある種の人々は、仮想読者(非オタの彼女、サークルの新規会員など)に勧めるためのブックリストを作ることを無上の楽しみとしているように見える。
そこで仮定されるのは、たいがいが新参者、異邦人など、「自分より立場が弱い者」だ。「上司に勧める10の○○」だの、「婚約者の父に勧める10の○○」だのはあまり見かけない。
(存在しなくはないかもしれないが、全体を見た時の割合としては例外といって差し支えないだろう)。
ブックリスト作りはブックリスト作りで、読書をめぐる楽しみの一つなのかもしれない。
しかし、それを実際に受け取るのは生きた人間なのだ。あなたの頭の中にしかいない、啓蒙を待つひとではない。
せっかく熱意を持って勧めるのなら、同じくらいの熱意を持って勧めた相手の感想にも耳を傾けてほしい。
ある日、彼女は「うわあ、おもしろかった。ハルといっしょだったんだ。」と玄関にはいるなり、つっ立ったまま、話しだした。
プロジェクトに入れてもらえることになったモリがはじめての現場にちょっと不安をおぼえながら出ていった日だった。
マネージャーのトラウマ氏が「これが、こんどインフラチームにくわわるアルバイトのモリだよ」と仲間たちに紹介して彼女を二列目の席にすわらせた。
パチパチパチ—みんなの拍手をうけながら、モリがぐるりとまわりを見わたしたとき、三人ほどはなれたアプリチームの席に例の少女の顔があった。まっ白な鼻をピンとのけぞらせて、目と口もとをにこりとさせモリにうなずく。「えっ、彼女もいるのか」モリはひとりでふきだしそうになりながらカバンをあけた。
その日、その子の頭のお団子にいつものペチャン帽はなかった。定時になって帰るとき、モリは彼女に近づいていって「あなたの帽子は、どうしたの?」と話しかけ、つい、クスリと笑った。「私の帽子、きょうはベッドでおねんねよ。とっても疲れてかわいそうなの。」若くてやわらかい声で、まるいメロディーのついた話しかただった。ふざけている、という表情ではない。あのペチャンとした丸いものは、この少女にとってまったくまともな帽子なのだ。ああ、あれ!といっておたがいに笑いだすことになるのでは、と予測していたモリは、このまじめさのまえでまたおどろいた。「あなたも京阪?途中までいっしょにいけるわね?」
度肝をぬくような服装をしていながらその話しかたには、あかるい光を発散するようなやさしさがあって。なんとなくモリはひきこまれていった。
「モリのPerlて、とってもきれーいね。ほかにどんな言語を書くの?」
「あら、ひとつの言語だけなんてそんなに幅のせまいことではだめよ。私は、PerlとRubyとObejctive-CとJavaScript。あとScalaとGoも必要でね。そのうち始めるわ」
マリンスポーツ?あ、そうか、モリは、このあいだの夏休みに見たYAPCでのプレゼンテーションを思い出した。あのときのスピーカーに強烈な印象をうけたのだった。えーと、何て名前の人だったっけ・・・・。
「私、hitode909に弟子入りしたいって手紙出したのよ。あの人のTwitterやらgithubのログやら、全部読んだの。」
そうだ、hitode909だ、とモリは思い出した。え?でも、あんな人に手紙を出したなんて!
「ほんとは、はてなインターンも必要なのよ、でもそんなにいくつもやる時間がないでしょ。だからいまのところ過去の参加者のブログを読んで様子を見ているのよ。」
京阪電車の座席でむかいあって座っていたハルがしばらく沈黙した。ふと、モリの目のまえで、なにかが、なよなよと動いた。見ると、ハルの両手がのびてくる。左右の手指をからませたり、はずしたり、その手がパッとひらいたり・・・。腕をおりまげ、背をまるめ、首をうなだれていたかと思うと、ふたたび頭をおこし、両腕をゆるやかにつきだしてきた。少女の目は、どこか遠くにむけて、自分だけに見えるものを、つかまえようとしている。いきなり、彼女が両手でモリの両肩をおさえてゆさぶりながら、「ねえ、ねえ、モリ、いまの私にとって、なにがいちばんの問題か、わかる?緑よ、緑の色を、どうマリンスポーツするか、ってことよ。青と、赤は、かんたんなの。でも緑はね、ほんとにむずかしい。」さっきとちがう早口で、熱っぽく語りだした。
「あんな子に・・・私は・・・もう・・・ほんとに・・・はじめて出あった・・・。」
…ということくらいは分かってるよな?な?
Twitter を見てると、太陽系の天体が螺旋運動するこのデマ動画が、いまだにRTされたりして拡散しているのでうんざりしてきた。
「太陽系 公転」「太陽系 運動」「太陽系 移動」「太陽系 回転」などで検索すると、この動画を真に受けて紹介しているブログなどが検索上位にヒットしてきて、さらに誤解を広める一因となっている。
あまつさえニコニコ動画にも転載され、字幕までつけられている。
結論から言うと、これはトンデモ信者が思い込みだけで作った信憑性ゼロの動画である。映像の出来だけはよいからか、昨年の3月頃からかなり広まっており、天文学者フィリップ・プレイト氏がブログでその間違いを指摘した記事を出している。プレイト氏は『イケナイ宇宙学 間違いだらけの天文常識』の著者で、世にはびこる間違った天文・宇宙ネタを斬って解説するブログ Bad Astronomy で知られている人。
この記事の和訳版が以下にあり、大変ありがたいのだが(動画が話題になってすぐのタイミングで和訳まで出たのは本当に感謝している)、残念なことに誤訳が目立つという指摘があり、いまもって修正されていない。
翻訳が不自然な箇所を以下にテキストで逐一指摘してくれている方がいたが、行きつ戻りつ確認しながら読むのが大変なので、勝手ながら指摘箇所を中心に翻訳を修正して以下にまとめ直した。いまだに信じて動画を広めてしまっている人に「それ間違いですよ」と指摘しようにも、記事の誤訳が多かったりするとちょっとなぁ、となるので。
なお、もし元の翻訳記事が適切に修正されれば本記事は消すつもりだが、和訳した方は当時Twitter で指摘されてこの校正テキストを読んだはずなのに、もう1年半ほど放置されているのであまり期待していない。
間違いを打ち消すために、まともな太陽系の公転運動を描いた動画があれば知りたいものである。
なめらかな動きでコンピューターアニメーションが太陽の周りを周る惑星の動きを、天の川銀河を周る太陽軌道のように解説する動画について、ツイートやメールがたくさん来ている。とてもきれいな動画に、説得力のある音楽、ていねいな作りの画像。
しかし、問題がひとつある。間違っているのだ。間違いは表面的なものではなく、間違った前提からきた根本的なものだ。中にはいくつかの有益な視覚情報があるが、私は(銀河サイズの)話題のタネだと思っておくよう警告する。
なぜか? 彼の主張の基礎は、「惑星は太陽中心の軌道を描いているのではなく、銀河の周りを渦巻き状に移動している」というものだ。
私は普段、こうした話題の間違いを暴くような面倒なことはしない。奇抜な主張はいつでもあるし、たいていは自滅していくからだ。しかし、この件についてはたくさんの人が私に知らせてきたし、明らかにかなり人気を博している――たぶん表面上は正しく見えるし、画像も大変きれいだからだろう。また、科学を知りつつもそこから離れて久しい人たちによって広まっているのではないかと見ている。このような話題を扱うときには、いつも少し深く掘り下げる手間がかかる。
そこで、シャベルを取り出してみよう。
動画の作者DJ Sadhuは明らかにコンピュータグラフィックスの才能がある。しかし科学は……まあ。私にはすぐさまこの動画が何を目指しているのかわかった。彼は率直に、太陽系の太陽中心モデルは間違っている、と述べている。しかしながら、この Sadhuの主張ははなはだしく間違っている。重力は存在しないと言っているようなものだ。
地動説とは、太陽が太陽系の中心にあるという考え方で、惑星はその周りを周っている(他にもいくつか大事なことがあり、たとえば惑星の軌道は楕円であるとか、軌道は同一平面上にあるのではなくて互いに傾いているとか)。この考え方は、地球が太陽系の中心だという古い天動説にとってかわった。天動説は、それをちゃんとした物理のモデルだと考えると、あらゆる種類の奇妙な仮定をしてやらないとちゃんと機能しない、とてつもなく複雑で考えすぎの物理モデルになってしまう(タイレノールなどの頭痛薬があるなら、epicyclesの項を見てみよう)。地動説はそれよりもずっと物理的に正しいし、ずっとうまく機能している。
私は、どちらのモデルにもそれぞれの使い道があると言いたいのだ。もし特定の惑星が天のどこにあるのか知りたいなら、天動説の座標を使うことになる。われわれは地球に住んでいて、地球は動かずに天の車輪が頭上を回転して動いているように見える、それは理にかなっている。しかし、もし惑星へ宇宙探査機を送りたいなら、太陽中心のシステムが必要なのだ。地球も惑星も両方とも動いていると考える方が、はるかに計算は簡単になる。
Sadhuは、地動説が間違っていて、実は惑星は渦を描きながら太陽を周る動きをしているのだと主張している。彼が実際に言わんとしているものは、渦ではなくらせんである。この2つは名前が違うだけでなく、物理的な動きもその特徴も全く異なる。らせん軌道を描く粒子は、太陽系のようにお互いには干渉していなくてもよいが、渦を描く粒子は抗力と摩擦を通じて互いに干渉している。
しかし、意味論的な論争はよそう。もう一度動画を見てみよう。Sadhuは太陽が惑星を先導しているかのように、太陽が惑星よりも前方に出て銀河を回っているかのように描いている(2番目のビデオだともっとそれは明白だ)。これは単に誤解を招くだけでなく、完全に間違っている。惑星は、われわれが銀河系の中を巡るとき、ときどき確かに太陽の前に出たり、ときどきその後ろをついてゆく(太陽を周回する軌道上のどこにいるかによる)。実際に夜空の惑星を見たことのある人にとっては明白な真実である。なぜなら夜空の一部は、地球や太陽が銀河系を周るときの進行方向にあたるわけだが、惑星はその部分にだって観測されるのだ。
ここでも、細かいことをあれこれ議論するのはやめよう。後述するように(「こうした考え方はどこからもたらされたのか?」の項)、惑星が銀河系内を動くときに太陽の後ろをついていくという考え方は、Sadhuがらせんについて述べるときの思考基盤となっている。しかしまずは、もうちょっと見てみよう。
太陽が銀河の中を移動していく様子を示している、彼が二番目に公表した動画では、もっとひどい状況だ。
公平のために言うと、今回彼は惑星の動きについて「らせん状」だと正しく記述している。しかし、まだ惑星が太陽の後ろをついていくように描いていて、これは間違っている。また特に動画の冒頭では、太陽中心モデルと、らせん運動についての彼の説明を具体的に比較しており、誤った「太陽主導」の考え方を補強している。
彼の動画における太陽中心モデルの動きを注意深く見てみよう。銀河を周る太陽が動く方向は、惑星の軌道平面と同じに描かれている。しかし、こうではないのだ。太陽系の平面は、車の前方への動きに対してフロントガラスが作る角度のように、銀河系に対して約60度で傾いている。
これは本当に重要な点だ。らせんモデルでは、銀河を周る太陽の動きにあわせて、太陽を垂直に周回するような惑星が描かれている。お好みなら「正面向き」といってもいい。これが間違っている。なぜなら、惑星の軌道は60度で傾いていて、90度ではない。惑星はときに太陽の前に、ときに後ろになる。これだけで、らせん描写が正しくないことがわかる。地動説という現実のモデルにおいても、順行-逆行運動というものは存在し、現実の空できちんと観測できる〔訳注:詳しくはこちら参照〕。
しかしそれだけではない。動画では、太陽が銀河を周ることを見せていて、らせんに沿って上昇、下降している。最初の動画のように、一部正しいところもあるが、大方は事実からかけ離れている。
われわれの銀河は、中心部が膨らんでいる平たい円盤で、端から端まで約10万光年の距離がある。この円盤は無数の星を内包し、その重力が合わさって、銀河中心を周る軌道に太陽を留めている。ちょうど、太陽の重力が惑星を軌道に留めているのと同じだ。
太陽が銀河系を一周する軌道の長さは、およそ2.4億光年ではない。銀河を周回するときには、だいたい動画にあるように、太陽は実際ぴょこぴょこアップダウンを繰り返している(とはいえ大体1周につき4回ぐらいなのに、Sadhuは動画内で数十回もアップダウンするように描いている)。〔訳注:太陽系が銀河系内を周回する軌道の図参照(垂直方向は強調されている)〕
このような運動が起きるのは、銀河円盤での重力の働き方のせいだ。ここが非常にクールなところだ。円盤よりほんのわずか上にあるものは、円盤に向かって全体的に下へと引っ張られる。円盤が巨大な物質の板であると想像してみて、太陽がその円盤よりも上にあるとする。円盤の重力は太陽を下へと引っ張る。星と星の間は遠く離れているので、太陽は円盤の間を通り抜けて下へ降りていく。そうすると今度は、下に来てしまった太陽を円盤がまた引っ張り上げる。このとき、太陽の動きはだんだん遅くなり、そして止まり、向きを逆にしてまた円盤へと急激に突入する。太陽は、銀河円盤の中心から上下にそれぞれ200光年ぐらいの浮き沈みをするが、円盤は1000光年の厚みをもっているので、結局私たちは銀河円盤の中にしっかり留まっている。しかしこうした摂動は永遠に続き、太陽は大海のコルクのように浮き沈みを続ける。
太陽は銀河を周回しているので、合わさった動きはすてきな波のパターンになり、浮きつ沈みつ回転木馬のようにまわり続ける。ゆえに、Sadhuはこの部分に関しては(多かれ少なかれ)正しい。
だいたいはね。しかしここに3つ目の要素が加えられている。ひねったらせんを描く太陽の道筋を、彼は歳差運動の性質だとしている。この部分は間違っている。非常に間違っている。
歳差運動は物体が回転するときにてっぺんをぐらぐらさせる動きで、回転の中心軸からずれた向きの力をてっぺんに加えたときに起きるものだ。コマのてっぺんを突くとぐらつく、それが歳差運動だ。地球自身も太陽と月の重力に引っ張られて歳差運動をしており、その軸の1回の揺れ周期は2万6000年だ。
明らかにSadhuは、動画の中でこれを表現している。しかし、ぐらつきは太陽にまったくなんの影響も与えていない。それはただ、地球が何かしているだけだ。しかし、Sadhuは銀河を周る太陽の動きに付け加えていて、それは意味をなさない。動画では銀河を周るコークスクリュー(コルク栓抜きのような螺旋運動)を描いているが、ときには銀河の中心に寄り、ときには遠くへ離れる動きを何度も何度も繰り返している。回転木馬のたとえでいえば、馬が真ん中で回って、上下に、また左右に動いているようなものだ。しかし、それは太陽の本当の動きではない。左右の運動なんてない(軌道ごと何度も銀河の中心に向かったり離れたりするなんて)。Sadhuの示すコークスクリューパターンは、間違っているのだ。
動画と解説文において、Sadhuはかなり頻繁に、座標系と力と運動を混乱させている。
彼はなぜこんな正しくない運動を描くのだろうか。それを掴むため、彼が元にした文献をあたってみた。
動画と彼のサイトによると、SadhuはPallathadka Keshava Bhatという人から学んだそうだ。Bhatによる「らせんの渦巻き:太陽系の動的プロセス」(“Helical Helix: Solar System a Dynamic Process”〔リンク切れのためこちら参照〕)と題された文章にこの考え方はすべて説明してあり、細かすぎる点は指摘しないが、ちんぷんかんぷんなものだった。まじめな話、どれもまったく意味をなさない。Bhatは地動説は間違っていると主張しているのだが、その主張を補強するために、虚偽のアイディアを次から次へと用いているのだ。彼の主張の間違いを暴くためにページを割くこともできるが、ここは短くまとめてみよう。
私はBhatの主張を何度も読んで、可能な限り好意的に考えようとした。私がかき集めたところでは、彼が言っているのは、太陽の動きによって、太陽を先頭にして惑星が後をついていくという形で、惑星は銀河系内でコルク栓抜き状のらせん運動をする、よって地動説は間違っているというものだ。Sadhuの動画の解説文によると、こうした動きをうまく描いているという。しかし、どれも完全に間違っている。もしそれが正しいのなら、外惑星(太陽から地球よりも遠くにある、火星や木星など)は太陽の反対側に遠く離れて見えないだろう。しかしいつだって、私たちには見えている。
それに、私たちは何度もほかの惑星へ宇宙探査機を送っていて、どれもいまだその軌道上にある。もしBhatがいうように地動説が間違っているのなら、探査機はいつになっても目的の惑星に到達できない。探査機を送るための軌道計算が間違っていることになるからだ。探査機の道筋を計算するときに銀河を周る太陽の動きを考慮する必要なんて全くないから、Bhat氏のいうことは正しくない。
太陽が太陽系の先頭で、惑星はその後ろをついていくという主張も、明らかに間違っている。太陽は、Bhatが主張し(Sadhuが動画で示して)いるように、銀河系を突き進む弾頭のように太陽系を主導したりしていない。惑星は太陽の周囲を周り、全体が一つのユニットとして銀河系を60度の傾きで移動している。これは、銀河の軌道に沿って惑星はときに太陽の前になり、ときに後ろに続くということだ。
これはそう、道を歩くあなたの頭の周りを、端にボールの付いた紐がぐるぐる周っているようなものだ(この円は60度傾いている)。ボールはときに頭の前になり、ときに後ろになる。道を歩くときには常にあなたと一緒だが、歩く速さには関係なく、相対的にはあなたと同じ速さでいつも移動している。あなたが自分の動きを線で表すとすると、ボールは傾いたらせんを描くだろう。これこそBhatとSadhuが説明しようとしたことなのだが、しかし間違った説明になってしまった。
Bhatは、その文章の中でいくつもの間違いと論理的誤ちを犯している。たとえば、Sadhuの地球歳差運動の誤用についてBhatが何と言っているか読み取ろうとした。しかし、とても不明瞭で(それに単純なミスもあり、彼は歳差運動の周期を22万5000年としているが、実際には2万6000年)ゴルディアスの結び目を解いているみたいだった。まだほかにも。彼は、もし地動説が正しいなら、日食は1カ月に1回起きなければならないと考えている(46ページと134ページを参照。ちなみに日蝕が一ヶ月に1回起きないのは、月の軌道が傾いているため)。また、彼は「太陽中心軌道は不可能であると意味しなければならない」と結論付けた部分で、地球が太陽の周りを周る回転について根本的な勘違いをしているようだ(文書の30ページを参照のこと)。実質、私が読んだ文章の1ページごとに基本的・根本的な間違いがあった。
そしてこれが、Sadhuの(間違っているにしてもステキな)動画が基礎としているものなのだ、いいかい? いっておくが、もしSadhuのサイトをのぞいてみたら、あらゆる種類の……んー、おかしな陰謀論……9.11陰謀説から、ケムトレイルから、デイヴィッド・アイク(本気で爬虫類型異星人がデンバー空港の地下に住んでいて世界を支配していると主張している)が怒り狂いそうなのから、名前しかない程度のものまで見つかるだろう。私は、彼のほかの考え方を念頭に置くことにした。
DJ Sadhuの動画は、とてもステキで、そのうちいくつかは真実を元にしたものだ。しかし、私の意見ではBhatのゆがんだ宇宙に対する見方のせいで、その核心が失われてしまっている。
彼の動画は正しいように見える。クールであるように見える。ものごとはこうでなくっちゃ、というセンスに訴えかけるものがある。しかし、物事がどうあるべきかと、実際にどうなのかということはいつも重なり合うわけではない。宇宙は本当にクールな場所で、とてもよく出来た一連の法則に基づいて動いている。私たちはこうした法則を「物理」と呼んでいて、それは数学で記述されている。そしてそういうこと全部を理解しようとする試みが、科学である。
クールなものがすべて科学ではない。しかし科学の全てはクールだ。これは普遍的な法則ではないかもしれない。けれども、私の見てきた限り、これは真実なのだ。
確かに。
外国にもブラックな労働押し付けている件のビデオのリンク。うまそうにチョコほうばりながら、格安の服着ている人が、ブラック企業叩く資格はないと思う。
嘘だと思うなら↓のビデオ。
No Child For Sale (2014) :60 Commercial - Chocolate - YouTube
No Child for Sale - Stop Child Labour with World Vision Canada - YouTube