昨今では忌み嫌われる長文で、たいして面白くもない内容なので誰も読まないだろうが、それでいい。
軽く自己紹介。精神科病棟で働きはじめて一年になろうとしている。看護助手の契約社員。今年で21歳になった。
一浪して合格した、世間的には難関と認識されている、都内の有名私立大学()を半年で退学して、今の職場に入った。高卒資格なしで将来食っていけるか不安なので、不況でも食いっぱぐれないと聞く、看護師を目指そうと今は考えている。それ以前はコンビニのアルバイトと日雇いの倉庫作業くらいしかしたことがなかった。退学した理由はくだらない。授業に出席せず、単位取得における必須出席率(三分の二)に満たなかったので、留年がほぼ確定していたからである。受験当初から志望校などなく、勉強もさほどせず、たまたま合格した大学にとりあえず入ったという塩梅で、絶対に卒業しなければならないという意志もなかった。中流家庭で経済的には比較的恵まれていたので、仮に努力さえすれば(一般的な大学生にとってはそれは努力ではなく普通のことなのだろうが)一留したとしても卒業はできたはずである。まったく親不孝な息子である。
わたしが働いているのは比較的症状が安定した患者が療養する慢性期病棟である。患者の平均年齢は65歳くらいで、ほぼ全員が統合失調症の患者である。平均入院年数は約15年である。医学的知識に乏しいので統合失調症とは何かといった説明はしないが、約100人に1が罹患するとされている疾患である。自分の身近に統合失調症を患った者がいても珍しいことではない。事実、わたしの身内にも罹患者がいる。距離的に頻繁に会うことはできず、ほとんど疎遠であるが自分と年齢が近いこともあり気にかけている。
慢性期の開放病棟とは言え、当然ながらそれは院内における開放という意味であって、自由に院外に出られるという意味ではない。あたりまえのことだ。また患者各々の処遇によって、院内開放の認められる患者とそうでないものがいる。前者は全体の三割ほどだろうか。それ以外の患者は看護師同伴での外出の外は、ほぼ365日病棟内で過ごすことになる。彼らの生活は異常なほどに規則正しいものになっている。規定の時間に起床を促され、看護スタッフの監視(長年にわたる薬の服用がもとで嚥下に問題がある患者が多く、誤嚥で窒息する恐れがあるため)のもと朝食を済ませ、その日が入浴日であれば風呂に入るよう半ば強引(彼らは清潔観念が乏しく風呂嫌いが多い)に促され、昼食を食べ、自主参加ではあるが作業療法に参加し、夕食を済ませる。食後は各々に処方された抗精神病薬を服用し、就寝前には看護用語でVDSと呼ばれる就寝前薬を服用し消灯、就寝となる。もちろん彼ら全員がすんなりと眠ってくれるわけではないので、必要に応じて追加薬として眠剤をさらに服用させる。それでも睡眠ゼロ時間で朝をむかえる患者もいるが。
規則正しい生活が健康を保つ秘訣であるとは言われるが、物事がすべて規則的に進む環境に長く置かれれば、精神的に健康な人間でも何らかの精神症状を示すようになるのじゃないかと思う。何事も適度にやることが大切である。仮に自分が彼ら患者と同じ生活をしてみるとなれば、1ヶ月も耐え切れないのではないか。
普通の人から見れば異常な規則的生活を強いられているばかりでなく、彼らはプライベート空間を与えられていない。病室は4人1部屋の総室であり、ベッドにはカーテンが備え付けられはいるが、必要とあればスタッフが遠慮無く開けるのでプライバシーの確保としては機能しない。唯一例外として挙げられるとすれば個室トイレであるが、それでも外側から簡単に鍵を開けられる。もちろん理由はある。ここは精神科である。患者を1人にするのはリスクが伴う。その最悪のリスクが患者が病棟内で自殺するというケースだ。自殺するのに銃もロープも包丁も必要ない。タオルやシーツ1枚で十分である。首を吊る必要もなく頸動脈を絞めれば尻をついた体勢でも逝ける。患者に希死念慮の疑いがあれば、保護室と呼ばれる個室で隔離し、常時モニターで観察する。必要であれば拘束帯で手足、体幹を拘束する。それは仕方のないことであると個人的にも思う。そのようなことがあれば直ぐに訴訟になり、病院だけでなく医師、看護師、資格を有していない看護助手も裁判にかけられるのである。人間が外部との接触なく常に1人きりで長時間過ごすことに耐えられないのは、拘置所などにおけるSolitary Confinementが精神に及ぼす悪影響を鑑みれば明らかであるが、それでも生活の中に1人の時間を設けることは精神の安定にとって非常に重要なことである。
一日の中で病棟が最も活気にあふれるのは3時のおやつの時間である。患者は小学生の小遣いほどの小銭を握りしめて、病院に併設された売店へと向かう。わたしも幼少時代、同じように手汗にまみれた小銭を握りしめ駄菓子屋へ足を運んだ記憶があるが、自分より2回り以上年齢を重ねた彼らが喜びと興奮の面持ちで売店に赴くのである。もちろん離院されては困るのでスタッフ同伴である。なかには1時間も2時間も前から「○○さん、おかし」とこちらが辟易とするほど頻回に訪ねてくる患者もいる。そのたびに「△△さん、時計見てください。今何時ですか?3時まで待ってくださいね」と説明する。しかし時間を把握することができないのか、理解に乏しいのか、その後にわたって同じやりとりが何度となく繰り返される。そしておやつの時間が近づくと、患者は詰所(ナースステーション)に詰めかけて「かいもの、かいもの」の大合唱がはじまる。入社して形式的な研修を終え、病棟で働きはじめた初日、その光景を目の当たりにし、「これはなにごとか、いったい今から何が始まるんだ」と誇張なしで思ったものである。一度に売店へ連れていけるいけるのは、多くて5名である。それに対して2名の看護スタッフが同伴する。離院のリスクが高い患者はマン・ツー・マンで対応しなければならないので、業務の都合上、最後に後回しにしざるをえない。この対応に納得のいかない患者は時としてもの凄い険相でこちらを睨みつけたりもするが、申し訳ないが待って頂く。いざ売店へとたどり着くと、患者は菓子の並ぶ棚を物色し、各々お気に入りの菓子や飲み物(十中八九コーラである)を買うのだが、彼らの選択肢はさほど多くはない。金銭的な問題もあるが、誤嚥のリスクが高い菓子類(特にパンや、硬いもの)は遠慮してもらう。病棟へ戻り、スタッフの目の届く範囲のテーブルで購入した菓子を食べるのだが、彼らの食べる、飲むの早さは尋常ではない。これは食事においても同じである。コーラを飲み干す早さは、ハイキングウォーキングのQちゃんにも引けをとらないだろう。
余談だがこの病棟にはデイルームに自動販売機が1つ設置されているのだが、患者が選ぶのは常にコーラである。コーラの横に並ぶ水やお茶などを患者が買う場面を見た試しがない。聞くところによるとこの傾向はこの病棟(病院)に特異なものではないらしい。特にかくコーラの消費量が半端ではないのである。1日になんども業者がコーラの補充に来る。仮に1日のコーラ販売数が最も多い自販機であったとしても驚かないだろう。
ここで少しOT活動(作業療法)について触れておきたい。その内容ではなく病院経営の観点から見た作業療法である。わたしは不勉強で参加者1人あたりの診療報酬がいくらで、具体的に自分の働いてる病棟で月あたりどれほどの利益が出ているのかといったデータは知らないのだが、現状でも結構な額の利益を稼ぎだしているようなのである。しかしそれ自体はなんら問題ではない。病院も利益を出さないかぎり存続が危ぶまれるわけであり、それは結果として直接的に患者の不利益になるので致し方無いだろう。しかし病院経営者としては、さらなる診療報酬の増収を求めて参加者の今まで以上に増やすことを病棟にプレッシャーをかけてくる。だが経営的観点からのみ作業療法を考えるのは、本末転倒であり、本来の作業療法の意義を見失いやしないだろうか。普段活動意欲の乏しい患者たちの他者と交流する機会の場を提供したり、同じことの繰り返しである日常に些細でも刺激や楽しみを見出させ、活動意欲の向上を目指す。わたしは作業療法士ではないので専門的な知識はないが、研修のとき作業療法士からそのような目的を聞かされた記憶がある。作業療法は任意参加である。もちろん参加したほうが治療的には望ましいことは間違いないが、患者自身が活動に対して主体的にならなければ効果は期待できない。仮に活動に参加しない患者には売店へ行かせない等のやり方で、強制的に参加を促したところで継続しないのは明らかで、それ以前に患者自身の金でおかしを買わせないとなると人権侵害である。ある患者は「おもしろくないから、わたしはいいよ」と参加を断り続けている。確かにプログラムがマンネリ化していることは否めない。病院の作業療法士が仕事に対して不真面目であるからではない。みな限られた予算のなかで真面目に患者のことを思い必死でやっている。要は作業療法で得た診療報酬はどこに還元されているのかという話なのである。言うまでもなく、参加をしぶっている患者に対して毎日声掛けしている現場スタッフには還元されない。それは別にいい。しかしOT部門への予算を増やす、給料面で還元するなど多少はできないのだろうかと常々感じている。慢性期病棟でほとんどの患者は退院が見込めないため、患者を金づるにし作業療法による診療報酬で利益を出そうとう考えなのだろうか。これは完全なる愚痴である。
わたしは今まで目的も夢もなく堕落的に生きてきたので、それゆえか「生きがい」だとか「なぜ人は生きなければいけないのか」といった面と向かって口にするのは恥ずかしい問題だが、漠然と考えてきた。
いままでは、どちらかと言えば普遍的な命題として考えていたのだが、統合失調症を身内に持つものとして、同じ疾患の患者と毎日のように接触を持ち、「彼らに生きがい、あるいは生きる目的があるとすれば、それはなにか」といった具体的な疑問に変遷していった。
ある患者に病棟での生活で一番楽しいことはなんですか、と尋ねたところ「(部屋の窓から)道をみること」という答えが返ってきた。わたしから見れば、そんな些細なことが彼女にとって一番楽しいことなのである。別の患者は「婚約者と結婚して二人で暮らすこと」だと言う。彼には婚約者もいなければ彼女もいない。すべて妄想なのである。しかし誰が「あなたの言ってることは妄想によるものですよ」などと否定できるだろうか。このような閉鎖的な環境で長年生きていれば、自分で虚構の世界をつくりあげてそれにすがって生きていくしかないのではないかと個人的には思う。
精神疾患に対して偏見を持っている者は多くいるだろう。わたし自身も実際に今の職場で働き始めるまで偏見を持っていただろうし、今も偏見はあるだろう。偏見というものは概して無意識のうちに身体に染み付いているものであって、「わたしは○○に対して偏見はありません」などと平気で言う人々は疑ってかかったほうがいい。自分のなかに偏見があることを自覚し、それを少しでも減らしいくことしか我々にはできない。ちなみに今までこの文章は、一つの精神病院にたった一年しか勤めていない人間が書いたものなので多分にいろいろなバイアスがかかっていることだろう。
(追記)
ここで、わたしは実際のところ統合失調症の患者です、つい先日退院しました、と書けば結構な釣りになるのだろうが、残念ながらそうではない。
上記の文章を読まれたかたは、鬱屈した患者たちの姿を想像されるかもしれない。彼ら患者たちは、閉鎖的な環境で長期間に渡る入院生活を余儀なくされている。憐れむべき現実だろう。病棟に飾られた造花の紅葉では秋の匂いを感じさせてはくれない。夏が過ぎ去った後の秋風の涼しさを感じることもできない。しかし患者たちの表情は思いのほか明るく柔和である。無論、ついさっきまでニコニコとしていた患者が、いまにも殴りかからんばかりの表情に急変することは多々あるのだが。概して、彼らは彼らなりに現在の環境に適応し、楽しみを見つけながら生活している。
彼らは退院することなく死ぬまで病院で過ごすことになるのだろうか。慢性期病棟に長期間入院する患者の退院が難しいことは言うまでもない。特に高齢者となると退院後の受け入れ先が限られてくる。また患者自身が退院したいという意欲に乏しいという場合もある。それもそうだろう。入院生活が十数年にも及ぶとなると、社会復帰をためらうのも無理もない。病棟の五十代のある患者は精神症状もほとんど見られず、一見して彼が精神障害者であるとは思えない。人当たりの良いハゲのおじさんといった風貌である。精神保健福祉士が先頭に立って、退院実現を図ろうと粘り強く退院促進をすすめている。退院後は病院のデイケアを利用してもらう計画である。それでも普段多弁である彼は、退院という言葉を聞くとそっぽを向いて耳を貸さない。
『ショーシャンクの空に』という映画がある。有名な映画なので観たことのある人も多いだろう。そのなかでモーガン・フリーマン演ずる囚人レッドがこんなことを言う。
「あの塀を見てみろ。はじめは憎らしく見えるだろうが、しだいにそれに慣れ、しまいには依存するようになる」
わたしは退院をしぶる彼を見て、長期入院している精神科の患者も似たような心境の変遷をたどるのかもしれないと考えることがある。ホームレスと違い、入院していれば働かなくとも毎日腹を満たすことができる。そのかわり自由は制限されるが、ときとして自由は重荷にもなりうるのである。しかし彼は年齢的にまだ中年であり、やりたいことも多々あるだろう。彼が恐怖心を断ち切り、入院生活に終止符を打つことを願っている。ダメだったら戻ってくればいいいのである。
精神科で働いてわかったことは、統合失調症という人格は存在しないという当たり前の事実である。彼らには統合失調症という共通項があるにしても、性格も精神症状も皆異なる。それがこの疾患のおもしろいところと言うと語弊があるかもしれない。しかし患者と日々接するのは、うんざりするどころか楽しいのである。たまに患者にヤクザ口調で怒声を浴びたり、軽く殴られたりもするが、病気のせいだと考えれば、それも仕事だと思える。頓服薬を服用して落ち着いた患者は、自ら「さっきはごめん」と謝ってくる。わたしは「べつに気にしないでいい」と答えるだけである。
最後に、ある六十代の患者さんは「葬式ないよね?」と頻回にスタッフに尋ねる。彼女が「姉さん」と呼んでいる妹さんが死ぬという妄想があるようで、妹の葬式はないかと確認しているのである。とりわけ、わたしに対して尋ねてくる。恐らくはわたしが坊主頭で、彼女に坊さんと呼ばれているからであろう。わたしが実際に坊さんではないことは理解している様で、ある時冗談で、「○○さん(彼女)が死んだら、葬式は僕に任せて下さいね」と言うと、彼女は笑った。ブラックジョークを理解するだけのユーモア精神のある患者さんである。
ふぅん
できることなら勉強して精神科医めざしてほしいと思った。
すごいしっかりした文章を書く人だな。長文なのにするする読めてしまった。 いまは30歳か。看護師になれたかな。 このくらいの知性の持ち主だと、社会人大学生→大学院くらい行って...
読めん