はてなキーワード: 旋律とは
【全体共通】
・チープでも、歌詞があらゆる人に共感できて良い。ストーリー的、もしくは絵本的。聖書的。日記的。
・覚えちゃうフレーズがある。フレーズで売ってる。(心地良いか否かはあまり関係ない)
・ビートが単純。
・展開の構造は独特。サビまでの流れはポップとは限らない。
・歌(声)、声ネタに特徴がある。
・パワーがある。
・スピーカーでの聴き味が良い。(スピーカーとイヤホンの聴き味があまり変わらない)
・需要は、全視聴者の最大公約数的。バラードなら一般的に切なく、ポップなら一般的にノレる。
「・・・こんな曲が売れると思ってなかった。というトップの曲はめちゃくちゃに売れる傾向。チープ、単純、シンプル。」
【ニコ動内】
・覚えちゃうリフがある。
・無欲に、善意と好きだけでしてる。アノニマス的。(かつ才能がある)
・ボーカルが濃い。
・シリーズ物。
・気合(魂)がこもってる。
【NG】
・音楽的に、もしくは音の良さだけで聴かせる曲。良くても良い線止まり。
・マスタリングが悪い。広がりと深みがない。
・スピーカーで聴いてない。
・大人向け。
・音使いが天才的。(頭悪くない)
・テレビで見れる・聞ける水準。
・「それ?」っていうビートと音がある。
・どの曲もどこかトランス的。
オリンピックで流れていたケニアの国歌が、なんだか日本の民謡にも通じる独特な感じで、かっこよかった。
なんでも、伝統的なケニアの子守唄のメロディーがもとになっているらしい。
で、他にもかっこいいのあるんか?と思って探していたら、ネットでちらほら話題にされてるすごいのみつけてしまった。
https://www.youtube.com/watch?v=VWy4USruuR4
すごい。かっこよすぎる。
なんだろ、スペースオペラ系のSF映画で、主人公が砂だれけの惑星に遭難してぐるぐる巻きにされて、
砦に引っ立てられて、そこにいよいよ惑星を支配するボスが手下ひきつれて登場してくるときの音楽だ。
で、「これでおしまいか」と思ったら、実はこのボスがいい人で、結局、一緒に戦うための軍隊だしてくれんの。
(我ながら、たとえがよく分からない)
wikipedhiaにもあんまり詳しいことは書いてないが、Tolia Nikiprowetzkyとかいうロシア生まれでフランスで活躍した作曲家が、伝統的な旋律を編曲したらしい。
日本語版では「作曲した」となっているが、英語版では「Music traditional (arrangement Tolia Nikiprowetzky)」ってなってるから、そういうことなんだろう。
まあ、植民地から独立した国に「国歌作曲してください!」ってたのまれて、あのメロディーはつくらないよね、普通。
なお、モーリタニアって国、マダコがたくさん取れて日本にも大量に輸出しているが、現地の人は気味悪がって食べないらしい。
「君が代」は、西洋的なメロディーではない曲で、実際、そうなんだとは思う。
でも、時々ネットでみかける「他の国は西洋音楽ばっかり! こんな独自な国歌を持ってる国は無い!日本サイコ-」っていう愛国ポルノは、
ちょっとちがうよね。
https://www.youtube.com/watch?v=YIyLUBdNAC8
https://www.youtube.com/watch?v=gE6beEdzhtI
もとが子守唄っての、よくわかるし。
https://www.youtube.com/watch?v=pI7V324e1zg
好きだよ、愛してる、素直になれない、張り裂けそう、君がいるから頑張れる、守ってあげる、メルト
バッハの旋律を夜に聞いたせいです。、本当は俺が悪かった、君が俺から離れた理由が分かった、今なら言える、例え叶わなくとも、津軽海峡冬景色
家族に感謝、ずっとそばにいてくれたお前に感謝、仲間に感謝、感謝なんじゃのいったもんじゃいコスパ最高!
・死んだ人へのメッセージ系
あなたがいなくなってうんたらかんたら、私の墓でなんたらかんたら
・キュートなあなたにイタズラしちゃうよor大好きな君を応援しちゃうよ系
・意味不明な歌詞、宇宙がどうのこうのを並べ立てるシュールでしょ?系
・シャウトかデスかメタルかほんぎゃあああ系
(シャウト)、(じごきゅがどうのこうの)、(しゃうと)、(神が悪魔がどうのこうの)、(間が空いたらしゃうと)
・森の中熊さんに出会ったか精神年齢が中学二年生で停滞してるキミにストライク系
コロッケ作るナリよ、バンプ、世界の終わり?、若者向け意識したバンドがよく作りたがるやつ
かなぶーん、アジカン、ウルフルズ、他にも尖ってもないし真球でもない特筆すべきこともない歌詞
・みんな頑張ろうぜ系
エグザイル、嵐、スマップ…ってこれ歌詞じゃなくてグループ名ですやん
・君が代系
・その他
聴かないのでわからない
ガバガバ省みず
私は共産趣味者だ。歳は20代。共産主義のシンパではあるし、社会主義者ではあるかも知れないが、共産主義者ではないと自己規定している。
共産趣味にもいろいろある。私はソ連の音楽が好きだが、映画やポスターやスローガンに惹かれる人もいるし、ミリタリー方面が中心の人もいる。地域についても、東ドイツはじめ東欧諸国やユーゴスラビア、東南アジア、南米などの東側諸国だけではなく、日本や西欧などの西側諸国で見られた共産主義の関わる文化活動に惹かれる人など様々だ。
ソ連の音楽や社会主義者の音楽の何が私を惹きつけるのだろうか、と思ったので書いてみる。多少ガチの共産主義者っぽい部分もあるかも知れないし、不勉強なので思想の細かいところは間違っているかも。
世界の半分で、少なくともその当初は熱狂的に支持された思想であり、いくつかの分野では一時とはいえ西側を圧倒する成果を生み出しもした。つまり強かった。
ブルジョアの打倒、プロレタリアートによる平等と平和の建設!惹かれないわけがない。
対する資本主義陣営も自由と民主主義を掲げて戦ったし、これも強力な思想だが、その登場はあくまで共産主義に対するカウンターでしかなかった。資本主義陣営の根幹にある思想はあくまで資本主義の維持だったからだ。戦う相手は社会主義陣営というよりは資本主義陣営の労働者階級だった。社会主義陣営が実際に自由と民主主義を侵していたからこそ、この主張には効果があった。
プロパガンダ的な作品には共産主義社会への魅力が詰め込まれているのだ。私はプロパガンダに乗せられていると言っても良い。乗せられやすい性格なのだ。
ソ連中央テレビジョンのソ連国歌と一緒に流れるビデオ (https://www.youtube.com/watch?v=rHomETco0MI) なんかは最高で、労働者たる人民が労働の喜びに溢れている様子が流れ、十月革命の労働者の怒り、ブルジョワジーの打倒の精神が示され、人民の力で支える連邦の強大さが示され、レーニンの党と人民の力が我々を共産主義へと導く!という具合でひょいひょいと感情を揺すられてしまう。
お馴染みのインターナショナル (Интернационал, The Internationale, https://www.youtube.com/watch?v=t8EMx7Y16Vo)、国際学連の歌 (日本語、https://www.youtube.com/watch?v=SCdlGH6RhBw) なんかは私の中ではこういう類の歌だ。
こういうこと言うとクラシック畑の人には笑われそうだが、ショスタコーヴィチの5番や11番も大好きだ。
音楽ではないし、およそ普通の意味ではプロパガンダでもないが、ソウル五輪の体操女子団体のメダル授与式 (https://www.youtube.com/watch?v=l7lAZ89Pu_c) がもう最高である。彼女らがステート・アマで国家に大変な恩義があるというのは確かであるにしても、私の目に映る、エレーナ・シュシュノヴァ選手が赤旗を見上げながら国歌の「我らを共産主義への勝利へと導く」という歌詞を口ずさんでいる姿は、紛れもなく共産主義への希望と勝利への確信に溢れたソビエト連邦人民の姿なわけですよ。こんなに晴れ晴れとしたことはないじゃないですか。
正直私はかなり危ないと思う。実際に共産主義に走った連中もこんな奴らだったのかも知れない。この先本当に扇情的なプロパガンダが私に向けられたときに私は正気で居られるだろうか。
もっともプロパガンダが全てではない。90年代のロシアのポップスには体制の変革と自由を喜ぶような歌も多く、味わい深い。こちらは「作り物」ではなく本物だと思う。Комбинация の American Boy (https://www.youtube.com/watch?v=W7hAo28NCXc) とか Наташа Королева の Жёлтые тюльпаны (黄色いチューリップ、https://www.youtube.com/watch?v=E57T8XYa7OM) とか。
理想的にはこれを一番の理由に挙げるべきだと思う。ロシアの旋律は情緒があっていい。アコーディオンやバラライカの音色、ロシア語自体の響きによく合う。
ウクライナの Розпрягайте коней, хлопці (若者よ馬の軛を外せ、https://www.youtube.com/watch?v=MCuqR4Jz9DU) なんかは民族的でよい。
ただしそれでも一切忌避しないと言うわけにはいかない。まさに現代、冷戦の構造がそのままここにあって、新左翼の連中が日本で革命を起こそうとしていたら(しているが)、私は反対する。マルクスの主張するように暴力革命によって社会を変革するべきだとは、革命権を行使すべき状況にならない限りは思わない。共産主義建設の名のもとに数千万の命が失われたことは紛れもない事実だし、少なくとも過去のソ連型社会主義国家の遺産を消費して楽しむ上でここを批判せずにいることは危険すぎる。
東側陣営はなぜ冷戦に敗北したか?計画経済は市場経済に比べ資源配分の効率が悪かったので人民の生活を維持しつつ経済の発展を続けることができなかったからだ。
西側陣営の掲げた自由と民主主義は本当に勝利したのか?東側陣営との対決のために自らもまた市民の自由を制限し、アメリカはドミノ理論を振りかざして世界中に開発独裁の政権を打ち立て、現地の市民を抑圧した。21世紀の紛争の種を撒いたのは紛れもない事実だ。結局のところ西側陣営が実際に対抗勢力に対して振るった武器は自由と民主主義ではなく資本主義だった。
共産主義にしても、本来は人民を抑圧し民主主義を否定する思想ではない。
これをもって社会主義は喧嘩に負けて勝負に勝ったのだなどと言うつもりはないが、思想的に決着が付いたとは言えないと思う。競争相手がいなくなったから勝敗という言葉が使えなくなっただけで、今我々のいる陣営もまた行き詰まってしまったというのは確かなことではないか?
ホテルカリフォルニア後半のツインギターを聞いていると、何か物悲しく、切なくなる。思いを馳せるのは、2人のギタリストのこと。
2月のある日から突然、毎晩のように、頭の中を「since nineteen sixty nine 」というフレーズが流れるようになった。原因はわからないが、たぶん病気じゃない。グレンフライ氏の霊が関係しているのかもしれない。それまでイーグルスのことは何も知らなかった。
そしてここ3ヶ月、ほぼ毎日ホテルカリフォルニアを聞いている。
リードを務めるならギターでもヴォーカルでも奔放さが特徴のジョーウォルシュ。イーグルスに加わる前から別のバンドやソロでも活動していた典型的なロックギタリストで、いくつかのヒット曲や、独特のパフォーマンスもあいまって、そこそこ知られていたらしい。しかし、
ことホテカリに関して言えば、ドンフェルダーというもう一人のギタリストと一緒に語られることが多い。その2人による、曲後半のツインリードの掛け合いがあまりに素晴らしかったからだ。ドンフェルダーはホテカリの作曲者の一人で、ジョーウォルシュが加入したことを受けて、ツインリードの曲を考えたそうな。彼の演奏はとても緻密、ジョーウォルシュとは対照的だ。
初めてホテルカリフォルニアをちゃんと聴いたのが ’77年Washington, D.C.のライブ映像で、一瞬で2人の演奏の虜になってしまった。
ドンフェルダーは ’75年ぐらいからジョーウォルシュのソロコンサートに参加するようになり、実は、あの素晴らしいデュエットは、その頃から2人で築いてきたものであることを、その後知った。
ジョーウォルシュ作「Turn to stone」というハードロックな曲がある。レコードにも3つバージョンが収録されていて、わずか4分のものから8分のものまで、ライブを合わせると無限にアレンジがある。ドンフェルダーとジョイントしてほどなく、後半はほとんどツインリードのための曲となってしまう。ホテカリ同様、歌が終わった後半、ドンフェルダーのリードギターに始まり、徐々に2人の掛け合いに流れ、最後はジョーウォルシュのリードで終わる。
2人の掛け合い、その様子はまるで、タンチョウ鶴の求愛ダンスだ。高音でハモり、その同じリフを交互に鳴らしあう。いくつかのライブでどれとして同じ演奏はない。そのときの気分次第という感じだ。
楽器や歌でハモったり掛け合いをするときの感覚は、体験した人には分かると思うけど、恋をしたのに似たような高揚感や一体感があると思う。
だからホテカリのあのリードギターの掛け合いは、2人にとって、きっと忘れがたい記憶のはずだ。
その2人のデュエットを確認できたのは ’95年のライブ映像が最後だ。映像なしだと ’00年が最後。そこでも彼らのハモりは美しかった。わけあって、ドンフェルダーは ’01年にイーグルスを脱退(解雇された)し、その後はソロで活動している。ジョーウォルシュのほうは今もイーグルスに在籍しているが、相手役はドンフェルダーに代わってバックミュージシャンであるスチュワートスミスになった。
スチュワートはイーグルスのメンバーではないというスタンスを頑なに守るかのように、ひたすら目立たぬように演奏している。だけど、ドンフェルダーの代わりのリードだから、多くの曲でジョーウォルシュより目立つ部分を弾くわけで。ホテカリでもイントロと同時に一番最初にスポットライトを浴びるのはスチュワートだ。それでもいつもメンバーとは少し距離を置いて、ギター職人に徹している。
そういうこともあってか、ジョーウォルシュもスチュワートとどう連携していいか、いつも悩ましそうに見える。そしてドンフェルダーとの演奏のような一体感を感じているようにはあまり見えない。かたや、
ドンフェルダーは、ずっとソロ活動をしている。いい感じにロマンスグレー(って死語?)になり、ステージではいつも神父のような笑みを浮かべて演奏している。イーグルスのライブでは1曲も彼のヴォーカルを見たことはないし、しゃべるのも見たことがない。のに、歌ってる。歌えるじゃん。彼は、
ライブやTV番組でホテカリを演奏しているが、ある番組ではアコースティックギター(フォークギター)で一人演奏していた。ジョーウォルシュのパートも一人2役で。あの最後のハモりも一人で弾けちゃうんだなぁ、彼は。エレキやクラシックではなくフォークギターでは難しいはずの、色んな技を次々繰り出すのを見て、観衆もそのたびにヤンヤヤンヤとなるのだけれど、ジョーウォルシュと2人でハモっていたはずの最後の部分、悲しい響きに感じるのは僕だけか?
’75年から’77年にかけての2人のデュエットを見たことがあれば、、、
微笑みながら、ドンフェルダーはどんな気持ちで弾いているんだろう? 昔、相方と弾いていた日々を思い出しながら? それともイーグルスを脱退するに至ってしまったことへの後悔? 僕には知るべくもないけれど、あの物悲しい旋律がなんとも彼の心情を表しているようにしか思えない。
12月になると見たくなる映画「アマデウス」を思い出して、気がつく。
自分には悪意がないけど、まるでサリエリみたいじゃないか……?
音楽の才能に気づき、凡庸な自分を呪って焼けつくような嫉妬から、
神を恨み、神に愛された才能をもつモーツァルトを死に至らしめる。
社交界から孤立してしまい、極貧生活のなか病床のモーツァルトに
サリエリは、大金をチラつかせ、不眠不休の無理なスケジュールで
まるでモーツァルト自身のためのレクイエム(死者のためのミサ曲)を作らせる。
そして、結果として(サリエリの願いどおりに)、死に至らしめる。
いや、自分には、そんなサリエリみたいな悪意は本当に皆無なんだ。
(感謝と恩義の気持ちこそあれ、決して妬んだり嫉んだりの感情はないし!)
ただただ、天才モーツァルトの紡ぎ出す音楽が・旋律が・文章が大好きで、
(その素晴らしさに、同時代に生きて触れられるだけで喜んでいるほどで)
でも、そうやって、自分が率直に・能天気にモーツァルトを礼賛することで、
むしろ死期を早めることに加担しているのではないか……。
ブログを拝見しながら考えていたのは、そういうことだった。
Hさんの最新の文章を読める嬉しさに舞い上がって我を失いながら、
同時に、頭の隅で冷静に自己分析をして強烈な罪悪感を抱いていた。
ブログ記事を拝見すればするほど、自分が想像もしなかったような
壮絶な生活が「また」日常としてHさんを囲んでいることを知って、
ただただ、圧倒される気持ちで読み進めていた。
そして、Hさんの文章に触れられる喜びを感じながら、
Hさんの置かれている状況を知っても何もできない自分は、
そうやって、Hさんに文章を綴らせて、自分の読書の楽しみのために
Hさんのいのちを・日々の生活を「消費」しているんじゃないのか……?
何度も、そんな可能性を自問自答した。
ブログを書くことで、Hさんが死への確信を深めていたとしたら。
Hさんが書いた文章が、今でもWeb上でいろんな人に思い出されたり、
語り継がれていたりするのを見つけると、
「そうなんだ、Hさんは本当にすごいんだよ」と嬉しくなる。
そんなHさんが、書き続けてくれることは、
いつか・誰かの目にとまって、自分のように感銘を受けて
大きく変わるキッカケを得る人が、出てくるかもしれないと眩しく思う。
でも、そうやって、いつか・どこかで目にする誰かのために
いま、Hさんが身を削って文章を紡ぎ続けてくれたらと願うことは、
やっぱり、とんでもなく我がままで傲慢な願いなんじゃないだろうか。
「ファンです」なんて軽々しい一言だけで
ブログ記事を読めて、すごく嬉しいのに、すごく苦しいし切ない。
いったい、自分はどうしたらいいんだろう。
・どうして男同士の恋愛にするのか?(基本的に恋愛は男女間の物である。)
→まず第一に、「恋愛は男女間のもの」と躊躇いなく口に出せる不見識は恥じた方がいい。
それは腐か夢かとかオタクかそうでないかに関わらず、現代の先進国に生きる人間の常識として。
「男女間の親密な関係=恋愛」「同性間の親密な関係=友情」という図式が、物語内で無批判に成り立ちがちなことに疑問があったから。
仮にその関係性のはじめが明確に友情であっても、二人が男女ならば最後は当然のごとく恋愛になってしまう。
その過程の荒さがいつも気になっていた。
その人に対する感情はなんなのか。友情でも尊敬でもなく恋愛だと認識させる要因はなんなのか?
その辺の揺れ動きを解像度高く描く作品を好んで読んでいたら、そのなかにBL作品も含まれるようになった。
上記の要素がしっかり描かれた作品は男女でも男男でも女女でも好きだ。
ただ、男女カップリングの作品よりは男男、女女の作品の方が好みのものに出会える確率は高い。
→思ったことがない。
私にとってキャラクターに対する「好き」は、作品のストーリー、そのなかでの位置付け、展開における役割、他のキャラとの関係性まで含めたものであり
恋愛対象としての「好き」とは大きく異なる。
→前述のとおり。機微がきちんと描写されてれば男女男男女女どれも面白いし、されていなければどれも退屈である。
そして、「恋愛は男女のもの」と信じて疑わない人の作品はきっと私にとっては退屈だ。
また、男女の恋愛を「ノーマル」と呼称するのは控えるべきだと個人的に思う。
・気持ち悪いと思う人が居る事に対して申し訳無いと思わないのか?
二次創作および性的描写についてならば、私個人の楽しみかたの問題なので「そっかごめんね」くらいは言えるが
同性愛描写が気持ち悪いというのなら、それに対し私が軽々に謝罪することはできない。
・男女同士で健全であるはずの夢をなぜ健全では無い恋愛が好きな腐女子が叩くのか?
→男女ならば健全でそれ以外は不健全という発言をなんの疑問もなくするのはやめるべきだと思う。
私は正直叩いたことがないし、周囲と話題にしたこともないので「なぜ」叩くのかはわかりかねるが、
世の中には、嗜好に何らかの尺度で上下関係を見いだそうとする人がいるようだ。
健全/不健全だとか。腐にもその手の人間がいるというだけのことではないか。
→別に悪いとは思わない。
女性オタク界隈の「自己投影」「感情移入」へのアレルギー反応はいささか過剰だと思う(これは腐女子間でも度々みられる)。
・NLの方がまともだと思わないのか?
→そろそろ回答を省く。
・最終的にヒーローとヒロインがくっ付いた方が楽しいとは思わないのか?
→同上。
・オリキャラはモブとして存在しているかも知れないわけで男同士よりはマシだと思わないのか?
→「マシ」の意味が分かりかねるが、「捏造度が低いはず」という話であれば
心底からどーーーーーでもいいし五十歩百歩だと思う。
・オリキャラはドラマやアニメでも使われる通常の行動なのになぜ批判するのか?
→別に批判したことはないんだが、自分が夢を読まない理由ならば答えられるのでそれをもって回答に代えさせてもらう。
AKBの是非といえばすこし前によく話題になったものだが最近はほとんど聞かなくなった
長くいることで視聴者も共演者もスタッフもどうでもよくなったのだろう、しかしまだまだ影響力が強くアイドル界もといチャートだけを見れば音楽業界を席巻していると言っていい
女版ジャニーズというところだろう
ジャニーズも今では誰も文句を言わないが男から見たらバカな女を集めて商売していると改めて考えて見ると反吐が出る、おそらく女性から見たAKBも同じだろう
彼ら彼女らはただ商業的なものだけでのし上がってきたといっていい、音楽に魂もなければ話がうまいわけでもない。ただマーケティングがうまかっただけである
大衆音楽には決定的に重要な役割があり、それはどういうリズムで生きるべきなのか、どういった気持ちの持ちようで在るべきなのか、どういった姿勢で歩けばいいのかと人に影響を与えることだ。役割ではなく責任といってもいい
まだゴールデンに歌番組があった時代にはポップミュージックといえどミスチルやグレイのような歌には心が宿っていた、思い返してみれば学校での指導よりもどんな本よりも心地よい旋律に載せられた歌詞こそが教育だったのだ
AKBはただの音である、90年代にアメリカMTVを騒がせニルヴァーナが駆逐した悪しきポップミュージックですらない。
音楽はどんなジャンルであれ聴いていればアーティストの気持ちが少なからず入ってくるものだがAKBからは何も感じない、彼女達が大衆の旋律を奏でているというのはいまさらだが悲劇である
インターネットはツールである。能動的に使うか受動的に使うかで得るものがまったくちがう
どんなくそみたいなサイトでもつくれば財産になる。サイトM&Aを見てみればわかる。創造性など皆無な中規模まとめサイトが数百万円で取引されている
まとめサイトが良いか悪いかなど良識のある人間であればもう悪いと結論づけている。だがよく考えればインターネットなんてしょせんは電子データのやりとりでしかない、実態など何もないものに倫理観を持ち出してもただただむなしいだけだ
結局インターネットを使って何を得ることが最も実際の生活に影響を及ぼすかといえば、有名人などの認知度が重要な人以外、一般人でいえば金しかない。1に金、2に金、3も金、4ぐらいに出会いでも入れておけばいい。
ブログを書いて集めるような承認欲求は身体性をともなっていないのですべて虚仮である。読者も誰もブログ主のことなど考えていない。無への道程という自殺までの日記をつづったブログがあった、各ニュースメディアでも取り上げられたいへん話題になったブログだが彼の絶望のために実際に動いた人間はいない
せいぜいコメントで「死なないで」と書くぐらいだ。その気になれば興信所に依頼したり警察に届出たり会いに行って話しを聞くこともできるはずだがそんな人間はいない、リアルに親交のある友人だったらたとえ会社を休んででも彼と一緒にいて彼の絶望を忘れさせようと努めるはずだ
彼と読者の関係はそんなものだった、本気でつきあっていない、温度がないのである。どのブログ主と読者の関係もほとんど同じだろう
そんな関係など捨てればいい、読者は金を集めるために利用するものであってまともに付き合うものではない、彼も彼女も真剣にこちらに向き合ってはいないのだから
インターネットはただただ金をかき集めることに終始するのが正解だ
こんなものどれだけたいそうなことをしても社会性などないしパソコンの画面にうつるものがどんなに面白いものであれ実際の経験として蓄積されるわけではない。
フォーク・メタルの世界をご存知ですか。フォークってさだまさしでも、ゆずでもないです。民俗音楽です。
メタルとアイリッシュ、中東、サンバから果ては和琴までがマリアージュ。
邪道という人もいるでしょう。でも好きなんだからしょうがない。
シャウトとバスドラ高速ダブルとという共通性が、様々なご当地音楽を消費しやすくする。
まるで共通インタフェースでラップされた個別ライブラリのよう。
各地域の旋律や、楽器への回帰は、背後に政治的メッセージを持つものも多く、掘れば掘るほど奥が深い。
今日はヴァイキング・メタル入門編として、カバー曲含み、比較的キャッチーなものを中心にご紹介します。
「海賊王に俺はなる」よりだいぶ汗臭くて酒臭いですが、お付き合い下さい。
のってきました、どんどん行きましょう。
MADはさておき歌詞は、朝まで乱闘と歌で酒を飲み明かす、本能のままに生きる漢たちのこと。
当時のマーケティング戦略ゆえ、酒場で格闘ドンジャラホイという素敵な邦題がついてます。
原曲は、あのドイツのディスコ音楽グループ「ジンギスカン」がモデルとしたとも言われるボニーM「怪僧ラスプーチン」
ヴァイキングじゃなくちょっとわき道、東欧〜ロシアをイメージした旋律がメタルに映えます。
赤黒に顔を塗り戦士を奮い立たせるアンセム。こちらに個人の和訳があります。http://ameblo.jp/aoyuki1212/entry-11887199554.html
「友よ、悲惨な話しを告げよう」で始まる、裏切りものがなぶり殺される怖い唄。
キールホールは、縄で人を括って船底をくぐりらせるという船上の私刑。PVの結末が...ヨーホーホー。
店内ではインストゥルメンタルっていうのか、歌のついてない有線の音楽がかかってた
野菜売り場でキャベツを買うか白菜を買うかで迷っていたら、店内の音楽に何か小さな違和感を感じた
「あかりをつけましょ~」という旋律を電子音でなぞっているんだけど、「~今日は楽しいひなまつり」で終わった瞬間、ピアノソロが始まった
そのピアノによる間奏がノリノリのラテンだったから、びっくりしたのだ
たらったたーたたた…て感じで同じフレーズを繰り返すサルサピアノなの
キューバの「Los Van Van」という老舗グループの名曲「サンドゥンゲラ」のピアノパートに少し似ていた
なんだか楽しくなってくるんだよ!
俺は昔、その当時付き合ってた彼女にサルサダンス教室へ無理やり連れていかれたことがある
先に彼女がはまって、「サルサはペアダンスだから一緒に習って!」と言われてイヤイヤ行ったのだ
そこで基本のステップを習った
俺は飽きっぽくて3ヶ月くらいでやめてしまったが、音楽は今でもたまに聞く
ちなみに彼女は、なんの仕事してるのかよくわからないペルー人にとられて別れた
あの野郎…とか久しぶりにそのことを思い出しながら、本当に本当に、少しだけ足を動かして基本ステップをふんでみた
踊れたワロタ
アスーカル!!
「私には自分がないのです。自分が何をしてよいかがわからない。いや、もっと根本的なこと、ようするに自分が何が好きで、何がしたくてといった基本的な欲求ですらわからないのです。」
「そのわりには、君はちゃんと大学にかよっているし、留年もしていない。もっと言えば現役で合格もしているし、しかも第一志望だ。今年は大学院受験で、今いる大学よりもレベルが上と言われているところにも合格している。周りの大人たちもさぞ喜んでいることだろう。それなのに未だそんなことを言っているのかい?」
「そういうことではないのです。私は、世間一般が求めることに対して答えることは苦手ではないのです。例えば、数学の二次方程式があったとして、二次方程式の解が必ず-1から2の間に収まるように、係数の範囲を答えなさいと言われれば、必死にチャート式なり教科書なりを読んで理解して、演習問題を解き、テストで答えることが出来るようにすることは割合出来てしまうのです。もっと言えば、こと数学に限らずに、この問題ができれば、周りとの相対評価を行えることに関しては、やる気が出るのです。
要するに、世間一般で評価されることがそのまま自分の中で評価されることになってしまう人間なのです。ですから、周りとの評価が出来ないこととか、評価の指標が簡単ではないものに対しては、価値を見出すことが出来ない。だから僕はテストが好きなのです。あれはだって高い点数を取ったほうが合格するという単純かつ社会的評価も点数が高いほうが獲得するとても簡単なものでしょう?
でも実際の世の中で価値が有るのはそんな単純なものだけではないことに、たとえば美しい旋律を奏でる能力であったり、読む人を魅了させる不思議な文章を綴れる能力であったり、評価の軸はいくらでもある。それに気づいてしまった。いや気づくのが悪いとは言いません、むしろ遅すぎるぐらいなのですが、あまりにも自分の周りの環境が、社会的評価の高い人間が価値を得る世界であったので、そのことに対してあまりにも無自覚だったのです。それに絶望しました。ああ僕はなんて狭い箱庭の中で、それなりに必死に頑張っていたのだろうと、虚しくなるのです。」
「確かに君の学校はいわゆる進学校とよばるやつだな。教員はほとんどが学生を受験マシーンに育てるための最短ルートで勉強を教える。そのために学問の深さであったり、本来悩まなければならないところを、テクニックによって誤魔化し通過させることしか考えていない。」
「そうなのです。ですから、私も勉強というものは殆どやってきたように思えません。やったのは受験で良い点を取る方法です。数学が得意ということになっていましたが、やっていたのは数学ではなく唯の算数です。何も自分で生み出しては居ません。すべては周りから与えられた情報を飲み込んで吐き出す。そういうマシーンなのです。
そんなマシーンが大学に入って出会ったのは”自分の好きなことをやるべきである”という思想でした。現代人は、生まれつきの素養で将来が決まってしまうことを嫌います。すべての人類は平等だ、皆好きなことをする権利があるとのたまいます。確かにそれは理想だ、素晴らしいことだ。でも、現実はそうではありません。日本に生まれていなければ私もここまでのうのうと睡眠と惰性の生をむさぼることは出来なかったことでしょうし、日本に生まれていたって家庭環境や生まれる年代が違えば、同じことは出来ません。要するに私は運が良かっただけなのです。そして、自由に生活する権利があるとのたまう人たちも恐らくは恵まれているのです。だって、現代だって恵まれていなければ、自由に生活なんて出来ない。当たり前です。自由に暮らせるからといって皆海外に留学にいけますか?バイト代で大学に通う大学生に、国内を自転車旅行する余裕がありますか?全ては欺瞞なのです。エゴです。あゝ気持ちが悪い。
要するに、私は好きなことをスべきと言われて戸惑ってしまったのです。先ほど並べた御託もただの屁理屈です。後付け設定です。自分に中身が無いことを必死にカバーしようとしているだけなのです。だって自分は恵まれています。大学院を移ることも許可されています。私立の高校に通うことも許されました。塾にだって予備校にだって通わせてもらいました。だったらその自由を行使すべきなのです。でも出来ない。何をしてよいかがわからないからです。ああぼくは何をすれば良いのでしょうか。」
「難儀な人だなぁ、そんなに言うのなら、最近流行りのというともう時代遅れかも知れないが、自分探しとやらをしてみてはどうだい?」
「自分探し?自分を探す?そんな20年以上生きてきて見つからないと言っているものがホイホイ見つかるとでも本気で思っているのですか?
自分が産まれてきた理由などというものが存在し得ないことぐらいは理解できています。問題はそこではないのです。自分が産まれたからにはやってみたいと思えることが合ってしかるべきでしょう、普通は。それがないから困っているのです。しかもそれを考えようにも、僕の中にあるのは僕の外側をちょうどひっくり返したようなものなのです。要するに、僕の外側も内側も、どっちも他人なのです。僕はどこに行ってしまったのでしょう。」
「気持ちが悪い」
誰もいない教室。
風になびくカーテン。
だがそれがいい(断言
BGMもクッッッッッソいい曲ばっかり。
しょっちゅう聞いてる。
ゲームの中身ばっかり話題になるけど、音がいいエロゲとしてもかなり上位にくると思う。
http://www.youtube.com/watch?v=jzd632fMxqs
らくえんは音系がすごくいい。
よくBGM代わりに聞いてる。
ゲーム自体も面白い。単なる紙芝居にとどまらない演出で飽きさせない。
堕落する準備はOK?
http://www.youtube.com/watch?v=chN7nZjm5cw
風になびく草原。
巻き上がる緑の葉。
葉のシルエットに流れるような演出。
http://www.youtube.com/watch?v=_P4B0sb9eQ8
曇天に降りしきる雪。
暖かな光を囲む面々。
篝火。
血。
死体。
それらすべてを覆い隠す、白。
荘厳ささえ感じさせる音。
どこか不気味でさえある。
不思議な魅力をたたえたエロゲらしからぬOPに一気に引き込まれた。
本編もそれを裏切らない出来。
http://www.youtube.com/watch?v=ENwrNUGYb-c
以下は一段下がるかなーって感じのやつ。
荒々しいリフから入るところでガツンとテンションをもっていかれる。
好き、というよりエロゲらしからぬOPにインパクト受けたってだけかなコレは。
歌補正。
よく動く。
尻。太もも。
歌補正。
歌補正。
太く短く生きる人生って感じ。
歌補正。
さすがにそこまでぐりぐり動くわけじゃないけど。
なんだかんだで。
1000th summer―
ってところが音と合ってるのもあって鳥肌くる。
アニメもだけど。
アニメのOPはショートバージョンになってるから歌詞が違和感ある。
日時:2014年6月28日(土) 18時30分開演(第2回公演)
入場無料だが、ハガキによる事前応募・抽選制である。つまり私の個人情報は防衛省に把握されたw
原題は「シェルタリング・スカイ」。
同名の映画があるが、特にそれとは関係ない模様。ちなみに映画の方の音楽は坂本龍一氏の担当で、ゴールデングローブ賞受賞らしいので、今度聞いてみようと思う。
曲は終始穏やかで、オーボエの澄んだ音色とトランペットの柔らかな音が印象的だった。
「オリエント急行」「ドラゴンの年」「ハーレクイン(ユーフォニアム独奏曲)」などで有名なスパークの曲ということで楽しみにしていた。期待通りのスパーク節を、厳選された編成の音楽隊が見事に演奏した。
これ以上吹くと崩れる、というギリギリのところで荒ぶるホルンの音が、吹奏楽サウンドのホルンで、とても気に入った。
トランペットは途中で舞台裏で演奏するのだが、舞台裏から聞こえるフレーズとしては相当難易度が高く、スパーク先生鬼だ……と思った。
パーカッションは、上手からひな壇にかけてかぎかっこの“「”字状に配置されていたが、上手手前に「パチン」と打ち合わせる楽器(名前が分からない……スラップスティック?)、上手奥にタンバリン、上手中央にスネアと、結構離れているのに終始揺るぎないリズムを刻んでいて安心して聴けた。
ロビーでも放送で流れたのは、カフェで休憩中の身にはありがたかった。
1部はウィンド・オーケストラ編成、2部は大編成のシンフォニック・バンド編成とのことだった。
これも期待していた曲。上手に吹くととてもカッコイイ。
曲目紹介で、1964年の東京オリンピック、そして先日の国立競技場での編隊飛行の話があった。「F-86F」「T-4」とちゃんと紹介するあたり、ニヤッとしてしまった。
演奏は文句なかったが、特にトリオのサックスが美しかった。そしてドラムセット!どこまで譜面に書いてあって、どこまでアドリブなんだろう。普通の曲ならアドリブだろうと思うのだが、なにしろ斎藤高順「航空中央音楽隊第4代隊長」の作である。一音一音忠実に……なんてことも???
服部克久氏の息子の服部隆之氏の曲。「機動戦艦ナデシコ」「半沢直樹」「ルーズヴェルト・ゲーム」など劇伴の分野を中心に活躍されている方が、航空自衛隊50周年(つまり10年前の2004年)に委嘱により作曲したもの。
トゥッティの音圧と、それに負けないツインスネアドラム。迫力のある曲だった。
この曲は、航空自衛隊60周年記念で募集した作品の中から選ばれた、コンサート・マーチ。
東京藝術大学トロンボーン専攻で首席で卒業、入隊1年3ヵ月の田中裕香さんの曲。
この曲も60周年記念。こちらは歩ける行進曲。
国立音楽大学卒のトランペット奏者で、北部航空音楽隊所属の和田信さんの曲。
トリオがEuphの旋律(対旋律ではなく)で始まるのが意外だった。
曲自体は弱起で始まり、装飾的な動きや音量差も多く、歩くのに向いているかどうか……
二人は曲目紹介でそれぞれマイクを握ったが、ちゃんと階級を名乗るのか、と思った。
一般の方で「○○会社課長の△△です」という機会はそんなにないと思う。
航空自衛官の16階級中、2等空曹は12番目、空士長は14番目である。ちなみに航空中央音楽隊長で指揮の水科克夫さんは2等空佐、4番目である。
「春になって、王達が戦いに出るに及んで」を知っていたので、期待していた。
複雑な拍子の曲で、非常に難易度が高い。「危険な空でぶつかり合う2つの対立した力を表現」とあるが、まさにそんな感じだった。
アメリカ軍のことは全く知らないのだが、第564戦略空軍司令部軍楽隊の委嘱による作曲と聞いて「564」という数に驚いた。
アンコール1曲目は「一旦地上に降りて(水科克夫さん)」ふるさと。
ここで、楽団のメンバー紹介が行われたが、北部、中部、西武、南西の各音楽隊からのメンバーが想像以上に多くて驚いた。
アンコール2曲目は空に戻って。
おそらく音楽会最後の曲として定番になっているのだろう、公式の行進曲。
やや大きなシンフォニック・バンド編成になった第2部だが、野暮ったく分厚くなることはなく、高いレベルの合奏による心地よいサウンドが維持されていた。木管の弱奏の際に一瞬、弦?と思うような、ふわりとした音が鳴った瞬間があった。
この日の空は荒れ模様だったが、ホールの中は澄んだ、濁りのない吹奏楽サウンドで満たされていた(すみだ、だけに)。
日本アニメファンが海外ファンにもの申す!「理想の父親アニメキャラに“野原ひろし”が入ってない」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1118603
こういうのって周りの国の目を気にする日本だけの文化だという先入観を我々は抱きがちだけど、海外にもあるんだなと感動。
「海外の反応シリーズ」を知らない人のために少し説明すると、日本というのは閉鎖的な国で、
日本にいるとビックリするくらい海外の情報は入ってこないし、ましてや海外の庶民の感覚というのは分からないわけだ。
ただ、日本人は内向的だけど自意識過剰なところがあるから、海外での日本作品の反応や日本の出来事に対する反響というものに興味がないわけではない。
むしろそういう反応に接する機会がないだけで潜在的には非常に興味がある。そのニーズに応えたのが「海外の反応シリーズ」というわけ。
海外の反応 まとめ で検索すると色々出てくる。ブログ記事もあれば動画もある。
http://hannoumatome.blog.fc2.com/
で、冒頭の記事は海外での海外つまり日本の反応シリーズにあたるもので、niconicoで配信された内容をさらに日本語訳したもの。
俺自身がこの記事に取り上げられたわけではないが、「海外の反応シリーズ」にYouTubeコメが取り上げられる外国人の気持ちが少し分かったような気がして嬉しくなった。
と同時にネチズン(netizen。net+citizenから来たネットスラング。)といった死語が平然と出てくる所や
小林幸子がラスボスということの紹介で(Last Boss)と逐語訳で書かれている所におもしろみを感じた。
一点気に掛かるのは「波平と野原ひろしが日本の父親の理想像」と断定的に紹介されていた所かな。波平はともかくヒロシに至っては
おそらく記者の価値観が多分に混入している。人間は自分の価値観で情報をフィルタリングして収集・選別するからな。
野原ひろしのような父親が持ち上げられるのは確かに海外では考えにくいし日本に厳然とある傾向ではあるが理想像とまで言っており、
「花子とアン」の主題歌「にじいろ」に馴染めない、という声がある。まぁどんな歌や曲だって馴染めない人はいるわけで、それ自体は普通なんだが、ちょっと気になったことを書いてみる。
曲全体は強起のように聞こえるけれど、
旋律が強起と弱起をめまぐるしく繰り返すことに
なにかしらの原因があるのかな、と思った。
こ_れ_からh|a_じ_ま_る
あ_な_たのm|o_の_が_た
り____ずっt|o_な_が_く
み_ち_は_つ|づーくよ___
に_じ_いろn|o_あ_め_ふ
り_そ_そげb|a_______そ
ら____は_た|か____な_る
ー
Bメロは安心できるんだけど最後の「こんなにも愛おしい」あたりから絢香節に戻る。
ま_ぶ_し_い|え____が_ー
お_の_お_く|に
か____な___|し____い
お_と_が_す|る
よ_り_そ_っ|て____い_ー
ま_が_あ_っ|て
こ____ん___|な____に
も_iと_お__|______し_い
ー |
サビはAメロと同じですね。
て_を_つなg|e_ば_あ_た
た_か_いこt|o_き_ら_い
に____なれb|ば_ひ_と_り
に_な_っ_て|くーこと
ひ_と_つひt|o_つ_が_あ
な_た_になr|u____み ー
ち____は_つ|づ_ー_く_よ
ー |
Aメロが仮にこのように、冒頭以外全部弱起だったら、
今よりも馴染みやすいかな、とは思った。
こ_れ_からh|a_じ_まるa
na_な_たのm|o_の_がたr
i____ずっt|o_な_が_く
み_ち_は_つ|づーくよ ここは強起かな……
こ_れ_か_ら|は_じ_ま_る
あ_な_た_の|も_の_が_た
り____ず_っ|と_な_が_く
み_ち_は_つ|づ_く_よ
伴奏も含めて曲全体が弱起で、
旋律も弱起中心で、ひっかかりなく聞ける。
____________________と
つぜん__ぐ|うぜん__そ
れ_と_もひ|つぜん
は__じ__ま|り_は_きづ
かーぬうち|に______よ
ほう____ど|おり____い
かない__も|よう
そ__ん__な|とーきこそ
ほーほえみ|をー
(以下略)
多くの目に触れるようになる前から価格が高騰し、入手困難なCDであるため、これを引用公開することで、多くの人の目に触れることは、昨今の事情に照らし、有用だろうと思い、ここに記しておきます。じゃあ増田で書くなよ、というツッコミは効きません。たぶん期間限定。
佐村河内のスコアを詳細に眺め評価することは、近頃の劇音楽に屡々見られる基本的な技術不足や、必要以上に技を凝らそうとする過剰なテクニックの持て余し。
これらとは明かに一線を画しているという事だ。
第一楽章、邦楽の静謐な、それでいて熱いエネルギーを内に秘めた佇まいから戦いを表現する大オーケストラへの見事な転換、目の眩むような、あたかも生物の細胞分裂の様な声部の増殖の緊張は、来たるべく英雄の出現(心に強く刻み込まれる主題[テーマ])を準備しているのだ。
第二楽章では、一楽章の主要な動機[モティーフ]や主題[テーマ]を巧みに変奏発展させてゆく、限られた時間の中で超絶的展開能力。
全く隙の無い構築力と完璧なオーケストレーションには唯々感嘆するばかりだ。
これらの事が自然に在る、ということ、技術はその為にこそ使われなくてはならない事をこの奇麗なスコアは私達に示してくれている。
私がコーダ部の総譜を受け取りに氏宅に伺った日のこと。
着いてすぐ筆談で、まだ出来てないので待てとのこと。
以降氏は黙したまま延々4時間が流れた。
と突然立ち上がり、未だ見た事も無い80段はあろう巨大な五線紙を取り出し席に着くや否や、嵐の如くペンを走らせ始めた。
それは神憑り的な速さといった感じだった。
何やらスケッチでも書き写しているようだった。
10分も経った頃、「写譜なら手伝おう」と立ち上がり氏に近づいた私は思わず目を疑った。
氏が書き写している筈の五線紙の向こうには何も無かったのだ・・・・。
その恐ろしい光影に立ち尽くすばかりだった。
写し取っていたのは頭の中のスケッチだった、以降ペンは一度と止む事無く僅か20分で全ては終わった。
氏は見直しもせず「ポイ」と私に手渡した。
後に私が見直したところ、何の落度も無かった事は言う迄も無い。
注:引用者により、ルビを該当する熟語のあとに[]で読みを挿入してある。また、句点ごとに改行し、アラビア数字は半角に変更した。
遠い古からの声―長い間日本の風土の中で培われてきた都節と呼ばれる伝統的な様式―からこの曲は始まる。
この尺八の「息」が、はじめは琵琶の力強い一打や笙の開放的な響きを導き、外に開かれていく空間を形づくるが、つづく締太鼓の合いの手を橋渡しとして、今度は逆に人間の持つ陰の部分、尺八の内に籠った響き、そこに影を落とす琴の不穏な調弦や笛の虚ろな息づかいなどが、前との微妙なコントラストとして対置される―ここで提示された様々な要素(おもにコントラストという概念)がこの作品の全体を紡いでいく上での重要なポイントとなっている―。
やがて一本の竹のひびきは12本もの竹(尺八)を呼び(ff)、静かに、しかし豊かにひびき渡る和太鼓の一打が大オーケストラを迎え入れ一転としてスペクタクルな場面に突入する。
前の部分と全く別な世界の様にみえるこの部分は実は冒頭の尺八の旋律と深い関わりを持っている。
譜面を見てみよう。
(譜例1)ここでフレーズの後半にあたるAという部分にオーケストラが対応する。
(A')。
そして英雄の出現を伝えるファンファーレ(これは西洋で培われてきた伝統だ)につづいて(やはりこれも西洋の伝統的な)ハーモニーのゼクエンツ(鎖)に乗って英雄のテーマが提示され(譜例2)クライマックスを迎えた後、譜例1のBの和音の固定(オスティナート)による経過句に入る。
ここで邦楽の冒頭部分が新しい状況の上で再び現われる。
尺八がサキソフォーンに、笙がヴァイオリン群に、また12本の尺八は今度は虚ろで怪しげなハーモニーを醸し出し、三味線は乱れ(冒頭の拡大)、琴はますます不穏なアルペジュを掻き鳴らす、一瞬の閃光、地底から沸き起こったかのような轟音から出現したものは英雄のテーマのヴァリエーション、そして輝かしいマーチ(ファンファーレの変奏)―ここで西洋にハーモニーのコントラスト(長三和音と短三和音)を挙げておく。(譜例3)
そして再びスペクタキュラーなシーンが登場し、コーダ(ゼクエンツ部分の変奏、このモティースがその後の楽章で大変重要な役割を果たす)(譜例4)。
二楽章は前半の静かな部分「夜の音楽」(佐村河内談)と後半の激しいアレグロからなるが、前章であらわれた様々なモティーフによる更なるヴァリエーションである。
(一楽章をソナタ形式に於ける提示部と捉えるならば二楽章は展開部、三楽章は再現部とみなすこともできる)
三楽章は前の余韻を受けて「能楽」の囃子、コラージュ的部分を経て尺八の冒頭が再現される、ここでは笙のか代わりに弦楽器が増四度上で現れる、実に美事である。
メインテーマがアダージュで(本来の姿で)再現され圧倒的なコーダで締めくくる……
以下は若干の譜例による指摘にとどめるが、この作品は様々な要素を複雑縦横に織り込んだ大変興味深い大曲であり、聴き手は注意深く聴き込む毎に新たな発見を見いださせる至宝の逸品と言える。
引用者注:譜例3には『マーラーの交響曲第8番(第6番かも、とにかく字が小さくて読みにくい)が想起される!』と書いてあるので、もともとマーラーが好きなんだろうと思う。また、誤字と思しきものも原文ママにしてある。
www.youtube.com/watch?v=ukFtX9iZPjU
余談だが、このサウンドトラックは贅沢にもxrcd2を採用している。ネットにある音源とは比べられないぐらい素晴らしい音楽が堪能できる。
先日ネット上にて、星海社から発売された『ロジック・ロック・フェスティバル』が古野まほろの『天帝のはしたなき果実』の盗作であるという疑惑が生じ話題となった。
そして、その『ロジック・ロック・フェスティバル』が本日、晴れて全文公開された。
http://sai-zen-sen.jp/awards/logic-lock-festival/
そういうわけで今日は本作が本当に盗作であるかというかのを考えていきたいのだが、その前提として知っておかなければならない事実として、「盗作」とは何かということである。
ここで日本で盗作について一番詳しく書いている栗原裕一郎の『〈盗作〉の文学史』から一部引用させていただこう。
本文に先立ち、何を「盗作」と呼んでいるかをはっきりさせておく必要があるだろう。
「盗作」にしろ「剽窃」にしろ、いずれも俗語だから、明確な定義は持っていない。
したがって、「盗作」であるか否かを区別する客観的基準というものも――明白な著作権侵害である場合を除いて――存在しない(中略)「影響」も「模倣」と捉えれば、広義には「盗作」と呼べないこともない。
つまり何かが盗作であると断ずるには、著作権侵害レベルの一致がない限り難しいのである。そして、肝心の版元である星海社は盗作の件について
と、はっきりと否定。また、盗作された側である古野まほろもtwitterで
本歌取りは日本の伝統、本格の伝統です。だから、もし本歌取りを「盗作」などと貶めるなら、それはとんでもない侮辱で冤罪です。私は、元の和歌が分かるマナーのある本歌取りなら、むしろ嬉しく思います。逆なら悲しい。私は、話もせず真実も知らず、人を断罪することは、不正義だと考えます(古野)
と言っており、両者の意見が「盗作ではない」と一致しており、晴れて『ロジック・ロック・フェスティバル』が盗作ではないことが確定したのである。パチパチパチ。
しかし、それでは面白くない両者の意見をよく較べてみると、あらゆる面で一致しているわけではない。
古野側は
ですから「類似点が多い」のはどうしてか。そして、これまで古野について一切、どこかで語ったり、書かれたりしていないのは何故なのか。これらがハッキリすれば、何の問題もないと思います。「盗作」は考えにくいから。もし本格の後継者でいらっしゃるのなら、古野とは仲間だから(島津)
という具合に、盗作とは言わないが、こんだけ類似点が多いのは偶然で済ませられないだろと主張しているのに対し、星海社側はあくまで、
本作『ロジック・ロック・フェスティバル』においては小説を構成する主要素であるところのテーマ・プロット・キャラクターにおいて、先行作品との「盗作」に該当する類似点は一切ございません。
と類似点なんてねーよと全ツッパ。
ここで難しいのは、先ほども書いたように、「盗作」というものの定義がはっきりしていないため、星海社のいう『「盗作」に該当する類似点』というものがどういったものかわからないのである。
どこまでが、『「盗作」に該当しない類似点」であり、どこからが『「盗作」に該当する類似点』というのを言ってくれないと判断に困る。
しかし、言ってくれないものは仕方ないので、こちらで勝手に検証していく。
さて、ではここで問題となっている両作品の類似点とはどういったものなのか。
まず、読者の印象に大きく残る点として、全体のストーリーの流れが挙げられるだろう。
・天帝のはしたなき果実
↓
事件が発覚すると大会が台無しになる、多数決でこれからどうするか決める
↓
↓
↓
↓
事件が発覚すると文化祭が台無しになる、多数決でこれからどうするか決める
↓
↓
↓
2chからのコピペだが、両者を読み比べた自分から見ても、この通りの展開が書かれていたし、印象もだいぶ似ていた。
これに対して星海社は、
たとえば本作『ロジック・ロック・フェスティバル』にてテーマとなっている「学園での殺人事件」につきましてはミステリーを描く上では一大ジャンルを成すポピュラーなテーマであり、ご承知の通り、先行作品を枚挙することに暇はありません。また、文化祭で殺人が起こり、その発覚によって学園祭が中止してしまうことを恐れて生徒達が独自に行動する、という本作のプロットには先行作品としてはたとえば『前夜祭』(角川書店刊/芦辺拓・西澤保彦・伊井圭、柴田よしき、愛川晶、北森鴻氏らによるリレー小説)の存在を指摘することができると思いますが、こちらの作品に関しても前段となる殺人の状況と、後段となる推理と解決へと至るプロットには、本作との密接な類似点を見出すことはできません。
そして、「特殊な場所への警察権力の介入を防ぐために居合わせた人間が素人探偵となって活躍する」といった本作のプロットに関してはたとえば『水の迷宮』(光文社刊/石持浅海)などの優れた先行作品を指摘することができると思いますが、こういったプロットに関してもまたミステリー界においては極めてポピュラーなものであると言えるでしょう。 キャラクターに関しても、学園の生徒会やその周辺の個性にあふれた生徒たちが登場し、事件を解決するのはいわゆる「学園ミステリー」ものの常であります。
この理屈がありならば、「少年漫画において、探偵が主人公というのは一大ジャンルを成すポピュラーなテーマであり、大人だった主人公が子供になるという設定も手塚治虫の『ふしぎなメルモ』など枚挙に暇がなく、また主人公が知り合いの博士におもしろグッズを作ってもらうのも、偽名に古今東西の有名人の名前を使うのも決して珍しいケースではないので、本作『名探偵ドイル』は完全なオリジナル作品なのです!」などという無茶苦茶な理屈もありになってしまう。
問題となっているのは、別個であるはずの2つの作品でこれだけ似通った要素が複数に渡って存在してる点なのに、それを因数分解のようにバラバラにして、よくあるケースだと主張するのはいささか無理がある。
もっともミステリなんてのは、『名探偵、皆を集めて「さて…」と言い』という言葉があるぐらい、ある種の流れが決まっているジャンルだし、このぐらいのストーリーの類似はよくあることかもしれない。だがそれ以外でも古野側が、
私はこれまで徹底して、著者の方の名誉と将来のため、具体的指摘を避けていました。また性善説に基づき、盗作説を断固否定した上で、類似点の多さを悲しみました。それすら非のない方への中傷と言われれば、非は私にあることになる。ならば、相当数あるうちの1つだけ、まずお示ししましょう(古野)
鷹松学園と勁草館高校。学校の設定を比較対照してみて下さい。 やや時間を置いた上で、その具体的指摘も行います。 できればこれに止めたいですが、私に非があるとされている間は、二の矢三の矢を射ちます。極めて不本意です。私はこの段階でも、平和裡に解決することを強く、強く希望します(古野)
と主張しているように設定面においても、両校の舞台が「藩校を前身とする名門校であり、地下に軍事施設がある」という一致を見せている。
普通、ここまでの一致はなかなか見られまい。
また『ロジック・ロック・フェスティバル』の応募時キャッチコピーが「学園ミステリーは青春に捧げる供物である」というものだったのに対し、『天帝のはしたなき果実』に対する、ミステリ作家・有栖川有栖氏の推薦文が「これこそ、虚無なる青春への供物。真正の本格にして破格のミステリ」となかなかどうして似通っている。
それ以外にも両作品の最後の一文も綺麗に対称関係となっている。
このまま順調にいけば、古野によって二の矢三の矢が射たれるはずなので、今後の展開を楽しみにしておきたい。
ただ、個人的な意見を言わせてもらえば、『ロジック・ロック・フェスティバル』において、軍事施設の設定は必ずしも必要なものではなく別の設定でも代替可能だったはずである。だから、もし作者に本当に盗作をする気があるならば、こうした部分は真っ先に変更したはずである。それにもかかわらず、このような明白な形で残っているのだから、この一致は作者によるオマージュやリスペクトの一種とみなした方がいいだろう。
しかし、オマージュであれ、リスペクトであれ、このような類似点が多数ある以上、星海社側の「完全な事実無根」や「なぜ火のないところに煙の立つような今回の「盗作」疑惑が起こってしまったのか」という発言はいささか苦しい。少なくとも根や葉や火種はあったわけなのだから。
『ロジック・ロック・フェスティバル』のあとがきによれば、本作は作者が初めて書いた小説らしい。
その点を考えれば、こうした部分はむしろ若気の至りや遊び心と言えるし、前途ある新人に対して執拗に非難するべきではあるまい。
本作を受賞させるにあたって、星海社の太田副社長は座談会でこのようなことを言っている。
この人、ミステリーの手つきが本当にいいわけ。小ネタから大ネタまで、80点以上のミステリーが次々とやってくるって感じ。飲茶のおいしい料理が次々やってくる感じなわけね。しかもなおかつ、法月綸太郎的、佐藤友哉的な青春の痛みがしっかりとあるのよ。だけど生々しく「法月綸太郎が」とか「佐藤友哉が」みたいな感じでは出さないようにしてるんですね。
また、さらにこのようなことも言っている。
うん、この人は新本格ミステリーの正統後継者だと思うよ。あの世にいる宇山さんにも読ませたいよね。そういう意味で言うと、「ありそうでなかった」っていう感じがする作品なんだよね。新本格はその誕生以来ずっと奇形化が進んでいったわけだけど、正統的な先祖返りというか……この人の作品は音楽で言うと「黒いジョン・レノン」と呼ばれたデビュー当時のレニー・クラヴィッツみたいな感じなんだよね。あるいは、とかくビートルズと対比されたデビュー当時のオアシスとか。とにかく、これまでにありそうでなかった青春ミステリーの最前線、みたいなわくわくする感じがこの作品にはあるような気がするんです。
ここで太田が読ませたいと言っている、宇山氏が生前最後に送り出した作家・古野まほろをまたしてもガン無視である。「ありそうでなかった」人扱いである。まほろの存在が歴史から抹消されている。預言書が燃やされたのだろうか?
それとも『天帝のはしたなき果実』の文庫版が講談社からではなく、幻冬舎から出ていることと何か関係しているのだろうか?
そして受賞作の発売に寄せてこのようなことも言っている。
……というわけでぜひみなさん、『ロジック・ロック・フェスティバル』を読んでください。綾辻行人さんや法月綸太郎さん、有栖川有栖さんたち、かつての「新本格」推理小説ムーブメントは終わっていなかった、それが見事に証明される一作です。学園祭の密室の妙に酔いな……!
そりゃまほろも怒る。
明らかに古野まほろの影響を受けている作品に対して、他の作家の名前をガンガン引き合いに出してるのに、肝心のまほろを無視しているんだからそりゃ激おこにもなるだろう。
この場合考えられるケースは4つ。
1.選考に関わった全員が『天帝のはしたなき果実』を読んでいないor内容を忘れていた。
2.色々類似点があると気づいていたが、この程度大した類似ではないと考えた。
3.色々類似点があると気づいていたが、読者は類似に気づかないと考えた。
イラストに大御所CLAMPを使っている時点で4番は無いだろう。考えられる可能性は残りの3つ。外野である我々にはどれが真実なのかを判別する術はない。
ただ、やっぱり上に挙げた類似点を考えれば、作者が古野まほろを全く知らなかったというのだけは考えられない。
そして星海社は普段から新人賞の選考においてオリジナリティを重要視しており、以前の座談会ではこのようなことを言っている。
次は岡村さんが担当した『MV ―Meteddo Vevaea―』。これは高校生?
そうですね、高校生でこの枚数書けるのは素直にすごいです。
何枚くらい?
400枚以上ありました。
おお、それは確かに頑張ったね。
ただ、肝心の内容がまんま『IS〈インフィニット・ストラトス〉』なんですよね……。
タイトルもそれっぽい!
岡村さんもさらっときついことを言うようになってきたねえ(笑)。
いやいや、でも本当にそうなんですよ。架空の兵器があって、それを使える男性は主人公だけ……という設定で、何から何まで『IS』を連想させてしまう内容でした。これをそのまま出版したら、ちょっとタダではすまないだろう、と(笑)。
大変なことになりそう(笑)。
似た例は僕のところにもあって、『コトホギ』ってのがそうなんですけど。
コトホギ……?
柿内
タイトルが既に不穏だなあ。
これ、舞台は大正二十年、帝都。女の子が悪魔に襲われているところに、書生姿の男が助けに入り……と、ほとんど『葛葉(くずのは)ライドウ』です(笑)。
一同
まんまじゃん!
電波塔がうんたらとか、もうほとんど二次創作でした(笑)。これでライドウを連想しない人はいないだろうと。
まだあんのかよ! いい加減にしてくれよ(笑)。
主人公が着物姿で武器は刀……式の性別を男にしただけ、まんま『空の境界』!
冒頭1ページ読んだだけでそれと分かる感じでしたね……。
よく星海社にこれを送ってきたな、という。度胸はあるのかもしれませんけど、酷い!
別に新人賞でオリジナリティを重視するのはかまわない。むしろ当然である。既に市場に似たような作品があるのならば、多くの読者は新人ではなく実績のある作家の作品を選ぶだろう。
だが、だとしたら『天帝のはしたなき果実』を連想させてしまう『ロジック・ロック・フェスティバル』を受賞させたのは失敗ではなかっただろうか?
普段の座談会で大上段から応募作を切り捨てているからこそ、受賞作にはそれ相応のクオリティが求められる。さらに帯に『まだあった「新本格」推理小説! 全ミステリファン注目の新人登場』なんて書いたらハードルの高さはそりゃもうウナギ登りでよっぽどの脚力が無い限り、足を引っ掛けて転倒は免れまい。
先程も書いたように、『ロジック・ロック・フェスティバル』の作者である中村あきにとって本作は初めて書いた作品である。
そうしたまだ若き作者に対して、これほど高い下駄を履かせるのはどうなのだろうか。
少なくとも「全ミステリファン注目」というのはいささか厳しすぎる。
そういう意味では、今回『ロジック・ロック・フェスティバル』が受賞してしまったことは決して幸運などではなく、むしろ運が悪かったのかもしれない。
身も蓋もない話、これが星海社からではなく別の出版社から刊行されていたら、ここまで話題になることもなかったと思うのだが……。
ココ数年増田たちはは荒れては許容し、自分の育ちでは正義だったことが、目に付く情報を受け入れられるようになって、慣れとか習慣とかローカルルールの理解世界感が広がってきっとこれはただの風習だったんだなーと思えてきた。
それに風習なんて日本で行ったらここ数十年の、それこそ戦後から高度経済成長の短い機関で成形された文化とも言えないような風習なのに。
話がそれた。道徳ってきっと曖昧な基準なんだな。自分だって子供の頃の道徳は「弱者を手伝え」(決して"助けろ"ではなかった)「自分の意見は信じろ」「どこまで先を考えたら正解なのか。」「協力しろ」
具体的なんてとは程遠い、個人の個人の概念とその認識に話題にすらなかった
社会の模範であり、もっと具体的に正確に言うと自分が生きてきた環境のもっと根底にある教育が都会に出れば出るほど自分の普遍を上塗りしてる。
それでも実感出来てきた気がします。すこし年をとって比喩表現に面白さを感じてしまったせいで回りくどい言い方だったんだ。
簡潔に言うとピアノを弾くとき簡単なキーボードで、ピアノの旋律でもない音声でアナログすらないデジタルのホールに響くことすらない
活字がシウt家愛になってしまってる。
活字の力は揺らいだことがない、その活字あと文章は不変だから柔軟に生きている頭になる私の若くもシワついた、きっとまだピンク色でって音声で話すのと同じで言葉をほんの少し自分のボキャブラリーの中で、これまた感覚的な基準で言ってしまうとハッピーで純朴で、疲れた時にほうじちゃを差し出してくれるようなほんの少しの間があれば、ああ、怒り狂った自分の脳細胞、もしかしたら脳細胞じゃなくて体の芯にある医学ではないかもしれないココロって言われてる部分の萎縮がはほうじ茶の
11ンターネットの