12月になると見たくなる映画「アマデウス」を思い出して、気がつく。
自分には悪意がないけど、まるでサリエリみたいじゃないか……?
音楽の才能に気づき、凡庸な自分を呪って焼けつくような嫉妬から、
神を恨み、神に愛された才能をもつモーツァルトを死に至らしめる。
社交界から孤立してしまい、極貧生活のなか病床のモーツァルトに
サリエリは、大金をチラつかせ、不眠不休の無理なスケジュールで
まるでモーツァルト自身のためのレクイエム(死者のためのミサ曲)を作らせる。
そして、結果として(サリエリの願いどおりに)、死に至らしめる。
いや、自分には、そんなサリエリみたいな悪意は本当に皆無なんだ。
(感謝と恩義の気持ちこそあれ、決して妬んだり嫉んだりの感情はないし!)
ただただ、天才モーツァルトの紡ぎ出す音楽が・旋律が・文章が大好きで、
(その素晴らしさに、同時代に生きて触れられるだけで喜んでいるほどで)
でも、そうやって、自分が率直に・能天気にモーツァルトを礼賛することで、
むしろ死期を早めることに加担しているのではないか……。
ブログを拝見しながら考えていたのは、そういうことだった。
Hさんの最新の文章を読める嬉しさに舞い上がって我を失いながら、
同時に、頭の隅で冷静に自己分析をして強烈な罪悪感を抱いていた。
ブログ記事を拝見すればするほど、自分が想像もしなかったような
壮絶な生活が「また」日常としてHさんを囲んでいることを知って、
ただただ、圧倒される気持ちで読み進めていた。
そして、Hさんの文章に触れられる喜びを感じながら、
Hさんの置かれている状況を知っても何もできない自分は、
そうやって、Hさんに文章を綴らせて、自分の読書の楽しみのために
Hさんのいのちを・日々の生活を「消費」しているんじゃないのか……?
何度も、そんな可能性を自問自答した。
ブログを書くことで、Hさんが死への確信を深めていたとしたら。
Hさんが書いた文章が、今でもWeb上でいろんな人に思い出されたり、
語り継がれていたりするのを見つけると、
「そうなんだ、Hさんは本当にすごいんだよ」と嬉しくなる。
そんなHさんが、書き続けてくれることは、
いつか・誰かの目にとまって、自分のように感銘を受けて
大きく変わるキッカケを得る人が、出てくるかもしれないと眩しく思う。
でも、そうやって、いつか・どこかで目にする誰かのために
いま、Hさんが身を削って文章を紡ぎ続けてくれたらと願うことは、
やっぱり、とんでもなく我がままで傲慢な願いなんじゃないだろうか。
「ファンです」なんて軽々しい一言だけで
ブログ記事を読めて、すごく嬉しいのに、すごく苦しいし切ない。
いったい、自分はどうしたらいいんだろう。