ココ数年増田たちはは荒れては許容し、自分の育ちでは正義だったことが、目に付く情報を受け入れられるようになって、慣れとか習慣とかローカルルールの理解世界感が広がってきっとこれはただの風習だったんだなーと思えてきた。
それに風習なんて日本で行ったらここ数十年の、それこそ戦後から高度経済成長の短い機関で成形された文化とも言えないような風習なのに。
話がそれた。道徳ってきっと曖昧な基準なんだな。自分だって子供の頃の道徳は「弱者を手伝え」(決して"助けろ"ではなかった)「自分の意見は信じろ」「どこまで先を考えたら正解なのか。」「協力しろ」
具体的なんてとは程遠い、個人の個人の概念とその認識に話題にすらなかった
社会の模範であり、もっと具体的に正確に言うと自分が生きてきた環境のもっと根底にある教育が都会に出れば出るほど自分の普遍を上塗りしてる。
それでも実感出来てきた気がします。すこし年をとって比喩表現に面白さを感じてしまったせいで回りくどい言い方だったんだ。
簡潔に言うとピアノを弾くとき簡単なキーボードで、ピアノの旋律でもない音声でアナログすらないデジタルのホールに響くことすらない
活字がシウt家愛になってしまってる。
活字の力は揺らいだことがない、その活字あと文章は不変だから柔軟に生きている頭になる私の若くもシワついた、きっとまだピンク色でって音声で話すのと同じで言葉をほんの少し自分のボキャブラリーの中で、これまた感覚的な基準で言ってしまうとハッピーで純朴で、疲れた時にほうじちゃを差し出してくれるようなほんの少しの間があれば、ああ、怒り狂った自分の脳細胞、もしかしたら脳細胞じゃなくて体の芯にある医学ではないかもしれないココロって言われてる部分の萎縮がはほうじ茶の
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