はてなキーワード: ベトナム戦争とは
本来インフレであれば、合致する供給を自分たちが設備研究投資と雇用増加で作れば好景気化に繋がります。
しかし、何らかの事情でインフレでも増産ができず収入所得が上がらないという現象が起きることもあるのです。インフレでも収入所得が上がらない現象がスタグフレーションです。
例えば中東が石油の生産を一手に握った状態で戦争が起きたとか、アメリカが過剰なベトナム戦争支援をして財政赤字も経常赤字も両方出してブレトンウッズ体制をやめて一気に通貨安になったりとか。
MMTの元のケインズ政策では対処できない!とか言われたから金融政策偏重の新自由主義がおきました。けども、今のウクライナ戦争によるエネルギー・食料不足のスタグフレーションに新自由主義でなんとかなりそうかといえばならないでしょ?
金利を上げてヨーロッパスタグフレーションに落ちてるじゃない。一方で再生可能エネルギーがだいぶ低価格化していることと、石油や天然ガス産地が分散しているため、代わりの供給が作れるようになってる。
日本はもともとかなりデフレ基調だったものの、金利を下げたままで、物価高の品物を狙った補助金でスタグフレーションはだいぶ抑えられています。
スタグフレーションはスタグフレーションとして、供給不足の品物についての確保増産と価格変動緩和こそが解であって、新自由主義が解だってのは間違いだってことです。
まあ、政府の肥大と途上国の腐敗の点で一定費用対効果に帰ることぐらいは認めてもいいです。しかし、基礎応用研究投資や困窮者、教育など費用対効果が見えづらい支出が破壊されます。
新自由主義を突き詰めたイギリスは経常赤字垂れ流しで、最近投機勢の売り浴びせに勝てなくなってましたね。
日本、中国は外国為替資金特別会計などにある外貨や外債をもとに為替介入をして、投機勢を追い払いましたけど。
外貨為替資金特別会計大活躍したのに、最近外貨為替資金特別会計を潰せ、みたいなおかしな声が上がるようになってきましたねー。投機勢にとって目障りなのと、投機勢が暴れるために政策を捻じ曲げようとしてるんでしょうね。
https://twitter.com/mizloq/status/1594608637208850434
https://twitter.com/mizloq/status/1594554415045742592
WJSの調査をまとめ直しただけなのだけれど、こういう視覚化が珍しかったのか、たくさんの反応ありがとうございました。
https://pbs.twimg.com/media/FiEvYdVacAIZ4Rg?format=jpg&name=medium
あの表から読み取っていただけることはいくつもある中で、表を作ってTwitterに投稿した者として是非注目していただきたかった点は次のとおり。
この点はあとで少し詳しく書きます。
「いま国民的議論の対象とするべきものはこれだ」「次の政権はこの論点で選ぶべきだ」を提示するのがマスメディアのしごとだ、ということですよね。この項目が上位に来るのは、世界67カ国調査をざっと見たところ、日本と韓国だけです。韓国マスメディアについては詳しくないので触れませんが、日本のマスメディアについては、その発祥と発展の経緯がこれに大きく関わっていると思われます。
萬朝報が中心となって1901年に「理想団」が結成されて以降の日本のマスメディアは、社会主義的な思想をベースに、自分たちの役割を
と任じ、そうやって自らが牽引して作った「世論」にマッチした政治が政府によって実施されるかどうかを「監視」していました。したがって、政府がその世論に従わなければ反政府反権力的な言論を展開しましたが、政府が世論どおりに運営されれば権力と一体化して少数意見を封殺する言論展開を躊躇いませんでした。その尻尾がまだ残っているんだなあと、個人的にわりと感動したところです(褒めてません)。
アジェンダ設定のような能動的行為は「客観的観察者であること」を大きく損ねますから、それをジャーナリズムの重要な役割とすることには拒絶ないし躊躇があるのが当然でしょう。日本以外のすべての国で「政治的アジェンダを設定すること」への重要度認識が低いのはそのためです。
この「人々が意見を表明できるようにする」の原文は "Let people express their views” なので、「人々の意見を表明するツールとして自分たちのメディアを使わせる」というニュアンスも含まれます。世論を醸成し政策アジェンダ設定が重要と考えているくせに、いや、だからこそかもしれませんが、実際の「人々」の意見を汲み上げて報じることにはあまり重要性を感じていないわけです。120年前と同じように、「自分たちが良いと思う世論を作る」という意識なのだとすれば、そうでないさまざまな意見の表明はあまり好まないのも不思議ではありませんね。
「政治リーダーの監視と精査」 「時事問題の分析の提供」 「人々の政治的決定に必要な情報の提供」については、それらへの重要度認識が高いこと単体に違和感はないし、しっかり頑張っていただきたいものですが、「事実をありのままに伝える」「客観的観察者」などを差し置いてそれ以上に重要と感じていることには強い嫌悪を覚えます。
特に、「政策アジェンダを設定するのは自分たちの重要な仕事」とこれら3点がセットになっているのを見ると、吐き気すら催します。
全部に対応するのは無理ですが、いくつか類型化して主な反応にお答えしてみます。
はい。「お国柄はあるものの」と書いているとおり、この回答には各国それぞれのジャーナリズムの歴史がほんのりと現れていて興味深いものです。大雑把に言うと、
という感じでしょうか。
それでも日本を敢えて「異様」と書いている理由は、この調査で「事実をありのままに伝える」トップにならないことの異常性です。
この項目は、ジャーナリズムを体系的に学んだ者なら誰でも気づく、他の約20の項目とは完全に異質の質問です。他の項目は「お国柄が出ますね」で済むけれど、この項目だけは別格です。
いわば、「あなたはジャーナリストとして最も基本的な動作を正しく重要視していますか?」とほぼ同じ意味の項目です。
と問うような質問なのです。
「勝つことだけが重要ではない」「ほかにも大切なことがある」という選手はいるでしょうけれど、「勝つことの重要性はあまり高くない」と答える選手はかなり少ないでしょう。そう答える選手が1/3も存在するチームを応援する気にはならないし、スポンサーになる気にもトトを買う気にもならないですよね。ほかにどんなに重要と思うことがあったとしても、実際に勝てないとしても、プロスポーツ選手である以上は「勝つことは大切」と思っていて欲しいじゃないですか。
まともなジャーナリズム教育を受けた人であれば誰でも、「事実をありのままに伝えることはジャーナリズムがジャーナリズムであるための最も重要な要件」と学びます。
別の言い方で「ファクトとオピニオンを明確に区別せよ」とも言います。
たとえば、40年ほど前に私が専攻していたジャーナリズムの学科はジャーナリズム研究と並行してジャーナリスト実務者養成の要素が強く、1年間ずっと報道文の宿題を提出して「この表現は客観的でない」「ここはファクトにオピニオンが混じっているからオピニオンを削れ。さもなくば明確に分けろ」と重箱の隅をつつかれ再提出させられ続けるという地獄のような講義がありました。
そういった養成訓練を受けた人なら、あとからどんな思想的政治的干渉を受けたとしても「事実をありのままに伝えることはジャーナリストの最も重要な仕事」という考えが覆ることはまずありません。だから、中露ですらこの項目はトップになるのです。
「日本人にアンケートを答えさせると5段階の5をめったにつけないから・・・」という擁護も来ましたが、今回の表は4と5を合わせて集計したものですからその影響は小さく、現にたとえば「政治リーダーを監視精査する」は堂々90%を超えていますから、その考慮は必要ないでしょう。ていうかそもそも、仮にそうだったとしてもほとんど条件反射で「5」と回答して欲しい質問なわけですよこの項目は。日本のジャーナリストの1/3が、建前としてすらも「極めて重要/とても重要』と答えない。これは嘘吐きかどうかとはぜんぜん別の「恐怖」です。
そういう思いから、日本のジャーナリズムを「異様」と書きました。
それは情報の誤読です。「事実をありのままに伝える」を重要と思っている度合いの相対的に弱い人が35%いるというだけです。その人たちが日常的に嘘を書いているというわけでもないし、逆に、重要と思っている人が嘘を書かないというわけでもありません。
・・・まあそうは言っても、たとえば「自分が伝えたいことや自分の設定したいアジェンダにとって都合の悪い事実があったときの行動」は違うだろうと容易に想像できますから、信用問題ではありますね。
それは情報の誤読です。この調査は「あなたは事実をありのままに伝えていますか」ではないので、ご希望の数値はここには表示されません。
さきほどのプロスポーツ選手の喩えでいうと「勝つことが重要だ」と言いつつ練習もサボり試合にもボロ負けする選手ですね。「勝つことが重要だ」という建前すら言わないで練習をサボりボロ負けする選手よりはずっとマシだと、私は思います。まあ感じ方次第ですけど。
これは別のデータ等をもとに別に議論されるべきでしょう。もし感覚だけで言うなら、私はそうは感じていません。日本のジャーナリストには「ファクト」と「オピニオン」を厳密に分ける教育も訓練も不十分な人が多く、そのせいか、「ファクトのように読める部分にオピニオンが混じり込んでいる」というフェイクニュースではないけれどフェイクニュースよりもたちの悪い報道が多数見られます。
現状の「原因」としては大きいと思います。ただ、読者や視聴者と異なりジャーナリストはそれを職業とする人々であり、現状への「責任」を同列に語るのは適切でないと考えています。原因と責任は別物です。
ぜんぶ来ましたw どれも当たっていてどれも間違っているんだと思います。
これらの評価(罵倒)を言ってしまうのは、ご自分たちの考えと合致した世論を喚起し政策アジェンダを設定していく役割、もっとあからさまに言うと、ご自分たちにとって都合の良い機関紙としての役割をジャーナリズムに求めているからです。ジャーナリズムは本来そのようなものではありません。「事実をありのままに伝える」を重視して「客観的観察者」の実践を続け「政策アジェンダを設定する」から遠ざかっていけば、ジャーナリズムがそういう評価の対象になること自体がもっと減るだろうと考えています。
私もそう思います。世界の一般的なジャーナリストにとって「報道の自由度が低い」とは「事実をありのままに伝えることや自由な表現を阻まれる」を意味します。日本のジャーナリストは世界の一般的なジャーナリストと異なり、自分たちによる政治アジェンダ設定や世論形成を重要視している度合いが強いので、それを言いっぱなしにさせてくれず邪魔されたり反論されたりそのとおりに世論が形成されなかったりするのを「報道の自由度の低さ」と勘違いしていると思います。
これはいろんな考え方があるでしょうが、私は、「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムというものの普遍的な存在意義にかかわる話は、法律等の要請やメディア運営指針に過ぎない「政治的中立性」と同列に語ることは全くできないと思っています。また、たとえば日本のマスメディアがよくやる両論併記は政治的中立性の名のもとに行われますが、科学的知見に基づくコンセンサスと大きく異なる異端論をいつまでもいつまでも書き続けるような形で現れることが少なくなく、「政治的中立性」はあまり褒められたものではないと思います。
https://twitter.com/mizloq/status/1594608637208850434
https://twitter.com/mizloq/status/1594554415045742592
WJSの調査をまとめ直しただけなのだけれど、こういう視覚化が珍しかったのか、たくさんの反応ありがとうございました。
https://pbs.twimg.com/media/FiEvYdVacAIZ4Rg?format=jpg&name=medium
あの表から読み取っていただけることはいくつもある中で、表を作ってTwitterに投稿した者として是非注目していただきたかった点は次のとおり。
この点はあとで少し詳しく書きます。
「いま国民的議論の対象とするべきものはこれだ」「次の政権はこの論点で選ぶべきだ」を提示するのがマスメディアのしごとだ、ということですよね。この項目が上位に来るのは、世界67カ国調査をざっと見たところ、日本と韓国だけです。韓国マスメディアについては詳しくないので触れませんが、日本のマスメディアについては、その発祥と発展の経緯がこれに大きく関わっていると思われます。
萬朝報が中心となって1901年に「理想団」が結成されて以降の日本のマスメディアは、社会主義的な思想をベースに、自分たちの役割を
と任じ、そうやって自らが牽引して作った「世論」にマッチした政治が政府によって実施されるかどうかを「監視」していました。したがって、政府がその世論に従わなければ反政府反権力的な言論を展開しましたが、政府が世論どおりに運営されれば権力と一体化して少数意見を封殺する言論展開を躊躇いませんでした。その尻尾がまだ残っているんだなあと、個人的にわりと感動したところです(褒めてません)。
アジェンダ設定のような能動的行為は「客観的観察者であること」を大きく損ねますから、それをジャーナリズムの重要な役割とすることには拒絶ないし躊躇があるのが当然でしょう。日本以外のすべての国で「政治的アジェンダを設定すること」への重要度認識が低いのはそのためです。
この「人々が意見を表明できるようにする」の原文は "Let people express their views” なので、「人々の意見を表明するツールとして自分たちのメディアを使わせる」というニュアンスも含まれます。世論を醸成し政策アジェンダ設定が重要と考えているくせに、いや、だからこそかもしれませんが、実際の「人々」の意見を汲み上げて報じることにはあまり重要性を感じていないわけです。120年前と同じように、「自分たちが良いと思う世論を作る」という意識なのだとすれば、そうでないさまざまな意見の表明はあまり好まないのも不思議ではありませんね。
「政治リーダーの監視と精査」 「時事問題の分析の提供」 「人々の政治的決定に必要な情報の提供」については、それらへの重要度認識が高いこと単体に違和感はないし、しっかり頑張っていただきたいものですが、「事実をありのままに伝える」「客観的観察者」などを差し置いてそれ以上に重要と感じていることには強い嫌悪を覚えます。
特に、「政策アジェンダを設定するのは自分たちの重要な仕事」とこれら3点がセットになっているのを見ると、吐き気すら催します。
全部に対応するのは無理ですが、いくつか類型化して主な反応にお答えしてみます。
はい。「お国柄はあるものの」と書いているとおり、この回答には各国それぞれのジャーナリズムの歴史がほんのりと現れていて興味深いものです。大雑把に言うと、
という感じでしょうか。
それでも日本を敢えて「異様」と書いている理由は、この調査で「事実をありのままに伝える」トップにならない』の異常性です。
この項目は、ジャーナリズムを体系的に学んだ者なら誰でも気づく、他の約20の項目とは完全に異質の質問です。他の項目は「お国柄が出ますね」で済むけれど、この項目だけは別格です。
いわば、「あなたはジャーナリストとして最も基本的な動作を正しく重要視していますか?」とほぼ同じ意味の項目です。
と問うような質問なのです。
「勝つことだけが重要ではない」「ほかにも大切なことがある」という選手はいるでしょうけれど、「勝つことの重要性はあまり高くない」と答える選手はかなり少ないでしょう。そう答える選手が1/3も存在するチームを応援する気にはならないし、スポンサーになる気にもトトを買う気にもならないですよね。ほかにどんなに重要と思うことがあったとしても、実際に勝てないとしても、プロスポーツ選手である以上は「勝つことは大切」と思っていて欲しいじゃないですか。
まともなジャーナリズム教育を受けた人であれば誰でも、「事実をありのままに伝えることはジャーナリズムがジャーナリズムであるための最も重要な要件」と学びます。
別の言い方で「ファクトとオピニオンを明確に区別せよ」とも言います。
たとえば、40年ほど前に私が専攻していたジャーナリズムの学科はジャーナリズム研究と並行してジャーナリスト実務者養成の要素が強く、1年間ずっと報道文の宿題を提出して「この表現は客観的でない」「ここはファクトにオピニオンが混じっているからオピニオンを削れ。さもなくば明確に分けろ」と重箱の隅をつつかれ再提出させられ続けるという地獄のような講義がありました。
そういった養成訓練を受けた人なら、あとからどんな思想的政治的干渉を受けたとしても「事実をありのままに伝えることはジャーナリストの最も重要な仕事」という考えが覆ることはまずありません。だから、中露ですらこの項目はトップになるのです。
「日本人にアンケートを答えさせると5段階の5をめったにつけないから・・・」という擁護も来ましたが、今回の表は4と5を合わせて集計したものですからその影響は小さく、現にたとえば「政治リーダーを監視精査する」は堂々90%を超えていますから、その考慮は必要ないでしょう。ていうかそもそも、仮にそうだったとしてもほとんど条件反射で「5」と回答して欲しい質問なわけですよこの項目は。日本のジャーナリストの1/3が、建前としてすらも「極めて重要/とても重要』と答えない。これは嘘吐きかどうかとはぜんぜん別の「恐怖」です。
そういう思いから、日本のジャーナリズムを「異様」と書きました。
それは情報の誤読です。「事実をありのままに伝える」を重要と思っている度合いの相対的に弱い人が35%いるというだけです。その人たちが日常的に嘘を書いているというわけでもないし、逆に、重要と思っている人が嘘を書かないというわけでもありません。
・・・まあそうは言っても、たとえば「自分が伝えたいことや自分の設定したいアジェンダにとって都合の悪い事実があったときの行動」は違うだろうと容易に想像できますから、信用問題ではありますね。
それは情報の誤読です。この調査は「あなたは事実をありのままに伝えていますか」ではないので、ご希望の数値はここには表示されません。
さきほどのプロスポーツ選手の喩えでいうと「勝つことが重要だ」と言いつつ練習もサボり試合にもボロ負けする選手ですね。「勝つことが重要だ」という建前すら言わないで練習をサボりボロ負けする選手よりはずっとマシだと、私は思います。まあ感じ方次第ですけど。
これは別のデータ等をもとに別に議論されるべきでしょう。もし感覚だけで言うなら、私はそうは感じていません。日本のジャーナリストには「ファクト」と「オピニオン」を厳密に分ける教育も訓練も不十分な人が多く、そのせいか、「ファクトのように読める部分にオピニオンが混じり込んでいる」というフェイクニュースではないけれどフェイクニュースよりもたちの悪い報道が多数見られます。
現状の「原因」としては大きいと思います。ただ、読者や視聴者と異なりジャーナリストはそれを職業とする人々であり、現状への「責任」を同列に語るのは適切でないと考えています。原因と責任は別物です。
ぜんぶ来ましたw どれも当たっていてどれも間違っているんだと思います。
これらの評価(罵倒)を言ってしまうのは、ご自分たちの考えと合致した世論を喚起し政策アジェンダを設定していく役割、もっとあからさまに言うと、ご自分たちにとって都合の良い機関紙としての役割をジャーナリズムに求めているからです。ジャーナリズムは本来そのようなものではありません。「事実をありのままに伝える」を重視して「客観的観察者」の実践を続け「政策アジェンダを設定する」から遠ざかっていけば、ジャーナリズムがそういう評価の対象になること自体がもっと減るだろうと考えています。
私もそう思います。世界の一般的なジャーナリストにとって「報道の自由度が低い」とは「事実をありのままに伝えることや自由な表現を阻まれる」を意味します。日本のジャーナリストは世界の一般的なジャーナリストと異なり、自分たちによる政治アジェンダ設定や世論形成を重要視している度合いが強いので、それを言いっぱなしにさせてくれず邪魔されたり反論されたりそのとおりに世論が形成されなかったりするのを「報道の自由度の低さ」と勘違いしていると思います。
これはいろんな考え方があるでしょうが、私は、「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムというものの普遍的な存在意義にかかわる話は、法律等の要請やメディア運営指針に過ぎない「政治的中立性」と同列に語ることは全くできないと思っています。また、たとえば日本のマスメディアがよくやる両論併記は政治的中立性の名のもとに行われますが、科学的知見に基づくコンセンサスと大きく異なる異端論をいつまでもいつまでも書き続けるような形で現れることが少なくなく、「政治的中立性」はあまり褒められたものではないと思います。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
無限大の広さと吸引力を持つBHGP(ブラックホールゴールポスト)じゃん。
その時その時にどこがロビー活動かけてくるかで七色に変わるでしょ。
たとえば統一教会からすれば「自由恋愛」こそが「公序良俗違反」なわけだから、あらゆる恋愛の表現が禁止される。
過激な一神教からすれば「他の神の存在を描くこと」は許されないので、神話が元ネタになるあらゆるものもチェーンしてアウトな可能性が出る。
ルッキズムへの批判を掲げる人達にとっては「美男美女」を出してはいけないことに。
逆に醜い人物を描くことが、「実在する自分の醜さに悩む人達を傷つける」ことを懸念して禁止されることだってあるだろう。
ここまでで禁止してまだ残っているFANBOXの絵なんていくつあるんだろうか?
実際便利かもしれないけどね。
いい感じの素材を買えることに特化したサイトっていうのは。
「木を隠すなら森の中となるのを防ぐため、怪しい奴らの潜みそうな所を片っ端から爆破して焼け野原にした」という噂である。
ベトナム戦争の教訓からもわかるように、それをやっても実際には敵を焼き尽くすことなんて出来はしない。
生き残った連中が引き続きあの手この手の方向でゲリラ的に活動するだけだ。
さらには厄介なことに、そこに暮らす人達の生活様式が変化し、今までと違う動きをすることが結果としてゲリラに都合よく作用する可能性だ。
今回Pixivがやったのは、多くの表現者に「地下に潜ること」を推奨するような行為である。
今後Pixivにおいては「リアルの人間が犠牲になって『いない』ようなポルノやゴア表現」でさえも、「隠語を使ってやり取りされる」ようになるリスクがあるのだ。
これの何が不味いかというと、ユーザー達の隠語表現に対する知見が加速することになり、結果としてPixivが潜んでいる本物の犯罪者を探すのが難しくなるのである。
それでもPixivがユーザーからの信頼を獲得していれば、犯罪者を突き出すために隠語表現を運営にリークする善意の協力者を募ることも簡単だっただろう。
しかし、今回のように無関係の善良な市民を平気で巻き込むようなやり方は、人々の反感を買ってそれらの教育を惜しませるように働くと思われる。
もしもPixivに圧倒的な力(この世界で唯一つの画像共有サイトであったり)があれば、それでも追放を恐れたユーザー達が自主的な協力により運営に媚を売れたのかも知れない。
だが実際には「ニジエで宣伝して、skebで稼ぐ」といった選択肢がまだ残っているのだ。
この状況においてはPixivでの活動はメインではなく単なる導線づくりにしてしまうことも容易となる。
隠語を多用して身を隠し、禁止されるかどうかのギリギリのラインを攻め、あくまでユーザーの獲得をメインとして本格的な収益は他のサイトで得る……このやり方が成立するのだ。
そもそも犯罪者達こそが結局は別のサイト(ダークウェブやそのスレスレ)に誘導すればいいわけで、Pixivにおいて「金銭的なやり取り」をする必要さえないのだ。
つまりは「Pixivの決済サービスから犯罪者を締め出すために、多方面を絨毯爆撃する」というのは極めて愚かな行為なのである。
だが待って欲しい。
そもそもPixivが今回出している声明の中に「リアルの児童ポルノやスナッフフィルム を売っている人達がいるので」という話は出て来ない。
つまりは「単なる一部ユーザーの間でされる噂話」でしかないのだ。
屋根裏を整理してたら古いパソコン(といっても2006年頃)が出てきたのでブラウザの検索履歴をサルベージしてみた。
当時自分が何にハマっていたのか思い出されていろいろ懐かしい…
パラ様 生え際
ホケマクイ
ブッチーン 灯花
ぶっこぉすぞー
るくしおん しびれるぜ、鋼の
ティプトリー・ショック
「デストロイがいいね」と君が言ったから六月二十四日はUFOの日
わたるが死んじゃう
琵琶湖タワー
猫いらず 口の周り 光る
尸条書
立方晶窒化炭素
ドーマン法
ひだまりスケッホ
空飛ぶ冷し中華
セーラー戦士が全員ブルマーだったら、アニメ史を変えていたと思うね
34歳児
実はまだ2階に
アリオク
緑はいらない子
そうです。あのコが僕の畏敬する天使様なのです
おかしとか食べる
T-34が倒せない
さあ牛だ
セノバイト
omegaの視界
ぽこにゃん
だぞなもし
倒福マーク
ボッキアウト
フムン
ユープケッチャ
目なき顔のジールバ
やったー+1 シヴィライゼーション
ルロス ロルス
玉音盤奪取
ハレとケ
もえたん 06話
路肩のピクニック
白楽電の詩
ガッシボカ
聖なんとか女学園
クートニアン
お脱ぎなさい
グンニョキ
強さ激しく変動
南斗聖拳108派一覧
みなぎる力がみなぎるぜ
力こそパワー
重い生理が来たみたい
4ひえた
ムーミンパパ海へいく
チャンパーノウン定数
見知らぬ国のデイトリッパー
紫暗号
いざり
比留間 京之介
この娘、最後死んじゃうんだよね
旧神なんていないよ
棒シムーン
S級だけどめどいんでB
オレモダビール
"オナホさん"
アントノフ 積載量
黄金の真昼
Let's Beginning to Look Alot Like Fishmen
けいせい出版
共生るんです
ガネッコ
莫迦め 死んだわ
スコープドッグ 装甲厚
かみそり半蔵地獄攻め
クンデラ 不滅
如意棒 重さ
ちびくろサンボ 枚数
俺のケツをなめろ
大胖女人
大司令症候群
gunyoki
グンニョキ
おしつおされつ
どうしてエレクチオンしないのよぉぉぉぉ
こぐにっしょん
虹作戦
燕山夜話
ドラ28
中国人の部屋
エロ イッカイヅツ
菊屋橋101号
システムショック
ゲバルト・ローザ
完全黙秘
唸るコカトリス亭
みずずちん
なんてこった 死の宣告
アンダーダーク
ロンゴ・ロンゴ
ゲオルギウス
毒薬仁
まじかるぴゅあソング
だいす☆くえすと
つめたく冷えた月
フンカーリート
Shang-Du
水エタノール噴射
願望機
舟に棲む
rom ヘッダ 削る
長靴いっぱい食べたいよ
陣形技 閃き
ハリマオ
ぺちんぺちん
カタリナ おそるべし
野月まひる
マライア 多摩
素敵医師
相沢 祐一 最強
みなみおねいさん
あまぞn
夢のクレヨン王国 SONGBOX
振武刀
クリントワン
ロイさーん
レムコレクション
カードゲーム テケリ・リ
グレゴール・ザザ虫
きみはホエホエむすめ
東方夢終劇
ファミソン8BIT
生きなさいキキ
dwarvish mattock
蟹工船 光線
パラシュート部隊 突然に
ゴクイリイミオオイ
アウト・オブ・眼中
モルディギアン
納骨堂の神
ヴェクナ
パラシュート部隊 突然に
情無用ファイア
末期 少女病
唸るコカトリス亭
アカディネの泉
ショスタコーヴィ
ジャック ケッチャム
シャノン 情報理論
ガロアの郡論
ルルスの術
ラヴォアジエ
宇津田さんの死
レムコレクション
佐保姫 信太の森
ころがる石のような俺の生き様
はしれぐずども
紫暗号
白い神兵
火のバプテスマ
清家理論
サールクラフト
lycanthropy
某研究者
アナ姫さま おげんきですか
オナホ 2番目
宇宙麻雀
電戦トリオ
乳ロマンサー
私は痛みだ
くやしい、でも ビルケナウ
グレゴール・ザザ虫
新藤幸司 CV
Chante キミの歌がとどいたら 先生
開路に時限のある リレー
Drizzt
ちんぽ生やして出直して来い
男根 恐ろしいまでに
コロラド撃ち
HEARTWORK
誠ぉっ そこにいるんでしょ
ずっとオレのターン
ぼくはぼくであること
おれがあいつで
アラバハキ
幻影都市
わたしこそ しんの ゆうしゃだ
クトゥル スペースジョッキー
フラッシャー付自転車
神よりも弱いただのオセロ
おがわみめい
水無神知宏
CARNIVAL 小説
じゃこつばばあ
生と死の境界 安置
うぉ、まぶしっ
ゼロで割る
ココロン
有尾人 フィリピン
子供達を責めないで
圧力計 連成計 BV
エドガー ダケェ
おびんずる
にこにこ商事
ひろ
アレン・ネルソン『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』より。
(貧困と黒人差別から抜け出すために海兵隊に入り、ベトナムで戦闘と残虐行為に明け暮れた著者が、帰国後に深刻な後遺症に悩まされることになった回想録)
実戦さながらのはげしい訓練をのぞけば、沖縄はわたしたちアメリカ兵にとって毎日がカーニバルのような楽しい島でした。
ただし、それはあくまでもアメリカ兵にとってであり、沖縄の人々にとっては悲しく屈辱的な島だったはずです。
ベトナムで戦火が拡大していた時代でしたから、沖縄のどの基地も、ベトナムに行く兵士、ベトナムから帰ってきた兵士で
あふれかえっていました。明日には死んでしまうかもしれない兵士たちは、ありったけのお金を使って酒を飲み、
女性と遊ぼうとします。そんな兵士たちが遊ぶことができる場所がたくさんあった沖縄は、まるで巨大な遊園地のようだったのです。
太平洋戦争最大の激戦地であったということ。多くのアメリカ兵がそこで戦死したこと。
しかし最後にはアメリカが勝利したこと。その結果、沖縄がアメリカのものになったこと。
わたしたちが教えられるのは、そんな勝者の視点から見た沖縄であり、何万人もの沖縄の人々が死んだことについては
いっさい教わりませんでした。
当時、沖縄はまだ日本に返還されておらず、アメリカのものでしたので、アメリカ兵は沖縄は自分たちの国の一部という感覚でいました。
しかし、そこに住む人々は、アメリカの島でありながらアメリカ人ではなく、それは東洋人であり、
つまりベトナム人と同じ人種で、住む国がちがうだけなのだと思っていたのでした。
わたしたちは東洋人の一人一人を見分けることができませんでした。みんな、同じ顔に見えましたし、それでもまったく問題はなかったのです。
なぜなら、わたしたちは東洋人を、そして沖縄の人々を人間として見てはいなかったからです。
アメリカ兵はベトナム人のことを「グークス(gooks)」という言葉でよんでいました。
それは東洋人をバカにして言う言葉です。サーカスの見せ物小屋にいる異形の人間。そんな意味もあります。
アメリカ兵が沖縄の人々をよぶときは、この「グークス」ではなく、「ジャップ」という日本人をさげすんで言うときの言葉を使っていましたが、
その意味するところは「グークス」とそれほど変わりません。そこからも、わたしたちが沖縄の人々を
どんなふうに考えていたかがわかるでしょう。
たとえば、街にくり出して飲んだくれたときなど、キャンプ・ハンセンにもどるにはタクシーを使いましたが、
料金をふみたおすのはしょっちゅうでした。タクシーの運転手が支払いを催促しても、わたしたちはニヤニヤ笑って無視します。
それでも、運転手がしつこく請求すれば、わたしたちは運転手を車の外に引きずり出し、気絶するまでめちゃくちゃになぐるのです。
それは女性と遊ぶときも同様です。女性がお金を要求しても、はらう気がなければ無視しましたし、
それでもしつこく要求してくれば、女性でもようしゃなくなぐりつけました。
街を歩いていても、わけもなく沖縄の人々をバカにしたり、おどしたりしました。
そんな悪行のかぎりをつくしても、アメリカ兵は逮捕されることはありませんでした。
基地のゲートをひとたびくぐってしまえば、わたしたちは安全であり、沖縄の警察の手がおよぶことはなかったのです。
軍にとがめられることもありませんでした。
アメリカ兵一人一人は莫大な国のお金によって兵士として育てられ、そして戦場に送られるべく沖縄にいるのですから、
わたしたちが牢屋に入れられるのはアメリカにとって割に合わない、ばかばかしいことなのです。
どんなことがあっても、わたしたちには戦場に行ってもらわなければならないのです。
そのためには、わたしたちの犯した罪ですら、アメリカは見て見ないふりをしたのです。
むしろ、アメリカは、わたしたちがじゅうぶんに暴力的な兵士に改造された証だと、沖縄の人々へのアメリカ兵による犯罪に
大いに満足していたはずです。
そういうわけで、基地のフェンスの中に逃げもどることさえできれば、どんなにひどい犯罪を犯したとしても、それを笑い話や手柄話にできたのです。
千島列島は旧ソ連とアメリカの合意の元に旧ソ連領になりました。これが真実で日本が取った行動は北方四島は千島列島に属してないと主張することによって対抗してるんです。簡単に言うとCIAとKGBに挟まれてるのが現日本を含む旧日本領です。韓国北朝鮮樺太満州台湾東南アジア諸国戦争なので領土は時々刻々と変動しましたがこれらの取り合いは現在も続いてます。朝鮮半島の分断もそう、ベトナム戦争もそう、今必死に話題にしようとしてる台湾もそう、全部今の人にわかるように言うとウクライナとロシアと同じ構図です。ヘイトには国の思惑が絡むんです。親米はアメリカの思惑、親露はロシアの思惑、親中は中国の思惑、全部絡むんです。当たり前の話じゃないですか、当たり前を当たり前と思えなくなってる今は本当に危険な事だと思いますがこれを国民全体で共有出来ないとなんの意味もない。日本は恵まれた国じゃないですよ、大国に囲まれた危うい国ですよご先祖様があれこれ考え抜いてなんとか今を保ってる国なんですよ。また大国の思惑通り暴走して敗戦やるんですか?
世の中に良いものを提供したものが勝つという競争主義は好景気のときには自然になるの。
不景気の時は人の足元を見て食い物にしようという怪物ばかりが勝つようになるの。むしろ起業だイノベーションだの世界は、いい餌ないかというピエロが踊り狂う悪趣味な人形遊びの様相にしかなってない。楽園を騙った墓場。
商品がきちんと良いものが作れてそれで受け入れられるならともかく、「そんなこと弱い立場の人間になんざ許されない」のが新自由主義であり、今の新自由主義に基づく起業だイノベーションだのの世界。
更に最近は究極の弱いやつが起業に関心を持ってくれれば十分だとマルチ商法だとかオンラインサロンの草刈り場にしかなってないじゃない。
一方で口先だけの詐欺師が金を集める。いや、本当に何か新しい良いものを作ろうとしたがそもそも投資家が技術なんか興味がなく、確実に儲かるものものしか求めず投資家の都合ばかりで振り回すから、本当に志があっても詐欺師のように振る舞う必要があるのだろう。
そうして最後は詐欺師扱いされて世間や、それこそこの世から消え去る。
不景気だろうが緊縮財政取ったり、資金循環を止める場所の減税をする新自由主義こそがこの惨劇の原因。社会は何もしないと金持ちが強く貧乏人が弱い世界なんだよ。
日本は米百俵で1990年まで科学にきちんと金を出して吟味の金と時間を出してたから昔は強かった。最も米百俵こそ一番汚されたな。だって教育や科学技術こそ新自由主義で破壊されたから。
無論ケインズ主義が途上国の腐敗や、アメリカのベトナム戦争による経常赤字化や、突然のオイルショックのような供給由来のコストブッシュに完全ではないことはあろう。何に政府が使い、何を使わないのは永久の課題だ。しかし最小限の何もしないというのは間違いだ。
しかし、いまのウクライナ戦争の余波のコストプッシュインフレを見れば緊縮財政や構造改革や規制緩和がなんの役に立つのか?といえば微塵も役に立たないのは断言できる。
正しい競争を起こしたいならこそ、まずはケインズ主義で必要であれば財政出動や金融緩和をし、その上で儲かる前の科学に金を出さないとならない。
40歳になった。ここまでの人生を振り返って思うのは、「人生観が変わるほどの衝撃」とか「人生を決定づける出会い」って俺には結局なかったし、これからも無いだろうな、ってこと。キルケゴールの「大地震」とか、安藤忠雄のガンジス川とか、ああいうの全部20代だしね。もちろん俺は彼等ほどの逸材傑物ではないけれども、俺の人生にだってああいう転換点があってもおかしくなかったはずだ。ということで年表見ながら振り返ってみるわけだが、
リクルート事件(1989)
⇒自民党って悪い奴らなんだな、という理解だったが、今じゃ贈収賄程度で総辞職なんてしないわけで、いま振り返るとよくわからない。
天安門事件(1989)
⇒社会主義って怖いんだな、という理解。戦車の前に立ってる写真は後から知った。
⇒社会主義は終わったんだな、という理解。世界史とか地理とか結局マトモに勉強しなかったので、今でも当時の解像度のまま、なんで露宇が戦争してるのかよくわからない。
湾岸戦争(1991)
⇒油田放火もったいねー、海鳥かわいそう、くらいの印象しかない。当時からハイテク戦争と言われてて、ベトナム戦争やアフガニスタン紛争みたいな人道危機の報道は少なかったんじゃないかと思う。普通に人も死んでたはずだが・・・
阪神淡路大震災(1995)
⇒高速道路が倒壊してる絵面はショッキングだったが、いま振り返れば単に大都市で起きた大地震という以上の意味はなかったと思う。手抜き工事疑惑はあったけど、復興利権みたいな報道は記憶にない。
地下鉄サリン事件(1995)
⇒犯罪どうこう以前に、ホーリーネームとかヘッドギアとか純粋に気持ち悪くて理解できなかった。カルトやべーな、という理解。
同時多発テロ(2001)
⇒その後、アメリカが大量破壊兵器の証拠とかナイラ証言とか捏造してイラクに侵攻してフセイン処刑してた。ブッシュやべーな、という理解。
⇒ひどすぎる、と思いはしたが、少なくとも今はもう拉致してないんだな、と安心もした。
ライブドア事件(2004)
⇒こんな若造でも金さえあればフジテレビ買えちゃうんだ、という発見と、出る杭は打たれるってマジなんだ、という理解。
オバマ大統領(2009)
⇒ブッシュから黒人大統領まで揺り戻した点にアメリカの強さを感じたが、当選後の印象は薄い。オバマケア? あとビンラディン殺害。
⇒当時勤めてた会社が潰れかけてて、リーマンショックの影響で業績悪いっすってみんな深刻そうに言ってた。もちろん全然関係ない。
福島第一原発事故(2011)
⇒日本は危機に弱い、という理解。その後のゴタゴタで、究極的には倫理/信念/信仰の欠如(保身と利益誘導以外の行動原理がない)、という理解。信仰とは必ずしも特定の宗教に帰依することを意味しないのだが、しかし日本社会には資本主義科学技術信仰への対立軸がなく漠然とした宗教への忌避感もあり・・・と、俺なりの総括を語ろうと思えば語れるんだが、このあたりはもう30がらみ、既に自己が確立してしまった後なので、あとはもう何を見ても偏見を補強していくばかりだし、ここから現在までの10年間のニュースもほとんど印象にない。あったねー、くらいの感じ。
参考:キーワードでみる年表 平成 30年の歩み|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB
振り返って思うに、転換点は1999年の東海村JCO臨界事故だったと思う。裏マニュアル作って核燃料をバケツで扱って臨界しちゃったアレ。日本は先進国で技術なら世界一とか、日本人は真面目で几帳面とか、そういう幻想が崩壊していく予兆を感じ取るべきポイントだったが、当時高校3年の俺にはそういった視点はなかった。作業員がチェレンコフ光を見て放射線障害で苦しみぬいて死んだことは印象に残ってるけれども、日本もうダメなのでは? みたいのは無かったし、世間の空気もそうではなかった。一部の不心得者による怠業、むしろ日本人の生真面目さが悪い方向に働いてしまった結果、みたいなことをみんな言ってた気がするけど、今振り返れば完全にズレてたな。80歳で死ぬとして残り40年、これからも重大事件は毎年起こるんだろうけど、俺はもう死ぬまで「人生観が変わるほどの衝撃」を受けることは無いんだろうと思うと、ちょっとさびしい。
ちなみに、資本家に対してどう立ち向かうかは20世紀の最大のテーマであって、故にマルクス主義とケインズ主義が生まれた。
マルクス主義は暴力しかないと考えたけど、ケインズ主義は好景気にして、労働需要が高い状態にすれば失業がなくなり賃金待遇が上がると考えた。だからこそ好景気の維持は大事なんだよ。
もっともただの財政出動だと、オイルショックのような供給不足や、ベトナム戦争からのアメリカの経常赤字のような無駄遣いや、途上国の腐敗によるスタグフレーションに陥るという問題もある。一方でケインズ主義批判として生まれた新自由主義は一度大規模経済危機を迎えると、になると二度と経済は回復しない。