はてなキーワード: 神童とは
https://anond.hatelabo.jp/20180314001059
自分は東大卒だけど、学生生活中に特に病まなかったし、周囲にもほとんど病んでいる人はいなかった。
「東大に入ったのに自信がなくなる」
みたいに書かれてるけど、東大に入るような人はハイレベルな高校や予備校の環境を経験してるので、上には上がいることをとっくに知っている。
ひょっとしたら田舎で神童と呼ばれていたようなタイプの人は挫折するのかもしれないけど、それはごく一部の人かと。
学力がすべてみたいな人はそんなに多くなくて、大学受験が終わった解放感で遊びまくる人がけっこういる。
受験のころと比べたら周囲と競う理由もなくなるので、そんなに他人と比較してどうこうとかなかった。
気が抜けてだらけた時間を送ってしまう人がけっこういたけど、それでも就職活動ではちゃんとした会社に決まる。
社会に出てからのほうが東大卒というレッテルを貼られてめんどくさい。
ここに書いて忘れることにする。
■A
大学1年生の時。
高校時代の友人が次々大学デビューを果たし、彼氏もできて焦っていた。
周囲に「あの人かっこいいですね」と触れ回っていたら、向こうから声をかけられ、付き合うことになった。
「不細工、一緒に歩くのが恥ずかしい」「一刻も早くやりたい」などと言われ気持ち悪くなった。
また、単位を全く取っておらず、8年かけても必要単位が取れないため除籍が確定しているのも後から知った。
田舎で神童と呼ばれ、そこそこ偏差値の高いうちの大学に合格したところで燃え尽きてしまったとか。
耐えきれなくなり別れた。
その頃私は155cmで70kgあったが、見返すために半年で40kgまで痩せた。
■B
彼氏(Aとは別人)と別れたことを聞き付けて、アプローチをかけてきた。
この頃は病んでいて、正常な判断力を失っていたとしか思えない。
精神的なサンドバッグが必要だった。また、早く結婚して専業主婦にもなりたかった。
プライドが高く、「君は○○な人だから」と私のキャラクターを勝手に決めたがる人だったが、我慢していた。
交際後すぐクリスマスがあり、私は4万円のアルマーニのネクタイをプレゼントした。彼はブローチをくれた。
年が明けたら私の誕生日が来た。アルマーニをあげたのだから、相当高価なプレゼントがもらえるのでは?もしかしてプロポーズ?などと考えていた。
取り出されたのは、綺麗にラッピングされた大人のおもちゃだった。
Bとしては、最初にガッカリさせておいて(その場には用意してなかったらしいが)本命のアクセサリーをプレゼントするというサプライズをやりたかったらしい。
その頃私は唐突な降格と転勤を命じられており(Bも知っていた)精神が限界だった。
夜中だったが、家から叩き出した。
すると翌朝家の前に立っており(一晩中待っていたらしい)、外出先まで付きまとってきて「悲しませるつもりはなかった」「愛してる」などと言ってきた。
精神的に辛いときに、余計なストレスを与えるやつとは付き合えない。別れを告げ、次の3人目に乗り換えた。
■C
同窓会で再会。在学中は特に親しくなかったが、連絡先を聞かれて教えたところ、アプローチが始まった。
先述のように早く結婚したかったので、医療職で高収入のCは魅力的だった。
何もむやみに貢がれたいわけではなく、「おごるよ」→「ううん、私出すよ」→「じゃあ割り勘でいい?」という感じなら別にいい。
「ここ割り勘でよろしく」と最初に言い、しかも「この後○○(オタクショップ街)行ってもいい?」と言って趣味のカードゲームのデッキやレアカードを数万円で購入する。
また、医療職だからと言って、お薬手帳を勝手に見られあれこれ口出しされた。
「○○を飲んでるんだから、良くなるはずなんだが?なぜ改善しないの?」等。
嫌々付き合い、経済力だけを目当てとしていたのが透けて見えたのだろう。
「もう無理しないで」と言われた。別れることになった。
変な自己防衛能力はあったようで、常に「こんな男の子供なんか孕んだら首吊るしかない」などと考えていたため、未だに処女である。はぁ。
あと、与えられることしか考えていない私に全責任があると思う。今年は変わる。もうすぐ1月終わるけど。
【追記】
はてなー、ねらー、ツイカス、なんでもいいけどネットにいるおまえらは
で、中高あたりから没落して、親、先生、同級生、職場の上司、ありとあらゆる周りの人間から抑圧され虐げられ隅っこの方で小さくなって
そして今、自分はコミュ力がないから底辺だ、自分は恋人がいないから底辺だ、自分はMARCHだから底辺だ、自分は年収500万円以下だから底辺だ、とか思ってるんだろうけど
おまえらの「(リアルでは)聞き分けがいい」「外面がいい」「話が通じる」、このスキル持ってることはマジで誇っていい
おまえら上を見すぎなんだよ
この点に関しては、あんまピンと来ないだろうけどおまえらめっっちゃくちゃ上澄みだぞ。かなり上位層の人間だ。特殊能力持ちだ
ある店が以前やっていた無料サービスをやめたとか、ある場所では受けられた親切がこちらでは受けられなかったとか、ある場所で特定の条件を満たす人が出入り禁止されたとかあるだろう
例えばゲーセンのプリクラに男は入っちゃ駄目とか飲食店が子連れ客お断りにしたとかそういう奴
そんな話を聞いた時、おまえらはどう思う?
おまえらもおまえらの周りにいる奴も常識のある人たちばかりで、大人しくまっとうにお行儀よく生きてて、想像力が豊かで弱者に寄り添う気持ちを持っているからこそ
「もし自分や友達が同じことをされたら」なんて想像して、「私の子どもはおとなしくできるのに一方的に追い出すなんて酷い!」「子どもが可哀想!」「仕事も子育ても真面目に頑張ってて疲れ果てているお母さんを追い出すなんて酷い!」と憤るだろう
鼻水垂らしたブッサイクなガキが奇声を上げながら走り回って他の客に思いっきりぶつかって服を破って汚してついでに皿を数枚割って謝りもしなかったとか
ボク子どもだからわかんなーいって面して子どもがウェイトレスさんのスカートをめくりまくったとか
主婦がコーヒー一杯で数人たむろして店中に響くめちゃくちゃでかい声で夫の悪口言ってついでにタッパーにおかずを詰めて持ち帰ったとか
自称イクメンパパが「うちの子はニンジンが食べられないから料理からニンジンを全て抜いて出せ!」って長時間ゴネまくって他の客への対応が滞ったとか
そんなことが毎日続いてそんな手段に出たのかも、なんてのは1ミリも想像しない
世の中には平気で人の物を壊したり盗んだり、他人に暴力を振るったり怒鳴ったり目の前で睨みつけたりわざと聞こえるように嘲笑したり、ごく普通の文章を読んでとんでもない曲解をして大暴れするような奴が思ったより大勢いる
そういう犯罪者や犯罪者予備軍から、まともに働いている人たちやおまえらを守るために頑張っている人たちがいるんだ
おまえらみたいにお行儀のいい奴ばかりじゃないんだ。おまえらに合わせてルールを作ったら世の中はとんでもないことになってしまうんだ。勘弁してくれ
大学進学率はだいたい50%。もう半分は高卒。大学行った奴でも中退する奴もいれば卒業したけど就職できない奴もいる。大学って行っても国立大学や東京の有名私大に合格した奴なんて50%の中の一握り、ほとんどは全国的な知名度皆無の大学へ行く
大学に合格できたおまえら、スゲーぞ。大学に行けなかった、行けなかったおまえらでもこうしてはてな見て書き込みできる環境と思ってることをタイピングなりフリック入力なりで書き起こせる脳みそがあるだけでかなりスゲーぞ。犯罪もやってない、こうしてネットに平和に書き込みできてる。選ばれし者だ
俺の業種はよくおまえらに批判される。そらもう叩かれる。死ねとかめちゃくちゃ言われる
おまえらみたいなのを保護するために危険から遠ざけようと頑張ってるのにまーー叩かれる
こんなDQNがいた、こんな大バカがいた、って体験談は「そんな珍獣が世の中にいるわけがないから嘘松!」って一蹴される
いるんだけどな。うじゃうじゃうじゃうじゃ
なんか書いててむなしくなってきた。疲れた……寝るわ……
カフェの曲を聴くと初回はとりあえずボロ泣きするんだけど、今回も例にもれなかった。
特に担当でもなんでもないが、とにかくカフェはその存在が涙腺ぶっ壊してくる。
幼少期から高校生くらいまで、周囲から神童として扱われていた。
この時のことはうまく言語化できない、おそらく言語での思考をしていなかったんだと思う。獣と一緒。
いや、見てるものとかは全部一緒だけど、受け取り方にズレがあって、入力は一緒なのに出力が大幅にズレていた。
他人の存在を理解していなかったような気がする。病院行ったらなんか病名付くのかもしれない。
神童というかただのキチガイだということに周囲が気付いたのが高校二年生のときだった。夏休み。
まあすごかったよね。一夜にして神童からキチガイ扱いだよ、特に両親からは化物扱いだった。
何があったのかの詳細はまだ思い出せないんだけど、キチガイがキチガイ理論でなにかしたのは間違いない。
そこから色々10年以上頑張って、なんとか一般人のボーダー一番下に引っかかってるくらいになったけど、やっぱりちょっとズレがある。
ズレていることを自覚しつつ、一般的な反応を覚えている最中。親からはまだ化物として扱われる。
基本的に役者が日本語喋ってる限りにおいてしか判断できなくないですか?
「ホテルビーナス」っていう、邦画なのに全編韓国語で演技させるって演出の映画があるんですよ。そしたら主演の草彅剛や中谷美紀他全員が天才かよってぐらい上手く見えたんすよ。
「デビルマン」っていう、映画かと思ったら大根の博覧会だったって見せ物があるんですよ。そんな中で唯一光ってたのがニュースキャスター役のボブサップなんすよ。英語喋ってるから。
海外の子役、どいつもこいつも神童かと。演技観ててストレス感じた事が殆どない。
「スタンド・バイ・ミー」とか「IT(2017)」とか「ストレンジャー・シングス」とか最高に好きなんだけど、あれを日本の子役が演技したらツライなーと思う。
言葉が分かってしまったら彼らの下手さに気付いてしまうんだろうな。魔法が解けてしまうんだろうな。
でも、逆に言うと、英語がわからん僕はブラピが神と崇めるゲイリー・オールドマンの偉大さを100%味わえてないわけですよ。それは勿体ねぇなと思う今日この頃です。
:追記
たくさんコメントありがとうございます。おススメの映画も嬉しいです(苦行みたいなラインナップだ…)。
シン・ゴジラの件ですけど「あ、俺でも聴き取れる」と思った時点で彼女の喋る英語は「日本語の演技」として耳が分類しました。
「ホテルビーナス」の場合、韓国語を勉強したことが一切ないので日本人俳優の喋る韓国語がどの程度不自然かわからんのですよね。タモリの形態模写に英語がないのも同じ理由かなと。
インターネットでこんなにコメント貰ったことないので会社でそわそわしちゃいました。
ツイッターで誰にも読まれない駄文をずっと垂れ流してたのですが、作文教室のエントリ読んで自分でも書いてみよかなと思った次第です。教えには何一つ従えて無い気がするけど…
https://anond.hatelabo.jp/20171128171505
:蛇足
あと、僕の神は大竹しのぶさん。
なぜかこう言う話題になると「今時の若い子の画力がすごい」って論調だけど
確かにツールやナレッジの発達である程度の底上げはあるだろうが、正直TwitterやPixiv見る限り"神童"よりもやはり年齢相応な子の方が圧倒的に多いように思う
それよりもやはり海外勢、特に中国の絵師の流入が画力底上げにつながってるように思えてならない、Pixivランキングも中国人無双状態だし、RTされまくった絵描きのプロフ見ても中国人だったとかよくある
これは単純に中国人の人口が多いから上手い人も必然的に多くなってるんだろうと思う、パーセーンテージだと日本も中国も上手い人の割合はそうそう変わらないだろうが絶対数が違う
そして彼らがソシャゲとかに絵を卸すことで俺らの目にもつき、日本人の書く側も負けじとやる気を出して画力向上感が出るんじゃないかってのが俺の考え
他にも色々と要因はあるんだろうけど割愛して、なんでタイトルのような話題になる時このことが無いことのようにされるのか自分の中では疑問
某ミステリー漫画のモデルとなった街に仕事で赴任して1年になる。小学生のころ、親の転勤で4年間暮らして以来、二度目だ。
先日、仕事でかつて通った小学校の前を通った。虐めを受けた過去を思い出した。もう、ドロドロした感情は失せている。
虐めのリーダー格だったY。この街を離れる中1の夏に、仕返しをしようと、小学校時代の連絡網(歳がばれる)で控えた住所へ向かった。そこには、古いアパート。連絡網の号室の部屋のドアを、疲れた表情で帰宅したYの母親が開けるのを見てしまい、シングルマザーであることを悟った。
それを、私は中学の同級生にバラした。Yはその後、疎まれ、高校を中退したことまでは知っている。休日に、何となくその住所へ行ったら更地になっていた。
もう一人、あるスポーツで「神童」と呼ばれたI。隣の席だったので、Yと共謀していろいろとやられた。女子が運動音痴の男子を虐めるのは、いま思うと情けない。
まぁ、神童様が何をやっても見てみぬふりが大人だった。似合わない、ミキハウスの子供服をいつも着てたよ。中学進学で別れて、その後はオリンピック選手とコネが出来たり、中学新記録を叩き出したりと、相変わらず神童扱いだった。
高校進学で、スポーツ留学したのは知っている。そのスポーツで、彼女の名前を聞くことは、進学以降無かった。
なんと無く、勤務先のパートさんに当時の彼女の家のご近所さんがいたから、話をしてみた。虐めの件は話さずに。
進学先に馴染めず、高校で競技を引退。ノイローゼ気味になって、卒業後は実家へ。実家ごと居づらくなって引っ越したらしい。消息不明。現在は、別の方が暮らしているとか。同じく、現地に散歩がてら行ったら、若い家族が暮らしていた。
毒親だったのかと思うと、闇を感じる。シンママの子のYもそうだけど、今となっては、家庭環境から虐めに走ったのは理解する。
それでも、赦す気持ちは20年以上経っても1ミリも浮かばない。仕事柄、親になったと思われる、そいつらの顔を見てみたいと思うが、この街には高確率でいなそうだ。
どちらにしても、早く異動で別の街に行きたい。
非常にデリケートな内容なのでこちらに書こう。私はタイトル通り元々バカであったと思われるが小中学校時代神童と言われたばかりに最近まで馬鹿であると気づかなかったのだ。私は中学生くらいから周囲から実は馬鹿じゃないかと思われていたが当時私は「まさか↑〜(死亡フラグ)もうちょっと別の原因だろ〜」という認識であった。しかしその後も特に成績が上がることもなくむしろ頭の回転が遅いのでは?ととうとう自分も疑い始めたのだ。それから3ヶ月くらいして私はバカであるととうとう確信したのだ。
この御時世少なからぬコミュニティーがXXX(字数伏せ)しかねない。
ところでバカなオタクはヤンキーと仲が良いというステレオタイプがあるようだが私の場合関係は1、2名を除き最悪であるかほぼ交流がない。今後も特に深入りする考えはない。
つい最近「おばあちゃんに似た脳なんじゃない」と言われた。唯一、私の祖母という続柄の者は両方共大学入試自体を経験しておらず昔はそれぞれ釘を上向きに打ちつけた板を学習机においたり怒りっぽかったりなどしたようだが私に限れば特に悪い印象はなかっただけに二重の意味でショックだった。真意の程を聞けばまたショックを受けるだろうから幻聴であることを願い脳の雑多な記録の彼方に忘れたい。
今井絵理子の不倫が叩かれているけど、橋本市議は地元では英雄扱いされているという現実を、はてな民や東京のメディア関係者は理解できないのだろうか。今井も橋本もどことなく対応がまずいのは、なぜ叩かれているのか彼ら自身も腑に落ちていないからという面も大きい。
橋本市議は神戸出身だ。神戸というと、おしゃれな港町、横浜みなとみらいみたいなものを想像する人が多いが、実態はただの寂れゆく地方都市に過ぎない。しかも、橋本は西区という田舎出身だ。橋本の育った西神ニュータウンは、もはやニュータウンじゃなくて、高齢化の進んだオールドタウンになっている。
神戸において、橋本の出た長田高校は最高の学歴だ。公立ナンバーワンの高校だ。
東京の人はほとんど知らないだろう。せいぜい高校野球マニアが、「そういえば21世紀枠で出場してたなあ」ぐらいの感想を持つに過ぎない。神戸の高校で誰でも知っているのは、灘ぐらいだと思う。
だが、地方都市でありがちだが、地元では「長田>>>>>>>灘」という扱いだ。灘に行く子は、勉強ができるだけだが、長田に行く子は文武両道で全てが完璧にできると評価される。子どもが長田に行くとそれだけで一生親がドヤ顔する世界である。
しかも、その後京大か阪大といった国立に行くことが至上とされており、橋本はそれも成し遂げた。もはや橋本は神戸では学歴面で神のようにあがめられる神童という扱いなのだ。東京の人からすると笑っちゃう価値観だが、神戸ではそうなっている。
東京にいると、歯医者はそこまで評価されない。数が多く、歯学部に入るのが簡単なのは周知の事実だし、医者に行く頭がなかった残念な人扱いされることもあるぐらいだ。(実際、入〇優というアイドル崩れでも入れた。)
だが、神戸(を含む地方都市)では違う。歯医者は医者と同等なのだ。そして、他の職業よりも一段高いところにいるとされている。
神戸の価値観では、「医学部>歯学部>>>>>>>>>>東大の医学部以外の学部」となる。
東大や京大は歯学部がないことから、大阪大学の歯学部は最上になる。
息子を阪大歯学部に入れたお母さんが、東大卒官僚や慶應卒外資金融勤務にマウンティングするような世界観なのである。
東京にいると、「〇〇がテレビに出てる〇〇と昔付き合ってた」という話はたまに聞くことがあるだろう。だが、神戸では、テレビに出ている人を食うということは、天下をとったのも同然である。テレビの中の人というのは天上人なのである。それを食ったということは、賞賛されることはあっても非難される言われはないのである。
今回の件は、最高の経歴と最高の職に就く地元のイケメンが、アイドルを食うという立身出世を成し遂げた大成功物語なのである。
英雄橋本は逆に名を挙げたので、次の次の衆院選か参院選で国政に出てくるだろし、当選する。
その道の人が喉から手が出る程欲しがる賞なんかも受賞して、
傍から見ると画家として順風満帆な人生を送ってきたように見えると思う。
戦争で家が燃え盛る中、貴重品には目もくれず画材だけ持って逃げたり、
駆け出しの頃余裕のなさからちょくちょくヒステリーを起こしたりとか、
そのせいでうちの家系はアート関係の仕事に対して風当たりが強い。
父が美大ではない一般の大学を出、一般企業にサラリーマンとして就職した際は
孫の私は小さい頃よく祖父の家に預けられていた。
(私も祖父も都内住みなので、母が忙しい時、面倒を見てもらっていた)
父が幼かった頃はまだ生活に余裕がなく、祖父が子供の面倒を見る事はなかったが、
絵が売れるようになってからできた孫の私の事はかなり可愛がってくれた。
祖父は私にお古の画材をくれ、好きに絵を描いていいと言ってくれた。
幼稚園児の絵なんてプロの目から見なくても下手くそだし、祖父から絵を褒められた事は一度もない。
それでも下手な絵を量産し続ける私を見る祖父の目がとても優しかったのは覚えている。
やがて私は外で鬼ごっこをするよりも絵を描く方が楽しいと思うような子供に育った。
放課後はその事一緒にスケッチブックを持って公園に絵を描きに行くのが定番のコースになった。
小学生の頃、近所のお絵かき教室に行きたいと何度頼んでも全部無視された。
でもテレビでみかけた新体操の選手を見て一言可愛いと言った次の日には新体操の教室を探してきてくれた。
数学が苦手だとぼやいたらすぐにそろばん教室に行かないかと勧められた。
家族は私が絵を描く事以外に興味を持ってほしかったのだと思う。
一回だけ口を滑らせて「美大とか美術系専門学校に行きたい」と言ってしまった事がある。
父は大激怒、あんな鬼のような形相をした父親を見たのは後にも先にもあの時だけだ。
「お前に祖父のような才能はない」
「美大に行くような奴はそれしか生き方を知らないろくでなしだけだ」
「お前は絵の為だけに人生を棒に振れるのか、そうとは思えない」という電話がかかってきた。
でも「美大楽しそう」は中学に入ったばかりの小娘の言葉だったのだ。
隠れてノートに絵を描いてはいたものの、普通の大学に入って普通にOLとして就職をする道を選んだ。
それでも社会人になっても絵を描きたい欲が抑えきれず画塾に通い始めた。
この頃になるともうこれから芸術の道に進む事はないだろうと安心したのか、家族から白い眼で見られる事もなくなったし、
祖父のコネでもらった展覧会のチケットも興味があるのなら、とくれるようになっていた。
画塾に通い始めた事も「社会人になって趣味を持つのは大事な事」と肯定的な目で見てくれるようになって、少し認められた気がして嬉しくなった。
ただ一言「お前、絵描くの好きだったんだな、知らなかった」と言われるまでは。
あぁ、幼稚園・小学生の頃あんなにお絵描き教室に行きたいと頼み込んだの覚えていないんだ。
後、大学で一人暮らしを始めてから同人漫画も描き始めた。もちろん家族には言っていないけど。
同人イベントで金銭のやり取りをするようになってから、絵一本で祖母、父、そして父の妹を食わせ、大学まで行かせた祖父のすごさを再認した。
親戚が私に才能がないと言った気持ちもわかる。私は祖父になれなかった。なろうとする事すらおごましい。
でもこの趣味で出会った友人達には美大とかアート系の専門学校に通っていた人も多くて、やっぱり羨ましくなってしまう。
そしてその人達のほとんどは家族の言う「芸術の道に進むしか能がないろくでなし」ばかりではないし、
卒業後普通のOLとして社会人をやっていけている人にもたくさん出会った。
祖父が自営業の画家として生計を立てていたように、フリーランスとしてやっている人もいる。
何より皆、人より絵を描くのが得意な「社会常識のある普通の人」だったのだ。
美術を専攻するとOLという道は閉ざされるから絶対に稼げないという親戚の言葉は
嘘だった。
そして思ってしまうのだ。
正直言ってしまうと同人誌はそこそこ売れているので、私に絵の才能が全くなかった訳ではないと思う。
もし美大に行けてたら…祖父の様に専業画家として大成功する事は無理でも、デザイン系のOLとかで生活できる程度に稼ぐ事はできていたのかな…と。
甘い考えだってのはわかっているけれども。
父の口癖はこうだった。
「本当に何かをやりたい人はどんなに反対されても勝手にやる。祖父は家が燃え盛る中、泣きながら画材を持ちだして死にかけた。手塚治虫は戦争中、絵の具がなかったから自分の血で絵を描いた。芸術の道に進むというのはそういう事だ。」
きっとそうなのだ。
私が本当に美大に行きたかったのなら、親戚中に反対された中学の時点で家出でもすればよかったのだ。
バイトをできる年齢になったらお金を貯めて、学費は自分で賄えばよかったのだ。
そうしなかったのは心の底から美大に行きたいと思っていなかったからなのかもしれない。
ないとは思うけど、明日北朝鮮のミサイルが東京に降ってきたら、私は真っ先に通帳とか印鑑とかを持って逃げると思う。
そして、足腰が弱ってあまり歩けなくなってしまった祖父は、それでも若かった頃と同じようにパニクりながらカンバスと絵の具を持って避難するだろう。
そういうところなのだ、親戚が「芸術家はろくでなしだ」と言うのは。
明日のおまんまがなくなって、家族全員打ちひしがれていても、スケッチブックが燃えなかった事を泣いて喜ぶような人だから。
本物のミサイルなんてそうそう見れるもんじゃないと喜び勇んでスケッチを始めるかもしれない。
因みによく一緒に公園へスケッチに行ってくれた幼馴染は高校から画塾に通う事を許され、無事美大に合格。卒業後は有名なゲーム会社に就職した。
彼女がものすごい努力をしていたのを私は知っているし、就職の報せを聞いて私も嬉しかった。
でも北朝鮮のミサイルに対して彼女はどういう行動をとるだろうか?
私が趣味の世界で出会ったデザイン系の仕事に就いている人達は?
紙と鉛筆を持って逃げるだろうか?
幼馴染とは今でも仲がいい。
同人活動を通じてできた友人の中にはジャンルが変わっても付き合ってくれ、一緒に旅行に行くような仲の人もできた。
積極的に美大とか専門の話はしないけれども、そういう話題になっても自分の知らない世界の話を聞くのは単純に楽しいし、新刊のネタになるかもとワクワクすることもある。
でも嫉妬心を全く覚えないと言ったら嘘になる。
日本が火の海になった中で、紙と鉛筆でなくて通帳と印鑑を持って避難するような人だったとしても、彼女達が美大進学を許された特権階級である事は変わりないのだ。
一時期このもやもや感から逃れたくて、絵を描く事を伴わない趣味を探した事がある。
スポーツをしてみたり、美味しいご飯屋さんを探してみたり。
このスポーツ団の制服が可愛いから模写したいとか、肉の「照り」の部分を絵の具でどう表現しようかとか気付くと考えてしまっていたけれども、頑張って思考の外に追い出していた。
お気に入りだったのが音大出身で抜群の歌唱力を売りにしている子。
彼の美しい歌声に乗った異国の言葉は心地よくて、生まれて初めて海外アーティストの曲を買った。
ある日、彼が番組の企画でファンの為にイラスト色紙を書いてくれる事になった。
その日の彼は機嫌が良かったのか、普段はあまりしないプライベートな話をしながら色紙を書いてくれた。
小さい頃から歌う事が好きだった事。
歌手を目指し挫折した経験を持つ母が、音大に合格した時泣いて喜んでくれた事。
色紙を書き終えた彼はそれを満足そうにカメラに見せ、言葉をつづけた。
「歌も好きだけど…絵を描く事も好きです。上手くはないけどね。僕の従姉妹がこの絵を見たら笑ってしまうかも、彼女は美術大学に通っているんだ。」
頭を鈍器で殴られたような感覚がした。
今までアイドルと言うのは自分とは全く別の世界に住んでいる人間だと思っていた。
この世に存在しないくらい見た目が美しくて、スタイルが良くて、歌やダンスが上手で。
だからどんなにイケメンのアイドルを見てもこんな人と付き合いたいとか、
どんな美人アイドルを見てもこんな風に美しい女性になりたいとか、そういう気持ちが湧いてきた事はなかった。
特に彼は外国人だったので、そうした傾向が強かったんだと思う。
でも彼の口から「美術大学」という言葉がでてきた瞬間、一気に身近な存在になってしまった気がした。もちろん悪い意味で。
音楽も芸術だという当たり前の事を思い出し、生まれて初めてアイドルに対して悔しいという気持ちが湧いてきてしまった。
彼は芸術家になる事を親から応援されてきたんだ。従姉妹さんも美大に通っているという事は、きっと一族の大半が協力的なんだろう。
美大に行きたいという言葉を発した時に、罵詈雑言を浴びせられるのではなく、彼の母親の様に応援してほしかった。
彼が歌うのが好きだと気付いた母が、彼を合唱団に入れてくれたように、お絵かき教室に行きたいとせがんだ私の事を父に認めてほしかった。
お絵描き教室が駄目なら新体操も駄目だろうと思って発した言葉だったのに、すぐに新体操の教室を探してきてくれた親に対してショックを覚えたんだ。
美大コンプレックスから離れる為に始めた趣味だったのに、またもや同じ気持ちを味わったあの日、結局このコンプレックスはどこに行ってもついてくるんだなという絶望感を覚えた。
もちろん、高校から画塾に通って美大進学をした幼馴染、趣味を通じて知り合った美大出身の友達。
皆親を説得するために苦労をしたんだと思っている。
そしてただでさえ狭き門である芸術系の就職活動を成功させる為に、
血反吐を吐く様な努力をして作品ポートフォリオを作り上げたんだろう。
きっと私には想像もつかないような辛い道のりだったに違いない。
大好きなアイドルと彼の従姉妹だって、日本よりさらに厳しい学歴社会と言われる韓国で音大・美大進学を決めるのには相当な覚悟があったはずだ。
音大に合格して彼の母が泣いたのだって、その一悶着があったからという事もあるかもしれない。
でも。本当に悪いけど。その内誰だって祖父のレベルに達しているとは思えない。
祖父が彼女達と同じ年齢だった頃に描いた絵を見ると、素人目から見ても月とすっぽんの差がある。祖父の様な天才じゃなくても美大に行かせてもらえる彼女達。特に幼馴染は「本当は美大に行きたかった母親が大賛成」してくれて、祖父の様な絵に対する執着心もないのにすんなり画塾に通わせてもらえて、本当に羨ましかった。
家出なんかしなくたって、絵の具の代わりに血を使わなくたって、北朝鮮のミサイルが降り注ぐ中、愛用の画材を泣きながら探し回らなくたって。
もしかしたら、私にも美大に行かせてくれと説得できたのかもしれない。
彼女達が本当に羨ましい。泣くほど羨ましい。
祖父の様に絵を描く事しかできないわけでもなく、(少なくともデザイン系OLをやれる程度のコミュ力はあって)、でも祖父の様な並外れた才能があるわけでもない彼女達が
祖父が天才じゃなければ。数回頭を下げただけで私も美大に行かせてもらえたかもしれないのに。
祖父の事は聞かれない限り他人に話してはいない。父の職業ならまだしも祖父の事を聞かれる事は稀だし、自分から言いふらすような事でもない。
でもごくたまにある。お祖父ちゃんは何をしている人なの?と聞かれる事が。
そして答えると大抵「だから増田さんも絵が上手いんだね!」と返ってくる。
(もちろんお世辞だ。私は下手ではないと思っているけれども、上手くもないと思う。ただ、そういう仕事をしていない限り社会人になってまで絵を描いている人は案外少なく、相対的にそう見えるだけだ)
絵を描く楽しさを教えてくれたのは祖父。
お金にならないのに、今まで絵を描き続けてこれた情熱を持てたのも、祖父の遺伝なのかもしれない。
でもそれを仕事にしなかったのも間接的には祖父が関わっている。
そして何より、私には祖父ほどの才能がなかったのだ。
「あんた昔将棋上手かったじゃない。あのまま続けていれば強かったかもしれないのに……」
昔上手かったってなに基準?(将棋のルールも知らない)家族内で一番強かったあたり?趣味の将棋指しおっちゃんに接待で勝たせてもらったあたり?もうちょっと書き連ねられればよかっただろうけどそれくらいしか思い付かないよばか!
せめて小学生大会とかに出場させてから言えよ。教本もノータッチなんだぞ。神童なら学ばなくても勝手に育つとか信じているのか、信じていてもいいけど手前らの遺伝子で神童が出てくるとおもっているのかあほたんちん。
そういえば水泳とか野球でも同じこと言われたなぁ。習わせてもらっていたのには感謝するけども常に結果を求められるのがしんどくてやめたんだよ。趣味でまた始めたけどくそ楽しいぞ。筋トレ以上の意味あるの?って顔されたけどな!
あー早く家出てぇ。
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。
目次 [非表示]
1 歴史
2 伽藍
3 黄不動
4 文化財
4.2 国宝
4.3 重要文化財
4.4 その他
5 御詠歌
7 交通
8 周辺
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者。藩校弘道館の教諭。外務卿、内務大臣を務めた副島種臣は実弟。本名は経種。贈従四位。佐賀の尊皇派の中心的存在。
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1 経歴
2 影響
4 関連項目
5 参考資料
経歴[編集]
佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。
早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である『葉隠』をも否定したといわれる。
26歳で帰郷してからは弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟からは実弟の副島種臣のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀の吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。
1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身も罹患し、死去。享年41。墓所は佐賀市本庄町の高伝寺。
影響[編集]
神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備に活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制は副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。
多分、ネットで何万回と繰り返されてきた話。
毎日、ネットで誰かを攻撃して留飲をさげるだけの人生を送っている。自殺したいが、する勇気もない。
小学校と中学校では「神童」と呼ばれた。勉強はほとんどした記憶がない。でもテストではいつもほぼ満点だった。クラスの他の奴が100点を取れない理由が、当時は本気で理解できなかった。
高校は県内一の進学校に行く事にした。さすがに塾には通ったが、似たような問題を反復練習して精度を上げるだけだった。入試問題はあっけない程に簡単で、合格通知が届いても特に感慨もなく、淡々と入学手続きを済ませた。
私はこんなだったが、両親、特に母親は喜んでくれた。両親は2人とも学がなく、特に母親は小学校すら満足に通っていない。私が幼い頃から、「人の2倍給料が欲しいなら、人の2倍働くしかない」が両親の口癖だった。
おかげで物心ついた頃にはいつも家にひとりでいた。両親は昼も夜も働いていた。土日も働いていた。たまに日曜日の晩に家族揃って晩御飯が食べられる時があるが、私はそれが何よりも楽しみだった。
そんな母親だから、高校に合格した時には、ご近所に「○○高校になんとか受かりまして…。」と吹聴しまくっていた。私はそれが大層恥ずかしかったが、母にとっては自慢の息子だったのだろう、私が「あまり自慢するのはやめてくれ」とせがんでも、静かになる様子は一向になかった。
だが、テンプレ通り、私は高校でアッサリと堕落する。周囲は本物の天才揃いで、しかも努力家が圧倒的多数だった。他校の授業は受けた事がないので一概に比較もできないが、通っていた高校の授業内容もかなり独特だったらしく、授業はかなりハードだった。
中学までの学習貯金はアッサリ底をつき、1学期の中間テストで壊滅的な点数を取った時、自分は選ばれた人間ではない事を知った。
そこからは早かった。学校には出席日数ギリギリしか通わず、あとはバイト三昧の学生生活だった。バイトで稼いだカネはほとんどゲーセンで使った。高校までロクに遊びを知らなかった人間が「遊び」にハマった時の行動は極端で、学校よりも自宅よりも、駅前のゲーセンにいる時間の方が長かった。
さすがにこれじゃいかんと高校3年の時に慌てて勉強を始めたが、当然の事ながら宮廷だの地底だのといった大学には引っかかる事もなく、東京の某大に受かるのが精一杯だった。
この時に何か思うところがあれば、私は変われていたのだろう。だが皆さんのご想像通り、私は変わることができなかった。だからこんな文章をダラダラとタイプしている。
大学に入ると、当然一人暮らしになる。東京の大学に入ったんだから、当然そうなる。私のような人間が一人暮らしをするとどうなるか。答えは簡単だ。大学に行かなくなる。
起きたらバイトかゲーセン、大学に行くのはたまにである。その「たまに」が起こって大学に行ったとしても、サークル棟の奴らとダベって終わりである。単位は3つぐらいしか取ってないんじゃないだろか。結局、大学は1年休学した後に辞めた。
大学を辞める時、母親に連絡しようか迷った。私は休学している事も告げず、毎月毎月仕送りを受け取り、盆も正月も帰らなかった。休学中も仕送りを受け取るのは心苦しかったが、都会の誘惑に負けた。しかし、さすがに大学を辞めるとなると連絡をしない訳にもいかない。
「もしもし?俺だけど、働くことにした。」
「今までありがとう。」
正直、会話の内容はあまり覚えていない。嘘と見栄と虚飾で糊塗した言葉をひたすら吐き出して、仕送りはもういいと言って一方的に電話を切ったような記憶しか残っていない。
大学を辞めても、特に何も変わらなかった。休学中から特にやる事も変わらず、バイトとゲーセンに通うだけの人生。
いつしか、インターネットで誰かを攻撃する時間が増えた。会った事もない、話したこともない、顔も知らない人間が、twitterで失言する。ブログで炎上する。そんな人間を、自宅のPCから延々と責めたてる時間が増えた。「叩いてもいい」人間が目の前にいて、圧倒的正しさをもって思う存分叩ける。叩いている時は快感だった。自分が正義の執行者であることに酔った。当初は目についた炎上案件を叩いていたが、叩く対象を探すようになり、失言・文句・暴言・呪詛をすすんで検索するようになった。
見つけた後は、すぐに騒ぎ立てずに、対象の個人情報収集にはげんだ。twitter、facebookなどの交友関係から年齢や地元を割り出し、実家の写真などをgoogleマップでキャプチャする。twitterなら鍵垢になってもいいようにフォローも飛ばす。フォローされやすいように、常時40個前後のアカウントを管理していた。様々な大学、企業、趣味嗜好についてのアカウントを作成し、1日1回はアカウントに沿った内容で何か呟く。そうやって「育てた」アカウントを対象に滑り込ませ、まんまとフォローされてから炎上→鍵付きとなったアカウントの情報をキャプチャで取得し、ネットに拡散する瞬間には無上の快感があった。
そんな生活も2年近く続けてきたある日、実家から荷物が届いた。食べ物だった。段ボールの蓋だけ開けて放置していたが、翌日に母親から電話がかかってきた。「ご飯は食べているか」「元気でやっているか」「たまには帰って来いよ」基本的に母親の電話上の発言はこの3パターンしかない。なのでいつもは会話もそこそこに電話を切るのだが、この日の母親は違っていた。いつも通りの居心地が悪くなる会話を終わらせようとすると、ふいに
「食べ物だけじゃなくて、少しお金も入れといたから、たまには彼女とおいしいものを食べてね。」
「いつ帰ってきてもいいんだからね」
母親から電話を切ったのは、今のところ、この時が最初で最後だ。
すぐに箱の中身を確認すると、底の方に封筒が入っていた。中には20万円入っていた。
私は封筒を握りしめて嗚咽した。何もしていない、何もしていない、何もしていない。なんの努力もせずに、ダラダラと時間を無駄に過ごし、他人を攻撃ばかりしている。こんな何もしていない人間に、生きている価値があるのだろうか。これから何かを成し遂げる気概があるのだろうか。
消えてしまいたい。そう思ったが、自殺する勇気もない。だいたい、自殺できる人間は「自殺する」と強く願って成就しており、私のようにネットでダラダラと「死にたい」「自殺したい」と言っている人間は自殺しない。
高校の頃に交通事故か何かで死んでおけば、将来有望な若い命として、両親に多額のカネを残すことができた。「惜しい人を亡くした」と皆に同情してもらえた。ところが今はどうだ。今死んだところで、正社員でもない、学歴もない、才能もない。葬式を開いても誰も来ない。働きもせず、ネットで誰かをいびり、母親にお情けの仕送りを送ってもらう。そんな人生になんの意味がある?
特にオチもないが、私の自分語りはこれでおしまいである。荷物が届いたのが数日前、それからバイトに行く元気もなく、体調不良と言って休んでいる。遠からずクビになるだろう。
できれば私はどうするべきなのか、教えてほしい。
追記:cj3029412 様、idコールするのも恥ずかしいので追記にて失礼します。食事のお誘い、本当にありがとうございます。インターネットの優しさを感じました。しかしながら、GWは実家に帰り、両親と今後についてきちんと会話する事になりました。まだ何もしていませんが、少しだけ前に進めたような気がします。これもcj3029412様、トラバ、ブコメを頂いた方々のおかげと思っております。ありがとうございました。
週末の借金玉氏(id:syakkin_dama)のエントリやそれを受けて書かれたわかり手氏(id:ganbarezinrui)のエントリ、http://anond.hatelabo.jp/20170227005158 あたりのブコメとか読んでいて、随分と世知辛いねえ、と思ったのだけれど、良い場所が無いので増田にこれを書いている。たぶん超長い。
俺はタイトルに書いてあるようにADHD(診断済み)だ。典型的な注意欠陥・多動性が認められ、一方でASDの症状はゼロという純正ADHDマンである。なので先のお二方のエントリは全力で泣きながら、共感しすぎてヘドバン状態で読んだ。でもわからない人には何が「なので」なのか本気でわからないんだと思うし、それで正常なんだろうということも理解している。
んで、一般的なIT関連の企業で管理職をやっている。それなりに多様な部下もいる。業界的にブラックな香りがするWeb開発関連の仕事だけれど、自慢じゃないがだいたいニコニコ定時上がり、サブロク遵守、月間平均時間外は毎月20時間以内に抑えることに成功しているスーパーホワイト課である。一点ウソついた。これは自慢である。
俺はこういう属性の人間なので、自分自身のことを照らし合わせて借金玉氏の主張は痛いほどわかるし、このような性質の人がいることを十分に評価、理解した上で全体的な労働条件の改善に努めたいと日々考えている。残業含め労働時間は減らしていきたいとも思うし、人の個性や多様性への対応と労働条件の改善は両立し得ると信じているので、ADHDの人のぼやきをイコール残業問題に結びつけて批判するのはあまりに極論に過ぎるというか、違和感を感じてしまう。皆がそれぞれのフレンズのすごいところを理解し合えるやさしい世界になれば良いのに。
そもそも、俺なんかは借金玉氏の記事を読んで「お前は俺か」状態になる性質であるものの、何とか自分を飼いならして社会をサバイブできている時点で生物として人より劣っているとは思っていないし、仕事も(やり方やプロセスにクセはあるのかもしれないが)たぶん人並みにはできる。つまり、おそらく自分は弱者ではないし、どちらかと言うと強者の側に所属していると認識している。id:p_shirokuma先生的に言えば「よく発達した発達障害」ということになるのだろう。もっともADHDと言っても程度の違いがあるのかもしれないし、ただ単に俺は運が良かっただけなのかもしれない。普通の人だって大小あれど皆それぞれモチベーションのムラとかはあるわけで、ブコメに付いた「ADHDマン=無能」、「世の中は正常と異常の二者択一」、「席を空けて退場するべし」みたいな言説を見るとヤバさしか感じないし日本大丈夫か?と思う。こういう「性質」の人が少なからずいることを正しく理解した上で適材適所の人材活用を目指すべきだし、だいたいからして発達「障害」という言葉自体が良くないんじゃなかろうかと思わざるを得ない。
自分語りが目的ではないのであくまでモデルケースとして。ちなみに年は先の方々よりたぶんちょい上くらい。
端的に言って俺は相当に運が良く、理解者のおかげで生きていられる。上司は何度も変わっているが、往々にしておもしろ重視の管理者とは相性が良く、労働集約型のマネジメントをするタイプの管理者とは相性が悪かった。
で、自分自身がこういう人間なので、定時内にピークタイムを持ってくることができない問題についてはフレキシブルに対応したいと考えている。
今後ありたい姿を考える前提として、俺の職場は現状こんなふうになっている。
基本は定時勤務だが、企画関連などの職務については裁量労働制も存在している。とは言え、裁量労働は会社側の論理で不当労働の温床になりがちなので、ホワイト企業的には定時勤務できちんとタイムマネジメントして、時間外が出たら残業代はきちんと払うよ、という当たり前の考え方を推進している。
ただし、職種的に均等な業務が苦手な人もいるので、カミングアウトしている人については個別対応もあり得る。当然ながら他のメンバーから「なんであいつ日中フリーズしてんの」みたいな白い目で見られると職場の雰囲気が悪くなるし、本人の健康管理の問題もあるので十分な配慮と周囲の理解も必要。
先述の記事のブコメにもあったけど、多種多様な人材を活用して成果を最大化するのはマネジメントの責任だ。「9時17時で時計刻みに動けない奴は居ね」っていうのもマネジメント手法のひとつかも知らんが、少なくとも俺んとこはそういうふうにはしたくないと強く願う、つーか俺自身が生き残れない。んで、職場のスロースターターにはこんなふうに対応している。
自分の担当にもちょっと該当しそうなメンバーがいるのでこんな感じでやってるけど、今のところまあまあうまく回っている。むしろ一番の問題は自分なわけなんだが、時間外付かないマネージャーなんで帰れないときがあっても勘弁してつかあさい。「マネージャーがいると帰りづらい……」ってことなら考えるけどウチのメンバーは俺がいても定時で容赦なく上がるので今んとこたぶん大丈夫。まあ、「あの無能上司、昼間フリーズしてて何もしてない……」と言われるとダメなやつなので、そうならないように自分自身も努力しなきゃならないけど、ある意味俺にとっての最大の生存戦略が「自分自身が管理者になる」だったかもしれないな。※もちろん、帰れる時は率先して帰ってるよ。
書いて読み返してみると、自分にとってはすごく一般的で普通のことしか書いてない気がするんだけど、先のホッテントリを見てて世間一般的に普通なのかどうかちょっと自信が無くなった。
よくスロースターターに対して「仕事は定型化するべし」「ルーチンで行動するべし」なんてアドバイスをするライフハックを見かけるんだが、本当の本気で大真面目にそれが体質的にできない人ってのがいるのよ。そして、そういう人がみんな無能かっていうと決してそんなことは無くて、そういう人が画期的なアイデアを出してきたり、ブレイクスルーを行うような機会ってのは実際に、ある。業務の種類や内容によっても正解は異なる。
繰り返すけど、出力にムラがあるなんてのは程度問題であって誰かしらあると思うんだよ。もちろん、定常定時に常に安定して均等なパフォーマンスを出せる人を尊敬するし、評価も高くなることに疑いは無い。でも「無能滅ぶべし」「健常者だけ揃えれば万事解決」みたいなことを言ってる人たち、本気か?はてなでそこそこホッテントリ取ってるブロガーでも「生産性の低さを一生懸命努力でカバーするのは結構だが、出来れば職場の外でやって頂きたい。」なんてツイートしてたりする人がいて、なんつーかこう地獄感しかない。
そりゃあ、安定マンのみでチームを構成できればラッキーかもしれんけど、世の中そううまくはいかないよ。どこも人材不足だ、いろんな人がいて、いろんな個性と悩みがあって、いろんな仕組みがあってその中で一番いいパフォーマンスと一番いい労働条件の両立を目指しましょうね、がマトモな議論なんじゃないのか。残業については言っていることはたぶん普通の人と同じだ。ただ、理解を深めて個人別最適な対応ができるようにしたいですね、長期的視点で皆にチャンスがあるようにしたいねと言っている。
何もポリコレ棒を持ち出してくるまでもなく、何も皆が必ず同じ時間軸評価軸で同じ定型定性で判断されるような職場がハッピーなわけではないし、単純に、多様性を認めない職場で働くのは俺は嫌だし、多様性を認めるための努力は惜しみたくないと考えている。けものは居てものけものはいないんだぜ。
そんな感じ。