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2024-07-15

逃げ上手の若君 原作ネタバレ

北条時行9歳 足利尊氏に攻め入られ、父と親族ら数百人が自害or虐殺。一人だけ逃げ延び、信濃諏訪氏に匿われる

10歳 北条の残党など5万騎を従えて鎌倉に帰還、「中先代の乱」によって足利直義勝利鎌倉奪還。

   わず20日足利尊氏鎌倉を奪われる。

   その際に時行を擁護していた諏訪頼重らが自害集団心中した遺体らは「先祖に顔向けできない」として自ら顔の皮を剝いでおり、その中の死体の一つが時行とされたが、実際には別の子供だった。

11歳 足利尊氏後醍醐天皇が決裂、尊氏光明天皇を立て、南北朝時代へ。

   時行は南朝後醍醐天皇につき、父や親族らが後醍醐天皇のもとで死んだ件について父の自業自得であるとの文書を送る。

12歳 南朝公卿北畠顕家を味方にし、再び鎌倉に帰還、「杉本城の戦い」によって足利家長を討ち鎌倉奪還。

   翌月の「般若坂の戦い」で形勢逆転し敗走。

   数か月後の「石津の戦い」で北畠顕家が死亡。時行はしばらく消息が途絶える。

   信濃には「時行が巫女にお手付けして子を産ませた」と称する時行の末裔が多くおり、事実であれば失踪時期に大量に子を作っている。

   一説では伊勢暮らしていたともいう。

16歳 後醍醐天皇が病没。次は後村上天皇が継ぐ。

   一説によれば大徳王寺城で小笠原貞宗戦闘

27歳 足利氏で内輪もめ、尊氏執事と弟が争う。

28歳 足利氏が揉めている間に時行が三度目の鎌倉奪還。翌月に足利尊氏に再び奪われる。

   尊氏執事と弟はなんやかんや両方死亡、執事養子である高師冬自害

29歳 鎌倉で捕らえられ龍口刑場で処刑。一説では処刑されたのは影武者で、伊勢に逃げ延びたとされる。

2021-04-08

武家の三代目はその後の運命の分かれ目

平家

平宗盛アホの子源頼政挙兵きっかけを作っちゃった人。こいつのせいで平家は滅亡(出典:平家物語)。

源氏

源実朝政治に興味なし。甥に暗殺され、実質的源氏は滅亡。

北条氏

北条泰時承久の乱勝利幕府の基礎を固める。これで一応鎌倉幕府は安定するが、執権は全員短命に。

足利氏

足利義満…いわずもがなの権力者南北朝統一し、有力な守護大名を押さえ、勘合貿易経済を潤し、息子を天皇の前で元服させる。権力が強すぎたせいで死後幕府は混迷・没落

豊臣氏

豊臣秀頼実質的には二代目。秀次を挟んで三代目。徳川家康が恐れる体格・人格を持つ。右大臣にまで登りつめるも、大坂の陣ではほぼ何もできず豊臣は滅ぼされる。

徳川氏

徳川家光有史以来のキチガイインセル権力を持たせたらどうなるかよーくわかる人物バカインセル刃物権力は持たせてはいけない。

2021-03-26

anond:20210325184411

足利氏とかみたいに土地名前名字になると土着したといえるだろう。

から答えは……。

2021-03-02

元増田の母の子です

このたびはツッコミをくらいまくるようなことを、増田にうっかり書き込んでしまい大変申し訳ありません

ここから卍解するのは難しいと思いますが一応書き添えると

源氏の内輪もめとしては頼朝源平合戦中にも範頼や義経の足を引っ張るような口出しをしたこと

(という記憶があるのだが検索してもいまいち出せない。範頼の九州仕置に掣肘は加えたみたい)

戦後二人を殺したこと念頭にあり、ブコメでも出ていた足利氏兄弟喧嘩戦争中ではないが三代将軍実朝が甥の公暁に斬殺されたこ

など、ある本で平氏覇権時代よりも鎌倉時代初期の方が内乱が激しく朝廷が苦労させられたという記述があったことを意識して書きました

木曽義仲のことはほとんど忘れてました

一致団結した平氏側の範囲としては清盛が優遇した親族連中で考えており

北条氏などは土着勢力判定でした

(考えているうちに本人たちが自分平氏意識していたのかアイデンティティの置き方は気になってきましたが)

ブコメで指摘されている重盛のことは知りませんでした

平平合戦って北条氏政権をとったこから逆算的に言われているだけなんじゃないですか?それって と思ってしまった

勉強不足でした

元増田の母は半年ROMます

anond:20210228182525

2017-05-19

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

 
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