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はてなキーワード: 演繹とは

2017-07-01

https://anond.hatelabo.jp/20170701020502

(1) 結婚目的本質恣意的に設定。

(2) そこから結論演繹

って論法はもう飽きた。結論ありきで目的設定してるだけだろうと。

2017-04-01

熊谷千葉市長「貴方普通じゃない」が物議【男性保育士問題

https://togetter.com/li/1096027

宇野氏の主張を帰納して別のことに演繹すると、例えば

「女はバカから調理場に立つな」「X国人犯罪者から入国禁止

とかになるんだけど、本人はそれを自覚してるのかな。自覚しているとはとても思えないのだけども。

自分がどのような結果を招く言動をしているか自覚がない」いつものパターンだけど。

結局このテのバカフェミの人たちの主張って、ジャイアニズム次元から抜け出せていないんだよね。

というかバカフェミだけじゃないけど、どうして特権の確保を目指そうとしてしまう輩は後を絶たないのかね。

それでは上手くいかないよと歴史証明しているのに。

2017-03-31

菊池誠どうしてこうなった

菊池誠という人がいて、一時はてな論壇においてそれなりの存在感を放っていた。

現在では一山いくらネトウヨおじさん程度にしか認識していない人もいる。もはや過去の人であると断ずる向きもあるだろう。

しかしながら、彼について再考することで、論壇で今も跋扈する科学非科学という対立軸を新たに捉え直す機会を持てる気がする。

というわけで彼の言説とその評価の変遷を追っていきたい。

菊池誠とは何をしていた人なのか。

2000年代後半。ニセ科学批判という社会運動が産声を上げた。

これは、自然科学に関する嘘をエビデンス棍棒で殴打するというシンプルかつ大変に社会的意義のある運動で、その倫理的な正しさからはてな市井で好評を博した。

この運動には様々な人が加わり、皆それぞれの専門分野に関する多種多様な嘘デタラメを殴り倒していた。

また専門分野のない人は、非専門分野に関する言説の妥当性をいか評価すべきかということについて学んでいった。

よくわからんという人はid:NATROM先生がたくさんいたと考えてください。

当時その運動の中心にいたのが菊池誠である

ニセ科学ニセ科学批判

ニセ科学とはなにか。誰が、なぜ吹聴するのか。このあたりは先人の素晴らしいテキストが山程あるのでそちらを参照するのがよい。私も一応書く。

ニセ科学とは自然科学に関する嘘である

ニセ科学批判対象となったニセ科学は多岐にわたる。多岐にわたるがざっくり2つに分ける。

証明されていないことを証明されたと言うか、証明されたことを証明されていないと言うか、である

科学的知見というものは往々にしてひっくり返るので、この宇宙を縛る法則から演繹していった時に実はニセ科学が正しかったということは有り得る話である

しかしながら個人霊感で獲得した宇宙の真理よりも、定められた手続きを踏んで得られた結論宇宙的には間違っていたとしても)の方を評価するというのがニセ科学批判スタンスだ。

ニセ科学主体も様々である

営利企業大学教授特定肩書のない個人的ブログ政党や国そのものである場合もある。

彼らは何故嘘をつくのか。その動機を大きく4つに分ける。経済的利益金銭)・社会的利益名誉)・思想利益党派性)・倫理的利益善意の施し)である

どのニセ科学もこのいずれか、もしくはそれらの組み合わせから生み出されていると分類できるだろう。

例えば近藤誠武田邦彦動機は金と売名だし、安倍晋三下村博文共和党言動党派性の発露であり、有象無象ブログ代替医療他人の癌を根治しようと試みるのは無知に基づく善意による。

ニセ科学批判はこれらの動機や背景を問わずに殴りつける。

ニセ科学批判党派性から最も遠いところにいるとは菊池誠言葉であるが、定義上これは正しい。

また、個々人のレベルで見ればその批判対象選択において党派性が働くこともあるだろうが、運動総体として捉えればそれは働かない。

組織を持たない草の根運動であるため、一貫した思想により運動員を抑えつけるということが原理的に不可能からである

運動自体に対して外部から党派性を見出す人は多々いるが、それは往々にして自身党派性を表明しているに過ぎない。

例えばid:finalventにはニセ科学批判左翼的活動に見えるそうだし、反原発派の中の放射能デマを吹聴するクラスタから当局におもねった保守的運動である批判されている。

ニセ科学は大きくデマという概念内包される。デマの分野を自然科学に絞り、真実性の判定に科学手続きの有無を利用している場合それをニセ科学呼称すると言い換えても良い。

ここからニセ科学批判方法論を他分野のデマの払拭に利用できるのではないかと考えられる。特に人文科学系や社会科学系等の他分野の学問においてはその応用が容易いだろう。

例えば歴史学における歴史修正主義である

ニセ科学人文科学社会科学系のデマとは地続きの問題であり、ニセ科学批判ニセ科学だけを取り扱うのは、単にそれが自らの領分からというだけである

ニセ科学批判参加者自然科学系以外の言説に対して取るべき態度は、専門分野外の自然科学系の言説に対して取るべき態度と同一でなければならない。

そうでない時、その価値判断には先の4つの動機のいずれかが作用しているのである

「えー、じゃあさじゃあさ、なんで菊池さんはネトウヨおじさんなんて扱いを受けるの?だってさ、人が科学事実を前にした時にどういう要因が認知を歪ませるのか、またその考え方は自然科学分野以外でも応用できるってことを誰よりも分かってるはずでしょ?ネトウヨなんてポジショントークが凝り固まって人型を成しているような存在じゃん。おっかしーぜ、それ。一個人党派性から逃れることは出来ないにしても、自覚を持っていてその都度自己補正に努めればそこまで極端なことにはならないでしょ。オレ、納得できないなー」

そうだね、たかし君。じゃあ次の章では菊池誠の言説とその捉えられ方の変遷を時系列に沿って見ていこうか。それから菊池誠言動が本当にいわゆるネトウヨ的な物なのかということもちゃんと検証してみよう。

kikulogとtwitterから見た菊池誠

さて、ここから菊池誠とその周囲の言説を掘り返し、断片的な事実を拾い上げ、時系列を整理し、推論を検証し、STS辺りも総括し、ニセ科学批判史とも絡め、最初テーマに関して結論を出さなければならない。

でもなんか今週入ってから超体調悪くて、鼻は詰まったり止めどなく流れたり、体はとにかく熱っぽくて横になっているのも辛い。

よく考えたら私は菊池誠親族でも知人でも生徒でも何でもないわけで、果たして病体にムチを打ってまでこの駄文執筆に労力を割くべきなのだろうか?ここは潔く挫折する。

でもこのテーマ自体は割と意義があると思うので誰か調べてまとめて書いといて欲しい、個人的にはid:ublftboさんが適任かなと思う。でも多分やらないだろう。面倒くさいし。

(4/2追記)

どうやらこの記事の続きは執筆されないことが確定したため、以下に執筆時の構想諸々を記しあとがきに代えるものとする。

・7年ぶりくらいに菊池先生名前を目にしたら、なんか凄い扱いになっていたので驚いて、矢も盾もたまらなかった。

菊池誠に対する周囲の評価の変化点は2つくらいありそうだと思ってる。震災それから1年以上後。

2009年から現在に至るまで菊池誠ネトウヨおじさんではない。ただ看過できない発言は多々あるし、愛想を尽かす人もいるだろう。これは年を追う毎に悪化しているように見える。今の立ち位置id:hazumaちょっと似てる。

2009年頃と現在で、周囲から投擲される評価は明らかに変質しているわけだけど、それは菊池誠と周囲のどちらかあるいはその両方が変わった/変わっていない結果なのかという大枠の問いがあって、これは菊池誠が変わったというよりは、周囲に今までいなかった(少なかった)人種が現れたからだと思う。

・逆に言うと震災以前にもある種の題材を絡めてその手の人種と邂逅する機会があったら、今よりもっと早くこうなっていたと思う。今の状況はなるべくしてなったと言える。

どうしてこうなったかは意思疎通が上手く行かなかったから。上手く行かない原因は個人でなく構造求めないと仕方ない。専門家と非専門家の間にはクッションが必要になると思うんだけど、IKEAが布にガラス片を詰め込んでこれはクッションですと言い張ったり、あるいはクッションそのものを用意しなかったりするから専門家自身が夜なべしてクッションを作らないといけない。彼らは裁縫専門家ではないので、その出来は個々人の技術によって大きくムラが出る。ところでIKEASTSである

STSとは、何の生産性もなく相対主義ぶって科学者を腐してあてこすりで飯を食ってる人間の屑が集う旗印である、というのがこれまでなんとなく聞いていた印象なんだけど、いくらなんでもそんなものが何十年も学問として存続するわきゃないと思う。思うので、この際ちゃんと調べて、その社会的役割と意義と実際のところを自分の中で明らかにしておきたかった。震災時に(震災時でなくとも)彼らが求められる役割を十分に果たした結果がこれなのか、あるいは十分に果たせなかった結果がこれなのか。またそれはなぜなのか。

・つまり不幸な例であるところの菊池先生の件を足がかりにして、自然科学分野における専門家と非専門家とのディスコミ問題をアレできるんじゃないかと思ったというところが発端です。

ブクマニセ科学批判ってもっとからあったでしょと言う指摘があったんだけど、前出の"ニセ科学批判史とも絡め"というところで今現在ニセ科学批判とされる運動の形はいつごろ成立したのかも調べておきたかった。書籍で探すと、訳語としてニセ科学を当てはめてる物は結構からあるんだけどこれは定義が今と違っていて、今使われている意味でのニセ科学という用語webだと2004年が初出だと思う。ニセ科学批判についてはgoogle先生になんとなく尋ねるレベルでは天羽さんとかid:kamezoさんの2005年位のログしか出てこない。水伝での田崎さんと天羽さんは運動の拡大に大きく貢献したよねとか海外情勢(主に米キリスト教福音派系の)はid:Kumicitさんの忘却からの帰還が強かったとか、ニセ科学批判史は最終的に年表にしたかった。

以上が主観的になんとなく思いついた推論なので、これらを補強あるいは反証する材料を沢山探して、結果何かがまとまる予定だったのだということを言い残したかっただけの年度末だった。

2017-02-26

絵師になれなかった私

「絵も描かずに『神絵師を目指す人々』を描いた漫画破壊力高すぎて大ダメージを受ける人続々」(https://togetter.com/li/1084759)を読んだ。

この手の話は、まとめのコメントにもあるように「とにかく描くこと」という結論に落ち着きやすい。

しかし、当たり前の話だが、こんな結論を知ったところで何も解決しない。これは、受験勉強で「とにかく勉強すること」を解決策とすることと何ら変わりがないのだ。

高い目標を達成するためには、地に足を付けて自分に合った形に目標を設定し直さなければならない。

さらに言えば、達成難易度が高い目標場合攻略法必然的に複雑になる。ここをまず勘違いしてはならない。

以下、私が大学時代実践した方法を示す。

(1)最終目標を明確にする

絵師とは何なのか。ある程度数値化できるレベルに具体化する(「即売会で1000部完売」等)。

しかし、萌え絵死語?)を描きたいという欲求を持った人は、数値的な目標よりも、それを手段とした他者とのコミュニケーションが最終目標とされる場合が多いと感じる。

これでは目標抽象的すぎて具体的な行動に落とし込むのが難しくなる。

その場合目標から演繹的に方法考察するのでなく、具体的な行動指針を逐一検証して積み上げていく戦略を採ることになる。

なお、私はコミケで50部完売目標に設定した。

(2)今の自分確認

自分の現状を把握するために、何か課題を設定しておく。そして、数か月後に同じ課題に取り組む。

この課題はきちんと記録として残しておく。そうすることで自分の成長を確認できる。

私は、「涼宮ハルヒの全身絵を描く」という課題にした。

(3)基本方針

基本的には、メニューを決めて、実践問題点検証の繰り返しである部活でいう筋トレみたいなものである

とにかく、何か決まっていないとだれてしまう。メニューはとにかく負荷の少ないものとする。

継続の負荷をいかに少なく気楽にやれるかである。これが一番難しい。

気持ちで乗り切ろうとするのが一番最悪で、とにかく感情を挟まないように環境を構築するのが良い。

負担負の感情喚起されるパターンをとにかく書き出す。そして、その原因に対する対策を立てる。

対策は、気持ちで乗り切る以外の方法環境構築を基本にする。

(4)私の方針

私は、最初は○(まる)をB5用紙いっぱいに描くというレベルに設定した。これ以上は欲が出てもやらない。翌日も描きたいという欲求を残しておく。

大学入学後、夏休み前まではひたすら絵を描くことに慣れるという抽象的な目標があり、具体的な目標としてB5用紙1枚いっぱいに図形を描いた。

なお、その期間に、好きなイラストレーター漫画家アニメーターについて調べた。自分目標とする、好きな絵柄の方向性をきちんと把握するためである

気に入った人がいたら、その人の資料をとにかく集める。なお、私は冬目景が好きである

そして、夏休み以降は、その好きなイラストをひたすら模写する。

年明けに、毎日模写1枚と自由1枚にし、それをひたすら1年続けた。

(5)情けない結果

結果、約2年で私の画力は飛躍的に上がった。

その後、カラーイラストに嵌っていくのだが、その練習方法論は基本変わらない。

というか、教本が充実しているので、その方法論を具体的なトレーニングメニューに落とし込めば良いので楽だった。

しかし、ある程度描けるようになって気が付いたのだが、私は別に絵を描くことが好きではなかった。

絵を通じてコミュニケーションをするのが目的だった。そして、その目的は、ある程度描けるだけで達成できたのだ。

したがって、ある程度描けるだけで満足してしまった。

あと、美大にいった友人の絵(萌え絵ではない)をみて、ちょっと美術世界の深さに圧倒されてしまった。

から、そこでトレーニングはやめた。

2016-10-29

http://anond.hatelabo.jp/20161028204943

複数思想の集合に対して単一の「正しい」「間違ってる」は命題自体不適切じゃないかな。

その集合が正しいか間違ってるかに関わらず大元書き込み演繹の結果が実際の結果と違うから前提に誤りがあるのだと思う。

2016-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20160920013432

元増田です

結構教育現場(とりわけ授業論)のホットイシューに詳しいですね

教育系の方ですか?

アクティブ・ラーニング」「問題解決学習」「協働学習」など

見栄えの良い授業をするための演繹型授業なのかと。

この点、あれですよね、非常に勢いありますよね、僕はその勢いに乗る気はないんですが

この時代にあって、ALとか問題解決学習とか、聞こえも耳障りも良いと思います

国語教育論の話題から逸れますが、

ALとか問題解決学習って、

コミュニケーションの「発信」に重きを置きすぎていて、「受信」に注意を払ってないんです

コミュニケーション力が大事なのは事実だし、学んだことを共有する場も必要だと思うんですよ、確かに

ただ、正しく「受信」する能力も大切だと思うんです

「発信」と「受信」が相互に噛み合ってこそのコミュニケーションだと思います

ALや問題解決学習だけやってしまうと、「発信」は上手いけど、何にも「受信」できない人間を育ててしまうんじゃないか

という危機感個人的に持っています

誰もかれも「発信」はするけど、それを「受信」してくれる人は誰もいない、ディストピアですら裸足で逃げ出すレベルです

(しかし、この一連の流れは、従前の教育システムが「受信」に偏り過ぎてたことへの強烈なバックラッシュであるということも忘れてはいけないでしょう)

1人の教育関係者として、今の流れは、なんだかなあ、と思ってしまます

http://anond.hatelabo.jp/20160920010017

アクティブ・ラーニング」「問題解決学習」「協働学習」など

見栄えの良い授業をするための演繹型授業なのかと。

「授業デザイン」「逆向き設計」などがもて囃されるのもそのためかと。

指導案通りに進行する授業なんて糞にもならないのに。

大村はま先生あの世で泣いていますよ。きっと。

2016-09-19

国語教育

現職の高校国語教員

国語の授業というのは現在変わりつつあるらしい

今の20代以上の人なら、きっと、現代文の授業は、

形式段落意味の上で大段落に分けて、第一段落…のように形式段落ごとにちまちまと読解した覚えがあるだろう

自分も未だにそのやり方を続けている

これは、小学校先生に言われれば、古式ゆかしい方法論らしい

アクティブラーニングなんかが好きな人はたぶん生理的に受け付けないんだろう

しかし、自分はこのやり方を変えるつもりは今のところない

現代文(特に評論)の読解には、大きく分けて2つの読み方がある

1つは、トップダウン式の読み方で、全体をざっと理解してから細部に及ぶという、いわば演繹的な読み方である

もう1つは、ボトムアップ式の読み方で、細部を精読してそれを有機的に繋ぎ合わせるという、いわば帰納的な読み方である

多くの国語教員後者のやり方を取ってきた、特に中学高校教員

今、それが古式ゆかしいと批判されて、トレンディではないらしい

トレンディであるかないかじゃなくて、もっと別の方法から自分トップダウン式の読み方を授業に持ち込むのは反対だ

まずもって、トップダウン式の読み方というのは、まともに書かれた文章をまともに読もうとするとき、まともに使うことは稀であるように思う

それこそ、難関国立大の2次試験程度だ

そして、トップダウン式の読み方というのは、何より、それを履き違えた形で身に付いてしまうと、

自分の都合のいい/自分が読める箇所だけを繋ぎ合わせて何となく理解した気になって、こんなもんだろう、と都合のいい物語勝手に作り上げてしまう」

危険性が、ボトムアップ式の読み方より強い

それに、ボトムアップの読み方すらできない人は、トップダウンの読み方なんて絶対無理

しろもっともっと、細かい部分をきちんと読み込めるようにしないとダメだと思うぐらい

時代の流れだとか言うけど、

過去より現在が常に正しくて、未来もっと正しくなる」って考え、進歩主義以外の何物でもないと思うんだよね

「新しいものから」とか、「時代の流れなんだ」とか、それは主張の正当性を裏打ちするものではないと思う

「進んでる」とか「遅れてる」とかそういうフレーズ価値判断と絡めて使う人は大抵、論理的正当性を主張できないから、進歩で殴るしかない

から自分はこのままつまらない授業を続ける予定

2016-08-21

確率計算しなくてもいいよ。

現実には演繹より再帰(経験)で対処した方が良いときがあるわけでさ、

例えばサイコロのある目は単純に総試行回数にぴったり1/6乗じた回数が出るわけじゃない。

計算機を使わないでだいたい1/6だと目算を付けておけば足りることが多い。

そんな状況でもっと高度な演繹をすれば確率分布出せますよと言われても無用の長物だよね。

http://togetter.com/li/1014274

を見てそう思った。

2016-08-18

はてブのやつの答え


架電」がいまいち納得いかない。 http://www.weblio.jp/content/%E6%9E%B6%E9%9B%BB

電話(線)を架ける」に由来する業界用語が、一般的に広まったものとされる。

2016-05-30

デマ記事に騙されないための記事の読みかた

はてなでは、水素水やら塾生肉やらサーモンやら、世間話題になった記事批評炎上が多い。

スマホが普及し、ニュースはキュレーションメディアやSNSで知り合いがシェアしたものを読むのが主流になりつつある中で、大量に流れてくる記事でどれがデマなのか、判断するのはなかなか難しい。デマ記事を見分ける方法としては、

バズワード流行もの似非科学に類する話題特に注意して読む(怪しそうな話題嗅覚を磨く)

・はてぶのコメントを見る(他人の知覚を借りる)

批判的な姿勢で読む(自力論理的に考える)

などがある。情報収集効率観点から、すべての記事批判的に読みいちいち吟味するより、基本は専門家の伝聞を鵜呑みにし、1つ目、2つ目の方法がよい気はする。

ただ、自分の頭で考えて判断するのが本質的重要だと思うので、3つ目のやり方を書く。

自分ディベートを5年ほどやっていた。ディベートではそのテーマについて資料・文献を大量に読み漁り、使える資料を見つけることが重要である。また試合中、反駁(はんばく)のパートの人は、相手の主張を切り崩す必要があるのだが、どこに着目して突っ込めばよいのかは経験を積まないとなかなか身につかない。

そこで、今回はディベートテクニックを使って、

例のサーモン記事 (http://www.salmon-garage.com/entry/2016/05/29/175437)を例に、いか批判的に記事を読むのかを説明する。

まずは、議論構造を把握することが大事。今回の場合議論構成

主張:日本スーパーで売られているチリ産サーモンを買うべきでない。

理由チリ産サーモン養殖過程で深刻な海水汚染が行われているか

海水汚染①:魚の餌による汚染

海水汚染②:寄生虫を殺す殺虫剤による汚染

海水汚染③:抗生物質による汚染

海水汚染④:密集飼育による大量死による汚染

深刻性:??

こんな感じの構成記事タイトルとこの手の記事によくある食品品質問題で間違えそうになるが、この記事の主張と根拠は決して

チリ産サーモン品質管理問題がある」からチリ産サーモンを買うのはやめよう」ではない。

この記事の著者の書き方は、(意図的か)海水汚染の話に混ぜて、日本人が食いつきそうな、チリサーモン品質的にどうなのか、みたいな話を混ぜて書いていて紛らわしいしよろしくないと思う。

ちなみに、このサーモン反論記事

http://www.salmon-garage.com/entry/2016/05/29/175437

も、おもいっき品質管理問題があると勘違いしていて、

サーモンの餌は魚ではない」「養殖場には殺虫剤は流れてこない」「抗生物質サーモンにさほど影響がない」「狭いかどうかはサーモンが決める」

という的外れ反論をしているので注意。

こうした主張において、メリットなりデメリットが発生するポイントとしては、「発生確率」と「重要性・深刻性」がある。これは同時に反論ポイントでもある。

例えば、「発生確率」を削ってしまえば、「それそもそも起きないよね?」ということになる。

重要性・深刻性」を削ってしまえば、「それって起きたとしてもそんなに重要じゃなくね?」となる。

ディベートでは、

メリットデメリットの大きさ」=「発生確率」×「重要性・深刻性」

という考え方をするので、基本は両方突っ込む。

今回の例で構成を見てみると、海水汚染がそれが世の中の人にどれほどの影響を与えているのか、記載されてないため、「重要性・深刻性」に対してこうした反論ができる。

サーモン養殖による海水汚染がどれだけ深刻なのか分からない」

次に、個別海水汚染の発生過程についての反論

発生過程反論基本的には、どういう話の筋でそれが起こるのかをきちんと把握することから

できるだけ細かく、矢印で、AAABBBCCC、というように分割する。

そこで、AAABBBが起きる理由があるかを疑う。これは演繹的な根拠を崩す方法

もし理由があっても、全てのAAABBBにならない例を探して削っていく。または、他の原因があることを示唆する。

もしAAABBBが実際に起きてるという実例が書いてあるなら、その前提条件を疑う。こっちは帰納を崩すやり方。

・魚の餌による汚染

話の筋としては、魚の餌が海水に流れる→赤潮になる、となる。

①魚に比べて鶏肉の餌が赤潮になりやすいという根拠がない

海水に流れ出した餌が赤潮を発生させる確率をどの程度高めているのか不明

③2500万匹の鮭が死んだ赤潮の例は、赤潮の発生原因はエルニーニョ現象であり、魚の餌による汚染とは無関係

エルニーニョ現象比較して、魚の餌による赤潮発生寄与不明

という反駁ができる。あと直接な反論ではないけれど、

⑤鶏→鮭→牛→鳥のエサの連鎖海水汚染とどう関わっているか不明

⑥死んだ鮭を健康な鮭に食べさせたことの何が問題不明

というのもある。

寄生虫を殺す殺虫剤による汚染

本筋は、チリの鮭には寄生虫免疫なし→殺虫剤必要殺虫剤が海に流れ甲殻類を殺す、な感じ。反論はこんな感じ。

①どの程度の量の殺虫剤使用しているか不明必要性

②全ての施設甲殻類を殺す殺虫剤を利用しているか不明

養殖から海に流れ出るまで浄水設備があるのでは?

④海に流れたとして、現状の甲殻類への被害不明

抗生物質による汚染

本筋は、チリ産鮭が成長するには抗生物質投与が必要ノルウェーより1000倍くらい使ってる→海に流れて汚染

免疫がないなら、品種改良抗生物質不要にできるのでは?

抗生物質は魚に注射されるので、海に流れないのでは?

③海に流れたとして、抗生物質が海に影響を与える原因、程度が不明。実被害不明

・密集飼育による大量死による汚染

筋書きが明確に書いてないなく、正直この項は破綻していると思う。

始めは、多国よりかなり密集して飼育されてる→水質が悪化大量死汚染

もしくは、多国よりかなり密集して飼育されてる→ウイルス感染が広がりやすい→大量死

シナリオかと思ったのだが、ウイルスで死んだ実例根拠もない、密集してることのデメリットで述べられているのは酸素濃度だけで、酸素濃度が低下したら何が問題なのか分からない、と具体的に何が悪いのか述べていない。

挙句の果てには、鮭が大量死したのは、測定されていないプランクトン大量発生が原因、と述べられている。

こんな感じで個別論点に対して反論を考えていく。

例としてサーモン記事を使ったが、記事のあちこちに、いかにも関連しそうでサーモン養殖ネガティブな印象を与えそうな、サーモン関係のない情報が入ってくるのでとても読みづらかた。また基本的に伝聞の情報ばかりなので、根拠不明だったり、ロジックがかなり適当

こういう読み方をすれば、かなり浮ついている文章ということが分かる。

2016-03-28

まっつね系チルドレンは正しい答えしかさな

ミイラ取りがミイラにならぬよう、目的手段化してはいけない。

客観視ってどうあっても不可能から、そんな演繹に走ってる場合じゃねえよホント

定義から出る答えは同じ。トートロジーに陥ってしまうな。

やることは、演繹でも帰納でもいいけど、

何かの事象に対し特別意味を見出すこと、それ以外にはない。

正しい答えを出すことがやることじゃない。

2016-03-27

まっつねとそのチルドレンの無個性

まっつね(中原芽衣)のブログは一時期(2011~2013ごろ?)大分流行したけど、

あれがアニメカテゴリはてダはてブではテンプレになった感がある。

すなわち、問題の中身(内容)に対してダイレクト見方登場人物感情機微や状況の変化から物語というもの解釈する、のではなく、俯瞰的見方レイアウトがどうなっていて(富野からの上手下手の話など)、もしくはメタフィジカル目線(これまでのスタッフのやり方、手法とか)からどうなっているか、という点から物語解釈する、という方法。前者は帰納的な見方といえ、後者演繹的といえる。後者に絞って考えよう。

後者定義ありきである。すなわち、「レイアウトがこの状態であれば、キャラ同士の優位性は変化しない」みたいなカミシモ信仰を元に物語を考えていくのだから、いくぶん柔軟性にかける。客観的物語解釈しているというよりは、定義に従って解釈している。演繹から導かれる解釈は、違いがなく、またスタッフから解釈することもさほど異ならない(そもそもクリエイターは常に同じ手法で描くわけではなく、変化しているのだから、作っている人間から何か物語解釈しようとすることは変なのだ)。つまるところ、(彼らは否定するだろうが)一般論になってしまう。基本的評論というもの一般論に対しての反論であるのに対し、まっつねとそのチルドレンたちは、演繹的な解釈をすることによって、”間違いではないが、反論になっていない(一般論をなぞった)”意見を乱発させている。だから、無個性文章が増え、面白くないのだな。そう思った。

彼は、りきおを「結論ありき」と批判しているけど、同じ穴のムジナであることに気付いてないのが悲しさ満点である

2016-02-04

正論という概念すら滅ぶかもしれない

id:masudamaster


フェミニズム袋小路に入ってるのもわかったし、リベラリズム万人の万人に対する闘争を招来することもわかった

うそれについては十分聞いたので、そろそろその先についての考察を聞かせて欲しい


俺はそもそも思想という概念自体時代遅れなのではないかと感じている


思想体系は一貫性志向するから直感に反する結論を導くこともあるが

当世の「思想」は直感従属する。直感思想優越する


当世の「思想」はあくま直感言葉を変えて言い直しただけのもの

けして直感に反する結論を導かない

必然的に、当世の思想論理的一貫性志向しない


たとえば「優先席では妊婦に席を譲るべき」は直感的に正しい

この直感からたとえば「弱者社会参加を支援することで社会活性化する。社会活性化させるのは善」という「思想」が逆算される

この「思想」を演繹すれば「終電帰宅社畜妊婦よりも弱者なので座るべき」という結論に到達してしまうはずだ、と考えるのは旧人

当世の「思想」は想像しない。「その理屈だとこうなっちゃわない?」を考えない。だから矛盾に直面しない


そもそも思想演繹して未知の現象対処しようとか、思想体系が論理矛盾内包してはならないとかいう発想が時代遅れになってる



思想が常に直感従属するのならば、そもそも思想存在する意味がない

判断軸を共有するためのツールとしての役割も果たせない。霊感は共有できないから

から、当世の思想論理ではなく記号表現される。同性婚禁止違憲判決記号の羅列だった

2015-12-16

経験があること。それが良い小説をかける条件であるならば、世の中の大抵の人間は優れた才能を示すに違いない。

やっぱプロってスゴイは。最初スタートダッシュッは割りといけんの。皆、自分自身から演繹して書けるから。でもそこから先よ。いかに自分の知らないことや創作で、書くことが出来るか。プロはやっぱりスゴイは。

2015-10-02

にゃるほど

増田で、あおり気味にモテ無いことをガンガン愚痴ったら、いい感じでアドバイスもらえた。

増田民、やるじゃん。

  

ファッションもっと色々あるだろ

 星野源みたいなのがモテる

 伊勢丹メンズ館で全身コーディネート。体型はBMI20

 被服学

 最速でオシャレ

 オシャレのサイトいくつか

  

ニコ生やれ

 やった。ゲーム実況やっちゃった。

 声はイケメン絶対モテてるよね、って評判上々でツイッターでもリプきまくった。

 でもハードゲームを実況してたし、ガチプレイだったから、視聴者男ばっかりだった。

  

 で、『ニコ生はなぜパコれるのか http://hitode99.hatenablog.com/entry/2015/09/08/201826』を読んだ。昔も読んで絶望したけど、また読み返した。

 次は、やっぱり、歌い手とか、フランクゲーム実況目指すべきかもしれない。

  

③相手の人格ありきだろ

 これは、ちょっと分かる。俺は、発達障害だろうなって思うし。

 多分、他人気持ちは分からない。でも、分からないものとして精神医学なり、面接学なりは成立してるから、それだけで即負けでもなさそうではあるとは感じる。

 でも、恋愛って競技は、相手の気持ちいいことを先回りしてやって相手の好感度上げるゲームなので、他人気持ちが分かるってのはアドバンテージなんだろう。

  

 相手の気持ちをよくするってのは、正直、クッソ気持ち悪いけど、コンビにみたいなもんっつーか。マニュアル接客みたいなもんだから、とにかく覚えるしかない。

 この技術勝負だし。

  

 格闘技の打ち込みのように、ある種の反復でうまくなるしかない分野かもね。

 でも、何の技術を見につけるかが微妙にわかんねー。

 扉を開けてレディーファーストだの、同意して共感を示すだの、ミラーリングだのって、技術はいくつかあるけど、全然体系だって無いし、俺にあった技構成もわかんねー。

 たいていの格闘技はこのあたり体系化されて、絶対実につくようになってんだけど、恋愛はなってないよねえ。

 まだまだ、恋愛市場として確立されてないのかねえ。

  

 なんつーか、勉強できるくらい体系化されてないと、確かに学ぶのはキツイ。昔は、格闘技は誰がやってもみにつくってもんじゃなかった。

 それが、柔道の始祖の東大先生もやってた加納五郎が、「これが投げの原理です」ってのを丸裸にして、他流の格闘技ボコボコにして最強になって。で、寝技ばっかり研究した高専柔道東大生達が全日本クラス柔道家に全勝勝ったって歴史がある(三角締めがはじめて世に示された瞬間)、それが今の寝技で勝つ系の柔道なんだけど。

 それからヒクソンとかが体小さいのにブラジリアン柔術ケンカ自慢だの色々な格闘技代表ボコボコにしたUFCがあって、そんで、今は一般人でも寝技学べばそこらの素人にはまず負けないようになった。

 格闘技とか、勉強で勝てるわけねーじゃんってのが一変した瞬間。

  

 で、今は、まだ恋愛にそういう革命が起きてないのかね。まだまだ、一部の特殊な才能のアル奴しか勝てない分野なのかもしれない。

 そうなると、やっぱり、マダマダ相手の人格ありきなのかもねえ。

  

風俗嬢に泣きついた

 女にモテなくて、しょぼくれて、風俗行ってきた。

 イケメン扱いってお願いして、好き好き言いまくってたんだけど。

 終わったあとに、まあ、自分勝手プレイしてんなーってのは思った。だって楽しいしょうがねーよ。

 風俗嬢いわく、「別に見た目はカッコイイし、でも自分勝手は確かにねーそれはモテないよ」と。自分ではマダマダブサメンと思ってるけど、客観的にはフツメンくらいは多分行ったかもしれない。オシャレとかで。

 そりゃそうだよな、相手の機嫌取るゲームで、ミスって負けたようなもの自分勝手って、学んでない雑魚自分からミスって負けたようなもんだからゲームでいうとエンジョイ勢、上にいけないやつら。養分

  

 俺は、苦手やな、他人のこと考えるのが。理屈とか、論理で答えを先に出してしまうから、相手の脳みそ過程とかに興味が持ちにくい。相手と同じ感情を持てない。

 これをクリアーしないと、モテない。

 技術的には、多分もう知識はあるのかもしれない。

 ただ、相手の気持ちが分からないため、適切に技術を繰り出せない。

 どーしても、自分の楽しみが先行して、勝手に興奮して勝手妄想世界に入る。

  

友達いなかったかダメなのか

 俺は、小中と友達いなかった。正確にはいたが、勉強読書ばかりして、興味もてなかった。とにかく、勉強とか知識とか入れるのが大好きで、ドンドン世界を知って、哲学文学数学医学農業財政政治と知りたいことをひたすら学んでいた。

 常識とかわきまえず、先生も言い負かして相手していなかった。

 正直、教育学部程度の脳みそとして思っていたし、IQも俺よりハルカに下のチンパンに教育とか嘘だローとかいやなガキだった。

 ってか、今思うと、ADHDの過半数が持ってる、反抗挑戦性障害ってやつだったのかもな。

  

 そんな感じで、相手の気持ちを読むとか、考えるとかすっ飛ばして、哲学的結論を持って、そっから他人理解したのがダメだったのかも。

 普通は、友達との付き合いのなかで世界理解したりするのかもしれない。でも、俺は、「地図持って旅しないと、旅のなかで地図を作るの大変ジャン、間違いばかりだし、効率も悪いよね」見たいな感じで、世界見取り図から、周りの環境理解しようとしていた。

 帰納より、演繹って感じで。

 この発達過程のゆがみが、俺の人格のゆがみだったのかも。

  

 ってか、普通に俺苦しいしね。人間の体に適した思想ってのは、周りの環境との交通から作られていくほうがストレスないのに、無理やり世界の形に変形して自分を成立させてきたから、思考がとにかくゆがむし、体も耐えられない。

 キチガイっぽい感じになったのはそのせいだろうね。

 だからモテないんだろうね。

2015-06-22

実写化アレルギー」と呼ぶのは狭量。

やあクソムリエこと、元増田だ。

今回も結論から言えば

スギ花粉にすぐ反応してクシャミばっかりする人たちに、私は心底うんざりしているのだ」

ってのは、ちょっとどうかと、俺は思う。

ソムリエという職業について。

ヒドイ自称をしてるが、俺は映画ドラマエンターテイメントが好きだ。

(作品を貶すよりも)鶴を見つけたと叫ぶ方が有意義だと思ったから、そうした。

批評家から酷評されようがファンからブーイングを受けようが映画館に足を運ぶのは、そこに輝きがあるからだ。

例えば昨今のイカ人気に便乗するなら「ザ・ビースト/巨大イカの逆襲(1996)」というパニックムービーがある。(日本では劇場未公開・TV公開)

娘に海の無慈悲さを説く主人公である父親には(ゴジラ作品に通ずるような)自然への畏敬がある。

ただ、有り体に言ってジョーズの何番煎じかの作品で、秀作とは言えオススメするのは難しい。

しかし、単なるパニックムービーに深みを与える演技を魅せた主人公William Petersenは、

CSI:科学捜査班(2000~)」でギル・グリッソムを演じ、ハリウッド殿堂入り果たしている。

まり、どんな作品にもそこに関わった人間の思いが込められているし、

駄作と酷評されるような作品にも、愛と信念を持って臨む人間が居る。

映画には人生を変え、夢や勇気を与えてくれる力があると思う。

しかし、時間は有限だし、丁寧に観る人ばかりでは無い。

slinky_dog_s11さんに対する返信

こちとら最初から「何が(何を持って)成功か失敗か」という話はしていないんですよ。論点分かってくれ。 /この人のように実際に観てから言ってる人には何も言うつもりはないんです。

id:slinky_dog_s11

十分に論点理解した上で書いたが伝わらなかったのは俺の力不足からだろうし、

これが個人攻撃に見えてしまったり、曲解した上で叩いているように見える可能性もある。

ので、ゴリッとidを入れておいたので、不愉快に思ったら手数をかけるが削除申請して欲しい。

  • 「実写」なんだから違って当然。細かい差異をアゲツラウのは見てて不愉快
  • 実写化」に即応しすぎ。実写化された「後」に反応しても良いはず
  • そういう風に騒ぐ人が「本当に嫌い」

少なくとも「自分の好悪」であると主張しているのは、俺は好ましい態度だと思う。

からこそ、共通点を探ろうとブログを読み(slinky_dog_s11さんの好きであろう)ゴジラシリーズを週末かなり観た。(正直キツイ時間かかった……)

だもんで例示としてあげるのはローランド・エメリッヒ監督Godzilla(1998)にするが、

俺は、パニックムービーとして良く出来ていると思う。ジャン・レノも良い味出してるし。

しかし、「ゴジラ」ファンがこれを「ゴジラシリーズ」として認めるかは、意見割れると思う。

ゴジラ(1954)にある自然への畏敬や人間社会への風刺はホトンド無いし、

フォーマットとして確立していたゴジラvs怪獣という点も無く、独立している。

そもそも、それまでのゴジラの造形からまりにもかけ離れている。

こういったハリウッド化が何度も繰り返され、slinky_dog_s11さんの好きなゴジラ特撮が、

そうではない別ものとしてハリウッド化が何度も何度も繰り返し為されていたとしたら、

ハリウッド化!」に対して「もう止めてくれ!」と叫ばないだろうか。

それを、「ゴジラを見ていないし思い入れも無い人」が「ハリウッド化に騒ぐ特撮クラスタは目障りだから止めろ」と言ってきたら、

ゴジラ好き」達は、素直に「次こそはという可能性もあるから黙って待つか」と思えるだろうか。

実写化」は本質じゃないし、「差異を叫ぶ」のも本質じゃない

そもそも「実写化」というのは別に本質じゃない。次元を超えるせいで、単に目立つだけだ。

例えばリメイクリブートコミカライズノベライズもっと言えばアニメドラマシリーズものだってそうだ。

第三者が別のキャンバスを持って現れ、横で少し真似た絵を描き始めた

http://blog.goo.ne.jp/yukks453145/e/12eb31fc9d5080c07c838ef6fb4ea238

slinky_dog_s11さんも書いてるよな。的確な比喩だと思う。

自分の好きな絵の名前で「これこそが名画でござい!」と模写を披露してるのを、見るわけだ。

その模写は、原作の絵を知っている人間が見ると、とんでもない模写なワケだ。

もしくは、「トンデモナイ描き方を始めた」ように見えるワケだ。

でも、ソレ(実写版)は、間違いなく作品群の一つになる。

例えば最近だと寄生獣(2014, 2015)があるな。放射性廃棄物を使った演出で、一炎上あった。

個人的にはね、ミギー阿部サダヲの名演とか、寄生獣を実写で見られたというワクワク感も無くは無い。

でも、あの映画があると(あった事実は消せないよな)「寄生獣っていうのは、ああい思想作品なんだ」として記憶される訳だよ。

主人公寄生する謎の生物であるミギーもさ、「なんかヒョウキンなバケモノが腕についてんな」という評価になるわけだろ。

人間から見たら冷酷な(でも事実を言ってるだけの)ミギーに対する違和感嫌悪感、そこからの「共生」みたいなものは読み取れないわけだ。

漫画を読んだら判るはずの良さが、映画を観た人には伝わらない。

観た人に演繹されて「ああ、原作もこういう作品なのね」と思われると想像して当然だろう。

そして、そうなるであろうという不信感・違和感が、「止めてくれ!」と叫ばせるわけだ。

「ここが違う」「そこが違う」として細かな差異をアゲツラウってのは、本質じゃないと思う。

それは「不安だ!不信感がある!」という違和感を上手く言語化できないだけじゃないかと、俺は思う。

しろ初期の段階で騒ぐべきなんじゃないの?

俺は、初期の段階で騒ぐのは良いことなんだと思ってる。

少なくとも、熱心なファンが居ることは伝わるわけだし、プレッシャーもかけられる。

島本和彦みたいに「原作を変えたんだから、実写も変えろ!」みたいな面白しなくても、伝わる可能性がある。

  1. 実写化進行中の、作品完成前
  2. 実写化が終わり、公開中
  3. 公開が終わった後

騒ぐタイミングって、上記の3ヶ所しかない。

そして、この中で、作品がより良くなる可能性があるのは1番しか無い。

から、「実写化!」にファンが即応して「マジかよ!」と叫ぶのは合理的だ。

実写化」への嫌悪ではなく、「邦画界やテレビ局への不信」なら、最初に叫ぶべき

俺は、ブコメでも言及されていた「るろうに剣心(2012)」を邦画と呼ぶのには強い抵抗がある。

るろ剣に関しては語りたいことが山ほどあるが、本筋ではないのでここには書かない。需要も少ないだろうしな)

それぐらい、「邦画」界や「ドラマ」界隈ってのは特殊で、ハッキリ言って漫画アニメ実写化するには向いてないと思う。

からこそ、Twitter等でファンの声を製作者側に伝えられる機会があるなら、もっともっと騒ぐべきなんだと思ってる。

そして、そういうファンの存在を「受け入れがたいので目を背ける」コトが出来ずに「本当に嫌い」として黙れというのは、狭量じゃないかな。

http://anond.hatelabo.jp/20150619121107

(※追記:Twitterみたら個人攻撃しか見えない感じになってたので題名修正。あと、ゴジラ24本観終わったので、残り6本のはずだが近所でレンタルしてねえ……)

2015-03-03

世界 2015-03-03

↑new

対象を具体的に構成することによって証明可能ならば, 存在しないと仮定して云々ではなく, 実際に構成したほうがよい」あるいは「(最狭義の)背理法なしでいけるならそうすべきだ」(これらは別の主張である)という主張なら意味は通りますが. もっともこの種の議論教育云々に属すので.

彼の意味の非背理法証明古典論理に従う通常の証明であり構成証明直観主義的な証明などとは異なる. だから直観主義型理論証明からrealizerとしてプログラム正当性証明抽出する話とか, 直観主義論理存在具体化性なんかの話とは全く関係がない.

機械的に書き換え可能なら情報量は変わらないのでは」という簡単な突っ込みもできる. 幾らかの人達は「とはい計算数学なんかでは背理法に依らない証明を考えるのは意味があるのでは」といったことを述べているが

件の著書の内容紹介に【「背理法による証明」を、格段に情報量の多い「背理法によらない証明」に機械的に書き換えることができる】とある. これは, 彼の意味背理法による/よらない証明と, 古典論理/非古典論理による証明, または非構成的/構成証明, との対比を混同している.

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「LKもcut-free LKも非背理法的ということではないのか. そうだとするとカット除去定理背理法除去とは無関係ではないのか.」

他方で彼の著書では竹内・八杉『証明論入門』を引用してカット除去定理背理法除去を一般化した定理だとも主張している. ここでひとつ反論ができるとすれば「sequent calc.も非背理法的な証明体系ではないか. 証明に現れるsequentは全てvalidではないか.」

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他方で彼のいう非背理法証明というのはそういう状況が起こらない証明をいう. Hilbert流の証明体系では途中にprovableなformulaしか現れないことを想像せよ. したがって彼の数学としての主張は「自然演繹とHilbert流の体系は同値. よって背理法は除去できる」

実際efqを用いた証明ではefqの適用の直前に矛盾が導かれているはずだから「途中に正しくない主張が現れる」という状況に適合している.

から彼の拒否する証明法は広義の背理法よりももう少し広いものと考えられる. 例えばex falso quodlibetがnonsenseな証明法だと捉えていることは彼のサイト記述から明らか.

正確にいうと彼のいう背理法は「否定導入と最狭義の背理法」を合わせたもの. 背理法拒否する根拠は「背理法を用いた証明では途中に正しくない主張が現れる」こと. 自然演繹証明図は途中にunprovableなformulaが現れることを想像せよ.

また「背理法を用いて証明できるなら用いないでも出来る」というのは彼の言葉定義では正しいので「直観主義論理が云々, 派生規則から暗黙に背理法が使われてる云々」は反駁にならない.

教育の話だろ」という人間には「教育論の補強に数学を濫用しているし, 数理論理学教科書まで出版している」と反駁しましょう.「それでも教育的な価値は云々」という人間には「教育論として批判しているのではなく数学として批判しているのだ」と反論しましょう.

適切に批判しないと「(最狭義の)背理法なしでは(通常の述語論理形式的体系において)証明できない命題があるなどという人間は(彼の意味では背理法なしでも証明できるので)数理論理学理解していない初心者である」などと云われて, 傾げる首を切り取られてしまった人間賛同するので

2015-01-10

http://anond.hatelabo.jp/20150110011447

抽象と具体を行き来するのは理解ひとつの側面ではあるが本質ではない。理解本質公理からの正しい演繹によってその事実証明される過程を隅々まで理解していることだ。あなたの教え方ではある生徒がこう言うだろう。「でも123456789×987654321=987654321×123456789だとは限らなくない?」と。そういうときにちゃんと説明的ないくせに(その程度のことも考えていないくせに)あなた医学部に受かったとは考えにくい。

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰2

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記の続きとして分割投稿されたものである

作家人格登場人物人格

西谷は「主人公作家分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。

このように見てみると登場人物作家関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。

この点でヒックス登場人物作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分嫉妬深い側面を誇張した人格創造する、というもので、全くの新たな人格創造するのではなく、そのベースあくま自分自身だとする。

これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。

登場人物作家自身である主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体作家人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。

キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物人格ベース自分自身である以上、ほとんど常に作家想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。

なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。

ヒックス登場人物創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックス否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。

ここでいう「夢」はその登場人物人格依存して考えだされるべきものである。これは大塚世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。

もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人人格しかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。

西谷ヒロインブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。

読者による登場人物への感情移入

以上のように作家登場人物関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。

西谷同様、筒井は「自分作品感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。

本格ミステリSFなど、感情移入必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説存在する。しか感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。

さて、基本的に読者の感情移入物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。

まず榎本水島主人公年代ターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベ主人公中高生であることが望ましいと言う。同じ理由性別男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズブギーポップのように女性主人公成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。

まず作者自身モデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。

主人公に求められる特質について、西谷榎本飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。

そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやす主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である

一方で「低スペックで卑屈、無個性へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公ラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。

しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。

さて、筆者はこれらの各説は人物の能力精神倫理区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。

能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能行為名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人能力を持っていても(それが物語必要ならば)問題ない。

次に主人公精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情オープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。

最後主人公倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子モテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。

一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である

Unlimited Blade Worksとかマジカコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しか倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。

さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難戦略だと言える。

こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入成功すると、自然ハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入効果が高いという指摘だと言えよう。

西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。

そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物ギャップである

登場人物ギャップ

本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。

飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面ギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。

ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレ多面的感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。

ツンデレ」は言動まで類型化された属性である本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。

良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶バイト事務的発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。

さて、さら飯田ギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充イメージと「オタク」が持つ根暗コミュ障イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである

このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効機能する。

例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的レベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。

西谷主人公ヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しか主人公ヒロイン親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。

投稿文字数上限により、下記へ続く

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

2014-11-14

物々交換儀礼お金基本的お話

人類学って言うのはどうしても「実例」の丹念な積み重ねになるので、その「解釈」つまり読み解き方には差が出る。

で、「物々交換なんか無かったんや」てなエントリー話題さらって、それに対する反論に引っかかるところがあったんでソレについて。

「暮れの元気のご挨拶」と「スーパーでの買い物」

人類学宿命とも言える所に、「やっぱ珍しいところから入るだろJK問題というのがある。

日本人って、デート神社縁日金魚すくい彼女浴衣を着てくるのが普通なんだろ?」とイギリス人から言われたらどう応える?

まあ、厳密に言えば間違いとはいえないがそれはほぼファンタジーだぞ、という説明は難しい。

例えば、物々交換はあったと言う例でスターを集めているコメントに以下のものがある。

いやいやいやいや。ヤップ島の例だけを根拠学説全否定するのはどう考えてもおかしいでしょ。トロブリアンド諸島のクラとか、ポトラッチ(蕩尽)とかどう説明するの。人類学の成果を無視しすぎ。

トロブリアンド諸島のクラ』とは、ザックリ言えばパプア・ニューギニアの島々で行われている儀礼的な交易を言う。

Kula ringなんかでググると出てくるから省略するが、これはgift economies、つまり贈与経済とされる。

というかだ、仮にも人類学という単語を発するからには、近代人類学の父と呼ばれるブロニスワフ・マリノフスキを避けては通れないし、

彼がその名声を確立したクラをめぐる『西太平洋の遠洋航海者』を読んではいなくても概要ぐらいは触れたことがあるだろう。

単なる装身具にすぎない腕輪や首飾りを交換するためだけに危険海洋交易を行う理由が、経済的な財物の交換ではなく、政治的権威とその維持を含めた儀礼的な制度であるという主張だ。

また、『ポトラッチ(蕩尽)』も同様だ。これも「贈り物」が語源とされる北米インディアン伝統的な贈与経済だと言われている。

ザックリ説明すれば、その構成グループの中でイベントがあると、一番持っているヤツが振る舞うという、風習だ。

簡単に例えよう。

日本には古来物々交換なんぞ無かったと言われて「おいおい、お中元お歳暮無視する気かよ」と返しているのと同じだ。

普段のお買い物の話に対して、儀礼的な相互贈与で反論するのは、控えめに言っても筋が悪い。

古代物々交換の話

というかだ、人類学チョコっとでもかじったことがある人間なら、クラ、ポトラッチとくればピンとくる。

フランス文化人類学であるマルセル・モースの代表作とも言える「贈与論」だ。

文化人類学では「お返しを期待する贈り物」を「互酬」と言い、リターンを期待しない「真の贈り物」とは区別して語られる。

で、この互酬のうち、遅延して交換するものは、基本的儀礼的だったり政治的だったりする。

そして、即時の交換(その場で交換する)ものを、Barterつまり物々交換と呼ぶ。

で、この物々交換お金起源として(比較的悪しざまに)主張したのが、アダム・スミス国富論(The Wealth of Nations)だ。

ただ、さっきまでの話で判る通り、文化人類学者は常々「いや、物々交換って基本的には部外者とのやりとりに使ってただけで、村人同士では儀礼的なものだよ」と言ってきた。

じゃあ、お金ってどこから来たの?

言葉が通じる同じ仲間同士で、物々交換が行われていたという強固な証拠は無い。というか見つけづらい。

が、沈黙交易(Silent Trade)と呼ばれる、言葉の通じない(場合によっては通じても姿を見せない)相手との物々交換が行われていた記録はある。

信用も無く関係性も希薄なので、その場で交換する必要があって、社会的義務政治的権威とは切り離される。

この場合、お互いに価値が有るものとして砂金や塩を用いることはあった。

古代エジプトにおいても、鋳造貨幣は対国家のような対外取引でしか用いられなかった事からも、貨幣は信用と切り離されて当初存在した。

それがそのうちに、「金銀を持ち歩くの危ないから、金庫に入れておいて引き出せる札だけやりとりしようぜ」となった。

これが紙幣発生の一形態だ。(他の発生形態もあるので、調べてみると面白いよ)

ここで、巡り巡って、原始的な村人の相互扶助形態に戻る。

まり、「この札を持っていけば金に交換される」という信用がトレードの基礎になっているのは、

「オレが今日は魚をやったけど、こんど家の建て直し手伝ってくれよな」という顔なじみの村民にある信用と、本質的には同じだ。

その村でその信用を裏切る行動を取れば、適切に制裁されるという「村秩序に対する信用」が、村人間の普段のお買い物の基礎になっている。

お金の話と、評価価値経済

譲渡することのできる信用がマネーだと言っているが、人類学はそれに反論はできない。

実例の積み重ねと、演繹から論述は、方向性が違うからだ。

文化人類学者が積み重ねてきたことは、単純な物々交換とクラ交易とは違うという反論だ。

あるグループ内で通用する単位が、他のグループにおいても通用するとされた時に、マネーが産まれると言われれば、

そういう定義もあるかも知れないな、と思うだけだ。

極端なことを言えば、「1シナモン」という単位を作って、はてな流通させても良いわけだ。

ある人が「これ釣りか解説欲しいんですけど」→「これは釣り記事です」と解説するのが10シナモン

ある人が「これほんとかなあ」→「これは科学的にこうオカシイ」と解説するのが5シナモンだとしても良い。

これが、スポンジボブとお姑サンの間で行われている間は、単なる貸し借りの単位しか無い。

「今回は私が解説したので、3シナモン相殺ですね」とかできるわけだ。

それが「5シナモンくれたら、Microsoft戦略について語るよ」とか

10シナモンで家を建てます」とか他人が入ってくると、

これはもう、評価価値経済になる。

そして、そうならないだろうと素朴に想像できることが、お金本質になる。

シナモンという評価価値無限に生まれるが、それを適切に流通させるには、信用が必要になる。

この「信用」とは何か、「1シナモン」で記事を依頼したり、記事を書いたりする為に何が必要か考えると、お金とは何かという答えになる。

ニクソン・ショック以降、(正確にはニクソンよりちょっと後だけど)通貨金本位制でなくなった時点からお金とは信用とそれを担保する何かによって支えられている。

まとめ

沈黙交易代表される「信用出来ない相手との物々交換」は行われていたし、証拠も記録もある。

ある集団内での資産(獣や魚や穀物)を再分配する機能が、巨大化するにつれて歪んだ記録もある。

しかし、クラ交易ポトラッチは、単純な物々交換と異なる「互酬」つまり、信用や政治的権威を背景にした贈与文化であるとされている。

それどころか、文化人類学者であったモースは、経済的な取引は社会的価値交換の一部に過ぎなかったとすら言っているのだ。

まり、大昔に物々交換は無かったのだ!と言われた時に、物々交換はあった!として例示する対象として、全く相応しくない。

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なお蛇足ながら、集団内の物々交換煩雑から媒介物としてタバコが用いられた近代の記録なら、あるよ。

(The Economic Organisation of a P.O.W. Campでググると良いよ。超面白いよ)

2014-04-01

http://anond.hatelabo.jp/20140401134200

現在ウチの妻が中学生の息子を絶賛スポイル中。

生活習慣の締め付け過干渉のため、

幼児期に発揮していた創造的才能はすっかり影を潜めてしまった。

やめさせたいが妻は全くこちらの聞く耳を持たず。

母の過干渉で才能を伸ばす可能性を潰されてしまった兄と、

から放置気味でそれなりに成功した自分という例から演繹すると、

自分達兄弟の幼児期ととてもよく似た行動パターンだった息子は、

放置気味に育てた方がたぶんうまくいくのだが。

正直言って、妻と息子が疑似夫婦みたいで見ていて気持ち悪い。

オレは単なる空気

2014-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20140209172650

あなたは、あなた自身、何が大切だと思っているのか。

そこから自ずと答えは出るはずだと思います

何を選び取るべきなのか、何をするべきなのか、人をどうしたいのか。

それは全て、「何を最も大切にするか」から演繹していけるはずです。

2014-01-28

フェルミ推定google検索必須

しろフェルミ推定にこそ「ggrks」というセンス必要

元増田にもあるとおり、ビジネスにおける選抜にフェルミ推定を用いたいなら特にそう。

なぜならビジネス要求されているのは、結果・数字利益であって、能力ではないから

ピアノ調律師が何人いるかが直接ビジネスに関わるのならば、ググレばいい。まじで。

それで答えが出てくるならそれに依拠するのが一番早い。ピアノ協会(あるかどうかしらねーけど)が

人数とか公表してるかもしんねーじゃん。検索結果の信憑性とかを言い出すならフェルミ推定の結果の信頼性

どっこいどっこいですから。0を1にする端緒としてフェルミ推定グーグルのどっちが上かは一概には決まらないよ。

しろ論理的思考力なんて無くても答えにたどり着けるグーグルの方が優秀とさえいえるかもしれない。

多くの反論が予想されるのは

画一的な答えが期待できないからこそ帰納的・演繹的推論能力を見るためにフェルミ推定をやるんだ」

ってやつ

いやー、でもこれ言い換えると「ビジネス上の問題にグーグルは答えてくれねーよksg」ってことでしょ?

だったら最初から「ググッてもいいよ」くらいの余裕が面接側にほしいよね。答えが無いって分かってるならさ。

フェルミ推定を通して推論能力を示してほしいわけでしょ?

ってことは事実上要求されてるのは知識の運用能力(と知識量)だよ。フェルミ推定を始める端緒としてぐぐれる環境

あっても全然いーじゃん。

いっつも思うんだけど、企業採用活動として、何を目的フェルミ推定面接過程につっこむ(べきな)のか

って視点全然足りてない気がするんだよね。

繰り返しになるけど、調律師の数字が問題なのであればむしろ必要能力

どこを掘るとその情報出会えるか知ってることだよ。そんでもって人間の活動でまったく新しい何かなんて

ポストモダン現在にあっては存在しませんよ。むしろXに迫るためにAとBとCとOとPとQのどれを組み合わせて

先行研究とすべきかという能力のほうが重要なんですよ。さらに言えばそういう先行研究成功と失敗を踏まえないと

フェルミ推定やった結果車輪を再発明したりするんですよ。

そこまでブレイクダウンして採用活動にフェルミ推定を導入しまたかもっと言えば普段の活動をそこまでブレイクダウンしてますか?

そういうの抜きでフェルミ推定だけ採用活動に導入すると滑稽ですよ。

話が大分逸れてきた。

言いたいことは、フェルミ推定要求されている能力情報・知識の運用能力であるなら、

しろグーグルをいかに活用するあるいはしないかというところも見ないと現代社会では無意味でしょということ。

そういう設問のフェルミ推定問題を作らないとダメですよということ。

そんでもってぐぐって得た情報でみんなが妥当な答えにたどり着けるならそれは出題側の問題だし、恐らく普段の業務も

ちょっとググれば答えが転がってることを棚上げにしてる可能性が高いってこと。

http://anond.hatelabo.jp/20140127235658

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