はてなキーワード: STSとは
シレン好きには賛否あったけど、リズム天国好きなので向いてた。
・HADES
アクションはあまり得意じゃないけど、キャラがよかったのでモチベ高くはまれた。
・noita
まだクリアしたことないけどこのゲームやり続けて一生終えてもいい。
・Slay the Spire
・Hearthstoneのアドベ(特にコボルト)
そしたらもっとあほみたいな能力の敵が出てきて負ける。本当に楽しかった。好き。
論理パズル+ローグライク。ジャンル違うけどグノーシアもよかった。
・Into the breach
FTLよりもこっちのほうがはまった。
・Enter the Gungeon
・Dicey dungeons
・Alina of the Arena
体験版。StS+ItBって宣伝で期待してたんだけど、個人的にはやることが複雑になって微妙だった。
・Darkest Dungeon
そのいつも出てくる、というところで挙げられているのは稀代の名作だとか割と新しいジャンルだとかいうのが多い
デッキ型ローグライトの走りになったStSだとか、自動化ジャンルの商業確立したFactorioとか、コロニーシミュのRimとかな
そういうのは模倣品が出てきて始めてあぁジャンルとして形成されたのかって共通理解になるからリリースから初の季節セールくらいではまだそういうフォロワーが出来てきてないか難しい。
既存のジャンル化したやつを1本出すならそりゃ元祖を薦めるのが人間心理だし、そもそも新規ではジャンルそのものを定義するタイトルは最近そんなないと思う。
だからまぁ新しい知らないゲームを求めるなら例えば、StSに嵌まったんだが同じ感じで面白い新作ないか?とか聞くと求める答えが来るはず
あとついでにリスト書くときにレトロチカとかも見所はあったなって思ったけどまだセールになってねーんだよ!新作あげろっていうけど新作はセールにならないの!そしてこういうエントリはどうせセール時期しか目立たないんだから新作は無いのしょうがないじゃん!
まぁそんなこと言っても求めてねーよと言われそうだから幾つか個人的にジャンルから新しめ(流石に1年レベルでしか挙げれなかった)のを言うと
PATRICK'S PARABOX 一見普通の倉庫番なんだが、入れ子構造になっており新しい感覚の発想力を試される。(体験版あり)
Unpacking 物を正しい位置に収納するというだけの簡単なパズルだが、それを通じて1人の人間の成長していく過程をぼんやりと語る面白いストーリーの認識のさせ方が良い。(Game passにもあり)
デッキ構築
Inscryption 正直このジャンルとして紹介するのが適切かはともかく、一見バランス取れてるように見えて途中からぶっ壊れを押し付けるゲーム性に変わる第1部はデッキ構築としてみてもめっちゃ楽しい
Rhythm Doctor リズ天の系譜普通の音ゲーなら譜面があるから画面ガン見しないといけない中、リズム天国の系譜だと音楽さえあればいいということを全面に活かしたPCならではの画面描画は一見の価値あり。Act2(かな?)のボスステージの演出が最高
ソウルライク
Tunic ぶっちゃけ戦闘はつまらん、オプションから無敵があるからそれでいいと思う。肝は操作方法が最初から開示されておらず、世界に落ちている昔のゲーム買ったらついてきたような説明書を拾うことでゲームシステムがわかっていくというワクワク感。クリア後はジャンルが変わるほどの別レベルの楽しみが用意されてるのも、設定を崩さない中でほんと凄い上手く仕込んでいる。
だいぶ前のマツコ有吉かりそめ天国で「あなたのテーマソングは何」というお題が出ていたので考えてみた。
が。
昔からキリンジのエイリアンズがふとした瞬間に脳内で流れていることは多い。
あと、いきり立ってる時に何故か杉良太郎の江戸の黒豹が流れることが稀にある(最近は無いなあ)
大昔、友人が「疲れていると808 stateの曲が流れる」と言っていた。わかる気がする。
間違ってもSTS 8 MISSIONが流れたりはしない。どっちかってーとTNTのINTUITIONの方がまだ流れてた気がする。
何ならラプソのエメソの方が元気は出る。
好きなのはDreamTheaterのNEVER ENOUGH
この中のどれがテーマ曲なんだろうか。
寝食忘れて費やした。
ゲームの内容は2Dアクションで魔法を回収しながら最奥部を目指すローグライクゲーム。
とにかく魔法とかパークの数が多いのがウリ。
1日目に運良く最奥部にたどり着いてボスに負けてから3日間ずっと潜り続けた。
途中めちゃくちゃつえー魔法を組み合わせた杖ができたときの無敵感とすぐ逝く緊張感、そして深く深く奥に進むたびに強くなる敵、対処法がわからず壁に穴を開けて逃げる判断などとにかくやってる間は脳が考えること多くて幸せ。
めちゃくちゃオススメ。
ゼルダの伝説としてみるとあんまりおもしろいものではないが、オープンワールドゲームとしてみると最高。そういうゲーム。
試練の謎解きがチュートリアルみたいになっててボスダンジョン(4つしかない)がヌルいという感想。
あとオープンワールドゲーム特有の自由度の高さ(例えば矢が上限がなかったり武器攻撃力がやばい武器があったり)で戦闘が簡素。(でもTESやFOなんかよりかは全然戦闘システムは良い)
ダンジョンにはいって「あれ?これ新しい仕掛けかな?」みたいなのをウズウズしながら通り過ぎてダンジョンで手に入れたアイテムで攻略みたいなのがないのが悲しい。最初から配られてるアイテムをどう使うかみたいな感じ。
でもオープンワールドゲームとしてみると最高で、TESやらでダンジョンとなる勇者の試練のほこらがある程度やりごたえがあるのは良い。
2日目ぐらいにゾーラ族とゴロン族のダンジョン終わった後、マスターソードを手に入れてガノンを倒して終わらせたのでもしかしたら残りの2ダンジョンは違ったかも。
今後、腰を据えてやる。どうせゼルダ無双も積んでるんだ。その前にはもうちょいする。
なんかはてブでホッテントリになってたけどこれはマジで凄いゲームに出会ったなという感想。
ローグライクゲーなんだけどだんだん知識をつけてくると楽しくなってくるゲーム。とりあえず残りの5日間はずっとこれに費やしてた。が、今の所裏ボスいくために色んなキャラをクリアしようとしてるところ。ウォッチャー、アイアンクラッドまで済み。
noitaも面白かったがnoitaは上手いこと杖を拾えたり魔法を買えるかが0or1なのに対して、StSは0~10ぐらいの幅があるので理不尽感無いのが良い。(これくるならあれとっとけばとか思うことが多い)
絶賛する人が多いのわかるなというゲーム。
ただ、プレイヤースキルにより打開みたいなのがほとんどない。ひたすら知識とカード運の勝負なのでエキサイティングな体験を求めてる人には物足りなさそう。
ポケットモンスターエメラルドやプラチナ/HGSSにあるバトルファクトリーというルールをお手頃にしたような感じ。
いつもは暇な時間をスマホのゲームで潰すのがいつのまにか、スマホゲームの空き時間を積みゲーで潰すようになっている。
もうだめ猫の環境。
ネタバレを自重するつもりないので、未見の人は先に映画館行ってください。
非常に良かった。それぞれのキャラの想いが交差して、それぞれ昇華されているのが非常に美しい光景だった。
ほぼ全て戦闘シーン+回想シーンで、イリスが何故こんなことをしていたのか?など気になるところを散りばめてきた。
都筑さんのシリーズでかわいい女の子キャラがガチ悪党になったことはないと思うので、回想シーン見た時点でいろいろ察するところあり…。
所長が出てきたときに、こいつがストローマンか!悪人面してるからぶっ飛ばしたい!と思わせてくれた。
欲を言えばユーリが彫り下がった割に、戦闘面では結構いいところなしだったり、イリスもガチバトルは最後までしなかったのは少し残念…。
あとはフェイトも火力不足でイマイチ活躍しきれなかったけど、それはディアーチェ達と一緒に昇華された感じはあるし、最後の特攻なのはを救うところで颯爽とフェイトさんが現れたのはとても嬉しかった。
レヴィがプラズマザンバーとかフェイト打ってくれたなーとかは少し思い残しがある。
個人的に感じたのは、リリカルなのはファンディスクという印象である。
ラブちゃ箱とかこんな構成で、初登場ヒロインを掘り下げて全力で最後に生じる障害をぶっ飛ばしてたなぁなどと懐古することなった。
掘り下げる時間(思い入れを作る・溜め)があまりなかったにもかかわらず、あれだけのヒロイン達をきっちり幸せ担って欲しいと思わせてくるのはさすがだと思う。いやけど流石に時空管理局がザルすぎてちょっとアレだったり、キリエもどう考えても主犯だろいい加減にしろという思いは残る。まぁそこは本質的(見たかったもの・見せたかったもの)じゃないからいいんだ。
思い返すと、恭也ちゃんがこういう存在だったような記憶がある。
恭也ちゃんは最後には(リリちゃ箱)で、フィリス・矢沢さんの協力のもと完治して自分のことと向き合えるようになるんだけど、それが今回のなのはのあのタイミングだったんじゃないかなぁと思いました。
もともと気に入らないものはパワーで捻じ曲げる系のなのはさんだと私は捉えているんですが、恭也ちゃんも目的ためだと自分が壊れようが突き進む人だった訳で、そうじゃないでしょ!っていうのを気づくフェーズがなのはさんにもあってもよくって、今回の物語がそういう転機になってもいいんじゃないかと思いました。StSだと自分のためっていうより、愛する我が子のためっていうなのはママの側面が強かったし…。
しかしだなぁ、これだとがStSで語られた自爆事故が起こらなくなるんじゃないかと思ってしまったりもするんですよ。まぁでもほら都筑さんだし、そういうもんじゃない?細かい設定の調整よりも、ぼくは感動する物語をいっぱいみたいなぁと思っています。とても良かった。ほんとよかった。
けどまぁ流石に無印もAsも昔に4回くらい見ただけだし、SSについては1回聞けてるか聞けてないかだから、忘れてる物語とかあったらごめんなさい。
あとは、とらハキャラの中でちかぼー・那美さんと並んでフィリス・矢沢さん好きなんで名前だしたかったっていうのもある。きっと、多分。
あの都筑スタイルほんと好き。髪がこうΛΛってなってるとのとか、横向くとちょっと出っ張ってるのとか、好き。
あと桜待坂Vol.3
魔法少女リリカルなのはDetonationを見たので、自分の思考整理のために感想を書く。
号泣しながら見た上に、まだ泣きながら打ってるので多少間違いがあってもスルーしてほしい。
Reflectionがバトルに至るまでの過程を描く作品なら、Detonationは戦闘戦闘&戦闘戦闘とド派手な戦闘シーンまみれの映画だった。
すごく面白い戦闘シーン盛りだくさんで楽しめたのだが、この映画は最後の最後に「高町なのはという少女」に関する超弩級の爆弾をぶち込んできたので、私の精神は良い意味でズタボロになった。
私は魔法少女リリカルなのはシリーズが好きだ。特に無印。
高町なのはという少女と、フェイト・テスタロッサ(ここはあえて当時の名前で呼びます)が心を通わせ合うこと。
そして、「自分に誰かを助けられる力があって、目の前で困っている人がいたら助けてあげなさい、ってお父さんの教えなの」という言葉通り、高町なのはは泣いているフェイトに手を差し伸べた。
その心の通わせあい、「友達になりたいんだ」という言葉の輝きをあまりに眩しく感じたから、私はリリカルなのはシリーズのオタクになったのだ。
のだが、その輝きを良い意味で塗り潰されたのが今作、魔法少女リリカルなのはDetonationだった。
魔法少女リリカルなのはシリーズは好きだが、シリーズが進むに連れて色々な設定が付け加えられていっている。実はああだった、実はこうだったという裏設定的なものが追加されていっているのだ。
あまり好きではないが、私の一番好きな無印にはあまり関係のない情報なので基本的には「おっ、まーたなのはちゃん最強説が裏付けられてしまうなガハハ!」という感じでスルーしていた。
映画の最後、右腕を失い宇宙空間に漂うこととなったなのはは「やられちゃったけど、みんなを助けられたなら(死んでも)それでいいや」と目を閉じる。
幼い自分との問答。泣きすぎて詳細は忘れてしまったのが、一番胸をえぐられたのがリトルなのはによる「あなたは『誰かを助けられる自分』じゃなきゃ好きじゃないんだね」という言葉だった。
「自分に誰かを助けられる力があって、目の前で困っている人がいたら助けてあげなさい」という言葉が歪み、呪いのような形で具現化された。
狂気じみた救助への情熱と評されたそれは、前向きな自殺衝動だ。
フェイトを助けたのは、弱い自分が嫌だったからでも何でもなく、本当に心の底から「友達になりたいんだ」と思ったからであり、それは間違えようのない事実である。
けれど、フェイトと友達になれたのは、なのはが力を持っていて、なのはが強かったからでは?と考えると非常に苦しい。
おそらくリトルなのははなのはの潜在意識のようなもので、心の片隅にある冷静な自己評価のカタチなのだと思う。
無意識のどこかで、少なくとも「弱い自分が許せない」という考えを持っているだろう。小学生の思考回路としてはあまりにも辛い。なんてどす黒いものをラストバトルの後にたたきつけてきたんだこの映画は。
パンフにも書かれていたように、「高町なのはという個人」について詳しく描かれたのは今作が初めてだ。無印もA'sもStsも、高町なのはを主人公に置いてはいたが(Stsはちょっと微妙だけど)高町なのはの本質に関しては触れられなかった。
私も無印における高町なのはという少女のカタチを愛していたので、疑問に思ったことはなかった。
けれども、やはり経験でなのは個人の考えは変わっていく。フェイトは確かに救うことができた。けれどもアインスは救えなかった。
そのことは高町なのはの「弱い自分が許せない」という考えに少しだけ拍車をかけてしまったのであろう。
誰のせいでもないのに、もっと強い自分じゃないといけない。という考えが、アミタにナノマシンをもらうように伝え、「関節や筋肉がちぎれるような痛み」と称されるアクセラレーターを、アミタを使うために使った。
なのはが自分の命を勘定に入れないフシがあるのは知っていたけれど、つまり、弱い自分を否定するために自分の命を散らすようなことをしていたのだと考えると胃が痛い。
唯一の救いは、リトルなのはによる「いつか自分を好きになれるといいね」という言葉。
弱い自分でも居なきゃだめだという鎹、いつかできるヴィヴィオという娘の存在が、「弱い自分」を肯定してくれるのかな……と思いつつも、でもヴィヴィオを助けるためにも力が必要だしな……と一人で悶々としています。助けてくれ。
あと戦姫絶唱シンフォギアシリーズも好きだけど、なんとなく似てきてる気がする…良い意味で…。
菊池誠という人がいて、一時はてな論壇においてそれなりの存在感を放っていた。
現在では一山いくらのネトウヨおじさん程度にしか認識していない人もいる。もはや過去の人であると断ずる向きもあるだろう。
しかしながら、彼について再考することで、論壇で今も跋扈する科学対非科学という対立軸を新たに捉え直す機会を持てる気がする。
というわけで彼の言説とその評価の変遷を追っていきたい。
2000年代後半。ニセ科学批判という社会運動が産声を上げた。
これは、自然科学に関する嘘をエビデンス棍棒で殴打するというシンプルかつ大変に社会的意義のある運動で、その倫理的な正しさからはてな市井で好評を博した。
この運動には様々な人が加わり、皆それぞれの専門分野に関する多種多様な嘘デタラメを殴り倒していた。
また専門分野のない人は、非専門分野に関する言説の妥当性をいかに評価すべきかということについて学んでいった。
よくわからんという人はid:NATROM先生がたくさんいたと考えてください。
ニセ科学とはなにか。誰が、なぜ吹聴するのか。このあたりは先人の素晴らしいテキストが山程あるのでそちらを参照するのがよい。私も一応書く。
ニセ科学批判の対象となったニセ科学は多岐にわたる。多岐にわたるがざっくり2つに分ける。
証明されていないことを証明されたと言うか、証明されたことを証明されていないと言うか、である。
科学的知見というものは往々にしてひっくり返るので、この宇宙を縛る法則から演繹していった時に実はニセ科学が正しかったということは有り得る話である。
しかしながら個人が霊感で獲得した宇宙の真理よりも、定められた手続きを踏んで得られた結論(宇宙的には間違っていたとしても)の方を評価するというのがニセ科学批判のスタンスだ。
営利企業や大学教授や特定の肩書のない個人的なブログ、政党や国そのものである場合もある。
彼らは何故嘘をつくのか。その動機を大きく4つに分ける。経済的利益(金銭)・社会的利益(名誉)・思想的利益(党派性)・倫理的利益(善意の施し)である。
どのニセ科学もこのいずれか、もしくはそれらの組み合わせから生み出されていると分類できるだろう。
例えば近藤誠や武田邦彦の動機は金と売名だし、安倍晋三や下村博文や共和党の言動は党派性の発露であり、有象無象のブログが代替医療で他人の癌を根治しようと試みるのは無知に基づく善意による。
ニセ科学批判は党派性から最も遠いところにいるとは菊池誠の言葉であるが、定義上これは正しい。
また、個々人のレベルで見ればその批判対象の選択において党派性が働くこともあるだろうが、運動を総体として捉えればそれは働かない。
組織を持たない草の根運動であるため、一貫した思想により運動員を抑えつけるということが原理的に不可能だからである。
運動自体に対して外部から党派性を見出す人は多々いるが、それは往々にして自身の党派性を表明しているに過ぎない。
例えばid:finalventにはニセ科学批判が左翼的活動に見えるそうだし、反原発派の中の放射能デマを吹聴するクラスタからは当局におもねった保守的な運動であると批判されている。
ニセ科学は大きくデマという概念に内包される。デマの分野を自然科学に絞り、真実性の判定に科学的手続きの有無を利用している場合それをニセ科学と呼称すると言い換えても良い。
ここからニセ科学批判の方法論を他分野のデマの払拭に利用できるのではないかと考えられる。特に人文科学系や社会科学系等の他分野の学問においてはその応用が容易いだろう。
ニセ科学と人文科学や社会科学系のデマとは地続きの問題であり、ニセ科学批判がニセ科学だけを取り扱うのは、単にそれが自らの領分だからというだけである。
ニセ科学批判の参加者が自然科学系以外の言説に対して取るべき態度は、専門分野外の自然科学系の言説に対して取るべき態度と同一でなければならない。
そうでない時、その価値判断には先の4つの動機のいずれかが作用しているのである。
「えー、じゃあさじゃあさ、なんで菊池さんはネトウヨおじさんなんて扱いを受けるの?だってさ、人が科学的事実を前にした時にどういう要因が認知を歪ませるのか、またその考え方は自然科学分野以外でも応用できるってことを誰よりも分かってるはずでしょ?ネトウヨなんてポジショントークが凝り固まって人型を成しているような存在じゃん。おっかしーぜ、それ。一個人が党派性から逃れることは出来ないにしても、自覚を持っていてその都度自己補正に努めればそこまで極端なことにはならないでしょ。オレ、納得できないなー」
そうだね、たかし君。じゃあ次の章では菊池誠の言説とその捉えられ方の変遷を時系列に沿って見ていこうか。それから菊池誠の言動が本当にいわゆるネトウヨ的な物なのかということもちゃんと検証してみよう。
さて、ここから菊池誠とその周囲の言説を掘り返し、断片的な事実を拾い上げ、時系列を整理し、推論を検証し、STS辺りも総括し、ニセ科学批判史とも絡め、最初のテーマに関して結論を出さなければならない。
でもなんか今週入ってから超体調悪くて、鼻は詰まったり止めどなく流れたり、体はとにかく熱っぽくて横になっているのも辛い。
よく考えたら私は菊池誠の親族でも知人でも生徒でも何でもないわけで、果たして病体にムチを打ってまでこの駄文の執筆に労力を割くべきなのだろうか?ここは潔く挫折する。
でもこのテーマ自体は割と意義があると思うので誰か調べてまとめて書いといて欲しい、個人的にはid:ublftboさんが適任かなと思う。でも多分やらないだろう。面倒くさいし。
どうやらこの記事の続きは執筆されないことが確定したため、以下に執筆時の構想諸々を記しあとがきに代えるものとする。
・7年ぶりくらいに菊池先生の名前を目にしたら、なんか凄い扱いになっていたので驚いて、矢も盾もたまらなかった。
・菊池誠に対する周囲の評価の変化点は2つくらいありそうだと思ってる。震災とそれから1年以上後。
・2009年から現在に至るまで菊池誠はネトウヨおじさんではない。ただ看過できない発言は多々あるし、愛想を尽かす人もいるだろう。これは年を追う毎に悪化しているように見える。今の立ち位置はid:hazumaにちょっと似てる。
・2009年頃と現在で、周囲から投擲される評価は明らかに変質しているわけだけど、それは菊池誠と周囲のどちらかあるいはその両方が変わった/変わっていない結果なのかという大枠の問いがあって、これは菊池誠が変わったというよりは、周囲に今までいなかった(少なかった)人種が現れたからだと思う。
・逆に言うと震災以前にもある種の題材を絡めてその手の人種と邂逅する機会があったら、今よりもっと早くこうなっていたと思う。今の状況はなるべくしてなったと言える。
・どうしてこうなったかは意思疎通が上手く行かなかったから。上手く行かない原因は個人でなく構造に求めないと仕方ない。専門家と非専門家の間にはクッションが必要になると思うんだけど、IKEAが布にガラス片を詰め込んでこれはクッションですと言い張ったり、あるいはクッションそのものを用意しなかったりするから、専門家自身が夜なべしてクッションを作らないといけない。彼らは裁縫の専門家ではないので、その出来は個々人の技術によって大きくムラが出る。ところでIKEAはSTSである。
・STSとは、何の生産性もなく相対主義ぶって科学者を腐してあてこすりで飯を食ってる人間の屑が集う旗印である、というのがこれまでなんとなく聞いていた印象なんだけど、いくらなんでもそんなものが何十年も学問として存続するわきゃないと思う。思うので、この際ちゃんと調べて、その社会的役割と意義と実際のところを自分の中で明らかにしておきたかった。震災時に(震災時でなくとも)彼らが求められる役割を十分に果たした結果がこれなのか、あるいは十分に果たせなかった結果がこれなのか。またそれはなぜなのか。
・つまり不幸な例であるところの菊池先生の件を足がかりにして、自然科学分野における専門家と非専門家とのディスコミ問題をアレできるんじゃないかと思ったというところが発端です。
・ブクマにニセ科学批判ってもっと前からあったでしょと言う指摘があったんだけど、前出の"ニセ科学批判史とも絡め"というところで今現在ニセ科学批判とされる運動の形はいつごろ成立したのかも調べておきたかった。書籍で探すと、訳語としてニセ科学を当てはめてる物は結構前からあるんだけどこれは定義が今と違っていて、今使われている意味でのニセ科学という用語はwebだと2004年が初出だと思う。ニセ科学批判についてはgoogle先生になんとなく尋ねるレベルでは天羽さんとかid:kamezoさんの2005年位のログしか出てこない。水伝での田崎さんと天羽さんは運動の拡大に大きく貢献したよねとか海外情勢(主に米キリスト教福音派系の)はid:Kumicitさんの忘却からの帰還が強かったとか、ニセ科学批判史は最終的に年表にしたかった。
以上が主観的になんとなく思いついた推論なので、これらを補強あるいは反証する材料を沢山探して、結果何かがまとまる予定だったのだということを言い残したかっただけの年度末だった。
TwitterでふぁぼとRTってあるじゃない。
で、最近割りと「ふぁぼ爆撃」って言葉を聞くようになったと思うんです。
それで、TL(タイムライン)見てたら「ふぁぼ爆撃何が楽しいのか分からないし、迷惑」て書いてる人がいて、ちょっと疑問に思った。
ふぁぼ爆撃されたら嫌なの?曰くその人は「たまにふぁぼられるから、嬉しいのであって爆撃なんてされても、その人に対する好感度下がるだけ」と言っていた。
なんだかなぁ。。。
多分AndroidのTwitterクライアント「ShootingStar」を使ってる人は、ふぁぼ爆撃を喜ぶ側だし、爆撃をする側でもあると思うんだけど、"普通の"Twitterユーザーはふぁぼ爆撃をされたら不快に思うのかな。
(別にStS使ってる人だけがふぁぼ爆撃を楽しんでるって意味じゃないんですけど)
※ちなみに私はふぁぼ通知もRT通知も切ってて、ふぁぼとかRTとかあんまり気にしてない人なんで爆撃されても、あんまりそういう風に不快に思ったりとかはしない。StS使ってるような人にはYoruFukurouからふぁぼ爆撃してたりはするけど。
俺は福島の事故は健康面では福島市とかでも事実上無害で、除染なしに避難範囲をもっとずっと狭めて、食べ物の基準も緩和すべきと思ってる安全厨だけど、「普通に電気が使えるなら原発全廃」というスタンスは、原発推進過激派だと思う。
震度7の地震というけれど、福島は震度7ではなくよくある規模だったので、想定外なのは地盤調査では比較的地震が起きにくいとされてきた(原発の立地はそうなってる)とこで起きたことくらい。
そして、地震がどこでおきるかみたいなのは、地震学では研究されているけど、地震学というのは原子力工学と違い、まだほんとうの意味で実用的といえるほど、証拠をつんでいない気がする、これは気のせいかも。
「代替エネルギーがあり普通に電気が使える」なら地球上の誰もが原発全廃に賛成するよ。だってあれは半永久的に危険性が残る放射性廃棄物があるから。
そもそも、原発がこの程度の事故を起こす可能性が一応はあるなんて、気のきいた人間なら誰でも知ってた。原発神話は土地神話と同じ、そもそもバカしか信じてない。いまだとひょっとすると年金神話か。
原油は、このままでいけば50年で枯渇するとされている。これは現在の技術で取れる範囲の話で、どんどん広がっているが、新興国も急速に発展するし、せいぜい数百年しか持たない。地球は十億年単位、人類は数千年単位の歴史を持つ。
その上政治的や投機的に価格が変わるリスクも高い。化石燃料はメタンハイドレートを含めて本質的に同じ。
水力・風力・地熱は、あまりに非力だ。これらは立地がかなり限られていて、ものすごく大ざっぱに言えば国土面積に発電量が比例すると言えるかもしれない。人口密度も電力使用量も大きい日本には、よそのようにこれでまかなうなんて無理。
太陽光は、採算性が悪すぎて、ほとんど補助金でやってるようなもの。昔は「最初は補助金で技術開発を促進して、強大な企業が育てば国益にかなう」と各国が夢みて莫大な補助金を出したが、しばらく結果がでず下火になった。
バイオマスは、太陽光と同じ道をたどるのではないかと言われている。
あと何があったっけ、波力は実用化もむずいし非力なので問題山積。宇宙太陽光はどの方法にせよ原発よりずっと危ない。
いま遠くのしまで原発たくさん作ってその電気で燃料を生成するとか思いついたけど、現状では効率が一桁以上足りないはず。
もちろんこういうときはたいてい奇跡がおきてくれるものだ。だからといって、科学者がどうにかしてくれる!!!という人は、原発も絶対安全にしてくれると思ったほうがいい。
原発はそれくらい昔から研究されてて、結果が積み重なってて、自然エネルギーとは蓄積が全く違う、
それでも事故ったんだから、自然エネルギーにも過剰な期待はバカらしい。
個人的には、手始めに3兆円くらいの自然エネルギーの研究開発基金を作ればいいと思ってる。いきなり研究費増やしても、研究者を一気に増やしたりできないし、無駄になってしまう。
そこで必要なだけ長期的に配分し続けられるように、基金にしてほんのすこしずつ使い、いざとなったら一気に使えるようにもする。多少の無駄遣いは出るけど気にするな。
ちなみに、科研費はあらゆる分野の総額で一年に数千億円くらいだったはず。これに比べると3兆円は膨大なので、優秀な子供はみなポストと夢と金を求めて自然エネルギーにくるであろう。
一方で、今回の原発事故の被害額が25兆くらいというのは、よくニュースでやってるだろう。額は違うかもしれないけど。
ちなみに俺はこうなってもいまの仕事上の得はないよ、万が一実現したら転職して利権食べたい気はするけど。
話を戻そう。
原発のリスクは、事故だけでなくテロや軍事攻撃にも注意しなきゃいけない。減速材でも投げられたらどうするの?非現実的だというなら自衛隊はいらない。
それに、原発の被害で重大なのは、ブランドの毀損と心的外傷後ストレス障害。心理的な効果をなめてはいけない、科学者やSTSの連中やマスコミ関係者がそれなりに努力しても、防ぎきるなんて絶対不可能。
あと核兵器は、全廃主義の人多いけど、一部の人にとっては、電力より大切だから、利便性と危険性を比べると必要なんだよきっと。
それから今回の原発事故は、あきらかに想定内。そんなこというと怒られるからとぼけてるだけ。俺ですらすぐ危険性には気がついた。
一方でダム決壊とか火力発電暴走とかは、起きる可能性は原発事故より低いし、おきても被害少ない。発電量あたりでみても多分そうだと思う。
というわけで、国民がてきとーに印象で決めて、自然エネルギーがうまくいけばラッキー、無理なら超節電で我慢しよう。これは案外合理的。
根拠は全部省いて、(推測もわりと含む)事実だけ書いたけど、具体的にツッコミがあればみなさんどうぞ。単に安全厨乙とか中身のないのはスルーします。
http://anond.hatelabo.jp/20110417194312
ただ、個人的には代替エネルギーと原子力が相互排他的であると考えるのはおかしいと思います。早い話、太陽光発電は昼間にしか発電できない以上、出力調整ができない原子力よりも、ピーク時に稼働される火力・水力を代替する方がよほど技術的にも本筋です。
代替エネルギー=太陽光ではないし、風力・地熱・高温岩帯・潮汐など夜間も発電可能な代替エネルギーのほうが多いです。また、エンド寄りで充放電してピークシフトする技術も研究されています。
原発に対するリスク評価・費用便益比評価は、3.11以前と現在ではまるで変わってしまいました。そのことは原子力研究者たち自身も反省の弁を述べ、他国の原子力施策が相次いで大きな転換を迎えつつあることにも表れています。そうした現状を無視して「原子力は出力調整ができないから現状維持、火力・水力は代替エネルギーに置換」と主張するのは、技術的にもSTS的にも的外れなソリューションです。
また、 id:koseki は、代替エネルギーと原子力が技術的あるいは運用的に「相互排他」だと指摘しているわけではありません。原子力発電は、エマージェンシーの際には被災地での直接人命救助に割けるリソースを廻してでも最優先で事態悪化を食い止めなければならないほどのリスクがあること、そのリスクのモジュール化による低減が困難なほど大規模な系にならざるを得ず、現に全体の統御をしあぐねていること、(そして私から見れば、現時点での想定賠償金だけで日本最大級の「優良企業」が消し飛びかねないほどの潜在的コストを孕んでいたこと)…などの現実を前に、「長期的観点での原子力からの脱却・転換が必要」だと認識したうえで、それを置き換える存在として代替エネルギーの話をしているだけです。
地元の同意がなければ立地できないというのがまず一点。あとそういうことを言い出せば病院や工場を街中に建てるのも許されないということになってしまいます。何事も程度問題でしょう。
今となっては、原子力発電には「想定外の事態が起きたときには、周辺地域の住民がその土地での生活を永遠に放棄しなければならないほどの危険性もある」というリスクが内在したことがわかっているわけですが、当時の福島原発周囲の地域住民は、そうしたリスクを含めた適正なアセスメント情報を開示されたうえで受け入れに同意してはいないでしょう。不完全な情報提供に基づく判断について自己責任を負えというのは、特にこうしたビッグサイエンスが絡む(≒専門家集団と一般市民のあいだにおける情報やリテラシーの非対称性が著しい)問題においては、あまりに一方的な話です。
また、地元での調整の結果、病院や工場の街中への建設が許されないというケースは当然ありましょう。ただし病院や工場の費用と便益は(法令による環境アセスメントがなされている限り)基本的にローカルスケールに収まるものです。しかし、原発はそうではない。現状でも国家〜超国家規模のコストを生み出している。4号機の使用済燃料プールが水素爆発により「注水」されるという偶然がなければ、さらに大きな被害を生んでいたことでしょう。
程度問題の「程度」がまさに問題なのです。