はてなキーワード: 三角締めとは
萩原京平が弥益聡志に負けた。
RIZINという格闘技の興行の話。3月20日のRIZIN.34のメインイベント。弥益の三角締めが入り萩原がタップアウトという、俺のような素人から見ても鮮やかな決着だった。
俺は萩原が好きなんだけど(弥益も好きです)、それはこの選手が抱えている「ストーリー」がすごく危うく、もろく見えるからという結構残酷な理由によるもので、そのストーリーの芽が、完全に今日ぽっきりいったように見えたので書いておく。
萩原は一昨年の年末、平本蓮という元K-1のチャンピオンの総合格闘技デビュー戦の相手となり、平本を完封して勝利した。試合後には、「平本の名声をごっそりいただいた」というビッグマウスと野心丸出しのマイクパーフォーマンスをしており、Youtubeで視聴できる。
当時の下馬評がどうだったかはよくわからないが、萩原がどうとかより、打撃では王者だった平本が総合でどこまでやれるのか、というところに注目が集まっていた部分も大きかったのではないかと思う。
それを萩原本人が言うとおり、周囲の関心を丸ごと奪い取って自分のものにしてみせたのだ。事実、俺もそこで萩原の存在を知ってフォローするようになった。
その後、10ヶ月の期間をはさんで、RIZINの看板選手である朝倉未来の対戦相手、しかも従来のRIZIN〇〇(数字が入る)とは別に立ち上げられた、新シリーズのメインイベンターに選ばれる。
大抜擢、と言っていいと思うが、話題性という意味では最高のカードだったと思う。
対戦相手である朝倉はこの時点で常勝にやや陰りが見えていて、特に直前の対戦では動脈を決められて落とされ失神した姿をさらすという、衝撃の負け方をしていた。このとき、めちゃくちゃ強い王者であるうえに頭もいいという漫画のキャラクターのようだった朝倉に、「どちらかというと格闘技よりもYoutubeでの露出に注力している、昔はギラついてたけどいまは落ち着いたビジネスマン」的な、かなり緊張感の失せた像がダブり始めていた気がする。
一方の萩原は平本を倒してイケイケのギラギラだった。「今回の試合では(朝倉の前の試合より)もっとグロいものをみんなに見てもらいます」とさえ言い放つ。
双方ともにアンダーグラウンドの匂いをまとい、いわゆる「華」のあるファイターであるのは共通しているが、お互いの下り調子と上り調子はくっきり分かれていた。
実力差で言えば、正直朝倉がはるかに上だったと思うが、「何か起きるかも」という雰囲気は出まくっており、新しいスターが誕生するのでは(そして、朝倉が完全に下野するのでは)という残酷な好奇心が、界隈にかなり満ちていた気がする。
俺は思うのだけど、萩原という選手は、ここで何かの間違いで朝倉に勝つしかなかったのではないかと思う。
この対戦カードは表面上、負ければ後がないのは朝倉として描かれていたと思うが、実際に「残機」がないのは萩原の方だったのではないか。残機というか、「ストーリー」に遊びが残っているというか、なんというのかな…。
萩原はこの後勝利を二つ重ねたが、今日の対戦で弥益聡志に敗れた。
ここで、何かの命運が決定的に尽きてしまった気がする。
ただ、それが何なのか、うまく言えない。
フェザー級である萩原は、ここから再び復調して、いつかこの階級のチャンピオンになるかもしれない。その可能性まで断たれたわけではないと思う。
しかし、今日の対戦で戦績は6勝5敗。これからも「何かやりそう」なキャラクターは生き続けるかもしれないが、常勝というイメージにはほど遠いし、たぶん二度と手に入らないだろう。
なんというのか、ざっくり言うと規格外のスーパースター、もう少し詳しく定義すると、対戦相手が誰とか関係なく、本人の一挙手一投足だけで話題が足りてしまう圧倒的な存在感、そういうものを身に着けた選手になるとしたら、萩原は朝倉との対戦で、うっかり勝つというルートしか、実はなかったのではないかな、という気がしてならない。
萩原は実は、朝倉との対戦時からそういう危うさが見え隠れしていて、そこがすごく魅力的な選手だった。残酷だという自覚はあるけど、そういうのを楽しんで見ていた。
今まで見ていなかったので、義務的に再放送を3話目まで見ているのだが
軌道力学的な考察が無茶苦茶なのは、まだ許せるが、主人公だあろう新人、もし私のところに配属されたら、速攻で、不適格者としてクビだ
もともとのツイートはこれ。
俺は最初、元JAXA男性が「科学考証なってなくてつまんねーわ、このアニメwwww」と言ってDisってたのかと思った。増田にもそういう形での書き込みが多かったし、トゲラー見ても科学考証なんて味付けでしかない云々みたいなコメントがとても多かったので。
でも実際には科学考証に関しての批判は「間違ってはいるけど、まぁ、それはそれとして」という程度だった。
そして本題である主人公が気に入らないに関しては、「登場人物があまりにバカバカしいことばかりするので話に入れない」といった類の批判であり、それなりに市民権を得ている批判だと私は思う。
我々のような素人ではわからないことでも、現場でやってきていた人には許せない描写というのも存在するだろうと思う。映画批評でお馴染みの元警官の三角締めさんも警察描写がクソすぎるから減点という批判をよくしていたし、俺も教員をやっていたことがあるのでドラマや映画の教員描写で「なんやこれ舐めてんのか」となることはある。
何はともあれ、今回のプラネテス批判の本題は別に「プラネテスは科学考証がなっていない」ことではなく、
「登場人物にイライラさせられるので面白く感じられない」ということだった。
表に出てきている情報だけで語ろうとするの善くないなと改めて感じた。
ネットの言説の主たるはこの言説に集約される。打って組んで投げて寝て、というマーシャルアーツが高いレベルで競技化されているからだ。確かに対応力は一番高く見えるし、実際に殆どの打撃と寝技に対応できることだろう。
格闘技はルールによって強さが変わると言われる。わかり易い例では柔道ルールで戦えば柔道家が強く、ボクシングルールで戦えばボクサーが強いという基準だろう。比較的わかりにくいものでは柔道家と柔術家が戦ってもお互いのルールで一長一短が決まってしまうし、肘なしK-1選手とムエタイやKNOCK OUTの選手が戦ってもかなり間合いが変わってくる。縦肘と言われるガードからの割り込みが使えるため、積極的に狙おうとする者、距離をとって戦おうとする者等スタイルが割れてくるからだ。クリンチが得意な選手も戦法を変えざるを得ない。また、勘違いされやすいが、競技柔術と柔道、総合格闘技ではまるで使える技術が変わってくる。総合における柔術の場合、例えばマウントポジションでは鉄槌やパウンドを狙いにゆくが、柔術の試合ではあくまでマウントからサイドを取って腕十字や肩固めなどを狙ってゆく傾向が強い。決定的なのは双方が足を出した状態から掛けるベリンボロなどの技法だろう。簡単に言えば足を引っ掛けてローリングしつつ相手の背後からバックチョークを狙う技だが、総合ではまずやる人がいない。理由は簡単で、総合の柔術の流れは基本的に上から下へと力を発揮するように振る舞うからだ。マウントではパウンド、足関節状態では掛けずに立ち上がって踏み潰したほうが良いなどだ。そもそもの思想が違う。柔術は組合わなければポイントが取れないため、ベリンボロを仕掛けても相手がそれを返す攻防が発生する。総合ではそんなやり方に付き合う必要性がない。また、柔術のルールで柔道家が戦っても不利だ。柔道家は抑え込みを防ぐために畳の上で団子になる癖が身についており、積極的に関節技に移行しない。逆に柔術家は崩し、払い、投げの練習が希薄なため容易に投げられて一本を取られる。それぞれのルール内ではそれぞれの格闘技が強い。これは格闘技の常識であり、この発想なくして最強の格闘技とは何かと言われても絵空事である。
それでもルールなしなら総合が強いでしょう? と思う人もいるだろう。経験豊富という意味で同意するところもあるが、多少疑問が残る。幾度となく議論されたストリートファイトでの各格闘技の様相だ。この辺りはUFC(DEEP)、RIZIN、巌流島あたりの総合系の舞台を見るとわかりやすい。UFCとDEEPはケージ(金網)による円形に近い舞台を使う。このせいで必ず壁際が発生し、レフリーストップもかかりにくい環境にある。このため各選手はケージ際での攻防を明確に練る必要性が出てくる。抑え込まれた側はフロントチョーク状態を維持しつつ相手の手を抜いたり三角締めを狙いにゆく攻防となり、押し込んだ側はどうにか足を抜いてマウントやサイドを取ろうとする。リングのようにレフリーが割って入ってもとに戻されることもないので、壁際独特の力の使い方が必要になる。リングはただ中央に戻されたり、スタンディングに移行するだけなので特筆するところはないだろう。問題は一風変わった巌流島だ。巌流島の舞台設定は面白い。相撲のような円形舞台から外を崖として設定し、三回落ちたら負けというルールを設定した。なおかつ寝技は30秒以内しか行えない。これは路上での寝技が一対多を想定したものであるからという。結果的に試合は打撃とタックルが得意な選手が多く勝ち上がってくる。普段日の目を見ない武術系・プロレスの人も勝っているあたりが新鮮でもある。
筆者はこの巌流島を見ているうちにある思いに囚われた。総合がいくら強くても、ケージに押し込まれることなく落下するというシチュエーションでは、アマレスの選手が最も強くなってしまうのではないか、ということだ。事実巌流島のある大会においては、低空タックルと押し込みのみで優勝してしまった元拓殖大学レスリング部のプロレスラーがいた。想定が事実なら相手は即死である。
居酒屋を考えてみよう。お座敷とカウンターがある。この2つのうちお座敷の闘いが圧倒的に強いのは言うまでもなく柔術家だ。座った状態で競技が始まることもある柔術のフィールドそのものがお座敷といっても過言ではない。調子に乗った酔っ払いがお座敷で騒いでいたら速攻で制圧できること請け合いだ。一方カウンターでの攻防が発生した場合、強いのは軍隊格闘系になる。彼らから言わせればカウンターは武器の宝庫だからだ。割り箸は折って差し込む武器になり、グラスは相手の鼻を折る武器になる。中身がある場合かけてしまえばいい。
裏口の路地ならどうだろうか。柔術家は途端に不利になる。足場が悪く思うように転がることもできない。逆に強いのは打撃系になるだろう。ではどの打撃系が一番強いのか。ずばり空手家だと思う。路地裏の動きが制限された状態では総合選手がよく見せるタックルのための大振りなフックはそうそう出せないし、ストレート系をメインに戦うことになるだろう。素手を怪我しないために動き回る顔はそうそう叩けなくなってしまう。この条件に最も合致するののが空手だ。空手には顔面攻撃がないが、この場合は有利に働く。空手は試合においては他の立ち技系に比べて出入りが単調な傾向にある。内側に入って鈎突きや突き、下段回しをゴリゴリに押し込んでゆくが、横のフットワークに乏しい選手が多く、回り込みやロープワークなどの発想がない。しかしこの単純で素早い出入りこそが路地裏では生きる。突進力もあるので前に出ながらかわせない連打を浴びるのは恐怖すらある。
他方、ガッツ石松が数人を相手にして路地裏に誘い込んで全滅させたというエピソードも存在する。これはガッツ氏のウェイトとリーチがあって為せる技だ。ボクシングが一競技として路地裏格闘に向いているわけではないと思う。むしろボクサーは横軸が自由に移動できる公園などで強さを発揮するとのではないか。その場合総合でも十分強いと言えるかもしれないが。
いずれにせよ、格闘技はルールと言うより状況の想定で動ける範囲ややれることが変わってきてしまうため、こうした自然のルール=場所の想定がかななり重要だ。場所によっては総合が何が何でも強い、という前提は崩れ去るのではないかと感じている。
増田で、あおり気味にモテ無いことをガンガン愚痴ったら、いい感じでアドバイスもらえた。
増田民、やるじゃん。
被服学
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②ニコ生やれ
やった。ゲーム実況やっちゃった。
声はイケメン、絶対モテてるよね、って評判上々でツイッターでもリプきまくった。
でもハードなゲームを実況してたし、ガチプレイだったから、視聴者男ばっかりだった。
で、『ニコ生はなぜパコれるのか http://hitode99.hatenablog.com/entry/2015/09/08/201826』を読んだ。昔も読んで絶望したけど、また読み返した。
次は、やっぱり、歌い手とか、フランクなゲーム実況目指すべきかもしれない。
③相手の人格ありきだろ
多分、他人の気持ちは分からない。でも、分からないものとして精神医学なり、面接学なりは成立してるから、それだけで即負けでもなさそうではあるとは感じる。
でも、恋愛って競技は、相手の気持ちいいことを先回りしてやって相手の好感度上げるゲームなので、他人の気持ちが分かるってのはアドバンテージなんだろう。
相手の気持ちをよくするってのは、正直、クッソ気持ち悪いけど、コンビにみたいなもんっつーか。マニュアル接客みたいなもんだから、とにかく覚えるしかない。
格闘技の打ち込みのように、ある種の反復でうまくなるしかない分野かもね。
扉を開けてレディーファーストだの、同意して共感を示すだの、ミラーリングだのって、技術はいくつかあるけど、全然体系だって無いし、俺にあった技構成もわかんねー。
たいていの格闘技はこのあたり体系化されて、絶対実につくようになってんだけど、恋愛はなってないよねえ。
なんつーか、勉強できるくらい体系化されてないと、確かに学ぶのはキツイ。昔は、格闘技は誰がやってもみにつくってもんじゃなかった。
それが、柔道の始祖の東大の先生もやってた加納治五郎が、「これが投げの原理です」ってのを丸裸にして、他流の格闘技をボコボコにして最強になって。で、寝技ばっかり研究した高専柔道の東大生達が全日本クラスの柔道家に全勝勝ったって歴史がある(三角締めがはじめて世に示された瞬間)、それが今の寝技で勝つ系の柔道なんだけど。
それから、ヒクソンとかが体小さいのにブラジリアン柔術でケンカ自慢だの色々な格闘技の代表をボコボコにしたUFCがあって、そんで、今は一般人でも寝技学べばそこらの素人にはまず負けないようになった。
格闘技とか、勉強で勝てるわけねーじゃんってのが一変した瞬間。
で、今は、まだ恋愛にそういう革命が起きてないのかね。まだまだ、一部の特殊な才能のアル奴しか勝てない分野なのかもしれない。
そうなると、やっぱり、マダマダ相手の人格ありきなのかもねえ。
④風俗嬢に泣きついた
イケメン扱いってお願いして、好き好き言いまくってたんだけど。
終わったあとに、まあ、自分勝手なプレイしてんなーってのは思った。だって楽しいししょうがねーよ。
風俗嬢いわく、「別に見た目はカッコイイし、でも自分勝手は確かにねーそれはモテないよ」と。自分ではマダマダブサメンと思ってるけど、客観的にはフツメンくらいは多分行ったかもしれない。オシャレとかで。
そりゃそうだよな、相手の機嫌取るゲームで、ミスって負けたようなもの。自分勝手って、学んでない雑魚が自分からミスって負けたようなもんだから。ゲームでいうとエンジョイ勢、上にいけないやつら。養分。
俺は、苦手やな、他人のこと考えるのが。理屈とか、論理で答えを先に出してしまうから、相手の脳みその過程とかに興味が持ちにくい。相手と同じ感情を持てない。
技術的には、多分もう知識はあるのかもしれない。
ただ、相手の気持ちが分からないため、適切に技術を繰り出せない。
どーしても、自分の楽しみが先行して、勝手に興奮して勝手に妄想の世界に入る。
俺は、小中と友達いなかった。正確にはいたが、勉強や読書ばかりして、興味もてなかった。とにかく、勉強とか知識とか入れるのが大好きで、ドンドン世界を知って、哲学、文学、数学、医学、農業、財政、政治と知りたいことをひたすら学んでいた。
正直、教育学部程度の脳みそとして思っていたし、IQも俺よりハルカに下のチンパンに教育とか嘘だローとかいやなガキだった。
ってか、今思うと、ADHDの過半数が持ってる、反抗挑戦性障害ってやつだったのかもな。
そんな感じで、相手の気持ちを読むとか、考えるとかすっ飛ばして、哲学的な結論を持って、そっから他人を理解したのがダメだったのかも。
普通は、友達との付き合いのなかで世界を理解したりするのかもしれない。でも、俺は、「地図持って旅しないと、旅のなかで地図を作るの大変ジャン、間違いばかりだし、効率も悪いよね」見たいな感じで、世界の見取り図から、周りの環境を理解しようとしていた。
ってか、普通に俺苦しいしね。人間の体に適した思想ってのは、周りの環境との交通から作られていくほうがストレスないのに、無理やり世界の形に変形して自分を成立させてきたから、思考がとにかくゆがむし、体も耐えられない。
キチガイっぽい感じになったのはそのせいだろうね。
ヒョードルが負けた。2000年に高阪に負けて以来、じつに10年ぶりの黒星だそうだ。その高阪戦だってファーストコンタクトで不運にも目の上を切ったヒョードルにドクターストップがかかったもので、負けたヒョードルはピンピンしていたし、高阪は済まなそうにリング上で頭を下げていた(このときの高阪の態度はじつに立派だった)。
昨日、ヒョードルは三角締めを取られたそうだ。柔道出身なのにストライカーとしても異能者だったヒョードルは、今までだって何度も三角に取られる展開を経験していたはずだ。相手を倒して前からマウントを取りに行けば、まず下の選手は三角を狙う。それを100%の確率で潰しきってきたヒョードルが、わずか1分かそこらで三角を取られたというのだから、やはり、ヒョードルのなかに変化というか、退化が訪れていたと考えるべきなのだろう。
ぼくはヒョードルと同い年だ。33歳という年齢は、若者というにはトウが立ちすぎているし、かといって立派な大人というには精神的にも銀行口座的にも決して豊かな蓄えがない、そんな感じの世代だ。いわゆる氷河期、76世代といわれるぼくたちの年代でもっとも有名なのはたぶん中田英寿だろう。ぼくは中田がペルージャでのデビュー戦でユーベ相手に衝撃的な2発を叩き込んだことをよく覚えているし、彼が旅人に転じたのを微妙な気分で眺めたりもした。
この10年、中田もぼくも、その程度の差はものすごいのは当然なのだが、いずれも挫折や苦悩を経験し、己の限界を知り、別の道を模索したりしてきたわけだ。ぼくはといえば、ようやく、なんとなく、今後の生きる道のようなものが見え始めてきている。
10年前、大きな挫折を経験したぼくは、その後3年くらいを無為に過ごした。心を殺して死んだ目でアルバイトに勤しみながら、いつ死のうか、とそんなことばかり考えていた。駅のプラットホームで思わず座り込んでしまったこともあったし、アルコール中毒寸前までいったこともあった。6畳風呂なしのアパートは荒れに荒れ、押入れのなかはネズミの死骸と糞でとんでもない悪臭を放った。
何度か訪れた再起のチャンスも、手を伸ばせばするりと抜け落ちていった。がんばって稼いだ金をかすめ取られたりもした。何もうまくいかなかった。そのたびに血が出るほど唇を噛んで、なぜだ、なぜだ、何が悪いんだ、そう自問自答を繰り返したが、巡ってきたチャンスが大きければ大きいほど、ぼくは深く傷つくだけだった。そんな日々のなかで、いつしかぼくは自分に期待することをやめた。人は希望さえ捨ててしまえば、二度と絶望に泣くことはないのだ。ぼくはそうして、生きることを選んだ。
20代の後半になったころ、ぼくは過去のいろいろなものを捨てて、新しい仕事に就いた。その会社のトップを仮想敵に見立てて、そいつらを打ち負かすことだけを考えて働いた。働けば働くほどそいつらは打ち負かされるどころか潤うわけだが、そいつらが「君が必要になった」という顔をする瞬間にだけ快感を求めて、その顔をひとしきり眺めては会社を変えた。今の会社のそいつはたいへんな強敵で、とうてい打ち負かすことなんてできそうもなく、ならばそいつに助けてもらおうと考えを変えた。考えを変えたら、時計の針がゆっくりと回り始めた。気が付けば、10年前にぼくを深く傷つけた場所が、違う立場で目の前に広がっている。
その10年、ヒョードルは勝ち続けてきたのだ。スポットライトの中で、勝者であり続けてきたのだ。そう考えたら、くらくらした。コンマ数秒、気を抜けば打ち負かされていたかもしれない。殺されていたかもしれない。そういう緊張感のなかで、ヒョードルは勝ち続けてきたのだ。
10年前、ぼくは特別な人になりたいと願っていた。その願いに目がくらみ、いつのまにか普通の人ですらなくなってしまっていた。それから普通の人を目指して、いまようやく、普通の人になれたという実感がある。
その10年を特別な人として過ごしたヒョードルは、今回の敗北で普通の「強い選手」のひとりになった。契約の関係で、少なくとももう1試合はリングに上がることが決まっているそうだ。これからもヒョードルは、勝ったり負けたりするのだろう。
本当に面白いのは、これからだぜ?
僭越ながら、そう言ってやりたい気分だ。