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2018-03-05

anond:20180303064407

中学2年生、14歳当時にリアルタイムで見てたよ。

放送からあのGAINAXの新作が!みたいにアニメ専門誌で取り上げてた。

自分ナディアを見てなかったので、いまいちピンと来てなかったし、たいして期待もせず、ただ新作アニメから一応見ておくかくらいのテンションの低さで見始めて………あまりのすごさにブッとんだね。

ほかのアニメとは明らかに違うと感じた。

演出からストーリーからなにから、当時の他のアニメスレイヤーズとかガンダムWとかありましたな)とは根本的に異なっていて、頭ひとつふたつどころじゃない、飛び抜けたものを感じた。

こう感じたのは当然自分だけではなかった。

複数アニメ専門誌の盛り上がり方はすごかった。

エヴァエヴァエヴァの大特集

キャラクター人気投票を行えば、女性部門では綾波レイが常に圧倒的1位、碇シンジ男性部門1位。

全26話放送終了後は、みんな放心状態みたいになってた。エヴァ関連書籍が雨後のタケノコのように出版された。

一番初めに作られたエヴァ初号機フィギュアをわざわざアニメイトまで見に行ったのをよく覚えている。微妙に出来の悪いものだった。中3のときには箱根湯本駅まで聖地巡礼に行った。初めての劇場版は、事前に映画鑑賞券を購入すると特典としてオリジナルVHSビデオが付いてきた。特典目当てに映画館の周りに長蛇の列ができて、異様な光景だった。

初めてのセル画展は千葉で行われた。それももちろん見に行った。

とにかくみんなエヴァに夢中だった。

劇場版を見たら、ファンや観客を揶揄するようなシーンが多々あり、だんだんエヴァ熱が冷めていった。

そして劇場版Airで決定的に「ああ、これはもう無理だ、受け入れられない」と思って、私はエヴァから離脱した。

でも思春期の中であんな衝撃を受けてしまたからね、もはやエヴァ自分の中の一部になってしまっている。

いまでもテレビシリーズに限っては忘れられない(忘れようとしても忘れられない)。

何度繰り返し見たことか。何度絵コンテ集を眺めたことか。スキゾ・パラノという用語レゾンデートルという用語中学生にとってはとても深遠なものに感じられた。

今ではそれらの用語時代遅れ精神分析用語だと分かるけど、当時はそういった用語になにか真理が隠されているように思えた。

このまえ、AbemaTVで26話一気放送をやっていたので10数年ぶりにエヴァTV版を見たのだが、変わらぬ衝撃、変わらぬ面白さだった。ストーリーもさることながら演出アニメーションの動きが素晴らしくて鳥肌が立つ。

うそう、深夜の再放送といえば、たしかそれを見てナインティナイン岡村さんがエヴァにハマったんだよ。

当時、オールナイトニッポンナインティナインの回はよく聴いていたからよく覚えている。

自分語りが多くなってしまって話が支離滅裂になってしまったけど、自分から見たエヴァンゲリオンは、深夜放送のずっと前から放送途中から熱狂的に、狂信的にアニメファンからウケていた。こんなヘタな文章でごめんね。言いたいことが伝わっただろうか。

2017-10-22

他者のモノ化」における他者支配・被支配人間関係について

https://anond.hatelabo.jp/20171022215710

更に追記

この記事をみて、何となく感想

現代の対人関係においては、人間関係が対等なものから支配・被支配的な関係シフトしつつあるのではないだろうか

かつて、家父長主義が敷かれていた我が国では

家長がその家庭を所有し、全権を担っていた

時は流れ、男女差別撤廃とともに、夫婦は同権ということになった

しかし、現代においても人間関係には他者をモノ化する性質が依然として残存しているのではないだろうか

誰かを飼育したり、奴隷として所有したり、異世界に行って他者自分賞賛する機能として所有したり

そうした創作が持て囃されるのは、未だに日本人碇シンジ的な心性から抜け出せていないことの現れだろうか

2017-09-15

動物活躍する作品

先程、

最近息子と娘がアニメ好きだから、私も何か有名な作品見てみようと思って」

パートのおばちゃんが言っていた。

「何見たんです?」

と聞くと、

「えーっと……動物活躍するアニメよ」

そう答えてくれた。

ここ最近作品動物活躍して有名なアニメといえば、けものフレンズなのかな?と思ったけど、

いまいち自信がなかったので、

「どんな作品でした?」と聞くと、

「シンタロウ……って子が紫色ロボットに乗ってバケモノとたたかってた」

そう答えてくれた。

動物活躍

シンタロウ主人公

紫色ロボット

敵はバケモノ

脳内アニメDB(応答なし)

私がフリーズしていると、

「○○さん!はやくいきましょ!主役が遅れちゃ駄目でしょ!」

と別のパートさんがやってきた。すると、

「あ!これよ!この子がシンタロウよ!」

私と話していたおばちゃんは別のパートさんの鞄についていたキーホルダーを指差した。

そこにいたのは碇シンジ君。

エヴァンゲリオンかーい!)

と私は心の中で叫んでいると、

「それじゃあ主任!また後でね!」

「あ、は、はい

おばちゃん二人は送別会の会場へ向かった。


私は日報をまとめた後、これを増田に書き込んでいる。

これから送別会へ行くわけだが、主役であるおばちゃんにエヴァのどこをみて動物活躍するアニメだと思ったのか、

などど無粋なことを聞けるわけがないので永遠の謎となりそう。

……ペンペンだけを見ていたのだろうか。

いってきますお疲れ様でした。

2016-10-19

ヴィジュアル系ポストパンクロックだったのではないか

説を提唱したい。結論を先に書くと、

パンクロック=「社会に対する抵抗としてメッセージを発する」

ヴィジュアルロック=「社会否定するため、あらゆるメッセージ拒否現実からの逃避)」

ということで、形は違えど「社会的な影響を受け、それに反発するためのムーブメント」だったように思うのです。

以下、もう少し詳しく。

まずパンクロックがなんぞやというと、60年代後半から80年代に入るまでにかけてのイギリス経済停滞による社会鬱屈感と、同時期に複雑化しすぎたロックミュージック、両方への反発として生まれ若者中心のカウンターカルチャーの亜種であり、それまでに流行していたファッションに対しても反発する個性的スタイルをとっていたことも特徴のひとつ

対してヴィジュアル系は、特に社会に対するメッセージなどはなかったが、歌舞伎役者ばりの白塗り&奇抜なメイクカラフルな頭髪、中世雰囲気を取り入れたり、ハードロックバンドマンが着ているものを参考に、さらに派手に彩った衣装などとにかく凝った外見と各々独自世界観もつことが特徴であり、音楽性については特に定まった様式はなかった。(強いて言えばバンドサウンドが基本にあり、ハードロックベースとしているというのが共通項かもしれない)

で、ここから本論なんだけど、ヴィジュアル系には「メッセージ主義、主張」ってのは一切なかった。(一部例外を除く)

あるのは、自分たちビジュアルはこうだ!っていう世界観だけ。

これって実は、

メッセージを全く持たないもの信仰する=メッセージ押し付けようとする社会全否定する=パンク

っていう解釈になりえるんじゃないかなと。

当時の社会情勢としては、まず80年代後半にX JAPANが登場。時はバブル絶頂期。景気の良さも手伝ってか沢山のフォロワー誕生する。(ちなみにヴィジュアル系の起こり自体70年代後半までさかのぼれるが割愛。)

次に90年代に入りバブル崩壊。この時点でも世の中はそこまで暗い雰囲気でもなく、ヴィジュアル系は徐々にその勢力を大きくする。後に成功するバンドたちはこのあたりで結成されたケースが多い。

そして90年代中盤。いわずもがな、就職氷河期スタート不景気による世の中の停滞、鬱屈した雰囲気から逃れたくて、若者は縋るものを求めた。そこに、今までの価値観と全く異なるもの体現したカルチャーが表舞台に現れた。それがヴィジュアル系だった。メジャーにも多くのヴィジュアル系バンドが台頭し、大きなブームになった。それに伴い一層先鋭化した個性的バンドが現れたりもした。が、所詮一過性ブームであり、そう長くは続かなかった。

90年代後半。勝ち残ったバンドは僅かだった。そしてその代表であるのがGLAY。だがこのGLAYこそ、じつは本当の意味でのヴィジュアル系ではないと筆者は考える。なぜか。彼らは「メッセージをもったバンド」だからである

もちろんそれは社会体制批判するようなメッセージではない。恋人や友人に語りかけるような、いわゆる普通ポップスロック世界観の上に、ヴィジュアル系の要素を軽く味付けしたしたバンド。それがGLAYであり、その普通さ故にブレイクし生き残ってこれた。

皮肉にもヴィジュアル系ブームで最も恩恵を受けたバンドがじつはヴィジュアル系ではなかったことが、音楽業界では王道的な価値をもったものが生き残るということを証明したのではないかと思う。(GLAYが最も影響をを受けたというBOOWYビジュアル系ではなくロックバンドである

ここから更に話は飛躍するが、このGLAYが最もブレイクしたのと同時期に、ヴィジュアル系のような独特の世界観を持ち、GLAYのような身近なメッセージで大ブレイクしたものあある。ご存知「新世紀エヴァンゲリオンである

既存ロボットアニメからは大きく飛躍した独特のヴィジュアル言い回し、中身があるようで無い、複雑でわけがからないけど「なんかすごい」と感じられる世界観しかし実際テレビシリーズの中で伝えられたのは、視聴者同様の思春期によくある悩みを抱えた主人公碇シンジ成長物語という、とてもシンプルな内容であったことが、この90年代後半の「何に希望見出したらよいかからない世代」に対するヒットの要因であったのではないかと考えられる。(細かくはそれ以外にもたくさんあるんだろうけど専門外なので割愛

さて、時代は回って2016年。この時代代表する音楽文化とはなんだろう?ぼんやりとした括りではあるが、それは「アイドル」ではないかと筆者は思う。

AKB,perfume,ジャニーズ地下アイドルetc、、、それぞれにスタイルは異なるが「メンバー個人に対して熱烈なファンがいる」「楽器演奏ではなく歌とダンスパフォーマンス主体である」「ライブ以外に活動する場所がある」というあたりが共通項と言える。

ではなぜこの時代アイドルがヒットしたのだろうか。

パンク社会に対する明確な反抗であった。

ヴィジュアル系社会に対する言葉なき反抗であった。

そしてアイドルは、社会に対する反抗者への、「癒やしと共感」なのではないだろうか。

我々は失われた20年の間に大きく傷ついた。後退した。その傷を埋めるために「つらいのすごくわかるよ」「一緒にがんばろう」というメッセージを発したのがアイドルたちだった。それは、理由もわからず暗い時代を過ごすことになったゼロ世代にとってとても甘美なものだったに違いない。

アイドルに求められる像というのも、昔は「憧れの存在」であったものが、いまやバラエティ番組どころか街角の中まで進出し、アイドルという唯一の存在でありながら「身近なお兄ちゃん、妹」のような共感を得られる人がヒットしているのもそれを後押ししている。

さてここで気になるのは大ヒット中の「君の名は。である。これもエヴァ考察ヴィジュアル系のそれであったように、アイドルの「癒やしと共感」というキーワードで紐解くことができるだろうか。

そろそろ書くのめんどくさくなったので終了。

誰か気が向いたら続き書いてくれると嬉しいです。

2016-06-12

俺がアニメ映画を挙げる

名作駄作問題作など問わず、なんとなくみんなに見てほしいものを挙げていく。

この映画の話で盛り上がりたいって感じのノリで。

TVシリーズ劇場版とかもあるので単体で見て面白いかとかもあまり気にしてないので御承知を。

老人Z (1991年) 80分

寝たきり老人・高沢喜十郎はある日突然最新型介護ロボット「Z-001号機」のモニターに選ばれ、ボランティアで介護を行っていた看護学校生の晴子はお役御免となるが、介護ロボットに全てを世話される喜十郎をかわいそうに思い、彼の救出を決意する。ところが介護ロボットが暴走をし始めて……。

という高齢化社会を痛烈に批判したSF作品……かと思いきや、作品自体は完全なるコメディで、見ていて超楽しい

大友克洋メカニックデザイン江口寿史キャラクターデザインという豪華なコンビで、作画的にも沖浦啓之、今敏、黄瀬和哉井上俊之鶴巻和哉、本田雄、森本晃司大友克洋中澤一登松本憲生……と挙げきれないほど有名なアニメーターが参加していて、クレジットだけで作画オタクはご飯3杯は余裕である

江口寿史によるキャラクターがとてもよく、まず主人公の晴子がめちゃくちゃかわいい。そして元気な老人たちの存在感、さらには晴子の友達の絶妙なブサイクさ。

80分という時間も絶妙で、気軽に見てほしい。社会問題を扱いながらも妙に心が温まる不思議な作品。

東京ゴッドファーザーズ2003年) 92分

いわずと知れた夭折の天才・今敏監督作品。彼の監督したアニメ映画は4つしかなく、1日あれば容易くファンを名乗れるのですぐツタヤで借りてファンになりましょう。

彼の映画はどれもが90分前後という上映時間でありながら、非常に濃い。

その中でも東京ゴッドファーザーズは視聴後の多幸感にかけてはピカイチで、一番エンターテインメントとしてわかりやすい作品と言えるかもしれない。

次々と転がり込む御都合主義のような幸運。これが気持ちいいのだ。

メインキャストを務める江守徹、梅垣義明岡本綾といったメンツも、非常にいい仕事をしている。

毎年クリスマスにはこれをテレビ放送しましょう。

マインド・ゲーム (2004年) 103分

近年では四畳半神話大系ピンポンなどの監督で有名な湯浅政明の初監督作品。初監督でありながら、文化庁メディア芸術祭ハウルの動く城イノセンススチームボーイをおさえて大賞を手にした。

何よりすごいのは映像で、イマジネーションに溢れたその映像はどんな言葉よりも説得力がある。

後に著作・四畳半神話大系が湯浅監督によってアニメ化されることになる森見登美彦氏も、「迫力でちょっと怖がった」そうである

最初はその独特な世界に戸惑うかもしれないが、終盤の脱出シーンを見ればもはや何も文句は言えまい。

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

説明不要のうる星やつら劇場版。押井守監督の最高傑作として名前が挙がることも多い。

映画としての評価は大変に高いが、これがうる星やつらなのかといわれると、別の何かなのかもしれないという感じがしてくる。

お祭りのわちゃわちゃの中に、不意に違和感を感じさせるものが入ってきて異世界に入り込んでしまったようになる。そういう描写がたまらなく好きである

意味がなさそうでありそうな、哲学的な長セリフも本作の特徴で、言葉にできない不思議な魅力が詰まっている。

特にCV:千葉繁メガネの語りは必聴である

コクリコ坂から (2011年) 91分

宮崎吾朗の才能を信じてもいいかもしれない、と感じさせてくれた一作。ジブリファンも本人もどうしても宮崎駿の影を追ってしまわざるを得ない環境の中、よくこれを作った。

そもそも脚本に宮崎駿が参加しているし、プロデューサー鈴木敏夫だし、どう考えても往年のジブリ作品の系統として作られたのは間違いない。

おそらくは宮崎吾朗が制作を完全に仕切っていたわけではないのだろう。しかし、映画の端々には宮崎吾朗の味が感じ取れる気がするのでこの映画は何かすごい好きである

カルチェラタンの描写には明らかに押井守の影響が感じ取れるしね。

『ローニャ』国際エミー賞子どもアニメーション部門受賞おめでとうございます。

ねらわれた学園 (2012年) 106分

眉村卓の小説『ねらわれた学園』を原作としたほぼオリジナルアニメ

原作のSFっぽい感じは薄まっているが、逆に薄めたことでSF的な部分がわかりにくくなった。

あいうら』『灰と幻想のグリムガル』でおなじみの監督:中村亮介キャラデザ細居美恵子コンビと言えば映像目的だけで見たくなる人もいるだろう。

ふとももに注目せよ。まずはそれだけでいい。

健康的なフェティシズムに溢れたキャラクターと美麗な映像を堪能あれ。

ガラスの花と壊す世界 (2016年) 67分

ポニーキャニオンが開催したアニメ化大賞という賞で大賞を受賞した『D.backup』を原案にしたオリジナルアニメ

原案の拡張性ある世界観と、(おそらくは)予算的にギリギリだった1時間という枠と、とにかくキャラクターのかわいさを押し出したいポニーキャニオンと、映像の美しさを追求したい石浜真史監督とが相乗効果を生んだような生んでいないような作品。

序盤はありがちな魔法少女的なSF作品かと思うかもしれないが、終盤には急展開が続き、頭が追いつかない。

それもそのはず、脚本の志茂文彦によれば、映画の後半部分はほとんどコンテ段階で監督が構成したものらしいのだ。

序盤の丁寧な世界観説明と比べて、終盤がややこしいのは、監督がセリフに落とさず映像に込めた部分が多かったからなのである

さらに、後のトークイベントでは、コンテにすら描かれず、スタッフにしか伝えられていない裏設定が大量にあることが明かされ、「偏差値70のアニメ」との烙印が押された。

宇宙ショーへようこそ (2010年) 136分

監督:舛成孝二、脚本:倉田英之キャラデザ石浜真史という『R・O・D』トリオで制作された劇場アニメ

舛成・倉田は『かみちゅ!』というTVアニメを手掛けていて、劇場公開に合わせてNHKBSでかみちゅ!が再放送されたりBDが発売されたりした。

黒沢ともよの声優デビュー作品でもある。当時はまだ子役であった。

夏休みの子供向け映画といった趣であったが、子供に136分は明らかに長すぎる。ある程度のアニメファンならばこの尺は耐えられるし、楽しめるだろうと思われる。

作画がぶっ飛び過ぎていて、作画的にはスペースダンディ劇場版とでもいうべきレベルである

そして、主人公の少女の健康的なエロさがなんとなくにじみ出ていて、制作者はロリコンなのか?という疑惑が湧いてこないこともない。

海外の映画祭に出品されたりして、結構アニプレックスが期待していたのが窺えるが、やはりなかなか商業的には上手くいかなかったようだ。

上映時間の長さや、超新星爆発についての描写などの細かい部分を除けば、十分に面白い作品であるといえる。

涼宮ハルヒの消失 (2010年) 162分

3時間弱。長い。が、しかし、エンドレスエイトを経験したファンの不安を一掃するほどの高クオリティアニメ化された作品である

それまでの京アニの集大成といってもいい。内容については特に言うことはない。

たまこラブストーリー2014年) 83分

けいおん!で注目された山田尚子監督によるオリジナルTVアニメたまこまーけっと』の劇場版

たまこまーけっと』ではいまいちヒットせず微妙な評価に留まっていたが、これが公開されるとたちまち好評となり、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では新人賞を受賞した。

TVシリーズは、舞台となる「うさぎ商店街」の絶妙で温かな空気感を楽しむ作品であったが、本作ではわかりやすくラブストーリーにしたことで、デートムービーとしても見られる非常に間口の広い作品となった。

どちらの方が良かったとかではなく、単なる魅力の伝わりやすさの違いである。

とはいえ『たまこラブストーリー』は卓越した作品であり、山田尚子の代表作として語り継がれるのは間違いないと思われる。

サカサマのパテマ (2013年) 99分

イヴの時間』などで知られる吉浦康裕監督作品。彼の作品の特徴は何といっても「発想」にあると思う。

独特の間も特徴ではあるが、基本的に彼の作品はある「ギミック」が作品の根本となっていることが多い。

なので、下手に前情報を入れて見に行くよりは、何も知らずに見て新鮮な驚きを感じた方が良い。

この作品もあるギミックが重要なのでそこを面白いと思うかどうか、そこが評価の分かれ目である

Wake Up, Girls!劇場版 青春の影Beyond the Bottom (2015年) 54分/53分

つい先日無期限の休養を発表したヤマカンこと山本寛監督の、いわずと知れたアイドルアニメである

彼についての悪評やバッシングは絶えないが、個人的には彼の作品は好きである

この『Wake Up, Girls!』というシリーズは、まずTVシリーズの前日譚として『七人のアイドル』という中編映画があり、続いてTVシリーズ全12話、そして続劇場版の中編2作といった流れである

TVシリーズ放映時は緊迫したスケジュールによる作画の乱れで物議を醸したが(BDでは修正された)、続劇場版(特に前篇)では非常によく動く。

このまま彼がアニメ制作の現場に戻らないとすれば本作が彼の遺作となってしまうが、遺作の呼び名に恥じない出来の作品であるということは声高に主張したい。

ハイパーリンク」と称してキャラクター中の人パーソナリティや実際の出来事を反映する手法の効果は、続劇場版で見事に結実した。

アニメ創作性と現実の偶然性が合わさってとても気持ちの良いサクセスストーリーになっているのだ。

後篇の『Beyond the Bottom』は田中秀和による同名の主題歌も相まって、非常に神々しい輝きを放っている。

神前暁も「これを超える曲をこの先作るのは大変」と太鼓判を打った。

劇場版美少女戦士セーラームーンR (1993年) 60分

アニメ界の王子、イクニこと幾原邦彦が初めて監督を務めた劇場作品である

この時点から彼の演劇的な作品づくりの手法は発揮されている。

庵野秀明映画館で本作を3度も観たらしく、緒方恵美が演じた衛の少年時代の声を聴いて『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役に抜擢したというのは有名な話である

少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録 (1999年) 85分

同じく幾原邦彦監督作品である少女革命ウテナ』の劇場版

TVシリーズ再構成ではなく、全く新しい解釈で制作されたオリジナル作品

作画的な制約もあったTVシリーズと比べ、かなり大胆に脚色され、より過激となった映像美はまさに唯一無二。

突き抜けすぎて、終盤の車のところでは何が何だか分からなくなってポカンとしてしまう人も少なくないという。

「王子」こと及川光博ゲスト声優として出演しているのもポイント

映画ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー・・・ですか!? (2010年) 71分

京騒戯画』『血界戦線』などで知られる東映アニメーション出身の気鋭の演出家松本理恵の監督デビュー作品。当時25歳。

『ハトプリ』はプリキュアシリーズでも人気の高い作品のひとつだが、この劇場版も非常に人気が高い。

パリを舞台にしていて、OPでのスタッフクレジットが背景に溶け込んでいる演出の時点で何かが違うぞと感じさせる。

メインキャラクターTVシリーズでの成長・感情の変化をきちんと物語に取り入れつつ、本作オリジナルキャラクターであるオリヴィエサラマンダー伯爵の切ない関係を描き、多くの視聴者の胸を打った。

アイカツ! ミュージックアワード みんなで賞をもらっちゃいまSHOW! (2015年) 56分

劇場版アイカツ!』でなくてなぜこれを挙げるのか、疑問にお思いだろう。

というのも、私は熱心な『アイカツ!フリークで、アイカツ!を見始めたのなら劇場版アイカツ!を見るのはもはや自然な流れで、あえて挙げることではないという認識でいるからだ。

ということで、あえてアイカツ!を見る入り口として薦めるのであれば、CGステージをかき集めたこれが良いだろうと思い、挙げた次第である

アイカツ!の楽曲のジャンルの幅広さ、CGステージでの綿密に練られたカメラワーク、そしてアイカツ!という作品世界の持つ空気感を少しでも感じてくれれば後は言うことはない。

劇場版 カードキャプターさくら 封印されたカード (2000年) 82分

少女向けアニメ最高傑作との呼び声も高い『カードキャプターさくら』、その集大成となる第2弾劇場作品。

ラストシーンでは年齢性別問わず多くのお友達をキュン死させ、多くの大きなお友達はそのままゾンビとなった。

セルアニメの末期に生まれた大傑作である

劇場版ポケットモンスター 結晶塔の帝王 ENTEI (2000年) 70分

ポケモンの映画といえばミュウツーの逆襲だったり水の都の護神を挙げる人が多いが、私はこの作品を挙げる。

70分という短さに詰め込まれた「家族愛」というテーマは、子供よりもむしろ親の方に深く響いたことだろう。

当時劇場で見てリザードンに興奮した子供たちも、今改めてみればまた別の感動を味わうに違いないはず。

楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星 (1992年) 62分

テレビアニメ楽しいムーミン一家』の劇場版であるが、本作はテレビアニメの前日譚となるエピソード映画化である

楽しいムーミン一家』はもっと語られていい傑作アニメであり、本作ももっと多くの人に知られて欲しい。(旧ムーミンファンには申し訳ないが……)

子安武人演じるスナフキンによるシュールな悪口が聴けるのもこの作品。

白鳥英美子さんの主題歌もとてもいい。

劇場版銀河鉄道999 (1979年) 129分

いわずと知れた名作『ルパン三世 カリオストロの城』と同じ1979年に公開されたアニメ映画である

実はこの年の邦画の配給収入で1位を獲得している。

70年代を生きたアニメファンにとっては有名も有名だが、今では知名度カリオストロよりも低くなってしまっていて、金曜ロードショー恐るべしといった感じである

エンディング流れるゴダイゴのあの有名な主題歌を聴いた時、あなたはきっと涙を流しているはず。

劇場版エースをねらえ! (1979年) 88分

90分弱に詰め込まれた圧倒的な熱量!THE出崎統

世界はもっと出崎統を評価せよ。

BD・DVDがプレミア化し、配信・レンタルでも見られなかった傑作が、ようやく今年BDの再発売によって見やすくなった。

7月22日発売です。

2016-02-14

リムガルはどう楽しめば良いのかわからない http://anond.hatelabo.jp/20160214013840

好きでもない狩人女のおっぱいに顔を埋めて号泣かいわゆる「強くないアンチヒーロー」を描きたかったの?

碇シンジ代表される主人公類型

それはまあいいけど香典を突き返すのはダメだろ

香典貰って装備やスキルを充実させればパーティから死人が出ることを防げるかもしれないのに

つまんないプライドのためにメンバー危険を増やすとか「強くない」からちょっと違う

愚かなだけ

主人公が弱いのを売りにしてもいいけど主人公たちをヘタレを通り越した「愚か者」にしても視聴者イライラするだけだろう

なんていうかどう楽しめばいいのかわからない

ハルヒロ達がホラー映画で惨殺されるDQNグループみたいな立ち位置しか見えないんだよね

2016-02-13

Qでミサトがついたある嘘と、新世代の思慮不足

コメントありがとうございます(元記事コメント

774さんの意見/主張をざっくりと整理しま

新世代の人々の前に広がった風景(サード後)は、悲惨ものであった

・彼らはそれに触れるうちに慣れてしまった

世界が滅ぶかどうかという危機的状況に置かれている彼らは一個人の生死を優先することができない

シンジ新世代の間にはその点に関し齟齬がある

洗脳猟奇殺人事件と同じく、誰を憎んでいいのか分からない

・サード後はサクラシンジに対し複雑な感情をもって葛藤している

歴史認識(サード、ニアサード)に関して、新世代とシンジの間で相違がある

新世代にとって、シンクロ率とは憎悪/恐怖の対象である

・そのため、サクラ純粋シンクロ率0を喜んでいた

シンジが起こしたサードのせいで、新世代の平穏生活は奪われた

他人を思いやれるほど平和な状況ではない、むしろ十分な対応している

・「怒りと悲しみの累積」をそれぞれが抱えている

・それゆえ、悪意はないにせよ各種の言動に繋がった

シンジ可哀想だが、未来を壊された新世代も同様に可哀想

大体こんな感じですが、もう少し要約したいと思います

<1>

新世代には明るい未来が広がっていたが、サードインパクトによってそれは全て壊されてしまった。サードインパクト後、凄惨風景が彼らの目前には広がり、悲惨暮らしを強いられた。サード(ニアサー関係)を起こしたのは碇シンジであり、新世代は彼に対し複雑な感情を持っている。特にサクラエヴァ搭乗者としてのシンジの側面も兄から教えられているために、余計に葛藤している。

<2>

サードインパクト後、生き残ることで精一杯であった彼らは悲惨暮らしを過ごす中で、人が死ぬことは日常茶飯事になり慣れてしまった。そして、危機的状況の中では人類の存続が最優先であり、シンジ一個人の希望を優先することはできない。この点に関し、シンジ新世代の間で齟齬が生じている。また歴史認識、すなわち「世界はなぜ壊滅的な状況になったのか」という史実に関しても情報錯綜しており、新世代は誰を憎んでいいのか分からない。

<3>

新世代にとって、「シンクロ率」とは憎悪/恐怖の対象であり、サクラ発言純粋な喜びから出たものである他人を思いやれるほど平和な状況ではない上に、各人が「怒りと悲しみの累積」を抱えている。それゆえ、新世代にとって複雑な感情から各種の言動に繋がってしまった。世界崩壊犯人扱いされたシンジ可哀想だが、未来ある人生を壊滅させられた新世代も同時に可哀想存在であり、ヴィレの中に悪者はいない。



まず押さえておきたいポイントですが、肝要なのはサードインパクトです。「破」のラストでは、アスカ精神汚染隔離中、マリと弐号機は戦闘不能に陥り、綾波故障明けの零号機での戦闘を試みるもゼルエルに飲み込まれしまい、残っているエヴァは初号機のみです。

シンジがあのまま残り、何もしなかったと仮定しましょう。そうすると、自ずと零号機と同化したゼルエルは地下のリリス+槍と共鳴を果たし、サードインパクトが起こります。これは旧劇における最後インパクト(初号機+リリス+槍)と同じであり、ほぼ人類生存は期待できません。

すなわち、シンジ勝手な行動を取ろうと取らまいと世界の壊滅は決定的だったわけです。まずこの点が重要。「シンジ勝手な行動を取ったために」世界が壊滅したわけではなく、あの状況においてはシンジの動きに関わらず世界は確実に壊滅します。ダミープラグ処遇を巡ってシンジ追放した時点で、世界の壊滅はほぼ決定的だったのです。これらの事をミサトたちは目前にし、自分たちでは解決不可能問題のを一人の少年に託したはずです。責任転嫁も甚だしい。

そのため、新世代の未来は元々明るくありません。それに加え、戦闘が続き疎開が相次いでいたサード前から推察しても明るいものではありません。戦闘爆弾に見知らぬロボットによる迎撃ドンパチ騒ぎ。当時から元々平和ではなく、明るい未来/今と同じくらいの幸せは元々存在していません。

そうなると、次に問題となるのは「誰が世界を滅茶苦茶にしたか」という史実です。14年間何があったかは分かっていません。しかし、前述のとおり、ミサトたちは一連の内容を把握していますシンジ追放、そして再び手に負えなくなったら都合よく再利用しかも、「自分自身のために!」と応援とまきた。自分たち範疇を超えた問題を一人の少年に託しておいた、これは致し方ありません。初号機に乗れるシンジしか解決できぬ問題ですからしかし、新世代はなぜこの史実を正確に把握していなかったのでしょうか。青葉がビデオも取っていたのに。情報錯綜は当然あるでしょうが凄惨暮らしを強いられたのであるならば、その犯人が知りたいというのは最もです。

14年間の内容は分かっていませんので、ある程度の推察も含みますが、おそらくミサトたちは組織を作るために嘘を伝えました。まさか事もあろうに世界を再建しようとしている幹部たちが、実はこの凄惨な状況を招いたサードインパクト自分たちの力では解決できず、一人の少年に託した上に、失敗に終わった。などという情報を流せば、組織の混乱/疑心は図りかねません。

そのため、「サードインパクト碇シンジによって引き起こされたものであり、自分たちNERVに騙されていた」という主旨の内容を伝えたはずです。そうすれば、ヴィレの総括はしやすくなります嘘も方便というやつですね。その結果、ミサトは建前上シンジに冷たくしなくてはならなかった。オペレーター全員がいる戦闘室ではハッキリと冷たい目線/口調で述べたのに対し、サクラのみが同行した応接間では俯き「もうレイはいないのよ…」と寂しげに呟くだけでした。その後、マーク9の突入時にもサクラがいたために、「身元は私達で管理します、ここにいなさい…!」と言うしかなかったのです。本音はその後のDSSチョーカーの震えに現れている通りであり、シンジ組織統括の大義名分として利用したことへの罪悪感と、そこから生じたシンジの命だけは守りたいというアンビバレント感情の現れです。

新世代には嘘の史実が伝えられました。「碇シンジが君たちの世界をぶっ壊した張本人である」といった旨を教えられたために、たらこ唇は苦い顔をしサクラは憤りを顕わにしました。シンジ新世代の間で、サードインパクト史実に対する認識が異なっているのはミサトの嘘のためです。この齟齬によって、彼らはシンジに対し憎悪/複雑な葛藤を抱くしかなかったのです。旧世代リアクションが異なるのも、嘘があったためと考えると納得いきますね。

彼ら新世代にとっては「自分たち幸せ未来を吹き飛ばしたのは碇シンジである」という史実がありますが、軍人としては問題を分けて考えるべきではありませんか。軍に身を置くのならば、職責と史実は分けて考えるべきです。アメリカ原爆を落とされたからといって、共同戦線を張る際に感情を表に出すなどあってはなりません。さらに言うと、サクラが本当に「サードを繰り返したくない」と考えているのであれば、なおさら自分感情は胸に秘め、”危険対象であるシンジには慎重な扱いが妥当です。シンジ新世代にとって大型地雷みたいなもんで、どこを歩くと爆発してしまうかということには慎重になるべきです。危機的状況が続いて精神的に疲労していたとしても、ここは慎重にならざるを得ません。シンジを最も危険対象として認識しているのであれば尚更、軽はずみな言動は避けるべきです。

さて、シンジはその前のシーンで自己アイデンティティを支えていたエヴァ(「あなたはもう何もしないで」)を奪われ、自己が安定していない心理状況です。774さんのおっしゃるとおり、確かにここのサクラ発言;「シンクロ率は0です。良かった」には曇りがありません。純粋に喜んでいますしかし、前述のとおり、ここは大変に慎重ならざる得ない場面であります。トウジからエヴァ搭乗者であったことをサクラは知っていたはずです、それならばシンジの大変さ/苦労も伝わっているはず。そうであるならば、シンジの拠り所であったエヴァに関する言及は非常に繊細になる必要があります

なぜ、サクラ不用意な発言をしてしまたか。それは、ミサトがここでもう1点嘘を付いていたからです。新世代に伝えられていた2つ目の嘘は、「シンクロ率危険指標である」ということです。サード前はエヴァ搭乗者のポテンシャルを図るポジティブ指標でした。しかし、サードを起こしたのはエヴァエヴァの搭乗者にはある一定シンクロ率必要、そしてシンクロ率危険という考えに至ります。サードを起こしたエヴァに乗るためには碇シンジシンクロ率必要であり、それさえ無ければ金輪際インパクトは起きないと伝えられていたと推察します。ある程度は新世代の思い込みもあります。そのために、「シンクロ率0で良かった」というサクラ不用意な発言に繋がってしまったと考えられます


さて、ここまでの内容を振り返っても、サクラを筆頭に新世代が迂闊であり、配慮に欠けている自己中心的な人物であるという自分結論は変わりません。彼らの苦しみを考慮していなかったのは事実ですが、それらは軍事的な職責とは関係してはいけません。広島/長崎原爆を落とされたからといって、いつまでもアメリカを憎んでいても仕方ありませんし、感情的には理解できても意味のない行動です。ましてや彼女らは軍人マヤさんなんて吹っ切れてビシビシ動いてるじゃないですか、あれもシンジやサードで亡くなった人への贖罪の一つですよ。

もう一つ、彼らが迂闊で自己中心的だというのは、ミサトたちの話を信じこんでしまっている点です。本当にシンジがサードの犯人であるのか、本当に敵であるのか、危険存在であるのか、といったことに思慮を巡らせず、自分たちの都合のいいように解釈し、シンジ原発のような危険物とみなす。悲惨現実は確かに目前にありましたが、そこに思考責任転嫁をするのは納得できません。旧世代、青葉や伊吹日向は度重なる戦闘オペレーションを繰り返して精神がすり減る中でも、自分たちで思慮していました。「ダミープラグは仕方ない措置だった」「そうじゃなきゃ君が死んでいた」と、目前にしたシンジの心情にも折り合いをつけながら分析して答えています。旧世代の行動は利他的ですよね。新世代の彼女から稚拙さが拭えません。感情論支配されている軍人は、利己的/幼稚と捉えられても致し方ないと思われます

また、新世代たちに同情的な目線を向ける必要がなぜあるのでしょうか。そこがよくわかりません。「新世代もいろいろあって辛いんだよ!!だからシンジに気配りできなく当然!!」なんて論理は通りません。彼女たちの先には幸せ未来が広がっていて、なおかつそれをシンジに壊されたと仮定しても、彼女たちに世代的な苦しみへの慮りを要求するのは些か理解に苦しみますシンジ世界をたった一人で守れと言われた、背負わされた、その上理由もなく突然にそれをヤメロと言われた。エヴァを通じて人間関係を築けたのに、アスカ精神崩壊綾波感情リセットされたTV版以上ですね、精神の乱れ具合は。

それで、ぼくは劇中のゆとり世代に腹は立ちますが、物語としては彼らの成長も一つの展開だと思うんですよ。旧世代新世代も力を合わせてお互いに妥協する点を模索して、やっていくストーリーだと思うんです。世代論にかまけてたり、時代環境のせいにするのではなく、当事者意識をもって問題の解決に(能力差があっても)構成員全員で取り組もうというメッセージだと思うんです。左翼/右翼若者/年配で内ゲバ起こしてる場合じゃないんですよ、今の日本って。GDPは下がり年金受給年齢は上がり、消費も増えない。賃金も上がらない。対立してる場合じゃないんですマジで

2016-01-23

エヴァQと旧世紀版のテーマの相違について

エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品テーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。

※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。

TV&旧劇(旧世紀版)のテーマ

新劇場版テーマ考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマ確認しておきたい。

結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしま人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全、(4)馬鹿は死ななきゃ治らない、の4つである。以下詳述する。

(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしま人間の悪辣さ

旧世紀版において明かされる最大の謎と言えば、使徒とヒトとがほとんど同じ存在であるということである。そのことはミサトの台詞から良く分かる。

私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源からまれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類なの。」

そして第24話において登場する渚カヲルに至っては、ヒト以上の容姿能力パーソナリティを持つ魅力的な存在として現れた。そのことはシンジも認めるところで、以下のように述べている。

「そうだ。生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方がいい人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ」

しかし周知のように、シンジはこれを殺してしまう。TV版第25話第26話は主としてこの懺悔に費やされるが、そこで繰り返されるのは、ヒトを守るためには命令通りにカヲル殺害するのは仕方なかったという言葉である

シンジ 「結局、僕はこれに乗るしかないのか?好きな人を殺してまで。父さんやみんなの言う通りに、またこれに乗って戦えっていうの?母さん、何か言ってよ、答えてよ」

テロップ 『何故エヴァに乗るのか?』

碇シンジ 「みんなが乗れって言うから

ここには、人殺しさえも上の命令であれば仕方ないとしてしま人間の悪辣さが表れている。

そしてこの人間の欠陥は、エヴァンゲリオン元ネタとしてしばしば監督自身が挙げる、岡本喜八ブルークリスマス』、富野由悠季イデオン』で繰り返し述べられるテーマでもあり、その両者の背景にあるのは第二次世界大戦である

なお、エヴァ以降の作品であるが、インドネシア大量虐殺を扱ったドキュメンタリールック・オブ・サイレンス』においては、被害者の遺族になぜ家族を殺したと問い詰められた加害者が、シンジと同じ言い訳をしているのが分かる。

(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ

ここでいう大人とは、ゲンドウとゼーレの面々である

劇場版では、上記のようにシンジカヲル殺害させ、深い絶望(=デストルドー)に陥れ、そのデストルドートリガーとしてサードインパクト引き起こしている。

その動機は、ゲンドウについては「ユイに再び会いたい」というもので、ゼーレにいたってはキリスト教的な原罪から人間贖罪させたいというものである。どちらも身勝手な発想に基づくもので、到底人類全てを滅ぼす理由とはなり得ない。

ここには、若者自己エゴの実現のために利用する大人の悪辣さが表れている。

なお、エヴァには影響は与えていないが、深作欣二仁義なき戦い』においては同様のテーマが描かれていて、その背景にはやはり第二次世界大戦がある。

(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全

周知のように、シンジ自分価値エヴァパイロットであることにしか見出せず、それを失って人に見放されることを非常に恐れている。

TV最終話ほとんどこのテーマについての議論に費やされている。その一部を引用する。

碇シンジ 「僕に価値はない。誇れるものがない」

惣流アスカ 「だからエヴァに乗ってる」

碇シンジエヴァに乗ることで、僕は僕でいられる」

(4)馬鹿は死ななきゃ治らない

以上のような問題を抱えた人類は、旧劇場版においてサードインパクト突入し、シンジアスカ以外全滅してしまう。

生き残ったシンジは、隣に横たわるアスカの首を絞めてしまう。これは(解釈余地はあるが)シンジの対人恐怖症がまったく解決されていないことを意味している。馬鹿は死ななきゃ治らないのである

エヴァQテーマ

以上の点を踏まえて、エヴァQでは旧世紀版のテーマをどう扱っているのだろうか。

結論から言うと、シンジは相変わらず人を殺し、大人に利用されている。これは旧世紀版との比較を表にしてみると分かりやすいかもしれない。

旧世紀版新劇場版
殺した対象カヲル君(をはじめとする使徒ニアサーインパクト震源地付近住民
殺害正当化理由上位の命令に従っただけであり仕方がない愛する綾波を救うためであり仕方がない
罪の代償深い絶望周囲の非難
贖罪方法戦自に殺されることを望む2本の槍と13号機で世界の修復をする
上記行為の結果ミサトに自殺を阻止され、戦地に送られるが、デストルドーゲンドウ(とゼーレ)に利用されてサードインパクトが発動。人類シンジアスカを除いて滅亡。世界修復の希望ゲンドウに利用されて、フォースインパクトが発動。目の前でカヲルの首が飛ぶ。

主な変更点としては、①殺害正当化理由が「上位に命令されて・・・」という消極的ものから、「綾波を救う」という積極的ものに変化したこと、②贖罪方法自殺という消極的ものから世界の修復という積極的ものに変化したこと、が挙げられる。

さらに、③「(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなっている。

これらの変更の結果、エヴァテーマは(その善し悪しはともかく)矮小ものとなった。すなわち、旧世紀版においては第二次世界大戦により露わとなった「人類問題点」ともいうべき大問題が扱われていたのに対し、ここで扱われている問題あくまで「シンジ問題点である。このことは、愛する者のために人殺しをしてしまうというのはいかにもフィクションが好みそうなところで、現実でこれが問題となる例は少ないということからも分かるだろう。

さらに、「(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなったことでテーマはより普遍性を失っている。

なぜテーマの変更は起こったか(ここは完全に妄想

上記の点を踏まえた上で、なぜテーマの変化が起こったかを考えてみると、私はエヴァ成功自身結婚が背後にあるのではないかと睨んでいる。

エヴァ成功により庵野自身の生きる価値を見出すことができ、「(3)自分価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題が解決できてしまった。

さら結婚により、人殺し正当化理由として「愛する者を救うため」という理由俎上に載ったものと推測される。

次回作はどうなる?

 Qの次回予告においては、次回作では「ファイナルインパクト」が起こることが示唆されている。しかし、それが仮に起きたところで解決される問題は、上記のようなシンジ個人の問題点で、我々からするとどうでもいい問題である次回作はかなり小規模な作品になるんじゃないかと個人的には思う。

2015-12-16

http://anond.hatelabo.jp/20151216163727

サム・メンデス版

陰鬱生活を送っていた碇シンジ少女との出会いを通じて

人生の再起をはかるもイカれたホモとの遭遇で悲劇の道へと再び引き摺りこまれる、ってあれ?

2015-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20150325023346

愚行権定義だとか、公共の福祉抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態人間社会契約することで社会が成立するだとか

そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ

出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所

Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった

そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた

結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった

人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした

もちろん、アニメというのは個性能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものから仕方ないし当たり前だ

人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する

からこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ描写必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ

さて、細かい経緯を描き並べる

適当に拾い読みしてくれれば良い

碇シンジが首を絞めた理由としては、ここを参考に所が大きい

碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシジレンマになっている状態だ

自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である

精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり対象愛、つまり他者他者として認め愛そうとはできない部分だ

(つまり自分を愛していて、安定しているか他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)

旧劇における結末は、どのようなものだったか

描写としては「碇シンジ他者存在必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう

すべてを一つにしてしま混沌を母的な存在とするなら、自己他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である

父的側面の足りない碇シンジ自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する

(なお、旧劇の該当シーンで地球細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想自分は持っている)

人と他者が分離すれば、そこには常に自己愛の危機がある

ATフィールド訳語絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである

人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない

しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?

碇シンジは旧劇終盤でアスカの首を絞めた

それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している

からアスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した

ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する

さて、旧劇における首絞めの理由共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った

(例として、新劇・破における碇シンジ自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)

そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程結論は間違いだったのかと思った

シンジデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった

そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した

結論から言えば、人は完璧世界(他者が居らず、自己愛けが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ

坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである

生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない

そこまで考え、旧劇における結論他者存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った

碇シンジ他者を認めつつあり、自分葛藤自分なりに処理していくことができるようになるだおる

しかし、その過程にてエラーがあった

碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった

復活したのはアスカだけである自分は思っている

あの世界では、もう生きようと思っても生きられない

さらに言えば、その過程碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界人間の救いを奪ってしまった

そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ

そういう結論から碇シンジ内面が何の関係もない他者人生世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない

いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い

現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界他者が壊れないのと別に

セカイ系においてはそうした葛藤世界他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしま

ある意味で、作品世界全部が主人公と一体化しており

それはその作品世界主人公が神になり、幼児的な万能感を得ているような感触を受ける

からこそ、最初エントリでは「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」と書いた

http://anond.hatelabo.jp/20150325015655

その気持ち悪さを感じるのは自由だし表出ももちろんそうだ。個人的には気持ち悪い、ってのにも同意できる。

でもあそこに描かれてるのはその一歩先のものだろ。

ある個人が「俺の内面問題苦痛絶望その解決は社会全体の存続や幸福に勝る」って考えた時、それを抑制する権利社会側にはない。公共の福祉とやらの理念において、仮にそういう権利だか規制あったとしても現実的抑制する手段がない。ある個人が個人暴力をもって優先を決意した場合、その暴力を止めることができない。警察が駆けつける前に5人やそこらは死傷できるってのが秋葉原事件だし、同じく爆発テロ本質だろ。

そしてそう言った社会破壊碇シンジだけの問題ではなく。気持ち悪く感じているマスダでさえ可能なんだ。「俺はそういうことはしないよ」と思うかもしれないけど、問題はそこじゃなく「可能だ」ということそのもの問題なんだ。俺たちは、そういう、つまり万民万民暴力をふるうことが可能な世界に住んでいるし、その地獄めいた世界をかろうじて現在の形に保っているのは、わずかな理性というより公平とか幸福幻想なんだ。そういう幻想が壊れてしまったとき、俺たちは「自分自身を守るために社会宣戦布告」をせざるを得なくなってしまう。つまり碇シンジだ。あいつはエヴァンゲリオンを持ってるから大規模にできるけど、俺たちだって手持ちの包丁自家用車で十人程度は殺せるだろ。

そういう前提を置いてあれを見た時他人事として切断するのが正しいか否か、ってあたりが俎上に上がる問題だと思うぞ。

http://anond.hatelabo.jp/20150325015655

その気持ち悪さを感じるのは自由だし表出ももちろんそうだ。個人的には気持ち悪い、ってのにも同意できる。

でもあそこに描かれてるのはその一歩先のものだろ。

ある個人が「俺の内面問題苦痛絶望その解決は社会全体の存続や幸福に勝る」って考えた時、それを抑制する権利社会側にはない。公共の福祉とやらの理念において、仮にそういう権利だか規制あったとしても現実的抑制する手段がない。ある個人が個人暴力をもって優先を決意した場合、その暴力を止めることができない。警察が駆けつける前に5人やそこらは死傷できるってのが秋葉原事件だし、同じく爆発テロ本質だろ。

そしてそう言った社会破壊碇シンジだけの問題ではなく。気持ち悪く感じているマスダでさえ可能なんだ。「俺はそういうことはしないよ」と思うかもしれないけど、問題はそこじゃなく「可能だ」ということそのもの問題なんだ。俺たちは、そういう、つまり万民万民暴力をふるうことが可能な世界に住んでいるし、その地獄めいた世界をかろうじて現在の形に保っているのは、わずかな理性というより公平とか幸福幻想なんだ。そういう幻想が壊れてしまったとき、俺たちは「自分自身を守るために社会宣戦布告」をせざるを得なくなってしまう。つまり碇シンジだ。あいつはエヴァンゲリオンを持ってるから大規模にできるけど、俺たちだって手持ちの包丁自家用車で十人程度は殺せるだろ。

そういう前提を置いてあれを見た時他人事として切断するのが正しいか否か、ってあたりが俎上に上がる問題だと思うぞ。

からエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う

「どうしてお前の生きるか死ぬか、より良く生きるか堕落するかの挑戦に他の人間が巻き込まれないといけないんだ」と感じるのだ

あなたと、あなたの周りだけで収束していなさい」と言いたいのだ

「そうでもしないと救われないか?そうでもしないと薔薇花園を諦めたり、望んだりする事が自由にできないのか?」

「お前は世界すべてをまきこんだりする権利があり、全人類代表するような精神性を持つのか?」

碇シンジに言いたいのは、そういう気持ち悪さだ

2014-02-11

暁美ほむらは俺なんだ!」と叫ぶtyokorataに催す吐き気とはなんなのか

ミストバーン暁美ほむら鷹野三四という愛着障害者が物語における敵になる理由 - tyokorataの日記

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20140209/1392025251

タイトルからして吐き気を催すなにかを感じるッ!

邪悪とか漆黒意思とかそういうちゃちなもんじゃねえ……もっとドス黒い吐き気を感じるッ!

ブコメを見てみるとあの人の事をどんな奴なのか知らない人もいるようで纏めてみる。

tyokorataとはなにものなのか

名前の由来はジョジョ第五部のゲスこと「チョコラータ」が元ネタだってバカッターで言ってた。

原作ジョジョを知らない人に説明すると虐殺を楽しむクズ野郎であって、こいつの数ページにわたって無駄無駄ラッシュがかまされタコ殴りにされるというキャラ

でも結局は自分に自信がない現れらしい。

とにかく家族関係コンプレックスがすげーあるらしい。

口を開けば母親への恨みをしょっちゅう吐いてる。あの人と少しでも絡んだ人なら「母親を憎んでいる人」という事はよくわかるんじゃないかな。

ぶっちゃけまどかマギカ特にほむら)に執着してるのも、その碌でもない母親投影してるらしい。溜まったもんじゃないけどな。

そのせいでミソジニーもこじらせてる。昔の作品に拘るけど「強い男、弱い女」がいいらしい。

今までよくTogetterとかで炎上しなかったなこの人……。

最初に言っておくけど、あいつの見てるほむら原作ほむらじゃない。

ゼロ年代セカイ系的な糞ヒロイン」としてのテンプレを詰め込んだモノらしい。

から叛逆で見せたマミさん杏子に対する捨てきれない情とか、さやかなぎさ蘇生させた部分があるという「功利」はない。

からくりサーカスフェイスレスみたいに改心して反省して後悔のままくたばらないと許せないらしい。

その一方でまどマギ以外の虚淵作品にはどうもそれほど執着してないらしい。

Phantom鬼哭街沙耶の唄Fate/Zeroとかもそれほど執着してない。男が活躍するから

サイコパスの槙島の方がよっぽど「愛着障害者」だと思うんだが、多分あいクレイジーサイコホモだし。

でも狡噛からある種の友情みたいなもの向けられてるからどうでもいいらしい。

それが多分見てないか、ぶっちゃけあいつが見てるのは「俺の理解出来るもの」であってそうしたものから逸脱してる作風にも興味ないんだと思う。

ちなみに彼にとって虚淵藤田和日郎先生に似てるらしいが、俺は全く思わんけどな。

少年漫画は大なり小なり「悪い奴は反省させるか後悔させるかして負けなければいけない」という要素があるのもわかるし、荒木飛呂彦先生藤田先生がそういう人なのは分かる。

別にそういう作風が好きでもいいさ。問題はそれを虚淵押し付けるのを当然だと思ってるからその妄言吐き気を催すわけで。

母親ほどではないけど父親やお姉さんにも複雑らしい。

姉だか忘れたけど(もしかしたら母親かもしれないけど)「ナウシカ原作は気持ち悪い。アニメの方が好き」という家族意見に対してキモオタ的な蔑視コメントを吐いてたと思う。

他に好きな作品はジョジョダイの大冒険藤田和日郎作品・荒川弘作品・トライガンヒラコー作品あたりはよく引き合いにしてるね。

あの人どうも最近の作品についてこれない節があって、作品の引用70年代90年代が多い。

別にジョジョネタや懐古ネタだけに特化してれば結構面白い人だと思う。そこは彼の強みだと思うし、ほんと勿体ない。

問題は嫌いなキャラはかなり多い。

まどマギキャラ全般(特にほむら)・ドラゴンボール悟空しょっちゅう叩いてるし、絶対に彼らを認める発言はしないどころかジョジョ藤田作品の下衆キャラと同類扱い。

エヴァアスカを初めとした暴力ヒロイン全般・母性キャラ全般もしょっちゅう叩いてる。怖いらしい。

嫌いなものに対して絶対に認める事とかしない。(例に出すなら、彼がほむら悟空に抱いてる「憎悪」はエターナル東方艦これに対して抱いてるような「憎悪」に近い)

しかエヴァ時代のノリをまどマギ投影しちゃってて、しか虚淵とかシャフトとかと全く無関係の「俺が好きな作品の方が作風は上なんだ!」「虚淵先生だって俺の好きな昔の少年漫画と同じなんだ!」って偏執性がある。

虚淵が昔の少年漫画好きなのはわからんけど(多分好きだと思うがわからん) それが作風投影されてるかっていうとね。

「悪いことした奴は苦しむか反省しなきゃいけない」という倫理に囚われてるんだと思う。

そういう善悪も結局は流動的なのにね。

まどマギ以前のtyokorata

ドラゴンボール』の悟空碇ゲンドウ共通性について - tyokorataの日記

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100512/1273598659

こんな記事描いてたけど、こういう時期はまだ楽しめてたよ。

あんまゲンドウの事触れてないけど、少なくとも悟空キャラ性はあながちブレてなかった。

問題は彼の思考は90年代くらいで止まっちゃってる所でね。

ジョジョ記事は全体的に楽しかったんだけどねぇ。うん。

ただ今思えばあのマンガの「正義」「邪悪」の倫理が彼が頭おかしくした原因なんだと思う。

まどかマギカ以後のtyokorata

まどマギ10話ですごい勢いでぶちギレたらしくて、その日に「ほむらキュゥべえの同類だった」とか言い出してすごい剣幕でほむら叩き出してなんだったんだと思った。

賛否分かれるのは分かるけど俺はあの話すごい好きだったし、何言ってんだこいつと思ったよ。

しかもどんどん「邪悪ほむら」像が蔓延して行って、「まどかほむらキモがってる」とかそういう前提でね。

ほむらフェイスレスという説 - tyokorataの日記 - はてなダイアリー

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110313/1300032043

いやほんとこの人何言ってんだろ。

つーかこの人まどかも嫌いなはずだけど、エレオノールと一緒にしていいのだろうか。

からほむらは「反省するか倒されるしかない」と思ってるのかもしれんけど、それキャルとルイリーと沙耶と切嗣と槙島とシドさんの前でも言えんの?

別にほむら叩いてもいいんだけど、あの人のほむら像って「自分の中で知ってる作品で培われたもの」だからな。

叛逆ほむら民間人に直接的な危害を加えることしなかったし使い魔にもさせなかったこととか都合の悪いもの無視してるでしょ。

そして織莉子さん(スピンオフ「おりこマギカ」の主人公)を引き合いにしてほむらdis(笑)か、織莉子さんも可愛そうだな。

余談

本当に久々にあいつの日記を見たけどこんな事のたまっていた。

>ジョジョ少年漫画に埋め込まれた意図や作者の描いた哲学を掘りだすことがモットーです

何言ってんだこいつ

要するにtyokorataに感じる「吐き気」は「邪悪」なんかそんなものでもない。

> きもちわるい

ですよ。

> 私は貴方じゃないもの

> 自分しかここにいないのよ! その自分も好きだと感じた事ないのよ!

ほんと、この人はまどかマギカに触れておかしくなったと思うのでそういう意味ではすごい同情してます

どうしてあんな吐き気を催すキモい人になっちゃったんだか。

追記

別にほむらがどうとかじゃなくて、彼の言う「暁美ほむら」への自己投影うんざりするというだけです。

碇シンジは俺なんだ!」的なそういうノリなのかもしれませんけども、あれは自己投影するようなキャラでもないし、

そもそも「自己投影やすく屈折したほむら」なんですよね。ヘイト創作キャラをゆがめる手法のもの

他の漫画は見れてるけど、まどかマギカに関しては間違いなくあの人作品を見てないし、自分しか見ていない。

そういう態度が「吐き気を催すキモさ」を感じるんですよね。

もうちょっと他人を認めてもいいのに。

2014-02-10

フィギュア羽生選手プラグスーツを着せた画像が削除された経緯

まったく盛り上がっていないようですが調べたのでまとめておきます

発端(2014/02/08 01:07:30)

現在は削除済み)

非実在少女さりー

@sally_ism

羽生結弦くんは碇シンジ君のプラグスーツ着て残酷な天使のテーゼで踊ったら世界が涙するから絶対やったほうがいい』っていうツイート激しく同意したのでとりあえず画像つくりました。渚カヲルくんの画像しかなかったごめん。でも、あの、やばい…!

http://t.co/z912ZfCOeX

https://twitter.com/sally_ism/status/431821531224621057


RTRTアンRT

シンジくんの中の人RTしたことにより大フィーバー

緒方恵美 @3/8・9_Live!

‏@Megumi_Ogata

Σ(゜ロ゜;)違和感ナサスギ RT @sally_ism 『羽生結弦くんは碇シンジ君のプラグスーツ着て残酷な天使のテーゼで踊ったら世界が涙するから絶対やったほうがいい』っていうツイート激しく同意したのでとりあえず画像つくりました。 http://twitter.com/sally_ism/status/431821531224621057/photo/1pic.twitter.com/QQyj0ESa9S

https://twitter.com/Megumi_Ogata/status/431929299981963264

まとめにも着火。

【中の人も納得】フィギュアスケート選手・羽生結弦さんが碇シンジに似てると話題にwwwwwww : はちま起稿

【画像】羽生結弦くん、碇シンジに似てると話題 中の人も絶賛しててワロタwwwwwwww

男子フィギュアの羽生くんがエヴァンゲリヲンのプラグスーツが似合いすぎると話題 | 男子ハック

キャッキャッキャ

非実在少女さりー

@sally_ism

さっきの羽生結弦×プラグスーツ画像、なんか足らないなーとおもったら、インターフェイスヘッドセットつけるの忘れてた!くやしい!でも無くてもかわいいのでよし! https://pic.twitter.com/QYOFG7uBSu

posted at 03:46:09

https://twitter.com/sally_ism/status/431861456095567872

(↑削除済み)

非実在少女さりー

‏@sally_ism

さっき自分羽生くんプラグスーツコラ画像つくったけど、地味に蒼穹のファフナーシナジェティックスーツも着てほしい。露出高くて申し訳ないけどあれかっこいいから好き。

10:18 - 2014年2月7日

https://twitter.com/sally_ism/status/431854617660379136

非実在少女さりー

‏@sally_ism

なんで緒方恵美さんにまで届いてるんですかもうしわけない…

17:42 - 2014年2月7日

https://twitter.com/sally_ism/status/431966120170754048


ぶっこみ

森ミャン丸

‏@morino_kage

@sally_ism @pinkjyoudai  RTよりしつれいしま

画像の方の加工許可は取ったのでしょうか?ご本人の呟きを見るとそうではないらしいですが…

顔を挿げ替えても本人や周囲の方々には分かりますよ?

コスプレイヤーさんにも肖像権があります

確認の為教えて下さい

1:05 - 2014年2月8日

https://twitter.com/morino_kage/status/432077674303873024

画像がこちら

est

‏@est_ll

( ━☞´◔‿ゝ◔`)━☞ pic.twitter.com/xMzdJAgU9j

18:20 - 2014年2月7日

https://twitter.com/est_ll/status/431975885147631616


そして削除

非実在少女さりー

‏@sally_ism

わーすいません思った以上に広まっててご迷惑をおかけしてしまいました!該当のツイートは消しました。海外サイトでの拾い画だったので出典がわからなかったんですが、元画像の方は日本の方だったんですね。ごめんなさい。今日バイトなので、後日改めて対応いたします。

4:19 - 2014年2月8日

https://twitter.com/sally_ism/status/432126643591577600

最初↑のツイートだけ見て、おっ無断転載案件か?「ワシがつくった」連呼しといて?(ゲス顔)と思って調べ始めたら予想外の展開。

加工済みの画像が「拾い画」なんじゃなくて、首をすげかえた元のコスプレ画像が「拾い画」だったと。

レイヤー本人(est氏)ではなく森ミャン丸という第三者?が激おこで、さりーちゃんにぶっこんだ結果→削除という流れだった模様。

まあ突っ込もうと思えば、首から上の羽生選手写真だってどこから持ってきたの?カメラマンの許可は取ってるの?と言えるわけで…

ソーシャルネットワークされちまっている昨今、どんなところから弾が飛んでくるかわからないもんですね。

こちらからは以上です。

おまけ

est

‏@est_ll

しかし首から上を挿げ替えられるとは…渚カヲルとしては…ある意味因果なの…か…

17:51 - 2014年2月7日

https://twitter.com/est_ll/status/431968620441108480

2013-06-13

ごめんなさい。すみません。申し訳御座いません

なんでこんなに毎日謝らないといけないのかなぁ、とふと思った。

毎日毎日仕事上で謝ることばかり。

ちょっと報告が遅れた…

連絡方法を間違えた…

相手の意図を分からなかった…

忘れた…

誤字脱字があった…

計算を間違えた…

言い方が悪かった…

etc..

ともかくそんなことが毎日あって、毎日のように叱られる。

俺は社会不適格なのかと思うことも度々ある。

会社行きたくない毎日

逃げるようにして退社する毎日

電話が鳴るたびにビクビクする毎日

家にいても、いない間に何か起きてないかと心は休まらない。

それら謝る時ですらも、誤り方に間違いはないか言い訳になってないか、余計な事は言ってないか、そんなことばかり考えている。

 

みんなそうなんだよ、と言われても心は落ち着かない。

「逃げちゃだめだ!逃げちゃだめだ!逃げちゃだめだ!」

そうやって碇シンジのように結局「何もしない」だけの人間に落ちていくだけなんじゃないだろうか、と思ったりする。

 

俺、何のために生きてるんだろう…

2013-05-16

青二才氏の『俺ガイル』評について解説を試みる

進撃の巨人ネタで気分がよくなった青二才が再び俺ガイル語りに挑戦 

今週の俺ガイル見て個人的に、突っ込みたいことをしばしば。別に続きがあって、別の結論があるんだろうが「誰にだって優しい人」何か本当はいない。これだけは言わせてもらいたい。『苦労背負い込んで生きたがるマゾ』『義理堅いゆえに恩を返さずに居られない人』だってだれでもそうとは限らんよ

少なくとも、僕は俺ガイルの彼に匹敵するぼっちだ。友達がいるとかいないとか以前に、友達ってもんが作ってもはぐれっちまうものだと13で気づいた。絆ってもんは賞味期限があって…1年に一回は上書きしないと維持すらままならない。3年に一回はリスペクトしたくなる場所居合わせないと…らしいぜ

人は熱しやすく冷めやすいからね。短期的には、好印象で優しい人からもそうでない人からも好かれる事はできる訳だ。由比ヶ浜ってキャラクターはそのことを知ってる。短期的にモテたくてやってる部分と中長期的に愛されたくてしてることを彼女はわけてる。俺ガイルアニメはそこらへんがあじな演出だよ

俺ガイルが好きになれないのは、主人公伊藤誠よりも碇シンジよりも、アニメ史に残るレベルで僕が拒絶しちゃう主人公から。「負けることについては最強」だって?年がら年中どころか、人生の9割は負け組人生送ってきた俺の前で言うなよ!負けの最強(マイナスの中のマイナス)は俺だよ。…ほざくな

主観主観だとはねつければそれで終わっちゃうんだけどね、人は主観で生きてるからこそ尺度次第では相手の価値観の一歩先を行ける。少なくとも俺ガイルが描こうとしようとしてるものってその点でおおよそ言い分はわかっちゃう上で「これ、高校生にやらすのはおかしい」って僕は言いたいのよ。

出会いと別れとか、友情ってテーマは高校まであんま考えない。高校時代にはスクールカーストの序列の中で生きてるから自分の持ってる友達観・友情観・それに関する言葉の重みや信用性に左右され本質的なところが見えない。だから、話聞いてて、「そこで分かった口を聞くなよ」と腹が立つ訳だよ

俺ガイルの歪さって、友情の先にあるもの言葉の重みの裏付けとなるものがどうしてもスクールカーストに吸収されていく点。大人になれば、彼らの思い込みや虚構は良くも悪くもリセットされ、友情や感情意味もっと深く知ることになる。その時に悟ったことを高校で再現しようとするからなんか不自然

原作見ないでアニメを見る面白さ、ほんのページをめくる楽しさって、何が出てくるかわからない手探り感なんだけど、俺ガイルに僕がそれを見いだせないから楽しめない。描きたいものも演出的・フラグ意図もわかる。だが、知ってるからこそ見えると萎えものが先々に見えて没頭できない。反論が出る

ハリネズミなんだよね。毒付きあうことでしか人と付き合えない、某ネットコミュニティーみたいな痛々しさを俺ガイルを見てて感じる。殺風景でそれを知る人がリアルで口を開くと全員が全員不幸の産物のように語る。それをさも正しそうに語るから俺ガイルってアニメ原作にはほとほと呆れるのです



とりあえず翻訳してみる。

---

今週のアニメ『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』(以下『俺ガイル』)への突っ込みを暫し書かせてもらう。もちろん、アニメには続きがあり、そこでは別の結論が出されるのだろうが。これだけは言わせてもらいたい。「誰にだって優しい人」なんて本当はいない。「苦労を背負い込みたがるマゾ」「恩を返さずにはいられない義理堅い人」だって、そう多いとは思えない。

私は、『俺ガイル』の主人公匹敵する “ぼっち” だ。友達を作らないわけではないが、作ってもすぐにはぐれてしまうのだと、13歳のときに気付いた。絆というものには賞味期限があり、一年に一度は上書きしないと維持することができない。さらに三年に一度は、その人をリスペクトしたくなる場面に居合わせないといけないらしい。

人は熱しやすく冷めやすい。短期間なら、優しい人からも、そうでない人からも、好かれることはできる。由比ヶ浜というキャラクターはそれを知っている。短期的にモテたくてしている行動と、中長期的に愛されたくてしている行動を、彼女は分けて考えている。そのあたりは味な演出だ。

私が『俺ガイル』を好きになれないのは、主人公をどうしても拒絶してしまうからだ。伊藤誠よりも碇シンジよりも。「負けることについては最強」だって? 人生の九割で負けてきた私の前で言うなよ。負けの最強は私だ。ほざくな。

主観主観だとはねつければそれで終わってしまう。しかし、人は主観で生きているからこそ、尺度次第では相手の価値観の一歩先をいける。『俺ガイル』が描こうとしているもの、そのおおよその言い分を理解した上で、私は「これを高校生やらせるのはおかしい」と言いたい。

高校に入る以前は、友情というものについてあまり考えない。高校生になってからは、スクールカーストの中で生きていくので、自分の思い込みの友人像に翻弄され、友情の本質を見ることができない。だから高校生の話を聞いていて、「分かったような口を利くなよ」と腹が立つのだ。

俺ガイル』の歪さは、友情の先にあるもの言葉の重みの裏付けとなるものが、どうしてもスクールカーストに吸収されていく点にある。大人になれば彼らの思い込みや虚構は良くも悪くもリセットされ、友情の意味もっと深く知ることになる。その大人になって悟ったことを、高校生主人公とした作品で再現しようとするから、不自然に見えてしまうのだ。

原作を読まないでアニメを観ることには、何が出てくるか分からない手探りの楽しさがあるのだが、『俺ガイル』にはそれを見い出せない。描きたいものも、演出・伏線意図も分かる。分かるからこそ、先々に萎えものが見えてしまい、没頭できない。反論が口をついて出てしまう。

ハリネズミなのだ。毒づき合うことでしか人と付き合えない、某ネットコミュニティのような痛々しさを、『俺ガイル』を観ていて感じる。口を開けば、すべてが不幸の産物であるかのように語る。そのような痛々しさを肯定して描くから、『俺ガイル』というアニメ原作には、ほとほと呆れるのだ。

---

意味不明な箇所が多々あったので、かなり意訳した。解釈に間違いがあれば指摘して欲しい。

元増田の方で

自分は13歳でわかった」けど、「高校生にこんなこと理解できるわけがない」という主張している件について納得の行く説明をしてくれ

とあったが、

青二才氏が「13歳でわかった」のは「自分友達が出来ても長続きしないこと」、

青二才氏が「高校生に理解できるわけがない」と言うのは「友情の本質」なので、

まあ矛盾してはいないんじゃないかな…。

2013-01-22

個人的にはかなり満足度の高かったヱヴァQ感想

どこの集計かもよくわからんのですが、ヱヴァQの評判が悪いそうで。

そう思う人が多いのも仕方ないとも思うのですが、個人的には楽しめたのでそのあたりについて

ヱヴァ解釈論ブーム」が落ち着いてきた感のある今頃になって適当に書き綴ってみる。


キニートが一念発起してちょっと間違った方向に全力で頑張ってしまったヱヴァ破のラスト

ヱヴァQを語るうえで前作とのつながりについては言及しないわけには行かないですね。

たぶん今回ヱヴァQがっかりした人は結構割合ヱヴァ破のラストにグッと来ていたと思います

かくいう私もグッと来ました。シンジさんかっこよかったっすね。

でも、あれってヱヴァQ見てから再度見直すと、シンジさんのちょっとしたミスが気になってしまます

それは、


「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波は…せめて綾波だけは、絶対助ける!」


というシンジさんのセリフです。

これがシンジさんをシンジさんたらしめているセリフなんですが、ここに含まれるちょっとしたミス

のちの世界に多大な影響を及ぼしてしまます


そうです。「世界がどうなったっていい」という部分は口にしても願ってもいけなかったんです。

だってヱヴァ初号機とシンジさんの組み合わせではその願いが具現化してしまうんですから

シンジさんの願いを叶えるべく、初号機さんは世界犠牲にしてでも綾波を救おうとしちゃうんです。


ここでのシンジさんの不幸は、己の力量を正確に把握できていなかったことでした。

己の何気ない考えや言葉世界に及ぼす影響をまったく考えていなかったことでした。

あの時のリツコさんの言葉が本当なら、とことん貪欲に「世界綾波も救って幸せ暮らしてやる」って願えば

世界への甚大な影響はなかったんじゃないんでしょうか?それとも「古い生命体は滅ぶ」の方が優先されるんでしょうか?

そんなのみんなで新しい生命体になればいいじゃん!Yes貪欲!No More 遠慮!


やりきった達成感でポジティブシンジさんとそのせいで多大な迷惑を被った周りの温度差が著しい序盤

そしてヱヴァQの序盤です。

我らのヒーローであるシンジさんが周りからひどい拒絶を受けてしまう序盤ですが、これもこの時の状況を考えると

周りの反応も仕方ないんではないかと思ってしまうんです。

だってシンジさんのせいで被害を被ってない第三者である我々視聴者はともかく、ヴィレの面々はシンジさんが

間違った方向に全力出しちゃったせいで甚大な被害を受けた被害者なわけです。

それだけでも拒絶するに十分な理由なのに、あろうことかサルベージ計画実行中に覚醒してます

回収後の調査で科学的には14年前の碇シンジという個体と同一である可能性が非常に高いという結果が出てるとはいえ、

世界犠牲にして綾波を救おうとした生命体が情報収集のために碇シンジという生命体に擬態している可能性もあるわけです。

おいそれと警戒を解くわけにも、情報をべらべらしゃべるわけにもいかないのは、ヴィレ側の立場としては仕方ないのではと思います

いつまた世界犠牲にして綾波を救い出そうとするやもわからない生命体に心を開けという方が無茶です。

まぁ、結果としては「綾波なんて救えてないよ」という絶望的な現実シンジさんに伝えてしまうわけですが。


無い勇気を振り絞って頑張った結果が徒労だったという現実直視できない中盤

外見や声だけはまるっきり同じの綾波モドキがシンジさんを悲しい現実から救いに来てくれちゃったおかげで

シンジさんは現実から目をそらして綾波モドキと一緒に逃亡します。

「やっぱり綾波は救えていたんじゃないか」という自分の信じたい現実(虚構)が目の前に現れてくれたおかげでシンジさんは

まだ何とかポジティブです。しかしそれも徐々に揺らいでいきます

自分が救ったはずの綾波(モドキ)が自分の知ってる綾波と違うことが徐々に露わになり始めますが、シンジさんはその現実から

目をそらしてしまます。その現実逃避がよく表れているのが「綾波段ボール小屋の前に積まれた本」ですね。

「お前は俺が救った綾波のはずだ」という願望の押しつけを積み重ね、それでも無視する綾波モドキに対してついには「もういいよ!」と当り散らして

積み上げた本を散らかしてしまます。高く積まれた本が崩れる様は、シンジが「自分努力は徒労どころか害悪しかなかった」という

つらい現実をやっと受け入れたことを表していたように思います


この綾波モドキとのやり取りと並行して描かれた、ヱヴァQで評判の悪い真夏(かどうか不明)の昼の淫夢にも触れなくてはならないでしょう。

つらい現実から目を背け続けるシンジさんをカヲル君は優しく慰め、つらい現実を優しく噛み砕いてシンジさんに受け入れさせようとします。

拒絶と無関心しかない世間で唯一自分を認めてくれる存在が目の前にあれば、だれでもそれに縋るでしょう。ほかに縋れるものなんてないから。


そしてカヲル君はこのどうしようもない現状の打開策(とカヲル自身が信じている事)をシンジに伝えます

そりゃやるでしょう。受け入れがたい現実を受け入れたことでシンジさんは自分にとてつもない力があることだけは自覚できたからです。

自分には力がある。前回は使い道を間違ったけど、今回は道しるべを示してくれる人がいる。これはいける!」

この時点で道しるべを疑うことをシンジさんに期待するのは酷というものです。


また間違った方向に全力で頑張って、たった一人の友達を殺してしまった終盤

不吉な番号が付いた13号機に二人で乗り込み、汚名返上のため再度やる気120%のシンジさんは、視界に入る大好きだった綾波似て非なる生命体を

疎みながらも目的のために前進します。

そこで、自信満々でシンジさんを導いてきたカヲル君が異変に気づきます

「何かがおかしい」

でもシンジさんは止まれません。

だってもうすぐ汚名返上できるんだから

自分努力した結果が正しい方向に修正されるんだから

目の前に広がるクソッタレ現実から逃げられるまであと一歩というところまで来てるんだから

ここまできてもシンジさんの行動の原動力は「現実逃避」です。

船頭が迷い始めているのに漕ぎ手が止まりません。

もうすぐ答えに手が届きそうなときに「なんか不安からやめよう」なんて言われても止まれません。

なぜならこの言葉シンジさんにとっては「このクソッタレ現実ともうしばらく付き合おう」に等しいからです。

「もうすぐでこのクソッタレ現実から逃げきれるのになんでわざわざつかまってやらなきゃいけないんだ」

と考えてしまうのも無理はない。止まれない。

そしてまた世界に多大な迷惑を及ぼしかけてしまます


2度も多大な迷惑をかけたにも関わらず息を切らして駆けつけて助けてくれる美少女が居る幸せに気づかないニブチン

せっかくやる気を出したにもかかわらず2度やって2度失敗してしまったシンジさんは絶望してヒキニートに戻ります

仕方ないことですね。頑張っても無駄だったんだもの。むしろ害悪だったんだもの。2度やって2度とも。

自分が頑張れば頑張るほど他人が迷惑する」というつらい現実と2度も直面させられては、こうなってしまうのも無理はない。


しかし、俺はシンジさんが羨ましくて仕方ない。

だってこんだけ迷惑かけても、息を切らして自分に駆けつけてくれる絵にかいたようなツンデレ美少女が居るんですよ?

ふざけんな、何がシンジさんだこの野郎。かわいそうな自分に酔ってんじゃねぇぞ。

こんなに幸せ物語ありますか?超絶ご都合主義アニメじゃねーか。

映画感想を分かち合う友人もいない、人生の伴侶もいない、電話の着信履歴が1年近く残る、メールが来るのはスパムだけな俺より全然マシじゃねーか。

いっちょまえに絶望気取ってんじゃねぇぞ。どんだけ幸せなんだこの野郎。



シンジさん改めボケカスキニートシンジの心の変遷をたどりながら2回見ました。

同じ映画を2回見たのはこれが初めてです。

世間的にはクソ映画なのかもしれませんが、俺にとってはかなり満足度の高い映画でした。

まぁ、こういう意見もあるってことで。

2012-11-25

エヴァQのまともな見方

ネットサーフィンしてるといやでもエヴァQの感想がめにつく。

やれループだやれ巨神兵だやれミサトさんひどいだ……。

どうしてそんな穿った見方しかできないんだろう?

とりあえずどうしてもエヴァループものにしたいやつはまどマギを楽しみにしたほうがその人のためだし、

巨神兵までエヴァの一部みたいに思っているやつは風の谷のナウシカという漫画を一度は読むべきだし、

ミサトさんひどいとかいってるやつはもうちょっと人の意図というものを読み取る訓練をしたほうがいい。

しかエヴァというのは穿った見方をさせようとするような磁場がある。

とくにテレビ版と旧劇はそういう性格が色強くでていたと思う。


けれど、新劇はまったく違うストーリーの描かれ方をしている。

新劇は、ヱヴァンゲリヲンといったっていいけれど、これは前と違って至極真っ当な物語なのだ


それは序、破ではみんなわかっていたはずで、

かつてのエヴァにくらべると真っ当だ、ということを強く認識していたはずで。

でもQの極端な急展開にめくらましを食らっている。

繰り返しになるが、僕が強く主張したいのは、新劇は、とても真っ当な物語である、ということ。

そしてどこまでも観客のために作られている作品だということ。

前置きが長くなったけれど、タイトルどおり、まともな見方を提示したいと思う。

エヴァQという作品の肝心な部分は、

碇シンジを観客のラインまで下ろしてきて、感情移入できるキャラにする、というところだ。


直行って第壱話からぼくはなんでシンジエヴァに乗ったのかわからなかった。

そりゃ綾波だとか親父だとか、そういった要素で乗ったという論理は捉えられたけれど、

その気持ちを理解できるかといえば完ぺきにノーだ。

時はたち、彼は序、破とどんどん成長していって、シンジさんなーんて呼ばれるような大人びた存在になってしまう。

そこにいるのは僕ら――この二十年近く前のアニメリメイクをよろこんでみている僕らとは、まったくかけ離れた存在だ。

あのシンジさんに感情移入できるという無自覚なリア充

どうぞエヴァQをクソつまらんといって月9ビブリア古書堂でもみてください。

もともとエヴァの、シンジの魅力というのは、どこか僕ら側にいる主人公だ、という点だったはずなんだ。

それがTV版では話が進むうちによくわからなくなっていって、

旧劇の完全に狂った彼の姿は僕らとはまったく関係ないところにあった。

それとベクトル真逆の方向を向いているけれど、破でもシンジも僕らとは関係ない存在だったわけだ。

綾波を、返せ!」というセリフをはじめて耳にしたときの印象を思い出してほしい。

僕はまったくしっくりこなかった。どこかそれは英雄じみていたから。

こんなクソみたいな生活を相変わらず続けているる僕とは似ても似つかないキャラクターだった。

でも僕は破に夢中になった。爽快だったし、ポジティブ綾波アスカ快楽主義的な立場で可愛さを感じたから。

そしてQだ。はじめて見たときは面食らった。

14年後って設定もヴンダーデザインもゲンドウのサングラスもなにもかもに。

面食らっているうちに『つづく』の文字が黒背景に浮かんでいた。

見終わったあともしばらくポカーン状態がつづいていたけれど、一日くらい経つと、何か残るものがあった。

見事なまでに、僕とシンジの心象が重なり合っていたのだ。

というより、自分映画を見ながら思ったことを、シンジが感じていたことだと考えてみると、

とてもしっくりいくことに気付いた。

起きたら14年経っていたときの驚きがまずそうだろう。

あのヴンダーだとかサングラスだとか新キャラだとかの強烈な違和感

冗談だろと思いながらも、でも14年は立ったんだ、それはまるで旧劇から今までの時間のように、という曖昧な実感。

崩壊したネルフ本部、アヤナミレイに覚えてしま嫌悪感

24話んときはどうもキモかったカヲルくんにも、妙な親近感がある。こいついいやつだな、という。

そしてサードインパクトの結果も、『急にこんなこと言われたってなあ……』という、

自分関係ないといったような無責任感情

そして、『この世界をやり直したい』という強い気持ちと、2本の槍にすがってしまう気持ち。

なにもかもが手に取るようにわかったのだ。

いままでのシンジの行動は、観客が責めることができるか、褒めることができるか、そのどちらかだった。

でもQでの彼の行動は、どこまでも理解できるものだった。

そしてシンジの行動を観客に理解できるようにするには、この構成とストーリーは、必要不可欠であるように思うのだ。

ミサトさんだって『行きなさいシンジくん、とか言ってたくせして、あなたは何もしないで、といってひどいやつ』

みたいなコメントをいくつか見かけたけれど、ちゃんと映画全部見たのか疑うレベル

もしくは親から先生からもしつけられたことのないゆとりか。14歳の感想だったらゆるせるけれど。

エヴァQをつまんなかったというひとは、ハリウッド映画みたいなのを期待しているならもう見ない方がいい。

逆に、謎の考察ばっかしてる加持リョウジじみた人は、もうちょっと主人公たる碇シンジ視点によってあげてほしい。

いまさら人類補完計画の全貌がなんだろうが、どうでもいいでしょう? ゼーレの正体とか気になる? 

いまだに本気でTV版の伏線まで回収してくれるなんて思っちゃいないよね? 先はどんなに予測しようが何の意味もないし。

伏線の回収なんかより、胸踊るサスペンスなんかより、キャラクター同士の馴れ合いなんかより、

描くべきものというのがあるはずなのだ

これは厄介なことに巻き込まれた14歳の少年ドラマだ。

そして14年前、旧劇で『現実に戻れ』とバケツ一杯の冷水を浴びせられながらも、

学びもせずまたアニメらしいアニメを期待していた僕らへの、再びのメッセージなのだ

しかし旧劇のように、庵野さんは水を浴びせるだけで済ますのではない。

観ることで自分現実にまで意識がいくように、丁寧に構成を組んだのだ。

そして、僕たちにはまだシン・エヴェンゲリオンが用意されているというではないか

なんてサービス精神の旺盛な人なんだろうか、庵野秀明という人は。

僕は、エヴァQは一つアニメ新天地を切り開いたと思っている。

あのテレビのエセ心理描写なんかじゃないほんものドラマを、

少なくとも碇シンジに関しては成立させているように感じた。

冒頭の宇宙描写の精緻さが話題になっていたけれど、それと同じように、

キャラクターの気持ちを精緻に描いてみせたのが、エヴァQなんじゃないかね。

2012-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20120405153002

そんなのキチガイだろ。

自称14歳のキチオッサンの話なんかしてない。

14歳のように親に依存し、社会ケチをつけ、責任を負わず、周囲に期待するだけの自覚のない無力なオッサンが問題なんだよ。

え、じゃあいよいよ測定基準が曖昧だし

そもそももう碇シンジともアニメとも関係ないじゃんそれ別に


どんどんわけわかんなくなってない?

http://anond.hatelabo.jp/20120405150116

14歳の碇シンジに同じ目線共感してるオッサンもキッツイ。

お前加持リョウジの歳超えてるからね、とか、どうかすると碇ゲンドウの方が歳近いからね、と言いたくなる。

「同じ目線で」共感してるかなんてことが

本人ならぬお前にどうしてわかるのか不思議なんだよ。

そんなの下手すりゃ本人だって判然としないだろうに。


たとえばミサトの話をするときミサトさん」と呼ぶ30歳のオタクが居るとして、

そいつが「ミサトさん」と発声するときに、

1・14歳のシンジになりきって保護者のお姉さんを見上げてるのか、

2・入れ子細工のようにシンジミサトの関係性を楽しんでるだけなのか、

3・または全然別な感情や文脈をこめてさん付けしてるのか、

なんてことをどうやって判断してるの他人が?


前述のオタクが1なら一次試験を通過するわけだけど、

元増田の話に当てはまるにはまだ二次試験も通らないといけない。

二次試験は「アニメ消費以外の場面でも14歳になりきってるか」。


どうやって判定するのかなぞだし、

それにもし二次試験に通っちゃったらそいつふあそれのみで精神異常者確定なんだから

アニメゲームがどうこうの話や一次試験関連の話は一切必要ないよね。

2011-02-20

なぜ『魔法少女まどか☆マギカ』は物語を放棄したのか?

純粋不思議だ。なぜ『まどか』はストーリーを持たないんだろう。

もう第7話だっていうのに、魔女の正体が徐々に明らかになるわけでもない、キュウベェの目的が明らかになるでもない。

ましてや最初期に見せたセッティングが深化を見せるわけでもない。

7話までに起こったことといえば、マミさんが死んだことと、さやか契約したってことくらいだ。あと赤い髪のキャラが出てきた。一行で説明できる。

やっていることといえば、「葛藤」だ。本来自己外部から襲ってくる「事件」、それらとの折り合いの中で葛藤が生まれるはずだ。

しかし『まどか』ではそういったコンテクストから独立した抽象的な「葛藤」そのものを扱っているように見える。こんな歪な構成アニメはそうそうお目にかかれるものではない。

碇シンジくんもエヴァンゲリオンに乗るかどうかで葛藤したしかしそれは彼の周囲の人間関係が孕むドラマがあってのものだったはずだ。

まどか』も、正体不明の魔女が襲ってくるだろう、とするには、その”魔女”の輪郭はあまりに抽象的なのだ。例えば、セカンドインパクトが起きて人類の半数が消滅…という具体的な輪郭を持たない。

さやかけが申し訳程度にバックグラウンドを持っているくらいだ。

なぜだろう?魔法少女的なコンテクストをあえて無視した仮説を立てるが、

大きな物語を捨象して生活感・空気感、あるいはとめどないガールズ・トークといった要素を抽出した空気系」のジャンルゼロ年代に勃興したように、

セカイ系から大きな物語を排し、セカイ系的な空気感のみを取り出したアニメが現れはじめたのではないか

エヴァンゲリオンからディティールを捨象し、「葛藤」だけを抽出したアニメ

それが『まどか』の正体なのではないか、と。

追記(2011/2/23 21:00

ええっと、皆さんお察しのとおり、大して何も考えず思いついたことをザザッと20分くらいで書いただけの頭の悪い記事です。なにぶん、こんなに多くの人に読まれるとは思っていなかったもので。

でもさすがに文意くらいは伝わるだろうと思っていましたが、ブコメを見るとkkobayashiさんくらいにしか伝わっていないようで少し残念です。言いたかったことを悪意むき出しにして簡潔に書くとこうなります

まどか』みたいな中身のないただしんどいだけのアニメ

どうしてこんなに広く支持されているんだろう。

それってもしかして「空気系」が受容されているのと同じ理屈じゃね?

そんな体なので「中身(=物語)」とは何ぞや?と言われても全く考えておりません。考えてないので代わりにエヴァに喩えて語ったまですブコメ

>「如何にロボットに乗るか」で一本話作っちゃったタイプと思ってたからな

エヴァにディティールがあったとは思えんがw

とありますけど、それはまぁそうなんですがもうちょっといろいろあったじゃないすか。例えばミサトさんとかね。何故まどか母親ミサトさんはなく時々顔を出してアドバイスをする便利キャラなんでしょうかね。その辺りがすっごく不思議なんですけど。

空気系」と一口に言っても多様ですが、念頭に置いていたのは『ソ・ラ・ノ・ヲ・トです。いや、あれはあんまりウケてないじゃん、と言われるとそうなんですけど。現在こんな体の『まどか』がラスト1,2話になっていかドラマを見せようとも、それって『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の最後戦争が起きるか起きないか程度の意味しかないよね、という意図で。

あと

エヴァだ何だ持ち出すから厨二系と解釈されるだけで、実際は序盤のイベントドリヴンな展開から中盤戦の内面掘り下げに移った点を停滞と感じているというだけの話かと。常時イベントドリヴンな作品好みな人なのかな。

とありましたが、僕の好みは仰る通りですが、さすがに「常時イベントドリヴン」な作品しか見れないわけじゃないですよw 例えば同じ虚淵さんが関わっている『Phantom』(アニメ版)なんかは傑作だと思います。けど、『Phantom』の2クール目がなくて最初の1クールで終わってたら無いなぁって思うんですよ。『まどか』はそれに近いものがあります。もちろんあと5話あるので、残り5話の中に『Phantom』の2クール目みたいなのを破綻なく詰め込んできたら、僕は平謝りするほかありません。が、『まどか』でやりたいのはそういうことではないんだろうなと思ったんですよ。

2010-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20100717100146

オタク男性収入が低いとは思ってない。

コミュ力が無さ過ぎて社会から排斥されるタイプオタクもいるかもしれないけど、

特別な才があってかなりの収入を稼いでいるオタクだっているし、

仕事生活費を稼ぐ場と割り切って、普通サラリーマンとして並の収入を得ているオタクもいる。

オタク収入なんて人による。まったくもってピンキリだ。

 

ただ、「オタクメンタルが弱い」という偏見はある。

ナルトルフィより、アムロ碇シンジ共感自己投影する。

そんな繊細な自分が大嫌いなようで、本当は好き。

あとやっぱり運動が出来なくてオタク化していったのかなという偏見もある。

一般男性よりコンプレックスが多そうだなという偏見もある。

収入は実際のところ関係ない。

メンタルの弱さと身体能力の低さに引いてしまっているのかなと思う。

遺伝するし。

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