はてなキーワード: ビブリア古書堂とは
豊崎の件
ブコメに
「作家は書評家がいなくてもいいけど書評家は作家がいなければ存在し得ないもの(だから偉そうにするな)」
という他の書評家にとばっちり&的外れなコメントがわらわら沸いてるけど恥ずかしくないの?
他の人の仕事に背乗りしなければ成り立たないし背乗りされた側に必要とされるわけでもない職業は世の中いろいろありすぎて何の評価基準にもならないから
そもそも文明の発達とはそういう必須ではない付属品的仕事の増加だと言ってもいい
こんな意見が意味を持つのは豊崎が小説・作家という存在自体を嘲弄してるときだけだよ
例えば修理屋は元の商品のメーカーがいないと存在できないけど攻撃的な修理屋が他の修理屋や特定メーカーに筋の通らない批判したところで
修理屋はメーカーがなければ存在しないからどうこうとか言う人いないだろ
小説を題材にした小説(海辺のカフカ、ビブリア古書堂など)の作者が他の作家批判しても
リフォームは大工にのっかってるしスマホカバー屋はスマホメーカーにのっかってるしドキュメンタリーは森羅万象にのっかってるし
だから何?
東日本大震災のころから住み始めてるにわか鎌倉市民なんだけど、海側のほうは空き地が増えてるなと感じる。
高齢化が進んでるから、よく古い民家が取り壊されるじゃない。そうすると、そのあとになかなか新築が立たない。駐車場か空き地になっていることが多い。
思うに、津波の避難場所がないことが影響してるんじゃないかしら。歴史的景観を保護するために、高い建物は建てられないらしいんですよ。
だから海が近い上に、高さ15m以上の建物が1kmも離れたところにあったりする。
まあ避難所も少しずつできてるんだけど、まだ恩恵を受けられそうにない地域が広い。
どこが崖崩れするかわかんないような50mくらいの高さの山が、数百m離れたところにあるとか、そんなかんじ。
まあもともと住んで便利なところではないんだけど、今そこそこお金を持ってる人が新築を建てるとき、ここに住もうとは思わないだろうなと思う。
よく斜陽産業とかオワコンをモチーフにしたフィクションがヒットする法則があるけど、海街diaryとかビブリア古書堂もそれだったのかなと思う。
ミステリ好きが「謎解きはディナーのあとで」や「ビブリア古書堂」から全力で目を逸らしながら「最近はミステリの人気がない」と嘆いてるのと同じ。
原作読んだこと無いし、もともと剛力彩芽にそんなに反感ないし、ていうかもうちょっと頬骨張ってたらアメリカあたりで絶世の美女扱いされてそうだなっていう感じだし(森理世的な)、自分は本好きだし、ドラマも好きだし、ネット評とは相反して意外と楽しめるんじゃいかと思って。
なにが無理なんだろうって考えたのね。
いや、考える必要もないんだけど、だって剛力さんが夢に出てきちゃうんだもの。たった10分間の映像でこの人はなんでこんなに自分にダメージ与えてるんだろう、みたいな。
で、思ったんだけど、中学とか高校ってスクールカーストがあるじゃない。人気者が一番上で、オタクが最下層。その間に細かい階層がピラミッド型に形成されてる、的な。だけど、実質このピラミッドは二つあると思うのね。陽のカーストと陰のカースト、みたいな。サクッといえば、体育会系と、文化系の違い。体育会系のピラミッドのほうがより高位にあるけど、文化系のピラミッドもそれはそれで成立している。たとえば、今で言えば栗原類とか高校にいたら陰のカーストの最上位なんだろうなって思うのね。
この二つのカーストは全然相容れないわけ。交わってはいけないの。体育会系は明るいところで、太陽浴びてボディアンドソウル踊りだせばいいし、文化系は暗いけど涼しい校舎で、ほんとの幸せ探してればいいんです。
自分はバリバリ陰のカースト側で、学校で一番好きなのはいつも図書室だった。ちょっと埃っぽくて薄暗い本棚の間をすり抜けて、本棚と本棚のすき間にある小さな机と椅子が、自分の特等席だった。教室だと、陰のカーストと陽のカーストがごちゃ混ぜでいつもうるさくて、気の休まる暇がなかったんだけど、図書室は陰のカーストのテリトリーだった。陽の側の人って、絶対図書室なんかこないでしょ?学校生活はストレスそのものだったけどなんとか切り抜けられたのは「図書室」っていう聖域があったからだと思う。あんまり人の手に取らない本から舞い上がった埃が、すこし視界を曇らせて、そこに後の窓から柔らかい光がさしこんで、ソフトフォーカスのセピア色の写真みたいに見えて、遠くの校庭から運動部の声が聞こえてくる、その声の遠さにまた少しほっとする。そんな癒しの場所だったのね。
だから、ビブリアの冒頭見たとき、「ああ、いいな」って思った。懐かしい、って。最後に誰が手にとったかわからない本が山積みになってその中に埋もれるような場所がある。ああ、なんて素敵な。
で、そこに座ってるのが剛力彩芽。
いやいやいや。
もう、なんていうか、輝いちゃってるのね。薄暗い場所で。陽の雰囲気を隠し切れない。私、ハツラツとしてます!活発です!運動神経いいです!校庭駆けまわってます!思ったことはなんでも言っちゃいます!ときどきそれで角も立つし、誤解されたりもするけど、それもまた魅力でしょ!っていう。どっからどうみても、陽のカーストのトップはっちゃってるわけ。アタックNo.1なの。
違う、違う、違う。あんたはそこに入っちゃいけない。そんな埃っぽくて薄暗い所は、あんたには似合わないからさ、お願いだから、はいってこないでって。そこはね、陰のカーストの人間の、数少ない聖域なんだよ。明るい方の人は、いいじゃん、居場所がいっぱいあってさ。教室も校庭も、体育館も、みんなあんたたちで埋め尽くされてる。でも、私の場所はそこしかないんだよ。たとえばそこに綿矢りさがいたら納得して譲るよ? でも、そこにアタックNo.1がいるのは無理だ、聖域の陵辱だ。
とりあえずどうしてもエヴァをループものにしたいやつはまどマギを楽しみにしたほうがその人のためだし、
巨神兵までエヴァの一部みたいに思っているやつは風の谷のナウシカという漫画を一度は読むべきだし、
ミサトさんひどいとかいってるやつはもうちょっと人の意図というものを読み取る訓練をしたほうがいい。
たしかにエヴァというのは穿った見方をさせようとするような磁場がある。
新劇は、ヱヴァンゲリヲンといったっていいけれど、これは前と違って至極真っ当な物語なのだ。
それは序、破ではみんなわかっていたはずで、
かつてのエヴァにくらべると真っ当だ、ということを強く認識していたはずで。
でもQの極端な急展開にめくらましを食らっている。
繰り返しになるが、僕が強く主張したいのは、新劇は、とても真っ当な物語である、ということ。
そしてどこまでも観客のために作られている作品だということ。
前置きが長くなったけれど、タイトルどおり、まともな見方を提示したいと思う。
エヴァQという作品の肝心な部分は、
碇シンジを観客のラインまで下ろしてきて、感情移入できるキャラにする、というところだ。
正直行って第壱話からぼくはなんでシンジがエヴァに乗ったのかわからなかった。
そりゃ綾波だとか親父だとか、そういった要素で乗ったという論理は捉えられたけれど、
その気持ちを理解できるかといえば完ぺきにノーだ。
時はたち、彼は序、破とどんどん成長していって、シンジさんなーんて呼ばれるような大人びた存在になってしまう。
そこにいるのは僕ら――この二十年近く前のアニメのリメイクをよろこんでみている僕らとは、まったくかけ離れた存在だ。
どうぞエヴァQをクソつまらんといって月9ビブリア古書堂でもみてください。
もともとエヴァの、シンジの魅力というのは、どこか僕ら側にいる主人公だ、という点だったはずなんだ。
それがTV版では話が進むうちによくわからなくなっていって、
旧劇の完全に狂った彼の姿は僕らとはまったく関係ないところにあった。
それとベクトルは真逆の方向を向いているけれど、破でもシンジも僕らとは関係ない存在だったわけだ。
「綾波を、返せ!」というセリフをはじめて耳にしたときの印象を思い出してほしい。
僕はまったくしっくりこなかった。どこかそれは英雄じみていたから。
こんなクソみたいな生活を相変わらず続けているる僕とは似ても似つかないキャラクターだった。
でも僕は破に夢中になった。爽快だったし、ポジティブな綾波やアスカも快楽主義的な立場で可愛さを感じたから。
そしてQだ。はじめて見たときは面食らった。
14年後って設定もヴンダーのデザインもゲンドウのサングラスもなにもかもに。
面食らっているうちに『つづく』の文字が黒背景に浮かんでいた。
見終わったあともしばらくポカーン状態がつづいていたけれど、一日くらい経つと、何か残るものがあった。
見事なまでに、僕とシンジの心象が重なり合っていたのだ。
というより、自分が映画を見ながら思ったことを、シンジが感じていたことだと考えてみると、
とてもしっくりいくことに気付いた。
起きたら14年経っていたときの驚きがまずそうだろう。
あのヴンダーだとかサングラスだとか新キャラだとかの強烈な違和感。
冗談だろと思いながらも、でも14年は立ったんだ、それはまるで旧劇から今までの時間のように、という曖昧な実感。
24話んときはどうもキモかったカヲルくんにも、妙な親近感がある。こいついいやつだな、という。
そしてサードインパクトの結果も、『急にこんなこと言われたってなあ……』という、
そして、『この世界をやり直したい』という強い気持ちと、2本の槍にすがってしまう気持ち。
なにもかもが手に取るようにわかったのだ。
いままでのシンジの行動は、観客が責めることができるか、褒めることができるか、そのどちらかだった。
でもQでの彼の行動は、どこまでも理解できるものだった。
そしてシンジの行動を観客に理解できるようにするには、この構成とストーリーは、必要不可欠であるように思うのだ。
ミサトさんだって『行きなさいシンジくん、とか言ってたくせして、あなたは何もしないで、といってひどいやつ』
みたいなコメントをいくつか見かけたけれど、ちゃんと映画全部見たのか疑うレベル。
もしくは親からも先生からもしつけられたことのないゆとりか。14歳の感想だったらゆるせるけれど。
エヴァQをつまんなかったというひとは、ハリウッド映画みたいなのを期待しているならもう見ない方がいい。
逆に、謎の考察ばっかしてる加持リョウジじみた人は、もうちょっと主人公たる碇シンジの視点によってあげてほしい。
いまさら人類補完計画の全貌がなんだろうが、どうでもいいでしょう? ゼーレの正体とか気になる?
いまだに本気でTV版の伏線まで回収してくれるなんて思っちゃいないよね? 先はどんなに予測しようが何の意味もないし。
伏線の回収なんかより、胸踊るサスペンスなんかより、キャラクター同士の馴れ合いなんかより、
そして14年前、旧劇で『現実に戻れ』とバケツ一杯の冷水を浴びせられながらも、
学びもせずまたアニメらしいアニメを期待していた僕らへの、再びのメッセージなのだ。
しかし旧劇のように、庵野さんは水を浴びせるだけで済ますのではない。
観ることで自分の現実にまで意識がいくように、丁寧に構成を組んだのだ。
そして、僕たちにはまだシン・エヴェンゲリオンが用意されているというではないか。
なんてサービス精神の旺盛な人なんだろうか、庵野秀明という人は。
僕は、エヴァQは一つアニメの新天地を切り開いたと思っている。
少なくとも碇シンジに関しては成立させているように感じた。
①ゴーリキーの良さが解らない。
ごり押しも酷いと思う。
が、正直ごり押しされても「個性的な顔の人がいるね」としか感じない。
いや、確かに可愛いのかもしれない。可愛いとは主観的な感情なのだから。
けどなんだろう、イグアナがかわいいとかナマケモノがかわいいとかそういう。
②ビブリア古書堂が嫌いだ。
ミステリが嫌いだ。
表紙で売っているくせに「ライトノベルとは違うんだぜ」な感じが駄目だ。
ヒロインの設定がとにかく鼻につく。
「男には媚びてないけど男オタには媚びるぜ」な感じが駄目だ。
せめてwikipediaの編集者よ、もう少し表現をぼかせなかったのか?
③ところがどっこい、ゴーリキーが栞子さんを演じるとなるとどうだろう。
読んだことない小説の鼻につくヒロインを興味のない女優が演じる。
俄然興味が湧いてくるではないか。
みたいな現象。
④例のキャスティングは
・ゴーリキーが好きでビブリアに興味のない人
・両方興味ないけどとりあえずドラマ見る人
・ビブリア嫌いな人
の三者にとっては最適なキャスティングじゃないだろうか。
というか多分あれだ