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2023-05-08

ゼロ感のいいところを教えて欲しい

映画スラムダンクについて熱く語ることに今更感が出てきた頃なので、そろそろ我慢していたことを問うてみたい。

ゼロ感が神曲扱いされがちだが、どこがいい?

ディスりたいとか、人とは違う感性アピールではなく、皆が第ゼロ感のどこに魅力を感じているのか知りたいだけであることを信じて欲しい。

作品内で流れたタイミングは良かったと思うが、それは曲の本質的な良さとは関係ない。

ただの言葉遊びしか思えないタイトル、どこかで聴いたことあるような凡庸なリフ、オリジナリティのないマッドカプセルマーケッツかなにかをトレースしたようなデジロック感、同じメロを繰り返す退屈なサビ、

映画スラムダンクは本当に大好きな作品になった。もっと好きになるためには、第ゼロ感を好きになる必要がある。

なので教えて欲しい。

2023-05-02

なにがツガイ育成百合ソシャゲ

運命共謀以外は幼馴染、双子、♰光と闇♰なんて凡庸かつ陳腐テーマしかCPを創れないクソソシャゲ

2023-05-01

映画BLUE GIANT感想

映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれ世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。

公式サイトhttps://bluegiant-movie.jp/

予告編YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk

今年の二月から上映している本作は、同名の漫画原作としたアニメーション映画だ。音楽人間物語を楽しみながら、ジャズ界の独自価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。

主人公宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷仙台を飛び出し、単身上京する。東京出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校同級生素人ドラマー玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。

原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽アニメーションコラボレーション最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境存在が大きく、Netflix支配力が高まる現代において、専用施設役割可能性を示すことにもなっていた。

今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標物語性質に与えた影響について考えていきたい。

(以下、ネタバレを含みます。)

アニメーション技術を活かした音楽の魅力表現

映画BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。

演奏である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。

ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽空気振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語音楽映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶからだろう。

ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽演奏聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるものであることを実感するが、この映画ではアニメーション技術アイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。

また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後ライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blue舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。

ジャズを信じる」大の信念の問題

本作はジャズライブ世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーション人間関係のあり方についても、ジャズプレイヤーたちの世界文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。

ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラ状態肯定され、自助基調としたコミュニティ文化が成立している。

例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身問題から、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮無用ものとして切り捨てる態度を取っている。

しかし、自分自身問題であることと、周囲がその解決サポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身問題しかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。

ところが、ジャズプレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係コミュニケーション方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまりジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。

「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズ性質を、人間関係アプローチ転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。

この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助圧力高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。

権威に認められようとする挑戦」の物足りなさ

この作品にはもう一つ、物語性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。

大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一ジャズクラブ・So Blueステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。

ジャズマンにとってのSo Blueは、野球甲子園ラグビー花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。

JASSはSo Blue支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイ否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者凡庸人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である

また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分評価していないギタリストと共演しても、相手一定プレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分ソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界人間もたくさん集まる。駄目バンド烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。

若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズプレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。

それでも、映画演奏世界を美しく表現している―――問題をかき消す「音楽の力」

映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画BLUE GIANT』は、ジャズ美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの自助を前提とした人間関係コミュニケーション権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。

それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽けが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。

2023-04-29

オタクコンテンツは終わりです、残念でした

オタクコンテンツは終わりです、残念でした…

…とだけ書いて終わるのは雑なので、個人的偏見等を込みで色々思うところを書いていく。

おそらくここで語るもの陳腐凡庸面白みのないものであろう、しかしもし興味を持っていただけたら読んでもらえると幸いである。

オタクコンテンツ一般化とその弊害

オタクコンテンツはみなさんご存知の通り一般化した、街中にはアニメVtuberなどとコラボした商品散見され、街中でアニソンが流れていたりする。

アニメ漫画の話をしても嫌がられないし、むしろそのような話を積極的にしてくる人もいる。

オタクコンテンツ一般に広まったせいで過度に一般化してしまったと私は思っている(これはあくま偏見である)

というのもまずは売れるかどうかという数値が前提にくるからである

もちろんこれらは"商品"であるため、売れるのがいいというのは間違いがないし企業としては売れなければ価値がないというのは間違いないであろう。

そこで問題にしたいのはオタクコンテンツ精神性というふわっとしたものになる。

これらコンテンツ個人的偏見等込みではあるが迫害歴史であったと私は思っている。話をすればキモがられ、売っている場所隔離されるそのようなものであった。

しかしそのような状態であってもコンテンツを作り続けた人たちがいた、彼らは自身の溢れ出るもの解放させコンテンツを作り続けた結果今のように市民権を得ることができた。

このようなコンテンツ最初はごく一部の人間が面白がり小さいコミュニティ、もしくは執着に近い発掘欲を持つ人間にの評価されていた。

また自身面白いと思うコンテンツ他者に知らせたいものでさまざまな機会で、さまざまなツール面白いと思う感情を広げていった。

そして一般層にまで広がり市民権を得たということだ。

問題はここからで私は一般層はもの評価する能力がない、もしくはあったとしてもそこまで高くないと思っている。

動物悲劇があれば泣くし、子供が頑張れば感動する。弱者サクセスストーリで涙し、悪徳企業に怒り、永遠の愛でしんみりする。

しかしわかりやすい感動にしか反応しない、もっと正確にいうならばわかりやす感情の変化にしか反応しないのだ。

感動というものはさまざまなものがあるが大きくまとめれば感情の変化であろう。

感情の変化というものは各人のセンス知識経験依存するものだ。感動するという行為にも才能と経験必要になる。

例えばよくピカソの絵を見て誰でも描けるとかこれが芸術なんだとかい人間がいる。しかピカソ写実的な絵も描くことができ、キュビズム本来なら同じ平面上に存在しないものを写実性を捨て記号化することにより同時に存在させるようにしようとした試みであることを知ればそれは難しいことがわかる。

知識がなければピカソの絵を見ても評価できないのである

コンテンツというのは歴史の流れがあり新しい評価基準表現感性を探求するという性質がある。

しかしそれらを評価するためには今までのコンテンツへの理解などが必要になる。

一般層の人間はこの知識経験がない、そのため評価基準他者依存することになるかもしくはわかりやすものしか評価できなくなる。

さてさまざまなコンテンツの多くは営利活動の結果生まれ産物である営利活動評価を行う際に基準となるもの収益であろう。

当然のことではあるが収益性のみを考えた場合、新しいコンテンツ評価するようなオタクコミュニティ(ここではこのような人やコミュニティをまとめてオタクコミュニティと呼ぶことにする)と一般層、どちらの方が人口が多いであろうか。

考えるまでもなく後者だ、そして後者はわかりやすものしか評価できない。

ではどうなるか

企業としての答えは明白だ、わかりやすものを作れば良い。

ただ、わかりやすすぎるとそれはそれで消費者が怒る。

なので1手先しか考えていないようなわかりやす一見深そうで薄いコンテンツ生産されていく。

コンテンツ生産者の話

また、クリエイター視点に立ってみよう。

間違いなくオタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイター一般層に評価はされないだろう、わかりづらい作品を作るので歓迎されることはないだろう。

では誰がコンテンツを作るようになるか、これは間違いなく一般層のクリエイターになる。

というのも感情が近いので作りやすいのだ、またオタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイター比較して、コンテンツ自体に執着が薄い(無いわけではないし一部の方はとても強いと理解しているが集合として見た時の話である)ので仕事と割り切れたりするという強みもある。

企業からすると一般層のクリエイター収益も産みやすく優秀な金の卵であるが、オタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイター収益を産まない腐った卵であろう。どちらが優遇されるかは明白である

このようにしてクリエイターの層が更新されていく(新陳代謝といえばそうかも知れない)

クリエイターが変わっていくとコンテンツ自体オタクコミュニティー向けのものから一般層向けのものへと大部分がシフトしていき、そのうち入れ替わる。

そうしてオタク向けのコンテンツ一般向けのコンテンツへと狂気希釈されていく。(私はこれを一般層の文化的侵略だと呼んでいる)

そのような状況であってもオタクコミュニティー向けのコンテンツを作る人は作るだろう、しか評価はされづらくなる。

もしくはそのようなクリエイター時代の変化などさまざまな要因で一般層向けのものを作ることもあるだろう、映画などにある細かいネタや裏設定はそのようなクリエイターの少しばかりの一般層への反乱ではないかと思えて仕方ない。

企業から観点を考える

さてオタク向けのコンテンツオタクコミュニティから一般層向けのコンテンツへと変わっていくという話をした。

ここで一般層の評価基軸をもう一度説明すると他社が評価しているか、わかりやすい感動かという軸で評価している。

後者と比べ前者は容易にハックすることができる評価基準である資本マーケティング勝負に落とせるからだ。

まり一般層のコンテンツは、芽が出そうなものに対して資本という栄養剤を投与することで完成する、そして一般層に収穫され消費されるのだ。

私は最近コンテンツ話題になる期間が短いのはこのような背景があるからではと思っている。短くしないと次のコンテンツを消費できなくなるからだ。

ここで一つ誤解を解く必要があるが、私はこのような企業行為に対して悪だと断罪するつもりはないし、営利活動を行う団体として収益を上げるのは正しい行為だと考えている。

ただその商品ターゲットが変わっただけである

最後

このようにしてオタクコンテンツは終わっていくし、すでにアニメ漫画などは終わっていると私は考えている。終わっていなかったとしても一般層にリーチしないのでそのようなコンテンツを知り得る人はごく僅かであろう。

これが悪いのかどうかと言われるとそうではなくただ集団の行動の結果であるしかいえない。

しかし、間違いなく言えることは一般層がオタクコンテンツに入ってきた瞬間にそれは終わるということだ。

もっと正確にいうならば物事評価できないもの多数決という言葉に負け評価基準を渡してはならない。

その先に待っているのはコンテンツ破滅であると私は考える。

ここまで長々と書いたが私の本心最後に書いておこう。

推しの子あんまりきじゃない、

[]ザ・スーパーマリオブラザーズムービー

総評

130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。

130点の理由

見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。

主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画ありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。

あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。

でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。

こういう映画ってたまにあって、それは自分言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。

じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。

勇気を出して挑戦する、というテーマ

主人公マリオニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民大家族暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。

会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。

おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。

映画になって肉付けされたこマリオ像ってのは、結構好感度ありました。

主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。

それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。

これらは映画を含む既存ストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマ類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます内面問題弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品王道ですから

歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。

そういう歴史あるテーマ歴代傑作の洗練に対して、この映画エピソードづくりや演出最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸ファミリー映画」ですらある。

でも正しくそこがこの映画の中心なのです。

たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家一般ユーザーの間で、この映画評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。

ビデオゲーム

あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディア物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定ちゃん払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実問題駆逐されるなんてことはなかったわけです。

でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。

それは成功体験です。

問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!

そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲーム本質はこれで、これでしかないんです。

何か挑戦すべき課題突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲーム世界調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。

努力すればなんとかなる」。

そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要価値観が込められていることがわかるでしょうか?

スーパーマリオ歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲーム歴史です。そして、ビデオゲーム歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージ歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。

諦めないという、その尊さ

前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存物語メディアの、少なくとも映画文脈で言えばそのシナリオ演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。

まり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオ任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。

マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオ映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。

それをマリオは「スマート物事解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。

それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲーム主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。

そう考えてみると、この映画白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオピーチ姫への同行許可を得るために、練習コースに挑戦した部分だったと思い出されます

マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。

そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。

でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワー覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃん理解できるのです。

ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者理解感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画ドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲーム文脈を抱きかかえることができた。

映画ゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。

+30点はあるよ、ちゃん実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観ゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。

クッパ大王リサイタルはとても可愛かったしね!

2023-04-27

anond:20230427160935

OPEDの切れ味に対して、中身は空っぽなのは本当にそう。

逆に、あのめちゃくちゃ凡庸物語企画から、なぜあの個性的で挑戦的なOPEDが生まれたのか興味深い。

本編に関わってないキーマンがいるのかなぁ。

2023-04-20

パクリポスターでわかる内閣府男女共同参画室は破壊して清算すべき

事実関係として

これがパクリではないというのは通らない。バカは一生夢見ていろ。実名で言っていたらそいつも公金チューチュースキームの泥棒とみなす。そういう穀潰し日本必要がない。マスコミ女性記者とか女性学者に多いけど、さっさと会社大学をやめろ。

更にこのっぽスターがまずい点

異常な性概念であるラディカルフミニズムの狂ったカルトの考えそのものであること

こういうカルトの考えを押し付け男女共同参画室は異常なので解体するしかないでしょう。極めて異常ですし、こんな組織がある限り、パイプ爆弾を投げられても文句は言えないでしょう。

不同意性交罪は閣議決定されただけなのに前から決まっているような内容のポスターを出すこと

このポスター、いまだ実現していない不同意性交罪みたいなでたらめで悪法でかつ、弁護士しかからない汚い、ゲスのような刑法改正をあたかも当然としている点でクズすぎるわけです。

このポスター撤回以前に徹底的にこういう身の程知らずのバカを見つけ出してやめさせる必要があります。岸田はできるのかな。あと野党は追求できないなら辞職スべきでしょう。

パクリになるのもあたりまえ

これ簡単に言うと当初はこのひとに頼みたかったけど、うまくいかなかったのでそれっぽいイラストにしたわけです。担当者趣味ですね。しかしラディフェミ馬鹿なの金太郎飴のようにワンパターンで非現実的なことしか言えません。

なので、パクリ凡庸で全く頭がおかしものしかできません。無能で無力だからです。

若者洗脳しているだけのクズであること

これってある意味グルーミングのもの

被害に合わないための対案がない

それは当然でしょうね。そうやって生活ができない女性を作り出して村木厚子が大儲けするのが目的なので。ぱっぷすのなんとかカズナみたいな大うそつきクズが嘘をつけばつくほど儲かる。

女子を家庭から切り離して薬漬けにするか共産党奴隷にするかです。

から対案がない。

紹介している相談機関が公金チューチュースキー
AV出演被害最初からAV犯罪者扱いしてるうえに、AV定義すらできないこと

内閣府馬鹿ですし、AV新法はカスです。この点で、女性国会議員はほぼ全員がなんら役立たないクズです。さらに言えば野党にはカス税金泥棒のうすらトンカチの異常な連中以外存在していません。

自民党もえりあるフィア(本名非公表)というAOCみたいな狂った女性候補になっているので危ないです。

不同意性交罪を作った国は少子化で亡国まっしぐらであること

隣の韓国をみれば明らかです。

G6も全部移民無しで生きていけない歪な連中です。

したがってグローバルサウスに勝てません。

暴力性犯罪メソメソしているバカ無視せざるを得ない。当たり前です。そういう人たちをケアする税金スタッフも全部少子化でなくなっているので、そういう連中にいい顔をするためにはまずそういう人たちは黙っている必要があります

この現実無視して傷ついたとかいわれてもふざけるな以外の回答はないです。

活動家税金を出すな

にゃゃんこ@黄色靭帯骨化症

@_nyanko

こども家庭庁が「子供を作るな」「結婚するな」「異性は宇宙人だと思え」と教育してるわけだから5年ほどでもう洋梨で参画推進と同じく「穀潰し税金)のガン」になるんじゃないかな。

活動家のために政府は「仕事させる場」を作るべきではない。

男ってどれだけ飢えても繊細なんだよ。鬼畜は別で。

https://twitter.com/_nyanko/status/1646470666781339649?s=20

とにかく活動家は出来損ないのクズで全部ヤクザしか申し上げようがない。人間的に浅はかで欲深い。金に汚い。村木厚子ですら例外ではない。

異常な経緯

山田太郎 ⋈(参議院議員・全国比例)

@yamadataro43

4月13日

4月13日、本件ポスターについて作成元の内閣府男女共同参画局、その他、法務省、こども家庭庁等からレク。私に寄せられた多数の問合せ等も踏まえ、様々な問題点や疑問点について質問するも何点かは宿題で後日回答に。本日説明を聞いた限りでは、一旦取下げた方がいい。

https://twitter.com/yamadataro43/status/1646452603415560192

暴力性犯罪定義ができないバカ内閣府

だったらこんな主張はできません。頭がおかしいのです。全員クビにしろ。こんなカスどもが税金を貪っているのはおかしいのです。

内部調整ができていない内閣府男女共同参画

男女共同参画室は天皇かなにかのようですが、実際に法律担当する法務省にも調整していません。なのにあたか不同意性交罪が当然かのようにポスターを出しています官庁としてはあるまじきことであり、一度解体すべきでしかありません。

このように関係省庁と内部調整が全くやらずこのようなポスターを出すのは公務員としては全くありえません。しかジェンダーフェミカルトという全く意味のないでたらめなクズ偏向している。

組織論としてのこども家庭庁

の子供家庭庁は本当に不要山田太郎先生は悪いんだけど。

ついでにいうとキングオブ公金チューチュースキームの駒崎が入り込んでいる時点でアウト。

あのおっさん、金だけで全く存在意義がない。

こども家庭庁の理想はどこか

理想をいえば、国の政策としては何が何でも子供を生んでもらう、そのための支援を行うのがこども家庭庁。不同意性交罪みたいな狂った馬鹿げた法律税金搾取する学者活動家弁護士クズ

しか

次に純潔教育とか言っている自民党ワンツー議連クズ

あとにじーずやHRNみたいなLGBT人権団体クズ

駒崎も養子で儲けようとするクズ

デタラメばかりいう腐った連中が子供を食い物にするための組織になりかねない。

今回のポスター税金を9兆円溝に突っ込んでいるだけの男女共同参画室が入り込んできたと言えるでしょう。

いじめもなくならない

こども家庭庁を持ってしてもいじめは無くならない。

ツィフェミ炎上とか例外なくいじめです。LGBT活動家炎上いじめです。

道徳ルールがあるところ、いじめがなくなるはずがないわけです。

ブラック校則を叩いてブラック法律を作る異常な女性たち

ブラック校則とかマスコミ馬鹿弁護士会が言っていますが、無視すべきでしょう。

不同意性交罪みたいなブラックで狂ったルールを正しいとか行っている時点でブラック社会です。

男女共同参画室を解体してこども家庭庁にすべき

なぜなら過去30年間狂ったフェミニズムやなんでもハラスメントのせいで少子化は解消せず、財政赤字は増えている。

まりアクティビスト女性記者女性学者存在する意義がありませんでした。上野千鶴子以下、でたらめで間違っているわけです。

大失敗です。結果を受け止めようね。アップデートどころか単に現実が受け入れられなくなって狂いかかっているでしょ。フェミとかジェンダーとか言っているのは全員バカ以外いません。

女性議員も不要です。杉田水脈くらいしかいらない。

杉田水脈けがヒューマンライツ・ナウを叩き続け、慰安婦インチキだと言い続けて来ました。

実際それが正しかったわけです。

これはとおらない

内閣府を支持

パクリについての内閣判断』を支持しま

https://anond.hatelabo.jp/20230419202128

支持も何も責任を取って関係者を処分しないといけない。支持しているとか文章おかしい。当然のことです。

被害者意識

nichinichi🏳️‍⚧️🏳️‍🌈🛒今夜

@nichinichibijou

↓えっ……内閣府が珍しく意義のあるポスターを作ったと思ったのに、イラストがパクり(内閣府が寄せて描けと発注したのか発注された側が自己判断で寄せて描いたのかは分からないけど)だったとは…大阪IRPR動画の件の次はこれかよ……なんだこの国

午後7:41 · 2023年4月17日

https://twitter.com/nichinichibijou/status/1647913152313720835

バカは黙ってろ。

批判が非論理的かつ感情的女性ものが考えられないバカ人間扱いされなくていいのか?

ゆま*@荷解き終わらん

@yuma_ten_10

先生レイプする男を守りたいのですか。

先生レイプする女を守りたいのですか。

恐れながら、現在先生は「レイプする犯罪者を守る」ために動いているよう、私には見えます

例のあのポスター、とても良いものだと思いました。

先生は、同意していない性的接触犯罪だと考えていないのですか。

https://twitter.com/yuma_ten_10/status/1646878742957146112?s=20

レイプする男性のほうがなにも考えないバカ女性よりマシでしょう。

そのまえに草津町長に対する誹謗中傷反省したフェミほとんどいません。

冤罪を作るためにこの法律を作っているわけです。弁護士費用を儲けるため。困難女性を増やすためです。

https://twitter.com/yuma_ten_10/status/1646878742957146112?s=20

山田太郎 ⋈(参議院議員・全国比例)

@yamadataro43

4月14日

4月14日政府の回答あり。「性暴力性犯罪は違うが、基準は示せない」「同意のない性的行為は全て性暴力」との説明は、性犯罪被害予防や被害者救済の点から問題多数。

性犯罪の撲滅は重要。だが、予防の徹底と適切な処罰なくしては実現不可能

画像

引用ツイート

山田太郎 ⋈(参議院議員・全国比例)

@yamadataro43

4月13日

4月13日、本件ポスターについて作成元の内閣府男女共同参画局、その他、法務省、こども家庭庁等からレク。私に寄せられた多数の問合せ等も踏まえ、様々な問題点や疑問点について質問するも何点かは宿題で後日回答に。本日説明を聞いた限りでは、一旦取下げた方がいい。 twitter.com/KodomoKatei/st

Naoki 🇺🇦🇯🇵

@methane

4月14日

レイプを許してはいけませんが、後から「あれはレイプだった」というには一定基準必要です。

パートナーがいるのを隠して不倫しておいて、バレたら「あれはレイプだった」と逃げる人が出てくるかもしれないです。

拒否した、または拒否するのが困難な状態だった場合のみをレイプにするべきです。

ゆま*@荷解き終わらん

@yuma_ten_10

拒否した、または拒否が困難だった、時点で犯罪が行われています

今回の件は、その犯罪をすこしでも少なくするための所謂防護策です

そのような卑劣ものに対しては、試行してから考えるんじゃないです?

午後0:19 · 2023年4月15日

試行するわけないだろう。頭湧いてんのか。こういう社会寄生虫しかいえない連中を堕落させているのが男女共同参画です。無意味ですね。

2023-04-19

パクリについての内閣判断』を支持しま

今日内閣府制作依頼したポスター謝罪ののち、撤回した。

内閣府 啓発用ポスター ほかの作品と類似で使用取りやめ | NHK

内閣府によりますと、「若年層の性暴力被害予防月間」の今月、啓発用のポスターや関連動画イラストが、イラストレーター…さんの作品と似ているという指摘が外部から寄せられました。

これを受けて、事業を請け負った…に確認したところ制作過程で指摘された作品を参考にしておりチェックが不十分だったと報告があったということです。

このため、内閣府は、ポスターや関連動画使用を取りやめ、すでに配布したもの可能なかぎり回収することを決めました。

内閣府は「極めて遺憾で、事業者に真摯(しんし)な対応を求めていく」とする一方、…関係者国民に対し「ご迷惑をおかけし、おわび申し上げます」とコメントしています

(一部引用者により省略)

これについてブックマーカー達は、絵柄が似ているだけ? 著作権侵害にならないのでは? などと批判している。

でも私は、この内閣府判断を支持する。伝えたいメッセージが本当に重要ならラクをするべきではなく、努力してオリジナリティを打ち出すべきだ。イラストに挑戦したことがない人には分からいかもしれないが、オリジナリティゼロから作り出すのは本当に難しい。ああでもないこうでもないと、人気のないうちから長い時間をかけて磨き上げていく。凡庸から抜け出せなかった同期たちは次々プロを諦めて一般職に落ちていく。食えてる芸術家はそんな恐怖の中を生き抜いてきたんだよ。確立した画風はイラストレーターにとって自分の一部のようなもの。それを勝手に参考にされて酷似させて奪うのは、パクリ以外の何物でもないでしょ。

AI でのパクリはどうなる… だって??

あのね。

完全に逆。

思考の順番がまったく逆なのよ。

法律ルール)の土台には、まずそれを支えるモラルがある。法律違反じゃないからといって何をしても許されるという事にはならない。自分他人作品を隣に置いて絵を描いてる様子を想像してほしい。そこにはどこか後ろ暗い気持ちがあるでしょう? 誰もがルール以前に暗黙のモラルに従っている。法律に訴えるのはモラルで事前にガードできなくてクレームも受け入れられずにこじれにこじれたときの最終手段なんですよ。好きにパクリ放題して裁判で負けたときだけアウトにしていたら時間お金いくらあっても足りない——少し考えればわかる事だよね。世の中は全か無か人間だけで回ってるわけじゃないの。

その証拠に例えばジブリの絵柄に似たマンガアニメだって存在しないでしょう。それはクリエイターと観客みんながジブリリスペクトしているから。ジブリに直接依頼せず許可も得ずに参考だけするなんてあり得ない話。行政制作公共の場に置くポスターならばこそ率先して従うべきモラルがある。オリジナリティゼロから作り上げた側・パクられた側が NO というなら NO なの。法以前の問題

2023-04-16

anond:20230416090543

ジャニオタの、ジャニー未成年への性犯罪に間接的に関与してきた態度はハンナ・アーレントの言うところの「凡庸な悪」として断罪されるべきだ!!

ファンから

アイドル応援したいだけ?

そんなのは言い訳で、結局ジャニー未成年への性犯罪放置して、積極的にその犯罪可能にしてきたわけだろ!!

お前らもナチ同様に裁判に掛けられ、死刑判決を受けるべきだ!!

anond:20230415104550

興味を持ってくれてありがとう

私が考える「つまる人生」すなわち面白い人生とは、一言で言えば内発的な動機と偶然性に彩られたものです。

内発的な動機とは何か。

人はそれぞれ違った関心や性質を持っています。度肝を抜かれるほどの変人天才はほんの一握りだけれど、それでも誰もがそれなりにはユニークです。

大勢の人と社交するのが楽しい人がいれば、独りで黙々とこなすの好きな人もいる。競争勝負燃える人がいれば、それらに興味のない人もいる。絵を描かずにはいられない人、気がつけば星空を見上げている人、なぜか魚類に深く心を寄せる人。

そのような、その人だからこそ持っているものを突き詰めたり、大いに発露している様をとても興味深く感じるのです。

たとえそのような生き方が、世間的に評価されず、まったく金銭的な価値を生み出さず、場合によっては呆れられたり白い眼で見られるものであったとしても。

なぜ登るのかという問いに「そこに山があるから」(正確には「そこにエベレストがあるからであるようですが)と答えた登山家の話はあまりに有名ですが、内発的動機というのはまさにこれです。

私は登山どころかアウトドアに全く親しみがありませんが、彼が見事に言い表しているように「ただ、そうしたいからそうする」という生き方に心を打たれるのです。

もう一つ、偶然性とは何か。

人がそれぞれ違っているように、一人の人生の中で起こる出来事も様々です。何が起こるかを予測することはできません。

この時代日本に生を享けたという出生の偶然性に始まり、実に様々な偶然性に晒されながら人生は進行していきます。そういう偶然性の一片に、人生全体を方向付けるものがあったりするものです。

重い病気に罹った自分家族治療してくれた人への感謝畏敬の念から医療の道を志すとか。ある芸術作品に衝撃を受けて、創作研究活動にのめり込むとか。

もし、それに出遭っていなければそうはならなかったかもしれない、でもなぜかその出来事が起こって現にこうなっているという面白さ。似たような経験した人は他にもいるはずなのに、その人にとってはそれが決定的に働いて今があるという不思議さ。

偶然性そのものは何でも良いのですが、偶々起った出来事とか人や物との出会いによって人生が動かれていくというのが、また人生妙味だと思うのです。

こうやって考えていくと、内発的動機も偶然性の一つと言って良いのかもしれません。

(なぜか分からないけれど、それをしたい。そういう性質に生まれた、あるいはそういう経験をしたという偶然性。)

「激レアさんを連れてきた。」という番組がありますが、そこに登場する人にはそのような面白さを感じることが多いです。(たまたま何度か見たことがある程度で、特に熱心に見ているわけではないですが)

そんなにレアではなく、経歴や属性だけ聞くと凡庸に思えても、内発的な動機に突き動かされて、そして不思議な縁に引っ張られて生きていれば、それはとても面白いものです。

なので、元増田人生もつまらないものでは全くなく、とても面白いのかもしれません。普通の家庭を持ったサラリーマンとしての側面しか記述されていませんが、その仕事は(なんらかのきっかけで深い関心を寄せて)人生を捧げるようなライフワークとして取り組んでいるかもしれないし、あるいは賃労働とは別の社会貢献活動情熱を注いだり、何らかの創作に精力を傾けているのかもしれません。

ただ、大多数のレールとしてある学歴を重ね、就職するものからという常識就職して、結婚した方がいいという観念結婚して、子どもを産み育てるべきだという規範でそうする・・・そういう既定路線予定調和的なものを逸脱するもの見出したいという思いがあります

常識を逸脱するもの普通横溢するものを、(程度の差こそあれ本当は誰しも持っている・出遭っているはずなのに)無いことにした生き方を「つまらない」と思うのです。

そういうわけで、私は、ライフプランとか人生設計とかいう考え方が嫌いです。

何歳ごろに結婚して、何歳までに子供を何人産んで、それから家を建てて、教育費がこのくらいで、老後の生活費がこのくらいかかるから貯金がこのくらい必要・・・とか、そういうやつです。

(「一流のプレイヤーになる」とか「自分の店を持つ」とかの目標を持つことは良いと思いますが(持たなくても良いと思いますが)、それは志とか野心とか呼ぶべきもの所謂ライフプランとは別です)

中等教育くらいまではこの社会を生きていく前提としてレールの上を歩くということで良い(そうでなくても良い)と思いますが、そこから先は偶然性の織りなす世界自分の心の赴くように生きるものだと思っています

人生で何が起こるのかなど分からないし(極端に言えば明日死ぬかもしれない)、自分の考え方だって変わります貯金とか保険とかある程度の備えは必要と思います生き方によってはそれすら無くても良いけど)が、結局その場その時で決めていくしかないし、その方がきっと面白いはずです。

プランなど立てるのは偶然性を塗りつぶす所業であって、人生醍醐味毀損するものしか思えないのです。

最後に「つまる」人生ということで、私が大好きな映画を紹介しておきます

デヴィッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画です。

もちろんフィクションなのであまりドラマチックなのですが、この作品には人が生きるということの面白さ(内発的動機と偶然性)が詰まっていると思うのです。

この映画の中で何度か主人公が口にするセリフ(それがこの作品テーマでもあります)が、「人生、何が起こるかわからない(You never know what’s coming for you.)」です。

未見でしたらぜひご覧ください。

2023-04-15

暗殺未遂事件で岸田を見直し

安倍晋三に続いて岸田文雄が殺されそうになったのは、憂鬱ニュースだった。

日本自由民主主義国だ。(職質の警察官を除けば)荷物検査も何もなしに色々なところに行くことができる。飛行機以外の場所手荷物検査がされることはまずない。そしてそれは政治家集会も同じだ。政治家市民に選ばれるために、たとえ元首相であっても街頭に立ち、支持を訴える(菅直人がたったひとりで街頭演説する写真嘲笑する人を見かけたことがあるが、あれは誇るべき光景だと思うのだ)。市民はそれをスルーしてもいいし、気まぐれに足を止めてもいいし、ペンライトを振って応援してもいい。俺もちょうど地元に来ていた福島瑞穂握手したことがある。そのときの俺は見るから不審者ルックだったが、一瞬怪訝そうな顔をしただけで愛想よく握手に応じてくれた。

アメリカ大統領が来たときの警備の物々しさとは対照的だ。アメリカシークレットサービス皇居にもズカズカ入り込んでこようとしたのを日本側が必死に止めたらしい。野蛮人め。品位というものを知らんのか。だが彼らにもトラウマがある。昔のアメリカ大統領もっと市民と近かった。だが、リンカーンガーフィールドマッキンリー、そしてJFK暗殺され、レーガンが殺されかけたことで、アメリカは異様に厳しいセキュリティVIPに求める国になった(※)。

安倍が殺されたとき警察無能だと散々言われた。それは事実かもしれないが、しかし、彼らが無能なのは政治家に対する深刻な攻撃懸念に晒されていないからだ。警官平和ボケして無能なのはある意味では、わが国で要人に対するテロ懸念する必要性が薄かったことの、つまりわが国の自由民主主義問題なく機能していることの証だったのだ。

だが安倍晋三は殺された。俺は去年の夏、今後日本政治家は気軽に国民の前に立たなくなるかもしれない、と思っていた。政治家がろくな警備もつけずに街角に立ち市民に支持を訴え、市民はそれを日常風景として聞き流すような、そんな光景はもう戻ってこないかもしれない、そのような平和自由民主的日本はもう失われてしまうのかもしれない、と悲観していた。あれから半年が経ち、多くの政治家が従来どおりのドブ板選挙を続けている景色を見て、よかった、杞憂だったのか、と胸を撫で下ろしていたところに、今回のニュースが飛び込んできた。ああ、今度こそ、大物政治家が気軽に街頭に立つ光景は失われるのだ、と思った。

だが、岸田文雄遊説を続けた。暗殺未遂事件に遭ってなお、市民の前に立ち、訴えかけることをやめなかった。

岸田は、身を張ってテロには屈しないという姿勢を表明してみせた。それは一見すると単に事前のスケジュール墨守するだけのつまらない行為かもしれないが、この状況では、それは紛れもなく自由民主主義の側に立つという崇高な意思表示だ。

安倍が頂点にいた頃は、岸田は凡庸な後継候補のひとりに過ぎないと俺は思っていた。ソフトイメージはあるが、安倍ほどの人を惹き付けるもの(あそこまで右派に崇拝された総理も異様なら、左派からあれほど蛇蝎のごとく嫌われたのも異様だった。正負ともに存在感のあるキャラクタだった、と思う)を持たず、強い信念もなく、自民党伝統ある派閥大過なく差配するだけの面白みのない男。それが岸田へのイメージだった。だが、先日のキーウとブチャへの訪問といい、今回の暗殺未遂事件といい、行動によって自由民主主義国際秩序擁護するのだという強い決意を見せていることには、正直驚いた。見誤っていた。

俺は自民党に入れたことはないし、安倍総理であることには苦々しい思いを常日頃抱いてきたが、岸田に関しては、俺はあいつに入れていないがあいつは俺の総理大臣だ、と言っていいかもしれない。とにかく、今回の事件を受けての岸田の動きは見事だった。よくやった。ありがとう

海外旅行中、壮麗な建物を見つけて、何気なくカメラ写真を撮ったところ、自動小銃を構えた警備員が飛んできて写真を消せと凄まれたことがある。実はそれはアメリカ大使館だったのだ。そしてその国はかつてアメリカによる介入を受けたことのある国だった。その話を憤慨して隣国の友人に話したところ、そりゃそうだよと呆れられたので二度驚いた。大使館相手国との友好も目的の一つとしているため、普通市民から反感を買うような行動はしないものだと素朴に思い込んでいた俺は衝撃を受けた。街中であんな大規模な土地専有して、たかだかカメラを向けただけの一市民自動小銃威圧するのか。そんなことをあちこちでやってりゃ、そりゃ占領統治もままならんわ。俺にとっては旅行中の不愉快エピソードにすぎないが、仮にその国に生まれ育っていたら熱心な反米活動家になっていただろう、と思った。

2023-04-14

いい加減生き甲斐を決めたい。

生きるとはなんぞやと言う事を思春期の頃にずっと考えていた。勉強より遊びより人付き合いより、何より大事問題だった。

50周ほどして結局生きる意味などない、自分で作らねばならないという結論に至った。

理屈ではダメだ。理屈で考えれば答えなど出るはずがない。

納得だ。「納得」は全てに優先するぜッ

人は理屈で喜び、理屈で苦しみを感じる訳ではない。いつだって感情が先だ。感情論理に先立つ事はない。

いつかは人の頭が解き開かれ、全ての規範記述に塗り潰されるかもしれない。でもそれは今じゃない。「今」は今考えられる事が全てだ。

何を拠り所にするのか。他者から承認か、存在も確かめられない神様を信じるのか。

どれも腹落ちしない。内から発せられる心の底から確信、納得でなければ。

どれだけ強固に思えた確信でも揺らがないとは限らない。年老いるごとに考えが変わってしまった、今までの人生とは何だったのかとこぼす者も少なくない。肩肘張ったって幸せになどなれない、気楽に生きようと言う人もいる。

私の軟弱な心とて、価値ある人生を追い求める疲れに耐え切る保証などどこにもない。結局私も同じ結論に至れば、車輪の再発明だと笑われるかもしれない。

しかし彼らの結論は彼ら自身経験を踏まえてのものだ。彼らには納得を与えても、私にはそうでない。私の人生当事者は私だけだ。

こんな事を真面目な顔で人に語れば、ナイーブすぎるんじゃないと引き気味に諭されるだろう。それはきっと間違いない。だからどうしたというのだ。

価値ある人生などという幻想を捨て、凡庸人生しか送れない事を受け入れる。諦める。それを、折り合いをつけ大人になった事だと言い聞かせる。

それはきっと賢い生き方だ。

しかしその口ぶりはまるで、禁煙した人間タバコ執拗非難するかのようではないか

生き甲斐などという考えは毒なんだろう。少量の毒が薬になるだとか、そんなレトリックはいらない。心の蓋を抑え続けた方が楽に生きられるだろう。

しかしそこから溢れ出続ける一抹の迷いから目を背けて、納得ある生き方をできるだろうか。

今際の際に、生きていて良かったと思えるだろうか。

ニヒリズムなど拗らせるものではないという反省は、人生を使った経験で納得を得るまで何の実感も伴わない。そんな考えは後回しにすればよい。

では、私の心は何を囁くのか。具体的に何をしたらよいのか。

表現行為に答えがあるように思えてならない。

根拠などない。凡庸な発想だ、くりえーたーになってチヤホヤされたいというだけかもしれない。

それが純粋動機かなど、確かめる術はない。

答えは知らぬ。時間もない。そのどれもが誤りかも知れぬのだ。後悔は死んでからすればよい。

好きと憧れを分けるのは就職セミナーだけで十分だ。

生活の気晴らしの趣味は持っている。しかしそれは、生き甲斐と呼ぶにはあまりに心許ない。

生き甲斐なくして生きる価値などない。とはいえいくら生き甲斐が全てに優先すると言っても、目の前の生活をこなさなければそれもままならない。

高校入試大学入試就職活動。

趣味に没頭したいが、いつもそれらが頭を過ぎって水を差してきた。いずれは結婚を焦る事もあるかもしれない。

常に先を考えろという父の教えがなければ今はもっと惨めな生活を送っていたかもしれない。しかし、生き甲斐に殉じようという確信ブレーキをかけてくる。何をするにも、こんな事をしている場合だろうか?と。

楽器をいくつかやってみた事もあった。中級者の壁を超えられるかどうかという境界彷徨っていたが、超える事なく人生イベントを機に中断してしまった。

小説でも書いてみようかと思ったが、これも結局最後まで形になることはなかった。

生活に屈して趣味生き甲斐まで押し上げられなかった。

色んな映画や本に触れてきた。色んな事を思った。そうやって感情を揺らし続けるだけでも人生は満たされるかもしれない。でももう一歩、まだ何か足りない。確信と納得には届かない。

世の優れた表現者達は、きっとこんな人生論をこねくり回す暇があれば手を動かしている、動かさずにはいられないのだろう。純粋な喜び、人生の焦り、衝動、憧れ、何かの感情に突き動かされて。

たった一度限りの人生だ、何かが欲しい。しかしこれきりの人生で何かを捨てるのも嫌だ。大切にしたいからこそ、中途半端な事もしたくない。

自分可能性を疑うのも嫌だが、しかし私はきっとダ・ヴィンチのような万能人ではない。なにか一つに人生を丸ごと捧げて、ようやく自分一人を納得させられる域に至れるかどうか。それだってからない。

それでもどんな可能だって捨てるのはあまりに惜しい。

アンビバレンスに挟まれ決断しかねて長い時間が経った。10代の頃、価値あるものだと確信できる生き方を決意し、もう10年近くの時が経っている。モラトリアムの終わりも近いが、未だ私には何もない。慰めの趣味だけだ。

絵を描くだっていい。物語を書くでも、楽器を弾くでも、曲を作るでもいい。

後世に名を残す傑作など目指さなくていい。ただ、人生これで良かったと確信できるだけの自己満足であればいい。

選ばなければ始まらないが、捨てなければ選べない。あるかも分からないちっぽけな可能だって、私にとっては大事ものだ。

しかいつまでも迷ってはいられない。今の時点で納得ある決断をする事は出来ない。納得できるかできないか、それは後からついてくる。決断しない事には何も始まらない。

しまいにはタイムリミットになるかもしれない。ネットに掃いて捨てるほどいる、何者にもなれかったディレッタント崩れになってしまう。既に片足を突っ込んでいるのかもしれない。

自分には何もなく、評論家を気取って批判にもなっていない難癖をネットの方々に書きこむようになってしまうかもしれない。

生き甲斐を選び取る決断をしなければ。

でないとオレは「前」に進めねえッ!「どこへ」も!「未来への道」も!探す事は出来ねえッ!!

「納得」は必要だッ!

『納得』は『誇り』なんだ!

Choose Lifeだ。私にヘロインはないから。

ジャニー未成年への性的虐待ってジャニーを中心とした組織犯罪だろ

https://anond.hatelabo.jp/20230416090543

ジャニーはもう死んだからさら犯人もいないから言っても仕方ない、みたいなことを言ってる奴が意味不明すぎる。

ジャニー犯罪の中心人物だけど、犯罪を実行可能にしたのはジャニーだけじゃないだろ。

ジャニーズ事務所自体組織として、未成年への性的虐待という犯罪を実行可能させていたわけだからジャニーズ事務所自体犯罪組織としていまも存在しつづけてるわけだろ。

裁判性的虐待発覚後もジャニーズ事務所もファンも一緒になって意図的犯罪放置してきた。

そして裁判性的虐待発覚後も、ジャニーJr募集をしてきた。

当然ジャニーが一人でこれらをやったわけではなく、組織としてやってきたわけだ。

改めてよく考えてみてほしい。

何も知らずに応募した子が性的虐待をされていること(しかも噂からすればデビュー組は大多数が性的虐待に合っている)を裁判によって社員は既に知っていて、その状態でも募集を実行したということは、未成年を騙して性的虐待されるように組織的に動いてきたということだ。

これは未成年性的虐待するために動いている、恐るべき犯罪組織以外の何者でもないだろ。

組織犯罪としてジャニーズ事務所を刑事告訴して、関係者全員を逮捕厳罰に処すべきだ。

オレからしたら死刑にしてほしいくらいだ。

特に経営層にいた人間責任は重い。共犯レベルだろ。

社員であっても、犯罪を知りながら募集対応した業務をしたならば厳罰に処されるべきだ。

オレの感覚からしたらオウム真理教のように犯罪組織として組織自体解体し、被害者にその資産すべてで賠償すべきだ。

それに相当する犯罪組織だ。

もちろん被害者アイドルとしての活動否定はしないしそれは応援すれば良い。

ただ、その場はこんな犯罪組織ではあってはいけない。

恐ろしいのは、今になってもジャニーズ事務所で働いていた奴から何の証言も出てこないことだ。組織全部が腐りきっている証拠だ。

こんな犯罪組織放置していいわけがないだろ。

言っておくが「仕事だったから」は通用しないからな。

ナチホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンは、仕事だったからと言って自分で考えることを放棄してホロコーストを実行した。

これは「凡庸な悪」としてハンナ・アーレント断罪されている。

まり仕事だろうがなんだろうが、まともな人間なら犯罪行為を指示されてもそれを拒否する必要があり、それができずに犯罪を実行したならば犯罪者なんだ。

仕事だったから」?仕事犯罪を犯したわけだ。立派な犯罪者だ。逮捕されて罰を受けるべきだ。

あとファンについても書いておくが、ファンも同罪だ。

犯罪を知ったあとも犯罪組織を支えてきたわけだ。

犯罪組織資金面で支えた共犯だろ。

Z世代大谷翔平藤井聡太存在による「年齢は関係なく能力ある者は自分世代でもトップになれる」と「能力ある者は20代くらいですでに結果を出し始めている、その時点まできて凡庸なやつはもう無理」の呪いにかかってそう

犯罪まがいのことしてもYouTubeで目立とうとかするのってそういう焦りなんじゃないだろうか

2023-04-09

自分特別存在だと感じられるのはどんなとき

自分は、広い空間に対し自分しかいない(気がする)ときかな

逆に、駅ビルスタバのすし詰め空間にいる今は、凡庸以外の何物でもないと毎分感じさせられる

2023-04-04

趣味は二種類ある。気晴らしの趣味生き甲斐趣味だ。

フェイブルマンズ』で「芸術」と言われていたもの後者の類と言える。仕事や、家庭を持ち人を愛し愛されるという事がそれに取って代わる、ないし併存するという人も多数だろう。

生き甲斐とは現実に即した、社会と密着したものでなければならないというボンクラも世の中には少なくない。そんな人間達の目を憚って、社会性として「趣味」という言葉カモフラージュされた生き甲斐なのかもしれない。

なぜ趣味に留めるのか、仕事にしないのか、と言えば、それに越したことはない。好きな事で生きていけたらどれだけ良いだろう。しかし当然、また残念ながら、好きや憧れが人の役に立つとは限らない。要求される水準の技量があるとも限らない。いや、役に立たないからこその趣味なのではないかと思う。

総じて気晴らしの趣味は消費的、生き甲斐のそれは生産的とでも言われるようなものだろう。

前者であれば、生活の延長にあるものが多い。着飾って出掛けて美味しいものを食べ、温泉に浸かりスッキリして、思い思いの快適な部屋でゆっくりと過ごす。刹那的快楽を得て、日々の生活の活力を補充する。

対して後者は、表現にまつわるものが最たるものだろう。音楽美術文藝写真映画、……etc. 美や善なるもの存在を信じ、それを描き出す。自身人生固有性真摯に向き合い追い求める。他者に何かを訴えかける。あるいは、ただ純粋に好きや憧れを追求する。その中で、たった一度の人生に意義を見出す。たとえそれが自己満足に終始するものであったとしても。

無論、衣食住が必要十分の域を超えて、また低俗な娯楽と軽んじられるようなものの中でも、生き甲斐見出し得る領域に及ぶ事はあるだろう。芸術作品もまた、鑑賞してただ「あー良かった」で終わる満足であれば消費的と言えるだろう。

生き甲斐を求める趣味においては、時に義務感を抱き、疲れてしまうような事もある。趣味なのにイヤイヤやるだなんてナンセンスだと思う人もいるかもしれない。しかし人を納得させ得るような「意味」など問題ではない。胸の内の無根拠確信と納得、それだけで突き動かされ、追い求めずにはいられないのが生き甲斐というものだ。

世の中には、気晴らしの類の趣味のみを糧に生きる人もいるようだ。人生の意義やアイデンティティなどといったナイーブな考えは捨て、日々の些細な満足を拾い集め続ける事に重きを置く人も、むしろそういった人の方が多いだろう。それが納得を伴っているのなら、いや伴っていなくとも、それに口出しする道理は無い。

が、根本的な人生観において異なる価値観を持った両者は分かり合えないのではないかと思う。私は生き甲斐のない人間理解できないが、彼らもまた全く同じ気持ちこちらに抱く事もあるだろう。

しかし、双方が子供じみたナイーブな考えだ、凡庸さに屈した気晴らしにかまけるだけの生き方だ、などと互いに罵り合わないようあって欲しいものだ。

2023-03-30

社会に出荷される前に残しておこう

はいつ気付くのだろう。自分は何者にもなれないし、特別なことを成し遂げるなんてできないことに。俺は高校生くらいで何者にもなれないんだろうなと気づいたけど、大学に入るまでは多少は成功した人生を送れるんだろうと思ってた。特殊な家庭に生まれ東大に現役合格した俺は少しは特別存在なんだろうと。高校には俺よりも裕福な家庭で生まれ、俺よりも課金され、俺より長い時間勉強しているような奴らがいっぱいいて、でもそいつらは聞いたことのないような大学に進学して、そんな中で東大に進学した自分特別だと思っていた。家庭環境自分自身に対するコンプレックスを乗り越えるためには、自分特別だと信じるしかなかったし、これから未来成功夢想するしかなかった。

でも4年間過ごしてわかったのは、俺は一切特別人間ではないってこと。元々何かを学ぶことは嫌いではなかったけど、授業を聞くとか机に向かって勉強するとかが苦手で嫌いだった。そんな俺が落ちこぼれるのなんて一瞬だった。進振りはもちろん希望学科には行けなくて、定員割れするようなところに進学することになった。机に向かうのが苦手だけど行動力があるとか求心力があるとかそういったタイプでもないから、凡庸大学生活を送った。なんとなーく就活を始めて、この先未来が見えないようなところに就職して、4日後に入社式を迎える。

俺が特別でないって分かったって書いたけど、それと一緒で他の人も特別じゃないってことにも気づけた4年間だった。そいつらは特別から優秀なわけじゃなくて、特別から成功する未来約束されているわけではなくて、日々の積み重ねがあるからそういった存在になれるんだって。確かに才能とか遺伝子レベルでの強さとかそういったものの違いはあると思う。だけどそれだけで戦えるような世の中でもない。あいつらは普段から未来を見据えて、自分の信じる道のために努力を続けている。頑張っている。よく「頑張る」ことができるのも才能だっていうし、実際その通りなのかもしれないけど、それで片付けることは僕にはできない。俺の部活にもめちゃ大企業に行くやつとか官僚になるやつとか外資初任給で一本もらうやつとか卒論の段階で成果を残しているやつとかいっぱいいるけど、そいつらの頑張りを常に側で見ていたからこそ、才能があるからとか特別からなんて言葉で終わらせてしまうのは彼らに失礼だと思う。結局は自分の目指すべきものを信じ続けることでしか道は開けないんだろう。道が開いた上でちゃんと行動することで前に進むことができるんだろう。

俺は俺の道を信じる。そしてこれから人生後悔がないように動き続ける。この気持ちを忘れないように、誰にも見られないようなこのインターネットの海に残しておく。

読み返すとこの文章一貫性もクソもなくてやばいな。だから俺はダメなんじゃないか、、、

2023-03-23

anond:20230321131216

よくわからんが塾で働くって無理なんだろうか

京大にとりあえず入った経歴が有るならかなり高い可能性で重宝されるような気がするんだが

別に勉強教える能力がすごく高いとかの必要あんまりなく、京大がどういう大学なのかを伝えるとかそういうのでも

十分生徒にとってはありがたいものだったよ。それこそこの記事で書かれてるような体験談とか。

自分高校ときにお世話になった塾の先生がまさに「色々あった」人だったけど、なんだかんだそうやって活かしていた。

京大卒の人間」との関わりを凡庸地方公立高校生に与えてくれたのはとても素晴らしい体験だった。

まあ京大から近い範囲の立地なとこでそういう役割を見つけるのは現役学生バッティングして難しそうだけど

そのへんを我慢すればなんかあるのではないだろうか。

2023-03-21

補完計画思想の悪役の倒し方って、何か大切な存在を失ったのをきっかけに

人間の汚さやエゴの衝突がダメなんだ。だったらみんな平等に溶け合ってしまえば良い。それこそが幸せ世界だ」

みたいな事言い出す奴が

「いや君にも悲しい出来事があったのだろうけど、極端な思想に走って人を巻き込んじゃいけないよ。そうやって人の悪い部分ばかりに目を向けてないで、適度に人を信じようよ。あの時あなたが過ごした幸せ時間は紛れもなく本物だったんじゃないの?」

つって説き伏せられるパターンが多い気がする。

それ以前に、そもそも余計なお世話だよっつって突っぱねるパターンあんまり見ない気がする。

人の数だけ考えはあるし、そのそれぞれが対等なのだから、人には立ち入ってはいけない領域がある。私は現状に満足なんだし、あなた幸せ計画は過ぎたパターナリズムだ。それが個人主義ってもんとちゃいまっか?つってお説教したって良いと思う。

でも概して実感を伴わない理屈ではなく、自身幸せを思い出す事、他人幸せをその目で見る事で初めて納得が得られるというものだし、そういうナラティブ解決するのがフィクションの良さでもあるしな。それを余計なお世話、という説得に落とし込むのは難しいのだろうか。

そもそも個人主義利己主義と同一視してる人間が世の中に多いから、あまりピンと来ないというのもあったりするのだろうか。多ければこそ、そういうオチにしたって良いと思うのだけれど。

ちょっとズレるけれど旧劇のオチは一度補完計画を始めてしまった上で、「これはやっぱり違う」と実感を伴って答えを決める所に好感が持てた。人と関わるのも大事だよね、という凡庸な所に着地したシン〜より。別にそんなんフィクションに語られずとも実生活で学べば良いし、学んで来るもんやろって思う気持ちがあるんで。

2023-03-13

結婚して子供が産まれ幸せ

子供結婚自分人生には発生しないかもな?と思う程度にはひねくれた人間だった。

モテないし、稼げないし、子供好きでもないし。幸いリベラル実家に産まれたから、結婚して子供産まなきゃ〜って圧は無かったし、自分自身もそういう思想で生きてきた。

でもまぁ後で後悔したくないので婚活したら、結婚できて、なんやかんやあったけどよく考えて後悔したくないから、子供を作った。

子供、めちゃくちゃ可愛い自分の子供、すごい。この子のためなら死ねる。この子に会うために産まれてきた気もするし、初めて無条件で人生って良いなって感じた。考えるんじゃないんだ、フィールした、人生 is good だって。何かを愛するって素晴らしいな。子供を通して改めて愛ってものを実感したし、「人は一人一人生まれながらに尊い存在だ」って定型文を初めてフィールした、みんなこんな赤ちゃんだったのか、尊いわ。我が子、死ぬほど尊い、愛してる。

結婚して子供を作って幸せになった。

めちゃくちゃ凡庸だけど普遍的幸せってやっぱすごい。

今時斜に構えてバカにする人多いけどさ、子供とか家族ってマジですげー良いもんだよ、愛する家族がいてそのために頑張れるってすごい幸せだよ。圧倒的な充足感。本当家庭って良いもんだし子供ってすっごい可愛い、産んだ方が良いよ〜と過去の私に言いたい。外では決して言わないけど、こう言うウザいこと言ってた前時代の人の気持ちマジで分かったわ。

いらない人はいらないで良いけど、空気感に流されてるなら、マジでやめた方が良いと思う。

2023-03-05

AIアイデア出しに使えそうで使えない

AIブレインストーミング的に使って閃きを得られそう。

そう思っていた時期もありました。

現実AI確率的にありそうな言葉を言うシステムから凡庸なことしか言ってくれない。

AIと会話していても飛躍的なアイデアとか全然出ない。

みんなこの問題どうしてる?

2023-03-02

配偶者交際相手の事を相方とか同居人とか呼ぶのって、普通に照れ隠しなんだろうなって思う ネットしかたことないけど

こういう事言ってる奴見ると「そうやって勝手邪推をするな」とかネットに書き込まれそう

自分らの関係性を彼女とか妻みたいな言葉陳腐な「普通」に類型化されて屈服される厭さ、「男、女」に押し込められる不快さと実際そうである気恥ずかしさ、への反抗なのかな

そういう凡庸だけど(だからこそ)面倒臭いタイプの人が使う言葉だと思う

あと30,40超えた人らが彼氏彼女って言うのもなんかキツい感じがする

他に交際相手を表す良い代名詞もないんだろうけど

2023-02-24

人生には論理立てて説明できるような意味がない。これは不安をもたらす。また、人生は有限だ。これは焦りをもたらす。

長らくこの絶望に対して、誰かが保証してくれたり論理的に肯定できるものなどなくても、自分で意義があると強く確信できる行いを続けていれば良い、といった思考停止肯定するスタンスを取る事で正気を保ってきた。

最近になって、ではそもそも意味」とは?「価値」とは?という意識的思考停止していた疑問が頭から離れなくなってきた。

意味のある人生を送りたい、それが価値のある生き方だ」という素朴で疑い得なかった感覚地盤としていたのに、そこまでもがニヒリズムに飲み込まれかけてしまっている。

道具は意味=目的を持って生まれる。その図式を無意識的に人間にも当てはめて考えていたが、では誰が意味を与えるのか。今までは自分意味見出していたが、結局それはあまりにも恣意的で、一度疑問が生まれたら簡単に揺らいでしまう。神様信仰する気持ちがよく分かる。

人はとかく納得を求め、それは不条理ものにも向けられる。だから世の中を単純化した陰謀論なんかが跋扈している。人生意味を求める事自体ナンセンスなのかもしれない。

凡庸ではあるが、神様などいなくとも他人自分意味保証してもらう、あるいは保証する、すなわち愛に囲まれていれば、この不安を覆い隠せるのかもしれない。

刹那的にその場その場の喜びを大切に拾い集め続けるのも悪くはないかもしれない。

そういった生き方をしている人間は、この手の悩みは凡人には手の余る、考えるだけ無駄ものだ。いつまでもナイーブさを引きずらず、あなたも早く折り合いをつけるべきだ、などと言うだろう。それは彼らにとって、また一般的に言っても間違いのない言葉なのだと思う。しかし、この不安もっと真摯に向き合う事が、理屈抜きでなぜだかとても大事な事に思えて仕方がない。

別にこんな事を四六時中考えている訳ではないし、目の前の生活もしなければならない。意識的に、ほどほどのところで抑えるようにしている。

それでも時々爆発しそうになる。なぜかこの答えが芸術自己表現にあるような気がしてならない。

ニーチェも大体こんなような事を考えていたらしいというのを最近知った。古今東西、陰気で自閉っぽい人間が考えることは似るらしい。

彼の考えが様々な思想フィクションに影響を与え、自分もまたその影響部分に強く惹きつけられ内面化した部分も大いにあるのだろうけれど。

ここまで書いて、もう一つ大切な事を思い出した。人間固有性に執着する。自分だけの自分らしさを追求する事は、理屈抜きで価値があると思える。

有り体に言えば特別人間になりたいという、思春期には誰だって思うことだ。大抵の人間はどこかで凡庸さを受け入れ、折り合いをつけて愛にでも生きるのだろう。

10代の頃、それがひどく陳腐生き方に思えた。その思いは今なお残っている。だからこそ、愛ではなく芸術に何かを感じているのだと思う。

自らの固有性を出力する事の意義と、表現活動でチヤホヤされたい、強い愛を得たいという気持ち混同しがちな所ではあるが、しかし前者は間違いなく存在するのではないかと思う。

2023-02-16

anond:20230216215836

凡庸に生きるのが一番むずかしいんだよなあ

                     あのにます

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