補完計画思想の悪役の倒し方って、何か大切な存在を失ったのをきっかけに
「人間の汚さやエゴの衝突がダメなんだ。だったらみんな平等に溶け合ってしまえば良い。それこそが幸せな世界だ」
みたいな事言い出す奴が
「いや君にも悲しい出来事があったのだろうけど、極端な思想に走って人を巻き込んじゃいけないよ。そうやって人の悪い部分ばかりに目を向けてないで、適度に人を信じようよ。あの時あなたが過ごした幸せな時間は紛れもなく本物だったんじゃないの?」
つって説き伏せられるパターンが多い気がする。
それ以前に、そもそも余計なお世話だよっつって突っぱねるパターンはあんまり見ない気がする。
人の数だけ考えはあるし、そのそれぞれが対等なのだから、人には立ち入ってはいけない領域がある。私は現状に満足なんだし、あなたの幸せ計画は過ぎたパターナリズムだ。それが個人主義ってもんとちゃいまっか?つってお説教したって良いと思う。
でも概して実感を伴わない理屈ではなく、自身の幸せを思い出す事、他人の幸せをその目で見る事で初めて納得が得られるというものだし、そういうナラティブで解決するのがフィクションの良さでもあるしな。それを余計なお世話、という説得に落とし込むのは難しいのだろうか。
そもそも個人主義を利己主義と同一視してる人間が世の中に多いから、あまりピンと来ないというのもあったりするのだろうか。多ければこそ、そういうオチにしたって良いと思うのだけれど。
ちょっとズレるけれど旧劇のオチは一度補完計画を始めてしまった上で、「これはやっぱり違う」と実感を伴って答えを決める所に好感が持てた。人と関わるのも大事だよね、という凡庸な所に着地したシン〜より。別にそんなんフィクションに語られずとも実生活で学べば良いし、学んで来るもんやろって思う気持ちがあるんで。