2023-04-29

オタクコンテンツは終わりです、残念でした

オタクコンテンツは終わりです、残念でした…

…とだけ書いて終わるのは雑なので、個人的偏見等を込みで色々思うところを書いていく。

おそらくここで語るもの陳腐凡庸面白みのないものであろう、しかしもし興味を持っていただけたら読んでもらえると幸いである。

オタクコンテンツ一般化とその弊害

オタクコンテンツはみなさんご存知の通り一般化した、街中にはアニメVtuberなどとコラボした商品散見され、街中でアニソンが流れていたりする。

アニメ漫画の話をしても嫌がられないし、むしろそのような話を積極的にしてくる人もいる。

オタクコンテンツ一般に広まったせいで過度に一般化してしまったと私は思っている(これはあくま偏見である)

というのもまずは売れるかどうかという数値が前提にくるからである

もちろんこれらは"商品"であるため、売れるのがいいというのは間違いがないし企業としては売れなければ価値がないというのは間違いないであろう。

そこで問題にしたいのはオタクコンテンツ精神性というふわっとしたものになる。

これらコンテンツ個人的偏見等込みではあるが迫害歴史であったと私は思っている。話をすればキモがられ、売っている場所隔離されるそのようなものであった。

しかしそのような状態であってもコンテンツを作り続けた人たちがいた、彼らは自身の溢れ出るもの解放させコンテンツを作り続けた結果今のように市民権を得ることができた。

このようなコンテンツ最初はごく一部の人間が面白がり小さいコミュニティ、もしくは執着に近い発掘欲を持つ人間にの評価されていた。

また自身面白いと思うコンテンツ他者に知らせたいものでさまざまな機会で、さまざまなツール面白いと思う感情を広げていった。

そして一般層にまで広がり市民権を得たということだ。

問題はここからで私は一般層はもの評価する能力がない、もしくはあったとしてもそこまで高くないと思っている。

動物悲劇があれば泣くし、子供が頑張れば感動する。弱者サクセスストーリで涙し、悪徳企業に怒り、永遠の愛でしんみりする。

しかしわかりやすい感動にしか反応しない、もっと正確にいうならばわかりやす感情の変化にしか反応しないのだ。

感動というものはさまざまなものがあるが大きくまとめれば感情の変化であろう。

感情の変化というものは各人のセンス知識経験依存するものだ。感動するという行為にも才能と経験必要になる。

例えばよくピカソの絵を見て誰でも描けるとかこれが芸術なんだとかい人間がいる。しかピカソ写実的な絵も描くことができ、キュビズム本来なら同じ平面上に存在しないものを写実性を捨て記号化することにより同時に存在させるようにしようとした試みであることを知ればそれは難しいことがわかる。

知識がなければピカソの絵を見ても評価できないのである

コンテンツというのは歴史の流れがあり新しい評価基準表現感性を探求するという性質がある。

しかしそれらを評価するためには今までのコンテンツへの理解などが必要になる。

一般層の人間はこの知識経験がない、そのため評価基準他者依存することになるかもしくはわかりやすものしか評価できなくなる。

さてさまざまなコンテンツの多くは営利活動の結果生まれ産物である営利活動評価を行う際に基準となるもの収益であろう。

当然のことではあるが収益性のみを考えた場合、新しいコンテンツ評価するようなオタクコミュニティ(ここではこのような人やコミュニティをまとめてオタクコミュニティと呼ぶことにする)と一般層、どちらの方が人口が多いであろうか。

考えるまでもなく後者だ、そして後者はわかりやすものしか評価できない。

ではどうなるか

企業としての答えは明白だ、わかりやすものを作れば良い。

ただ、わかりやすすぎるとそれはそれで消費者が怒る。

なので1手先しか考えていないようなわかりやす一見深そうで薄いコンテンツ生産されていく。

コンテンツ生産者の話

また、クリエイター視点に立ってみよう。

間違いなくオタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイター一般層に評価はされないだろう、わかりづらい作品を作るので歓迎されることはないだろう。

では誰がコンテンツを作るようになるか、これは間違いなく一般層のクリエイターになる。

というのも感情が近いので作りやすいのだ、またオタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイター比較して、コンテンツ自体に執着が薄い(無いわけではないし一部の方はとても強いと理解しているが集合として見た時の話である)ので仕事と割り切れたりするという強みもある。

企業からすると一般層のクリエイター収益も産みやすく優秀な金の卵であるが、オタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイター収益を産まない腐った卵であろう。どちらが優遇されるかは明白である

このようにしてクリエイターの層が更新されていく(新陳代謝といえばそうかも知れない)

クリエイターが変わっていくとコンテンツ自体オタクコミュニティー向けのものから一般層向けのものへと大部分がシフトしていき、そのうち入れ替わる。

そうしてオタク向けのコンテンツ一般向けのコンテンツへと狂気希釈されていく。(私はこれを一般層の文化的侵略だと呼んでいる)

そのような状況であってもオタクコミュニティー向けのコンテンツを作る人は作るだろう、しか評価はされづらくなる。

もしくはそのようなクリエイター時代の変化などさまざまな要因で一般層向けのものを作ることもあるだろう、映画などにある細かいネタや裏設定はそのようなクリエイターの少しばかりの一般層への反乱ではないかと思えて仕方ない。

企業から観点を考える

さてオタク向けのコンテンツオタクコミュニティから一般層向けのコンテンツへと変わっていくという話をした。

ここで一般層の評価基軸をもう一度説明すると他社が評価しているか、わかりやすい感動かという軸で評価している。

後者と比べ前者は容易にハックすることができる評価基準である資本マーケティング勝負に落とせるからだ。

まり一般層のコンテンツは、芽が出そうなものに対して資本という栄養剤を投与することで完成する、そして一般層に収穫され消費されるのだ。

私は最近コンテンツ話題になる期間が短いのはこのような背景があるからではと思っている。短くしないと次のコンテンツを消費できなくなるからだ。

ここで一つ誤解を解く必要があるが、私はこのような企業行為に対して悪だと断罪するつもりはないし、営利活動を行う団体として収益を上げるのは正しい行為だと考えている。

ただその商品ターゲットが変わっただけである

最後

このようにしてオタクコンテンツは終わっていくし、すでにアニメ漫画などは終わっていると私は考えている。終わっていなかったとしても一般層にリーチしないのでそのようなコンテンツを知り得る人はごく僅かであろう。

これが悪いのかどうかと言われるとそうではなくただ集団の行動の結果であるしかいえない。

しかし、間違いなく言えることは一般層がオタクコンテンツに入ってきた瞬間にそれは終わるということだ。

もっと正確にいうならば物事評価できないもの多数決という言葉に負け評価基準を渡してはならない。

その先に待っているのはコンテンツ破滅であると私は考える。

ここまで長々と書いたが私の本心最後に書いておこう。

推しの子あんまりきじゃない、

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