130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。
マリオの映画 映画として50点 ・子供も見ることを考慮されている為90分の上映時間しかない ・上映時間が足りない為とにかくストーリーが駈歩 ・一番顕著なのはマリオと父親の関係 ・...